試合中に今泉を引くことがないわけではないが、彼の前を走るというのは新鮮だった。
彼は金城のエースアシストだったし、IHの途中からはエースの役目を背負った。

どっちかというと僕は今泉くんを追いかける方がずっと得意だから、と坂道は思う。
あそこへ辿りつきたい、という思いはとてもシンプルだが強くて、自転車が風に乗る時の加速のようだ。
飛び出し、身を投げたらもう戻れない。
目指す人が前にいる方が速く走れるのはもう自分の宿命なのかもしれなかった。

でも今日は、今泉には物足りないかもしれないがゆっくりと走った。
早送りじゃない景色を見ながら他愛ないことを話しかける。それに今泉が答えてくれる。
後ろからかかる声が優しくて、いつもこんなだっけ?と思う。
だけど思い返せば彼は最初からずっと自分に優しかったのだ。



途中で小さな神社を見つけて、降りてお参りをした。
ロードバイクは軽いから、肩に担いで長い石段を登った。自転車用のジャージが目立つのか参拝客が見て
いて少し照れくさい。

(あ、それとも今泉くんがかっこいいから見てるのかな?)
だがレース中もとにかく注目されがちな今泉は何とも思っていないらしい。
重くねーか?と聞いてくれてから、京都の神社ではMTBのダウンヒルレースが開催されるんだ、と言う。

「神社!?なにそれ」
「神社の石段を本殿までMTBで駆け降りるレースだよ。オレもニュースでちらっと見たんだけど、転倒者
続出で結構怖かったな」
「石段って不揃いだし、雨で濡れてたり苔が生えてたりしそうだね。すごい、何キロ?」
「1キロぐらいらしいな。女子選手も出てる」
「ふわーすごいね!普通の坂でも下りは怖いのに。見てみたいなあ」

グローブを外し、神社の手水舎の冷たい水で手を清めながら、ふと気付いたことがあって今泉を見る。
「もしかして出たいの!?今泉くん!?」
「う…まあな」
「今泉くん家、マウンテンバイクもあるけどさ。結構危なそうだよね…IH終わってるとしても、大怪我したら
って思うと…」

だけどそれ聞いたら鳴子くんも出たいって言いそうだなあ、と苦笑いする。
派手好きな彼の好みそうなレースだ。おまけに大阪ではないが鳴子の育った関西が舞台でもある。


「オレは御堂筋が出てないか、そっちの方が心配だよ」
「あ、そうか京都だもんね。確かにありそうな気もする」
「IHの時、御堂筋と話したって言ってたな」
「うん…少しだけどね。ちょっとだけ。今泉くんは御堂筋くんに思うとこもあるんだろうけど、僕は…」

柄杓についた水を振って戻しながら、坂道は言葉を選んでいるようだった。
ああ、気を遣ってんのか、と思う。
だがあの闘いを通り過ぎた今、今泉もまたロードレースは人間そのものだと学んでいた。
それぞれの思いがあり、過去があり、それを踏まえて未来がある。
自分には見えてこなくても、御堂筋もまたそういうものを抱えているのだろう。だから彼は強かったのだ。

「気にすんな。おまえだから感じられる事もあるんだろ。まあオレと御堂筋が仲良くなることは金輪際ない
だろうが、おまえはそれでいいんだよ」
「ぼ、僕も別に仲良くなんてしてもらえてないよ!」

焦ったようにぶんぶん首を振る坂道は、だがずり落ちたメガネの向こうから面映ゆいほどのまっすぐさで
こちらを見あげてくる。
「ただ、巻島さんが言ってた。『自転車で会話する』 って。僕らはみんなそれができるって…信じたいんだ」

たまにこの小さな体の中にあるつよい意志に息をのむ。
そして、こいつに守られている分、同じだけオレはこいつを守り応えられるだろうか、と今泉は思った。
試されてゆく。心も、体も、思いも。
自分以外の誰かを好きになるというのは多分、そういうことなのだ。

手をのばし、坂道の短い髪をくしゃくしゃかきまわした。ただでさえ大きな目がまるくなる。
言葉よりも、触れた部分や自分の表情から伝わるものがあればいいと思う瞬間だった。

「オレもおまえみたいになれたらな」
「……えっ!?な、なに、いまいずみくん」
「なんだろうな………憧れてるってことじゃないのか」

えええええええええ…!!?と慌てた顔をする坂道に笑い、お参りしていくか?と本殿を見やる。

「それでここ何の神社なんだよ。あそこに腹帯とか書いてあるけど…安産祈願…?」
「あっ、今泉くん!さっき交通安全て書いてあったよ!どうだろ」
「それだ。それでいくか」
「もーアバウトだなあ」
「言ったのはおまえだ」

小銭を放り入れ、ふたり行儀よく手を合わせた。周囲の大きな木がさやさやと葉ずれの音をたてている。
自然は今日のように優しく包んでくれるばかりじゃない。
あの暑くて暑くて痛いほどだった夏の日を思いおこす。
次はもっと過酷かもしれない。叩きつけるような雨の中を走ることになるのかもしれない。
一歩も進めない、と涙を流すような風の中かもしれない。

