いつもより少し遅めの時間に起き出した今泉は、家の中に荒北の気配がないのに気づき、
どこへ行ったんだろうと首を傾げた。
昨夜、一緒に出かけようと誘われたのだ。それを忘れるはずはないけどなと考える。

『俊チャン、明日予定あいてっかァ?』
『空いてるも何も……大学生って暇ですよね。春休み長すぎませんか』
『ハハ…それ喜ばねーの俊チャンぐらいだよなア。じゃあ明日一日オレに付き合ってくんねーか』
『いいですけど、どこに行くんです?』
ないしょだヨ、と荒北は笑いはぐらかすばかりだった。でも元気になってくれて良かったなと今泉
の心はふわりと浮き立った。もう顔の傷も治って分からなくなっている。


身支度をし手早く朝食を作って食べた。3月の上旬とはいえ、今日は天気も良く暖かそうだ。
行く先は分からないが、外出するにはいい日かもしれないと思う。
コタツの中で足を伸ばしながらコーヒーを飲み、ほうっと溜息をついた。
ここはそもそも荒北が作り出した空間ではあるが、今泉にとってもひどく愛着のある場所に
なっていた。そして今までは結構上手に二人で暮らして来れたのだ。

だが、二週間ほど前のあの夜、自分が荒北に踏み込み過ぎた事はよく分かっていた。
可愛がられてる犬みたいに何も気づかないフリしてるのが賢かったんだよな…と苦く笑う。
こんなに好きでなければそうできた。
だけどどんなに長くてももう一年も一緒に居られないのだと思うと、荒北にとって何にもなれない
自分が本当に辛かった。この道の先にはきっと何もない。

それでも夜が明けて様子を見に彼の部屋に行った時、荒北は言ってくれたのだ。
『あンな、ちゃんと考えっからオレ。俊チャンに言われた事』
『あ、あの、すみませんでしたオレも頭に血が昇ってたんで…』
『謝らないって言ってたじゃねェの。そんでいーんだヨ。ちゃんとしなきゃなんねーのはオレの
方だ』
ちっとばかり時間くれなと律義に言ってくるから、首を振り、それで充分ですと笑顔で答えた。
(あなたが自分を前より少し大事にしてくれたら、オレはすげー嬉しい…)


その時、オーイ俊チャン起きてっかァ!?と玄関から声がした。今何時だと思ってんだろうあの
人と呆れたが、入ってきた荒北を見て目を丸くする。
たくさんの買い物袋にも驚いたが、見慣れない自転車を一台肩にかついでいた。

「どうしたんですかそれ?」
「俊チャンと出掛けるっつったらミヤが貸してくれた。アイツの予備のバイクだヨ」
「待宮さんの…?オレが乗ってもいいんですか?」
「アア、自転車がねェとサイクリングになんねーだろ?」
バイクを受け取った今泉はぱあっと明るい顔になり、車体に触っている。この前自分のビアンキ
に乗った時は、楽しむどころではなかったのだろう。
カワイイよなァ自転車バカで、と荒北は横を向きこっそりと笑った。

「正直オレ、最初は待宮さんにあんまりいい印象なかったんですよね。インハイの時、うちの
マネージャーに絡んできたりしたんで」
「そういやあの美人マネ、俊チャンの幼馴染なんだってなァ。金城が言ってた」
「ええまあ……だけど実際接したら待宮さん仲間思いだし後輩にも親切でビックリしました」
「オメーの事も 『今泉はほんまワシには何もさせてくれんのう』 ってボヤいてたぜ」

そうなんだ…とりあえずお礼のメールしときますねと呟く今泉の中で高騰している様子の待宮株
に、荒北はヘンな敗北感を味わい、少々肩を落とした。
だいたいあの幼馴染の事も聞きたかったのだ。
付き合ってたことあんじゃねーのォ?とかあくまでもさりげなく。
普通の男ならあんな巨乳美人と親しいというだけでステイタスだろうに、サラッと流す今泉が凄
すぎた。
イケメンにとっては些細な事なのか。イケメンじゃないから分からない。

あーもォオレ、コイツの事に関してはほんっとに心狭ェなと頭をかいた。
しかしクールで人と最小限にしか関わらなさそうに見えた今泉に、親しい人間がこれでもかこれ
でもかと湧いてくるのだ。焦らずにいられようか。

と、その時、背後から腕を軽く引っ張られるのを感じ、荒北はひょいと首だけで振り向いた。
「あの、荒北さん、わざわざ借りてきてくれてありがとうございます。オレ嬉しいです…」
気恥かしいのか、目は伏せたままだ。
たが、そう告げてきた今泉の口元は柔らかく綻んでいた。言葉以上に嬉しいと伝わる。

