「ようやく来よったか、色男!」
部室の前に仁王立ちになった鳴子に「3分で着替えて来い!それ以上は1秒も待たんからな!」といきなり
まくしたてられた今泉はそれを無視して逆に訊いた。
「小野田はどこに行ったんだ」
「言うとおりにせんと絶対教えへん〜さっさとせんと今日はもう小野田くんには会わせんで」

何言ってんだこいつ、とは思ったが、鳴子の思わせぶりな態度も坂道の姿が見えないのも気にかかる。
結局要求をのむしかなく、手早く着替えた今泉は競技用のヘルメットとボトルを手に外へ出た。
入れ替わりで一年生が数人、挨拶しながら部室へ入ってゆく。

「で、小野田はどこへ行ったんだよ」
「ああ、小野田くんならな、峰ヶ山に登らせたわさっき」
しれっとした顔で鳴子が言った。さっきから鼻歌でも歌い出しそうな上機嫌でイライラさせられる。

「峰ヶ山?何のためにだ。一人でか」
「後で一年に追いかけさせるから、山でレースやれ言うて送りだしたんや。ウソやけどなー」
「鳴子!」
「追いかけんのはお前や、今泉。今すぐバイク乗れ」

普通の人間ならひるむような強い視線を今泉に向けられ、しかしコイツが小野田くんを大事にしとるのも
たいがいやなと鳴子は内心で感心した。
(開口一番、“小野田はどこに行ったんだ” かいな)
確信があるからこそ、こんなバクチみたいな計画も立てられるわけだが。

「小野田くんなあ、鏑木とかに相談してお前の誕生日プレゼントずーっと前から準備しとってんで。なのに
朝からの女どもの大攻勢ですっかり委縮してしょんぼりしとったわ」
「やっぱり裏目に出てたのかよ…」
「はあ?まーとにかくな、あのまんまじゃおめでとうすら言えるかも怪しい思たから、気ぃ利かせたってん。
山でなら邪魔も入らんし、お前をヒイヒイ言うまで走らせることもできるしなースカシ」
「くっそ…!」

両手にヘルメットとボトルを押し付けられる。
最後まで聞きもせずに駐輪場へ全力で走って行く今泉の背中を、鳴子は呆気にとられながら眺めた。
もっと何か文句やイヤミやその他もろもろを浴びせられると思っていたのだ。
煽ったのも急げと言ったのも自分だ。だがそれにしても…
(オイオイオイ…マジすぎんやろ。なんやこれ)
藪をつついたら蛇が出た言うんはまさかコレのことか…と、背中にいやな汗をかく。

SCOTTを引いてきた今泉は門のところで跨り、無言でヘルメットを装着した。グローブを手早くはめながら
「何分前に出た、小野田」と聞いてくる。
15分は過ぎとるなと告げると頷き、サイコンをセットした。深く息を吸って吐く。祈るように頭を伏せる。
(ほんまもんのレースの前みたいなカオしよるわ)

「おまえは凄いな、鳴子」
「は……はああ!?」
「いつも小野田にとっていい事とか喜びそうな事が分かってるんだな」
「あ…あったりまえや!ワイは小野田くんの親友やで!」
「当たり前じゃない。オレもそうしたいけどいつだって上手くいかない」

少し自嘲するような横顔を見ていると、小野田くん以上に不器用なやっちゃな…とそう感じる。
考え過ぎる分、今泉の方が迷いやすくてなお悪い。
シンプルさが足りない。頭より気持ちを先に走らせる感覚が足りてない。
そしてここには何かしてやれる人間が自分一人だけしかいない。

鳴子は思わず今泉の背中をばん!と叩いた。励ますとか絶対イヤだったが、小野田くんのためや!と
辛抱して声を張り上げる。
「今行ったら…追いついたら、小野田くんは絶対喜ぶ!!」
「おまえのプロデュースってとこがムカつくけどな」
「贅沢言うな!死ぬ気で走らんかいスカシ!!」
「当然だ。つかまえる」
一言残し今泉がスタートした。坂道が出てから既に15分はとっくに経過している。だが、速い。


