「俊輔!」 「俊輔ぼっちゃん!!」

ドアを開けた今泉に、小柄な美しい女性ときちんと制服のようなものを着込んだ口ヒゲの男が 
泣きながら抱きつくのを、荒北は半ば感心したように見ていた。
今泉がいいとこの子なのは何となく察していたが、ぼっちゃんときた。
しかも男の方は今泉家の専属運転手なのだという。
そんな存在がフツーにおうちにいるってどんなだヨ、俊チャン…と心の中で突っ込む。

今泉は左右からぎゅうぎゅう抱きつかれ、困惑しきった顔で二人の肩に手を置いた。
今日もまだ荒北の服を着ている。背格好がほぼ同じなので、好みはともかくただ着る分には
何の問題もなかった。


あれから、三日たっていた。
今泉の母はすぐにでもこっちに来たがったが、荒北がある提案をし、今泉がそれを受け入れた
事で色々と状況が変わった。

『あのな、俊チャン。当分ここに住まねェか』
一夜明けて、たっぷりと作った朝食を食べさせながら、荒北はそう切り出した。
向かいでジャムの乗ったトーストを持ったまま、今泉は驚き顔で固まっていた。
『当分…て、どういう…』
『や、俊チャンがいたいんなら、オレが卒業するまでいてもイイヨ。お前がまた一人で暮らしたく
なったんなら、出てってもいいし』

オレも家賃折半になったら楽だしなァ、安いとはいえここずっと借りたまんまなの結構負担だった
んだヨ、といかにも自分にメリットがあるからだという話の進め方をする。
だが、本心はどこにも行かせたくないだけだった。
多少強引に出なければ、このお坊ちゃんはホテル住まいでもするとか言って今日にも出て行っ
てしまうだろう。
『これ以上、荒北さんに迷惑かけられない』 というオーラが朝起きた時からダダ漏れだった。

『オレなんか一緒に住んでたら、彼女とか呼びにくいでしょう…』
『そんないいモンいねーし』
『その気になればすぐできるでしょうが。荒北さんモテるじゃないですか』
『うっわ、モテモテ俊チャンに言われたくねェな』
『荒北さんを好きな人はみんな本気っぽいって話ですよ。オレはちがうし』

へえ、そんな風に思われてたのかよ、とちょっと口元がニヤけた。クックッ…と笑いながら、
向かいでベーコンエッグの黄身をつつき回す今泉を見つめる。
昨夜の事はお互いに何も言わない。
だが今泉の態度にはこれまでにない親しみがあり、どこか子供っぽくさえあった。
もうひと押しと思い、それに部屋がねえと物を買っても置くとこもねーから生活立て直すのも
遅れるばっかだろーがと言うと、それはそうですね…と素直に頷く。

それからも延々と話し合いをした結果、とうとう今泉は 『ありがとうございます。それじゃあ、
お世話になります』 と頭を下げた。
お世話なんかしねーヨ!ただのルームシェアってヤツだと言うと、『ウソばっかり言って』とポイッ
と返される。
一度懐に入れたら面倒みるくせにとでも言いたげな口調に、アーちっとは生意気なとこ復活して
きたかと安心すると同時に、案外とよく変わる表情が嬉しくもあった。



母と運転手の高橋が座るやいなや感謝の言葉を並べたてるのに荒北がひどく困っているのが
分かった。
だから今泉は、時間もあんまりないし買い物に行こうと母を誘った。
「じゃあ、駅前までまずはお送りしますよ」と高橋が申し出たのだが、母は「この子と話したい事
もあるし歩いて行くわ。帰りは荷物もあるし迎えに来てくれますか」とサラリと言った。

実家から届いた物の荷ほどきや、今日車で持ってきた布団類を片付けといてやるヨと荒北が
言い、高橋もそれを手伝うと言ったので外へ出た。
晩秋の空は高く、柔らかな青い色をしている。
今泉は深く呼吸をした。オレにどんなひどい事が起こったって世の中は普通に回るんだなと
思う。
だが自分を気にとめたり心配してくれる人の存在を感じると、僅かに和らぐものがあった。

