彼を特別な意味で好きなのだと気づいた時、ただただ嬉しかった事を坂道は覚えている。
男同士というのは普通ではないだろうと、それはさすがに分かっていた。
でも友達もいなかった自分が誰かに恋をしたというのは、何かとても素晴らしい事のように思えた。

それが初めて出来た友達である今泉なのは、当然の帰結だった。
彼は優しくて強くてまっすぐで誰が見てもかっこいい人で、なのにこんな自分を出会った時から気に
かけてくれた。
口数は多くないし、ぶっきらぼうに見えるかもしれない。だが、友達として仲間として大事にされて
いると感じ、想いが伝わらなくても毎日充分に幸せだった。

この人が自分に走れと言わなかったら、きっと何も始まらなかった。
心にはいつも、大好きと共にありがとうがある。
だから今泉の信頼に応え、彼を大切にして、一緒の時間を過ごしていくんだと決めていた。
自分の気持ちは絶対に秘めているつもりだった。困らせるなんてもっての他だ。
一人でそっと彼を想っていよう。もし今泉に好きな人が出来たら、きっと胸が張り裂けそうなぐらい
切ないだろうけど、それでもいいと思っていたのだ……



網戸をくぐった夏の夜風が、背中に感じられ涼しい。
自室の机にアルバムを広げて、坂道は懐かしそうに目を細め、見入っていた。
携帯にもたくさん写真のデータは入っているが、友達が出来てからはプリントアウトしてアルバム
を作るようになった。かつての自分ならありえないような事だ。
今はすぐに過去になる。だけど楽しかった思い出はいつも坂道の背中を押してくれる。

そこに 『幸せな思い出』 が加わったのは、この春の事だった。
まるで奇跡みたいに、彼が自分と同じ想いを抱いていると気がついたあの日。
こんな事があるんだと思った。今泉が嬉しそうに笑う顔に見惚れて、自分はおかしな泣き笑いに
なってしまった。

僕が今泉くんを好きだってことが、彼を幸せにするなんて。
宝くじが当たるよりもっとありえない告白が、だけどこの耳を震わせた。
それは、今までに起こった良い事全部と引き換えてもいいと本気で思うような瞬間だった。
『大っぴらにはできねーだろうけど…一緒にいたい。好きだ。オレはもうずっとそんな風にお前を
思って来たんだ坂道』

その日から一緒に恋に踏み出した。とまどったり自信がなかったりで迷惑もかけたけど、こんな
人だったんだと驚くぐらい、今泉は我慢強くて優しかった。
付き合っていくらも経たないうちに来た彼の誕生日に、峰ヶ山の山頂で抱きしめてもらった時は、
ああ僕らはこうやって友達とは違う意味で近づいていくのかな…と嬉しかった。


「……そこまでは順調すぎて怖いぐらいだったんだけどなあ…」
こっそり二人で部室で撮った写真を指先で撫でながら、坂道は呟いた。

二人きりの写真、あんまり持ってないから…とお願いすると、今泉はなんだそんな事はやく言えよ
と笑い、それからはそんな写真も増えている。
密やかに、だが確実に 『両想い』 を積み重ねていっているように思う。
片想いでいいと諦めていた数カ月前を振り返れば、幸せすぎて死にそうなぐらいのはずだ。

(なのに僕は、欲張りになった…)
タイミングも悪かった。すぐにインハイ直近の時期になってしまった。
毎日ひたすら練習練習の日々。休みの日にはちゃんと休まないといけない。
今泉とはクラスも部活も同じで共にすごせる時間は多いのだが、付き合っている同士の睦まじい
時間などとても作れる状況ではなかった。
以前と同じ、仲のいい友達で仲間。そこへ戻ってしまった気がした。

寂しいな、ちょっとでいいから今泉くんに触りたいな。
そんな事を考えている自分にある日気づいてぎょっとした。罪悪感まで湧いてきた。

今年の今泉は総北のエースだ。重い重い責任が彼の肩にのしかかる。
自分だってそうだ。優勝は皆でしたものだけど、前大会の総合優勝者というプレッシャーに耐えな
ければならない。クライマーとしての役目もある。
ちょっとでも強くなっておかなければ。恋だの愛だの言ってる場合じゃない。

