公園には、昼間子供を連れた主婦たちが集う小さな屋根つきのあずまやがあった。
ちょうど近くに街灯があるせいか、案外と明るい。

ベンチにそっと座らせてくれると、今泉は荷物をおろし上着を脱いで制服の上からそれを坂道に着せ
てくれた。
いつもなら慌てていいよ!と遠慮するところだ。でも彼が本当に心配そうにしているのが分かるから、
そんな思ってもない事を言いたくなかった。
ありがとうと素直に呟き、もらったばかりの温もりにくるまる。


やがて今泉は坂道の足元の地面に直接座り込むと、持ってきたスポーツバッグから信じられない
ぐらい色々な物を取り出した。
まずは「こんなもんしかなかったけど食えよ」と袋に入ったやけに高級そうなパンを2個とペットボトル
の飲み物を渡される。今泉家のキッチンから調達したらしい。

「あ…そっか。僕、お腹がすいてるんだ…」
「そりゃそうだろ。おまえ、昼からほとんど飲み食いしてないんじゃねーのか。そんなんでまともに頭
が働くわけないだろうが」
「そうだね…ホントにそうだ。ありがと。い、いただきます!」
「ああ。おまえ食ってる間に手当してやるからな」

坂道が食べ始めたのを見届けると、次に今泉は治療のための道具を並べた。
救急キット、湿布、テーピング、はさみ、保冷剤まである。
靴と靴下を脱がせて患部を見た今泉が「腫れてんな…」と眉をしかめたので、坂道は「ひどい怪我
かな。自転車乗れなくなったらどうしよう…」と不安を口にした。

「今は考えんな。救急病院行ったってこれ以上の手当てはしてもらえねーし。明日、オレが病院連れ
てってやるから」
「う…うん」
「冷やして、腫れが引けばいいけどな」

(俊ちゃんが病院連れてってくれるんだ…?)
さらりと告げられ、喜びで胸がふくらむ。いつもみたいに面倒そうな言い方じゃない。
湿布を貼り、保冷剤を当てて丁寧にテーピングを施してゆく今泉の顔と手の動きを見ていた。
渡されたものを食べてしまうと随分思考ははっきりしてきたが、まだ信じられないような気持ちだ。
でも自分の足に今泉が大事そうに触れるから、心臓がとくとく鳴る。
これは本当に起こっている事で、何故かは分からないが彼は優しいまんまだ。嬉しい。

「あのな坂道…足痛いの我慢できそうなら、話したい事があるんだ」
「…!! いいよ、大丈夫だよ、全然痛くないよもう」
「ウソつけ。……でも邪魔が入らねーし、今がいいかと思うんだよな。辛かったら言えよ」

うんうん、と大きく頷く幼馴染を下から見上げるような形で、今泉は柔らかく口端をあげた。
その微笑みに坂道はビックリしたようだったが、ふにゃ、と笑い返してきた。
覚悟を決める。
眼鏡の向こうの大きな瞳をまっすぐに見つめるのはいつ以来だろうか。
そう感じるのは、自分が長く坂道ときちんと向き合わなかった証拠だ。
逃げてばっかり来たんだなオレはと自嘲する。だが今、気持ちは澄んでいた。全部を坂道に開け
渡す事、それをせめてもの償いだと思った。



「オレはもう嘘や誤魔化しは言わねーから。今から言うことは全部本当だから」
「俊ちゃん…?」

何を言われるのか見当もつかない。そもそも俊ちゃんは嘘や誤魔化しなんてしないのに、と坂道は
不思議に思った。
まあその分、お世辞とかお追従も言わないから人間関係が円滑にいかない時もあるけど。
でも俊ちゃんはかっこいいから。
そんなのは要らない。ロードバイクで走るこの人を見たらみんなが惹きつけられてしまう。

(でも僕は、自転車に乗るよりずうっと前から俊ちゃんが好きだけど)
誰と張り合ってんのと思う。でもそこはやっぱり一番を主張したい。
ふふ、と坂道が小さな笑みをこぼした。怪訝そうに今泉が見上げる。
こいつはたまに一人で妄想の世界で遊ぶから、何考えてるかオレでも分かんねー時があるんだ…
と困惑したが、何とか気を取り直した。相対する。


「あのな坂道。中学入ったぐらいからオレ、おまえに優しくなくなったよな…辛く当たってたっつーか
…どう思ってたんだおまえ」
「えっ…?いやその…辛く当たってなんかないよ…ふつう…普通なんじゃないかなもう大きくなったし」
「ちゃんとオレの目ぇ見て答えてくれるか」
「う……」