「心配かけてごめん…」
隣を歩く母に小さく告げると、彼女は背の高い今泉を眩しげに見上げた。
「本当にね。あなたのせいじゃないのは分かっているけど、静岡は遠いし、身ひとつで焼き出さ
れたっていうし、無事だって分かってても顔を見るまでは心配だったわ」
「ああ。荒北さんが助けてくれなかったら、どうなってたかって自分でも思う」

財布やカードは持っていたから、どこかホテルにでも転がりこむ事はできたかもしれない。
だが、何もない無機質な部屋で自分はあの夜に耐えられただろうか。
『お前がいやなら忘れてやっから』
その言葉どおり、荒北はあの夜のことを何も言わない。だが、自分は忘れてなどいなかった。
胸にあいた穴には彼の体温が沁み込んでいて、もう消えることはない。

「あの人、随分あなたを大事にしてくれてるのね…前から知り合いだったの?レースで」
「いや、高1のインハイの時に競ったチームの人だったから顔見知りではあったけど、特別
親しいってほどじゃなかったな。住んでるとこが近かっただけで」
「でも、呼んだのは荒北君だったんだ」
「ああ…自分でも分かんねーんだ。どうしてかなんて」

でも案外優しいのは知ってたなと思う。口は悪いし態度もデカイけど、根っこの所は。
あのまま 『俊チャン』 と呼ばれているのも嬉しかった。
一緒に住もうと言われた時は驚いたけど、それも本当に、涙が出そうなほど嬉しかったのだ。
今の自分がまたすぐに一人で暮らすのが怖い事ぐらい荒北にはお見通しだったのだろう。

そんな彼の心に、結局は甘えてしまった。
(いつか、そういうの少しは返せる時が来るのかな…)
ふとそう思い、未だフラフラしてるくせに何偉そうな事言ってんだと嗤う。何とかこうして立って
行動していられるのだって、荒北に支えられているからだ。


「それで俊輔…あなた本当にいいの。あの、自転車のことだけど」
「ああ、そっちも心配させてるんだよな。でももう決めたから。休部届も出してきた。今はオレ、
新しいバイクを買う気になれないんだ」

9歳の時から毎日自転車に乗っていた自分を母が案じるのも無理はなかった。
あのマンションに入居する際に賃貸の総合補償保険に入っていたから、いずれは200万以上
の保険金がおりるらしい。
だが今は、ピカピカのバイクと一緒に走っていく力が全然足りない。
その事を荒北に話すと、彼は 『ン、そっか』 と頷いただけだった。
いつまでだとも戻る気はあるのかとも聞かない。一見そっけないような態度だったが、今泉は
彼が理解してくれているのを感じていた。

「その時が来たら、寒崎さんに連絡して新しいのを買う相談する。まァいつになるのか分かん
ねーけどな。半年後か一年後か…」
新しいバイクで走る自分を想像しても、まるで他人事のようにぼんやりと遠かった。
そんなにブランクをあけたら選手としてもダメになるかもしれないとも思ったが、焦りも燃える
ような思いも生まれてこない。

ただ、今までがむしゃらに走ってきた自分が道草をするなら意味のあるものにしたいと思う。
それが、支えてくれようとする人たちに対するせめてもの誠実だった。



「アイツ、ベッド買わねー気なんかなァ」
「ああ、そうみたいですよ。その代わり、ご実家にある大きいサイズの布団類を持ってきて欲しい
って言ってましたから」
マット、敷布団、掛け布団、毛布が2枚、枕、それにシーツ類。
どれも大きくて、男二人でも車から持ってくるのはなかなかの重労働だった。高橋も上着を脱ぎ
腕まくりをして奮闘している。

