その冬の事を後に思い出す時、荒北も今泉もあれはあれで夢みたいに幸せだったなと思った。

気持ちを口に出せないのは苦しかったが、初めて本当に好きな人ができたのだ。
しかもその人が始終そばにいる。
恋が叶わなくても、自分が特別に大切に思われている事は分かっていたし、誰かと寄り添う
ように暮らしてゆくのは今までにない経験だった。

それは知らぬ間に、顔や雰囲気に表れるようになっていたのだろうか。
荒北は正月に実家に戻った時、元ハコガクのメンバーで集まって酒盛りをしたのだが。
そこへ昔と変わらぬ気まぐれさでひょっこり登場した真波に、『あ、荒北さん、好きな人できました
ね』 と顔を見るなり言われ、絶句したものだ。

以前に荒北が彼女を作った時にはまったく関心を示さなかったくせに、東堂も新開も、果ては
福富までが食いついてきて、何なんだコイツらと言い逃れするのに必死になった。
『幸せそうな顔をしているぞ』 とからかわれて、どう返せばいいのか。
ぜってェ実らねえ恋してんだヨなどと言ったら、殴られそうな雰囲気だった。

だがこのままとにかくタイムリミットまで一緒に居てェなと思ってしまっていたのも事実だ。
就職したらどこへ行く事になるか分からない。
どうしても離れなきゃならなくなったら、そん時は玉砕覚悟で好きって言うかなア…と荒北は
ぼんやり考えるようになっていた。

それなら一年半ほど共に暮らしてからの事だ。
俊チャン、オレに情が湧いて絆されてくんねーかなという期待感もあるし、ダメだったとしても
それだけ長い時間を過ごした荒北を無碍には扱えないだろう。
我ながらズルイと思う。だが、一生想いを口にしないなどとキツく己を戒めていた心にも、多少の
変化があった。
好きと同時に信頼も育ったからだ。
今泉俊輔がどんなヤツなのか、今ならちゃんと分かってると胸を張って言える。

だがそんな荒北の長期計画は、結局ただの計画で終わった。
始まりがそうだったように、停滞したものが動いたのもまた突然だった。
もう2月も下旬。共に暮らして4カ月を過ぎた頃、そのきっかけを作ってしまったのは今泉ではなく
荒北の方だった。




一人でリビングのコタツにぬくぬくと潜り、何となくテレビを見ていた今泉は、オレも順調にだらし
なくなってきてんな…と小さな笑いをこぼした。

体が萎えてはいけないと思うので筋トレは続けているし、自転車がない分どこへ行くのもなるべく
歩いている。バイトだって立ち仕事だ。日々それなりに忙しく動いていた。
他人から見たら怠惰という程ではないのだろう。
だが思い返してみると、かつての自分の生活にはこういうダラダラした時間がなかった。
我ながらストイックすぎたというか、本当に自転車以外何もなかったと言うべきか。

だから白状すると、最初は荒北の真似をしていたのだ。
今泉は最初の日からこのコタツが気に入っていたのだが、何しろ家族でこういう物を囲んだ経験
がなかった。
このやたら近距離にいながらコタツによって分断され、なのに中で足は当たっている相手とどの
ように付き合えばいいのか。
何か喋るべきなのか。何か好き勝手にやればいいのか。
最初は本気で分からなかった。

だが荒北は本当に猫みたいに気ままで、物を食ったり漫画雑誌をめくったりテレビを見て笑った
り、今泉にちょっかい出してきたり、急に黙り込んだり、携帯で写真を撮ったりした。
それを観察してなるほどなと思った今泉は、自分も雑誌を見たりレポートを書いたりメールを
送ったり、テレビにツッコミを入れたり、コタツですやすや眠ってみたりした。

それらは不思議と“無駄な時間”とは思えなかった。
黙っていても相手の気配は心地良く、『俊チャン、コタツで寝ちゃダメだつっただろォ?』 と荒北の
手で揺り起こされる瞬間がとても好きだった。

