暮れなずむ空をゴオッと音をたてて飛行機が飛んでゆく。坂の中ほどで佇む今泉はそれを眩しそう
に見ていた。
もうライトの点いたそれはオモチャのようにピカピカしている。

おかしなもので幼い頃から、他の子供が好きそうな電気で動く乗り物や玩具に興味がなかった。
初めて好きになった物は自転車で、それが自分の力で進んだ時は胸が震えた。
今、傍らの木に立てかけてある青いSCOTTがあればそれでよかった。

そういう自分が変わるなんて想像した事もなかったのに、今泉の世界におかしな歌を歌いながら
ある日坂道が現れた。ニコニコと笑っていた。
おかしなヤツ、と思いながらも気になって。気にかけてしまって。
いつからだろう、自分の感情は坂道を見る度にほろほろと解けていった。
固い蕾が一枚一枚花びらを覗かせるように、優しさも切なさも愛しいと思う気持ちも、こんなものが
あったのかと驚くほどに一人に向けて溢れ出た。

『最近、今泉くんはよく笑ってくれるね』
そう言われ、何となく自分の顔を撫でながら 『多分、お前につられてんだよ』 と答えた事がある。
坂道は目をまるくして 『そっか…じゃあ僕がたくさん笑ったら、今泉くんももっと笑うかな?』 と
大変な重大事案のように考え込んでいたものだ。

だが、明るい笑顔を見せる坂道にも、叶わなかった夢があるのを今泉は知っていた。
寂しくて悲しい思いをしてきたことも。
自分にはアニ研を作ってやることも一緒に入部してやることもできない。
でも友達にはなれると思った。そして一緒に自転車で走ることもできると思った。

多分、自分は坂道の明るさだけに惹かれたわけじゃないのだと今さらのように考える。
笑顔、涙、強さも弱さも、ひたむきな眼差しも。
小野田坂道を構成するすべての物を好きになった。

(だから、今もオレはここにいるんだな…)
人の家へ続く坂の真ん中にずっと立ったまま、訪れるものを待ちわびている。
何やってんだ、と思わないわけじゃない。日は落ちてきたがひどく暑くて息も詰まりそうな程だ。
だが、きっと坂道は何度もここに来て待っていたのだ。
もう今泉には確信があった。自分が出くわしたあの光景に坂道も囚われていたのだと。
(寂しい思いをしてたんだよな、ごめん、ごめんな…)

ここにいてもう一度あの光景を見られるのか、見てどうするのか、自分でも判然としなかった。
ただ、坂道がどんな思いでここにいたのかを感じたいと思う。

そんな自分に今泉は苦笑した。
恋は突然で、それまでの自分を保つ事もできない理不尽なものだった。
だが先刻、部室で頬に触れた坂道の手の温度を思い出していた。
他者と混じる、不思議な感覚。
混じり合ってなお美しい色をする。恋は、群青と朱に染まるこの夏空にとても似ていた。



「…っ…今泉くん……っ!!!」
泣いているんじゃないかと思ったほどだ。
激しい感情に満ちた大きな声が、その時今泉を呼んだ。坂の下の方から澱んだ空気を切り裂く。
届く、届く。走ってくる。泣き笑いの顔をして、バカみたいにペダルを回して。
日本一のクライマーがそのすべてを賭けて、二人の距離を消し去るために。

「さかみち!!?」
急ブレーキがかかる。そのかん高い音にも関わらず、呆れるような勢いで自転車はまだ登る。
止まらない。なんつー速さで回してんだよと今泉は舌をまいた。
とっさに前へ飛び出す。
速度が少し緩んだBMCにほとんどぶつかるようにして体全体でなんとか止めた。
それでも、勢い余って着地に失敗した鳥のように坂道と自転車はバタバタと暴れる。
もう面倒になって、一切合財を抱きしめた。
坂道のビンディングシューズがペダルから外れる音がする。それでやっと静かになった。

「今泉く…今泉くん……!」
「ああ、ちゃんといる。お前を抱いてんだろ。どんだけ走ったんだ、心臓バクバクいってんぞ」
「だって…だって僕、今泉くんの所に行かなくちゃって…捕まえないとって思って…っ」
「捕まったよ。どこにも行かねーよ。ムチャしやがって…オレのために」