包んであったビニールをはがす作業をしながら荒北は、「高橋サンは…ちっさい頃からアイツを
知ってるんスか」と聞いてみた。
「ええ、そうなんです。もう私もこちらで運転手をして長いですからねえ」と、穏やかな返答。

まだ物の少ないガランとした部屋を見回して、今度はぼっちゃんはここで住むんですね…と目を
細める運転手は、やがて手を止め躊躇いがちに荒北に言った。
「あなたはこういう事を面と向かって言われるのが苦手なんでしょうね。でも本当に感謝していま
す。俊輔さんを助けてくださってありがとうございました」
「エッ…や、オレが俊チャンを火の中から救い出したわけじゃあるまいし」

だが高橋は緩く首を振ると、少し間を置き、「自転車が…焼けたと聞きました」と呟いた。
その声には悼むような響きがあり、ああこの人はアイツにとって自転車がどういうモンか分かっ
てんだなァと思う。

「俊輔さんは…何でも簡単に出来る人みたいに思われてしまうんでしょうが、幼い頃から努力家
で、毎日それは厳しいトレーニングをして走り続けてきたんです」
「………」
「それは、本当に本当に自転車が好きだからなんですよ」
だから自転車が焼けたと聞いた時、ぼっちゃんがどんな思いをしたことだろうと心配でたまり
ませんでした…と目尻に浮かんだ涙をぬぐう。

「新しい自転車を買う気はないと言っているそうですね…」
「今はまだ、って事みたいスよ」
「また走る気持ちになってくれるでしょうか」
その問いに荒北は曖昧に肩をすくめただけだった。だが態度とはうらはらにもう心に決めた事が
あった。

(アイツはオレとは違う。取り返しがつかなくなったわけじゃねーんだ)
これは明けない夜じゃない。
泣き顔もキレーだったけど、キツイ太陽の光が照りつけるロードに立つアイツの方が、もっと。

あぐらをかいたまま黙り込む荒北に、「ああ、すみません。自転車の事は何も分からないのに
余計なことを…」と高橋は慌てたように謝った。
首を振る。
なんつーか…オレもね、走ってるアイツ見んのが好きなんスよ、と答にならないような言葉を
漏らしただけなのに、運転手の顔は急にぱっと明るくなった。
それで充分です、とでも言うように。
奇妙な連帯感が生まれてしまい、何となしに二人は笑みを交わす。
そしてそれ以上は何も言わず、今泉が今夜から手足を伸ばして寝られるようにと、新しい布団
を干す作業へと取りかかった。



開け放してあったドアがコンコンと叩かれた。顔を上げると荒北がいて、「できたかァ?随分かか
ってんなァ」とからかうように言われる。
「ええ、だいたいは終わりました」
今泉は買ってきた小さな棚をずっと組み立てていた。
これまではこういう物を買ったことがなかった。だが安いし、自分で作るのが今の気持ちに合っ
ているように思えたのだ。

(焦らずに、一個ずつ、本当に要るものを増やしていこう…)
その中に自転車が含まれていないのは少し切なかったが、こうしてじっくり今後を考えられる
のはここに住める事になったからだ…と思う。
それに実家から使えそうな物を色々持って来てもらえたおかげで、少しは人の住む部屋らしく
なった。今夜からは自分の布団があるのも嬉しい。

その時、カシャッとシャッター音がした。
驚いて見上げると、荒北が携帯片手に「俊チャン、棚の組み立て終了。ちょっと曲がってます…
っと」などと呟きながらポチポチやっている。

「ちょ…誰に送ってるんですか」
「ンー?高橋サンだよォ」
「高橋?アンタなに仲良くなってんですか。それと曲がってませんから!」
「高橋サンが、本当はこのままぼっちゃんを車に乗せて千葉に連れて帰ってしまいたいぐらい
ですって泣くからさァ。定期便送るって約束したんだヨ」
「……そ…なんですか…」

うなだれてしまった今泉の頭を、荒北の手がぐしゃぐしゃと撫でてきた。
「イーんだよ、今は甘えさせてもらっときな。ちゃんと人に返す時だって来んだからヨォ」
「そういう事、あったんですか、荒北さんにも」
「ン?あー…まァなア…」

