「すっげェ、俊チャン早く来いって!富士山!すんげえ富士山見えてっから!」
遊具のてっぺんから荒北が大声で呼んでいる。だがそこに至るまでのフィールドアスレチックの網
部分にひっかかった今泉はかなり遅れていた。
(富士山なんて毎日見てるって)
差がついたのがちょっと悔しくて、心の中でそう言い返す。
だが晴れ渡った空を背にこちらへ手を差し伸べている荒北を見るのは悪い気分ではなかった。

「アンタ、元気すぎですよ…」
「てか、俊チャンなんでいちいち引っかかってんのォ?もしかして運動神経ニブイとか」
「良くはないですね。まあ普通です。球技とかも苦手だし」
「マジかよ、んな少女漫画に出てくる王子様キャラみてーなツラして。スポーツ万能、成績優秀とか
じゃねーの」
「成績も中の上ぐらいですよ。悪かったですね」

ようやく遊具をよじ登り、荒北の手に掴まって一気に頂上に引き上げられた。案外広いスペースだ。
そこからは巨大な滑り台で砂浜に降りられるようになっていた。

一瞬眩しさに目がくらんだが、眼前に広がったパノラマの壮大さに今泉は息をのんだ。
綺麗だとかそんな言葉では言い表せない。世界とちっぽけな自分が直接対峙しているようだ。
胸にせまる光景。ゴオッと潮風が吹きつけて二人の髪をかき乱していく。

「すごい……」
「な。もうそれしか言えねェよな」

砂浜に設置されたアスレチックの一番高い場所からは、湾が一望できた。
海が青にも碧色にも変化するのが分かる。きらきら光り、笑っているかのようにさざめき揺れる。
港があって、大きな船が出入りしてゆくのが見えた。
街並みがあり、工場の煙突からはいくつも煙が立ち昇る。車が走っているのも目視できる。
それらすべての人間の営みを見守るように、富士山がゆったりとそびえていた。
その巨大さと神々しさにただただ圧倒される。畏れに似た気持ちまで心に湧いてきた。


「こんな景色を荒北さんと二人で見てるの、なんか不思議ですね」
「…ああ」
「オレら生まれて育った場所も違うし、お互いの事もあんまり知らないし、年も違うし、重なったのは
自転車だけなのに…何で一緒にいるんだろう」

今はすぐに過去になる。そう思いながら生きてきたから、自分はこれまで身軽でいられた。
だが今、風が高くさらってゆく彼の言葉ひとつひとつを、荒北はここに留めておきたかった。
流すのも忘れるのも失うのももうイヤだ。
バカげた夢物語かもしれないが、 『いつまでもオレと』 そう言いたい人がいる。


「今日の空、荒北さんのビアンキに似てる。ずっとあの色のフレームですよね、気に入ってるんですか」
ふと思いついて高い所を指で指し示すと、「あーありゃ福ちゃんが…」と荒北は口ごもった。
「福富さん?」
「ン、オレが初めて乗ったバイクって福ちゃんのだったんだヨ。そん時あの色だったから何となくな…」

ギクリとした。そんな事まで言わせる気はなかった。
また不用意に踏み込んでしまったと今泉は居たたまれない思いで目線を落とす。
だが、「なんつー顔してんだよ、オメ―は」と苦笑した荒北は、その場にどっかりと座り込んだ。
「オレ、結構荒れてた時期があってなァ…それ高校入ってからも続いてて、一時はもう学校も辞めっか
と思ったりしてたんだ。そんな時、偶然フクちゃんと出会ってロードレースを知ったんだよな…」

「や、あの、オレなんかにそんな事まで話さなくても…」
「聞いてくんねェの?こんな話、重てぇか?」
「違います、知りたい事は…いっぱいありますけど」
「いっぱいあンの?聞きゃーイイじゃねェの」
「怒られないですか?」
「なんだオレ、お前にそんな風に思わせちまってたのか…可哀想なことしたな。ごめんなア、俊チャン」

