バタバタ…バタバタ…と風で布が窓枠にぶつかり、はためく音がする。

顔をあげた坂道は、先刻ベランダから布団を取り入れた時、まとめてあったカーテンの片方が外れ
たのだと気がついた。
だが何となく放心したまま、あおられるカーテンとその向こうの高い秋の空を見つめる。

直す気にならなかった。
一人きりの部屋は耳が痛くなるほどの静けさでいやだったのだ。
背が高く手足の長い彼がいないと、ここはなんてだだっ広く感じるのだろう。
でももし大学に入った時一人暮らしにしてたら、こんな感じが日常だったのかなとも思った。
(まあ僕一人で住むなら、ワンルームでもっと狭いとこだっただろうけど…)


同じ大学に進学が決まった時、二人でシェアすれば少しは広いとこに住めますからと今泉が親に
話をしてくれた。
頼りない息子を今泉に預けられると知った坂道の母親は、ふたつ返事で承諾したわけだが。
それは高2の時から内緒の恋人だった坂道と今泉にとって、4年間一緒に暮らすという計画が通っ
た瞬間でもあった。

ずっと、一緒にいる時間は多いくせに二人きりにはなかなかなれなかった。
だから誰に気がねもなく今泉に触れられることが嬉しくて嬉しくて、その気持ちは半年たった今も
ちっとも色褪せたりはしないのだ。
依存するのはよくない事だと思う。それは坂道にも分かっている。
だから今泉くんに迷惑かけないように僕頑張るよ!とはりきっていたのだが、彼はくすぐったくなる
ような笑みを浮かべて 『お前はお前らしくしてればいーんだよ』 と言うばかりだった。



お日さまの光を浴びてふかふかになった二人分の布団を見て、でも今泉くんがこれ使えるのは明日
の夜なんだよねと坂道はため息をついた。
彼は親戚の結婚式に出席するために帰省していた。
昨日の夕方に実家に戻り、今日は式に参列して、ここへ帰ってくるのは明日になる。

実のところ、結婚する従兄とはほとんど交流もないらしく、親が式に出席しろと言ってきた時はすごく
驚いていたし、何でだよ冗談じゃねーよ!と電話で言い合いもしていた。
坂道にはよく分からないが、今泉くんとこは立派なおうちだから義理とか付き合いとか体面とか色々
あるのかもしれないと思う。
だが今泉の性格的に、そういう上っ面だけの集まりで始終愛想よくしてろというのも無理がある。
ご両親もその辺分かりそうなもんなのになー…とはらはらしながら見守っていたのだ。


忙しいからダメだとか、着るもんねーから!とまで言っていたのだが、ある意味それがまずかった。
今泉の母親は魔法のような素早さでスーツをあつらえ、白いネクタイもタイピンもカフスも靴も揃えて
この部屋に送りつけてきたのだ。

頭を抱えてうめく今泉に、もう今回はお母さんの顔を立ててあげたら?と笑いながら肩をぽんぽんと
たたいた。
さすが母親というべきか、坂道の目から見てもそのスーツは彼にとても似合いそうだった。
体育会系の部活のせいか大して着る物には頓着しないが、学校の制服姿でさえ今泉は目立って
目立って仕方がなかったのだ。
正装させて見栄えがよくないはずがない。

『これ着たら今泉くんものすごくかっこいいよ。お婿さんより目立ったら困っちゃうね』
『お前な…オレをその気にさせる天才かよ…』
『僕も着たとこ見てみたいな。今泉くん必要のない写真て嫌がるけど今回は撮ってもらって』
『わかったよ…』


式は午前中に始まって、その後に披露宴だと言っていた。もう終わってるだろうけど、その後も親戚
で会食とかあるんだろうな、と坂道は考える。
きっと仏頂面してるんだろう。でも、かっこいいから女の人にもいっぱい話しかけられているはずだ。

今泉がモテるのは昔からで、だけど彼はいつもそっけないぐらい誰も相手にしなかった。
自分たちが付き合ってる事は大っぴらにできなかったから、それは坂道を不安にさせない為の配慮
だったと知っている。
坂道も何でそんなに自分のことを…とは思うが、今泉の気持ちを疑ったことは一度もない。

