金曜日。授業が終わり、ふと気がつくと教室に坂道の姿がなかった。
まあ別に一緒に部室へ行くわけではないが、違和感に今泉は眉をひそめる。
同じクラスになったのをいい事に常に坂道の姿が目に入る席をキープしているのだが、くだらない
事を話しかけてきたクラスメイトのせいで見失った。

何となくいらっとしながら部室へ行ったが、着替えているメンバーにも坂道の姿が見当たらない。
あいつどうしたんだ、担任にでも捕まったか?と考えをめぐらす。
それとも体調でも悪くなったのだろうか。どっかでイジメにあってるんじゃねーだろうな、とありとあら
ゆる可能性が脳内に渦巻いた。
そんな今泉の心労も知らず、鳴子が幹に「なあなあマネージャー、小野田くんおらんで。どないした
んやろ」とあっさり聞いている。

「ああ、坂道くんは今日特別にお休みにしてあげたの。アキバで買いたい物があるらしくて」
「そうやったんか〜小野田くんここんとこ元気なかったから、ええ気分転換になるわ」
「そう、たまにはいいかなって思って」
なごやかに笑いあう鳴子と幹の間に、今泉は険しい顔つきで割って入った。
な、なんやスカシ!?と驚いた声をあげる鳴子に構わず、幹と向かい合う。

「おい、聞いてねーぞ」
「え、坂道くんのこと?どうして今泉くんにお伺いをたてないといけないの?」

幹の言い方はさらりとしていたが、僅かに怒りを含んでいた。
それを耳にした部室に残っている部員たちは本気で震えあがった。
今まで小野田坂道を挟んで、幼馴染の今泉と幹はどちらも溺愛を隠そうともしなかったが、それなり
に棲み分けをして平和を保持していたのだ。しかしついに龍虎が激突する日が来たのか。

だが今泉の憤りが空気をぴりっと震わせた瞬間、「こらこらケンカすんなよお前ら」と気の抜けたような
手嶋の声が割って入った。
緊迫した空気が、ほうっと緩む。
「オレが許可した。なんかまずかったか今泉?」
さすがに主将に真っ向からそう言われては、今泉も一歩退くより他にない。
「いいえ…」と小さく答えたが、見れば歯を食いしばり感情の波に耐えているようだった。
コイツもなんか八方塞がりでどこにも出られませんって感じすんなー…と手嶋は嘆息する。

「主将、ちょっと今泉くんと話したいので、二人にしてもらってもいいですか?」
「いいよ。静かーに話し合うならな」
「大丈夫です」
手嶋と青八木に追い立てられ部員は全員出ていった。鳴子だけは気がかりそうな顔で振り向いたが
結局何も言わなかった。



無表情のまま、手近にあったパイプ椅子にどかっと今泉は座りこんだ。
少しの間黙りこくっていたが、やがて「悪かった…寒咲」と低い声がぽつりと告げてくる。
昔からロードレースをやっている今泉は、感情の抑制が効くよう訓練されているタイプだ。
その分、中に溜めこんじゃう人でもあるから実は危ないんだけどね、と幹は冷静に分析する。

「いいわよ。でもちょっと煮詰まりすぎね」
「そうだな…けど近くにいるのに離れてるせいか、年々しんどくなる一方だ」
「うん。でも私はそれだけじゃないと思うな。今泉くんは……坂道くんがロードを始めてから、もっと
好きになっちゃったんじゃない?」

その指摘にやっとこちらを見た今泉は、何ともいえない顔で「ホントの事ばっかり言ってヤな奴だな
おまえは」と笑った。
「私しかいないでしょ、そういうの」
「そりゃそうか」
「でも分かる気はする。自転車に乗ってる坂道くんには感動するもの。本人気づいてないけど」

削って磨くまでその人の真価は分からないものだ。
自転車に関わり続けてきた、長く長く坂道の傍にいた幹と今泉ですら目を瞠るような、あの走り。
人が何故過酷なロードレースに挑むのか、何を求めるのか。
その答をかいま見たようで、胸が熱くなる。
あの優しい幼馴染が譲らないという強い意志を見せる時、幹は心を動かされると同時に泣きたく
なった。
彼が、誰にすべてを捧げているのかを知っていたからだ。


