「遠いのにわざわざ送ってくれてありがとうな、高橋。荷物も多いし助かった」
「いえ、ぼっちゃんの為なら高橋はどこにでも参りますけどね…それより荒北さんとちゃんと仲直り
するんですよ。あの方はあんなに心配しておられるのに」

帰省してから4日目の夜、高橋の車に送られてようやく静岡に戻ってきた今泉は、またも同じ説教を
始めた運転手に頭を抱えたくなった。
(なんでこんな事になってんだよ…)

そもそもあのメモに電話には出られないと書いておいたのは、荒北の声や言葉に触れたら決心が
鈍るに決まっていたからだ。
初日おそらくメモを見てすぐだろう、何度も荒北から携帯に着信があった。
突然の事に驚いたり心配したり腹も立てているに違いない。それを思うと胸が痛かった。
だが、辛抱しているうちにそれもピタリと止んだので、諦めたのか…と今度は複雑な気分にさせ
られた。我ながら身勝手きわまりなかったが。

しかし今泉は荒北を甘く見積もりすぎていた。
実家に着くとすぐさま高橋につかまった。そして、こんこんと謎の説教が始まったのだ。

『俊輔ぼっちゃん、置き手紙だけで荒北さんに何も言わずにあちらを出てきたそうですね』
『お前、なんでそれを…』
『先ほどお電話がありました。俊輔さんとケンカして、仲直りする前に黙って帰省されてしまった
からとても心配しているとの事でした…電話にも出てもらえないと』
『……!!?』
『たまにはケンカもするでしょうが、あれほどお世話になった荒北さんに失礼な事をしてはいけま
せんよ。高橋は大抵はぼっちゃんの味方をしますが、今回ばかりは別です』

あまりの事に今泉は口をパクパクさせた。ここが仲がいい事を失念していた。それにしてもまさか
こんな速攻で荒北が揺さぶりをかけてくるとは。
もはや、荒北の作り話に合わせるしかなかった。
今すぐ連絡をしろと煩い高橋に、帰る時メールするって言ってあるとまだ怒っているフリを見せた
が、おかげで滞在中はずっとこんな事の繰り返しだった。


車のトランクから荷物を出してくれた運転手に「くたびれただろ、ちょっと寄って休憩していくか」と
今泉は声をかけてみた。
少々イラッとはさせられたが、原因を作ったのはそもそも自分だ。
高橋が忠実な人間であることも、大事にされ大事に思っているのも変わらない。昔と違い年もとっ
たし、このまま帰すのは心配だった。

だが高橋は優しい笑みを口元に浮かべ、「そうしたいんですが、やめておきます」と言った。
「今日は荒北さんは夜のバイトだから帰りが遅いって言ってましたよね?」
「ああ、そうだけど」
「でも、部屋に明かりついてますよ。俊輔さんを待ってるんですね、あの人」

えっ…と驚き、自分たちの部屋の方を見れば、高橋の言うとおり窓には柔らかな光があった。
喜びとたじろぐ気持ちが同時に押し寄せる。
先に家に帰り、荒北が戻るまでにどう話をするかを含め態勢を整えておくつもりだった。
だがまたしても先手を取られている。正直、動揺した。

その時高橋が、立ちすくむ今泉の背中にポンと手をやると前へと押し出してくれた。
新しい宝物を肩に担いだ様を見上げて、感に堪えないといった風に目を細める。
「荒北さんは私との約束を守ってくれました…俊輔さんのそんな姿をまた見られる日が、こんなに
早く来るとは思いもしなかった」
「高橋…」
「さあ、お行きなさい。なにも心配はいりませんよ」

深く頷き、踵を返す。この幸せが今日で終わるとしても、それは自分で決めたことだった。
きっと怒られるだろうなとは思うが、それすら期待してしまうのが我ながらおかしい。
古びた階段をきしませ上っていくうちに、懐かしさに胸がいっぱいになった。
今夜予定を曲げても自分を待っていてくれた、もうそれで充分だ、と今泉は心から思えた。



静かにリビングへ入ってきた今泉を見て、何かスゲー久しぶりに会ったみてェだなと荒北は考えた。
いつものネイビーのコート姿で、荷物とは別に肩に一台のロードバイクを担いでいた。
SCOTTの文字の入ったフレーム。その美しい濃い青が目を釘付けにする。