目を眇め、何かを思い出すような顔をする。
そんな荒北に、ああこの人もひどく傷ついた事が今までにあるんだろうかと今泉は考えた。
一見荒っぽくても、他人に優しくできるのはそのせいなのか。
だけど、そんな事を自分が話してもらえるはずはなかった。
そういうのを聞けるのは、荒北の信頼と尊敬をかち得ている人間だけだ。
(たとえば…福富さんや……金城さんとか)

急に情けなさや悲しさがわっと込み上げてきて、今泉は途方に暮れたように荒北を見た。
あの夜から感情の抑制が効かない。バカみたいにこの人に開けっ放しだ。
(オレは、心臓を失くしたはずなのに)

無言のままじいっと凝視してくる今泉に、何故か荒北は焦ったように手で目元を覆った。
「俊チャン…余所のヤツにそういう顔見せたらダメだかんねェ…」
「そういうって?意味分かんないんですけど」
「アーそんなんで今までよく無事だったよねェ。目力強すぎっから気ぃつけろつってんの」
「無事って、ケンカ吹っかけられるって事ですか」
「ちげーよ。100人いたら100人とも誤解するって意味だヨ…」

ハア…とおかしなため息をつくと、それよかメシ食いに行こーぜ、せっかく俊チャンのお母さん
に貰ったしなコレとチケットの束をひらひらさせる。
母が何か荒北にお礼をしたいと言うので、あの人肉が好きだから…と静岡にしかない有名な
炭火焼きハンバーグのチェーン店の食事券を買わせたのだ。

「それ、一人で使ったらいいんですよ。荒北さんのだし」
「まァ使うけどよ。今日は俊チャンの引っ越し祝いっつー事で」
(引っ越し“祝い”か…)
まるでいい事みたいだと今泉は笑わずにいられなかった。
この人にそうだったと言える日が来ればいいと思った。いつか一緒に、自転車で走りながら。




「すげー美味かったです、ごちそうさまでした金城さん」
「いや、気に入ってくれたなら良かった。少し元気になったようだな今泉」
「そうですね…ここに住まわせて貰えたんで、すぐ生活を立て直しにかかれたから」
ちびちびとビールの缶を傾けている荒北をチラリと見やり、今泉が言った。

こたつの上にはきれいに食べ終わった鍋や取り皿、チューハイやビールの缶が乗っている。
未成年の今泉だけはウーロン茶を飲んでいた。
とはいえ、金城も荒北も酔っぱらうには程遠い量しか酒は口にしていない。
今泉がマンションを焼き出されて2週間。
ようやくと言うかしぶしぶ荒北が家に来ることを解禁としたので、金城は食材を持ち込んで、
母親直伝の味噌を使った鍋を作ってやったのだった。


それにしても荒北の機嫌が悪い。
今泉を襲った災難については火事の翌日に荒北から電話がかかってきて知った。
今泉に助けを求められ、自分の所に置いている。怪我はない。ただ自転車を含めて何もかもが
焼けたと聞かされ、とっさに言葉が出て来なかった。

正直なところ、何故荒北なのだろうと驚きもしたのだ。
もう今泉が洋南に入学して半年たつし、荒北や待宮ともそこそこ親しくはしていたが、元より
あまり人と慣れ合うタイプではない。
住んでいる所が近いのは知っていたが、いつの間にそんなに仲良くなっていたのか。

しかも荒北は報告はしてきたものの、その後なかなか今泉に会わせようとしなかった。
『アイツなんとか普通に振る舞おうとしてっけど、すげーショック受けてんだヨ。そんな時に
色んな事を説明させられたり大丈夫か大丈夫か言われんのシンドイだろーが』