(なのに、なんでこんなにへこんでるかな僕は…)
風にカーテンがはためく音と戸外のざわめきが微かに伝わってくる。でもどれもが遠い。

用がなくても自転車でどこかに出かけるべきだった。
一人きりで部屋にいると余計な事ばかり考えてしまう。自転車に乗っていれば、自分の中にある自信
を少しばかりはかき集められたのに。

(いつまでこうして、僕は今泉くんと一緒にいられるんだろう)
大学に入って一緒に生活し始めて、ずっとふわふわした幸せな気持ちでいた。
だけど今回の事で突然、現実を突き付けられたように感じたのだ。
今泉の家の事情をかいま見たりすると自分にも家族がいるのを思い出し、結局この4年が与えられた
最後の時間なんじゃないかと思ってしまう。
親の庇護を受けているからこそ、夢のように楽しい事ばかりで笑い合っていられるのはあるだろう。

先の事を思い悩んでも仕方がないと分かっていた。
でもだからこそ、考える時間ができてしまった事が坂道は苦しかった。
こんな時、ポジティブでいつも自分を力強く励ましてくれた鳴子が近くにいないのが本当にきつい。
けど相談したらしたで鳴子くん、血相かえて関西から走ってきそうだしなーと苦笑がもれた。
こんなグダグダになった自分を親友に見せたくはないとも思う。


ああでも、僕は今泉くんを好きになったのを後悔したことなんかないし、これからだってないだろう。
この先に、どんな事が待っていたとしても。

坂道は、積み上げた布団の上に仰向けにぼすっと寝転がった。
実家の自分の部屋よりずっと天井が高い。
数えきれないほどの出来事が積み重なり、たくさんの選択をして、今、彼と暮らすこの部屋にいた。
それ以外の道なんか欲しくなかった。
周囲にどう思われているか知らないが、自分は案外頑固だしこうと決めた事は譲らないのだ。

今泉と出会うことなく、何も始まらない未来。
それは一体どんなものだったんだろうと想像しかけ、すぐさま打ち消してしまう。

代わりにぎゅっと目を閉じれば、まばゆいような過去の残像たちが溢れ出してきた。
友達や仲間、先輩後輩。競い合った多くの人々の顔。
春夏秋冬、その都度自分たちに襲いかかる過酷な天候。だがどこまでも果てしなく広がる世界。
ロードレーサー。速く走ることに特化した生き物のような自転車。
見上げた先にはうねる長い坂がある。息をきらし頭の中で歌えば、ペダルが軽く速く回るあの感覚。

……好きな人の背中が見えた。
強くて誇り高い、どこまででも必ずついて行ってみせると思わせてくれるあの後ろ姿。
坂道、と呼ぶ声。
時に激しく、またある時は胸が痛むほど優しく響く彼の声。
なんて愛しい。

(今泉くん…僕はね)
(いつからなんてもう自分でも分からなくなるぐらい、君を)

想うと心はふわりと浮く。どんなに思い悩んでみても幸せだと感じる。会いたい。一番傍にいたい。
追いかけていきたい。
恋とは強くて自分勝手なものだ。揺れているくせに揺るがない。

坂道には分かっていた。
こんなスポーツを長くやっているくせに、めったに闘争心を剥き出しにしようとはしない性格の自分。
なのにそれだけが、胸の真ん中で持て余すほどの熱を放っている。
手を当てる、確かめる。彼という人へ向いている。
それは、たったひとつの欲だった。





重厚で美しい内装のこのホテルの広間ふたつをぶち抜いて行われた披露宴は、予想以上に社交的
な意味合いを持つものだった。
家同士の結婚、としか言いようのない宴では、歓談が促されると周囲で頻繁に名刺が交換された。
テーブルは家族と囲んでいたが、今泉はほとんど喋りもせず食べる事に専念していた。
本当に何しに呼ばれたんだよ、と苛立ちはつのるばかりだった。

今泉の忍耐力に挑戦するような長さの披露宴がようやく終わり、一人で会場から足早に抜け出す。
着飾った人々が笑いさざめくロビーでネクタイを少し緩め、重いため息を吐き出した。

なるべく目立たない場所に立ったつもりだったが、派手な化粧の三人組の女性たちが今泉の方を
品定めするように見ながら何か話している。
声をかけられてはたまらない。微妙に移動しながら腕時計に目をやった。
スーツに艶のある白いネクタイと完全に正装した中、スポーツタイプのその時計だけがチグハグで
それに気づいた父親が渋い顔をしていたのを思い出し、嗤う。