この世に完全な物があるとしたら、今の彼がまさにそれだった。
胸が詰まる。自転車を持たない今泉がどこか所在なさげだったのも無理はない。
元々同じものがふたつに分かれただけのように、ピタリと寄り添い合う。きっともう離れることはない
だろう。

「お帰り、俊チャン」
「ただいま帰りました。荒北さん、バイト休んだんですか」
「アア、お前帰ってくんのに暢気にバイトなんかしてらんねーかんな。代わってもらった」
「心配かけてすみませんでした。ちゃんとその辺も含めて説明とか話、させて貰えますか」
「たりめーだ。オレもお前に話がある。けどまア、とりあえず…」
「…?」
「スゲー似合ってんよ、そのバイク。今のお前に」

その荒北の言葉に、緊張も一瞬ほどけて今泉は微笑んだ。
ずっと代わりに傍にいてくれたこの人に一番そう言って欲しかったのだ。
いつ注文してたんだヨと訊かれ、荒北さんのビアンキに乗せてもらった後すぐですと答える。
部品交換とは訳が違った。だから遠いのは承知で千葉の寒咲サイクルに相談して、一から検討し
完成させたのがこのバイクだった。

「ここ数日バイクにかかりきりでしたけど、小野田にも会ってきました。もう大丈夫だって言いに」
「そっかァ、小野田チャン喜んだだろ」
「はい…二人で鳴子に電話もしました。寒咲さんとこにも心配かけたし、オレの周りの人はホント
辛抱づよく待っててくれたんだなって…」
「お前がちゃんと立ち直る奴だって分かってっからだヨ。それは俊チャンが築いてきたモンだ」

ああこういうとこ、やっぱりこの人オレよりふたつも年上なんだなと感じる。経験値だろうか。いつも
長いスパンでものを見ている。そして忘れられないような事を言う。
(やっぱり、決心してよかった)
身を切るように辛かったが、自分は後悔しないだろうと今泉は思う。
この先一年あった猶予期間と引き換えにしても、伝えたい想いがここに満ちていた。


コートを脱いで横に置くと今泉はきちんと正座して荒北に向き合った。
さすがにそれを真似る気にはならないようで、あちらは適当にあぐらをかいている。
「オレから話させてもらってもいいですか」
「ンー…分かった。イイヨ、じゃあ俊チャンが先攻な。とりあえずオメ―が“これでお終いです”って
言うまで黙って聞くからよ」

なんか荒北さん聞き分けよすぎて気持ち悪いな…とその時思った。勝手に帰省した事も咎めも
しないままだ。
だが、口を挟まずに最後まで聞くと言われたのは好都合だった。
今泉はバッグから大型の封筒を取り出し、荒北に差し出した。近所の不動産屋の名前が印刷して
あった。

「まだ契約は済んでないですけど、オレ近いうちにここを出て行こうと思ってます。荒北さんに助け
てもらった事、どう言っていいか分からないぐらい感謝してます。今まで本当にありがとうござい
ました」

深く深く頭を下げる。勿論、礼を言えば終わりとは思わない。
この先も許されるなら何かを返していきたかった。彼が自分を厭わなければ、だったが。
荒北は見た感じ平静そのものだった。
あるいは、こういう事を言い出されると予想していたのだろうか。

「オレ、本当はこのまま最後まで荒北さんと一緒に暮らしたいと思ってました。あんな酷い事が
きっかけだったけど、大事にしてもらえて毎日が楽しくて…」
少し声が上ずった。バカ、今から泣きそうになっててどうすると自分を叱りつける。

「だけど自分は荒北さんの保護下に入ってしまって…それが何ていうかまともな関係性じゃないっ
ていうのも気づいてました。金城さんや福富さんや他の荒北さんと親しい人が羨ましかった。オレ
はこの道をどこまで行っても荒北さんの何にもなれないから」
「俊ちゃ…」
「オレは、荒北さんのことがとても知りたかったんです…」

初恋なんて叶わない。残酷なものだと聞いたから。
みんなが胸に抱いて、抱き潰して生きてゆく感情なんだと思っていた。
だけど自分の想いを糧にして水色の花が咲いた時、このままでいいのかと自問自答した。
これは捧げられる為に生まれたものだ。
たとえいつか散ってしまう運命でも、この人を想って花弁を広げた。

