息をきらして裏門坂を登ってきた今泉が、聞いた事もないような荒っぽい音をたててゴールした。
手嶋が並べてあったストップウォッチのひとつを押す。
手元をチラリと見やり、やれやれ…と嘆息したのが遠目にも分かった。

先の組だった坂道と鳴子はドリンク片手に休憩していたが、思わず顔を見合わせてしまった。
ロードレースは厳しい競技だ。無茶をしてバイクに負担をかけてしまう事は多々ある。
だが今、自分たちの耳に届いた音はそれとは根本的に違っていた。

(自転車が、いやがってる…)
自転車競技の経験がまだ浅い坂道ですらそう感じた。
いつも今泉と一体となって走る美しい青いSCOTT。彼に何より近しく、あまりに大事にされている
から妬けるぐらいのそれが主人に抗議の声をあげるなんて。

ヘルメットを外し軽く頭を振っている今泉をじいっと観察していた鳴子が、ふいに「行くで、小野田
くん」と言い置き、快適だった日陰から出ていった。
「え?あ…待って、鳴子くん!」
その背中を追い、小さな避難場所から踏み出す。
灼けつくぐらいに暑かった。ゆらっと視界が蜃気楼のように揺れる。今補給した水分が一瞬で
蒸発するような感覚。

「今泉、今日はいいからもう上がれよ」
「どうしてですか。タイムは特に悪くないですよね」
「悪くないから余計に怖いんだって。分かってんだろ、自分が集中できてないの。無理に辻つま
合わせてんのバレバレだ」
「……っ」
「こんな状態で走らせてエースに怪我でもされたら大打撃だ。オレの言ってる事が分からない
ほどお前はバカじゃないだろ。上がっとけ」

手嶋と今泉の会話が聞こえてくる。近寄った今泉の背中は少し強張っているように見えた。
ああ、どうして、と坂道は思う。
今すぐそこに触れてあげたい。この人は強いけれど万能なんかじゃないのだ。
だが気配りの上手い手嶋にしては厳しい言葉に、それだけ主将が今泉の状態を危惧している
事も感じ取れた。
もうインハイまで数週間しかないのだ。今週に入ってからの今泉の不調に頭を抱えたくなる
ような思いなのだろう。

「……分かりました」
ふ、と短く息を吐き出すと今泉はそう言い、鳴子と坂道の方を振り向いた。
険しい顔つきで腕組みをする鳴子をパスして、坂道の前に来る。
自嘲するように少し笑い、「先にあがるな。悪い」と肩をぽんと叩いてから部室の方へと一人
歩いていった。
今泉くん…と呼び止めようとした声が喉で貼りつく。どうしてどうして僕は何も言えないんだ、と
坂道は不甲斐ない自分に眩暈がした。

その時、青八木が「…純太」と手嶋の腕を小さく引いた。
二人はぼそぼそと何か話していたが、やがて「そうだな、その方がいいな」と頷いた手嶋は
こちらに向き直る。
「鳴子、小野田。今日はお前らもあがっていいぞ」
「手嶋さん…!?」
「ていうか、頼むわ。ちょっとあいつガス抜きにどっか連れてってくれるか」
冗談めかして拝まれ、この人が厳しいだけの人でない事にほっとさせられる。青八木も口数
は少ないが思いやりがある。

横から鏑木が「えっレギュラー早上がりすか!?ならオレもいいですよね?」と騒いだところ
を、古賀と青八木に他の部員たちのいる方へずるずる引きずられていった。
ウルサイ奴っちゃな〜と呆れ顔の鳴子は、「小野田くん、先行ってスカシを引き止めといてくれ
るか。ワイもすぐに行くよってに」と意味ありげに目配せをしてくる。
時計を見た。いつもより1時間ぐらい早い。

「うん、分かった!手嶋さんありがとうございます。お先です」
彼特有の笑い方をする主将に一礼するやいなや、坂道はもう駆け出していた。
さっき行ったばかりだから今泉はちゃんと部室にいるはずだ。それでも心がはやる。
何の言葉も用意していないくせに急がなきゃとそればかりを思った。走る。走ってゆく。