今泉に迷惑をかけるのはダメだ。集中させてあげないと。
自転車に乗って、まっすぐに前を見て先頭を走る彼の事がこんなにも好きだから。
ぎゅっと押し潰した心は、だが本当はか細く悲鳴をあげていた。
でも気づかないふりをした。
『仕方がない、今は仕方ないんだ…でもやっぱり寂しいよ…』



去年の冬に撮った今泉の写真をやっと見つけた。セロファンの上からまた触れる。坂道は愛し
そうに微笑んだ。
(あれは…僕の言えない気持ちが呼び寄せちゃったものなのかな…)

写真の中の今泉は、制服の上にカーキ色のコートを羽織っている。
これもかっこよかったけど、あっちの今泉くんが着てたのとは違うんだよな…と考えを巡らす。
シンプルだが遠目に見ても上等そうだったネイビーのコート。まだ実物を見たことがない。

今日は今泉のコートにも注目していたから、結構観察できた。
手首のストラップ、肩章、ベルト。背の高い彼にちょうどいい丈で、大人っぽくてすごくかっこいい
と思った。
服の事はよく分からないけど、その辺に売ってるような物じゃない気がする。
今泉くんのお父さんは貿易のお仕事をしてるらしいから、外国のお土産かなぁ…と想像した。


あの光景が妄想じゃないなら、自分は少し未来の光景をかいま見ている事になる。
高校の制服を着ていた。冬の服装をしていた。
という事はこの冬か、さらに一年先の冬か、どちらかなのだろう。
(今年の冬に、僕らがあんな風になれてるとはとても思えないけど…)
頬杖をつく。はあ…とため息が漏れた。瞼の裏にあちら側の二人の姿がフラッシュバックする。

確かに、あれを最初に見た時は腰を抜かすぐらい驚いた。
まして自分のキスシーンを最前列で拝む羽目になったのだ。呆然自失もいいところだった。

(でも、怖いとは全然思わなかったんだよなあ…)
だいたいアレは僕と今泉くんだし。超常現象かもしれないけど幽霊でも異星人でもないし…と坂道
はやけに柔軟な考え方をした。
アニメやラノベや漫画には、すこし不思議が付き物だ。
自分が自分に害をなすわけがなし、オタクとしての実績がやけにすんなり現状を受け入れさせた。


偶然、あの光景に行き合ったのは月曜の帰り道だった。
翌日から4日連続で、今泉と鳴子を振り切ってまであそこで待った。
昨日は間に合わなかったから、実際見られたのは合計4回ということになる。

最初はもっとじっくり見たいというただの好奇心だった。
だけど火曜の夜になると 『キスするってどんな感じだろ…』 『今泉くんはしたいって思ってくれた事
あるのかな…』 とぐるぐるし始めた。
一人で不埒な事を考える自分が恥ずかしくて、翌日から今泉の顔をまともに見られなくなった。
顔を上げたら絶対今泉の形のいい唇を凝視してしまう。悶死しそうだった。
でも本当に本当は、キスしてみたいと思っていた。

(あんな風にどっちもが自然に…笑いながら触れ合えるようになったら)
(僕はどんなに嬉しいだろう)

羨ましいと思った。何もしていない自分たちに焦りが生まれた。
どうしたらあんなにしっくりと似合って見えるようになるのだろう。
あっちの自分は何で気軽に今泉に触れるんだろう?
知りたかった。教えてほしかった。たくさん見つめれば、何か分かるかもしれないと思った。
だがそのうちに気づいてしまったのだ。
あれは未来に起こりうる可能性のひとつにすぎないのかもしれない。
自分たちが行動しなければ、あんな未来は手に入らないのかもしれないという事に…



その時、携帯が部屋の空気を無遠慮に震わせた。
はっとした坂道はベッドの上に放り出していたそれに急いで手を伸ばす。予感がした。

「今泉くんだ…!」
メールひとつでぶわっと気持ちが高揚する。色んなことが上手くいかなくたって、好きで好きで
たまらない人なのだ。
だから迷って苦しんでいる。今だって右も左も分からないままだ。だけど…それでも自分は。
両手で持った携帯の画面にメールが表示される。