自分が企てた事のくせにやや呆然と今泉を見送っていた鳴子は、やがて門扉に手をつき一人反省会を
始めた。
(えーとー…アレ?ワイまさか好き合うとる二人を取り持ってもうたとかとちゃうやんな…?)
仲人という言葉が頭をグルグル廻る。
だが現実はもっと容赦なかった。
自分が既に付き合っている二人に素敵な時間を提供しただけだと鳴子が知るのは、その日の夕方、坂道
と今泉が山を下りてきてからの事となる。




ペダルを踏み込むと気持ちが弾む。一回まわすごとに身が軽くなっていくような感覚に坂道は笑った。
僕は単純だなあと思うけれど、そういうものなのだ。
人車一体の走り、と幹が教えてくれた。自転車にストレートに気持ちが伝わってる証拠なのよと。

自転車は、鏡に映るもう一人の自分のようなものだ。
心がざわざわしている時はそれがぐにゃりと歪んで伝わり、おかしな走りになる。
かと思えば、走っているうちにひとつひとつ余計なものがそぎ落とされ、双方が澄んでゆくこともある。
今がそれだ。

苦手な平坦を持てるすべての力を振り絞って走った。
市街地区間は信号があったが、もはや田園区間。山麓までの12キロの最終盤にさしかかっている。
速い、いつもより速い。
そしてもうすぐ山だ。山に入ればもっと強い気持ちで走れる。自分に正直になれる。

(伝わらなくてもいいなんてウソだ。僕は今泉くんに振り向いてほしかった)
ごまかしを振り払い、ギシギシきしむ勇気の扉をこじ開ける。
叶わないと分かっていても、迷惑をかけちゃいけないと思っても、友情でも尊敬でもないこの気持ちに
気づいた日から、捨てたくないとしがみついてきた。

最初に好きになったのは、笑った時の口元のかたちだった。
今まで坂道には、笑いかけてくれる人というのがそもそもあまりいなかった。
鳴子は豪快に思いっきり笑うから分かりやすい。対して、感情の抑制のきいている今泉の表情の変化を
拾えた日は何だか得をしたような気分になれた。

笑うときは、口元がびっくりするぐらい優しい弧を描く。目も優しくなる。
僕だけ見てていいのかなとどぎまぎするぐらいで、でも他の人に見せたくないよって思って。
挙動不審に立ちあがり、彼を無遠慮な視線たちから遮ったら 『なにやってんだ、おまえ』 とおかしそうに
もっと笑み崩れていた。
どれぐらいの引力なのか。どれほど人目を惹いているのか。
全然分かってなくて、今泉くん無防備すぎるよ!と文句のひとつも言いたくなるぐらいだったのだ。


狭い世界から自分を引っ張り出してくれた人の、あの意志のつよさを感じさせる背中を目の裏に思い
浮かべる。
長い間、ずっと待っていたような気がした。彼を。

(僕が今泉くんにしてあげられることなんて、最初から決まってた)
(友情も、尊敬も、憧れも、愛しいって気持ちも)
(ぜんぶきみにあげることぐらいしかできないんだ、ごめん)
(それが綺麗なものばかりじゃなかったとしても、せいいっぱいの僕を)
(きみは好きだと言ってくれたんだね)

斜度が変わる。いよいよ登りに入る。最初のギュッという踏み込みに全身の細胞が湧く。
ああ、澄んでいく。臆病が登りのリズムひとつごとに恥ずかしそうに小さくなってゆく。
楽しい、楽しい。
一番にあの山頂まで登ったら、ダッシュで帰ろう。それでたくさんの言葉を添えて今泉くんにプレゼントを
渡すんだ。彼のところまで走っていこう。
転ぶぞ、バカって慌てた顔できっと言われる。
早く帰りたい、早く会いたい。だから僕は今までで一番速く、この山を登らなくちゃいけないんだ。

後続はまだ来ない。だが足は緩めない。むしろ挑むような目で坂道は峰ヶ山を見上げた。
心の在り様に反応するように黄色のBMCのペダルが軽く速く回る。
ハイケイデンスクライム。迷いを振り切ったクライマーの真骨頂の走りが、今はじまった。



