ending.


やっと自室へ戻ってきた坂道は、ほうっとため息をついた。帰宅してからは、母に説教を食らいつつ
足首以外の傷の手当てをしてもらうというあまり歓迎できない展開が待っていたのだ。

その後、自分で足首の湿布を貼り替えた。
今泉が湿布だけでなく保冷剤を持ってきてくれたのが効を奏したのか、腫れは随分と引いている。
これなら明日は病院行かなくてもいいかもと思った。今泉は何と言うだろうか。

この数時間で起こった事や告げられた事、それに伴う変化、すべてにまだ実感が湧かない。
ただ、これからはまた今泉に話しかけたり笑ったり名前で呼んでもいいんだと思えば、じんわり胸が
暖かくなった。

具体的には自分たちはどうなったのだろうと思う。想いを告げ合った、それは確かだ。
だが好きだけが先行して、他がひとつも追いついていない。
今日まで思い込んできた事が全てひっくり返されたのだ。冷静になってみると戸惑うばかり。一晩
寝て起きたら夢だったとかないよね…と坂道は頬をつねった。

恋人になれたなんて大それた事とても思えない。
それでも、カーテンの向こうに灯る部屋の明かりを見ると愛しさに胸がつまった。
あそこに今泉が居るのなんて当たり前なのに、やっぱり何かが変わっている。心の中ぎゅうぎゅうに
押し込めてきた感情が外を向いている。


(だけど、僕はまだ俊ちゃんに話せていない事がある)
公園であれ以上話し続けるのは無理だった。寒いし時間も遅い。
後でママチャリなら取って来てやると言い、今泉は坂道を背負って家まで連れ帰ってくれた。

『俊ちゃん…自転車二人乗りすればいいんじゃないかな。二度手間になるよ』
『二人乗りは道路交通法違反だ』
『でももう遅いから、おまわりさんもいないよ?』
『バカ、夜遅いから警察が見張ってるんだろ。あとオレがこうしたいんだよ。嫌なのか』
『や…やじゃない!俊ちゃんがいいなら、このまま連れて帰ってほしい…』
『…ああ。おまえはそうやって素直に甘えてろ』

自転車に乗っている時もそうでない時も、ずっと目で追っていた背中におぶさって家までの短い道
のりを帰った。昔も何度かこんな事あったな、と思う。
だが成長した今泉は軽々と自分を背負い、途中で他愛ない事を話しかけても優しい声で応えてくれ
た。触れている事にドキドキしたけど、とても安心していた。
ああ、僕もこの人のために何かできたらいいのに…と改めて感じた。

(僕が、何故やらなかったんだろうってずっと後悔してきたこと…)
ふと思いついた坂道は足の具合を確かめる。多少の痛みはあるが、動けないわけではない。
じゃあ行こう、すぐにそう決めた。
素直に甘えてろと今泉は言ったけど、それでは何も変わらない。
(自分から動かないと)
よし、と気合いを入れ、窓を開けベランダの手すりを握りしめる。勢いをつけて体を浮かした。



向かいの部屋に明かりがついた。今泉がママチャリを回収して戻ってから大分時間がたっていた。
自分が家まで送り届けたくせに坂道がどうしているか心配だ。
だがもう大っぴらに心配してもいいのだと思うと、解放感も半端ではない。

(けど今まで通りってわけにもいかねーな…オレらの関係性は変わったんだ)
幼馴染というベースは残るだろう。
それなしで成立しないという意味では自分たちは最初からいびつだった。幹もそれを懸念していた。
だが今夜、何もかもを後回しにして恋に踏み込んだ。
もう戻れないし戻る気もない。