「ありがとうございます、か」
苦笑する手嶋に、あーこの人なんか勘付いとるか…?と鳴子は少しばかり焦った。
部員にマイナスになるような事はせん人やしまあええか、と瞬時に開き直りはしたが。
「お前は行かねーの、鳴子」
「まずは小野田くんに任せとったらええんですわ。スカシがあんな息が詰まったみたいな顔
しとる時は特に」
「そっか。お前みたいな友達がいるってあいつら幸せだよな」

さらりと照れくさくなるような事を言って、クセのある髪をしばり直しながら手嶋は離れてゆく。
だが鳴子はまた難しい顔になり、部室の方を見やった。
週が明けてから今度は今泉はおかしくなった。日曜に会った時はあんなにやる気満々だった
くせにだ。
(どないなっとんねんアイツ…小野田くんが上手いこと聞き出せたらええけどな…)



「今泉くん、着替えてる?入ってもいい?」
外から呼びかけると、小野田か大丈夫だと声がした。
そっと開けると、部室の中は空気が籠もっていて暑かった。汗が引くまで待っているのか今泉
は扇風機を回しベンチに座っている。ひくい機械音の他は静かだ。

もっと苛立っているのかと思っていた。だが坂道を見た今泉の目は優しく深い色をしていた。
きれい、と思う。胸が鳴る。
引き寄せられるように近づき、彼の前に立った。自分は今どんな顔しているのだろう。

「あ、あのね!手嶋さんが僕と鳴子くんもあがっていいって。だから追いかけて来たんだ」
「…そうか。いろいろ気を遣わせちまったな」
「調子の悪い時なんて誰にでもあるよ。ていうか…今泉くんはもうちょっと」
「もうちょっと?」
「その…誰にでもなんて言わないから……甘えてもいいと思う、よ?」
「誰になら甘えていいんだ?」

座ったまま自分を見上げてくる今泉はからかうように少し微笑んでいて、もう分かってるくせに
と思いつつも、その和らいだ空気が嬉しい。
(僕は、ここに一緒にいることを今泉くんに許されてるんだ…)
責任感がつよく弱いところを見せたがらない人だ。出会った頃からそこは変わらない。
だけど恋人のポジションにいる自分には、彼の心の柔らかな部分にも触れたいという願いがある。
愛しいのだ。
夢でも会えたらと思うぐらいに。

「僕でよければ」
「坂道…」
「僕ね、ほんと不器用だし何をやるのも下手だけど、そういう事できるようになっていきたいよ。
今泉くんはいつも僕を大事にしてくれるよね。だから僕だってそうしたい。それを分かって」


霧の中のように混沌としていた心にふいに晴れ間がさした。今は見通せる。呼吸も楽になって
いる。
前に立つ坂道の表情は決然としていた。
ああそうだった。坂道は 『たったひとつのやるべき事』 が定まるともう迷わない。ひた走る。
(そういう時の目をしてる。オレにはない強さだ)

あれから3日。今泉は自分の見たものをなかなか現実として受け入れられずにいた。
できれば見なかった事にしてしまいたいぐらいだった。
なのに心惹かれ、何度も思い出すから、ひどく始末が悪い。

昼も夜も自転車で走っている時も、あちら側の二人の姿がチラついた。
緩い歩調、交わす目線や笑い顔、お互いを慈しむ空気、気が遠くなるほど幸せそうなキス。
その全てが、ちゃんと見ろよと今泉に迫ってくる。

それは今泉が坂道のためにと用意していたヴィジョンと何かが根本的に違っていた。
もちろん、自分が悩み考え学習したすべてを間違いだったとは思わない。
だがこれほど動揺したのは、それは。
(オレがこいつの手を引いてやればいいんだと決めつけてたから、だな…)