ポンポンと自分の隣の地面を叩くから、今泉は躊躇しつつもそこに並んで座った。
春休みなのに冬の海は寒くて人気がないのか、アスレチックの周りに人影はない。
子供が登ってきたら譲るべきだろうが、今はいいかと思った。マフラーに顎を埋める。

「じゃあ…いつからですか。その、荒れてたっていうの」
「中2の後半ぐらいからだな。そんで福ちゃんに会ったのが高1の始めぐれーか」
「前に殴られた時、昔はこんぐらい平気だったのにって言ってましたね…ケンカしてました?」
「アア、万引きとかカツアゲとか悪い事はやんなかったけどヨ、ケンカはしてたなァ…瞬間的にはスカッ
とした気分になれたし」

コイツお坊ちゃん育ちだからビックリしてっかな…と荒北は今泉の横顔を見たが、彼はいつもどおり
静かで変わらなかった。
あの火事もあったし、修羅場慣れしたのかねェと複雑な気分になる。
もしもの時は冷静に動けた方がいいが、この澄んだ目にもうあまり酷いものを映したくなかった。

(オレ自身のことも含めてそう思ってたから、また始末が悪いつーか…)
ロクなもんじゃない、俊チャンとは全然違う、自分の中身なんか見せられっか。
(だって恥ずかしかったんだよ、俊チャンこんな綺麗だからさァ)
そうやって引き続けた予防線は、ふいうちで破られた。
人に好きと言われた事はあっても、大事と言われたのなんか初めてだった。
考えるべき問題は山積していたが、あの朝、生まれ変わったような気がした。それも言いてェなと思った。


「じゃあ福富さんは、荒北さんにとって本当に特別な人なんですね…」
するりと言葉が零れ出た。これはもう羨んだりできるレベルの相手じゃないなと思う。
何が原因なのかまでは知らない。だが相当長い間、この人は一人で苦しんできたのだ。
出会った頃はきっと手負いの獣みたいだったろうに。それに福富はどう接し、自転車で走らせたのか。

「すごい。荒北さんに未来も自転車もくれた人なんだ」
柔らかな可愛らしくさえある水色。そんなフレームを彼が好んで使っているのが不思議だった。
きっとこの二人は離れても強く繋がっている。それを思い知らされる。

だが荒北はひょいと眉をあげると、呆れたような口調でオメ―なぁ…と言いため息をついた。
「人ごとみてぇに。俊チャンだって誰かに未来と自転車をやったんだろ。走れって言ったんだろ」
「オレが…?何言ってんですか、そんな人いませんよ。オレにはそんな人徳ないし」
だが何かが脳裏をかすめて、今泉はあれ?と動きを止めた。
『オレにはそんな人徳ねーよ』 そんな台詞を昔、確かに誰かに言ったことがある。

首を傾げ、不思議そうに記憶を探っている今泉に、更に荒北はこう言い足した。
「さっきさァ、俊チャンが甘い卵焼き好きなの高橋サンに聞いたつっただろ?あれ実はウソ」
「は…?」
「本当は、お前の友達が教えてくれた」
「オレの友達って…」
「小野田チャンだよ」

ビックリして何から問えばいいのか分からない。今は地元の大学で自転車を続けている元チームメイト。
彼の名前が荒北の口から出てくるとは予想だにしなかった。
そんな今泉に、荒北はポツリポツリと事情を説明してくれた。
「最初はな、金城からお前が怪我して療養してるって聞かされてたんだ。でも俊チャン本人ともメール
とかしてるうちに何かおかしいと思うようになったらしくてな…」
次に金城と顔を合わせた時に、彼らしくもない強引さで本当の事を教えてくださいと迫ったという。

「クリスマスのちょっと前だったか…カレー作ってくれた日、覚えてっか?後で一緒にケーキ食ってたら
電話かかって来ただろ。あれ小野田チャンだった」
「……あ、あの時の」

『それにしても…久しぶりだよなア…』
あの時は、電話の相手に対する荒北の懐かしげな様子に、バカみたいに嫉妬していただけだった。
まさか小野田が自分の本当の居場所を探り当てていたとは。
(オレはただ自分がしんどいのから逃げたくて、あいつに嘘ばっかついてたのに)