「最初は生まれたてのヒナみたいにポカンとしながら荒北さんを見てました。どうして一緒に住んで
くれるのかな、優しくしてくれるのかな、色んな嫌なことから庇ってくれるのかな、何にも得な事なん
かないのにって」
二人きりだったし、時間はたくさんあったから、いつも見ていた。
この人はいったいどういう人なんだろう。何を思っているんだろう。いつも面倒くさそうな顔してるのに
オレの事は面倒じゃないんだろうか。

「一緒に暮らしているうちに分かっていく事はたくさんありました。だけど知りたい思いは膨らんで
際限がなかった。もうその頃には気づいてました。あなたはオレの特別な人なんだって」
ここまで言えば自分が何を伝えようとしているかは分かるだろう。
だが荒北は、難しい顔をして見返してくるだけだった。
まあ普通は困るだろうな。せめて嫌がってないといいけどな…と願いながら今泉は言葉を継ぐ。

「最後の日まで黙って傍にいて、荒北さんの為に何かできる事があればしたかった。でも空っぽ
だったオレのここをいっぱいにしてる気持ちを声に出して伝えたかった」
トンと自分の心臓を示す。どっちも本当のことです、と切なく笑う。
選べないほど、いつもせめぎ合うほど。その均衡が崩れる日が急に来るとは思いもしなかったのだ。

「だけど海で荒北さんが昔のことを話してくれた時、オレは嬉しくて嬉しくて、ああもうダメだって思っ
たんです。抑えていられなくなった。伝えたくて泣き出しそうだった」
「………」
「じきに出て行きます。困らせたりしないから言わせて下さい。身勝手なオレを許して下さい」

新しい部屋の見取り図の入った封筒にそっと手をのせた。傍にいたかった、一日でも長く。
だがその思いとはうらはらに、激しい歓びが胸を満たしていく。
今日を限りの命でも、この花は自分のした恋の証だった。

「オレ、荒北さんのことが大好きなんです」
自分はちゃんと笑えているだろうか。この人の心のどこかに残ることはできただろうか。
思い出の詰まった部屋、5カ月という時間、育ててきた感情。
(一緒にいてくれてありがとう)
「あの火事の夜、助けてもらった時からずっと誰より大事で好きな人でした」



終わりです、と今泉が言った。
伝える勇気と諦める勇気、そのどちらもが彼の顔にはっきりと表われていた。

荒北は思わぬ形での告白をされ、動揺せずにはいられなかった。
それに、好きだと言われたのに今泉が手に入ったような感じが全くしない。
むしろ今自分が気を抜けば失くしそうな気がして、緊張が高まった。
次はオレが覚悟を示す番だと、どうしたって湧き上がる幸福感は一旦胸に押し込め、彼と向き合う。
(コイツの言ってくれた好きに乗っかるだけじゃ、なんの意味もねーんだ)

「オメ―の話は分かった。今度はオレの話、聞いてくれっか俊チャン」
立ち上がる自分を、今泉が驚いたように見上げた。
それはそうだ、好きと告げたのに何のリアクションもなしなのだ。
だがすぐ寂しそうに俯いた。返事は貰えないものと諦めたのだろう。
胸がキリキリ痛んだがなんとか堪え、荒北は引き出しから一通の分厚い封筒を出してきて今泉の
方に放った。
さっき差し出されたものと同じ不動産屋の名前。これが荒北の側の決意だった。

「荒北さん、これ一体…」
「先に中身見てくれるか。まだ候補なんだけどヨ、オレが直接見てきたし、俊チャン気に入ってくれ
んのあんじゃねーかな」

どういう事だろう、全然分からない。不動産屋の封筒だから自分の出した物と同じく部屋の見取り
図か。
(まさか荒北さん、オレに出て行けって言うつもりだったんじゃ…)
ふいに思い至る。あり得ることだ。あの時海で 『だってもういいだろ』 と言っていた。あれは一人
立ちしろという意味だったのか?
あまりの展開に今泉は頭がグラグラしてきた。気分が悪い。
自分から出て行くと言うのと荒北に出て行けと言われるのとではこうまで違うと思わなかった。
震える指でズッシリした封筒の中身を取り出した時、今泉はもはや蒼白になっていた。だが。