「……じゃあな坂道、ちょっと手ぇ貸してくれねーか」
「手?どうすればいいの?こ…こうかな」

何をして欲しいのかいまいち分からなかったらしい。坂道は掌を上にして行儀よく両手を揃え、
差し出してきた。
男にしては小さく子供っぽい手だが、ところどころにマメが潰れては治った跡がある。
かつてはなかったであろうその傷を、今泉は愛しいと思った。
微かに笑い、左右の手をそれぞれに持ち上げて、自分の頬へと押しつける。
こんな風に誰かに顔を触らせるのは初めての経験だった。
じわり、情動が湧く。
部屋の中は暑いのに、坂道の手の熱は心地いいと感じるこの都合のよさ。
恋してる人間はバカだ。

「は…はわわわ……い、今泉くんっ…!?」
「んー…?」
「ななななんでしょうかこれは?」
「甘えろってお前が言ったから試してみてる……なかなかいい」

手を引かれた分、少し今泉に覆いかぶさる体勢になりながら、坂道の心臓はどっきゅんどっき
ゅん漫画みたいな音で鳴りだした。
目を伏せ、右手側に少し傾けている彼の顔がとんでもなく近い。それはもうまつ毛の生え具合
まで見えるほどだ。
自分の手は今泉の頬と手にサンドされている。それを意識するとぶわっと体温が上がった。
(今泉くんの顔、初めて触った…)

好きな人に触るのは何て気持ちいいんだろう。
外側を温かくくるまれ、その中で撫でるように少しだけ指を動かすと、今泉はくすぐったそうに
口端をゆるめる。
こんなに大きくてかっこいい人なのに、どうしようもなくかわいい。

「今泉くん、もしかして何かあった…?たまたま調子が悪いだけじゃなくて」
「……まァ、あったと言えばあったな」
「僕がいっぱい心配かけちゃったのも関係あるのかな…」

そもそもこんな事を聞く資格が自分にあるんだろうか、と坂道はへこんだ。
あんなに今泉を不安にさせておいて、自分は何も話さずにやり過ごそうとしたではないか。
(僕、すごい勝手なこと言ってるかも…)
だが今泉は薄く目をあけ、うなだれる坂道を見た。

「お前今、こんな事聞く資格あるのかとか思っただろ」
「えっ…えええ!どうして分かったの」
「何となくな…くっついてると伝わりやすいのか。前にお前もそう言ってたじゃねーか」
「覚えてたんだ…」
「当然だろ。何だって全部覚えてるんだよ」

思い出は、雪のように降っては薄く心に積み重なるものだ。
その重みだけ、今日のオレは昨日のオレより少しはマシだと信じたい。
そう思いながら、今泉は沁み入るように静かな声で告げていた。
「お前にオレを心配する資格がないなんて、そんな寂しい事言わないでくれ」
「今泉く…」
「むしろ心配してくれねーとグレるぞ。オレはお前が考えてるよりもずっと子供っぽいんだ」

ただでさえ大きな坂道の目が丸くなった。今泉くんがこどもっぽい…とゴニョゴニョ口の中で
復唱している。
それから、まるで何かが弾けたみたいな勢いであはは…と笑い転げた。
屈託のないその声。空気までが色づく。
ああ、コイツがこんな笑い方すんの久しぶりだ、と今泉は貪るようにそれを見つめた。
「なんだよ」
「だってさ…今泉くんが子供っぽいんならもう僕なんか赤ちゃんだよー…」

よちよち歩き。初心者マーク。二人ともそんなもんだなと思う。
今も多分すれ違っているのだ。ちゃんと分かりあえてなどいない。
それでも恋することをやめない気持ちは、坂道と今泉の心のあちこちを小さく結んでいった。
これ以上はぜったい離れたりしないとでも言うように。


「あのな坂道。さっきの何かあったのかって話だけどな」
「うん」
「オレに一日だけ猶予をくれねーか。明日になったら色々お前に話す。でもその前にオレはグダ
グダ逃げてた事と向き合わないとな」
「……よく分かんないけど…でも、うん分かったよ。明日だね?今泉くんは大丈夫?」
「ああ。だから今日はお前、鳴子に付き合ってやれ。アイツにも心配かけたんだし、たまには
サービスしてやれよ」