「オレ最低ですね…小野田は全部知ってたのに、怪我の具合どう?春になったら今泉くんとレースで
また走れるかなって、一生懸命言葉をかけてくれてた。こんなに思いやられてたのに…知りもしないで」
自分のことばっかりだった…と力なくうなだれる。
そんな今泉の頭を荒北の手がグシャグシャと暖かく撫でてきた。大丈夫だってと言うように。

「本当は今すぐ会いに行きたいです、何もできなくても今泉くんの傍にいてあげたいです…って小野田
チャン言ってたぜ」
「そうなんですか」
「今泉くんは僕の最初の友達で、仲間も自転車もレースで走ることも全部教えてくれた。今泉くんに
会わなかったら何も始まらなかった。特別で大事な人だからって」
「小野田…」
「昔、ママチャリの小野田チャンに裏門坂を登る競争しろつったんだってなア、むっちゃくちゃだなお前」

ククク…と喉声で荒北が笑っている。
福ちゃんは原付のオレと競争しやがったし、自転車乗りってのはみんな頭オカシイだろ…と言われ、
少し反論したくもなった。
「だって…何かあると思ったんです。あいつの走り。変だったから、最初から」
「変って何だよ、褒めてねーぞォ」
「褒めてます。才能あるって思ったんです。福富さんだってきっとそうだったんですよ。磨いたら…
ちゃんと磨いたら荒北さんが誰より輝くはずだって…!」

見た瞬間に分かった。予感がした。どんなに強引でもいいからコイツを自転車に乗せたかった。
その人間の真価は、削って磨くまで本人にすら分からない。
自転車は乗らなきゃ何も始まらない。
そんな説明のつかない情熱に衝き動かされてきた。自分たちは。このどうしようもない生き物は。


感情が昂ぶったせいで少し涙目になってしまった。みっともないと顔を逸らそうとする。
だがそんな今泉の頬に指を滑らせ、荒北はあやすような声で語りかけてきた。
「ったく、そんなだから俊チャンはモッテモテなんだヨ」
「……?」
「小野田チャンだけじゃねーぞ。あの赤いヤツ…鳴子か、アイツもよくオレに様子聞いてくんよ。今泉
には絶対言わんといて下さいって釘刺されてっけど」
「言ってるじゃないですか…」
「ウン、だってもういいだろ。今の俊チャンなら、色んな事ちゃんと出来んだろォ?」

指先から伝わるこの人の体温が好きだった。どれほど守られてきたことか。
だから荒北の庇護下から出るのは少し怖いな、と今泉は思った。
それぐらい、冷たい風ひとつにも当てないぐらい大切にくるみ込まれてきた。

それでも深く頷いて、頬に触れた荒北の手を握りしめる。
この人を好きになったことは自分の誇りだ。それはきっとまた違う誰かへと影響し、広がるだろう。
自分たちは繋がっている。無駄なことなどひとつもない。

ン、いい子だネと嬉しげに褒めてくれる人に、精一杯の笑顔を見せた。
柔らかな空の色。そういえばこの人の名前は青が立つと書くんだ…と今泉はぼんやり思った。



その日の午後はとても楽しかった。
みなと公園は広大な敷地面積なので、二人は自転車であちこち乗り回し、特に興味があるわけでも
ないが植物園に入ってみたり、展望台へ登ったりもした。
ただ展望台からの風景は絵ハガキみたいで面白みに欠け、さっきのアスレチックの上からの眺めの
方が断然良かったと言い合って、後でもう一回登ろうと決めた。

あちこちに休憩場所はあったが、食事をするのに困るほど風が強いわけでもなかったので砂浜まで
下りて、そこで一緒に作った弁当を食べた。
「なんつーか…普通のサンドイッチですね…」
「ハァ?普通じゃないサンドイッチってどんなだヨ。味がマズイのォ?」
「いや、総北の合宿には田所サンドっていうバベルの塔みたいな名物サンドがあるんですよ」