でもそれは荒北だからなのだろう。
他の人間と一緒で自分がこんなに無防備になれると思えなかったし、最初にボロボロなとこを
見せているから今更スカシたってカッコつかねーもんな…とも思う。
ここで暮らして今まで知らなかった自分を見つけた。オレってこんな奴だったんだなと驚く事も
多々ある。
それが自分にかつてない色彩を添えている事に、今泉は少しも気づいていなかった。



その時、玄関のカギが乱暴にガチャガチャ回る音がした。
ギョッとした今泉は時計に目をやった。午後9時すぎ。
今夜は荒北はバイトでこんな時間に帰ってくるはずがない。
まさか泥棒じゃねーだろうなと緊張しながら、玄関に繋がるすりガラスの嵌ったドアを細く開けた。
だが、そこにいたのは荒北だった。
彼の愛車のビアンキが、めちゃくちゃな角度でかろうじて靴箱に引っかかっている。

「荒北さん?お帰りなさい、いったいどうし……」
目に入ってきたその惨状に言葉がブツリと途切れた。荒北の顔の左半分を湿布のようなものが
覆っていた。
だが今泉はこれが湿布ではなく冷却シートだとすぐに気がつく。
シートからはみ出している部分まで紫色に腫れあがっている。喉が干上がっていくような感覚。
(殴られたのか。なんで、誰に)

「悪ィ…俊チャンびっくりさせちまって…」
「荒北さん!何なんですかコレ、どうしてこんな…殴られたんですか!?客に!?」
「ンーまあ、そんなトコかなァ…」

力なく笑うと、もう限界というように荒北は今泉の肩に寄りかかり、そのままぐったりしてしまう。
慌てて両腕を広げ、その身体を抱き支えた。
「ちょ…アンタ熱もあるじゃないですか。すっげー熱いですよ!」
「オレもヤワになったもんだなァ…昔はこれぐらいどうって事なかったってのによ…」
「いや何恐ろしい事言ってんですか。こんなんなって平気なわけないでしょうが」
「…平気なわきゃねーのかァ……まア普通はそうなんかもな…」
「もういいからアンタ黙っててください」

厳しい口調で言い渡すと、今泉は自分の肩に腕を回させ荒北を部屋へずるずる引きずり運んだ。
殴られた傷と体へのショックで発熱してんだな…と考える。
上着を脱がせ、その辺にあったジャージに着替えさせた。まずはベッドに横たわらせる。
ヒーターをつけて部屋を暖めながら、今泉はやけに頭の冴えている自分に驚いていた。
動揺はしているのだ、勿論。
怖いし腹もたつ。少し手も震えていた。どうしてこうなったのかも聞きたいと思う。
(けど、あの夜荒北さんはそういうの全部横に置いて、オレを守る事を最優先した)

スポーツドリンクと新しい冷却シートと体温計を持って、荒北の部屋へ戻る。
水分をとらせながら熱を測った。高い。38度3分。
冷やすものが足りない。こんなシートでは間に合わない。傷だけでなく頭も冷やさねーとなと思う。
あと、解熱剤がないのが致命的だ。二人とも風邪薬ぐらいしか持っていなかった。
幸いまだ時間は早い。駅前まで行けばドラッグストアもスーパーも開いている所はある。


シートを貼り替えてもらえたのが冷たくて気持ちよかった。荒北はほうっと熱い息を吐き出す。
それにしてもこの状態でよく自転車で帰宅できたものだ。俊チャンに電話して迎えに来てもらう
べきだったか…とぼんやりした頭で考える。
後でその辺も怒られるかもしんねーなと思った。だが今泉はひんやりと冷たい指先で額にかか
った髪をかきあげてくれながら言った。