頷いたものの、逃げるなんて今泉くんに似合わない言葉だとそこがカツンと引っかかった。
いったいどんな気がかりがあるのだろう。不安が胸の内を濁らせる。
(でも、明日になったら話してくれるって)
なら大丈夫だろうか。今泉は冷静な人だし、おかしな事にはならないとは思う。
信じて待って欲しいと言われているのだ。

自分も話そうか。あの坂での出来事を。どんな思いで毎日あそこに通っていたのかを。
坂道は初めてそんな気持ちになれた。
不思議な、ちょっと簡単には理解してもらえないような事だ。
でも彼に触れていると勇気が出てくるのだ。弱い自分もみんなさらして、二人でそんなの笑い
飛ばしてしまえたら。
(僕らは、またちょっとだけ変われるのかもしれない…)


夜空のように美しい色合いの今泉の瞳に、自分の姿が映り込んでいた。見惚れる。
だが彼は、またふ…と瞼を閉じてしまった。
口元は優しい弧を描き、とても満ち足りた表情をしている。
彼の頬と手に挟まれたままの坂道の手はもう熱いぐらいだ。汗をかいてないかちょっと気に
なったが、今泉はそんなのどうでも良さそうにぴったりと押しつけている。

扇風機の緩い風はほとんど坂道の背にあたっていたが、僅かに今泉の黒髪を揺らし、それを
見た瞬間どきりとした。
誰もいない。二人きり。
もしかすると今ものすごくいい雰囲気なんじゃ…と気がついたのだ。

(……キスしたら…いやがられないかな…?)
うわああ、僕すごいこと考えてるよ!部室だよ!?こんな無防備にしてる今泉くんも大問題
だよ!何されちゃったって文句言えないと思うよ!?と坂道は無言で煩悶しまくった。
自分の鼓動がドッドッドッ…と音になって聞こえてくる。
手首の辺りも重なってるから、これ今泉くんに絶対バレてるよ!と真っ赤になった。

だがその時、今泉がひょいと片目だけを開け、落ち着きはらった声で言った。
「しねーのか。待ってんだけど」
「えっ…あのっ、それはつまり…あの、僕…からっ」
「別にいいだろ。オレからしなきゃいけない決まりがあるわけじゃなし」

それに今オレ身動きとれねーしな、と変な理屈をこねてくる今泉に眩暈がする。
いやいや、今泉くんが手を離したら動けるじゃないですかと思ってみるが、目の前の形のいい
唇を見た途端、もうダメ、と思った。
(したい、キスしたい、今泉くんに特別な意味で触りたいよ)

なんてことだろう。まさか最初のキスを自分からする事になるなんて想像もしなかった。
でもこのチャンスを逃したら、今度はいつになるか分かったものじゃない。

我慢は体によくないよね!とついに開き直った坂道は、また気楽そうに目を閉じてしまった今泉
の顔を少しだけ仰向けて見つめる。
好きしか浮かんでこなかった。今泉くんが分かってくれますように、と念じた。
ゆっくりゆっくり、吐息まで感じられるぐらいに唇を近づけてゆく……

「小野田くーんスカシ〜、なんやワイの見たないようなのっぴきならん事になってへんやろな
ー!?まあヘタレのスカシ君じゃ無理かー知っとる知っとる!カッカッカッ」

外からの大音量の呼び掛け。同時に部室のドアが勢いよくガチャッ!と開いた。
声はかけても応答を待つという考えのない鳴子が踏み込んだ途端目にしたものは。
「な…鳴子くん…」
ベンチに座った今泉の顔を両手で包み込み、今まさにキスしようという体勢のままで真っ赤に
なって固まっている坂道の姿であった。




「ごめんなあ…小野田くん。さすがのワイも反省しとるわ」
「もういいよ鳴子くん。できたら忘れてほしいんだけど…なんか恥ずかしいし…」
「いやースカシに部室で何かする度胸はないやろとタカをくくっとったんやけど、まさか小野田
くんがスカシを押し倒すとは…」
「いやいやいや押し倒したりしてないからね!」