『今日は無理に問いつめて悪かった。オレも焦りすぎてた。
だけど心配じゃないって言ったら嘘になるから、オレとした約束は守ってくれよ』

それは、彼らしい短く簡潔なメールだった。
だがそこに込められた思いやりの深さに、坂道の目は知らずじわっと潤んでいた。
携帯を胸に押し付ける。たった今、自分だけに届いた言葉を抱きしめる。
「ご…ごめんなさ……ごめん…今泉く……」
涙が止まらない。メガネに手を突っ込んでぬぐうけれど、後から後から溢れ出す。
伝えもせずに、ただただ降り積もらせた彼への想い。

『どうにもならなくなったらオレに絶対言うって約束しろ。それをのまないんなら、離さない』
この腕を掴み、そう言った時の今泉の緊張した表情とまっすぐな眼差しを思った。
いつもは坂道の気持ちを何より尊重する彼が、あの時あれほど強く出たのは。
……それだけ不安にさせていたからだ。
今も優しいあの人は、眠れぬ夜を過ごしているのかもしれない。


もうこんな事はやめよう。今日で終わりにするんだ。
ぐいっと涙をぬぐった坂道は決断した。
もう充分だ。毎日通ったところで何が変わるわけでもない。ただの自分のわがまま勝手。

明日から土日だった。
土曜はレギュラーのみの練習があるけど昼間にやるから帰宅時間は平日とは違うし、日曜は完全
にオフ。区切りにするにはいいタイミングだ。
何が起きていたのかを話さず、ただおかしな行動をやめるだけで今泉や鳴子が納得するかどうか
は分からなかった。
それでも何とか言い逃れることはできるだろう。


「メールの返事、今泉くんにしないと…!」
携帯を持ち直す。その時、ズラリと並ぶ自慢のフィギュアの中でひと際目立つラブ☆ヒメの湖鳥
がふと目にとまった。

『メールじゃ本当の気持ちは伝わらないよ!』
いつも聴いている歌の中のセリフ。彼女の笑顔につられるように坂道もふわりと笑う。
そっか、そうだった。湖鳥はいつもホントにいい事を言う。たくさん失敗もするけれど、めげずに
まっすぐに恋をする彼女にいつだって憧れていた。
(自分が誰かに恋するとか、想像したこともなかったんだけど)

大きく深呼吸してから、今泉をコールする。
何を言おう。あっ、まずはメールありがとうって言わないと!とドキドキしている坂道の心臓を更に
ひっくり返すような勢いで、今泉が電話に出た。

「坂道…!?」
「い、い……いまいずみくんっ…?」
携帯にかけてるんだから目指す相手が出るのは当然だ。なのに何でお互いの名を呼び合って
いるんだか分からない。
分からないけど、でも嬉しい。
あはは…と坂道が思わず笑ってしまうと、向こうで今泉も苦笑したようだった。

肩の力がすうっと抜ける。
あのねメールありがとう、と坂道の気持ちはやっと声になって今泉へとひとひら伝わった。





日曜の夕方。ズッシリと重たい荷物を背負った今泉は、相変わらずの暑さの中、愛車のSCOTT
を軽快に走らせていた。

借りた漫画を返しに行こうとしていたのだ。
今日は練習が完全オフだしどうかと思ったが、幸い鳴子は夜には出かけるが今は家にいるようだ。
学校で返す事もできたが、この重さと人目をはばかる中身を思うと直接返却したかった。

(しかしまァ、予想以上に学習はできたよな。オレもこの漫画、ネットで買うか…)
元々漫画など大して読まないのに、女の子向けというのは結構ハードルが高かった。
しかし読み始めてみると案外面白かったのだ。
オーソドックスに展開する恋や友情や様々なイベント。多少現実離れした所はあっても、各キャラ
クターの心情に共感もできた。
やっぱ自分も付き合ってる奴がいるからか…?とくすぐったくもなったのだが。


主人公を好きになる男は、かっこよくて爽やかで優しくて気さくで人気者なのにヒロインに一途だ
という、盛り沢山なキャラだった。
女はこんな男が理想なのかよ、ありえねーだろと突っ込まずにはいられないレベルだ。

だが彼の言動を見ているうちに、自分の反省すべき点がどんどんあぶり出されてきたような気が
した。
『この男……帰宅部にしてもなんてマメなんだよ。すげーな』
自転車と自転車に関する物しかない自室で、少女漫画に取り囲まれた今泉は、しきりにブツブツ
言っている自分にも気づかずひたすら読み耽った。