「え…これ…」
またもや頭の中が疑問符でいっぱいになる。それは確かに幾種類かの間取り図のコピーだった。
だが先日、今泉自身が不動産屋に出向き検討してきたものとは明らかに種類が違っていた。
「アパートじゃない…一軒家ばっかり…?」
そォそォと頷きながら、荒北はイタズラの種明かしをする時のような顔で楽しげに笑った。

「この辺、家借りんの安いからさァ。前に部の先輩に『シェアするんなら一軒家でも家賃大して
変わんねーぞ』って言われてたんだよな。そんでソレいいなって」
「荒北さん…?」
「この5カ月、色んなことあったし正直ココに思い入れもあんだけどヨ。オレも俊チャンも体デカイ
だろ?もうちょい手足伸ばせる広さがあって、そんで何つーか…もっとこう家らしいとこで暮らせ
たらって思ってんだ」

ここが正念場だなと荒北は思う。
両想いだったのには驚かされたが、自分と今泉では根本的に違っている点がある。
諦める覚悟で来たか、死んでも諦めない覚悟でいるかだ。
今泉には悪いが、後攻めの自分の方が断然有利だ。この幸運は必ずモノにする。


「俊チャン、オレと一緒に引っ越してくんねェか。ま、イヤだつってもかっ攫ってくんだけどヨ」
一応な、合意ってヤツがねえと誘拐だろ?お前未成年だしなァ…と荒北が馬鹿みたいな事を言っ
ている。
その顔を穴があくほど見つめた。
何がどうなったらここまで話が噛み合わなくなるのだろう。

「なんかおかしいです。オレは出てくって言ってて、荒北さんは一緒に引っ越そうって言ってます」
「別におかしくはねェだろ。今はオレと俊チャンの主張が対立してるってだけじゃねーの」
「でもオレはもう荒北さんと暮らせません。好きだって言われたの、聞かなかった事にする気なん
ですか」

「そもそもお前さァ、何でそんな最初っから全部諦めてんの」
「……ッ」
「困るだの迷惑だのオレが今まで一回でも言った事あるか、そのちっちぇえ頭ン中かき回して確認
してみろよ」
「…それは…ない、ですけど」
「だろォ?」

二ィと笑った荒北は、反撃だなと気合いを入れて座り直す。
伝えたいことを積もらせているのは自分も同じなのだ。
不安げに揺れる今泉の瞳はそれでも美しかった。そこに微かな希望が灯るからなおの事、見惚れ
るほどに。

「さっきさァ、オレが何で俊チャンと住もうと思ったか分かんなかったって言ってたよな」
「え、あ、はい」
「お前を独り占めしたかったからだヨ」
「……は…?」
「あの夜、俊チャンの泣き顔見た時からオレァひっでえ独占欲にとっつかれてなア。カッコ悪ィの
なんのって…金城見ただけでムカつくしよ。お母さんや高橋サンはともかく、お前の友達も仲間も
先輩も幼馴染も自転車屋もどいつもこいつもウゼェ!多すぎっぞ!群がんな!って思ってたし、
今現在もそう思ってっから」

今泉はポカンとした顔で荒北のセリフを反芻した。何かもの凄い事を言われた気がする。
自分に都合のいい解釈をしていないだろうか。
感情がアップダウンしすぎて、麻痺したような状態になっていた。
喜んでいいのか。笑うべきか泣くべきか、どうにも分からずにいる。
それを察したのか荒北は、今度はゆっくり言い聞かせるように話を続けた。沁み入るような声だった。

「なんで諦めてんだとか、責めるようなこと言ってゴメンな…オレだって希みはあんまねえと思って
たんだよ。お互い大事に思ってても、恋愛感情となるとまた別だかんなァ。男同士ってのはオレは
大して気にしてなかったけどよ。そこ気にする前にお前にはまっちまってたし」
「荒北さん…それ…」
「ン、まあもうちょい聞いてろ。おりこうにしてたらいい事あっから」

長かったのか短かったのか。二人で暮らした日々は濃密で。
そこに恋する気持ちが隠されていたと知れば一層かけがえのないものに思えた。
幸せだった。
この5カ月、自分たちは紛れもなく幸せだったのだ。