合わないのは分かっていたし、携帯があるから時計を外しておく事もできた。
これを着けていたのはわざとだ。
成人もしていない息子をこんな場所に引きずり出した両親へのささやかな意趣返しのつもりだった。
中身も伴っていない人間によそ行きの服を着せても、こんなもんだろと考える。


だが、自分が本当に大人として親と向き合えるのはいつになるんだろうな、という思いもあった。
10年…いやもっとかかるだろうか。
絵空事だと言われても、今泉は海外のチームでプロのロードレーサーになる気だった。

客観的に見て、いい息子とは言い難いだろう。
親が分かりやすく人に自慢できるような事は何もない。
成績は悪くはないが特別いいわけでもないし、大学は自転車競技部の強いところを選んだ。
ある意味、うちの親は自転車に金も出してくれるし理解がある方かとも思う。

そういう小さな引け目が、今日この席への出席を断れなくしたのだと今泉は自覚していた。
まだまだ親に養ってもらっている身だ。
坂道は 『お母さんの顔を立てたら』 と言っていた。そういう事もたまには必要なのかもしれない。
だが坂道のことを考えた途端、ああもう限界だなと思った。
帰りたかった、待つ人のいるあの部屋へ。


その時、人の間をぬうようにして母がこちらへ近づいて来るのに気がついた。
相変わらず若々しいが、黒の紋付を着て髪をまとめているとひどく小柄に見えて驚かされる。

「俊輔、この後の会食場所へは歩いて行けないから高橋さんが車を回してくれるわ。行きましょう」
「いや、オレはもう帰る。ここまで出たら充分だろ」
なるべく優しい言い方をしたかった。だが実際出たのはひどくそっけない声だった。
今泉くんは優しいね、と坂道はよく言ってくれる。好きな人に優しくするのはひどく簡単だというのに。

「だって、俊輔あなた、昨日今日は家に泊まるって言ったじゃない」
「……あのさ、そういう事じゃねーんだよ…」
困惑する母を見て、どう言えば分かってもらえるのかと思う。この居心地の悪さ、息苦しさを。
このスーツと腕時計のようにそぐわないし、相容れない。
それは多分、中途半端な自分のせいだろうと気づいてもいる。

「こんなとこにオレが来たって何の意味もないだろ。自慢できる事があるわけじゃなし」
済まないと思いながらも、先日来ひきずっていた苛立ちも頭をもたげた。
親を尊敬していないわけじゃない。ただ自分はそういう道を歩けないと思うだけだ。
万事そつがなく社交的な妹の方が見込みがあるんじゃねーか、と思いながら今泉は母親を見据えた。
「オレは、プロのロードレーサーになるんだ。それ以外の道は選べない」

同じ事を繰り返すよりは包み隠さず言うべきだと腹をくくり、そう告げたつもりだった。
だが母の反応は予想外のものだった。
背の高い息子を憤然とした様子で睨みあげると、彼女ははっきりとした口調で言った。
「分かってますよ、そんな事」
「…え」
「親を何だと思ってるのかしらね。一年365日自転車にしか乗ってないような子が会社を継いでくれる
と思うほどバカじゃありませんよ、お父さんも私も」

母親の突然の反撃に呆気にとられた今泉は、言われた事を頭の中でよくよく整理した。
「ちょ…待て、じゃあ何のために今日こんなとこにオレを出席させたんだよ。全然分かんねーよ」
「放っといたらあなたが大学四年間一度も家に帰ってこなさそうだからに決まってるじゃない」
「それだけかよ…」
「俊輔、あなた親はお金を出してくれる機械じゃないんですからね」

まあ別に子供は親を食い物にしてもいいんだけど、と母は呆れたようにため息をつく。
「自分に家族がいることを忘れてはだめでしょう。たまには顔を見せに帰ってきて」
そうして整えられた細い指先が今泉の腕にそっとかけられた。
その仕草は、今泉の中に眠った記憶をふいに鮮やかに揺りおこしてきた。
遠い遠い昔、この人が自分に自転車を与えてくれた日のことを。

『ほら見てごらんなさい、俊輔。すごく速く走れる自転車なんですって。かっこいいわねえ』
『……うん』
『あなたも乗ってみたら?お母さん、俊輔が走ってるとこ見てみたいな』