とにかく彼は出会ったその日からヒロインが好きだったわけだが、その後もひっこみ思案な彼女
をさりげなく励ましたかと思えば、クラス中の見ている前でかばったりもする。
クラス委員や先生の頼まれ事も、彼女が好きでやっている花壇の世話も、一緒になれるありと
あらゆるチャンスを無駄にはしなかった。

そしてまだ付き合ってもいないのに、友達も巻き込んでどんなささいなイベントにも必ず誘う。
もうむしろ、無理やり何でもイベントにしているように見えなくもなかったが、その心意気は立派
だと思った。
そんな彼の努力はささやかながらも報われる。
今まで友達もいなかった彼女は、楽しい事がある度にとても嬉しそうに笑ってくれるのだ…


それは、出会ってからの坂道の事を今泉に思い起こさせた。
『僕は友達いないから!』 
あの裏門坂の競争の最後、そう叫んだ泣きそうな顔を今でもはっきりと覚えている。
何故だかひどくもやもやした。なんかアイツにもうああいう事言わせたくねーな…と思った。

自分は別に友達がいないのを何とも思わなかったが、坂道はそれが悲しいのだ。
悲しいのはよくない。いや何でだ、知り合ったばかりの奴だろうが。だけど幾ら考えてもやっぱり
いやだった。
(どうやったら、アイツ笑うかな…)

柄でもないと思いながら、知り合いにアニ研の勧誘をしてみたり、坂道を自転車競技部に誘って
みたりもした。あまり効果はなかったが、あの時の自分には精一杯の行動だった。
全然うまくねーな、と我ながら呆れた。
だがそれがちゃんと実を結んでいたのだと今泉が知ったのは、もっとずっと後の事だった。

部活終わりに歩きながら、他愛もなく二人でぽつぽつと話をしていた時。
あれはもう夏の終わり頃だっただろうか…

『小野田、自転車楽しいか?』
『う…うん!すっごく楽しいよ!僕ね、ずっと自分に向いてる事なんてひとつもないと思ってたん
だ…でも坂を登るのは、僕に向いててしかも好きなことなんだよね!』
『そうか…よかったな』

『今泉くんのおかげだよ』
『オレは別に何もしてねーだろ。自転車部に入るように後押ししたのは鳴子なんだし』
『そんなことないよ。だって…だって、いろんなことを怖がってぎゅうぎゅうに縮こまってた僕に
最初に優しくしてくれたのは今泉くんだったんだから!』

青空に美しく映える、向日葵のような黄色。総北のレギュラージャージ。
それを着た坂道が振り向いて笑った。ありがとう、ありがとう、そんな風に笑った。

その時、やっと気づいたのだ。ああ、オレはこれが見たかったんだと。
坂道に対しては、友情も尊敬もあるから分からなくなっていた。

たったひと色。泣けるほど胸に沁みたのは、愛しさ。
好きな人が幸せそうに笑う顔が見たいというその願いが、地面に車輪をつけて走るしか能がない
自分を時にやみくもに跳躍させてきた。
始まりの場所から、この想いは胸に息づいていた。

(おまえが好きだよ)
まだ知らなかった。坂道が自分への気持ちを押し隠していたことも。
想いが通じ合うなんて幸福がこの世にあることも知らぬまま、二人はただ笑い合っていた…



チャイムが規則正しく二度鳴った。カーッ!あいつチャイムの鳴らし方までスカシとんな!と意味
不明のいちゃもんをつけながらサンダルをつっかけ、ドアを開ける。
もわっと蒸した空気が押し寄せてきて、鳴子はクーラーの効いた部屋に戻りたくなった。
暑い外を走ってきた今泉の方が何故か涼しげに見えるのにも妙な理不尽を感じる。

「おう、御苦労さん。返してくんのえらい早かったな。ホンマに読んだんかいな」
「当たり前だ。3回読み直した」

漫画の入った袋を少し開き、「家にあったもんで悪いが礼だ。妹に渡しといてくれ」と今泉が言う
ので中をのぞけば、きれいなラッピングの箱が見えていた。どうやら菓子らしい。
おおきにな、喜ぶわと呟くと、鳴子は腕組みしながら門扉にもたれ今泉を仔細に観察した。
ふーん、全く効果がなかったワケでもないんやなとほくそ笑む。
(腹の据わった顔しとるわ)