「子供ん時な、補助輪なしの自転車に乗れるようになったのは坂道が先だったんだ…」
「そうなの?じゃあ坂道くん、最初から素質があったのかな…でも今泉くん焦ったでしょ」
「焦ったよ。あいつを先に家に帰して練習しようと思っても、一緒じゃなきゃいやだって帰らねーし」
「でも努力してる俊ちゃんもかっこいい!とか坂道くん言いそうだけど」
「オレは何だってさらっと出来て見せたかったんだよ、坂道に」
「見栄っぱりねー」

ばっさりと言われるのが妙に気持ちいい。幹は昔から今泉にはこんな風だった。
それでケンカをする事もあったが、さばさばしていて後を引かない。
どっちかというとコイツの方が男の幼馴染みたいだなと今泉は失礼な事を考える。
だが見栄も虚勢も通用しない相手は却って気が楽だった。そして言葉にしなくても今泉は彼女の
事を信頼してきた。
今も自分に何かを告げたくて引きとめたのは薄々分かっていた。

ガランとやたら広く感じる部室。光線の加減かホコリが舞っているのが見えている。
幹がとん、と背中をロッカーにつけた。言葉を選びあぐねるように。

外からは練習が始まったのかいくつかの声がかすかに届いていた。こんな所でそれを聞いている
自分は、学校を休んだ日の子供のようだと思った。
(坂道は、今どこにいるだろう)
アキバを目指して歌いながらママチャリを走らせている姿が浮かび、今泉の口元が少し緩む。
だがやがて、『話せよ』 と促すようにもう一人の幼馴染を見た。


「今泉くん、私ね…もし二人が普通に男の子と女の子だったとしても付き合うのあんまりいいと思わ
なかっただろうなって…」
「なんでだよ、オレはそんなダメな男か?」
わざと笑いを含んだ声で今泉は言う。だが、幹は生真面目に首を振るだけだった。
「違うわ。幼馴染がどういうものか、自分でもよく分かってるからよ」
「……狭くて、幸せで、他の誰も必要としない、か」
「そうね、二人だけで幸せになれちゃうから」

(知らないうちに二人に影響されてたのかな…私も何だか迷いすぎてた気がする)
迷うのは当然ではあった。両方の気持ちを知っているのは幹だけだった。
そして、自分が動けば今泉と坂道はどんな形であれ結ばれてしまう事も分かっていた。
どうなったら幸せってことなのか。
そればかりを思ううちに、幹も下手に行動できなくなっていた。がんじがらめになっていたのは、この
二人だけではなかった。

(でも私たちは、相手を一番思いやってるって気持ち良さからもう抜けださなくちゃいけない)
そんな決意を込めて、幹は今泉をしっかりと見据える。

「でもね、今はそういうの全部、大きなお世話だったかなーって思ってるんだ」
「大きなお世話って…おまえはオレたちの事を考えてくれてんだろ」
「そうね、そしてあなたは坂道くんを。坂道くんはあなたのことを一番に……だけど」

愛おしむような、憐れんでいるような、不思議な表情を浮かべる幹から急に目が離せなくなった。
その時初めて、今泉は唐突に理解した。
ああコイツはオレたちと種類の違う生き物なんだな、と。
ほんと男ってどうしようもないわね、と言われた気がして、言葉が喉にひっかかり出てこない。
そしてそこへ決定打が来る。

「あんまり自惚れるもんじゃないわよ、俊輔」
「………幹」
「坂道くんにとって何が幸せかは、坂道くんが決めるの」

昔ながらの呼び方。静かな声がガードも許さずに自分を打ちのめすのを感じた。
まともに食らう。世界中が振動する。
ぐらぐらするくせに真ん中だけが冴えていて、そこにあるものを今泉は呆然としながら読み取った。

(ああそうか、そういう事なのか)
大切に守っているつもりだった。この恋の泥濘に坂道を引きずり込まないと決めて。
(けどオレは、坂道の望みが何か本当に知ってるのか?)
(一度でも知ろうとしたか?)

