「えーいややいやや!なんでやねん小野田くん!?ここんとこずーっとやないか!」            
「ご…ごめんね鳴子くん、ちょっと用事あって…」

ひどく暑い一日が今日も暮れようとしていた。
二度目のインハイを間近に控えた今、練習はいつも以上に密度を増している。体はもうクタクタで。
だが、それを終えた後の達成感が心地よくもある、そんな帰り道のことだった。

坂道と今泉と鳴子、三人は学校の表門側の坂を自転車で下り、賑やかな通りへと出た。
そこで待ち構えていたように鳴子が 『アイスでも食ってこーや!』 と提案したのだ。

なのに坂道は、ごめんと首を振った。
今日だけの事ならともかく、先に一人で帰ろうとするのはもう連続四日目になる。
鳴子が駄々をこねるのも、今泉が心配そうに眉を寄せるのも当然といえば当然の話だった。

坂道が理由を言おうとしないのが余計に二人の不安を煽っていた。
『リアタイで見たいアニメがあるんだよ〜』 とでも笑って言ってくれたらそれでよかった。
安心できたのに。
だが、嘘をつけるほど器用ではない坂道は困ったように俯いてしまう。
笑いさざめくたくさんの人がすいすいと行き過ぎる中で、三人ともが言葉を選びあぐねていた。


だがやがてガリガリと頭をかきむしった鳴子が、決意したように今泉を坂道の方へと押しやった。
「なんだよ?」
「あーもーめっちゃ不本意やけどお前に任せたるわ。責任もってお前が聞け、スカシ」
「丸投げかよ!」
「アホか、何言うとるねん。譲ってやる言うとるんや」

そう言い、今泉と坂道を隠すように背を向け立ちはだかる鳴子の表情がちらりと見えた。
ああそうか、と得心がいく。
坂道にとって自分たち二人は 『親友』 という立場では対等だ。
だが今は今泉には別の権利が発生していた。それを行使しろ、譲ってやる、と鳴子は言ったのだ。

坂道と同じ身長の鳴子では今泉を隠しきれるはずもないが、その心意気は汲みとり、今泉は俯いた
ままの坂道を見た。
先に一人で帰りたがるというだけではない。ここ数日は自分への態度もおかしかった。
顔をまっすぐ見ようとしない。微妙に接触を避ける。交わす言葉も少ない。
ぼんやりしているかと思えば、ひどく緊張しているのを感じたりもした。

(よく知らないヤツなら、怖がられてるって思うとこだぞ)
さすがにもう放っておけない。このままではこっちの胃に穴があく方が先だ、と覚悟を決める。
今泉はSCOTTを建物に立てかけ、自分の体も意識も全てを坂道へと向けた。

「おの…いや、坂道」
「…っ」
「ちゃんとこっち見ろ。それで、言いにくいことでも何かあるのならオレに話してくれ」
「今泉くん…」
「鳴子も心配してる。それも分かってんだろ」

蒸し暑い。いつも自転車で風をきって走っている自分達には、街中の空気はまとわりつくようだ。
息が苦しい。
だけど、好きな相手の気持ちが見えないのはもっと苦しい。

思わず、今泉は坂道の腕をとった。
夏服の半袖からのびるそれは、あんなに毎日練習を重ねていても細いままだ。
直接触れられて、坂道は大げさなぐらいビクッと身を震わせた。
眼鏡に遮られた表情が読めない。もどかしい。
それを怖いと思った瞬間に、今泉は反射的に口走ってしまっていた。
「もしかしてオレがいやになったか?他に好きな人ができて困ってんのか?」

「そんなわけないよ!!」
閉塞した空気を破るように、坂道がばっと顔を上げて叫んだ。
溜めこんでいたものが一気に発露したかのように、坂道の目は少し涙ぐんでいたが、はっきりと
した想いは見てとれた。
どんなに鈍感な人間でもこれは間違えようがない。
「そんなんじゃないよ…ちがうよ…僕…僕が今泉くんのこと、いやになるわけな…」

そこにある高い熱。
俯いて隠して、目線をそらしている時にもこんな風に想われていたと伝わり、そんな場合ではない
のだが今泉の口元は嬉しげに緩んだ。
想像しうる最悪の事態を否定してもらえて、ホッとしたのもあったが。
風が一筋通ったように急に呼吸が楽になる。
だがそんな今泉にイラッとしたらしい鳴子が、「ニヤけとる場合か!しっかりせいスカシ!」と背を
向けたまま小声でつっこんできた。

