「今泉〜お客さんだぜ、また」
教室の前側の扉付近に陣取って昼ご飯を食べていた集団から、からかうような呆れたような声がかかった。
見れば、女子が三人こちらを覗き込んでいる。
そのうちの一人の手にはリボンシールが施された紙袋。どう考えてもプレゼントだ。

半分以上残った弁当に蓋をして不機嫌そうな顔で今泉が立ち上がった。
「おーおーモテんなあスカシ。何人目やねん、今日」と、鳴子が混ぜっかえす。
だがそれを黙殺して、今泉はほんの一瞬坂道に目線をやった。『心配すんな』 と言われたようだった。
そのまま背を向け、女子の集団と外へ出ていく。

「すごいね今泉は。前からモテてたけど、ちょっと雰囲気が柔らかくなったせいかな」
女子が遠慮しなくなった、と杉元が笑う。
「自転車を応援してる親衛隊の方は抜け駆け禁止の掟があるらしいけど、普通の子は普通に来るよね」
「なんやねん、掟て!こわっ!」

5月18日。今日は今泉の誕生日で、朝からプレゼントと告白が彼の元に殺到していた。
坂道は無言で箸を弁当の上でさまよわせる。
外はきれいに晴れていて、一年で一番気持ちのいい日かもと思ってしまうぐらいきらきらしている。
(5月生まれって今泉くんに似合ってる)
そう本人に言ったらどんな顔するかな、と考えたら、ちょっとだけほわっとした気持ちになれた。

だけどやっぱり、朝からもやもやは消えてはくれない。
こういうのはどうしたらいいんだろ、と途方に暮れた。
誰にも言えなくても、選ばれているのが自分だという事実は、どうして僕なんだろう?という疑問に変わる。

彼が差し伸べてくれた手。
どんなに嬉しかったか知れない。
ずっとずっと押し殺しているつもりだった想いと同じものを彼が密かに抱いていたと分かった瞬間。
こんな事があるんだ、と思った。
だけど彼のまっすぐさを知っていたから、本当なんだと泣き笑いでその手を必死に握り返した。

あれからまだ2週間もたってはいない。
しかし相変わらず自己評価の低い坂道は、目の前で女子が次々に振られていく様に委縮せずにいられ
なかった。
ロードレースに勝者がいるように、誰かを好きになるのもそうなのだろうか。
だけどレースの後のように晴れやかになれないのは、自分に自信がないからだ、と思う。
(どうして僕が今泉くんの一番になれたのか、それが全然分かんないからだ…)


「それがさ、うちのクラスで朝から話題になってたんだけど、今泉ひとつもプレゼント受け取ってないんだ」
「へーでもバレンタインやないし、プレゼント=告白って断定もできんやろ」
「それなんだよ。 『付き合ってるやつに誤解されたくないから受け取れない』 って言ってたらしくて」
「はああ〜!!?」

鳴子の驚き声にびくっとする。そんな風に言ってくれてるんだ今泉くん、とそうも思う。
でも顔が上げられず、坂道は穴があくほど弁当を見つめまくった。
「スカシもふかしよったなーいやまあ彼女作ろう思たら今すぐにでも出来るんやろうけど、アイツに女と付き
合うとる時間なんかないやろ。ワイらが一番よう知っとるわ」

なあ小野田くん、と鳴子に振られ、坂道は必死でこくこく頷いた。
「そ、そうだね。時間ないから…今泉くん断りやすい理由考えたのかな…」
「でもバレバレのウソを言うのもなんか今泉らしくないよねえ」
「確かにな。普通に 『自転車で忙しいから付き合えない』 言えば済む事やし、プレゼント全部断る必要も
ないような気ぃすんな」


箸を止めたまま弁当に手をつけようとしない坂道に気づいて、鳴子は少し眉をひそめて言った。
「小野田くん、具合悪いんか。ちゃんと食べんと部活もたんで」
「う、うん。なんかちょっと食欲なくて。でも大丈夫だよ。もうちょっと食べるよ」
いかにもカラ元気といった笑い方をする坂道を見やり、この話題は避けた方がよかったか…と思う。
(完全に委縮しとるな…小野田くん。ロード乗るようになってから自信もついとったのに)

どうしたったらええんやーと内心で頭をかきむしる。
それはもうある日突然ウッカリ気づいてしまった事だった。特別な何かがあったわけではなかった。
坂道の笑う表情や眼差し、今泉にかける声のえも言われぬ優しさ。
それが自分に向けられるものとは違っていることにはっとさせられた。差ではない。違い。
(もしかして小野田くん……好きなんか、今泉のこと)

それからというものの鳴子の苦悩の日々は始まった。
(男同士やし、小野田くんが今泉を困らせるはずがないし、ずっと黙っとくつもりなんやろな)
(でも何か、気づいてまうと小野田くんがいじらしゅうてたまらんわ)
(うまく行ってほしいんやけど、うまく行ってほしないとこがまた…)
(だいたいなんで大事な大事な親友の小野田くんをスカシなんかにやらんとアカンねん!)