正論だった。正論すぎてさすがの金城もそれ以上口出しできず、今泉の状態が良くなったら
教えてくれ何でも力になると伝えてくれと言うだけに留まった。
しかし荒北のあの剣幕は何なのか。
怪我をして弱った子猫を抱き込んで、近寄るなとフーフー威嚇している母猫みたいだなとその
時は少し微笑ましく思ったのだが。

数日の間に、今泉の身の振り方は完全に決まっていた。
ようやく大学で顔を合わせた時に、荒北さんの所に住まわせて貰う事になりました、それと
監督に休部届を出しましたと今泉に言われ、呆気にとられたものだ。
特に休部する事については、自分にも相談してくれてもよかったのではと思った。

だが、金城は結局何も言わなかった。
今泉がどんな思いをしたのかは、荒北と今泉にしか分からないのだろう。
目の前の二人を見ると、以前と変わらぬようでいて、そこには互いに寄り添おうとする空気が
確かにあった。


「ところで今泉。休部するのはいいが、お前がレースに出てないのは関東のロードレーサーの
間ですぐに噂になるぞ。俺も聞かれる事になるだろう。どうしておいて欲しいんだ」
「そう…ですね。鳴子はまあ関西にいるから情報遅いでしょうが、小野田や手嶋さんたちは…」

すぐに気づくだろう、当然金城に聞いてくるだろう。
ウーロン茶のグラスを握りしめたまま今泉は俯いた。ああ、そういう事も考えとかなきゃなんね
ーのか…と気づかされる。
出来るだけ長く伏せておきたかった。まだたった2週間だ。話をさせられるのも同情されるのも
正直しんどいと思った。そんな自分の弱さが嫌でもあったが。

「ひどくはねーけどちょっと怪我して治療中だって言っとけよ金城。オメ―がウソつくなんて誰も
思わねーだろォが。コイツの為に何かしたいんなら、それぐらい上手いコトやっとけっつの」
強い口調で荒北がまくしたてた。何故か今日は不機嫌そうにしている。
だが、それを見ても金城はまったく動じなかった。
「それもそうだな。とりあえずはそうしておくか」と穏やかに笑うだけだ。

荒北さんの事、よく知ってるから平気なんだな。自分ならあんな機嫌悪そうにされたらどうして
いいか分からなくなる…と、今泉は少しへこんだ。
だが荒北は、「そんでいいだろォ?俊チャン」と気遣わしげに顔をのぞき込んできた。
金城の前でもそう呼んでくれる事が嬉しくて、膝の辺りをぎゅっと握りながら、ハイすみません
がお願いします…と頭を下げる。

そうやって自分と自転車の距離が少しずつ広がってゆくのに、心は波立たない。
なのにどうしてこの人の事にだけ、悲しくなったり嬉しくなったり、他人を羨ましいと思ったりする
のだろう。
(オレはたぶん、荒北さんのことがもっと知りたいんだ…)
小さく灯った熱を逃がしたくなくて、今泉はやみくもにそれを抱え込む。
これを失えば自分はあの夜のように冷えきってしまうだろう。そこには戻りたくなかったのだ。



ちょっとコンビニ行ってくるかんなァと今泉に告げて、帰ろうとする金城と一緒に外へ出た。
自分は徒歩、金城は自転車を引きながら少しだけ前を歩く。
冬が近づいていた。車輪の音だけが暗い夜道にカラカラと鳴っている。

我ながら今日の態度はひどかったと荒北は思った。
だが、金城に対する今泉の信頼の大きさを目の当たりにするともうダメだった。元々そこに関し
ては羨ましいようなモヤモヤがあったのだ。
コイツには簡単に笑うんだなとか、頼りにしてるし判断も信じてんだなとか。
(あの夜、やっぱり金城に電話してればよかったって思ってんじゃねェかとか…)


「思っていたより元気そうでよかった。お前がすぐに今泉を守ってやったからだな。オレには
辛かったとも怖かったとも絶対に言わないヤツだが…」
「そおかァ?今日もオメ―が来たんでめちゃくちゃ安心した顔してたけどな」
「そうじゃない。オレも最初は自分を頼ってほしかったと思ったんだがな…たぶん今泉はオレ
相手では弱いところを見せられなかっただろう」