今回以上に傷ついてぼろぼろになる事もこの先あるかもしれないと今泉は思った。
それでも欲しい相手は一人だけだった。因果なもんだと笑い肩をすくめる。


その時、坂道が自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。
いくらなんでもアイツの事を考えすぎだろオレ、と気恥かしくなったが、耳を澄ますと 『俊ちゃーん…
しゅんちゃーん』 とまた小さく伝わってくる。
今泉はガタッッ!!と立ち上がった。嫌な予感に手が震えた。
カーテンを払いベランダの窓を開けると、双方の部屋の間にある巨木に坂道が乗っている。
完全に血の気が引いた。
だが坂道は暢気なもので、「そっち行きたいからちょっと手伝って」と片手を伸ばしてきた。

もうそれからの事は恐ろしくて思い出したくもない。
坂道の手をとり、絶対下見るなよ!と叫びながらベランダの柵に足をかけさせ、もう自分が後ろに
転倒しそうになるのも構わず、抱きかかえるようにこちらへ回収した。
今夜一番の緊張感だった。今泉は泣きたくなった。


「良かった、渡れた!ありがとう俊ちゃん」
「何言ってんだ、渡れてねーよ!!!」
「う……そうとも言うかもね」
「いやちゃんと現実を直視しろ!ていうか二度とやるな!落ちて首の骨折って死ぬ気か!おまけに
おまえ、おまえな…そんな足で何やってんだよ……」

テーピングで固められた右足としょんぼりした坂道の顔を見比べるうちにたまらなくなり、今泉は
幼馴染を抱き寄せた。
もう悲しい顔をさせたくないと思ったそばからすぐこれだ。
これではいけない。おまえが心配だから、大切だからと言葉でも伝えなければと思う。
「会いたいって思ってくれるんなら、いつでもオレが行く。呼べばいいだろ…」

叱られて一瞬へこんだが、驚きのあまり今泉が胆を冷やしたのだとすぐに坂道は気がついた。
今泉の鼓動が早い。
さっきより自分が薄着になった分、抱きしめられるという行為がダイレクトに感じる。
僕の事で俊ちゃんはこんな風になるんだと思ったら、かあっと頭に血が上った。
ビックリさせてごめんねと謝ると、まったくだ心臓に悪すぎると笑ってくれたからほっとする。


「あのね…僕は自分から一度も俊ちゃんのベランダに渡った事がないのを良くないってずっと思っ
てたんだ。だから待ってるだけはやめよう、今日渡ろうって…」
見上げ懸命に説明すると、今泉はものすごく複雑そうな顔になった。
どうしたの?と首を傾げると、あー…覚えてねーのかおまえと言われる。

「おまえがこっちへ渡った事がないのは、オレにきつく言われたせいだ」
「えっなんですかそれ」
「昔、これだけは絶対守らせないとと思って、『もしやったら、きらいになるからな』って言ったんだ。
おまえすっげーギャン泣きしたけど、ちゃんと効果は持続してたのか」

今泉の胸に手をつくような形で坂道はぽかーんとなった。記憶を探るがどうにもその時の事が思い
出せない。おかしい。
「え…?でも僕、あんまり賢くないけど俊ちゃんに言われた事は何だって覚えてるよ」
「きらいになるって言われてショックだったんじゃないのか?だからそこは忘れたけど、ベランダを
越えたら怖い事が起こるって刷り込まれてんだろ」
「えええええ〜」

忘れていた事実を明かされた坂道は、恥ずかしさに穴を掘って埋まってしまいたくなった。
自分の待ち受け姿勢を悲劇のヒロインみたいに悔やんでいたのに、刷り込み効果でデッドラインを
越えられないだけだったとは。
恥ずかしいよおお!と身悶える坂道を不思議そうに眺め、「とにかくもうやるなよ」と今泉は真面目
に念を押した。
俊ちゃん心配性だなあと思ったが喜びの方が大きい。うん!と大きく頷く。


「まあでも、やっぱりありがとな」
「え…?」
「一回でもおまえから来てくれたのは意味あると思うからな。あそこに……」
言いながら今泉は坂道の部屋のベランダに視線をやる。絶対に手が届かないはずだった相手は
今、腕の中にすっぽりと収まっていた。