我に返った今泉は、坂道の腕を掴んでいた手をすこしだけ緩めてやった。距離を詰めすぎだ。
どうも自分は坂道の事となると感情のアップダウンが激しくて困る、と嘆息する。

「な、どうしたんだよ?家で何かあってだから話しにくいのか?」
「…そうじゃないんだ。ホント、今泉くんと鳴子くんに心配してもらうような事が起こってるわけじゃ
ないんだ」
「坂道」
「ごめん、今上手く話せない。でも大丈夫って言ってる僕を信じてもらえないかな。今泉くん…」

目線を横へ流し、坂道はもう一人の親友にも優しい口調で告げた。
「鳴子くんもだよ」

うっわ、そんな言い方されたら無理矢理聞き出したりできひんやん!と鳴子は小声で呻いた。
だがやがてハァ…と肩を落とすと、「しゃーないな、今日のところは解放したるわ」と言う。
「せやけど小野田くん、ワイらがこれで納得したと思てもろたら困るで」
「うん、ありがとう鳴子くん」
「だーかーらーありがとうとちゃうって!」

だが今泉は、依然納得しかねる表情のまま食い入るように坂道を見つめた。
信じろなんて言われなくても信じている。いつもずっとそうだった。だけど。
(上手く話せないってなんだよ)
坂道は自分たちを安心させようとそう言ったのだろうが、不安は余計にかきたてられるばかりだ。
今掴んでいるこの腕を離していいのか?そんな思いがよぎる。

「どうにもならなくなったらオレに絶対言うって約束しろ」
「今泉く…」
「それをのまないんなら、離さない」

眼鏡の奥で坂道が眩しいものを見るように目を細めるのが分かった。
親友としての好きではない、恋の心。抑え切れないような感情がそこにはあふれていた。
好きだよ、好きだよ、そう言われた気がして今泉は呼吸が止まりそうになる。
間違いじゃない。自惚れてもいない。前よりずっと目の前の人に想われていると分かる。なのに。
(……どうしてなんだよ)

「約束するよ。ありがとう、今泉くん」
短い言葉と共に、坂道の空いた方の手がそっと今泉の手を外させた。
そのまま二人ともまた明日ねと言って、黄色のBMCに乗った開襟シャツの背中はあっという間に
小さくなってゆく。
急いでいるのは本当なのだと分かった。どこを目指しているのだろうか。

またひとつ似合わないため息をついた鳴子が、スカシちょっと付き合えやと言った。
普段なら絶対ないシチュエーションだが、今泉は自転車を引き起こしながら頷いた。




坂道と話をする権利を譲ってもらったので、今泉は鳴子にアイスを2個奢ってやった。
コンビニの前で、はよ食わな溶けるわと呟く鳴子は、何故か先刻より落ち着いていた。ひとつ目の
スイカバーに大きくかぶりつく。

これが親友と恋人の差なのか、と普通は考えるところなのだろう。
だが鳴子が坂道を大事にする事、それは今泉に勝るとも劣らない。
知っているだけに釈然としないまま、今泉はエネルギー補給ゼリーとよく似た形のアルミパック
入りのアイスに申し訳程度に口をつける。
夕陽をはじく赤い髪が、ひどく眩しく目を灼いた。


「ワイなー最初、小野田くん知らんとこで誰かにいじめられとるんちゃうかって思ってん」
ああまあ、普通そこから疑うよな、と今泉は頷く。
「でも今、オレが同じクラスだからな。それはない」
「へーへー分かっとります。お前、朝から晩まで小野田くんに張りついとるもんな」
「人聞きの悪い事言うな。クラスも部活も同じなんだぞ」
「まあそういう事にしといたるわ」

シャクシャクと音をたててスイカバーを齧っていると冷たさが沁みてきて、ほんま今日も暑かったな
と鳴子は思った。茜が滲む空を仰ぐ。
(ああ、なんや三人でおらんとやっぱつまらんなー)
友達は多かったくせに、今までそんな風に思う相手はいなかった。

隣に立つ今泉も同じだろう。自転車で走っている時はいつも一人だった。味方になってくれる人を
初めて得た時は、どんなに心強く嬉しかったかしれない。
ずっとロードレースは孤独なものだと思い込んでいた。だが今となってはそれも笑い話だ。


「あとな、さっきお前が家で何かあるから言いにくいんかって聞いたら小野田くん否定したやろ。
その線が消えたのは大きいわ」
「いくら友達でも他人の家の事までは口出しできねーからな…」
「小野田くんは嘘をよう言わんから、違う言うたら違うんやろ。そこは勘繰らんでもええはずや」