(ちょ待て…オマエなんつー破壊力だヨ、オレをどうしたいの俊ちゃァン!?)
ガチン、と固まる。手指だけがわさわさと動く。
これを抱きしめずにいられるオレの自制心マジスゲェ…と神に試されているような気分になった。

いつもなら 『ンな大したことじゃねーしィ』 とでも言うだけだっただろう。
だが、それじゃ意味ねーだろ、なんか違うこと言えよバカが!と己を奮い立たせる。
皆が皆、今泉をかっこいいと言う。荒北だってそう思う。
だけどかわいくて仕方ないのだ。大事だし何でもしてやりたいし甘やかしたい。
そしてそれは、この純粋培養の生き物には言わなきゃ伝わりそうにない。

「俊チャンさ、最近あんま笑わなかっただろォ?喜んでくれたんなら、その…よかった…」
今泉の伏せた瞼をガン見しながら、自分の思いをしゃがれた声に必死で乗せた。
言った瞬間にもう、うわ恥っず!と穴を掘って埋まりたくなる。
だが、ぱっと上げた今泉の目は舐めたくなるような甘い潤んだ色をしていた。たまらない。


どぎまぎした心持ちが収まってくれない。荒北さん気にしててくれたんだと胸が高鳴った。
嬉しいのに素直に言えなくて困る。抑えた好きはちょっとした事で溢れそうになるのだ。
慌てた今泉は、「あ、あの、それ何買って来たんですか?」とわざとらしい話の逸らし方をするしか
なかった。
今聞いたばかりの荒北の声が、まだ身も心もじんと震わせている。

「弁当作って持って行こうかと思ってなァ」
子供みたいな笑い顔で、荒北は袋の中身を取り出して見せてくれた。
ハム、レタス、きゅうり、トマト、卵、ツナ缶、鶏肉を照り焼きにしたもの、チーズ、バター、それに
10枚切りの食パンがたくさん。

「あ、サンドイッチですね」
「そ。それぐらいならオレらでも作れんだろ?俊チャン手伝って。オレは卵焼くからヨ、他のやって
くれっか」
「卵を焼く?茹でて潰すんじゃなくて?」
「ウチの家ではそうすんだ。ウマイから楽しみにしときな」

ハイと頷き、今泉は少々ほっとしながら準備を始めた。レタスをちぎり、トマトやきゅうりは薄く切る。
鶏肉も薄切りにしよう、バターは練っておかないとな…などと色々考えを巡らせる。
隣でボウルに卵を割り込んだ荒北が、混ぜながら「俊チャン、そこの砂糖取ってェ」と頼んできた。

「砂糖?甘いのにするんですか」
「ウン、だって俊チャン好きなんだろ甘い卵焼き」
「そうですけど…誰に聞いたんです?」
「エッ、アー誰だっけか…そう、高橋サン!高橋サンな」

何を慌てているのか荒北はそう言い募り、卵を焼き始めた。
今泉の母が送ってきたフライパンが上等な物のせいか、焦げ付いたりする事がなく、一時期、荒北
はスルスル焼けるのを面白がってオムレツを作るのにはまっていたのだ。
だから卵を焼くのを失敗することはないだろう。
そう考え、今泉はツナ缶を手に取った。戸棚を開けコーンの缶詰も出してくる。
ツナの油分を絞ってほぐし、コーンも加えて、マヨネーズと粒マスタードで和えてみた。
味見をしたがなかなかいい。これはヒットだなと内心でガッツポーズを決める。

「なにソレ、美味そう。オレも味見させてェ」
ひとつ目の卵焼きを冷ますために皿に乗せた荒北がそう要求してきた。黄色くてフカフカだ。
マジでこの人、卵焼き職人だな…と笑いを堪えながら、ツナコーンの乗ったスプーンを渡してやろう
とする。
だが、右手首をがしっと掴まれてそのままパクリといかれた。
ふいに触られたのも、至近距離で物を食っている顔が妙にエロいのにも心臓がひっくり返りそうに
なった。かあっと頭に血が昇る。思考も声も緊急停止だ。

ン、うっま…俊チャン味付け上手だよネ、と唇をぺロリと舐める荒北に、そういやオレが食った後の
スプーンそのまま使った…と自分がやった事のくせに悶死しそうになった。
この人動きが読めない動物みたいでほんといやだ…ともはや涙目だ。
だがなんとか平静を装った声で、「そういえば行き先まだ聞いてませんよ、どこに行くんです?」と
尋ねた。

「みなと公園だよォ」
砂浜を整備して公園にしてあるその場所は、遠くはないが今泉はまだ行った事がなかった。
冬の海に男二人で弁当持って出かけんのかと苦笑もしたけれど、荒北が考えてくれたと思うと
幸せだった。
いつまでもずっとこうしていたかった。





NEXT