それでも僕たちは走るんだろう、と坂道は思った。
「IHでチームの誰も怪我しないで、あのゴールを見られますように、でいいかな?」
「ああ、オレもそうしとく」

(この気持ちを代償にします。絶対に言わない。だから)
(この気持ちを、差し出す。こいつには言わない。だから)
大きな大事なものと引き換えにこの人を守れる力が欲しい。つよくつよくそう願った。

神様が取引に応じるかなんて知らない。
だが、二人にとってそれは自分の中に秘めている一番純粋で美しいものの結晶だったのだ。





神社を出てまた20キロほど走った。今度は今泉が引いてくれた。
お昼の時間も過ぎてしまったし、途中で大きな森林公園を見つけて降りる。
坂道がいそいそと銀色のシートを敷くのを見て今泉は「遠足かよ」とあきれ顔だった。

それでも持ち寄った食べ物を広げて、二人で食べて満腹になった頃には、銀色のシートが熱を吸収してホカ
ホカになっていた。コタツ並に人を眠くする効果がある。
大きな木にもたれた今泉がウトウトし始めるのを見て、坂道は作戦成功だと思った。

それにしてもこんな無防備な今泉は初めて見る。
合宿にも試合にも行ったから一緒の部屋で眠ったけど、自分も彼も緊張でピリピリしていたし、とにかく
体を回復することが先決だった。
今は長いまつげを伏せて、手足にも力を入れずに健やかに寝息をたてている。
彼を休ませてあげたいと昨夜から思っていた坂道は、よかったと安堵した。
それがたとえ30分でも1時間でもいい。こういう時間をあげられたら嬉しいと思っていたから。


(いつの間にこんなに好きになっちゃったかなぁ…)
苦笑する。いくらなんでも男同士が普通ではないことぐらいは分かったが、この人の傍にいて好きに
ならずにいるなんて無理だよ、とも思った。

絶対言わないから、困らせないから許してほしいんだ、と彼に心の中でだけ呟く。
だけど、誰かを想う気持ちは悪いものじゃないと信じていた。
彼を大事に大事にして時間を過ごしていきたい。
いつかこんな風に一緒にはいられなくなる日が来るまで、一日でも長く。




ああ、あったかくて気持ちいいな、と目を細めた坂道は、ふと向こうの方で自転車の練習をしている小さな
男の子に気がついた。

まだ小学校にあがったかあがらないかぐらいの年齢だろうか。
ちゃんと自転車用のヘルメットをかぶっているし、自転車も高価そうなものだ。色もきれいでかっこいい。
親の気合が伺えるような自転車だったが、男の子はペダルに足をかけ踏み出した途端に転倒した。

息をのんだ坂道は、今泉が眠っているのを確認する。
自分たちのロードバイクはきちんと太いワイヤーキーロックが建造物に繋ぐようにかけてある。
大丈夫だ、と判断して、リュックの中に入れていた大判の絆創膏を手に、男の子に駆け寄った。

「大丈夫!?怪我しなかった?」
痛いのもあるが落車してショックを受けているのだろう。男の子は涙目で坂道を見上げてきた。
「びっくりしたんだね。大丈夫?立てるかな」
ぐす…っとしゃくりあげながらも頷き、ゆっくり立ち上がった男の子の体を軽くはたいてやりながら、怪我
がないか確認した。
幸い、擦り傷などはできていなかった。ほっとする。

「転ぶのこわいよね、一人で自転車乗る練習してたの?」
「うん」
「お父さんとかに教えてもらった方がいいよ。一人じゃあぶないから」
「お父さん、おこるからやだ。何回もきたのに僕のれなかったから…」

また、男の子の目に涙が盛り上がる。昔運動部の人が苦手だった坂道には気持ちが分かる気がした。
出来る人は、出来ない人にいらつく。
悪気はないけど、早く出来るようになれよと押し付けてくる。それは怖い。すっごく怖い。
「そっか。でも自転車は楽しいよ。好きなところに行けるし。きらいにならないで」
にこ、と笑いかけると、男の子はじっと見上げてきてからうんと頷いた。


「僕に教えてあげられるかな…支えながら一緒に走ってあげるんだっけ」
「バランスを自分で取るのを覚えなきゃなんねーのに、人が支えてどうすんだ」
「い…今泉くん!?」
ぎょっとして振り向くと、眠っていたはずの今泉が立っていた。
彼は背が高いので、男の子がひるんだような顔になる。だが今泉はごく自然にしゃがんで目の高さを近く
してやった。

「服…はじめて見た、こんなの」
「ああ、自転車乗る時の服だ。速く走れる」
「あのかっこいい自転車…?速い…?」
「ああ、こいつなんかすげーぞ。坂を笑いながらびっくりするような速さで登る」
「いやあの…今泉くん、それなんか僕ヘンな人みたいなんだけど…」
「おまえ今までヘンだと思ってなかったのか」
「ええーっ!?」

だが今泉は坂道の抗議を華麗にスル―して男の子に話しかけている。
「怒られて嫌だったのに自分で練習に来てえらいじゃねーか。乗れるようになりたいのか」
「……うん」
「じゃあ自転車持ってこい」
「うん!」