あの後、行く所があるという今泉と別れて、坂道と鳴子は部活後によく来る店に移動していた。
たこ焼き、焼きそば、回転焼き、から揚げにフランクフルトにかき氷。
店内は腹をすかせた学生が喜ぶ安価なメニューがズラリと貼り出してあり、ちょっと見には
カオスだ。だがそれが楽しくもある。

最近いろいろ心配かけたお詫びにと、今日は坂道が奢ることにした。
ドーナツを3種類盛った皿をふたつテーブルに置くと、サービスでいつも置いてある麦茶を鳴子
が持ってきてくれた。
帰宅部にとっては時間が遅く、部活のある人間はまだ来ない。
そんな中途半端な時間だったので店内は人もまばらだったが、なるべく他人に話を聞かれない
ようにか鳴子は隅っこの目立たない席をとっている。
座敷になっているので靴を脱いで上がり、向かい合った。


ドーナツを齧りながらしばらく他愛のない話をしていたが、実のところ鳴子は脳内で唸りまくっ
ていた。
(だーもーこの二人いったいどないなっとるんや!?)
(分からん!ほんまに分からんわ)

先週はずっと坂道がおかしかった。そして日曜、少女漫画から恋愛のイロハを学んだ今泉が、
坂道を旅行に誘うと言ってアタックをかけに走って行ってしまった。
週が明けると、今度は今泉が挙動不審になった。
理由を聞いても誤魔化すばかりで言おうとしない。
目が泳いでいる。ボーッとして覇気のはの字も見当たらない。
練習は手嶋が言った通り、辻つまを合わせているだけで全く集中できてない。

何が起こったかなんてまあだいたい推理できるわな…と鳴子は思った。
要するにこうだ。
(今泉が 『お前とエロい事したいから二人きりで旅行に行こう!』 言うたもんで、小野田くんが
ドン引きして泣きながら拒絶したと…)
(スカシ、えらい盛り上がっとったから断られてショックやったんやろなー)
(だから言うたんや、極端から極端に走りすぎやて)

正直、そんな事があった割には坂道の態度がやたら普通なのはひっかかっていた。
だが原因はそれしか思いつかない。
まあ3日もたったし小野田くんもぼちぼち落ち着いたやろと思い、さっき今泉を追わせたのだ。
どうせ好き合っとる二人や、ひとつ所に10分も放り込んどいたらどないかなるやろと楽観的に
考えていたのだが。
鳴子の予想とは全く違うベクトルで、二人はどないかなりかけていた。
なんと坂道が今泉にキスしかかっている現場に踏み込んでしまったのだ。

ええぇ…これもう全然分からんわ…と頭を抱えた。
小野田くんもあれから色々考えて積極性を見せたゆう事なんか…?と、向かいで小動物のよう
に苺の味のドーナツをぱくついている坂道を見やる。
(しゃーないなーちょっとずつ探り入れてみるしかないんか)


「しっかしスカシも何やねん。手嶋さんがせっかく気ぃ効かせてくれたのに、アイツが来んと意味
ないやないか」
「うん…今泉くん、どうしても今日やらなきゃいけない事があるんだって…」
「アイツなー、少女漫画の読みすぎで頭おかしなってもうたんちゃうか」
「ええっ!少女漫画?何それ今泉くんが!?」

びっくりして食いつくと、鳴子は面白そうにニヤ〜ッと笑い、「聞きたいか?小野田くん」と言った。
うんうん!と大きく何度も頷く。
「よっしゃ、もうアイツムカつくから全部バラしたろ!」
別に口止めされた覚えもないからな、とバクリとチョコのドーナツに大きくかぶりついた鳴子は
ひとしきりモグモグやっていたが、やがて内緒の話をしてくれた。

先週の金曜日、自分が今泉と鳴子を振り切って立ち去ってしまった後だ。
小野田くんの気持ちが分かってない、恋愛経験値が低すぎる、少女漫画とか読んだ事ないんか
と言ったら、それを貸してくれと今泉の方から頼まれたこと。
そのまま鳴子の家に寄り、妹に貸し出してもらったという。

