坂道、坂道と優しい声がする。ああ、またあの夢だ、と分かっていても嬉しくて微笑んでしまう。
目の前には幼馴染がいて、昔はいつもそうだった優しい笑顔で覗きこんでいる。
指先が頬を撫でてくれるのが、気持ちいい。
嬉しいのに、涙が出そうになる。
大切にされていると疑わなくてすむこの夢の中では、自分もとても素直になれた。
想いは簡単に溢れ出す。止めなくていいのはなんて楽なんだろう。

「俊ちゃん、俊ちゃん……大好き」
ああ、オレもだよ。お前より大事なもんなんかオレにはねーよ、と彼が言ってくれる。
ほんとに…?と緩慢に問い返せば、ああ大丈夫だからもうちょっと眠っとけと言われる。
寝てるのに夢の中なのに、もっと寝ろっておかしいなあと笑ってしまうけど。
最後に彼が触れるだけのキスをしてくれるので、それを合図にまた意識は沈む。

なんて、自分勝手な夢。ただの願望。
知られたらきっともう口もきいてもらえなくなるんじゃないかと、目覚めるといつも罪悪感に苦しくなる。

だけど、この 『好き』 を自分の心から追い出してしまうのは不可能だと坂道は知っていた。
長く長く積み重ねてきたものだったから。
自分という存在と同じぐらいに見つめて、触れて、追いかけてきた人だったから。
この気持ちを無理に引き剥がしたらきっと僕の心も枯れちゃうよ……そんな風に、思っていた。




「坂道!坂道起きろ!時間だ」
「………う?あ…なに…?」
目をあけると幼馴染が覗きこんでいた。眼鏡なしなのでぼんやりしているが、めんどくさそうな顔をして
いても今日も大変にかっこいい。
既にきちんと制服を着こんで、ネクタイもしめている。いつも何時に起きてるのかな…とぼんやり思う。

「おはよ…俊ちゃ…」
「起きろっつってんだろ。あとお前、その呼び方」
今泉の声に含まれた苛立ちにぎくっとして、一気に覚醒した。ヤバイまた言っちゃったよ!と思う。
がばっと起きあがり、枕元の眼鏡をかけた。視界クリア。幼馴染の眉間にしわを確認した。

「ご、ごめん寝ぼけてて…おはよう今泉くん」
「ああ、おはよう」
「いつも起こしてくれてありがとう…」
「まあ、ついでだ」

身支度を始める坂道に興味をなくしたように、時間つぶしか今泉はカバンに入れていたらしい自転車
専門の雑誌をぺらぺらめくり始めた。
はやくしないと、と坂道はパジャマを脱いで制服のシャツに袖を通す。

彼と自分の家は隣同士で、本当に幼い頃からのいわゆる幼馴染というやつだ。
兄弟でもこうはいかないだろうというぐらい仲が良く、いつも一緒に育ってきた。
ベランダが向かい合わせになっているので、間に生えている大きな木を足がかりに今泉はいつも
互いの部屋を行き来している。
たぶん、まともに玄関から入ってくる方が珍しいんじゃないかと思う。

しかし中学高校と成長するうちに、いつしか今泉の態度はどんどんそっけなくなっていった。
きっと僕ひとりが出来が悪いからだよね、と坂道は小さくため息をつく。

世界が広がれば、その分色んな人に出会う。
一生懸命やっているつもりだが、きっと彼は自分に取り立てて見るべき所もないという事実に徐々に
気づいてしまったのだろう。
それでも見捨てたりしないのは、付き合いの長さゆえなのか。

今泉ほどの年季は入っていないが、もう一人、寒咲幹という幼馴染の女の子がいる。
彼女も可愛くてスタイルが良く明るくて、学校で今泉に負けず劣らずの人気者だ。
幹ちゃんを見慣れてるから余計に僕にいらっとくるんだろうな…と理解できてしまう自分が悲しかった。


「用意できた!今泉くんお待たせ」
顔を上げた今泉は雑誌をカバンに突っ込むと坂道の全身にざっと視線を走らせ、お前ネクタイ結ぶの
下手くそだなと呟いた。
えっそう!?と慌てる坂道に構わず、ネクタイを一度ほどき、丁寧に結び直してくれる。
自分よりずっと背の高い今泉が少しかがんでいる、至近距離のその顔を少しだけ盗み見た。
不謹慎だと思いながらもドキドキする。