娘を持った父親というのはこういう心境になるんかと大真面目に考えたほどだった。
今までに友達はたくさんいた。
だが、坂道は特別な友達だった。親友というやつかもしれない。とても大事なのだ。
レース中には鳴子や今泉が目を瞠るような気持ちの強さを見せる事もある坂道だったが、かつての友達と
違いとても繊細な部分がある。
気が優しいのはよく知っていた。だからなるべく傷つかないようにしてやりたい。

(ああーこんな事なら今泉の誕生日プレゼントに一枚噛んどくんやった!イヤやけどな!)
坂道がプレゼントの事をそっと切り出した時、つい笑い飛ばしてしまった。
自分が相手にしなかったせいで、坂道は自転車競技歴の長い鏑木と段竹にどんな物をあげたらいいか
教えてほしいと頼んでいた。
鏑木は 『いいですとも!喜んで!』 とやかましく叫び、自分の行きつけのショップに連れていってプレゼント
選びを手伝ったようだ。
その後、代償に坂道にインハイの話を根掘り葉掘り聞きまくったらしいが。

(いくらワイでも、自分が何にも噛んでへん誕プレを 『さあ渡すで、小野田くん!』 とか言うわけにも…)
しかし今日の坂道は、女子の圧倒的攻勢にどん引きしている。
普通の友達としてプレゼントを差し出す事すら果たしてできるのか、危ぶまれるほどだ。

アカン…アカンわ、悪い流れや…と鳴子は忙しく脳内で考えを巡らした。
だいたいスカシは付き合うとるやつがおるとかなんでそんなややこしい事言い出すんや!と今泉に対し、
殺意に近い思いが湧いてきた。
そんなウソ公言している暇があったら、親友を、小野田くんを最優先せーや!と拳を握る。

「ど、どうしたの鳴子くん。お昼足りないならこれも食べる?」
坂道が大好きなアニメの絵柄の入った菓子の箱をごそごそと出してきて渡してくれた。
おおきにな、貰うわ、と箱を開けながら、鳴子はくうっと心の中でむせび泣いた。
(大丈夫。大丈夫やで小野田くん。男・鳴子章吉がちゃーんとええようにしたるからな!心配すんな!)

妙な羊の形のスナック菓子を齧りながら、遠くで立ち話をしている今泉をギラリとロックオンする。
見てろやスカシ!放課後になったらおまえに小野田くんを追いかけ回させたるわ!と心に誓い、鳴子は
目まぐるしく本日のビックリドッキリ大作戦を立案し始めた。



(今日、ぜんぜん話せてねーな。おかしな心配してないだろうな、あいつ)
授業中、自分より前の方の席に座っている坂道をじっと見つめながら今泉は考え込んでいた。
まるで出会い頭の事故のようにお互いの気持ちが分かってしまった日から、2週間。
ああいう事もあるんだな、と思う。

坂道も自分もずっと気持ちを隠しているつもりだったというのに、心のガードが緩んでいた瞬間、目を見た
だけですべて分かってしまった。
ああ、こいつは、この人は、自分の事が好きなんだと。
叶うはずなんかないと最初から決めつけていたのに、一瞬でそんなものを飛び越えていた。
普段自分に自信のない坂道が確信できたというのは、どんだけオレは気持ちがダダ漏れだったんだよ、
とくすぐったくなって笑う。

あの時、大っぴらにはできないけど一緒にいたい、好きだ、付き合ってくれ、と告げた。
平凡すぎる言葉に、だが心をこめて伝えた。
うん…うん…僕も好きなんだ、ずっとだよ、と泣き笑いながら手を握り返してくるその必死さに満たされた。

あれから色々考えた。誰にも言えないというのは坂道にはかなりのプレッシャーだろうと。
だからせめて、自分の気持ちだけはいつもはっきり分かるようにしてやりたい。
オレにはおまえがいるんだから、他の誰も相手にしない。
そう伝わるようにと今日も朝から群がる女子を振って振って振りまくってきたわけなのだが、何故か坂道の
表情は曇りがちで、気にかかって仕方がなかった。

ボタンをかけ違えているようなちぐはぐな感覚。
一番いいと思うことを考えて考えて実行しているはずなのに、何かが間違っている気がする。
(オレが頭だけで考えすぎるとロクなことになんねーんだ…)
先生の授業の声が右から左へと抜けていく。今当てられたら、絶対何も答えられない。


考えて計算して先読みをして、そんな事ばかりが身についていた。
結果、自分が勝つことばかりを考えている、ひどく視野の狭い頭でっかちの人間が出来あがっていた。
坂道に出会うまでは、そんな風になり果てている事すら気づかなかった。

だが、裏門坂を一緒に走ったあの日からは驚きの連続だった。
目まぐるしい流れの中、色んな “好き” や “楽しい” を掌にすくい上げて、何度も何度も自分に見せて
くれた人だった。

(だから、すげー大事にしたいって思ってんだ。それなのにな…)
肝心の本人に伝わっていない気がするのは、自分勝手に考えて自分勝手に動いているせいか。
シャーペンの頭を意味もなくカチカチカチ…と押す。
だが今泉にとっても初めての事ばかりすぎて、何をどうすべきなのかが今ひとつハッキリしてこない。