人にも物にもあまり興味を示さなかった自分を母は心配していた。
だから、ロードバイクにのめりこんでゆく今泉に驚きながらも、嬉しそうに笑っていたように思う。
高校に入って、自転車で友達ができたと話した時もそうだった。
(そんな事も忘れてたのか、オレは)


「………ごめん」
俯く今泉を見る母の目は暖かかった。ひとつ分かれば、自分の身勝手さが恥ずかしくてたまらない。
まだまだ親の掌から飛び立つ日など遠いという事なのだろうか。
だがほんの5分ほど前まで抱えていた苛立ちは、今泉の中から消えようとしていた。

「あとね、今はまだ早いけどいずれスポンサーも必要になるでしょう。こういう席に顔出しとくのも悪い
事じゃないと思うのよ」
「そんな事まで考えてたのかよ…」
「親のコネとか思われるのはいや?」
「そんなことねーよ。持ってる物は利用する。自分は人より恵まれてるなって思うだけだ」

ありがとう、と今度は言ってみた。
いつも自分を思ってくれるこの人に、ちゃんと感謝を口にしたことがあっただろうか。父にもだ。
(オレに自転車に乗れって言ってくれてありがとう)
今そう言うのはさすがに気恥かしかったが、案外この母にはお見通しなのかもしれない。

少しずつ人が減ってきたロビーで、「さあもう今日は解放してあげる。帰っていいわよ」と背中を押さ
れた。
それは本当に軽いものだったのに、足は前へと動き出す。
「正月にはちゃんと帰る」と振り向きざまに言うと、母は笑って手を振った。
それを合図に注目を浴びるのも構わず、今泉はロビーのエスカレーターを一目散に駆け降りた。




正面入り口に停まったタクシーを見た今泉は一瞬乗ろうかと考えたが、とりあえずホテルの車回し
を迂回して外の道路へと出た。
最寄りの駅はどこなんだ、と考える。車でここへ来たから分からない。
今までいたホテルのHPならアクセスの説明があるだろうと思い、携帯を取り出し、検索しようとする。

「ぼっちゃん、俊輔ぼっちゃん!」
呼ぶ声に気づいて顔を上げると、目の前の道路には見慣れた家の車が横付けにされていた。
父の専属運転手である高橋が笑顔で手招きしている。
「よかった、間にあって。見つけられないんじゃないかと思いましたよ」
「なんでこっちへ来てるんだよ」
「奥さまから電話がありました。俊輔ぼっちゃんを送ってあげてほしいと。乗ってください」

少し躊躇したが頷き、後部座席へと乗り込んだ。甘やかしすぎだろと母に向かって内心で呟く。
今泉が車内に収まったと同時に車は滑るように発進した。
「一番近い駅まででいい」
「そんなつれない事を言わないで下さいよ。今住んでおられる所までちゃんとお送りします」
母に聞いたのだろうか、坂道とシェアしているマンションがある町の名を彼はさらりと口にした。

「だいたい俊輔ぼっちゃん、その目立つ格好で電車に乗るつもりだったんですか」
「もうぼっちゃんはやめてくれ」
くすり、と笑う髭のはえた口元。彼とも長い付き合いではあったが、この車に乗るのは久しぶりだ。
「じゃあ、俊輔さん。あなた、自分がどれだけ目立つか分かってますか?」
「別に普通のスーツだろ。ネクタイは外すつもりだったし」
「困った人ですねぇ…」

高橋はバックミラー越しに無頓着そうな表情の今泉を見やり、甘やかすように笑った。
他人といってしまえばそれまでだが、幼い頃から彼を見てきた。
大きくなったと感慨も湧くし、彼がロードレースで活躍している話を聞くといつも嬉しく思った。
自転車の事はよく分からなかったが、努力を怠らない人だという事も知っている。

そんな彼が登下校の際この車にめったに乗らなくなったのは、高校1年の春からだった。
友達ができたらしいのよ、と彼の母親が言っていた。
じゃあその友達と行き帰りも自転車に乗って走ることにしたのか、と納得すると同時に少し寂しかっ
た覚えもある。
その 『友達』 があの時の少年だと知ったのは、もっとずっと後の事だった。