(俊ちゃんホントかっこよくなったよなぁ…いや昔からかっこよかったけど)
何でもできて、強くて優しくてかっこいい今泉は、幼い頃から坂道にとってヒーローだった。
彼がロードバイクの世界にのめり込み、レースに応援に行けばいつも表彰台のてっぺんに立つのを
どんなに自慢に思っていたかしれない。

(……だから)
だから、年を重ねるごとにそっけなくなってゆく今泉に少しでも追いつきたくて、向いてると言われた
自転車競技に高校から身を投じたのだ。

幸い、幹の家がやっているサイクルショップでロードレーサーはレンタルしてもらえたし、仲間や先輩
もできた。自分が登りに向いている事も知った。
夏には、皆の力でインハイでの大きな目標も達成することができた。
自転車を始めてからは、大変だけど新しい事が多くてワクワクする。嬉しくて楽しい事ばっかりだ。
なのに今泉はなかなか一緒に笑ってくれない。
あのゴールで抱き上げてもらった時は、息が止まるぐらい嬉しかったのに。
見上げてくる彼はあの時眩しいぐらいの笑顔で、信じてた、と言ってくれたのに。


「俊ちゃん、坂道!朝ご飯できたわよ。降りてらっしゃい!」
階下から母が呼ぶ声がする。「すぐ行きます、おばさん」と今泉がそれに応えた。
子供の頃からの習慣なので、今泉が坂道の部屋から一緒に降りてきて毎日小野田家で朝食をとる
事を誰ひとり疑問に思った事がなかった。

ぼんやり彼を見上げていると、ぺちんと額を弾かれ、「顔洗え」と言われる。
「う…うんっ!」
その僅かな接触が嬉しくて坂道はぱっと笑顔になった。先行くね!と階段をとんとん駆けおりる。

なにも気づいていなかった。想像もしていなかった。
自分が部屋から姿を消した途端、幼馴染の口元に慈しむような笑みが浮かんだことも。
毎朝今泉が部屋に入ってくるのは、本格的な起床の30分も前で。
そっと揺り起してから坂道が二度寝をする間、彼が飽きもせずに自分を見つめ続けていることも。

苦しい想いを抱えているのは自分だけと思い込んでいる坂道は 『今日こそ部活で頑張って俊ちゃん
に褒めてもらいたいな!』 と気合いを入れた。
自分が努力したらなんとか叶いそうな、そんな楽しい事だけ考えていたかった。
今泉には誰か好きな人がいるのだろうかなどと、今は想像するのも辛かったのだ。




速いピッチでSCOTTを走らせているのに、坂道は今日もにこにこしながらママチャリでついてきた。
寒咲サイクルから新車のBMCを提供してもらったくせに、それは学校に置いて相変わらず登下校
はママチャリに乗っている。
幹がそんな気を遣わなくていいわよ!と言ったが、僕はこれが好きなんだよと笑うばかりだ。

このママチャリにも幹が相当魔改造を施しているから、あまり普通とは言い難い代物ではある。
だが、自転車競技の個人総合優勝者が乗ってんのがコレかよ、と今泉は苦笑せずにいられない。
それでも、坂道のそういう所は変わらないでいて欲しかった。
(いくら周りに言われてもお前は自分が凄いって思えないみてーだし、ま、大丈夫か)

裏門坂をぐいぐい登ってゆく。今泉は愛車に乗っているから当然なのだが、鼻歌を歌いつつママチャリ
で登坂する坂道には見慣れていても驚愕する。
おまえ、ロードに向いてんじゃねーか、と何気なく言ってしまったのが大きな転機となった。
オタクの道を突き進んでいた坂道が、まさか自転車競技部に入ると言い出す事になるとは。

(オレがウカツだったんだよな…そういう展開も予想すべきだった)
中学校にあがってから今泉は、幼馴染である坂道にそっけない態度をとるようになっていった。
勿論それには理由があったのだが、口に出さずとも坂道が悲しんでいたのも知っている。
だからこそ、自分にロードに向いてると言われた時、坂道は腹をくくったのだ。
自惚れているかもしれないが、これ以上今泉に距離を大きく開けられたくないという思いはあったの
だろう。

いい意味でも悪い意味でも誤算だった。
坂道は自転車競技部に入ると、あっという間に才能を開花させた。
クライマーとして彼はもはや総北になくてはならない存在になってしまっている。
チームが勝つためには坂道は必要不可欠で、今泉ももう何も言えない。