あいつには強くなれ成長しろとそんな事ばかりを言ってきたからな…と金城は珍しく自嘲する
ように笑った。顔は見えていないが伝わるものがある。

総北のエースの継承。それが金城と今泉の間にある絆だった。
金城は決してむやみに厳しいだけの男ではない。むしろ思いやりがあり、優しい。
だが、今泉に対しては多くのものを当たり前のように求めてきたのだろう。
内心はどうあれ、高い結果を、チームを導くことを、誰よりも速く走ることを強いてきた。

(だから俊チャンは、あの夜、金城に助けを求めなかったんか…)
それは 『なんで自分を呼んだのか』 という答にはならなかったが、荒北は初めて腑に落ちた
気がした。
今もはっきり思い出せる。携帯に耳を押し当て必死に拾った、脅えて掠れきった今泉の声。
(じゃあ少なくともオレは、俊チャンにとって 『助けて』 って言える相手だったってコトか)

誰でも良かったのかもしんねーケドなと思いながらも少し気分が浮上した荒北だったが、続け
て金城が言い出した事にギクリと肩を揺らした。
「だがまあ、お前に負担が大きすぎるようなら、何カ月かしたらオレが今泉を引き取っても構わ
ないぞ荒北」

(なんだ、なんだよソレ)
(今、俊チャンはお前には弱いトコ見せらんねーって言ったばっかじゃねーか)
(もしアイツがまた泣きたくなったら、そん時ゃどうすりゃいいんだよ)

一瞬で血が沸騰した。腹が立って腹が立ってしょうがなかった。勝手に入ってくんなと思った。
すべての憤りや苛立ちを、先へゆく金城の背中に大声でぶつける。
「イラネ―よ!オレが拾ったんだからオレが最後まで面倒見んだヨ!!」

静まりかえった夜道に荒北の声だけがわんわん響き渡った。
だが無言でこちらを振り向いた金城の顔を見た途端、ウッと言葉に詰まった。眼鏡の下のその
目が静かな笑いを含んでいたからだ。
「お前から取ったりはしない」
あっさりとそう告げると、金城は今度こそ面白そうに笑い出す。クッソ!カマかけられた!この
男!と荒北は地面にへたり込みたくなった。

「金城、テッメェ…」
「悪かった。一応、お前の気持ちは確認しときたかったんでな」
「お父さんかヨ!オメ―は」
「父親ポジションなんてつまらんな。お前ら両方からは邪険にされるし、なかなか切なかった」
「はア?お前ら?俊チャンはフツーだったろォ」
「気づかなかったのか。今泉はずっとお前の方ばかり見ていたぞ」

指摘され、目を見開く。じわっと嬉しさが込み上げる。そうだったんかなと思う。
それが未だ残る不安さに根差した行動だとしても、金城もいる場所で自分ばかり見ていたと聞く
のはとんでもない優越感だった。

「そりゃあ…アレだ、生まれたばっかのヒナが初めて見たモンについてく的なヤツだろ」
「なるほどな。今泉は現状、生まれたてのような感じなのかもしれんな」

生まれたてなア、と荒北は夜空を仰ぐ。
まっさらにリセットされた今泉は、これから幾らでも好きな事ができるのだ。
(また自転車しかねえ生活を選ばなくてもアイツなら…)
何だって出来るだろう。自転車へとまっすぐに誘導するのは、自分のエゴじゃないのかとふと
考える。

そんな荒北を興味深げに見た金城は、「お前は好きな人にはそんな風になるんだな」と言って
のけた。
「ウッセ!オレァまだ何も認めてねーぞ!!」
軽く蹴飛ばすマネをすると、何だ今さらと返される。
つーか俊チャンもオレも男だぞ。そっから問題視しろよコイツは!と荒北は内心で脱力せずには
いられなかった。





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