「ひどいもんですね…これ、口の中も切れてますか」
「や、そっちは大丈夫だ…俊チャン落ちついてんなァ、殴られたことあンの」
「ありませんよ。あとアンタの武勇伝も今はどうでもいいです。それよりオレ、駅前まで買い出し
に行って来ますから。冷やすもんも薬もないし」

ポンポンものを言ってはいたが、見おろしてくる今泉の目は感情の波に揺らいでいた。
「オレ、本当は荒北さんをこんな目に遭わせたヤツに死ぬほど腹立ててますから」
低く悔しげな声が、小さな本音をもらす。
ン、そんぐらい分かってんヨ、と頷くと、それはそれでムカつきますとそっぽを向かれた。
笑ってしまう。それが頬の傷にもろに響いて、痛ってェ…と荒北は患部に手をやった。

「タクシー捕まれば乗りますけど、歩きならちょっと時間かかります。大人しく寝てて下さいよ」
「……俊チャン」
「はい?」
「オレの自転車に乗ってけ」

今泉の夜空のような色の瞳が見開かれた。荒北さん…と唇だけが動く。
ロードバイクは乗り手にとって半身に等しい。4カ月も一緒に暮らしてきたが、荒北のビアンキに
今泉が触れたことは一度もなかった。
その躊躇いの意味が分かるから、荒北は「オマエになら貸してやっから」ともうひとつ言葉を重ね、
背を押した。
今泉が頷く。分かりましたお借りしますとだけ言い、部屋を出て行こうとした。

「コケんなよ、俊チャン」
「オレを誰だと思ってるんですか」
まるで突然血が通ったかのように不敵な笑い方をする。カッコイイねェ、オレの好きな奴は…と
荒北は聞かせる者もいないのに自慢したい気分になった。

一人になりしんと静まった部屋には、ヒーターの稼働音だけが響いている。
頭は朦朧としていたが、ああ、ああ、こういう巡り合わせだったのかよ…とふいに思い至り、荒北は
きつく目をつぶった。
(オレが一番最初に乗ったのは福ちゃんのチャリだった…)
(そんで今度は俊チャンが、前に進みたくてオレの自転車に乗んのか…)

生きていればそうやって、人に貰った大事なものをまた別の奴に手渡す時が来るのだ。
なんも諦めないでよかったよなァ…とその時初めて腹の底から思う事ができた。

口端だけで笑えば、頬はズキズキと痛んでいるのにすうっと眠りが降りてくる。
今は俊チャンに頼っときゃいっか…ともう抗わず、それに身を任せた。
今泉が戻ってくるまでのほんの短い時間、荒北は水色の自転車に乗ってどこまでも走っていく
彼の夢を見た。



大き目のスポーツバッグを斜めがけにし、中に財布と携帯だけを放り込んだ。
玄関で荒北のキイホルダーを見つける。迷わず手にとり、ビアンキを肩にかついで冬空の下へ
出た。

千葉よりもっと海に近いこの土地では、いつも風が強かった。
遠くを臨みながら今泉は目を眇めた。逆風だ。
体感する湿度や気温、目的地までの距離。すべてがデータとなり自動的に頭の中へ入ってくる。
それはレースの時も練習やどこかへ行く時も同じ、長く培った本能のようなものだった。
だが、母が荷物に忍ばせてくれた古いグローブとヘルメットを着けながら、その時の今泉は
まったく別の事を思い返していた。

『俊チャンの名前って、すげー速そうじゃねェ?』
『そうですか?どの辺が?』
『俊は俊足とか俊敏とかダロ、そんでこっちの字には車って入ってっから』

コタツに広げられたレポート。それに書かれた自分の名を反対側からなぞってゆく荒北の指。
オレの名前なんかに興味を示してヘンな人だ、と思った。
だけど今なら分かる。名前は運命だ。
抗いようのない根源的なものがそこには流れている。