「あそこにいるおまえがどんなに遠く思えたか考えると、嘘みたいだ」
「俊ちゃん…」
「嘘みたいに幸せだ」

坂道も自分の部屋の方を見た。あの夜の今泉は珍しく優しかったのに、それがいつにも増して辛
かった。1ミリも近づけていないと知っていたからだ。
あそこで立ちすくんでいた自分。今ここにいる自分。
本当だ、距離が縮まった事にはちゃんと意味がある。
僕もおんなじ気持ちだよ、と言うと頭を撫でられた。子供っぽいけれどこんなのもいい。



「あのね、俊ちゃん…僕、まだちゃんと話せてない事があるんだ」
「…ああ、おまえが大学はオレから離れてどっか遠くへ行くつもりだって言ってた事か」
あっさりと言い当てられ心臓が跳ねる。ぱっと身を離し今泉を見たが、彼に取り乱した様子はなか
った。

「知ってたんだ…幹ちゃんに聞いた?」
「教えて貰えたのはそんだけだ。おまえが何を考えてたか、何を気に病んでそうまで決心してた
のかは分からない」
「そっか…」
「でもな坂道、今日はもうやめとけ。おまえの問題を軽く見てるわけじゃないが、今日はもう泣かせ
たくないってのがオレの本音だ」

そうだね…ずいぶん泣いたもんね…と頷く。
一日で何もかも解決してしまおうとするなんて、ちょっと無茶すぎだった。
言わないのはフェアじゃないと焦っていたが、自分たちはとっくに限界だ。平気そうな顔をしている
が今泉にとっても激動の一日だったのだ。
僕は俊ちゃんをスーパーマンみたいに思うクセがあるからな…それも直していかないと…と坂道は
思う。


「その事も含めていっぱい話をしないといけないね…」
「ああ。これからはちゃんと傍にいる。ただ近くにいるってだけじゃなく」
「そうしたら…たくさん話をして、今までの分を取り戻せたら…」
「うん…?」
「いつかもっと先かもだけど…なれるかな、その…こ…恋人…に」

なけなしの勇気を振り絞ったのだが、今泉が気軽に頬をつまんで「おまえ、顔真っ赤だぞ」とから
かってくるからちょっとふくれた。
それを楽しげにながめ今泉は、「まァオレなんて、昔っからおまえのだろ」と言う。
だから恋人になれるかは坂道次第だな、と今度は丁寧に教えてくれた。

「しゅ…俊ちゃんは、僕のなの?」
「ああ。子供の頃に約束しただろ?おまえの欲しいもんは何だってオレがやるって」


………そんな風に。
そんな風にあっさり言ってしまえるこの人も、それを胸が疼くほど嬉しいと感じる自分も、やはり
何かに囚われているのかもしれないと坂道は思わずにいられなかった。
多分、普通じゃないのだろう。
でも普通の恋ってそれどんななのとも思った。そんなものはほしくない。

自分はここからまた彼と手を繋いで、つまずきながらも歩いていく。
きっといいことばかりじゃないだろう。
それでも。
小さく切り取られたものでいいから青空が見える方へ、光る方へ行きたいとつよくつよく願った。

『坂道くんにとって何が幸せかは、坂道くんが決めるのよ』
幹の声が聞こえたような気がして、さやさやと揺れる大木を見上げる。
だがもうそれは傷つけてくるものではなく、深い愛情のこもった贈り物のような言葉だった。


自分から手を伸ばして、ひと回り大きな手の中にすべり込ませた。暖かく乾いた感触。
笑った顔が好きだって言ってくれたから、今日はそれで終わらせようと思う。

「俊ちゃん、ほんとに大好き」
「坂道…」
「明日も一緒にいよう。約束だよ」

長かった一日が、その境目を越える時刻。
頷き、小さな沈黙をはさみこんでから、

近くて遠くて遠かった幼馴染は、おまえを愛してるよ、そう言うと目を細めながら笑った。