「この漫画のヒロインの子な、ちょっと小野田くんと性格似とらんかったか?」
「ああ、おとなしめだけど一生懸命なとことか色々な…」
「お、スカシくん分かっとるやーん!ちっとは参考になったって事かいな!?」
大仰に肩を叩けば今泉はむっとしたような顔になったが、話をする気はあるらしく、塀に自転車
をもたせかける。
夕空を見上げ、考え考えしながらやがて言った。

「そうだな…オレは別に小野田をないがしろにするつもりはなかったんだ。でも結果的にそうなっ
てたって事に気づかされた」
「あー…そこんとこか」
「インハイが近づいて、時間も余裕もなくなって…全部終わればまた付き合ってるぽい事もできる
ようになるだろ今は仕方ないって思ってたんだな」

「アカン!ほんまアカン奴っちゃな〜そういうのを “釣った魚にエサをやらん” 言うねんでスカシ。
振られる原因NO.1や」
「だろうな。ちゃんと考えたら分かる」
「小野田くんも女の子とちゃうんやし、何もかんもお前任せいうのもアレやけどな。お前からそう
いうオーラ出しとったら、あの遠慮しいの性格じゃなんも言えんようになるわなー」

本当はそこまでひどいと思っていなかったが、鳴子はわざと手厳しく言い放った。
自転車で忙しい自分たちに時間がない事ぐらい、今泉には最初から分かっていたはずだ。
(そんでも、お前は小野田くんの手をとったんやろうが)
自分で決断しといて両立できんとかアスリートとちゃうで、と思う。
今泉も一言も反論しなかった。
まあ自分のダメなところと向き合ってすぐに修正してくる辺り、見込みがないこともない。


「で?なんか考えたんか?とりあえずは地道に小野田くんとの時間を作ってくんかいな」
「勿論、それはやる。マメさが大事なのは学んだからな。ただ小野田に寂しい思いをさせた分、埋
め合わせに何か大きいイベントが必要だと思ってな」
「イベント?夏やし、花火大会でも行くんか?」
「いや。インハイが終わったら、二人で旅行に行こうって誘うつもりだ」

今泉の爆弾発言が鳴子の脳に浸透するまで、しばしの時間を費やした。
腹が立つぐらい高い位置にある今泉の顔をぽかーんと見つめる。
旅行…二人で旅行て…それってつまりそういう事やんな…と思い至ると、何故か鳴子が動揺した。

「りょっ…旅行てスカシ…友達同士とちゃうねんで!?」
「当たり前だ。小野田はオレの友達でもあるが、この場合は恋人だ」
「いやいや分かっとるけどな!だーもーお前なんでそんな極端から極端に走るねん!?恋人と
旅行行くゆうたらフツーは…!」
「まあそろそろ小野田にもオレに下心がある事ぐらいは認識してもらわねーとな」

淡々とした今泉の態度と言っている内容がチグハグで、鳴子は下心て…とおうむ返しに呟いた。
確かに男女の高校生カップルなら、親に嘘をつきでもしない限り二人で旅行など不可能だろう。
だが今泉と坂道なら仲のいい友達同士が泊りで遊びに行くという図式になる。
コイツ案外、頭回るんやな…と変に感心した。

「9月に祝日3つ続くとこあるだろ。今年は土日も加えて5連休なんだ。うちの家が持ってる別荘
みたいなとこに行けば、二人きりになれていいかと思ってな」
「別荘!!!ていうか、具体的すぎてどっからツッコんでええかも分からんわ!」
「周り、なんにもない所だぞ」
「そういう事を言うとるんとちゃうわアホ!」

自分がこれだけ動揺しているのだ。小野田くんが聞いたら知恵熱出して寝込むかもしれんで…
と鳴子は思ったが、今泉も必死なのは分かっていた。
(喜ばしたいねんなあ…こいつ、小野田くんを)


話を終えたつもりなのか、今泉はSCOTTを引き起こすと慣れた動作で跨った。
ジャージではなく私服姿だが、ヘルメットとグローブを手早く装着する。
「今から小野田んとこ行ってくる」
「今から!?まさか旅行の話しに行くんかいな!?」
「今日できる事を明日に伸ばす必要ねーだろ。それに学校で言うより会いに行った方がアイツ喜ぶ
に決まってる」
「スカシおまえ…少女漫画からどんだけの事を吸収しとるねん…」