知ったかぶりをして、決めつけて、分かっていると自惚れて。
それがここ何年も自分がやってきた事なのかと思い至ると、恥ずかしさに消え入りたくなった。
坂道を傷つけて泣かせて臆病にさせた。幹にこんな事まで言わせた。
そうまでして必死に守ってきたのは、結局自分自身の心だけだった。



少しの間、言葉を無くしうなだれる今泉に幹は何も声をかけなかった。
さぞかし苦かったであろう薬を無理やり口に突っ込んだようなものだ。ショックも大きかったはずで。
だから彼が落ち着くまで待っていた。
それとは別に、とうとう言っちゃったな…という思いも内心ではある。

なるべくフェアであろうとしたけれど、思い通りにいかないものねとため息がもれた。
うまくいってほしい、そんな気持ちがどうしても裏で働いてしまう。
仕方がない。まだ本当の意味で恋を知らない幹にとって、この二人は一番大切だった。
いつかはその順位も下がるのかもしれないが、今はまだその時ではない。


ぽんぽん、と小さな手が自分のジャージの肩を叩くのを感じて、今泉はのろのろと顔をあげた。
間近に幹の大きな瞳が心配そうに揺れている。
ごめんね、と小声で言われ、何で謝るんだ…?と思った。
それが伝わったのだろう。幹は「痛かったでしょ、ごめんね今泉くん」ともう一度繰り返した。

「あのな…今のがオレが殴られたって事になるなら、殴ったおまえの手も痛かっただろうが」

正直、まだ混乱している。
だがこの幼馴染が余程の覚悟を決めてああ言ったのは分かっていた。
そうさせたのは自分だ。だから思考はまとまらないものの、済まないと真っ先に思った。
幹は八方塞がりなこの状況を変えようとしている。
その最初の一手を引き受けてくれたのだ。今泉と坂道のために。
(大きなお世話なんかじゃないだろ……貧乏くじわざわざ買って出やがって…)

「うんでもね…本当は私、坂道くんにも同じ事を言おうと思ってたの。なのに言えなかったから」
「坂道にも…?」
「だから今泉くんが伝えてくれる?押し付けるみたいでズルイけど、私の言ったこと。坂道くんにも
一緒に考えてほしいのよ…」

傍に立つ幹を問い質すように見上げると、彼女は んー…と焦らすような様子を見せた。
だが、「今日は今泉くんをいじめちゃったしね、もう少しだけサービスしよっかな」とニッコリする。

「坂道くんね、高校の間に自転車でできるだけ俊ちゃんの役に立って、そして大学はどこか遠くに
行くつもりだって話してくれた」
「は……!?」
「僕がはやく離れてあげないと、俊ちゃんは幸せになれないって」
「な……ちょっと待て。くっそ…!何なんだよ、それは!!」
「口止めされてるんだけどな。言っちゃった」

今泉は血相を変え、幹は「ここまでよ」と楽しげな口調で言う。
こうして賽は投げられた。

現状維持という選択肢を完膚なきまでに潰された今泉は、だが不思議と自由になった自分を感じ
てもいた。
退路を断つ。雑念を払う。想いが収束していく。
(純粋さが勝敗を分かつ)
ロードレーサーのシンプルな有り様を思い起こすと、頭がしゃんと上がった。目に力が戻る。

紙一重の覚悟の上をずっと走ってきた。幼い頃からその姿を坂道に見せてきた。
ありのままの自分にどれ程の価値があるのかは知らない。
(それでも、オレは)
昔も今も。愛しい相手に捧げられるものなど、それしか持ち合わせていなかったのだ。





昼間や夕方は元気に遊ぶ子供たちで溢れているこの公園も、今は人っ子一人見当たらず、坂道が
ブランコを揺らす鈍い音がただ響いている。

常夜灯と周囲の家の明かりだけでは薄暗い。夜は暗いものなのだと気づかされる。
吸い込まれてしまいそうな空。
坂道にとって幼い頃から夜は楽しいものだった。ベランダで向かい合いいつまでも今泉と喋り続け、
笑い声をたてて、しまいに親に叱られたものだ。
成長してから、どちらかというと今泉が寡黙な人なのだと分かった。
無理をして、頑張って話をしてくれてたのかなあと思う。
でも楽しそうにはしていたし、今泉も夜はいいものだって思ってくれていたなら嬉しい。