「俊チャンはオレに助けられて世話んなった、だから困らせたり迷惑かけんのはダメだ…そう思っ
てたんか?」
「……そうです」
「オレはな、お前が寄せてくれる信頼みたいなモンを損なえば、どっか行っちまうってそれが怖か
った」
「そんな…」
「あと海で話したみたいなアレコレあったからなァ。基本的に自分の事はロクなもんじゃねえと思っ
てたし、俊チャンみたいにどこもかしこもキレ―な子になんか言う資格あんのかってな…」

必死に首を振る今泉の頬には微かな赤みが差していた。生気が戻り、胸が高鳴る。
思わず前のめりになり床に手をついた。
さっきの自分の告白に、荒北が丁寧に答を返してくれる。
だがまだ決定的な事は言われない。それに焦れる。ほんの少しも待てないぐらい心が逸る。
あなたの気持ちが知りたい。

「結局、いつだって俊チャンの方が勇気があったって事だよなア…」
「勇気ですか」
「ああ、オレが自分に張ってた予防線もぶっ飛ばしたし、今だって全部なくすのも覚悟で気持ち
打ち明けてくれたじゃねえか。お前は前に前に進もうとする生き物なんだよ。オレもこっから見習
わねェとな」

自分の方から一息に間合いを詰めた。今泉の片腕を痛いほどつかみ、視線を絡める。
怖ぇモンだな、と思った。相手の気持ちはもう知っているのにそれでも。
(コイツはもっとスッゲー怖かったんだよな…)
一人で頑張ってくれてあんがとな。オレもずっと言いたかった事ちゃんと言うかんなと囁きかけると、
今泉はコクリと頼りなく頷いた。期待と不安に苛まれるようにして。

安心させるように笑いかけ、お前を、と掠れた熱っぽい声で荒北はその先の想いを紡いだ。
「愛してンだよ。絶対ェどこにも誰にもやるか」



荒北の言葉はゆっくり胸に落ちてきて、底のところでシュワッと弾けて溶けたような気がした。
何を言われたのか沁みてくる。
あれ、なんだ、初恋って叶わないんじゃなかったのかと、今泉は呆然としたまま彼を見た。
うあ泣かした。ま、悲しくて泣いてんじゃねーからいっかァと、頬をすり…と撫でてくる荒北の指。

俊チャン、俊ちゃァン?と優しく揺さぶられた。
それに合わせてぱたぱたっと涙が膝に落ち、染みを作る。
「分かったァ?もっといっぱい言うかァ?俊チャンが好きで好きでたまんねーんだヨ、もォ限界」

ホラはやくこっち来な、と腕を広げると、今泉が勢いよく飛びこんできた。
もう遠慮なんかしないと言いたげにきつくしがみつく。
重みで後ろに体を倒しながら、荒北は欲しくてたまらなかった相手に腕を回し隙間なく身を重ねた。
今まで偶然を装い触れていたのとはえらい違いだ。
もう自分のモンだと確信を持って抱く。そして自分もコイツのものだ。

絹のような黒髪を撫で、涙の溜まった目元に唇を寄せると、温かなそれに口づけ舐めとった。
睫毛を震わせるのを見て、愛しさと飢餓感が同時に湧く。
たまんねーなァ…と耳に吹き込めば、くすぐったそうに首をすくめた。
キレイで手つかずの生き物。
朝、窓を開けた時に見る雪景色のような彼に、足跡をつけるのを躊躇ってばかりいた。
今日で終わりだそんなもの。


「しっかし俊チャンの泣き顔そそるネェ…かわいすぎっから絶対他のヤツに見せんなよ」
「なんでオレが…っアンタ以外の前で泣かなきゃなんないんですか…バカですか」
「俊チャン無防備すぎんだヨ。ああもォそんなポロッポロ涙零したらもったいねぇだろが」

荒北の薄い唇が涙を追いかけてくる。独占欲を見せつけるようだ。これもキスなのかとぼんやり
思う。
どっちかというと舐め回されている感じだ。
どうせなら唇にしてくれないかなと思った瞬間、目が合い、見透かされたようで頬に血が昇る。