なんかワイ、いらん知恵つけてもうたかー?とガリガリ頭をかいていると、ふいに今泉が「昨日の
小野田な、ちょっと元気になったように見えなかったか」と訊いてきた。
確かに、と頷く。
昨日はレギュラーだけで昼間に練習をしたが、久しぶりに坂道はニコニコと明るく、今泉の顔も
ちゃんと見て話をしていた。

「そうやな…あとなスカシ」
「うん?」
「これはただのワイの勘やけど…小野田くん昨日はどこにも行かんかったんとちゃうか」
「……ああ。いつもと帰る時間ちがったから確信はねーけどな…オレもそうならいいと思ってる」
「結局、小野田くん何を隠しとったんやろな」
「さあな。言ってくれたら一番いいが、分からないままかもしんねーな…」


じゃあなと一言残し、今泉はスタートした。
玄関先に立つ鳴子の耳にはジワジワと蝉の声が届いている。
明日になったら小野田くんの悩みは別のモンに変わってそうやな…と思ったが、幸せな悩みなら
それでええんかという気もした。
相談に乗るにしても、自分もその方がまだツッコミ甲斐がある。
坂道もきっと喜ぶだろう。最終的にはだが。
(小野田くん、ほんまアホみたいに今泉のこと好きやからなあ)

「あークッソ、なんかワイも好きな子欲しなってくるわ…どないしてくれんねんアイツら!」
ポケットに手をつっこみボヤく。こんな時、一人身は結構侘しい。
だが不思議と安心もした鳴子は、さあこっからやで踏ん張りや…と小さなエールを二人へ向けて
高く飛ばしてやった。




自転車はいつも自分の思いを反映する。今も急ぐ必要はないのに今泉を乗せて、滑るように速く
速く進んだ。
坂道が家にいるかを確認する気は最初からなかった。
予告なんかしたらビックリしてもらえない。居なかったらまた行けばいいだけの話だ。

時間なんかひねり出せばよかった。5分でも10分でも。
学校が無理なら会いに行くべきだったのだ。
今泉の常識的な部分は、そろそろ夕飯時だし家に行くには迷惑な時間だろうなとは思っている。
だが男同士の友達なんてのは、もっと遠慮も何もなく互いの家を出入りするんじゃないのか。
その辺の利点をどんどん活用すべきだった。

そんな時間を作っていれば、今隠している事だって坂道は打ち明けてくれたかもしれない。
自分が思わせてしまったのだ。 『今泉くんに迷惑かけちゃダメだ』 と。
まさに恋人失格。まだ振られてないのが不思議なぐらいだなと今泉は苦く考える。
だが今なら手遅れではないはずだ。

自分が突然現れて、秋に二人で旅行に行こうと告げたら、坂道はどんな顔をするだろう。
(驚いて、慌てて、困って、何から言えばいいか分からないって風にオレを見て…)
それでも最後は笑ってくれるだろうか。
想像すると自分でもどうかと思うほど心が浮き、口元が緩んだ。
時間は多少あくにせよ、約束をすればお互いそれを思ってずっとドキドキしていられる。
それはなかなかいいと思う。


(あと、オレがキスとかそれ以上の事もしたがってるってのは思いきって伝えねーとな、坂道に…)
すぐに実現するかとか、旅行の時に事に及べるかとか、この際それは二の次だ。
ただ、好きだから。自分がそうしたいと思ってるのを知ってほしい。
どこかで踏み出さないといけない訳だし、坂道もキスぐらいしてみたいと思った事あるだろあって
くれよと今泉は念じる。

(オレはチャンスがあれば今すぐでもしたいけどな)
あの漫画でも付き合うようになった二人が、手を繋ぎたいとかキスしてみたいとか思うようになり、
だが言い出せずにもだもだする話があった。
読者目線だと両想いのくせに何やってんだと思うが、自分に置き換えてみると相手があるだけに
やっぱり躊躇する。

難しいよな、とは思う。相手の気持ちを全部知ることなんかできない。
でも触りたい。肌にも心にも。
ハンドルから離した己の手指をじっと見た。そこにあるのは劣情だけだろうか。


暑い中を疾走してきたせいでシャツが汗で貼りついている。
だが、小野田家前に長く伸びる坂を見上げると、今泉は自分に合ったリズムで思い切りよく踏み
込んでいった。
まさに激坂だ。斜度の上がり方がハンパない。
照りつける西日をまともに浴びるが、両側に生えた木々がさやさや葉ずれをたてていて、一服の
清涼感を与えてくれる。