それでなくても暑いのに。たくさん走って汗もかいているのに。
BMCに跨ったままの坂道を屈み抱きしめながら、あやすように今泉は言葉をくれる。
自分からも強く抱きついた。
どこでもいいから掴んでいないと消えてしまいそうで怖かった。
頭を撫で、背を撫でる大きな手。そのリズムに合わせて鼓動が次第にゆっくりになっていく。
ああ、ああよかった間に合ったんだ僕は…と、ほっとした坂道は涙をこぼした。
嗚咽をもらす度、波立った心をなだめようとする声が耳に優しく落ちてくる。


もつれる足を踏ん張り何とか自転車を降りると、今泉は自分のボトルを手渡してくれた。
全部飲んでいいぞ、と言いながら坂道のBMCも木にもたせかける。
少し躊躇したがそれどころではなく喉が渇いていた。
いただきます、と言って一気にあおる。どこかで補充したばかりなのか、流れ込むスポーツドリンク
はとても冷たくて、やっと人心地がついた。
それでもまだどこにも行きはしないかと心配が残り、彼を目で追う。

今泉の上には強い夕方の日差しが落ちていた。制服のシャツの白も眩しい。
暑い所にずっと立っていたくせに、彼はいつも通り清冽な空気をまとっていた。
ああ、なんて綺麗な人なんだろう、と坂道は思う。
それは容姿だけでなく彼の在り方で、胸が痛むほど自分が焦がれ求めたものだった。

「結局来ちまったのか。やっぱりそうだったんだな…」
今泉は小さく笑うと、あっさり核心に触れてきた。
もう一から十まで答え合わせをする必要もなかった。頷く。

「今泉くんも…日曜に僕の家に来ようとして、あれに出くわしちゃったんだね」
「鳴子に聞いたのか」
「うん。僕に旅行の話をしたいからって夕方そのまま自転車で家に向かったって。でも今泉くんは
あの日来なかった…」


青々と茂った葉がこすれ合い、頭上で涼しい音をたてている。さやさや、さやさやと鳴る。
それを聞きながら坂道はきちんと今泉と目を合わせ、ごめんなさいと頭を下げた。
「本当にごめん…たくさん心配も迷惑もかけて…あんな不思議な事だから言い出せなかったのも
本当だよ。でもね、僕はあっちの二人が羨ましかったんだ」
「坂道…」
「ただ羨ましがるだけで…あんな風になれたらって思うだけで、目の前にいる今泉くんを全然見て
てなかった。弱虫でダメな奴だった僕は」

ありのままの自分をさらすのは怖いことだ。好きな相手ならなおさらのこと。
『だけど、ちゃんと見て』 とでも言いたげな坂道に、お前は弱虫なんかじゃねえよと今泉は思う。
みんな同じだ。いつも正しい道は選べない。

これからもそうなんだろう。間違った道に踏み込んでは、横にいる坂道に袖を引かれる。
こっちじゃないかなと言われる。じゃあそっちに行ってみるか…と自分も頷く。
きっとそんな事の繰り返しだ。
二人にとって一番いいやり方を、辛抱づよく探し求めていく。

「オレはここの所ずっとたくさんお前のことを考えてた、坂道」
「今泉く…」
「ダメな奴だったのはオレもだ。でも今回の事が無意味だったとは思わねーし、お前はちゃんと
オレに追いついてきただろ。それが嬉しいんだ」
「…っ、今泉くんは僕に甘すぎるよ…もっと怒ってもいいのに」
「まァそこは惚れた弱みってヤツだな。隣を歩いてくれる人はお前がいいんだよ、オレは」

ぱちぱちと何度も瞬きをしてから、坂道はひー…とおかしな声を漏らし真っ赤になった。
今泉はしてやったりという顔でくっくっと笑っている。
わあもう何だろう、これも少女漫画知識!?ていうかヘンな知恵つけなくても今泉くんは元々王子
様みたいなのにーと頭を抱える。
(これ以上かっこよくなってどうすんの!?僕の心臓もたないよ!死んじゃうよ!)