「ちょっとちょっとヤバイでしょォ、俊チャンその顔」
「……?どんな…」
「足りないもっとしてってカンジかなァ。エッロいネ…オレのこと欲しいの?おりこうチャン」

今泉はいかにも不慣れそうだったし、いくら荒北でも性急に事を進める気はなかった。
だが押し倒したくなるような艶めいた表情に慌て、少しばかりからかうつもりで言ったのだ。
自分も見せかけている程余裕はない。
ピッタリ抱き合っているから、心臓の速い動きは今泉にも伝わっているはずだ。

だがまた生意気に反発してくるという荒北の予想は外れ、今泉は無言でコクリと頷いた。
何に対して頷いてくれたのか、動揺しすぎて荒北の方が分からなくなった。
宝石みたいな瞳がじいっと見ている。
そしてそのまま瞼がゆっくり閉じられた。今泉は驚くほど無防備に自分を差し出した。
どうにでもしていいですよ、と言うように柔らかく開かれた唇。

ああ、クッソ…と獣のように呻くと、荒北はその拙い誘惑にのった。
せめて乱暴にしないようもう一度ぎゅっと抱きしめ、つくづくと愛しい相手を見やる。

「俊輔…」
覆いかぶさり重ねた途端、早くも抑制が効かなくなった。
頭の中が熱を孕み、キスすることしか考えられない。
それでも最初はじっくりと触れ合わせ、感触を知っていった。
音をたてて啄み優しく吸うと、空気を求めて開く今泉の唇から切なそうな声が漏れる。

「…ふ…ぁ…荒北、さん…」
「怖いことしねーからァ…オレの事だけ考えてな。いっぱい気持ちイイことしてやっから」

下唇だけ吸われたり、唇の裏側を舐められたりしていると意識がぼうっと霞んでくるようだった。
食べられてるみたいだ…と思いながら薄く目を開けると、目に毒なほどエロい顔つきで舌なめずり
している荒北がいて、ズンと腰が重くなる。
だが同時に安心もした。欲しがられているのがよく分かったからだ。
ガードがさらに緩んだ今泉の舌先に荒北の舌が偶然みたいに触れた。
ビクンッと震え潤んだ目を上げると、片方の手が指からゆるゆると握り込まれる。
初めてで少し怖いことも安心も全てこの人がくれる。そのことがとても嬉しい。

そのまま熱い舌を口内に差し込まれ、中をじっくり探られるともう声も気持ちも我慢できなくなった。
少し脅えるとすぐに、荒北が互い違いになった指を握ってくれる。
おずおずと舌を差し出せば、イイ子と喉声で笑いながら吸われ、混じり合う口づけに眩暈がした。


「荒北…さん…」
「んん?どしたァ?」
「オレね…オレ…荒北さんがキスする人になったんですか…?」

熱に浮かされながらもどこか心配そうにそれを聞く今泉に、荒北はハッとして動きを止めた。
どう見ても今泉は自分には過ぎた相手なのだが、本人は色々自信がないらしい。
これまでの経緯が経緯だったし、オレがそこんとこフォローしてやらねえとなァと心に決める。
それにしても恋人になったのかと聞けばいいのに、少し迂遠な可愛らしいもの言いには正直グッ
ときた。

「そうだよォ、お互いここまで来んの長かったねェ、俊チャン。ずっと一緒にいたくせにヨ」
「でもこれでよかった気がします…それにオレはずっと幸せでした。本当です」

あの災いの夜から今日までのことを思った。
表面だけ見れば、自分は再び自転車を得て、以前と変わらぬ姿になったのかもしれない。
だがこの人と暮らし恋をした日々がもたらしたものは、今はもうこの手に溢れるほどになっていた。
いつかそれを、誰かに分け与える日も来るのだろう。

「もっと海に近いところに住みたいです、オレ」
「あるよォ、そういうトコも。でも俊チャンと一緒に見に行きてぇな」

幸せになろうネ、と笑いながら荒北が言った。
彼らしいそのセリフが、長かった冬を終わらせ、二人で未来へ踏み出すための始まりの一歩と
なった。





レース開始直前の独特のざわめきからフラリと離脱して、荒北は一人洋南大のテントへと足を
運んだ。
自分もエントリーしているからジャージ姿だ。
これを着て走るのもあと何回ぐらいかねェと考えたが、まだ5月の初旬だ。さすがに気が早ぇかと
苦笑する。