本日、2年男子の羨望の的となっている今泉の心は、ふたつ前の席のメガネの小柄なクライマーの事で
もはやキャパオーバーになっていた。
他人が思っているほど器用でもなく、人慣れもしていない自分。
それでも手を伸ばせば届きそうな距離にいる人の、心にこそ触れたいと願うのは。
こんな気持ちは。

「じゃあ今泉、次のところから読んで」
「…………すみません、聞いてませんでした」
立ち上がって重々しく教師にそう言うと、坂道が目を丸くして振り向いた。
(たったそれだけが嬉しいとか)
クラスはざわざわしたが、『お、こっち向いたな』 と今泉一人だけがほんの少し溜飲の下がる思いがした。



「小野田くん、頼みがあるんや。聞いてくれるか」
「…?僕にできることなら何でもやるよ。鳴子くんの言うことだし」

放課後。部活が始まるにはまだ少し早かったが、またも今泉が女子に捕まり、坂道はしょんぼりしながら
部室へ一人で来てしまった。
部活前に何とかプレゼントを渡したいと思ったが、刻一刻とそのチャンスは失われていく。
ドアを開ければ、そこには珍しく鳴子が先に到着していた。
二人とも着替えをしたところで、鳴子はやたら上機嫌で坂道の肩を抱き、話を持ちかけてくる。

「あんな、今から小野田くんに峰ヶ山に登ってほしいんや」
「え…いいけど、どうして」
「小野田くんが出発してから15分ぐらいしたら、ワイが特別に見込んどる1年生を何人か後から追わせる。
山で勝負させたいんや。レースやで、これは」
「でも15分もあけたら追いつけないんじゃ…」
「あー平坦速い奴がおるねん。山に入る前に抜かされたら、小野田くんと競争させる意味ないやろ?」
「そっか…じゃあ僕は待たずにどんどん走っていいんだね」
「そうやそうや。勝負は最後の山頂付近でもええねんからな」

追ってくるのは、鳴子が目をかけていたスプリンター候補の二人だろうか。
だが山で勝負させたいということはオールラウンダ―か。
平坦も速いとなると鏑木や段竹かもしれない。あの二人なら、ぼんやりしていたら山頂付近までにきっと
抜かれる。

気を引き締めてかからないと鳴子くんに恥をかかせることになる、と坂道は思った。
それに自分だって先輩だ。最初に苦手な平坦を先行させてもらってるのに、山で負けるわけにいかない。
(クライマーは、絶対に山は譲れないって顔してないと)
それは坂を好きだ、登りが楽しいと感じることとちゃんと両立できるんだと今では知っていた。


門のところへ黄色のBMCをカラカラと引いてきた坂道を見て、鳴子はニヤリと口端を上げた。
(さっきと顔つき全然ちゃうわ。自転車乗りになったなあ、小野田くんも)
しっかりした目をして前を見る。心にかかる事はあるのだろうが、走る時は侵しがたい雰囲気をまとう。
それでこそ日本一のクライマーや、と思った。
坂道に言えば大慌てで否定するに決まっているが、事実は事実。
出会った時には夢にも思わなかった。ただオモロイやっちゃ、そう感じただけだったというのに。

「準備できたよ、鳴子くん。もう出てもいいの」
「ああ、ええ顔しとるな。そういう時の小野田くんは速い速い!山では無敵や!」
「うん、誰が来るのか知らないけど、勝つつもりで走るよ」
「頼んだで。負けたらアカンからな!」

スタートラインでロードバイクに跨った坂道の背中にぽんと手を置いて、鳴子は同じ方向を見た。
広がる世界。
ああ、一緒に走れたら気持ちええんやろうけどな。今日のワイは忙しいからな、と含み笑う。

「大丈夫や、ワイがついとる小野田くん。何があってもや」
「鳴子くん…?」
「初めての事にぶつかって困ってしもたり、もしかして結局どうにもならん時もあるかもしれん。けどそれは
無駄にはならん。もう小野田くんには分かっとるはずや」

坂道は、鳴子の明るい色の髪ともっと明るい目を見つめた。
どうして彼が今、自分にこんな事を言うのか分からなかったが、不思議なほど胸にすとんと落ちてくる。
この人は、いつだってそうだった。
『折れるなや、くじけるなや』
いつもそんな風に自分を励まし、笑わせて、やるんなら全力でやれと教えてくれた。
自分にはもったいないような親友だった。


「ちゃーんとご褒美用意しとるからな。楽しみにしとき」
「うん、分かった!」
「よっしゃ、走れ!!」

ジャッと音をたてて坂道のBMCがスタートする。おー飛ばしとるなーと鳴子は眩しげに目を細めた。
(クライマーはとりあえずお山に登らせといたらええ。直線でのスプリンターとおんなじや)
(走ってるうちにアドレナリン出てきて雑念なんか吹っ飛んでまう)
(問題は今泉やな)
(ワイの計画にぬかりはない!ヒイヒイ言うまで走らせたるわ!)

不敵に笑った鳴子は未だ現れない今泉を捕獲するべく部室の前に仁王立ちになり、その出現を待った。




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