引いてきた子供用自転車に手をかけた今泉は、慣れた手つきで左右のペダルを外してしまった。
着脱式のペダルなのであっという間だ。
サドルの高さも乗って地面にちゃんと足がつくように調整する。
「え?ペダルなし?どうするの」
「このまま、足で地面を蹴ってどんどん進んでみろ。倒れそうになったら足ついていいから」

言われたとおりに男の子は、最初はおそるおそる、徐々に大胆に地面を蹴って前へ進んでいく。
「あ、そうか。車輪が回って進んでる感じを覚えるんだね。足つかないで」
「ああ、初心者はどうしてもペダルで踏み込むと左右にブレるからな。先にバランスを知っとくとどう修正
していいか分かるだろ」


慣れてきたら1・2・3の3のあとで足を前に出してみろ、と声をかける今泉を不思議な気持ちで見つめた。
「今泉くん、子供とか好きじゃないと思ってたよ…優しいなあ。教えるのも上手だ」
「まあ煩いのはきらいだけどな。オレ一人っ子だから弟ほしいとか思ってたな」
「あ!僕もだよ!兄弟ほしかったな。いつも一緒にいられるもんね」

へへ、と笑い顔になる坂道を見て、今はオレがいるだろ、と口ばしりかけていた。
ちょっと気を抜くとすぐこれだ。
オレは本当に気持ちを隠す気があるのかと今泉は自分で自分が信用できなくなってきた。
幹が色々ほのめかしていたが、そんなにバレバレなのだろうか。

「まァ、あいつも自転車好きになったらいい選手になるかもしれねーしな」
「気がはやいよ、今泉くん」
「オレはおまえを見つけてから自分の目に結構自信もってるよ」

今思い返すとあの時の衝動は何だったのだろうと思う。
機材も実力も比べる方がそもそも間違っている相手に本気の勝負をしろと詰め寄った自分は、どう考えた
っておかしい。

(だけど坂道、おまえが)
(笑いながら、歌いながら、あの坂をオレの目の前で登ったから)
自転車を好きだという気持ちを忘れていた自分は、小さな背中に何度も何度もそれをかいま見た。
そして再び生まれた。
情熱という名を冠するもの。
(こいつごと、オレはもう一度自転車を好きになった)
(好きだよ、おまえが好きだ)


「……僕は、運動できないし得意なものもなかったから、特に運動部の人が怖かったんだ。声が大きくて
強いからいろいろ決めつけて、なんで出来ないんだって押し付けてくるって…」
「小野田…」
「だけど今泉くんはそうじゃなかった。ホントにホントに小さな僕の可能性を引っ張り上げて、本気で一緒に
走ってくれて、褒めてくれて。そんな人は初めてだったんだ」

そんな人はどこにもいないと思っていた。
それは小さく縮こまった自分の心が勝手に思い込んでた事で、その後たくさんの人に巡り会えたけれど。
すべてはこの人が「走れ」と言ったから始まった。
心が揺さぶられた。
「ずっと言いたかったんだ、僕を見つけてくれてありがとう、今泉くん」



目線を合わせた瞬間に、それは来た。
お互いにひどく無防備になっていた。たまらなく相手を愛しいと思う気持ちに蓋をすることを忘れた。
自分の心はむき出しで。
相手の目も、底の底まで見えた。
頭で理解するよりも先に、分かった。
光のような速さで互いの想いが交換され、根づき色づく様に呼吸が止まる。

「…………え」
「あ……」

ぽかんとしてお互いを見るしかなかった。自分が今見た相手の想いがあまりに鮮烈すぎて。
嘘だと否定するにも言葉すら出てこなかった。
同時に自分の想いも相手に見えたことを悟って、もはや身動きもとれなくなる。

坂道が「え?ええ?」と言いながらばふーっと真っ赤になり、今泉は目線を泳がせながら口元に手をやった。
やってしまった、としか言いようのない心境の後に、湧きあがってくる歓喜はどうしようもない。

「お兄ちゃーん!次はどうするのー!?」
自転車に乗って必死に地面を蹴り、前進していた男の子が大きな声で聞いてくる。

「次はどうする…って…」
どうするんだよ。どうすんの。聞くのか。確認すんの?言うのか。言うべきなのこれ。
目が回る。ハイケイデンス。誰が回したのか、この高速回転。


たてた誓いも自分にかけた鍵も、バカみたいだと思うほど無効になった。
レースにもないような急展開にようやく今泉が息を整えて坂道を見た時、彼はもうしっかりとした目をして
いた。
こいつのメンタルの強さには負ける、と思う。
もう一度、まっすぐに視線を合わせた。もう隠す必要も感じなかった。
また、追いつかれたな。そう思った。

坂道の肩に手を置き、額を合わせるようにして目を細める。
笑った。それはあの暑い夏の日の記憶の中の最後の場面のようだった。
この世のすべての幸福をひとり占めした。


一週間後、二人は約束を反故にしたことを謝罪すべく、もう一度あの神社へと詣でる羽目になる。