それに学生の間は、できうる限り彼と同じレースに出て走ると決めていた。
そう荒北が言葉にして告げたからこそ、驚くほど短い時間で鍛え直し、今日の復帰に漕ぎつけて
くれたのだ。
愛されてんねェオレは、と言うと呆れた顔をしていたが。
自転車に乗った姿が一番好きだから、それを近くで見て走りたい。同じ気持ちなのは分かりきって
いる。


テントの入口をめくり中に入ると、そこには彼しかいなかった。
集中したいんでレース前まで一人にして下さいと言われたが、もう本当にギリギリだ。

「俊チャン時間だ。準備しな」
イヤホンをつけて何か聴いていたが声はきちんと届いたらしく、今泉は静かに目を開けた。
その瞬間、荒北が息をのんだ程、その双眸に湛えられた光はすさまじくも美しかった。
とんでもないモンが復活しちまったなア…と焦りさえ覚える。
彼は荒北にとってもライバルだ。同じチームで助け合う事もあるが、ロードレースの勝者はたった
一人なのだ。

「気が抜けるから、レースの時はその呼び方やめて下さいって言ったでしょうが」
「まだ始まってねーだろォ、堅いコト言うなヨおりこうチャン」
もっと嫌がる呼び方をしたから怒るかと思ったが、もう耐性がついたらしい。肩をすくめた今泉は
傍らにあったSCOTTを引き寄せた。
掌をサドルに乗せて、相棒と何かを分かち合い会話するような仕草。

「もしかして緊張してんの」
「いえ、ぜんぜん」
「かっわいくねーなア、手が震えてるから荒北さん握ってくださいとか言うかと思ったのによォ」
「本番前によくそんなくだらない妄想が出てきますね」

荒北の軽口は一蹴されたが、今泉は親しい人間にしか見せないような笑みを浮かべてこう言った。
「欲しいものなんて最初から決まってますから」
「ヘェ?知りてェな。最強最速の称号ってヤツかァ?」
「そうですよ。それと……」

トン、と荒北の胸に拳が当てられる。
驚いて今泉を見返すと、愛しさも情熱も秘めた瞳がまっすぐにこちらを射抜いてきた。
あなたを、と誇らかに頭をあげ宣言する。
強くて揺るぎない。誰にも負けない。
そんな彼の愛をこの身に受けていると実感すれば、心が底の底から掻きたてられた。

「ドキドキさせてくれんねェ…」
その手をひょいと持ち上げ、熱を帯びた唇を押し当てる。ずっとそんな風でいてくれ。そう願う。
今泉は何も言わず、ただ綺麗に笑っただけだった。
お互いのことはよく分かっている。不滅のものはここにある。

「っしゃ、行くかァ!」
「そうですね、皆が待ってる」


同じジャージ姿の荒北と今泉は、それぞれのバイクを引きながら肩を並べて歩き出した。
水色と青のフレームが春の陽光に輝く。
アア、オレも自転車なしじゃ生きていけそうにねぇなァ…と荒北は思った。
何年たっても、どんな形ででもこの乗り物に関わっていたい。いつまでだって走っていたい。

社会人になれば続けるのは難しいかと考えていたのに、急に欲が出た。
それは、今泉の在り方を一番近くで見てきたせいだった。
何ひとつ諦めないと心に刻んだヤツとこの先も行くなら、自分も夢を見ずにはいられない。
(ずっとドキドキさせてたいもんなァ、オマエを)


昂然と顔を上げ、自分の名を囁き合うギャラリーの中へ今泉は構わず踏み込んでゆく。
今日からまたしのぎを削りぶつかり、血も汗も涙も流してひとつしかない物を奪い合う。
そんな因果な人生だ。

だけど、闘い終えて日が暮れたら一緒に帰ろうなァ…と荒北は心の中で語りかけた。
何かを感じ取ったのだろうか、今泉がこちらを見て唇にだけ鮮やかな笑みを刷く。

どんな結果でも、泣いていても笑っていても、傍にいる。
そういう人を与えてくれたのも、この乗り物だった。
悔いなどない。前を見る。だが過去も忘れず連れてゆく。今まで生きてきた全てを賭けてお互い
を愛する。

悪くねェな、と荒北は笑うしかなかった。
本当に自分にしては上出来だ。
そして新しい居場所となった海沿いの小さな家は、絶えぬ波音を聞きながら二人の帰りを待って
いる。