アニメばかり見てろくに友達もいなかった坂道は、仲間ができ先輩に可愛がられとても充実している
ように見えた。
なのに今泉の胸はチリチリと痛む。
勝手な理由で突き放したくせに。坂道の世界が広がるのを自分も望んでいたはずだったのに。
距離をとることで何とか封印していたものが暴れ出す。
お前の一番はいつだってオレだっただろ?と言いたくなる。
この狭くて幸福な関係も、つのるばかりの想いも怖かった。だからこそ必死に自分を戒めてきたと
いうのに。



校門をくぐり自転車部の駐輪場へ向かおうとした二人は、遠くから手を振り、大声で呼んでいる鳴子
に気がついた。
「小野田くーん!!はよ!こっち見てみ凄いで!!!」

ざわざわと会話しながら登校してきた生徒たちが、みんな校舎を見上げている。
自転車をからからと引きながらチームメイトである鳴子に近づいた時、目に入ってきたものに坂道は
パチパチと瞬きした。
大きく大きく下がったふたつの垂れ幕。
『祝 自転車競技部 インターハイ総合優勝』 そしてその横には 『祝 自転車競技部 小野田坂道君
個人総合優勝』と書かれていたのだ。

「あわわわわ…ぼ…僕の、なまえ…」
「当たり前やないか!小野田くんが優勝したんやで!どうや嬉しいやろ!」
「や、だって、そうじゃないよ。みんなが…皆で勝ったんだよ!僕はたまたま最後まで生き残ってた
だけで…」
「あのなあ、その最後まで生き残ったいうんが凄いんやろ。それに小野田くんはハコガクを下して堂々
全国一位になったやないか!」
「う…うん」

自転車を始めてから出来た、仲のいい友達で大事な仲間。
鳴子はいつも明るく開けっぴろげで、見ているだけで楽しい気分になる。
どう思われるかなんて考えずに素直に思ったことを言えるから、それは鳴子くんの人柄なんだろうな
と考えたりもする。

(俊ちゃんとも、ずっとそんな風だったのに…)
つれない態度をとられるのは辛いから、彼に何か言う時、最近の坂道はとても身構えてしまう。
すると却っておかしな事を言ってしまい、イライラされて、こっちはおどおどして。
(でも僕は他に誰かを好きになった事ってないけど)
(好きな人に良く思われたくてあたふたしちゃうのは、割と普通なのかもしれないな…)
そこが僕にとって同じ好きでも俊ちゃんと鳴子くんの違うとこなんだ、とひそやかに思う。

「そういやスカシはどないしてん。みんなで写真撮ろ思とったのに!」
「しゅ…今泉くん?さっきまでいたんだけどな。先行っちゃったかな…」
「ほんっまあいつスカシやな!喜ぶとこは素直に一緒に喜んだらええやろが」

顔をしかめる鳴子に何と返していいのか分からなかった。
鳴子はいつも坂道の肩をもってくれるから、今泉のそっけない態度をよく思ってないらしい。
ちがうよ、ちがうよ、俊ちゃんは本当はとっても優しいんだ。
喉まで出かかった言葉を、まるで苦い薬のように懸命に飲み込む。くるしい。

「おはよう!坂道くん、鳴子くん。垂れ幕すごいね!」
振り返ると、幼馴染の寒咲幹が明るい笑顔を見せていた。まるでお花みたいだな、と坂道は思う。

昔、今泉がロードを始めた頃、寒咲サイクルにメンテをしてもらうようになり、そこの娘である幹が同い
年だった事から自然と仲良くなった。
僕たちが9歳の時だったかなぁ…と懐かしく思い出す。
彼女は本当にいい子で、どんくさい坂道にもいつも優しかった。本音で話せる女の子なんて幹一人
しかいない。

今は自転車競技部のマネージャーをしている幹は、周囲の注目を浴びているのにも構わず言った。
「すごいね坂道くん!チームの優勝も嬉しいけど、幼馴染としては坂道くんの優勝が自慢なのよ」
「ち…ちがう、幹ちゃん…優勝は…」
そこまで言ってはっとした。あんなに今泉に言われているのに。
いつまでも子供気分でいるから、昔の呼び方も改められないのだ。もう高校生なのに。