「勉強するしかない、自分に努力が足りない事だけは分かった、そう言うとったなスカシ」
「うそ…僕、その漫画知ってるよ。本は持ってないけどアニメで見たことある…あんな女の子向け
の漫画、今泉くんがわざわざ借りて読んで…」
「そんだけ必死やいう事やろ」
「鳴子くん…」
「そこちゃんと分かっとるんか小野田くん。お前に本気やで今泉は」

鳴子にしては珍しく目つきも口調も厳しいものだった。それだけに坂道の心にはずしんと響くもの
があった。
ぐだぐだ悩むだけで何もしなかった自分。
今泉に何かしてもらえる事ばかりを期待していた自分。
絵に描いたような幸せを遠くから眺めては、羨ましがってばかりいた。
こちらから何かをして今泉くんに迷惑かけちゃいけない?
違う違う、迷惑がられたり拒まれたりしたら自分が傷つくからじゃないか。

今、それを死ぬほど恥ずかしいと坂道は思った。
彼は手探りでも必死に分かろうとしてくれていた。
隠し事をされてどんなに苦しかったことだろう。それでも坂道の知らぬ所で行動していた。

金曜の夜に届いたメール。
あれは漫画を見て、何か言葉をかけようと考えついたのだろうか。
さっきは、坂道の方からキスしていいと自分をあけ渡してくれた。
手で頬に触れさせたあの密やかな行為にも、彼はちゃんと意味を持たせていたのだ。
『オレからしなきゃいけない決まりがあるわけじゃなし』
本当だ。女の子じゃあるまいし、何故してもらうのを当然と思っていたのだろう。


「ちょ…小野田くん…!?」
眼鏡の下、大きな目が潤んだのを見て鳴子は慌てて身を乗り出した。
あーワイが小野田くんにキツイ事言うのなんかそもそも無理やねん!と焦りまくる。
「強う言いすぎたか。責めるつもりやなかったんや」
「ちが…ちがう。僕自分が情けないんだ…今泉くんだけじゃないよ。鳴子くんの事もどんなに
困らせたかしれないのに逃げてた…ごめんほんとにごめん…」

向かい側で心配そうにしている赤い髪の親友。快活な彼にそんな顔は似合わない。
それでも坂道を見る目は温かかった。
ああ、鳴子くんが何とか支えようとしてくれてるから、僕と今泉くんはバラバラにならずにすんで
るんだと気づかされる。
たくさんの迷惑も心配もかけている。なのに彼は絶対にひるんだりしない。
こんな友達は、世界中を探したってここにしかいなかった。

「アホか、水くさいこと言うなや。ワイが小野田くんの心配すんのも味方すんのも当たり前の
事や」
「…鳴子くんかっこよすぎだよ…」
「そうか?カッカッカッ!まあワイは心が広いからスカシの次でも許したるよってにな!」

滲んだ涙をぐいっとぬぐう坂道を見て、これやったらもうちょい突っ込んだ話しても大丈夫そう
やなと鳴子は安堵していた。
何せここからは、さすがの鳴子も踏み込みにくいデリケートゾーンだ。
それだけに坂道がしゃんとした顔つきになったのも、自分への信頼を見せてくれたのも大きい。

(いやまあ、頼りにはしてくれとるんやろけどな。知っとるけど)
口端をあげる。気持ちも一緒にあがった。ここのところの隠し事の件で鳴子の自信も少々揺ら
いでいたのだ。
それでも自分が踏ん張った甲斐があったと最後には思いたい。


「今はワイの事はええわ。あのな小野田くん、スカシは色々反省もしとってん。インハイ前の
忙しさに紛れて小野田くんに寂しい思いをさせてもうたって」
「今泉くんが…」
ほわっと坂道の表情が花のように綻ぶ。心から嬉しそうな顔になった。
うーん、こんぐらいで喜ぶとか小野田くんめちゃめちゃチョロいやないか…何で旅行の事で
こじれたんやこの二人?と鳴子はまた首をひねる。