もう夜の9時を回っている。だが家から歩きでも来れるほど近いこの公園で坂道は立ち往生して
しまっていた。

アキバへ自転車で向かう間も、買い物をしたり色々見て回っている時も、今日はとても楽しかった。
幹の言うとおり、気分転換というのはやはり必要なものらしい。
今どうにもならない事を考えすぎたって苦しいだけだ。
そう思い、予定より少し散財しすぎてしまったが欲しいものをたくさん買った。
戦利品を背負うと久しぶりに満ち足りた気持ちになり、にこにこしながらアキバを後にしたのだ。

だが帰り道の2時間は長く、ペダルを踏む足は次第に重くなっていった。
もう夜になりつつあったし、歌いながら走るわけにもいかない。
誤魔化しても気をそらしても、僕が考えたいことなんてひとつっきりなんだよな…と苦く笑う。
自転車で走っていけば会える距離にいる人。
だけどいつか、自転車では会いに行けなくなってしまう人。

みんな誰かを好きになったらこんな苦しいのかな。聞いてみたい。
大好きすぎて、怖いぐらいだと思う。
いつの間にか視界を揺らしていた涙をぐいっとぬぐった。
なのに後から後からあふれてくる。雨のようにやまない。
坂道が片手運転になっていたそのほんの僅かな空白だった。道路の荒れた部分にザリッと音を
たてて車輪をとられたのは。

がくんと体勢が崩れるのも、体が浮くのも、まるで他人事のように感じていた。
頭は落車する!と危険信号を発しているのに、身を守ろうと体は動かなかった。

坂道はかつてないほど派手に落車した。転ぶのには慣れているといっても、受け身を取ろうとしな
かった分ダメージは大きかった。
右足首を押さえてうめく。あっという間に驚くほどにその部分は腫れあがった。
とにかく車に轢かれないようにとずるずる歩道へ乗り上げたが、しばらくは暗がりで動けずにいた。

頭は打ってない。だが肘や肩のあたりが制服を着ていてもひどく擦り剥いている気がする。
あちこち痛いけどただの打撲だ…問題なのは右足首だけ。
頭の中で必死に現在地を確認をした。もう家までは遠くない。だが落車のショックも大きい。
結局、少し休もうと一番近いこの大きな公園へなんとか辿りついた。
自転車を置き、タオルを水で濡らして足首に巻いたがすぐにぬるくなってしまう。


もう時間が遅かったから、母に簡単に事情を説明するメールを送った。
家の近くまで帰ってきたけど転んでちょっと怪我をした。公園で休んでるから心配しないで、と。
『どうしても無理そうなら迎えに行くから言いなさいよ』 と返信。

ついでに他のメールも確認した。
鳴子から 『今日はええもん買えたか!?』 というタイトルのものが来ている。
『小野田くんおらん間にスカシが暴れてなあ、えらいことやったで』 とあり、首を傾げた。
(暴れた?ってなんだろ、俊ちゃんが?)
まあ鳴子と接するようになって、関西弁のニュアンスの特殊さも少し分かってきた。言葉をすべて
額面どおり受け取るとおかしな事になったりする。

待ち望んでいた人からのメールはひとつもなかった。
(気にもしてもらえないか、やっぱり…)
坂道のママチャリが玄関口にないことも、部屋の明かりがつかないのも、今泉が意識していれば
すぐ分かる事だ。
この前の夜、ベランダで話した時の今泉が優しかったからつい期待した。
心配してもらえるんじゃないかと考えた自分は、浅ましくて惨めでバカみたいだ。

それでも、その醜いとも思える部分が恋だった。
どうしようもどうにもならない。それを愛しくすら感じ、制服の胸をぎゅうっと握りしめる。
夜の底でも彼を望む。
そうしていると怖くなかった。俊ちゃん、と呼べば小さな明かりが点ったようだ。
だから足は痛かったけれど坂道は微笑むことができた。ここにはたくさんの思い出があったのだ。




「怪我した!?どこをですか」
「それがねえ、詳しい事書いてないのよね。場所も何だかはっきりしないし」
「メール見せてください、おばさん」

坂道の母の手からひったくるようにして携帯の画面に目を走らせる。途端に今泉は何とも言えない
困惑と脱力に見舞われた。
分かるのは、帰り道に落車した、怪我をした、近くまで帰ってきてる、動けないから公園で休んで
いく、それだけだ。
せめて場所ぐらいハッキリ書けよ!と思うが、助けを求めていないところを見ると救急車を呼ぶほど
の怪我ではないらしい。そこだけはほっとする。
(だけど動けねーって事は、足をやってんのか…?)

