まるで夜が明けたみたいだ、と坂道は思った。
風のない静謐な山頂はむしろ夕暮れに差しかかっていたけれど、すべてが新しく目覚めたような新鮮さ
がそこには満ちていた。

今泉くん!!と叫び、BMCを横倒しにして、彼のところまで自分の足で走る。
ゴールすると同時に力尽きた今泉は、ロードバイクごとそのままふらふらと横手の草むらに乗り入れて
いってバタリと倒れてしまっていた。
彼が大事にしているSCOTTも、役目を終えたかのようにそこにある。

膝をつき、顔を覗きこむと同時に、荒い息をついて目を閉じていた今泉がこちらの手首をがしっと捉え
「やっとつかまえた…」とそう言った。

「ちょっと…待ってろ…これ以上オレ追いかけらんねーから、もうどっか行くなよ…」
「い…行かないよ。今泉くんと一緒にいたいよ」
素直な、本当に素直な言葉がこぼれ出る。
それだけだったんじゃないか、と思った。何を思い悩んでみても自分の望みはシンプルで。
(同じこと、ちゃんと最初に言ってくれてた。今泉くんは僕に一緒にいたいって)
ぐるぐる廻るだけまわって、スタート地点にやっと到着する自分は本当にどうしようもない。
愛想をつかされないか心配だ。


「……おまえ一年とレースやれとか鳴子に吹き込まれてたのは聞いたけど…なんであんなアホみたい
なペースで回してんだよ。全然見つけられなくて…焦った…」
「ごめん…その、はやくゴールして速攻で帰ろうって思ってたんだ。今泉くんに今日まだなんにも言えて
ないって思ったら急がなきゃって」
「なんだそりゃ…」

ようやく今泉が目をあけてこちらを見た。その深い色にとらわれる。心臓が鳴る。
「どっちも会いたいと思って走ってんのに、おまえは先へ先へ行くし、オレはなかなか追いつけないし、
何やってんだか…」
「でも、追いついたよ!僕あんなに嬉しいって思ったことなかったよ!」
「坂道…」
「今泉くんが僕のために一生懸命になってくれて、無理も無茶も全部付き合ってくれて、今ここにいて
くれて。すごいよ、僕もう他に欲しいものとかちょっと思いつけない」
「いや待て、おまえそれ無欲すぎだ」
「そうかな。今泉くんは一人しかいないしすっごく贅沢だ」

誕生日なのに僕の方が貰ってばっかりでなんかおかしいね、と真面目くさって坂道が言う。
ああもうヘンなヤツと思い、そこが好きな自分はどうなってんだと今泉は一周回って清々しい気分に
なってきた。
余計な物思いはその辺に落としてきた。邪魔もいない。
ああ、本当に二人きりになれたんだな、と掴んだ手を離さぬまま伝うその温もりに浸る。


「坂道」
「え、なに」
「今日まだなんにも言えてないっつっただろ。オレに言いたかったことって何だ」
「あー…うん、何だって聞かれると何なんだろ。たくさんたくさんあったはずなんだけどさ…」

空気の微かな流れが、寝転がったままの今泉の髪をさらりと揺らしていく。
ここにこうしていられるのは奇跡なんだと思わずにいられなかった。
鳴子が背中を押してくれた。自分は 『会いたい』 と願った。今泉が必死に追いかけてくれた。
すべてが合わさって今一緒にいる。これもチームワークって言うのかな、と妙な思いつきがよぎる。

「そうだ、思い出した。すっごい言いたかったこと!」
「うん?」
「5月生まれって今泉くんに似合ってると思う!」

それと誕生日おめでとう、あ、あのプレゼントはここにない…んだけどおめでとう!ちゃんと後で渡す
からね!と、焦った口調で一気にまくしたてる坂道を見ているうちに、すべてがほどけていってしまう。
笑った。
永久凍土みたいに凝り固まっていた苦しさや焦燥、それらがするすると流れ出し、潤してくれるものに
変化していくのを感じる。
(ああ、こいつがこんなに大事に思うっていうんなら)
(オレもまんざら捨てたもんじゃないってことか)

「一番最初に言いたいことってそれかよ、おまえ」
「え?ヘンだったかな?そんな笑わなくてもい……ひゃっ…」

今泉が身を起こし、拘束していた手を軽く引っ張る。それでストンと彼の腕の中に収まってしまった。
腕が回る。引き寄せられる。頬が胸につく。
練習中のスキンシップは多い方だと思う。だけどこれは抱きしめられてるんだよね、とガチガチになり
ながら坂道は考えた。

うわああああああ、と頭が煮える。1ミリも動けなくなった体を今泉は片腕でぎゅっと抱き、もう片方で
背中をぽんぽんぽんと叩いた。
優しい、子供にするようなリズム。
そのリズムと一緒にふ、と呼吸が抜けて、ゆっくりゆっくりとそこに馴染んでいくから不思議だった。