『もっと子供の頃にね、クラスメイトがここを競争しながら登って遊びに来てくれてた時もあったん
だ…だけどキツくて、すぐに飽きちゃって』
『来なくなったのか』
『うん…友達ができるかなってちょっと期待したんだけど』
『今はオレも鳴子も登って来るだろ。他の奴らだって、お前が呼んだらきっと喜んで来る』
『うん…うん。そうだよね。あ…ありがとう今泉くん…』
『泣くな、バカ』
『だって僕…今でもね、なんか夢みたいだなって…』

なんだよ、そんな事ぐらいで夢みたいだとか。
こんな坂ぐらいオレが何百回でも何千回でも登ってやる。
だからもう、そんな寂しいこと言わないでくれ。


ハッハッ…と断続的に荒い呼吸を吐き出す。眩しくていつの間にか顔を伏せて走っていたようだ。
姿勢が悪いと思った今泉は頭をしゃんと上げ、まだまだ続く登り坂を遠くまで見渡した。
そしてその時、ふいに気がついた。
ずっと上、小野田家のある方に人影がふたつ見えている事に。

(なんだ…珍しいな。人と出くわすなんて)
ここは小野田家の私道も同然だ。このキツい傾斜を用もなく登ってくる人間などいない。
配達や業者などは車かバイクだ。
だが降りてくる二人はどちらも歩きだった。ゆるゆると一緒にいる事を楽しむようなその歩調。

眩しくてよく見えねーな、と今泉は目を眇めた。
気になって片手をあげ、視界から日光を遮る。
歩いてくる二人。片方がかなり背が高い。そっちが自転車を引いて、いる……

(……なん…だ、あれ……)
彼らの姿かたちを捉えた瞬間、喉がカラカラになった。今泉のビンディングシューズがペダルから
音をたてて外れた。
急ブレーキがかかる。乱暴な止め方に抗議するようにSCOTTがきしむ。
登りの最中だというのに足が地面に着いた。だがショックで足元が覚束ない。自転車を降りたが、
立っている実感がまるでない。

「オレと…坂道……」
今泉が絞り出した声は動揺も露わなものだった。ただ恐いとはあまり感じていなかった。
あるのは、ひどい混乱。
自分の見ているものが信じられないという思い。
自転車のハンドルを握りしめる手が、グローブをはめていても汗で濡れているのが分かった。

(冬……冬服……)
(いや待て、オレあんなコート持ってねーぞ…!?)
(去年の冬じゃないのか。どうなってんだ、何なんだよこれ。まさか、まさかもっと先の……)
(未来?)

それは胸揺さぶられる光景だった。
近いのに薄く紗がかかったようなあちら側の様子を、今泉は食い入るように見つめた。
夏の落日。その光は確かに自分の身をじりじりと灼いているのに。
仲睦まじく寄りそう二人を包んでいるであろう、キンと冴えた冬の空気も感じる。伝わる。


向こう側で坂道が笑う。喋るのと一緒に白い息が見えている。鼻の頭が真っ赤だ。
ひどく寒いのだ。なのに坂道は徒歩で自分を送ってきている。
自分もさっさと帰ればいいのに、一緒の時間を惜しむように地面に足をつけ歩き続ける。
坂道が何か言う度にその言葉のひとつひとつに頷き、ひどく優しい顔をする。

あまりにも、あまりにも、あちらの二人は幸せそうに見えた。
声は聞こえない。何を言っているのかは分からない。それでも。
互いを慈しみ、愛おしいと思っているのが分かる。無理に手を引っぱるでもなく、片方が遅れる
事もなく、自然に肩を並べて歩いていた。

ああ、オレたちも、あんな風になれたら。
思った瞬間、今泉の目は涙で潤んでいた。視界がかすむ。様々な感情がめちゃくちゃに込み上
げる。

一歩も動けなかった。目の前の二人に心を奪われた。

自転車であと僅かの場所には、本物の坂道がいることは分かっていた。
だが手の届かないものへと今泉の震える手は伸びる。空は夕焼けから夜の色合いへと徐々に
傾いてゆく。
何故、未来に属するこの光景をこんなにも懐かしいと感じてしまうのだろうか。

この世のものとも思えないほど美しい数秒。
季節と時間と空間のはざまで目を見開き、今泉は呆然と立ち尽くした。




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