だが、いつの間にか今泉の表情はすっと改まっていた。手をかざし、眩しくて直視しづらい坂の
てっぺんをきつく見据えている。
レースの時のような緊張が彼を取り巻くのを感じた。7時になっていた。

「もっと話をしたいとこだが…来たぞ、坂道」
「うん」
「しかし一度自分の目で見てるとはいえ、信じらんねーな。何だよあれ」
「そう?アニメだとこれぐらいよくあるけど」
「二次元と一緒にすんな。なんでそんなに柔軟なんだお前は」

呆れた顔をしながらも今泉が手を差し伸べてきた。
「ちょっと心細いからな、繋いでくれ」と言われ、引っ込められては大変と坂道は大急ぎで指を
絡め、ぎゅっと握った。大丈夫だよ!と請け合う。
触れた掌が熱くて、それが嬉しかった。顔を見ていなくても今泉はここにいる。


守るように枝を広げる樹の下で、夏服の二人は、蒸した空気とキンと冴えた空気とが接触する
瞬間に息を詰めた。
近づいてくる。向こう側の二人が。
冬が。
時間も空間も季節もぜんぶ無視して、押し寄せるようにここへやって来る。

いつもと同じに夕暮れの光はじりじりと重く背中を灼いていた。それはハッキリと感じる。
なのに薄く紗のかかった冷たい空気は、真夏を徐々に浸食していった。

ようやく二人の姿が目視できる程に近づき、見るのはこれが二度目の今泉はSCOTTが現在乗っ
ている物とタイプが違うことに気づく。
そして見慣れないネイビーのコート。本物の超常現象だ。アニメだとこんなのよくあるよで済ま
せる坂道は大物すぎる。

その時だった。思いもよらぬ異変が起こったのは。

【わざわざ送って来なくてもよかったんだぞ。寒いんだろうが】
【平気だよ。ちょっとだけ…坂の下までだから】
【ここまた歩いて登るのかよ】
【うん、僕は坂が好きだから。今泉くんとおんなじぐらい好きかな】
コート姿の今泉が納得いかないという風に眉をあげ、坂道の額をぐりぐりやった。
あはは、痛いよゴメン今泉くんが一番!ホントだよ〜と寒さで鼻の頭を赤くした坂道が笑う。

白い息と一緒に声が零れていた。驚きのあまり坂道と今泉は同時にきつく手を握り合った。
「い、今泉くん痛い……ていうか、声っ!声が聞こえてるよ!」
「お前の時も聞こえてなかったのか」
「うん…今泉くんの時もなんだね?どうして今日だけこんな…」
「もしかすると…オレたち二人がこっちに揃ったからか」

【寒いと思ったら…!見て、雪だよ今泉くん!初雪!】
坂道のはしゃいだ声。
二人が見上げる雲間から、白いものがふわふわと落ちてくる。
曇天ではあったが幾筋か光が差していて、舞い飛ぶ雪はきらきら光った。
落下する寸前に、風にのってふわりとまた浮上する。
視界を埋め尽くす花びら雪。坂道と今泉の髪やコートにも、それは優しくまとわりついた。

夏に立つ二人は、胸が詰まるような思いでそれを見ていた。
雪が降っていたのか…と初めて腑に落ちる。あちらの坂道が空を仰いで何か言っていたのは
これだったのだ。あんなに楽しげだったのも。
ああきっと今日が最後なんだ。何の根拠もなかったが思った。
同じ時間にここに来ても、もう交差する事はない。だから何もかもを目に焼きつけておきたい。


【綺麗だね…!やっぱり今泉くん送ってきて良かったよ】
【なあ、坂道。もしかして…あれって今じゃねーのか】
【え?何のこと】
きょとんとした坂道に今泉が自分のネイビーのコートをとんとんと指さす。しばし考え込んでいた
が、やがてあっ!そうか!と声をあげた。
自分がいる場所を確認するようにあたりを見廻し、ほうっ…と小さくため息をつく。

【今泉くんのそのコート、実物を見た時はやっぱりって思いながらもビックリしたけど。あれが今
だっていうのは、言われてみないと案外分かんないもんだね…】
【というわけだからな、するぞ】
【えっ、ちょ、ちょっと待って!やっぱりここでキスしないとダメなの!?】
【当たり前だ。あっちが焦るぐらいのをオレらがしてやんねーと、過去が変わる】
【過去が変わる……かぁ】

不思議だね…と坂道が言った。物語だとだいたいは過去に行った人が何かする事で未来が変わ
るっていうのが多いんだけどねと。
【オレらの場合は、未来がちゃんとしねーとそれを見た過去が変わって】
【その過去が変わることで、今の僕らも変わっちゃうかもしれないんだよね…】
【まあ、全部推測なんだけどな…】
【でも、きっと何かの意味はあるんだよ。僕はそう信じてるんだ】
【……オレもだよ】


今泉の指が色づいた坂道の頬を撫でた。どちらの口元も幸せそうな笑みで緩む。
重みがまるでない羽根のような雪。彼らの髪に肩に、白くしんしんと白く降り積もる。
【好きだよ】
【好きだ】
片方は背を屈め、片方は背伸びをして距離をなくした。柔らかな愛しげな口づけ。
冷え切った中で唯一の温もりを分かち合うように、離れてはまた触れるを繰り返す。