「悪いな、緊急事態だ。ほんの少しだけオレを乗せてくれ」
彼の自転車に小さく語りかけた。荒北とはよく似た背格好だ、何も変える必要はないだろう。
ビンディングがはまるバチンという音が心地いい。高揚感が全身を包む。
4カ月もバイクに触りもしなかったくせに、ひとつも迷いは感じなかった。
前だけを見て呼吸を整える。奥歯をギリッと噛みしめ、そして一気にペダルを踏み込んだ。

夜の冷たい空気を弾丸のように切り裂いてゆく。なのに飛ぶような浮遊感もあった。
皮膚がざっと粟立つ。
自分にとっての“当たり前”が水位を上げて急激に満ち、予告もなしにどっと堰を切った。

まっすぐに進む、進む、進む。景色は背後へと千切れ、一時も同じ顔を見せてくれない。
身体の中の血が沸き立った。長く置き去りにしていた感覚。
自転車と自分。それだけだ。身ひとつで世界と対峙する過酷さと楽しさ。ギリギリの極みに脳が
痺れる。
この速さは、自分が作り出している。

口元を歪め、笑った。オレたちは普通じゃない。
こんなものに魅せられ、こんな風に魅せようとする自分たちがまともなはずがないではないか。

あの人が速そうな名前だと言った。それは祝福であり呪いだ。
走るしか能のない自分は、ならば速く走るしかないのだと今この時思い知る。
そんな風でしかいられない宿命を。
荒北の声が聞こえた気がした。あの夜のような甘やかな慰めではない。まるで託宣のように
厳しく。
『自転車しかねェんだ。そういう生き物なんだ、オレもお前も』


短い坂を滑るように下っていった。
もっとクセのあるイメージだった荒北のバイクだが予想外の素直さだ。主ではない今泉を軽々と
運ぶ。
星が一度にたくさん見えて吸い込まれそうだった。
知らず滲んだ涙を、視界が悪くなると片手でグイとぬぐう。

(オレはもう、怖いもの知らずだった頃には戻れない)
理不尽に自分や自分の好きな人を傷つけられるのが怖かった。失うことも恐ろしかった。
だが結局、それが生きていくという事なのか。畏れを知ってなお、何かを望み、誰かを愛する。

過去よりずっと弱くとも、今のオレを遥か先へ運んでくれる半身が欲しいと今泉は熱望した。
走りながらふいに閃いた、それが答だった。
今度こそ胸に火が灯る。

(ああ、もっとずっと走っていたいのにな…)
彼方にはもう駅前の明かりがちかちかと輝きながら見えてきた。到達まであっという間だろう。

トリップしていた思考がほんの少し引き戻された。
看病なんて慣れていない。何を買えばいいのか。
解熱剤、氷枕、氷、あと何か食う物…おかゆぐらいなら食えんのかな、でも風邪じゃねーから
結構腹空かせてんのかも…と首をひねる。
そうして今泉とバイクはぴったりとひとつの塊になりながら、夜の街のざわめきの中へと滑り
込んでいった。



ふいに意識が浮上した。目を覚ました荒北はぼんやり天井を眺めた後、はっとして横を見やる。
ベッドの傍らでは、椅子に座ったまま今泉がウトウトと舟を漕いでいた。
明かりはついていたから時計を見た。午前4時。夜明けにはまだ遠い。

断片的に色々な事が蘇ってきた。戻ってきた今泉が 『インスタントの雑炊の素にご飯と卵突っ
込んだだけですよ』 とヘンな言い訳をしながら、飯を食わせてくれたこと。
解熱剤を飲まされ、氷がゴロゴロ入った枕を後頭部に差し込まれ、頬には小さな氷嚢を当てて
くれた。
『氷が溶けたらまた替えてあげますから、眠ってください』
声も額に触れた手も優しくて、なーんも心配ねェんだな…とホッとするとまた意識が沈んだ。
だが今泉はずっと起きていたのだろう。枕の中の氷はちゃんと形を保っている。