「緊張すんな」
「む、む、無理…」
「実はオレも緊張してる」
「嘘つきだ今泉くん…」
「嘘じゃねーよ、なんでおまえの頭ん中のオレはそんな色々慣れてるんだよ」
だけどまァ、こういうのは感覚かな、と分からない事を言う。

自分が耳まで赤くなっているのが分かったが、ひとまわり大きな身体にくるみ込まれているうちに
安心と自分からも触れたい欲が出て、坂道はそっと背に手を回した。
何でもそうだ。セオリーなんかない。
心は目に見えないし、色も重みもないから、どれだけって測ることもできなくて怖くなる。
でもそんなのは皆同じだ。伝えたいことはこうして伝えに行かなきゃ分からない。
(今泉くんは、そうしようとしてくれてる)


「あのな坂道。鳴子に打ち明けるか、オレらのこと」
「……ああ、僕も同じこと考えてた」
すごいね、くっついてると伝わりやすいのかな?と笑う坂道は、だがどこか腹をくくったような眼差しを
していた。
走っている時ならば、前にいる全てを抜き去ると決めたような顔だ、と今泉は思う。

「迷惑も心配もかけたくないけど、鳴子くんには分かってもらえる努力をしたいんだ」
「オレも同じだ。バラバラになりたくない」
「だから、言うんだ?今泉くんらしいね」

だから言わない、という選択肢を拾わない自分たちは、鳴子にたくさんのものを押し付けすぎてしまって
いるだろうか。
だが信じていた。自分たち三人は風の中でバラバラになっても集うことができるはずだと。
それだけの思いを三人ででも積み重ねてきた。恋とはちがう尊いそれを、絶対に手離したくないと願った。

「アイツもう何か勘付いてるかもしれねーけどな。今日の感じだと」
「う…僕のせいだね。きっと僕の気持ちが丸分かりだったんだよごめん…」
「いや多分、やらかしたのはオレの方だな。寒咲にも言われた。今泉くん顔に出すぎ、どんだけ好きなの
よって」
「ええ!!?」
「しかしおまえが分かってくれてないんじゃ全然意味ないな」

軽く身を離されて寒いと感じ、自分たちの体温が同じになるほど混ざってしまっていたと気がついた。
好きな人と触れ合う意味を少しだけ知る。
「ちゃんと覚えとけよ、オレが誰を好きなのか」
そう言いながら今泉が自分の手をとり、唇をつけるのをまるで夢の中の出来事のように坂道は見ていた。

自転車に乗るから小さな怪我はしょっちゅうで、マメが潰れることも多い手に熱が刻まれる。
とどめに好きな笑い方が今泉の口元に浮かんで、もうホントにもう今泉くんはずるい反則だよ!と坂道は
くらくらすることしかできなかったのだ。



山頂の清冽な空気に暖かなオレンジの夕焼けが広がってゆく。なにもかもが美しかった。
僕らはなんとかやっていける。きっと上手くいく、とそう思う。

「きれいだね…!!」
「ああ、なんかすごいな。何度も見てるはずなんだけどな」
「今日は今泉くんの生まれた日だから、特別製の夕陽だよきっと」
「なんだそれ」

笑い合いながらロードバイクを起こしていると、遠くからジャッジャッと自転車の音が複数聞こえてくる。
ウルサイのが来たと顔をしかめる今泉を見やり、目をこらせばチームSSのグリーンの派手なジャージが
ふたつどんどん近付いてくるのが見えた。

「逃げんぞ、坂道」
「えっ?ちょ…うん、分かった!」
山頂に乗り込んできた鏑木と段竹の横をするりときれいにすり抜けて、今泉のSCOTTが猛スピードで山を
下ってゆく。
坂道のBMCが間髪をいれずに続いた。
「今泉さん小野田さん、レースどっち勝ったんスか!?ってちょー待ってくださいよー!!!」


ゴメン鏑木くんと心の中で手を合わせ、滑らかな加速で今泉の後ろにピタリと付けば「どっちが勝ったか
なんてわざわざ聞くなっつの」と流れる景色の中で今泉の声がする。
あはは、ちょっとだけだったけどね、今日は僕の勝ち。ご褒美が欲しかったから頑張ったんだ。
そう言うと、鳴子が前払いしたご褒美が自分とも知らず、大好きな人がこちらを振り返る。

彼と自転車。山と夕焼けと街と海が見えた。
かけがえない、それがすべてだった。

胸を揺さぶるその光景に近づきたくて坂道は走った。
追いかけるすべのある自分を幸福に思い、こみあげる思いでいっぱいになりながら、ひたすらに前をゆく
今泉の背を目指して走っていった。