土曜日の夜、ようやく風呂に入って一息ついた坂道はタオルをかぶったまま自室に入ったところで携帯の
着信に気がついた。
メールではない。電話。今泉くん、の表示にどきりとした。

慌てて手を出して一度取り落とし、わあもう切られちゃったらどうするんだ!とまた焦る。
「待って出るから切らないで今泉くん!」
思っていたことをそのまま口にだしてしまい、電話の向こうから少しの沈黙と笑い声が伝わる。
「切らねーよ。なに慌ててんだ」
「ご…ごめ…だって今泉くんが電話くれるなんて初めてだったから」
「…そうか?そういやメールばっかりだったか」

また少しの沈黙。彼は鳴子のようにたくさん賑やかにはしゃべらない。
目が怖いとか、デカく て怖い、とか彼のクラスの人が言っていたようだが、坂道は今泉を怖いと思ったこと
はなかった。
最初勝負を挑まれた時は確かにびっくりしたが、そこから一年時計の針を回した今も、彼は変わらず真摯で
優しい人だった。

自慢の友達。
そう呼ぶのを許してもらえるなら、世界中に見せびらかしたくなるような友達、だった。

「ど…どうしたの?何か連絡?」
「いや、小野田おまえ明日寒咲サイクルにロード定期点検に持ってくんだろ」
「うん。寒咲さんに聞いた?」
「まあな。で、俺もちょっと交換したいパーツあるからさ、明日あっちで落ち合わねーか」
「ほんと!?いいよ。何時?あ、後で練習するなら早目がいいんだよね」
「いや…練習つーかな…」

電話の向こうで今泉 が逡巡するような空気と、ギシッという音がした。
前に行った彼の部屋にある一人用のソファかベッドの上なのか、彼が長い手足を伸ばしている様子が目に
浮かぶ。

「サイクリング…行かねーか」
「………サ……ええっ!?サイクリング!!?」
「そんな驚くようなことかよ」
「いやだって…練習の鬼みたいな今泉くんがサイクリングって意外だよそれ」
「笑ーうーな」
「笑ってない、笑ってないよー」

ああうれしいな、と坂道は思う。
いつも一緒にいるけど、もっと一緒にいたいなと思う人が誘ってくれたのに笑顔にならないわけがない。

僕は勘違いしてないかな。
誰でもいいけど、たまたま僕にってだけでもいいんだけど、でも。
できたら、僕と一緒に行きたいって今 泉くんが思ってくれているといい。
そうなら僕はすっごく幸せだ。

胸の内、小声でそう呟きながら、じゃあ僕母さんにオニギリ作ってもらうよ、二人分、と告げる。
俺もなんか食いモン適当に持ってくか、と彼が言った。

「楽しみだね。でもどうしたの今泉くん急に」
「……まァ俺も、ゆっくり走りたい気分の時もあるんだよ。付き合え」
「そっか、そうだね。僕たちずっと前ばっかり見て走ってきたから」

ただ前を見て、誰よりも速く。
その充実感を知っているから悔いはないけど、そういえば一年前、彼に出会うまでは自転車は坂道にとって
移動の手段で。
歌いながら一人のんびり走るのが常だった。

あれから起こったことは、ビデオの早回しみたいに極彩色で思い返すと目が回る。
今泉にとってもそんな感覚があるのかもしれないと思った。

「じゃあ明日はゆっくり走ろう。いろんなものを見て、話して、休んで、また走ろう」
「ああ、そうだな」

今泉は自分たちの学年のリーダー的な存在だ。3年になったら、たぶん主将になるだろう。
2年時の今でも、手嶋や青柳の話に加わり、夏のインターハイにいかにして勝つかに頭を悩ましている。

(僕は…自分のことばっかりだったな)
インターハイ後に巻島に去られてから、練習でも力が出せず皆に迷惑をかけた。
自転車だって、せっかく新しいものを提供してもらったのに、未だ性能を引き出せていない。
自分のこともちゃんとできてない。
本当は鳴子と一緒に、今泉をサポートしてあげなければならなかったのに。