15分のタイムラグ。以前裏門坂を競争した時とはワケが違う。
坂道は自分の特性に合った高いレベルを誇るロードレーサーに乗っている。
そしてもはやあの頃の坂道ではない。超A級のクライマーを山で追走し、捕えろというのだ。

差を縮められるとしたら、坂道が苦手とする平坦だった。
市街地と田園区間を今泉はサイコンも見ず、自分の心臓がどんな速さで脈打っているのかも忘れ去り
ただただ走った。
(最後にぶっ倒れても、別に生きてりゃそれでいいだろ)
ゴオッと風が左右でうなりを上げる。普段ならきっと風に押されているはずだ。
だが今はそれを切り裂くように前へ進む。通行人がぎょっとしたようにこちらを見るのもどうでもいい。

こんなアホみたいなレース聞いたことねーよ、と思ってはみたが。
何度も何度も不可能をひっくり返し、奇跡を起こしてきたあの小さな背中を思い浮かべると、心は逸る
ばかりだった。
これぐらい追いつけないで、アイツに好きと言う資格があるかと歯を食いしばる。

そしてふいに、追いかけるのは初めてだと気がついた。
いつも追ってきてくれると信じていた。当たり前に 『ついてこい』 と言っていた。
だが走っても走っても目指す人が見えない焦燥は、食い尽くすような勢いで今泉に迫ってくる。

(追いかけるのは、こんなに不安なもんなのか)
怖い、と思った。見失って、もう間に合うチャンスがないかもしれないこの恐怖と、坂道はどう戦ってきた
のだろう。
(それとも、それでも楽しいって思ってたか?おまえは)
そうかもしれない。何度も何度も追いつかれたから知っている。
恐怖も苦痛も焦りもなかったはずはない。だが目指す場所へとひたむきに進む坂道に、どれほど心を
揺さぶられたか分からない。

(オレの友達。大切な仲間。信じるに足る相手。奇跡。オレの憧れ)
ああ、だけどな。今泉は進む速さに臆さずに流れる風景の中、一人笑った。
(青い鳥みたいだと思ってたんだ、オレはおまえを)

自分が失ったもの、足りないものに薄ぼんやりと気づいてはいた。
だが必要ないと割り切った。
あの頃、ダメになりかけていた。
だが心の奥底で待っていた気がする。来るはずもない何かを。自分を変えてくれる人を。

「坂道…!!」
声に出して名を呼んだ。同時に踏み込み、斜度の上がる峰ヶ山へと息をすることも忘れて駆け登る。

他人の存在を軽んじてばかりきた自分が、彼の言葉に笑みをこぼすようになったのはいつからだったん
だろう。
煩いから一人がいいと思っていたのに、気がつけば目で追い、転ばないか無茶な走りをしていないかと
心配になった。
もう寂しい思いなんかさせたくないと思った。
鳴子のようにはできないけれど、乏しい自分にもあげられるものがあるといいと願った。
彼が笑顔になる時は、自分も一緒に笑いたかった。

(自転車だけあればいいって思ってたオレが、おまえと一緒に居たいって言った意味)
(分かってくれてたか?坂道…)

見えてくれ、と祈るように長大な峰の連なりを仰ぐ。きっと山では坂道の方が神様に愛されている。
それでもおまえを一人で走らせるのはいやだと思った途端、また体が前に進む。
自転車が、自分の想いを反映する。
登りだと自分でも信じられないほど、引っぱり上げられるように走ってゆく。

『今泉くんの方の力だと思う!引っぱる力があるんだ、今泉くんに!』
バカだな、引力はいつだっておまえに味方してるんだ。
オレにはおまえが思い込んでるほど持ってるものなんかないんだよ。
だから引っぱってくれ、呼んでくれ、辿りつかせてくれ、と心で叫びながら登る。
汗を払い、攣りそうな足を拳で叩いて、今泉はかつてないほどの無茶苦茶な走りで目指す小さな背中を
探した。



ピクリ、と気配に全身が反応する。振り返りはしなかったが既に坂道はそれを確信していた。
(来てる。誰だろう。複数じゃない…一人だ。他はチギッてきたのか)
レースの最中は五感が研ぎ澄まされる。経験を積むごとに、そういうプレッシャーを感じ取る事が出来る
ようになってきた。