「俊チャン…俊チャンそんなトコで寝たら風邪ひいちまうぞォ…」
そんなに大きな声でもなかったのに今泉はばっと覚醒した。片頬が腫れているのでひどい顔
にはなっていたが、存外元気そうに荒北が笑っている。
言葉より先に手が動いた。傷のない方に押し当てたが熱くはなくて、安堵のため息が零れる。

「下がりましたね…よかった」
「あんがとなァ、まあ顔はブッサイクだろうけど、体の方は大丈夫だろ」
「2〜3日人前に出るのは無理でしょうね。大学中で噂になりますよ、アンタが誰かと乱闘したって」
からかうようにそう言うと、飲み物持ってきますからと今泉は急ぎ足で部屋を出て行った。

壁にはひっそりとビアンキが立てかけてあった。そして一本芯が通ったような顔つきをした今泉。
自転車乗りにはチャリしか特効薬がねェんだよなア…と荒北は思う。
大切に懐に入れて守っていたかった。だが、それに甘んじるような奴ではない事も最初から
分かっていた。



スポーツドリンクを荒北に渡すと、今泉はコーヒーカップを両手で包み、濃い目の一口をすすった。
眠くはなかったが、午前4時とは起きて話をするには妙な時間だ。どこか現実味に欠ける。
だがさすがに気になっている事があった。
「体、つらくなかったら話して貰っていいですか。一体何があったんです」
背中に枕を当てて起きあがった荒北にようやく訊けた。
ペットボトルの蓋をパキンと回し、彼は言葉を選ぶようにしばし黙りこくっていた。

「…その客な、ロクにつまみも食わずにヘンなピッチで酒ばっか飲んでっから、ちっと要注意かと
思って見てたんだ…したら案の定、店の女の子にちょっかいかけ始めやがってな」
「荒北さんとこのお店、外からしか見た事ないですけど客層は良さそうなのに」
「アアだから余計に目立ってたっつーか……そんでオレが割って入ったら、イキナリ泣き喚き
ながら暴れ出してなァ…」

実はカッコ悪ィ話だけど殴られたつーよりは事故なんだヨ。相手が腕をブンブン振り回してんのが
まともにガツン!て顔面にヒットしちまってな…と冗談ぽく笑いを交えながら荒北は白状した。
あまり深刻なムードにしたくなかったのだ。
何故そうしたくないのか、よく考えもせぬままに「マンガみてェだろ?」 とさらに茶化す。

だが今泉は真顔のままだ。とても一緒に笑ってくれそうな雰囲気ではない。
黒目がちな瞳が探るように荒北を見据えてくるから、居心地が悪かった。
オイオイ、俊チャンなんか怒ってねーかコレ…と胆が冷える。綺麗な顔だけに大変な迫力だ。

「警察に通報はしたんですか」
「や、まあ客商売だし、たまたま当たったってカンジだったろ?店長がソイツの名刺と連絡先
取り上げてたし、後で治療費ぐらい出してくんじゃねーか」
「そもそも店長に対応してもらうべきですよね、学生バイトなんだし」
「…う、アアまあな、でもその場の流れってあンだろ?たまたま近くにオレがいたっつーか…」
「荒北さんは、なんでそう誰でも彼でも助けたがるんですか」
「オイ待て俊チャン、別にオレァ誰でも彼でも助けたりしねーぞ!?何言ってんだヨお前…」

さくっさくっと切り込んで来る。急所に近い所に。躱すのに必死になる。
試しに少し声を荒げてみたが今泉はビクともしなかった。強い眼差しにさらされ、荒北の方が
ひるんだ。
これが4カ月前、同じこの場所で泣きじゃくった奴だろうか。
底の底まで見透かされるようだった。逃げ出したいと本気で思った。
だがそんな猶予も与えられず、鋭い声に一喝される。
「オレは!刺されでもしたらどうするつもりだったんだって言ってんだよ!分かんねーのかバカ
細目!!」