きっと今泉くんは疲れてしまってるんだ、と握りこぶしになった坂道は「ごめんね!僕もっとがんばるよ!」
と唐突に宣言した。
「は?なに言ってんだおまえ」
「今泉くんに頼ってもらえるぐらいがんばるから!」
数秒の間があいて、それから微かな笑い声。
どんな顔をしているか、見える気がする。
「いや、よく分かんねーけど、俺は結構おまえによっかかってると思うけどな」 そう彼は言ってくれた。




「ふうーん、サイクリングね」
人の悪そうなにやにや笑いを浮かべ、幹がわざとらしく店の屋根の向こうの青空を見やった。
快晴だ。
「なんだよ、悪いか」
「いいえ。ただ長い付き合いだけど、今泉くんの辞書にサイクリングなんて言葉があると思わなかったわ」

「おまえサイクリングって意味分かってっか?」と寒咲兄までが余計な口を挟んでくる。
「レクリエーションだぞ。楽しくウキウキ走んねーと失格だぞー」
「ウキウキ…っすか」
それはちょっとハードル高いなと今泉は思った。そしてそれを坂道に言わないでほしいと思った。
でないと何でも真にうけるあの性格では、歌いながら走ろうとか言い出しかねない。

兄が今泉のSCOTTのパーツを替えるべく担いでいってしまったので、少しほっとしたが、幹は定位置に
どっかり座った今泉の周囲をくるくる踊るように回っている。

「お弁当は!?持った?」
「おまえがウキウキしてどうすんだよ」
小野田がお母さんに握り飯作ってもらうって言ってたし、俺もまあ食いもん色々持ってきてる、と下げて
いたサコッシュをぽんと叩いて見せる。

「だって小野田くんものすごーく楽しみにしてるよ、きっと。昨日寝れてないよ」
「いくらなんでもそれはねえよ、小学生か」
「ふふーん…でも今泉くんも結構やるよね」
「なにが」
「鳴子くんが連休で大阪に帰省していない時に、ちゃっかりサイクリングとか!」

なにか言い返そうとして言葉に詰まり、口をパクパクさせる今泉を見て幹は満足げに笑った。
「おま…っ何言って…」
だが同時に坂道が黄色のBMCを引きながら店へと入ってきたので、ここは黙らざるをえなかった。

「おはようございます〜お世話になってます」
「あっ小野田くん、おはよう!わーなんか眠そう」
「ハイ…今泉くんとサイクリング行くんで、サイクリングの心得を調べてたら眠れなくなって…」

メガネの下のショボショボした目をこすりながらも、今泉と目が合った瞬間、坂道はぐっと拳を突き出して
みせた。
「でももう準備万端だから今泉くん!何も心配いらないからね!」
「俺はおまえのことが心配だよ…」
「えっ?僕はもうサイクリングの知識はばっちりだよ。眠いのも大丈夫!」
「なんだその大荷物は…」

アキバに行く時よりも一回り大きなリュックを背負っている坂道を見て、あの中にはいったい何が入って
いるんだと今泉は思った。
だがとにかく、楽しみにしてくれたのは確かなのだ。
店に入ってきた時からニコニコニコニコしている坂道を見ると、まあいいかと思えてくる。



一度BMCを寒咲兄に預けて店内に戻ってきた坂道の元へ、今泉と幹がぽんぽん物を言い合っているのが
聞こえてきた。
二人が幼馴染なのは知っている。
お互いのことを「小さい時から変わった子だった」と平気で言うぐらい気心が知れた仲だ。

その上、学年でもトップクラスの美男美女ときている。
非常にグレードの高い組み合わせであり、今泉と幹が付き合ってるんじゃないかと勘繰る者もいるのを
坂道は知っていた。

「二人はいつも仲がいいよね」
笑ってそう言うと、二人は揃ってとても微妙な顔をした。
「どこ見たらそうなるんだ」
「ううーん、まあお互いの悪いところはすごくよく分かってるって感じじゃない?」
「……悪いところ?」
考え込む。眉を寄せる。首を傾げる。
「僕は今泉くんと寒咲さんの悪いところなんか思いつかないけど」

よく分からないが今泉と幹は頭をかかえて低くうめいた。
小野田くんそれで大丈夫なの!?キヨラカすぎるんじゃないの!?と幹がぶつぶつ言っている。
「おまえのママチャリを魔改造する自転車オタク娘を、これ以上おだてんな小野田」
「初めて会った人に裏門坂を俺と競争しろとか言い出す人よりはマシです〜」