そこまで言って鳴子はさっきの今泉の様子を思い出し、ニヤニヤした。
恋愛中の人間いうのはホンマに頭ん中ワヤになっとるなーと思わずにいられない。

「しっかしお前がマジ顔で 『他に好きな人ができて困ってんのか』 とか言い出した時はワロタで。
なんでそっち方面に行くねん」
「いや小野田、ここんとこオレに対する態度もおかしかっただろうが!目は合わせねーし、触ったら
ビクビクするし、微妙にオレを避けるしで」

「お前ほんまアホやなースカシ。何で分からんのや、あれは…」
「なんだよ」
「小野田くんのあれは、意識しすぎっちゅーやつやろ」
「意識しすぎ?なんだそれは」

疑問符だらけの今泉の顔を見て、モテるのと経験値が高いいうのは全くの別物なんやなと思う。
それとも、当事者ではないからよく見えるという事なのか。
(ワイも本気で誰か好きになったら、不安になったり色々分からんで迷ったりするんやろか)

大変なこっちゃ、と隣に立つ今泉を呆れたように見やる。
今までに鳴子が周囲の女子を 『ちょっとええな』 とか 『可愛いな』 と思ったのとは根本的に違う。
両想いになり恋をしていく、その困難な道。
それをろくなスキルも持たず、ぶつかって怪我をしようと構わず進もうとしている。
(まさかスカシがこんな風になるとはなあ。そうさせる小野田くんがすごいんか)

到底普通とは言えない組み合わせだ。だが二人に打ち明けられた時、反対できなかった。
今泉にはイヤミのみっつやよっつ言ったが、坂道が本気なのは最初から分かっていた。
だからこれ以上口出しすべきではないと引いたのだ。

(小野田くんは誰にも優しいし、誰のええとこも見つけるようなやっちゃ)
(そんな小野田くんが今泉一人を特別やと思てしもたんなら、それはもうどうにもならん)
(ワイがこの二人にしてやれるんは…)

少々気恥かしくなった鳴子は、ふたつめのアイスの吸い口を歯で食いちぎった。
清涼感のあるソーダの味が広がる。
二度目のインハイを間近に控えながら、別の事に煩わされるのを面倒ともいやだとも思えなかった。
最終的には二人の問題になるだろうが、関われないのはごめんだ。


「お前も妹おるんやろ。少女漫画とか読んだことないんかいな。ナントカ君が好きすぎてドキドキ
して上手く喋れないよーってヤツや」
「なんで妹がいるイコールそんなもんを読むになるんだ。あと気持ち悪いぞお前」
「やかましいわ!人が親切に教えたっとるのに!」

(好きすぎてドキドキして上手く喋れない…?)
思い返すと坂道は、自分に対して恥ずかしそうにしているようにも見えた。鳴子は案外人の感情の
動きに敏い。そういうものなのだろうか。

アイスの口を噛むというらしくもない行為をしながら今泉は考え込んだ。
とにかく自分は恋愛経験値が低い。ハッキリ言うとゼロに限りなく近い。
だから普通のヤツならぱっと気づくような事も分からないのだ。
それならどうするか。そこは自転車と同じだと思った。学習と努力と修得しかない。

「すまんが鳴子、その少女漫画を妹に貸してもらってくれ」
「……は、はああああ!!?」
「勉強するしかないだろ。別に買ってもいいんだが、何を買えばいいのか分からないからな」

アイスの蓋を閉めると、それを遠くにあるごみ箱へ投げ入れた。こんな風に相手に届いたという
手応えがあればいいんだがなと考える。
そんな今泉を、鳴子は二の句が継げないといった様子でまじまじと見やった。

「オイオイ本気か、スカシ…!?」
「当たり前だ。小野田が何をオレ達に隠してるのかは知らんが、とにかくオレに努力が足りない事
は理解した。そこは自分で何とかしてみる」
「……おまえ…おまえなあ…」
「なんだ」
「いや…言いたないけど、ちょっとカッコエエんちゃうか。そういうの」

だが今泉は「そんないいもんじゃねーよ」と低く呟いた。握った拳に力が入る。
「何かしてないと居てもたってもいられないだけだ。今も小野田の後を追っていくべきだったって
後悔してる」