「寒咲さん…優勝はみんなでしたものだから」
自分の名前が言い直されたのを聞いて、幹はかたちのいい眉をひそめた。
それでなくても目立つ人が、公衆の面前で坂道のような冴えないメガネの制服の腕をつかまえる
のを見て、ざわめきが走る。

「なんで寒咲さんなんて呼ぶの?幹ちゃんでいいのに」
「え、と…もう高校生だから…そういう呼び方は恥ずかしいかなって…」
「今泉くんにそう言われたんでしょう」
まっすぐに見つめられ、仕方なくこくりと頷けば、アイツいっぺんシメてやろうかしらと幹が小声で物騒
な事を呟いた。
そんな中、予鈴が鳴るのが聞こえてくる。

「坂道くん、今日は私と中庭でお昼一緒に食べよ。約束したからね!」
「えっ…あの、幹ちゃ…」
「一人で来てね。鳴子くんも今日は私が坂道くん借りるから」
「へーへーマネージャーには逆らえんわ」

ひらひらと鳴子が手を振る。子供の頃からの幼馴染ってこんなんなんか?と笑うから、どうかなと
坂道は首をかしげた。
「マネージャーもあれやけど、小野田くんに対するスカシの過保護っぷりはシャレならんわ」
「え?今泉くん?今は……過保護なんかじゃないと思う…よ」
「あれで控え目になっとる言うのが怖いねん」
カッカッカッ…と笑いながら鳴子はよく分からない事を言った。さあ遅れるで、行こ!と促される。

坂道はもう一度、垂れ幕に目をやった。
(メカトラブルさえなければ、あそこに書かれてるのは俊ちゃんの名前だったのに…)
優勝できたことは嬉しい。
でも本当は今泉が優勝するところが見たかった。自分がそれを補佐できれば最高だった。
思ったようにはいかないもんだな、と小さなため息がもれる。
贅沢な言い草だ。他の選手の人たちにも失礼だ、とも思ってみたが、あの夏坂道の願いが叶わなか
ったのもまた事実だったのだ。



「さあ、行こっか坂道くん!」
4時間目終了と同時。可愛い巾着袋に入った弁当を手にした幹は、驚き顔の今泉の鼻先から坂道を
かっさらった。

日当たりのいい中庭のベンチに並んで二人、弁当を広げる。
ちらちらと遠巻きに見られてはいたが、まあ僕と幹ちゃんが付き合ってるんじゃないかとか勘繰る人は
いないし大丈夫かと思った。
幹が水筒のお茶を紙コップに入れてくれた。ありがとうと受け取り、掌で冷たさを楽しむ。
おかずもいくつか交換した。今日はお弁当自分で作ったのよ、と自慢げに笑う幹がかわいい。

そのまま二人は昼食をとりながら他愛もない話をしていたが、二杯目のお茶と一緒に小さな容器に
入った苺を差し出しながら、ようやく幹は言った。
「ねえ坂道くん……後悔してないよね?ロードを始めたこと」
「幹ちゃん…」
「今泉くんのためだったのは分かってる。一緒にいたかったんでしょう…?」

分かってる、と言われるのは本当に楽だな、と坂道は苦笑した。
そうやって自分は二人の幼馴染に大事に甘やかされてきた。今もそうだ。
幹は晴れ渡った空を見上げている。長い髪が揺れる。自分の答を待ってくれている。

「うん…そうだね。それとね、僕は…」
どう言えばいいのだろう。坂道も空を見上げた。今泉に対する想いは、本当は言葉にしてまとめられる
ようなものではなかった。
でも彼女の誠意に同じものを返したくて、ぽつりぽつりと話し続ける。
「僕のために俊ちゃんが使ったものや失くしたものを……返せるわけないって分かってるんだけど…
でも何か新しく喜んでもらえるものを……あげたくてそれで自転車に乗ったんだ…」

自分の小さな手をひいてくれる、同じように小さな手。
坂道の中で記憶が震える。彼が自分にとってどんな存在だったかを、思い起こす。

昔、小さかった頃、夏休みはいつも二人で手を繋いでラジオ体操に行っていた。
だがある日、坂道はカードに出席のハンコを押してもらうのを忘れた。今泉も気づかなかった。
泣きじゃくる自分を見て、今泉は自分の押してもらったハンコを切り取り、坂道のカードに貼りつけて
くれた。
まだしゃくり上げながらも坂道は嬉しかった。でも彼のカードにできた四角い穴が気になった。