ぷいっとそっぽを向く幼馴染同志を見て、坂道は笑ってしまった。
ああ、僕は二人とも本当に大好きだ、と思う。
「でもだって…それがなかったら僕は今ロードに乗ってないよ。だから二人のそういうとこはすごく素敵
なとこなんだ」

だけどその瞬間、坂道は今泉だけを見ていた。
軽く目を見開き、それからひどく照れくさそうな顔をする。
「ま、ものは言いようだな」 
それでも口もとだけがふわり、と緩んでいる。めったに見られないそれを、瞼の裏にそっと納める。
うれしい。


「あ、あの寒咲さん!僕、いつもは自分の用事の時はママチャリで行くんだけど、今日はここから出るから
ロード使わせてもらってもいい…かな」
「えっいいわよ!そんな気をつかわなくてもいいのに」
「でも、お借りしてるものだし…値段も凄いって…」

相変わらずだな、こいつは、と今泉は内心で嘆息する。
寒咲サイクルがあのBMCを用意したのは、それだけのプレミアが坂道本人についたという事だ。
もちろん好意もあるだろうが、坂道は自分の付加価値をもっと意識してもいいのだが。

「ここの自転車屋が小野田坂道の御用達ってだけで充分宣伝になってんだろ」
「え…御用達って、僕は自分で買ったわけじゃないよ!」
「まァそうだけどよ。ここいらの自転車乗りの間では話題になってるだろうし、この店で買おうってヤツも
出てくる。ちゃんとメリットはあるんだよ」
「そうそう。小野田くんと今泉くんの分もね、もちろん」

鳴子くんもうちに出入りしてくれたらいいんだけどな。大阪から部品取り寄せてるし、そこと懇意な店で
やってもらってるみたいね、と幹が言う。
「おまえも案外がめついな…」と今泉が茶化すと、「自転車が好きなだけよ」と軽やかに笑った。

「『みんなを好きなところにつれていってくれるから』 か?」
きょとん、とした坂道に向かって、子供の頃、寒咲が俺にそう言ったんだよ、と説明してやる。

「ああ…それはホントだね。免許もいらないし、年も体力も運動神経もあまり関係ない。だけど遠くへ
行けるんだ…」

だから僕も昔から自転車が好きだったんだね。
そう呟く坂道を見ていると、いつもロードレースの、そして自転車の根源的な楽しさを思い出させられる。
ずっとずっと走ってきたくせに、自分が見失っていたものを。
今泉にとって、目の前の小柄なメガネのクライマーはそれを体現している人だった。

大事に思う。口に出さない分、それは胸が痛むほどの情動で。
未熟な自分には手に余るくせに、どうしてもどうしたって手離したくはなかったのだ。



「どっちに行く、今泉くん?」
「練習と同じコースじゃつまんねーしな。いつもと反対回りで亀石ダムへ抜けるか」
「サイクリングなのに何キロの行程なのよ、それ」
「あ、でも、ロードだとゆっくりっていってもやっぱり速くなっちゃうから」

「おまえが先に走れ、坂道」
名前で呼ばれる。その時によって違うから、今泉の中で法則がどうなってるのかよく分からない。
でも、彼に呼ばれると自分の名前が特別いいものに聞こえる。

「僕は平坦、遅いよ」
「遅くていいよ。歌いながら走ってりゃいい」
けど俺に歌うことは求めんなよ、と付け加える今泉が笑っているから、心拍数がはねあがった。
自転車に乗る前からこれでは先が思いやられる。

どこまで行こう。
どこまでだって行ける気がした。
空は青くて、お弁当があって、景色を見ながら自転車に乗って、そして君がいる。

「いってらっしゃい!」
「行ってきます!」


あれほど言ったのに、結局速い。あっというまに遠ざかってゆく二人を見送りながら幹は苦笑した。
「肝心の小野田くんは気づかないと思うけど…」
今泉くん、あんな優しい顔してたら、誰にでも分かっちゃうよ。
残りの言葉を兄に聞かれないよう心の中でだけ呟く。もう今泉も坂道も見えない。
(どこまで行っちゃうのかな。男の子は羨ましい)

小野田坂道が、自分たちの思いに背を押されてロードレーサーに乗ってから、もう一年が経っていた。




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