あの時、引き寄せて抱きしめていたら、坂道はどこにも行かなかったんじゃないだろうか。
人がたくさんいる街中でそんな事ができるわけがない。それでも。
もしそうしていたら何かが分かっていたはずだ、という奇妙な確信が今泉にはあった。
自分は少ない機会を取りこぼしている。嫌な予感に気持ちばかりが焦る。


空になったアイスのパックを咥え、空気の出し入れでぺこぺこやりながら、鳴子は煩悶する今泉
から一度目を逸らした。
視界を埋め尽くすのは、群青が混じった茜空だった。
絵の具なら混ぜた途端に濁ってしまいそうな色だ、なのに。
きれいやなあ…そう思った。

多分こういう気持ちは、大人になるにつれ少しずつ褪せてしまうものなのだろう。
だが今泉も坂道も、ビックリするぐらい澄んだ想いを抱いている。
馬鹿正直すぎ、まっすぐすぎやねんコイツら…と苦笑したが、決して悪くはなかった。
名残りを惜しむような蝉の声。長く密度の濃い夏の一日がやっと暮れる。

「さってと、ほな行くかスカシ!このままワイの家に寄れ。妹に漫画借りたるわ」
「いきなり行って大丈夫なのか。妹が迷惑するんじゃねーか」
「あのなあ…」

幾らうちの妹が子供でも、お前に頼み事されてキャーキャー言わん女がそないにおるか…と
鳴子は頭痛がした。
こいつは自分の事を分かってなさすぎや。小野田くんも苦労するわ…とボヤきつつも、四の五の
言わんとさっさと来い!と背を押し、促す。

(しゃーないからワイが面倒見といたるわ。言うとくけど小野田くんのためやからな!)
口に出さないおかしな言い訳をして、急ぎロードに跨る。
アイスふたつ分の効果だろうか。まとわりつくような暑気は幾分マシになっていた。
文句も言わず自分の後を走っている今泉が珍しく思えて、鳴子はこっそり口元を緩めると、夕方の
空気の中へ忍び笑いを逃がした。





何をやってるんだ。本当に僕は何をやっているんだろう?
自分が自分を責め立てている。なのにBMCのペダルだけは冗談みたいに軽く速く回るのだ。
走る坂道の両脇を、景色がただの色の塊となり飛ぶように流れてゆく。

とうとう聞かれた。問い質されるのは時間の問題だと分かっていた。
これだけ挙動不審で今泉と鳴子が心配しないわけがない。自分だって彼らがこんなおかしな行動
をとっていたら、気になって夜も眠れなくなるだろう。

自分を心から案じてくれる人。そんなの親以外に持ったことがなかった。
だから本当に涙が出るぐらい嬉しくて、なのに自分はあの二人を安心させる嘘すらつけないでいる。

先刻、『オレがいやになったのか、他に好きな人ができて困ってんのか』 と訊いてきた時の今泉の
緊張した面持ちがよみがえった。
心臓が止まりそうだった。
ちがうよ、ちがう、ちがうとペダルを踏む度に坂道は小さく声に出して言う。
そんなはずがない、好きだよ、好きだよ、僕が君以外の人をどうして好きになれるの。
両想いになれたこと、今も夢みたいに思うのに。
なのに言葉は、蒸し暑い夕暮れの空へ虚しく舞い散るだけだ。一片も彼には届かない。


それでも坂道は足を緩めなかった。今は上手く話せないと二人に言ったのは本当に本当だ。
自分の気持ちすら整理できてない。馬鹿な事をやっているとむしろ思う。それでも。
(急がないとまた間に合わない…!)

昨日は部活が長引いてしまい、必死に走ったけれどいつもの時間に着かなかったのだ。
あそこでしばらく待ってみたけれど結局何も起こらなかった。見られなかった。
それで、やっぱりあの時間じゃないとダメなんだと分かったのだ。

慣れ親しんだ道を疾走し、急激に斜度の上がる方角へと自転車で踏み込んだ。どんどん進む。
自分が一番多く登った経験のある坂だ。なにもかもを知っている。
小野田家の前に長く伸びた激坂。
これのせいで、せっかく仲良くなれた人も家に遊びに来てくれなくなった。
今でもここを平気で登って来るのは今泉と鳴子ぐらいだ。それを思うとまた辛くなる。


自宅は目と鼻の先だというのに、坂道は坂のほぼ真ん中辺りに来ると急に自転車を止めた。
ずっと全力で走ってきたから、汗で制服の薄い布地がまとわりつく。呼吸も荒い。
だが急いでBMCを傍にある木に立てかけると時間を確認した。ギリギリだ。でも間に合った。