重たい沈黙が部屋を満たした。荒北は言葉を忘れた者のように呆然と動かない。
ああもう無茶苦茶だな、と今泉は嗤った。せっかく今夜は彼の役に立てたと思っていたのに。
だが恩人でありたとえ怪我をしている相手であっても、今怒鳴ったのを後悔する気にはならな
かった。
誰より好きな人のことなのだ。
いつものように一歩も二歩も退いていたらカケラも想いは伝わらない。

荒北の言動は、世間の事もよく分かっていて引くべき所は引くという一見立派なものに見えた。
そういう場面でつい動いてしまうのだって、彼らしいと言える。
なのに違和感がぬぐえないのだ。これはこのまま放置すべきじゃないと今泉の中で警報が鳴り
響く。

(なんかおかしいんだ…この人、自分が殴られたのに何で)
(別にいいみたいな)
(まるで自分は殴られても当然だ、みたいな顔で笑ってんだよ…)


カタンと小さく音をたてて、今泉が椅子から立ち上がった。
ほとんど中身の減らなかったカップを手に持ち、さっきの激昂が嘘のような静かで悲しい目を
していた。
「すみません。具合の悪い人に怒鳴ったりして」
「や、あのな…待てよ、俊、ちゃ…」
「でもさっき言った事には謝らないです。オレはね…ものすごく自分勝手なんですよ。だから見た
事もない人間なんかどうだっていい。荒北さんの方がずっとずっと大事なんです」

少し屈んだ分だけ、さらりと今泉の額に前髪が落ちかかる。美しい面差しに陰影ができる。
何も知らないはずなのに、その時今泉は荒北の心の一番底に沈んだものを透かし見ているよう
だった。
トゲだらけで、むやみに人を傷つけてきた。
膝を抱え、拳を握りしめ、すべてを呪いながらも、泣くに泣けなかった少年時代の彼を。
「そんな自分が痛いだけで済んだんならいいかみたいな顔、しないでください」


最後まで何も言えなかった。説明も弁解もありがとうもごめんも。
すべてが荒北にとって突然すぎた。
オレ少し仮眠取りますね、あと自転車ありがとうございました…と言い置き、今泉は寂しげに部屋
を出ていった。
殴られた頬の痛みが急激にぶり返してくる。
荒北は膝の辺りを殴りつけながら、クソッと自分に罵声を浴びせかけた。

(どんだけバカなんだ、オレはよ)
今までずっと今泉の保護者を気取り大切にして、それで恋をしていると浮かれていた。
だがこんなのが対等であるはずがなかった。拾った犬を可愛がっているようなものだ。
弱い部分は決して見せず、何も語らず、オレならお前を守ってやれると傲慢にも思ってきた。
(俊チャンはそういうのに全部気づいてたんか…)

そんな独りよがりの人間を、なのに今泉は誰より大事と言ってくれたのだ。
どうして自分がこんないびつな形なのか、理由は分からなくても、苦しまないでと願ってくれた。


(こっから取り返しはつくのかよ。オレはどうすりゃいい)
ベッドに横たわり、氷嚢を頬に押し当てる。
今分かるのは、自分を粗末に扱えば今泉を悲しませるという事だけだった。
だからそれはしない。もう絶対にしない。だが、その先はー…?

変わるのは簡単な事じゃねェなと荒北は思った。
ずっと見て見ぬフリをしてきたのだ。重くかさぶたのようになった過去。振り返りたくない。
だが薄い壁一枚を隔てて、きっと眠れずにいるはずの今泉の存在も感じていた。
(このまんまじゃ、好きなヤツに好きとも言えねェよ)
恋が叶うとか叶わない以前に告げる資格がないのだ。何度も寝返りをうった。もう腐るほど寝た
から朝まで起きてたっていい。死ぬほど考えろ、と念じる。

俊チャン頼むから、少しだけ待ってくれよ…と荒北は隣の部屋に向かって小さく懇願した。
どうしようもない自分でも、決して失いたくない人があった。






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