うなだれる坂道を見て可哀想に思ったが、ここを越さないと本題に入れない。
ほら、言ってみな…ともう一度優しい声で促すと、おずおずと視線がまた今泉のものと絡む。
「それは…僕が出来が悪くって…つまんない奴だって、俊ちゃんが気づいたんだって思ってた…」
言ったそばから傷ついたように潤む瞳。
そこにすぐにでも手を伸ばしたくなる自分を必死に抑えつけた。まだ触れるわけにはいかない。
今泉はゆっくりと首を振る。

「そうじゃないんだ、全然反対だ」
「え…?」
「めちゃくちゃ単純な事なんだ。その頃な、オレはおまえが好きなんだって気がついた」
「…………」
「けどそれが苦しくて、どうしていいか分からなくて、悩んで、認めたくなくて…だからあんな態度を
とるようになっていったんだ……済まない…」
「…………」

春の夜風が、向かい合う二人の髪をさらりと揺らしながら吹き抜けてゆく。
もつれた糸を解きほぐすように今泉の言葉は慎重だった。一言一言重みをもって発せられた。

だが突然の告白に、坂道の頭の中はぐしゃぐしゃにかき乱されていた。
何かにすがろうと自分の膝の辺りをぎゅっと掴んでみても痛みを感じない。平行が保てない。
俊ちゃんなにいってるの、と絶望的な気持ちが溢れてきた。
へんだよ、俊ちゃんが僕をずっとすきだったとか。
どうしてどうしてどうして。そんなはずがない。そんなはずないでしょう。

「なにいってんのおお…わかんないよぉ…!」
「分かんなくないだろ。言ったまんまだ。坂道、泣くな、ちゃんと聞いてくれ」
「だって、だって中学の時って、僕まだ自転車にも乗ってない…なんにも役に立ててない…そんな
んで何ですきにっ…すきになるの」
「役に立つから好きになるのか?ちがうだろ?」
「ちが…ちがう、けどっ…でもわかんないなんでか全然わかんないぃ…っ」

溜めこんだものが堰を切り一気に噴き出したように、坂道は身を震わせ声をあげ泣きじゃくった。
今泉がまっすぐ目を合わせて好きと言った。この嘘みたいな状況を本当と受け入れられない。
そんな素直でも可愛くもない自分が大嫌いなのに、好きだなんておかしすぎる。
もうヤケクソに近いというか、こんなんでも好きって言えるなら言ってみればいいぐらいの気持ちに
なっていた。

一方、今泉は今泉で結構なショックを受けていた。
まさか坂道の自己評価がここまで低いとは思ってもみなかったのだ。
さっきから聞いていると、自分の告白に拒否反応を示しているのではない。そういう意味では希望
が持てるとも言えるわけだが。
(オレが坂道をなんで好きなのかが分からないって、そればかり言ってる)

なんでコイツは、いい所も悪い所も知り尽くした幼馴染のオレの事をこんな手の届かない高嶺の花
みたいに思ってんだよ!とツッコミたくて仕方がなかった。
オレの育て方が悪かったのか…もっと褒めて褒めて伸ばすべきだったか…と思考がおかしな方向
へ行きかけたが、危ういところで踏み留まる。

ふー…っと長く息を吐き出した今泉を、泣き濡れた目で坂道が見た。
(それだって、昔からきれいだと思ってんのにな。泣いた後のおまえの目)
あー言わなきゃ分かんねーのか、今後は全部言うことにしようと心に誓いながら、今泉はバッグに
手を伸ばし中を探った。


「坂道。ちょっとインターバルだ」
「…?」
カラン、と音がする。今泉が取り出した物を見て坂道は目をみはった。
缶に入ったドロップ。色とりどりの飴の絵が楽しくて、振り出す時の音も好きだった。何色が出てくる
のかといつもワクワクした。
幼い頃、今泉はいつもこの缶入りドロップを持っていた。それと大きさの違う絆創膏も何枚か。
それはどちらも、よく転んでは小さな怪我をする坂道を泣きやませるための物だった。

「……俊ちゃん、今でもこんなの持ってるの…」
「いつもじゃないけど、たまに何となく買ってんな。今日はこれ持っててラッキーだった」
手ぇ出せよと言われ、反射的に両手を揃えて差し出す。今泉が振る缶の口からコロコロと色の違う
ドロップが4つ転がり出た。
だがそれを見て坂道は肩を落とす。ひとつ白い色のドロップが混じっている。