『ねえ俊ちゃん…それだと俊ちゃんの分がなくなっちゃうよ…?』
『別にいいよ』
『でも…』
『お前の欲しいもんは何だってオレがやるから。だから泣くんじゃねーよ、坂道』


「……僕はね、幹ちゃん。その時にもう俊ちゃんがいつだって自分のものを僕にくれてるんだって
小さいなりに分かってたんだよ。なのにそれが嬉しくて、長く長くそれに甘んじてきてしまった…」
「坂道くん…」
「何か返したい、何かあげたいなんて思うのも傲慢だったんだ。俊ちゃんが僕のせいでロードレーサー
としての経歴に傷をつけたって知った時、はやく離れてあげなきゃいけないってやっと気づいた」
「中学最後のあのレースの事?でもあれは坂道くんのせいじゃないよ!」

中学最後の大きなレースには幹も坂道ももちろん今泉の応援に行っていた。
だが途中で入ってくる先頭争いの情報から、ふいに今泉の名前が消えた。
どうしたんだろう、怪我かメカトラブルかと心配する二人の元に、レース中のはずの今泉が真っ青な
顔で現れ、『坂道!!』と叫んで震える手で肩を掴んだのを今も思い出せる。

今泉はその日、生まれて初めてレースをリタイヤした。
そして、その理由を決して二人にも言おうとしなかった。
知ったのはインターハイ開会式で京都伏見の御堂筋に今泉が絡まれた時だった。
『笑うわ。普通信じるか?“応援に来とったあの小さいメガネのお友達、事故に遭ったらしいで。アンタ
の名前呼んどったって” って言われたぐらいでリタイヤするとか』

幹が強い口調で否定してくる。だが坂道はゆるゆると首を振った。
「そうじゃないんだ。変な言い方かもしれないけど僕は、御堂筋くんがあの時何があったのかを暴露
してくれたのを感謝してるぐらいなんだ」
「どうして…」
「じゃないと永遠に気づかなかった。僕の知らないところで僕のために俊ちゃんがもっとたくさんのもの
を犠牲にしている事に」

そっけない態度をとられても、笑いかけてくれなくなっても。
彼は昔の約束を守ってくれていた。変わらず大事にされていた。それが嬉しくて死ぬほど辛い。
まるで呪いのように今泉を縛っている。過去が、自分自身が。
謝っても、もうやめてと言っても彼はやめないだろう。そうできないのだ。
自分が、彼を好きであることをやめられないのと同じに。

「だからね、幹ちゃん。僕は高校のうちにできるだけ自転車で俊ちゃんの役に立って…大学は遠くへ
行こうって決めてるんだ」
明るくて乾いた口調。僕の成績で行けるとこがあるか早目に調べておかないとね、と坂道は笑う。
あとこれは誰にも内緒だよ、と念を押してきた。

「いつか今泉くん以外の人を好きになれると思うの…?」
「無理だろうね。でも僕がいなくなれば、俊ちゃんは幸せになれるよ」

苺もらうね、とひとつ摘み口に入れる坂道の横顔を見ながら、幹はうまく言葉が出ずにいた。
頼りないけれど優しいこの幼馴染をずっと大切に思ってきた。庇護の対象として。
だが彼は、知らぬ間に成長していた。
一人で考えて、今泉にとって一番良いと思う事を選ぼうとしている。

「まだ進路を決めるまで先は長いじゃない。坂道くん、あんまり思いつめないで」
「うん…ありがとう幹ちゃん。こんな事話せるの幹ちゃんしかいないよ」
その声に含まれた信頼に幹は微笑み、ふと思い出した事があって声をあげた。

「そうだ、坂道くん!今週好きなアニメの何かが発売になるって言ってなかった?」
「えっ?ああ、そう。アキバ限定の特典がついたBDボックスが出るから買いに行きたかったんだ
けど…練習あるから…」
「ちょっとは息抜きも必要よ。私、手嶋さんに頼んでおいてあげる。お休みにするから行ってきたら」
「え…でも…」
「いいから!何曜日!?」
「き、金曜。今週末」
「分かった。誰にも言っちゃだめよ。黙ってすーっと出かけちゃえばいいんだから」

幹のしてくれる事には間違いはないと刷り込まれている坂道は、勢いに押され思わずこくこくと頷いた。
そうだな、いい気分転換になるかもしれないと思う。行きたかったのは本当だ。
同じクラスである俊ちゃんに気づかれずに出られるかな、と考えながらも、坂道は久しぶりに気持ちが
ウキウキしてくるのを感じていた。