一旦、自室へ駆け戻った今泉は、スポーツバッグに思いつく限りの品を手早く放り込んだ。
帰宅後、待つ時間の長さにじりじりと耐えながら、坂道を迎えに出ようかとは何度も考えた。
しかしお互い自転車ではどうせまともに話もできないし、帰ってくるのを待ってやるべきだと今の今
まで我慢していたのだ。
だがそれがビックリする程裏目に出た。さすがは坂道だとしか言いようがない。
まさか負傷しているのに助けてとも言わず、公園で立ち往生しているとは。

念のために自分の携帯の履歴も確認したが、着信はひとつもなかった。
そりゃそうか、言えねーよなと今日までの仕打ちを振り返り、苦いものがこみあげる。
自分がそう仕向けた。言えなくてもそれは坂道のせいじゃない。


パーカーに袖を通し、荷物の入ったバッグをを斜めがけにして今泉は家を出た。
愛車のSCOTTに乗ろうとは思わなかった。後部座席のないロードでは坂道を連れ帰れない。
暗い夜道を自分の足で必死に走った。なんだよ、なんでこんな暗いんだよ、と焦る。

(アイツ暗いの嫌いなんだぞ。絶対泣いてんだろ)
(こんな事なら離すんじゃなかった。オレはどこからどんだけ間違えたんだ)
(坂道はオレに助けてほしいに決まってるのに)

閑静な住宅街であるこの辺りには大小の公園が点在していた。
今泉の理性は、坂道に電話かメールをして場所を聞き出すべきだと主張している。徒歩で動いて
いるのだからなおさらだ。
だが足は一度も止まろうとしなかった。オレに分からないわけねーだろ、と思う。
(アイツが何を考えてどう動いてるか。どこでオレを待っているのか)
(間違わない)
(もう絶対に間違わない)

根拠は自分の中にあった。いつだってこんな風に走ればよかったのだ。
頭でごちゃごちゃ考えた結果がこのザマだ。だが、もう間に合わないとは思わなかった。
まだ間に合うし、坂道は自分を待っている。
どんだけ自惚れてんだオレは、と思ってみてもそういうものなのだ。説明できない。

スポーツバッグの中でカラカラと缶に入った物が音をたてている。
今夜これが手元にあってよかったと今泉は笑った。
小さい頃、よくこれで坂道を泣きやませた。魔法のアイテムだ。この音を聞くと自信が湧いてくる。
オレにはおまえが、おまえにはオレが、必要なんだとつよく思える。

昔、二人で自転車の練習をした公園への道を、出来うる限りの速さで今泉は駆け抜けた。
こんなにずっと一緒に生きて来たくせに、今会いたいと願う。
ただそれだけが自分にとっての恋だった。





幾らなんでもここにずっとは居られないと坂道は考えた。春の夜は肌寒く、体ももう冷え切っている。
右足に巻いたタオルと怪我をした患部だけが異様に高い温度だ。ズキンズキンと脈打って、悪くなる
一方のような気がする。

だが高校生にもなって母親に迎えに来てもらうのはどうなんだと、よろよろと立ち上がり自転車の方
へ数歩進んでみた。
途端に耳鳴りがするような痛みが走った。小さく悲鳴があがる。
前のめりにべしゃっと転んだ。ついた手にザラザラと砂の感触が刺してくる。
今の激しい痛みに気持ちがくじかれてしまった坂道は、情けないがこれ以上動く事にすら脅えた。

(どうしよう、ひどい怪我だったら。夏のインハイで走れなくなったら)
(自転車に乗れないと、僕は何の役にも立てなくなるのに)
(どうしよう、どうしよう、こわい)