食べながら今泉は田所サンドについて荒北に説明した。
3種類のパンにハチミツとレタスとハムとチーズとジャムとバターとバナナを挟んだタワーなんです。
あ、バナナは丸ごとですからね、と言われ、さすがの荒北も絶句する。
「ナニ目指してんだそれは…食いにくいだけだろーが」
「いや、オレら一年だったんで、上級生のやってる事にあんまツッコミ入れられませんしね」

まあ一気にカロリー摂取できるのは確かなんで、オレの代までは合宿でやってましたよと笑う。
でも遠出した時の弁当ならばこんなのがいい。組み合わせもどれもマッチしていた。
鶏肉とトマト、ツナコーン、ハムとチーズときゅうり、そして甘い卵焼きとレタス。

「卵のやつ、ウマイか?」
「はい、すごく!オレの好きな味です。荒北さんほんと卵焼くの上手いですよね」
「褒めても何も出ねーぞォ」
そう言いながらも、まんざらでもないという顔をする。案外分かりやすいのだ、この人は。
(オレが食いもん何が好きか、わざわざ小野田に聞いてくれたのかな…)


満腹になった二人は、砂浜に仰向けに転がり冬の午後の暖かな日差しを楽しんだ。
今泉は髪に砂がつくのも構わず、気持ち良さげに息をつくと、いつしかすうっと寝入ってしまった。
まあいつも長くても30分ほどで起きるしいっかァ…と荒北は黙ってその寝顔に見入る。

あの火事の後、今泉がちゃんと眠れているか、うなされたりしていないか、ガラにもなく気にした。
いつまでも一緒の部屋で寝るわけにもいかず、分からないから余計だ。
だが観察しているとむしろ逆だった。やたらよく眠る。それもリビングでだ。
コタツは勿論のこと、取り入れた布団に埋もれていたり、本を読みながら急にゴロンと横になり寝て
しまうなどしょっちゅうだった。

『俊チャン、スゲーお眠だねェ。前からそんなだったんか?』
『や、そんな事ないです。今までは夜ベッドで寝る以外は全然…でも最近やたら眠いんですよね』

その時ふと思った。コイツは自分を修復してるんじゃねーかと。
色んな意味で傷ついて弱ってしまったから、今は安心できる場所で丸まって回復を待っている。
そして、彼は決して自分の部屋で眠り込みはしなかった。
必ずリビングで、荒北の気配がしているその傍で眠った。
それに気づいた時は嬉しかったものだ。ここなら大丈夫だかんな…と温かな気持ちでいっぱいになった。

(必要とされんのって、スゲー幸せでさァ…)
だが、自分の方こそコイツが必要なんだと知ったのは、いつ頃のことだっただろうか。



太陽が西に傾き始めた頃、二人は自転車で最初のアスレチックまで戻り、もう一度景色を堪能した。
何をしたというわけでもないが、今日は本当に楽しかったなと今泉は考える。
荒北の昔のことも少し知れたし、彼が元気のない自分を心配してくれたのも嬉しかった。
だが、彼が自分を連れ出した本当の理由が、この先にあるとは思ってもみなかった。

砂浜に降り、そろそろ帰るのかと荒北を見やると、彼は自分のバッグをごそごそかき回していた。
取り出した物の片方がずい、と押し付けられる。
「ハイ、俊チャンこれつけてェ」
「なんでそんなデカイ荷物なのかと思ったら、そんなの持って来てたんですか」
「そーそー最後にキャッチボールしよーぜ」

渡されたグローブはやけに年季が入った物だった。細かい傷がたくさんある。
この人の持ち物は一緒に暮らすうちに大概見てきたので、今泉は少し意表をつかれた。
「オレ、球技苦手なんですけど…」
「別に試合しようって言ってんじゃねーだろ。投げて捕るだけだヨ。もちょっと離れてな」

下が砂だから結構足をとられる。自分の立ち位置を定めるのにも苦労した。
間近には波が白く泡を立て、打ち寄せていた。ザザン…ザザンと重く地響きのように鳴る。
だが一度腕を振ってから、荒北がボールを投げるその動作は軽やかできれいなものだった。
不慣れな今泉が構えた場所にスパンと収まる。当たり前のようにボールは彼の言うことをきく。
(あれ、なんだ、上手い…?)