日課である三本ローラーに乗ってのトレーニングを済ませた今泉は、タオルで汗を拭いながら、ふと
カーテンの向こう側に透ける明かりを見た。
風邪をひくからシャワー浴びて着替えねーと…と思いながらも、ボトルを片手にベランダの窓を開けて
しまう。春の夜風がひやりとまとわりついた。

ふたつのベランダの間に植わった木は、今泉と坂道の年齢の分、大きくなり枝を広げていた。
幼い頃、最初にこの木を足がかりに向こう側へ渡った時、坂道は大きな目を見開いて 『すごいね!
かっこいいね俊ちゃん!』 と何度も言った。
親にバレたら叱られるのは分かっていたが、玄関を出て小野田家に入るのが面倒だった。
こんないいルートがあるのだから、ショートカットするのは当然だ。
だが坂道が 『でも落ちたらいやだよ?僕、俊ちゃんが怪我したら悲しいよ』 と不安げな顔をするから
『そんなヘマしねーよ』 と頭を撫でながらちゃんと約束をした。

自分は、坂道とした約束を破ったことは一度もない。
たとえ昔のように笑って優しくしてやれなくても、それだけは自信をもって言える。

小さくため息をつき、今泉はベランダの囲いに軽くもたれながらボトルのキャップを開けた。
こういう気分の時、大人なら煙草でも吸うのだろうかと考える。
どっちにしろ、アスリートである自分は煙草になど間違っても手を出すつもりはなかったが。
健全すぎるから余計に煮詰まるのかもしんねーな…と苦笑して、ゆっくりと喉を潤した。


ほぼ10カ月も遅れて生まれた坂道を、同い年であっても自分は守るべき対象だとずっと思ってきた。
子供の10カ月差は大きい。
しかも、客観的に見ても坂道はかなり手のかかる子供だった。
すぐ泣くし、動作はとろいし、怖がりだし、転んだり怪我をすることもしょっちゅうで。
ちょっとも目を離せねーなと思いながらも、頼られるのは誇らしかったし、俊ちゃん俊ちゃんと慕われ
るのも嬉しかった。

(オレもな…どんだけ坂道に手がかかろうと一度もイヤだと思った事がないってのがスゲーよ…)
数年後に今泉には妹が生まれたが、その事で坂道が情緒不安定になったため、そちらへのフォロー
が忙しく、幼い今泉は妹どころではなかった。
結果、実妹とは妙に希薄な関係性になってしまっている。

とにかく、今泉にとって坂道は最優先・最重要事項だった。
何故とか考えた事もない。
自分の物をやるのだって今でも何とも思わない。当然のことだ。
坂道が喜んだり笑顔になるのを見るのが好きだった。
だから勿論、ロードレースでは優勝しなければならない。自分が一番になるところを見慣れている
幼馴染をがっかりさせるわけにはいかなかった。


大樹を挟んで向こう側の部屋の明かりに、何気なく片手を伸ばす。
今はもう、朝起こしに行く時以外はめったにあちら側へは行かない。行けない。

中学にあがった頃から、坂道への独占欲や庇護欲は持て余すほど強くなっていった。
それだけならばまだいい。
幼馴染に対する甘い情動に気づいた時のショックは大変なものだった。頭がおかしくなったのかと
本気で思った。

相手は男で幼馴染で坂道だぞ、と悩み苦しみ反発してみても、無防備に近くに来られると触れたく
なる。
笑顔を見ると、愛しくてたまらない。
抱きしめたいと何度思ったことか。だが、触れてしまえばどうなるのか。
自分の内の深い場所から出る欲を消すこともできず、想いは同じ場所をぐるぐる廻る。

一年ほど葛藤した挙句、今泉はとうとう坂道に対する恋心を認めた。
だがその時には、悩みすぎてもう身も心もクタクタになっていた。

今泉は坂道を避けるようになった。練習が忙しいから、ロードに専念したいからというのはいい口実
になった。
それにもう幼馴染同士でべたべたするような年じゃねーだろとも言った。
傷つけているのは分かっていた。悲しい顔をさせたいわけじゃなかった。
だが距離をとらなければ、気持ちが抑えられなくなる。
ごめんな、ごめんなといつも心で謝っていた。何も悪い事をしていないのにこんな仕打ちをされる
坂道が可哀想でならなかった。