ぎゅっと目をつぶる。本物の闇がやってくる。
小さく圧縮され閉じた世界。そこにはいつも自分を助けてくれた人しか浮かんでこなかった。
手を伸ばしたかった。あの人に平気だと言ってほしかった。

『おまえホントよく転ぶな、坂道』
『うえっえっ…俊ちゃ…ごめ…うえええええん……』
『別にいいよ。怒ってるわけじゃねーし。でもあんまり泣くと目が溶けるからな』
『溶け…とけちゃうの…?』
『いやウソだ溶けねーよ。それにオレがいるだろ。オレがいたら坂道は転んだってぜんぜん大丈夫
なんだよ』


「坂道!!!」

地面についた手の上に涙がポトリと落ちるのを感じた瞬間、都合よく大好きな人の声がした。
僕の妄想にしてはリアルで上出来だなあとのろのろ考える。
だが目を開けると、這いつくばっているその先に見覚えのある靴があった。
荒い呼吸音が落ちてくる。
自分とは違うもうひとつの影が伸びていた。怖かった、怖かった、顔をあげるのが怖かった。

「坂道!おい、しっかりしろ!聞いてんのか」
屈みこむ気配。温かい大きな掌が頬を包んで、無理やり顔を上げさせられた。
きっとひどい顔をしている。絶望と期待、悲しみと喜び、驚きと信じられなさでぐちゃぐちゃのその
顔を、だが彼は平気で覗き込んでくる。
おまえの事なら何でも知ってる、今更何だよ、という顔で見つめる。

「俊…ちゃ…」
「ほら、間違えなかっただろ」
「……?しゅん…ちゃ…」

落車しただけで何がどうなったらこんな悲惨な状況になれるんだとは思ったが、壊れた蛇口のように
大粒の涙をぼろぼろ零し始めた坂道を見ると、愛しさに負ける。
(こんな暗いとこでずっと一人でいたのか)
思いながら丸い坂道の後頭部に手を回し、そうっと引き寄せた。腕の中に閉じ込めた体が冷たい。
すすり泣きながらも坂道がとまどったような声をあげている。
だが今泉は無言で髪を撫で、肩を撫で、自分の全部を使って坂道を抱きしめた。
耳元に「もう大丈夫だ」と小さな囁きを落とす。
それを聞いた途端、坂道がほうっと深い息を吐き出した。頭の中は混乱しているのだろうが、心や体
は今泉の声に素直だ。かわいい。

「ちゃんとつかまってろよ坂道」
「え?え…ちょ…ちょー俊ちゃん…なに!?」
「何っておまえ、足やってんだろ。話もしたいが手当が先だ。暴れんな」

声がひっくり返る。急展開に頭がまったくついていかない。これはもう超展開だと思う。
突然今泉が現れたと思ったら、つよくつよく抱きしめられて。
ぼーっとした頭のままその暖かさにぐずぐずと浸っていたら、軽々と抱きあげられてしまった。
さすがの坂道も、この人誰ですかと問い質したくなる程だ。
そして口にするのも恥ずかしくなる行為を流れるようにやってのけている幼馴染は、いったい何故
ここに出現したのか。

(でも、俊ちゃん笑ってる…)
泣き腫らした坂道の目にそれはたいへん明るく頼もしく映った。頭の中は疑問符だらけなのに、もう
大丈夫なんだなあ、と納得している自分。うまく説明できない。

「どうしてここが分かったの俊ちゃん」
「おばさんに聞いた。メールも見せてもらった」
「でも僕…どこの公園かメールに書かなかったよ?」
「分からないわけねーだろ。おまえがどこでオレを待ってるのかぐらい」

ズバッと言ってやったら目をまるくして口ごもる。その顔がツボに入って、今泉は思わず抱く腕に力
を込めた。まだ肝心な事を何も告げてないくせに心がふわふわする。
「あんま心配させんな。オレの息の根を止める気か」
甘めの声でそう言うと、恥ずかしそうに目を伏せて坂道が襟元をぎゅっと握ってくるから、今はそれで
満足できるあたりオレも相当参ってんなとおかしくなった。





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