今泉のぶきっちょな返球にも荒北は何でもないように対応した。元々身体能力が高いんだなと思わ
せる動き。何よりひどく楽しそうだ。
「上手いんですねっ…なんか、ムカつきます」
「ハハ、俊チャンより下手だったらさすがに問題あんなァ。オレ、元ピッチャーだし」
「……えっ…」
「ホラちゃんと捕れよ。だからァ、野球の、投手だったんだヨ!」
高く高く投げたのに、ボールはまた狙いすましたように今泉のグラブに吸い込まれた。魔法みたいに。

「………荒北さん」
途方に暮れた顔つきで、今泉は手の中の白球とグラブを構える荒北を交互に見た。
いーからもうちょい付き合えよと言われ、とにかく頷き、また投げ返す。
最初は、ただボールを投げ合うだけの行為に何の意味があるのかと思っていたのに。
まるで心を受け止めているような気がしてきた。
だから落としたらダメだと一生懸命になった。
荒北は今まで見たことのないような表情をしていた。寂しいような切ないような、複雑な感情。


随分長い間、ボールを投げ合っていた気がする。
荒北の気が済むまで止めないつもりだったから、普段使った事のない筋肉がじんわりと重くなっていた。
少し疲れた二人は、砂浜に座りこみ黙って海を見ていた。空が茜に染まり、冬雲さえも色づく。

「どうして野球を辞めたのか、オレ聞いてもいいんですか」
本能的に分かった。これはこの人の抱える最後の秘密だ。覚悟もなく聞けることじゃない。
いや、覚悟ならあった。何故それを自分に開いてくれるのか分からなかっただけだ。

ウン、…と頷き、荒北は砂をひと掴み海に投げる。
「ただの怪我だヨ。中2の夏に右の肘を壊した。そんで、前みたいにはもう投げられなくなってな…」
口に出してみるとありふれた話だなと荒北は思った。その辺に幾らでも転がってそうだ。

だが幼かった自分には、全てを呪いたくなるような出来事だった。
オレが何したってんだよ、なんで他のヤツじゃなくてオレなんだよ、そう数え切れないぐらい問うた。
(誰も答えてくれなかったけどなア…)
理不尽を仕方がないと受け止めるには、自分はまだ年がいかなすぎた。
そして何より野球が好きだった。簡単に諦めることなどできないぐらい、一心に打ち込んできたのに。

「中学ん時は結構有名な選手だったんだぜ。あのまんま野球の強い高校行ったら甲子園出てたかも…
なんてな」
その時、今泉の手が動き、おずおずとコートの上から右肘に触れてきた。
まだ今も痛いですかと聞かれ、荒北は驚く。
そういえばそういう事を聞いてくれた人もいなかった。優しさなど拒絶してきたから当然だったが。

「大丈夫だよォ、投手としてダメになっただけで、普通に生活したり自転車乗る時は痛くねーんだ」
俊チャン優しいなァと言うと、誰にでも優しいわけじゃないですと首を振る。


海と向かい合えば波音以上に重い圧を感じた。常日頃から自然と対峙している自分でも身がすくむ。
日が暮れる前に話したかった。何から話そうか。
考えて用意してきた小奇麗なセリフは、ひとつも荒北の口から出てこなかった。
もう格好つけてもしょうがねェかと観念する。あるモンより多く見せたってボロが出るに決まってる。
俊チャン、と彼を呼んだ。

「オレの中にはさ、今でも膝を抱えてなんもかんも呪ってる中学生のオレがいる」
「………」
「そんでその頃、何も悪くない人達に八つ当たりしてイヤな事言って傷つけたりした自分を、すっげー
後悔してるオレもいるんだ」

胸が引き裂かれるような思いがした。人を知るとはこんなに残酷な事なのか。
そんなの仕方ないじゃないですか。
子供だったのに、辛い事があったのに、大好きだったものを諦めたのに。
今泉は、言えるものならそう言いたかった。