「……薄荷」
「ああ、おまえ昔からそれ嫌いだったな。まあ子供にはあんま美味いと思えるもんじゃねーか」
「味もそうだけど…最後まで残っちゃうミソっかすな感じが…僕みたいでやだった…」
「そんなこと考えてたのかよ」
「俊ちゃんいっつも食べてくれてたよねこれ」
「オレは好きで食ってたんだ。おまえの事もおんなじで、別に残りものを回収したがってるわけじゃ
ねーぞ」
「……っ」
「いいから3つとも食っちまえ。薄荷はオレ担当だ」

ひょいと白いドロップだけが摘まれ今泉の口に放り込まれるのを、何とも言えない気持ちで見届け
た坂道は、多すぎると思いながらも飴を3つとも含んだ。
甘い中にも違う味が混じり合って、なんか贅沢だ…とちょっと肩の力が抜ける。

今泉は自分を慰めるのも泣きやませるのも心得たものだ。
着せられただぼだぼの大きさの上着をかき合わせた。暖かい。彼のくれる慈しみに長く飢えていた
坂道は、涙も一時的な感情の昂ぶりもすうっ…と収まってゆくのを感じる。

嘘や誤魔化しはもう言わない、と彼は言った。
その通り、見つめてくる目は雲を払った夜空のように坂道だけを映し出していた。
自分の目にも今泉だけが映っている。それを見られてるんだと思うと甘く溶けおちそうになる。
愛を乞われているのだと、その時ようやく悟った。
じわ…と心の中で熱があがる。
それは、他者に欲しがられているのだと坂道が生まれて初めて意識した瞬間でもあった。

何かを読み取ったのだろうか。今泉が穏やかな表情のままに坂道の左手をとる。
両方の手で大切に包まれた。
手を引かれた分だけ坂道は少し前かがみになり、地面に座っている今泉との距離が近づく。


「オレな、おまえが嬉しそうに笑ってるとこ見るのが昔から好きだ。だからレースも絶対一番じゃない
とダメだって頑張って来れたしな…」
「しゅ…!?」
「おまえの喜ぶ顔もなしに、あんなきっついトレーニングに子供が耐えられるかよ」

口の中が飴でいっぱいで上手くものが言えない。もごもごする坂道を見て、今泉が人の悪そうな
笑い方をしている。
3つも食べさせるとかわざとだ…!と今更気づいてももう遅かった。
どんどん言葉が重ねられてゆく。
今まで言えなかったのを埋め合わせるように紡がれる、嘘偽りのない彼の声。

「気持ちが優しいとこも、何かやる時はマイペースだけどすげー一生懸命なとこも好きだ」
「……っっ!」
「ほんとは自転車競技始めてくれたのも嬉しかった。おまえにあんだけ才能あるの、もっと早く見抜
いてやるべきだったな。ロードに乗って走るおまえを見てると感動して泣きそうになる…」
「しゅ、…ちゃ…やめ…」
「まァ仲間やら友達やら外野が増えたのには正直めちゃくちゃ嫉妬してたけどな。そいつオレのもん
だ、オレが一番大事にしてきたんだってしょっちゅう口走りそうになるし」

くらくらする。これ以上目の前で好きだ好きだ言われるのには耐えられない。
だが足が痛くて逃げられないし、口の中はいっぱいで喋れない。手も握られている。
(インターバルって言ったくせに!俊ちゃんのバカバカ!)
ドロップを口から出してしまおうかとも思ったが、今泉に貰った物を無碍に扱えない習性の坂道は
それを消費しようと必死に無駄な努力を続けた。



「坂道。こんな気持ちにおまえを巻き込めないってずっと押し殺してきたけどな。そもそもそれが傲慢
だったって、幹に殴られてやっと目が覚めた」
「みきちゃ…殴っ…!??」
「ああ、別に物理的に殴られちゃいねーよ。ガツンと言われただけだ。坂道くんにとって何が幸せかは
坂道くんが決めるのよ、ってな」

(僕にとっての幸せは、僕が、決める…?)
幹が今泉に告げたという言葉、それがふいうちでズシンと重くのしかかってきた。
ずっと自分の事なんかどうでもいいと思ってきた。願ってきたのはこの人の幸せばかりだった。
なのに、これは。何なのだろう。
(俊ちゃんにとっての幸せが何かは、俊ちゃんが決める)

今泉が 『殴られた』 と表現した気持ちが分かった。坂道もひどく動揺していた。
聞きたくない事を言われた時と同じ。ドッドッと速い動悸と冷たい汗。

自分は傲慢だったのだろうか。勝手だったのだろうか。そう思ってこれまでを振り返るのは恐ろしい
ことだった。
『でも僕がいなくなれば、俊ちゃんは幸せになれるよ』
脳裏をよぎる、愛情のこもった だがひどく一人よがりな言葉。