夏側の二人の目にじわりと熱い涙がこみあげた。
あの光景をただ羨ましいと見ていた事が、もう過去になる。
あれは、あのキスは、最初からひとつ残らず自分たちのためのものだったのだ。
美しい、きらきら光る、未来からの贈り物だった。
坂道が小さく嗚咽を漏らす。今泉も空いた方の手で目元を乱暴にぬぐった。

やがてコート姿の今泉は、坂道の頭に薄く乗った雪を見て笑いながら手で払ってやった。
それでもまだ落ちてくる。雪消し雪のよう。絶えることなく。
そして二人はまっすぐにこちらを見た。
背後の木を目印にして、過去の自分達が立っていた場所に当たりをつけているのだろう。

でも目が合ったように思った。錯覚でもよかった。
万感の思いを込めて、過去と未来、真夏と真冬はそれぞれの笑顔で見つめ合う。
これが最後。

もう何も言わず、冬の二人は肩を並べ自転車を引き、またゆるゆると歩き出した。
坂を下ってゆく。その後ろ姿を真白の雪が覆い隠す。どんどんとぼやけてしまう。
坂道はすがるように片手を伸ばした。繋いだ手を今泉がきつく握る。どこにも行かせないと言う
ように。
まだ遠くには二人の姿が見えている、凍りつくような空気も感じる。なのに離れてゆくだけ。

夢のようにすべては溶けていった。
今度は夏が冬を飲み込んで、所有権を奪い返す。ジジジ…と蝉の鳴き声が耳朶を打った。
気がつけば、そこにまた二人きりになっていた。



茜の雲は今なお長く低く横たわっている。だが空には群青と薄墨が降りて来ようとしていた。
夜の気配が濃さを増す時刻。
急がなくていいからもう少しだけ待って、と言いたくなるような落日の風景だった。

泣き濡れた目をした二人は、だが妙にスッキリした顔つきでお互いを見ていた。
知らぬ間に繋いだ手は放していたが、まだ掌に感触は残っている。

これが自分達の時間だ。早送りもスキップもできない。
奇跡のように垣間見た未来はとても美しかった。けれど。
(今、君といるこの瞬間を、僕は何とも引き換えたくなんかない)

「……今泉くん」
「うん?」
「僕ね、やっと分かったんだ。向こうの僕らはすごく仲良くて幸せそうだったよね…あんな風になれ
たらって正直羨んでた。でも、そんなのはここで終わりにする」
「坂道…」
「今泉くんと一緒に歩いていけるなら、僕はあれと同じ未来じゃなくたっていいよ」

坂道が笑った。眼鏡の下、大きくてよく光る目に今泉だけを映していた。
恋は困難そのものだ。半分ぐらいは大変な事で占められているのかもしれない。
それでもこんな歓喜がある。
知ってしまえば、なかった頃には戻れない。
ボロボロになっても、カッコ悪くても、最後に好きな人が笑えばそれだけでいいなんて思うのだ。

「オレもな、ひとつだけお前に言っときたい事があるんだ」
「うん…なんでも言って」
「もう二度と余所見すんなよ、坂道」
「……いまいずみ、くん…」
「お前のオレは、こっちだろうが」

今泉の背後に広がる群青の空。よく似た色の瞳の中に愛しいをちゃんと見つけられた。
胸に沁み入る。想いが溢れる。
うん、うん…!と何度も頷きながら、坂道は彼の剥き出しの腕に躊躇わず手をかけた。
半袖だから遮るものがない。生々しくすらあるその感触を、離したくないと強く思った。

立っていると自分たちには身長差がありすぎるんだな、と気づく。
今泉は片手で坂道の頬に触りながら、長身をできるだけ屈めた。坂道も腕にすがりながら、
ちょうどいい位置になるように背伸びをする。

お互いの吐息まで感じるぐらいに近づき、視線を絡めた。心臓が煩く鳴っている。
それなのにひどく安心してもいて、そのチグハグさがおかしかった。

ギリギリの所で目を閉じ、相手を引く。
柔らかい感触がして、体にも心にもじんと痺れが走った。何もかも浮きあがるようで、どうして
いいのか分からない。
目尻に涙がにじむ。初めて触れる互いの唇の感じ、温度。気持ちいいで頭がいっぱいだ。