(……この気持ちに、どんな名前を付けたらいいんだろう…?)
家のある方を眩しげに見上げながら、また同じことを坂道は考えていた。
憧憬…希求…それとも羨望…?
本や教科書で読んだことのある少し難しい言葉がいくつか浮かび上がる。
だがどれも合いそうでいて、ぴったりとは嵌まらない。
心が引き絞られるような想いに、坂道の指は夏服のシャツの胸の辺りをやみくもに握った。


その時だった。
視界に人影がふたつ映ったのは。ゆっくり、本当にゆっくりと歩きながら坂を下って来る。
瞬きもせずに坂道はその二人を見つめた。呼吸すら忘れた。
自分が動けずにいるこの場所では、夕方のなまぬるい風がむき出しの腕や頬をなぶってゆくのに。
陽は落ちかけても、じりじりとまだ暑いのに。

…………あちら側は、冬だ。

音は聞こえない。なにを喋っているのかも聞こえた事は一度もない。
だから、二人が見交わす視線や笑顔でただただ想像をするだけ。
それでもいつも思った。
『幸せそうだ』 『とっても仲が良さそう』 『お似合いの恋人同士』 と。

彼だけが自転車を引いている。制服の上に、よく似合う紺色のシンプルなコートを着ている。
あちら側の自分は手ぶらだ。
去年と同じダッフルコートにマフラーをしている。ふいに空を見上げて何かを言ったようだった。
きっと、帰ろうとする彼を送って出てきたのだ。
この坂の下までの短い距離しか一緒にいられないのに、どちらも離れがたかったのだろうか。
二人の緩い足取りが、それを坂道に分からせてくる。

それでも随分と距離は近づいた。
二人の姿もあちら側の情景もどこかうっすらとぼやけて見えて、坂道が立ち尽くす夏の夕暮れとは
季節も時間も違えているのだと感じる。
たぶん耳がキンとなるぐらい寒いのだろう。
なにか会話をする度に息が白く見えている。自分は鼻の頭がちょっと赤くなっている。でもそんな事
どうだっていいという風に彼を見て笑う。

(………今泉くん……)

胸が詰まるような思いで、坂道はあちら側の今泉の表情の変化を見つめ続けた。
すこし未来の幸せ、なのだろうか?
そう信じていていいのだろうか。ああなるには、いったいどうしたらいいのだろう?

今泉はいつも自分に優しいし、大切に思っているとこっそりと伝えてくれる時もあるけれど。
あんな風に僕を見てくれた事はない…と坂道はうなだれた。
それはきっと結びつきが全然違うからだ。
今の自分達と彼らに大した時間の隔たりがないのだとしても、気が遠くなるぐらいに違って見えた。
じわりと涙がこみあげる。それすら、こちら側では中途半端な温みを帯びる。


今泉が何かを言い、自分があっと驚いたような顔をした。二人はそこで立ち止まった。
いくつか会話を交わしている。今泉がからかうような笑いを含んだ眼差しで坂道を見た。
照れたように手をわたわたと動かし、何か言いつのる自分。
その紅潮した頬に、手袋をしていない彼の指がそうっと触れる。
一瞬、困ったような表情をしたが、やがて坂道の方にも 『しょうがないなあ、もう』 とでもいうような
笑みがふわりと浮かんできた。

もはや躊躇う様子もなく彼のコートの腕に手をかける。ほんの少し爪先立つ。ごく自然な仕草。
今泉も長身をかがめた。坂道の頬を撫でながら、眼鏡がぶつからないようにか少し角度をつけて
近づくその口元もやっぱり幸せそうに微笑んでいた。

そうして夏の真ん中に立ちすくむ坂道の目の前で、二人はいつもキスをする。

何度も触れては離れ、名残り惜しいとでも言いたげに視線を絡め、額を合わせまた近づき、前より
も深く唇を重ねる。
果てのないような想いの交歓。
好きが時間も空間も越えて、押し寄せてくる。
自分が未だ経験したことのない深い感情にさらされ、坂道はただただ見ている事しかできない。


あちら側の情景がまるで夢のように薄れ消えていってしまうまで、まともに呼吸もできなかった。
波に揺さぶられた小舟のような頼りなさで、坂道は静かに涙をこぼしていた。
自分が何をしているのか、どうしたいのか、自分の事なのに分からない。
それでも、その混乱の中でたったひとつだけはっきりと読み取ったのだ。

僕はまるで、あの二人に恋焦がれているみたいだ……と。




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