「せやからな、アイツがちょびっと暴走しても大目に見たり。小野田くんを喜ばせたい一心なん
や。まあイキナリでびっくりしたんやろうけど」
「…?え、なにが…?」
「何て……ああ悪い、ワイ知っとるねん。日曜の夕方、漫画返しに来た時にスカシから話は聞
いたからな」
「ごめん、鳴子くんちょっとよく分かんないんだけど何の事…かな?」
「オイオイ、恥ずかしいんかいな。とぼけんでもええやろ。9月の五連休に二人で旅行に行くゆう
話や。スカシん家の別荘に」

(……9月の五連休……旅行…今泉くん家の別荘…二人きりで…泊る……?)
与えられたワードが坂道の頭の中でグルグル回った。
それがどういう意味なのか、浸透するまでにしばしの時間を費やした。今泉が自分に何を求めて
いるのかを。

ようやっと全てを飲み込んだ瞬間、坂道の持っていた麦茶のコップが斜めに傾いた。
液体が手首を流れ、濡れてゆくひやりとした感触。
ちょ…零れとる!零れとるて!と慌てる鳴子の声もやけに遠かった。
コップを取り上げられた頃には、坂道は茹で上がったように耳まで真っ赤になっていた。

「し…ししし知らないっ…僕今はじめて聞いたよ…っ」
「はあああ!?知らん!?どういうこっちゃ!」
鳴子の素っ頓狂な大声に、少ないとはいえ店内の客や店主の視線が集まる。
ヤバイ、と声を潜めたが、もう二人の脳内は疑問符の嵐だ。どこからすり合わせていいのかも
分からない。


「待て待て、とにかく落ちつくんや小野田くん」
「鳴子くんこそ落ちついてよ〜えっと…日曜に漫画を返しに来た今泉くんが、その話を鳴子くん
にしたんだね?今日はもう水曜だし、僕は当然聞いてると思ってたんだ?」
「いやちゃうちゃう!ワイの家から直接小野田くん家に行ったやろがスカシは!」
「今泉くんが?来てないよ」
「来んかった!!?」
「日曜の夕方だよね?僕、家にいたよ。母さんも何も言ってなかったし」

ええええもうどないなっとるんや…と呻きながら、鳴子はとうとう畳に突っ伏した。
何やっとるんアイツ…と困惑しきった声を聞くうちに、坂道も胸騒ぎがしてくる。
言った事を実行しないなんて今泉らしくなかった。
そして、週があけて彼は様子がおかしくなったのだ。

「これから僕の家に行くって今泉くんは言ったの?」
「そうや。旅行のこと学校で言うより直接会いに行った方が小野田くんが喜ぶ言うて、スカシ
めっちゃ勢い込んどったんやで。それが行ってないて一体…」

聞いた限りでは今泉が予定を変更したとは思えなかった。
やっぱり今泉くんは僕の家に来ようとしたんだ、と坂道は忙しく考えを巡らせる。
(鳴子くんの家を出てから何かが起こった…?例えば落車して怪我したとか)

さっきの部室での会話がプレイバックする。
何かあったのという問いに、彼は 『まァ、あったと言えばあったな』 と少し笑っていた。
『オレに一日だけ猶予をくれねーか』
『オレはグダグダ逃げてた事と向き合わないとな』
低い自嘲するような声だった。だがあの数分、坂道に自分を預けながら彼は不思議と満たされた
様子だったのだ。

(何から逃げてたっていうの。ねえ今どこにいるの)
(そんなのまるで…まるで先週までの僕みたいじゃないか…)

届かない呼びかけが頭の中でわんわん反響する。
だがその瞬間、坂道はハッとした。大きく目を見開く。指先が震える。
自分と今泉の行動の相似。
小野田家を目指して登って来ていたであろう青い自転車。それは、日曜の夕方…

「何時だったの、鳴子くん!?」
「うわ、何や急に!?何時て、スカシがワイのとこに来た時間か」
「ちがう、今泉くんがそっちを出た時間!僕の家にいつぐらいに着きそうだった!?」
「イキナリ聞かれてもな…ああでもあの後、ワイも出かける準備しとって…15分か20分ぐらい
して7時のニュース始まっとったで。それぐらいとちゃうか」