(だけど苦しいんだ)
(根っこの所がほんとに優しい人だから、誰かを傷つけた事が忘れられないんだ)

荒北がいなかったら自分もそうなっていただろうか。切れそうなほど唇を噛む。
辛さのあまり、仲間や友達にひどい言葉を吐いたり、傷つけてしまっていたかもしれない。
この人は、そうならないようにしてくれた。
消えない後悔に今泉が苛まれたりしないよう、一度すべてを遮断し大丈夫になるまで守ってくれた。
(荒北さん…荒北さん、オレは…)
コラ、んな唇噛むな、血が出んぞ、とかすかに撫でて緩ませてくれる指先。そこからも体温を拾う。


「こないだの夜な、俊チャン 『自分が痛いだけで済んだんならいいかみたいな顔しないでください』
って言っただろォ?あん時ゃ、ほんっとギクッてなったんだよな…」
「す…すみません。何も知らずに勝手なこと…」
「だーかーら謝んなって。ビックリしたんだよ、なんも話してねーのに悟られちまったからな…オレが
自分を粗末に扱ってんのも、痛い目見んのは昔人にたくさん酷い事したからだって思ってたのも」

あんま意識してやってたワケじゃねーんだけどな…と荒北は嘆息する。
だが深く切り込まれ、気づかされた。まるで負債を払っているかのような自分の言動に。

「あの後、朝まで頭絞って考えて考えて思った…これからも性格的にああいう場面で手ェ出しちまう
事はあるかもしんねーけど、コレちっと改めねーとオレいつかホントに死ぬかもなって…」
「怖いこと言わないでください」
「や、俊チャンが言ったんじゃねーの。刺されてたらどうするつもりだったんだって」
「だから、今さら怖くなるから蒸し返さないでくださいって」
「…ウン、でも俊チャン叱ってくれたからさァ、そんで向き合う気になった。あんがとなア…」

緩く頭を振り、オレの方こそ荒北さんがちゃんと考えてくれたの嬉しかったです…と言った。
好きな人の心に自分の言葉がちゃんと届いたのだ。もうこれ以上はないんじゃないかと思う。
恋が叶わなくても、一生残る記憶だ。
濃く色合いを変えた海も、冷えてきた潮風も、朱く染まる空も、掌をザラつかせる砂の感触も。
この人を愛しいと思う感情も、すべて胸に収めた。
オレだけのものだ、と今泉は強く念じる。永遠なんてなくても、永遠に近いものならここにある。


「……荒北さん」
「なァに、俊チャン?」
「あの火事の夜、オレにしてくれたみたいに、中学生の荒北さんは誰かに泣かせてもらえましたか」
「いや、なかったなア…プライドだけはやたら高かったし、誰かに同情されんのも優しくされんのもイヤ
だったかんな…」

そうか、泣いときゃよかったのかもなと荒北は思った。それが出来なかった辺りがガキの証拠か。
そして自分は前に進む時、過去をそのまま置き去りにした。フタをして見ぬふりをした。
可哀想に、ごめんなァ…と胸の底に今もうずくまる子供に謝り、語りかける。
(苦しかったよな…オレだけはオレを見放すべきじゃなかったのにヨ)

「会いに行けたらいいのに」
隣に座る人が潮風に髪を乱されながらそう言った。ン?と荒北は今泉の横顔へ視線を流す。

「中学生の時の荒北さんに、オレ会いに行きたいです…オレなんか相手にされないかもしれないけど」
「俊、ちゃ…」
「ひどい事言われても、物投げられても、叩かれても、オレ平気です。喋るのはあんま上手くないけど、
ずっとずっと横に座ってる。荒北さんが泣く時は一緒に泣きたいです」

静かな静かな声だった。なのにそれは荒北の心のすべてを鷲掴みにした。
喉が詰まる。瞼の奥が熱い。今泉は揺るぎなかった。彼は、そういう人間だった。
自分のように言葉を弄ばない。本気で思ったことしか言わない。
だから今言われたことにどれほどの価値があるのか荒北にはよく分かった。
好きな人の思いが自分を肯定してくれる。決して明けない夜を、かがり火のように明るく照らす。