知らなかったとはいえ、今泉は前からずっと好きだったと言ってくれた。
じゃあもし僕が勝手にいなくなったら俊ちゃんをどんなに傷つけただろう、どっちも全然幸せなんか
じゃないよ…と思い至る。
どれだけ分かった気でいたのか、自分は。
坂道の震えが伝わったのだろう、ぎゅ、と先刻よりもつよく手が握られた。

すげー痛いよな、と掠れた声で今泉が呟いた。
自分より相手を思いやってるって、いい事だって普通思うもんな…と。
まるで泣いているような声だった。


「オレな、この気持ちを知れば、おまえは最初悩んでもいずれ受け入れるだろうって考えてた」
「俊ちゃん…」
「その自信どっから出て来るんだって感じだけど、長く一緒に過ごしてきたからな…」

ようやく自由に喋れるようになってきた。小さく残ったドロップを坂道は口の端に押しやる。
いやな予感がする。早く僕も何か言わないと、そう思った。
だが考えがまとまらない。言う事を決めてここに来た今泉に完全に遅れをとっている。追いつけない。
「そうかもしれない。でもね俊ちゃん、それは僕が…」

本能的に分かった。今泉もまたひどい過ちを抱えていた。審判を仰ぐ人のような顔をしている。
それでももうすべてを曝け出すと決めたから、この人は坂道の所へ来たのだ。
目を合わせた。心の中、待って言わないでせめて僕に先に謝らせてと訴えた。
だが声にならない。
今泉も止まろうとはしなかった。

「オレは、おまえが恋じゃないものを恋だと言い張るだろう……そう思ってたんだ」

苦い苦い告白が胸にすべり落ちてきた。
落ちてきて最後にぐしゃりと潰れた。
ああ、俊ちゃんが最後まで隠し持っていたのはこれだったのか…と坂道は息をすることも忘れた。


本当に自分たちは、何てどうしようもない。情けない。
人が完全に分かり合うのも、相手のすべてを知ることも、そんなのできはしないのだ。
なのに出来ると勘違いしていた。自分たちだけは特別なんだと自惚れていた。

(勝手に考えて、決めて、決めつけて、知りもしないで)
(僕の気持ちなんか知りもしないで)
(僕のことばかりを大切にしようとした俊ちゃんは、ずうっとずうっと苦しんで)
浮かぶ言葉は返す刀のように切りつけてくる。傲慢だった自分にも血を流させる。

とても悲しくて、とても愛おしい。
どれほど間違っていても食い違っていても、この人を愛しているから自分はこうなった。
同じだった。
馬鹿みたいでも愛されていた。
そんな単純なことに、今やっと気がついた。



「………ひどい」
そう呟くくせに坂道は、あいている右手で今泉の髪をゆるゆると撫でてきた。責めるように眉を寄せ
ているのに、その仕草はとても優しい。
ああ、ひどいな…と言う今泉も、その手に慰撫されたがるように首を傾けた。
「オレは、おまえの判断を信じてなかったって事になるもんな…」

庇護すべき対象。おかしな方向に行かないようにオレが手を引いてやらないと。
そんな幼馴染根性が色んなものを歪ませていった。結局自分は坂道を対等の相手として見ていな
かったんだと今泉は思う。
(こいつが芯は強くて、これと決めた事は譲らないのを知っていたくせに)

好きだと打ち明ければよかった。
素直に、ありのままに。カッコつけずに。自分を差し出せばよかった。
そうすれば坂道は選択しただろう。どんなものであれ答を出していただろう。
自分が大きくなった分、坂道も成長した。それを認められなかった自分は本物のバカだ。

今泉は両手で握りしめていた坂道の手をそっと放した。告白は、終わった。
「ごめんな…」
心を込めて最後そう言ったつもりだった。だが坂道の口からは予想外の言葉が飛び出した。
「俊ちゃん、一人ですっきり完結されたら困るよ。まだ僕なんにも言ってないよ」
「坂道…?」
「僕がひどいって言ったのは、そういう事だけじゃないんだよ」


小さく深呼吸すると、坂道は途方に暮れたような今泉の顔をもう一度見やった。
背の高いこの人が自分より低い位置にいるのが珍しく、こうしてれば簡単に俊ちゃんに触れるなあと
埒もないことを考え、少し気を紛らわす。
そうでもしないとやってられない。
平静を装っていたが心臓はバクバクいっていた。でもここで主導権を取り返すと決めて、目にも声
にも力を込めた。