「……俊輔さん」
「うん?」
「今一緒に住んでいるお友達というのは……あの時のメガネの男の子ですよね」

流れる窓の外の風景を見ていた今泉は、いつになく饒舌な運転手へと視線を戻した。
「あの時って…ああ、そうか。お前がぶつけたんだっけな、あいつのママチャリに」

『本当なんですよ、たしかにママチャリに乗ってこいでたんです!平地の時みたいに…』
総北の裏門坂。斜度20%を越える激坂。
そこを妙なアニソンを歌いながら、重いママチャリでウキウキと登ってゆく坂道の姿を思い出す。
(そうだ、あの日、登校の途中で車があいつを引っかけた)

『自転車で行くんです…なぜならば、アキバにタダで行けるから!』
『お前が昨日歌いながら登った裏門坂、もう一度そこをオレと走れ』

何から始まったかなんて上手く思い出せない位、遠くに来てしまった。
だが幾通りか延びていたはずの道には必ず分岐点があった。
時には訳の分からない衝動こそが、この運命をかたち作ってきたのだ。

「あれが始まりだったんだな。お前が言ってくれなかったら、オレは坂道に目もくれなかったかもしれ
ないし、あいつはロードバイクに乗らなかったかもしれない…」

優しい、とても優しいかたちに今泉の口元が緩むのを、驚きと共に高橋は見ていた。
ああ、あの子はこの人にとって本当に大事な人なのだ、とそれを見て悟った。
ひとつの出来事が、誰かの人生を触発する。すべてが雪崩をうって動き出す。
その瞬間に立ち会ったのかと思うと不思議な気がした。

「坂道さんていうんですか、あの人の名前」
「ああ。本人は名前負けしてると思ってるけど、親が 『逆境に強くなるように』 ってつけてくれたって
言ってたな。ホントそのまんまなのに」
「強いですか」
「強ェよ。どんな土壇場にきても、もうダメだって他の全員が思った時でも、あいつはあのちっこい
体で奇跡を起こしてきた。オレの……憧れだ」

本人に言ったら大慌てでテンパりまくるんだけどな、とおかしそうに肩を揺らして笑う。
そんな彼は、ちょうど今子供と大人の境目にいると高橋の目には映った。
今日はスーツ姿だし背も高く大人びた容姿をしているから、もっと年がいっていると勘違いした者も
いたのだろうが。
笑えばまだ子供っぽさが少し勝っている。

だがこんなどっちつかずの時代など、瞬く間に過ぎ去ってしまうことだろう。
ふとそれを惜しいと感じた。
本人にはもどかしい時期でも、曖昧だからこそ、自分には今の彼が眩しく見えて仕方がない。
分かっては貰えないのだろうが。
大人から見た若さとはいつだってそういうものだったのだ。


「俊輔さんは…いずれ海外でプロのロードレーサーになるつもりなんでしょう?」
「ああ。子供の夢物語だって笑われるかもしんねーけどな」
「そんなことはありませんよ」

高橋の誠実な口調に、今泉は意外さで少し面食らった。
彼がこんなに自分の事に興味を持ってくれてるなんて知らなかった。
いや、正直考えたこともなかった。
ミラーに映っている運転手の顔は、当たり前だが以前よりも少し老けこんでいた。だが慈しむような
笑い方は変わらない。

変わらぬものになど興味はなかったはずが、やけに感情を揺さぶられていた。
なんで今日は連続でこういうのが来るんだよ、と今泉は思った。泣いたらどうすんだと。
(安心するんだ、そこに必ずあるって思うと)
(甘えだけどな。でも、誰にも甘えずにいられるような強いヤツはいない)

母も高橋もそんな強さを自分に求めない。ただたまには立ち止まり振り向いてほしいと言う。
そういう事を、いつか誰かに言ってやれるようになるだろうか。
その時初めて、自分は大人になったといえるのだろうか。

「私はね、海外で活躍している俊輔さんが帰国された時、空港にお迎えにあがるのが夢なんです」
「高橋…」
「その時は、もしかしたら坂道さんも一緒に帰国されるのかもしれませんね」
「……オレより夢見がちだな、お前」
「大人だって夢を見たいんですよ」


ふふ、と照れたように笑う運転手につられる。だが自分の方が照れくさい気がする。
取り繕えない表情を隠すように、今泉はまた外へと目を逸らした。
早く帰ってきた自分を見て坂道はどんな顔をするだろう、と考えてしまう。
ぼんやりと見つめる秋空は柔らかな青に滲んでいた。
子供の描いた水彩画のようにあどけないそれは、いつまでたっても見飽きることはなかった。




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