「…やっべ…俊チャン…悪ィけど肩貸して……」
「肩でも胸でも貸しますよ。人のことはワ―ワ―泣かせたくせに、まだカッコつけてるんですか?」
「オットコマエだよねェ、俊チャンは…」

左肩のあたりに荒北の頭がもたせかけられた。その重みに胸が軋んだ。
過去が本当の意味で過ぎ去ってゆく。
たまに嗚咽のような震えが伝わってきた。泣いているのだろうか、分からない。
今泉は風を遮るように腕を回し、ゆるく不器用に彼の背を撫でた。冬の落日の光景が熱い涙でぼやけた。

(荒北さんは、今日の事を忘れてほしいと思うだろうか…)
嫌なら忘れますからなんて自分には言えそうになかった。
だから秘密は墓まで持っていく。それで許してくれませんか、と愛しい人の黒髪に指で触れる。

ぶ厚いコートの布地に遮られていても、二人で寄り添うのは温かかった。
もう5カ月。自分たちはいつもそうやって暮らしてきたのだ。
じきに冬も終わるな…と今泉は抱きしめた腕に力をこめた。思えば、幸せな日々だった。





二人で海に行った日から数日後。やっと起きてきた荒北は、アレ俊チャンまだ寝てんのかァ?と彼の
部屋のドアを何となく見やった。
春休みなので、お互いいつも以上に起きる時間がバラバラなのだ。
家の中がやけにしんとしてんなとも感じた。
『一人暮らししてた頃みてェだよな』 そんな考えが頭をよぎる。だが特に意味などなかった。

顔を洗い歯を磨いて、何か食うモンあったかな、朝メシ二人分作ってやっか…とキッチンへ向かう。
その時になってやっと気がついた。リビングのコタツの上に手書きのメモが残されている事に。
今泉が服を買った時に貰ったという、ウサギのオーナメントが丁寧に乗せてあった。

『3〜4日千葉の実家に帰ってきます。自分の用事を片付けに行くだけなので、心配しないでください。
ちょっと忙しくて電話には出られないと思います。戻る日にはメールしますから』
短いその文面を穴があくほど見つめ、荒北はしばしポカンと立ち尽くした。

なんだ、どういうこった、昨日まで普通だったじゃねーか。何で昨日言わなかった?いや帰省するん
ならもっと前から決まってた事なんか。なんで黙ってオレを避けて家を出た?
実家で何かあって突然帰省する事になったのなら、今泉は自分を起こして事情を説明しただろう。
だから自分の用事というのは嘘じゃないと思えた。それにしてもやり方がおかしすぎる。

ザワザワとイヤな予感が込み上げて、荒北はメモを乱暴に握り潰した。
また急に何かが動いた、と本能的に察する。
ダメ元で電話をしてみたが、留守録に切り替わるだけだった。
電源は切っていないが、本気で出ないつもりらしい。
携帯を横に投げつけその場にしゃがみ込んだ荒北は、何の根拠もなかったがその時もう確信していた。
(多分、俊チャンはオレから離れてくつもりだ…)


最悪の事態を想定するのはネガ思考に浸りたいわけじゃない。それへの対抗策を練るためだった。
黙って行かせてたまるかヨと奥歯を噛む。
(オマエ、オレがどんだけ好きか分かってねーだろ)
分かっているはずがない。言った事もないのだ。だが今ならまだ間に合う。やるべき事は自分にもある。

出ない奴にバカみたいに電話やメールしてる場合じゃねえな、と荒北は即座に腹をくくった。
好きな相手と戦うべき時があるとしたら、レース以外で今がまさにそれだった。
アイツが手を放そうとすんのなら2人分オレが掴んでやんヨ、と挑むように声に出して言う。

誤魔化しながら期限まで一緒にいるという選択肢は、この時を最後にして、二人の中で潰えてなくなった。





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