「だいたい僕が、どうして俊ちゃん以外の人を好きになれると思うのかな。変なとこは自信あるくせに
なんでそこ自惚れてくれないの」

僕はね…と、坂道は想いをそのまま声にする。
隠して大事に育ててきた いびつなのに美しいこの感情は、ずっと彼だけに向いていた。
他の人に向くことはないのだろう、と改めて思う。
それが生まれた時に二人が受けた呪いだったとしても、もういい。
最初で最後。
解けなくていい。がんじがらめになってこの人と生きていきたい。これを恋にしたい。


「僕はまだ俊ちゃんに好きって言われても実感が湧かないし、伝えてない事も色々ある。でも今言わ
なきゃならない事はひとつだよね。僕は自分の気持ちならちゃんと分かってるよ」
「……坂道」
「だいすき」
「……」
「これが恋じゃないっていうのなら、どんなのが恋か教えてよ」

新しい涙が頬を伝い流れた。今日一日でどれだけ泣いただろうと思う。
だが今のこれは甘い。
すき、すき、と言う度に胸のつかえがとれて楽になっていく。
だって何年も何年も押し込めてきた。外に出してやりたい。一晩中だって言っていたい。

今泉の目も潤み、すぐにも涙が零れ落ちそうだ。落ちる前にそっと掬った。濡れた指先に感情が沸く。
それをきっかけに、彼もすすり泣いた。
この涙は、ちゃんと言葉が届いた証拠だ。
俊ちゃんの泣いてるとこ初めて見た、すごくきれい、と坂道は微笑む。
オレも好きだよ…すきだ坂道……と低くて優しい声が波のように何度もこちらに返ってきた。

ああ、なんて。
しあわせ。

胸がいっぱいになり、坂道は今泉の肩に手をかけ頬をすり合わせるようにして好きとまた言う。
体に今泉の両腕が回り、そのまま引き寄せられて落ちるみたいに飛び込んだ。
抱擁になんかお互い慣れていないから、めちゃくちゃに触れて撫でて抱きあう。まるで子供。
これは、子供同士の初恋の成就。




「……なんかもうオレたちボロボロだな…」
何分そうしていたのだろう。永遠のようにも思える時間のあとで。
ようやく今泉が口にしたセリフはある意味本音そのもので、坂道は笑わずにいられなかった。

嵐の後みたいな散らかりっぷりだ。身も心も。
手加減なしに抱きつぶされていたので、メガネが半ば外れかけている。
それをもぞもぞとかけ直すと、間近で見る幼馴染の顔には涙の跡があったが、かっこよさが損なわ
れないのはさすがだった。

「ほんとだね、ボロボロだ…告白するって皆こんななのかな」
「まァ、どう考えてもこれはねーだろ」
「俊ちゃん、あの、僕らって両想いになったの…?」
「多分そうなんだろうが、もうまともに頭が働かねーな。こんだけよれよれじゃ」
「で…でも、なかったことにはならないよね!?」
「させるかよ。てか、おまえの気持ちを聞いた以上、逃がすか」

俊ちゃんてこういう人だったんだねえ…と坂道が目をまるくするから、オレは昔っからこんなだよと
断言しておいた。
そこでふと気がついて、「おまえに関してはな」としっかりと付け足す。
途端に坂道が目を泳がせた。耳の先が真っ赤だ。恥ずかしいらしいが慣れてもらわねーとなと今泉
は考えた。
言葉が足りなくてこんなに悲しむのはこれでお終いだ。



「今日はもう……帰ろっか?つかれたね。一緒にかえろ、俊ちゃん」
遊び疲れた夕方、手をつなぎ家路を急いだ時のようなあどけない口調で坂道がそう言った。
だが今夜、大きくなった二人を包みこんでくれるのは、乳白色の柔らかな月光だった。

月が出てたのか、と今泉はその時初めて気がついた。
なんでこんなに暗いんだと焦りながら走ってきたのが、もうずっと昔の事のように感じられる。

そうだな、と頷いたものの離れがたく、気づかれないぐらいそうっと短い髪に唇を寄せた。
その時、傍にあったドロップの缶に片手が当たり、カランと軽い音をたてて転がる。
お守りであり、二人の幼さの名残りのようだったそれ。


この先どうなるかなんて知らないし、怖くないと言ったら嘘になる。
それでも、手に入れた恋はいつまでも見ていたくなる程きれいな色をしていた。

今の自分たちの身の丈に合わない宝物ではあったが。
口に出さずとも、もう手離すなんて考えるのもいやだと二人ともが心に決めてしまっていたのだ。





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