ガタ!とテーブルを動かすほどの勢いで手をつき、坂道は腰を浮かせた。
ようやく訪れた確信。ああ、ああそうだったんだ、と嗚咽が漏れそうになる。
全てがやっとあるべきところへ嵌まった。
何故自分たちはすれ違っていたのか。触れても分かり合えなかったのか。
(おんなじ秘密を隠し持ってたんだ…僕と今泉くんは)
惹かれずにはいられないあの未来の光景を見ていた。まるで初めての恋のように。


「ごめん鳴子くん。僕、今泉くんの所に行く。今泉くんを追いかけるよ」
「どないしたんや、何か心当たりでもあるんか」
「今泉くんは…僕が先週ずっと見に行ってた物に出くわしたのかもしれないんだ。ちょっと普通
じゃありえないような事で…きっと誰にも言えなかったんだよ」
「はあ…?なんやそれ、幽霊かいな」
「まあ、似たようなもんかな」

カバンを斜めがけにし、時計に目をやりながら坂道は何ともいえない顔で笑った。
それはいつもと変わらぬようで、どこかほんの少し大人びたものだった。
特別なヤツができるってこういう事なんか、と鳴子は思い知らされる。
『友達』 の自分はここに留まり、前へ押し出してやる事しかできない。

だからそうする。どやしつける。
今泉と坂道になら、どんな時でもそうしてやる。
とうの昔に決めていた。口に出すのも野暮な事。スカシには一生言うたらんわとほくそ笑む。

「全然ワケ分からんけど分かったわ。ええからもう走っていけ」
「鳴子くん…」
「惚れた相手の一人ぐらいキッチリ捕まえんかい。今のまんまじゃカッコ悪いで小野田くん」

親友の言葉に深く頷いた。あぐらをかいて座った鳴子と目を合わせ、最後に告げる。
「明日になったら、何もかも全部鳴子くんにも話すから」
「おう、待っとるで」
「ありがとう!行ってくる」


ひらひらと手を振る鳴子に背を向けて、坂道は店を飛び出した。冷房の効いた場所から一歩
出ればひどい蒸し暑さが襲ってくる。
だが、暮れ始めた空は息をのむ程に高く美しかった。

今泉の事は自分の勘違いかもしれない。駆けつけてもそこに彼の姿はないのかもしれない。
そう思っても逸る心は止まらなかった。
互いの想いを知ってしまったあの日のように、甘い衝動に全身を支配されている。

もし両想いになったって普通の関係じゃない。誰にも言えない。今泉くんのためにならない。
そんなきれい事は、あの時だってカケラも頭に浮かんで来はしなかったのだ。
彼が欲しかった。彼も自分を欲しがった。
それが分かっていてどうしてこの手を伸ばさずにいられるだろう。

傷つくことを恐れていては走れない、とかつて教えてくれたのは彼とロードレースだった。
与えられたそれはいつしか坂道の指針になっていた。
恋が幸せだけを運んでくれず、泥にまみれる事になったとしても、もういい。
(僕は今まで色んななものを諦めて通り過ぎてきたけど)
(君のことだけは絶対に諦めないよ)

自分と自転車、今はそれしか頼れるものがない。
BMCのロックを手早く外しサドルに手を置くと、坂道は愛車に小さく強く語りかけた。
「お願い。間に合うように、僕を今泉くんの所へ連れていって…!」


部活帰りの学生たちで混み合い始めた街中を、黄色い自転車が飛ぶ鳥のように速く駆け抜け
ていった。
うおっ!?今の自転車かよ!?と何人かが驚きながら振り返る。
だが乗っているのが自転車競技のインハイ総合優勝者だなどと知るよしもない。呆然とただ
見送る。

それでも、その中の誰かがふと呟いた。
「この暑い中あんな必死で走ってくなんて、会いたいヤツでもいるんかな」 と。




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