ただくっつけていただけの唇を擦り合わせ、柔らかく吸うともう止まらなくなった。
上手なやり方なんてどっちも分からない。
でも何度も何度も触れ合わせ、軽く食まれ、くらくらと眩暈を起こしながら、ちゅ、ちゅ、と可愛い
音をたてて数えきれないキスをする。頬が火照る。
隙間から甘い声が漏れて少し恥ずかしかった。でも離れたら今泉にもっととねだられた。
それにたまらない思いがして、坂道の方からもまた唇を押しあてる。


「……なんか、甘いな。お前なんか食ったか…?」
体温まで伝わるような至近距離で今泉が自分の唇をぺロリと舐めた。その仕草が色っぽくてもう
ドキドキどころの騒ぎではない。
「えっ…あっ…あの鳴子くんとさっきドーナツ食べてたから…」
「ああ、苺のやつな。お前好きだもんなあれ」

えええ…そんなとこまで分かっちゃったんだ!?と申し訳ない心持ちになった坂道は、「ゴメン、
今度する時はちゃんと歯みがくから!」と言った。途端に今泉が笑い出す。
「あのな、キスする前に必ず歯磨きする気かよ。いらねーよ」
「え、でも…」
「バカ、美味いって言ってんだよ」
頬にもキスを落とされた。一度してしまうと今まで何でしなかったんだろうと不思議になる位、親密
で愛しさが伝わる行為だ。
嬉しい嬉しいという顔で今泉を見上げたら、同じように微笑んでいて、ああなんか止まんないなと
思う。



色々と我慢をしてようやっと身を離した時には、もうかなり暗くなってきていた。
自転車を起こして二台とも道路へと引き出す。思案顔の今泉に坂道は思いきって言った。
「今泉くん、とりあえず僕ん家に来ない?なんか…ここで別れるの寂しいし…」
「そうだな。今行くと家の人にちょっと迷惑かもしんねーけど、オレもここで2回も回れ右すんのは
どうなんだって気もするしな」

「それでその…今聞いてもいいかな。旅行のことなんだけど」
「ああ、本当はオレから言いたかったんだがな。ゆっくりでいいから考えてくれねーか坂道」
「考えなくていいよ。僕行くよ。行きたい!」
薄闇の中で必死に言い募られて、今泉は喜ぶべきか困るべきか一瞬判断に迷った。
ちゃんと意味分かって言ってんのかこいつ、と心配になる。

「いや、よく考えろって。お前が嫌がることを無理強いする気はねーけど、オレに下心がどっさり
あるのは認識してくれ」
関係を先に進めたいんだと匂わせる。さすがに恥ずかしがるかと思っていた。だが坂道は何故か
むうっとした表情になり、今泉をまともに見返してくる。
「あのね今泉くん。僕にだって下心ぐらいあるんだよ」

重々しい口調に呆気にとられる。そこから急激に笑いが込み上げてきた。
どうやっても嬉しげに緩む口元を手で覆い隠す今泉に、坂道の拳が抗議するようにゴツンと当て
られた。
今泉くんのバカと小さく呟くから、悪かったじゃあ一緒に行こうな約束したぞとゴリゴリ念を押して
おく。もう絶対に撤回させたりしない。



そうしてそれぞれの自転車を引きながら、坂道と今泉はゆっくりとしたテンポで歩きだした。
小野田家のある方へ、残り半分ほどの斜度のきつい坂を並んで登ってゆく。

不思議なものだった。
冬の二人が去ったのとは逆に向かっていたが、そもそも時間は一方通行であり、自分たちも未来
へ未来へと進んでいる。
自転車のライトだけが頼りなく前方を照らしてくれていた。隣には好きな人。

(ありがとう、さよなら)
二人ともが胸の内で、美しかった未来に別れを告げた。
今も憧れる気持ちがないと言ったら嘘になる。
でももっといいものを見つけ出せる、そんな予感もどこかにあった。

分からなくていいのだ、先の事なんか何も。
仰いだ空には真夏の星座。湿った空気、唇に残る温もり、どこかで微かに虫の声がする。

そんなものを降り積もらせて、自分たちは恋をしてゆく。
雪みたいに溶けて消えたりしないものを二人で作ろう。
そして、いつか本当にその時が来たら、過去の自分たちに今を見せてあげようと思う。


小野田家の明かりが見えた。
指を絡めぎゅっと握ると、笑い合い、恋人たちは息をきらして頂上を目指した。