緊張がはしる。15分のタイムラグをつけてもらった上に、今日の自分は平坦も調子よく走れていた。
山に入って覚悟を決めてからは、びっくりするような速さで登坂していたのだ。
なのに追ってきた。たぶん相手には、つづら折りを曲がる度に自分の背中がチラチラ見えている。
そしてこのプレッシャー。息を呑む。速い。無茶苦茶な走りだ。

(山頂まであと2キロ)
振り返るな、と自分を戒めた。そんなことをしていたらあっという間に肉薄される。
だが、いくら回しても気配は近づく。

ギュ、ギュとペダルを踏む音と早い息づかい、そしてホイール音、その全てを自分の耳で聞いた瞬間、
坂道は頭の中が真っ白になった。
(聞き間違えるわけがない、僕が、毎日一番近くで走っていて)
(なんで)
(なんでここにいるの)
(そんな全部捨ててもいいみたいな走り方で、なんで追いかけてきてるの)

「坂道!!!」

なりふり構わぬような大声で今泉は先をゆく黄色のジャージの背中に向かって吼えた。
相手も足を緩めない。だが、初めて坂道は自分を振り向いた。
メガネの下の大きな目がたくさんの感情に満ちて揺れ、口元だけでいまいずみくんと呟くのを見た。
その表情ひとつですべて報われる。
やっと追いついた。山頂までに捕まえることができた。
だが今泉の安堵をひっくり返すように坂道は前を向き、驚愕するようなケイデンスで再び登りを開始した。
容赦のない、加速。

「おい!坂道!止まれ!なんで逃げるんだよ!!?」
「に…逃げてないよ!ダメなんだよ止まったら!!」
「なに言ってんだおまえは!分かんねーぞ!」
「誰にも負けたらダメだって言われたから!鳴子くんに言われたんだよ!」
「なっ…!!?」

洗濯機の中身みたいに頭の中が撹拌されてもうワケが分からない。
とにかく分かるのは、会いたくてたまらないと思っていた人が自分を追いかけてきた事だ。
鳴子くんは最初から今泉くんに僕を追わせる気だったんだ、と気づく。
『ちゃーんとご褒美用意しとるからな。楽しみにしとき』
(ご褒美って今泉くんのことだよね!?でもレースは終わってない!ご褒美の先払いってこと!?)
(大変だ!勝たないとへ…返品しろって言われるよ!)


完全にテンパってやがる…と今泉は坂道を追って激走しながらも内心で深いため息をついた。
まさかここまで来て、鳴子が言い含めた事の方が優先されるとは。
だが言われたことをひとつ一生懸命にやり遂げるのが、小野田坂道のいいところだった。
何かいろいろおかしい気がするが、今泉もハイになっているせいか考えるのが面倒になってきた。
(山頂まで…あと1キロ)

「分かった!そのまま走れ!付き合ってやる!」
「今泉くん!?」
「山頂までにおまえを抜く!!」
「ごめん!僕…僕が勝つよ!!」

先をゆく坂道の口元がちらりと見えて、ヤベェ笑ってやがると今泉はひやりとした。
もうこれでヒメヒメ歌い出したら手がつけられない。
それでも一年生レースの時と同じに二人だけでゴールを目指していると思うと、どうにも勝負がしたく
なってしまうから、どんだけ自分達は自転車バカなんだと呆れ果てた。

だが、昔読んだ本の青い鳥は、どこまでも追いかけ探し求めるもので。
最後の最後に、一番近くに在ったと気づかされるものだった。


臆するな、と深い場所から声がする。
ぶつかっても、痛みを伴ってもいい。相手の声をかき集め自分は声を枯らして叫べ。
どうしても欲しい人ならば手を伸ばして掴みにいけ。

心臓が悲鳴をあげている。限界だと思った瞬間にまた次が見える。だから進め。目を覚ませ。
自分たちはそんな風にしか己を証明できない生き物なのだ。
目を覚ませ。


最後の500メートルで一度、今泉が坂道を抜いた。だが二人とも表情に苦しさなど浮かばなかった。
そのまま、ラストクライムに突入する。
高揚と歓喜と強い想いが二人を支えた。それは誰も見ていないからこそ、この先ずっと忘れることのない
走りだった。




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