(………それでもな)
それでも、自分のこの想いに坂道を巻き込んではならない。
決めていた。最初から今泉の中にははっきりとした戒めが存在していた。
(知れば、お前は受け入れるだろ?)
最初はとまどったり悩んだとしても、知れば坂道はいずれ必ず自分の求めに応じるだろう。
恋ではないものを恋だと言い張るだろう。
そんな風になるぐらいなら、距離をとって悲しませる方がまだマシだと思った。
それに今では坂道には友達も仲間もたくさんいる。あいつは大丈夫だ、とほろ苦く笑う。



手におえない課題に唸っていた坂道は、窓の向こう側が常より明るい事にふと気がついた。
今泉がベランダに出ているのだ。
ちょうどトレーニングが終わる時間だから涼んでるのかな?と考えるともうだめだ。ちょっとでも顔が
見たくてたまらなくなる。
僕は本当に俊ちゃんと離れて生活していけるのかなあ、と自分に呆れた。
だが欲が我慢に勝てるわけがない。坂道は思いきってカーテンを開けベランダへと出た。

背を伸ばし枝葉を広げた大きな木の向こうで、今泉がボトルを片手にこちらを見ていた。
静かで、優しい顔をしている。
ここに立って見つめ合うと重ねた年月が迫りきて、彼に対する愛しさが溢れそうになる。
どうしてこの人以外を好きになれるだろう。胸が痛い。幸せで苦しい。

「トレーニング終わったんだ。風邪ひくよ、今泉くん」
「……ああ」
「僕は課題やってたんだけど、全然進まないんだ」
「提出は週末だろ?ちょっとずつやれよ」
「うん。コツコツやっとかないとね。いずれ大学受験もあることだし」
「気が早いな。お前なら推薦来るんじゃねーか、自転車で」
「まさか!それに、僕なりに選べる範囲は広げておきたいかなって思ってるんだ…まああんまり大した
ことないだろうけど」

どうしたんだろう、今夜は今泉の雰囲気が柔らかい。他愛のない事を喋っても煩がられない気がした。
だけどただ黙ってこうしていたい気もする。
離れると自分で決めたリミットに向けて、零れる砂みたいに毎日どんどん時間は消えてゆくのだ。
追い詰められたような気持ちになった坂道は夜空を仰いだ。
子供の頃、流れる星を二人で見た。あの時と同じに懸命に願いをかける。すがる。

(神様、神様どうか僕にもう一度奇跡を起こしてください)
(時間が、もうないんです)
(今年か来年のインハイで俊ちゃんを優勝させてください。僕にそれを手伝わせてください)
(僕にはこの先一生いい事なんか起こらなくていいから)
(どうかこの人に、栄光を)

薄く視界が涙でぼやけた。離れてるから大丈夫だ、俊ちゃんは僕なんか見ていない、そう思ったのに
向かい側から「坂道…どうした?」と声がかかり、胸が震える。
「えっ…ど、どうもしない!今泉くんホント風邪ひくよ。お風呂入りなよ」
「……そうだな」
相槌をうったくせに今泉は動かない。ここにいると彼も、思い出の大きさに飲み込まれてしまうのかも
しれなかった。

(そういえば僕は、この木をつたって自分から俊ちゃんの部屋へ行った事が一度もない)
できないと思っていたのか、今泉が来てくれるのを当たり前と思っていたのか。
どれだけどうしようもない奴なんだ僕は、と思う。
だがもう今は悔いている暇さえ惜しかった。そんな事は一人きりになってからやればいいのだ。

いつ以来の事だろう、向かいのベランダで穏やかな笑みを浮かべる今泉の姿を、坂道は瞼の裏に
焼きつけた。
なにげない言葉、笑顔、自分を呼ぶ声、触れてくる掌、優しい眼差し。
惜しみなく与えられてきたすべてを、自分は決して忘れることはないだろう。
何を引き換えにしてもいい。この人のために走るのだ。

(僕ぐらい幸せな子供時代を過ごした人はどこにもいないよ、俊ちゃん)
(今も、涙はでるけど、すごく幸せだ)
(俊ちゃんがそういう風にしてくれた)
(愛されるってことを僕に教えてくれた)

それは離れた後もずっと自分を支えるだろう。
ごめんね今までごめんね、と胸の内で呟く。
こんな近くにいる今泉が同じ思いでいると気づかぬままに、坂道は少しだけ泣いた。





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