『カレー作りますけど、帰ってきたら食いますか?』

夕方、今泉から来た短いメールを思い出し、荒北は鼻歌を歌いながらバイト帰りの夜道を自転車
で走った。
12月に入っていた。上着とネックウォーマーとグローブで防いでも、耳が千切れそうな程寒い。
オールシーズンの競技をやっているとはいえ、こればかりは慣れるものでもなかった。

(もう、一カ月半かァ…)
早いものだと思う。今泉と一緒に暮らし始めた頃は、どこにもやりたくないとは思うものの、上手く
共同生活ができるかどうかは未知数だった。

ルームシェアというのは色々な軋轢をさけるべく、普通あまり干渉し合わないものらしい。
今泉も自分の部屋に籠もるだろうかと思ったが、蓋を開けてみると違った。
『お帰りなさい』 も 『行ってきます』 もちゃんと言う。
お互い家にいる時は共有スペースのコタツにもぐり込み、荒北がテレビを見ている向かいでレポート
を書いたり雑誌を読んだりしている。
『煩くねェの?』 と一度聞いてみたが、 『ぜんぜん』 と首を振るだけだった。
実家にはなかったコタツが気に入っているようで、たまにそこで眠り込むのは困りものだったが。

食事も別々と決めていたが、何やかんやでよく一緒に食べる。
荒北は飲食店でバイトしているので夜はまかないが出るが、帰ってくる頃にはもう腹を空かせていて
夜食は必須だった。
一方、休部届を出した今泉は時間を持て余しているらしく、時々何か作って待っていてくれたり、
冷蔵庫に 『食っていいですよ』 と紙を貼ったタッパウェアが鎮座していたりする。

たまに言い合いをする時もあったが、人間二人一緒に住んでいてぶつからないわけがないだろうと
双方思っている節があり、大事には至らなかった。

静かに穏やかに、時間はさらさら流れてゆく。
そんな中、荒北と今泉はおずおずと互いを知ろうとしていた。
大丈夫かなと躊躇しては、一歩を踏み込み、大慌てで元の位置より下がったりもした。
だがそれは決して無駄にはならず、照れずに優しくできた時は本当に本当に嬉しいと思えたのだ。



玄関のカギを開ける音がした。キッチンスペースでカレーをかき混ぜていた今泉は、荒北が帰宅した
ことを知り、よし試してみるかと覚悟を決めた。

「ただいまア、俊チャンすっげーいい匂い。腹へったァ」
ドアを開けるやいなやそう言った荒北と目を合わせ、「お帰りなさい!」と自分としては最大級の笑顔
で応じる。
キッチンに微妙な沈黙が満ちた。カレーだけがグツグツ音を立てている。
鳩が豆鉄砲を食らったような顔で固まる荒北を見て、あ、失敗したと今泉は思った。
急激に恥ずかしくなってきて、背を向けシンクに手をつき、「あ…すみません、ヘンでしたよね…忘れ
てください…」と低く呟く。

「イヤイヤイヤ、今のなに俊ちゃァン!?」
荒北にしてみれば、帰宅したらウサギのロゴが入った紺色のエプロンをした今泉がカレーをかき回し
ながら「お帰りなさい!」とニッコリしたわけで、動揺しないわけがない。
ヤベェ、こいつもうウカツに一人で外にも出せねェわと真剣に思った。

「…練習してみようと思ったんです」
「ハア?練習!?なんの」
「新しい方のバイトの時、もっと笑わないとダメかと思って…」
「いやオマエ、まさか店でもコレやったんじゃねーだろなァ!?」
「まだですけど…荒北さんの判定次第では明日からやろうかと…」

やっぱり変でしたか…と深く項垂れる今泉に、ちっげーよ!と荒北はガリガリ頭を掻いた。
「あのな、俊チャンがあんな笑顔をむやみやたらと撒き散らしたら、勘違いした女の客が店の前に
2時間待ちの行列作ンだろーが!」
「……?」
「変じゃねーよ。キレ―だけど、だから、誰にでも気易く見せんなつってんだヨ」

とんでもない爆弾発言を残し、荒北は荷物を置きに自室へ行ってしまった。
ポカンとした顔で立ちつくす今泉は、背後の鍋が煮えたぎっているのに気付き、慌てて火を止める。
鍋底をさらったが、何とか焦げずに済んだようだ。
(……キレーって言われた)
男が言われて喜ぶ言葉ではない。だが自分が笑うとそんな風に思われるのかとまた新しく知る。
じわ、と体温が上がった気がして誤魔化すようにブンブン頭を振った。
どうにも安定してくれない情動を、ずっと持て余してばかりいる。



「だいたいさァ、なんでバイト増やしたりしたんだよ俊チャン」
「またその話ですか。何もやる事がないんですって」

肉をたっぷり入れてやったので、喜んだ荒北はこんな時間なのにカレーを2杯もたいらげた。
野菜を食べたがらない事についてはこの前言い合いをしたばかりだ。今日はサラダも文句言わずに
食べてくれたな、と今泉は少し安心した。
そこまで口出しすべきではないのだろう。だが言わずにいられなかったのだ。
バイト先で新作のケーキ貰ってきたんですけど食べますか?と聞くと、デザートまでついてくんの
豪勢じゃねーのと荒北は笑い頷く。


自転車競技部に休部届を出し、生活も何とか立て直してしまうと、今泉は余った時間で何をしていい
のか分からなくなった。
他に趣味もないし、騒々しく遊び回るのも好まない。
荒北に何か返したいと思い、以前よりもマメに料理をするようになったのはいいが、それだけで時間
が埋まるものでもなかった。
ふと思いついて、今まで短時間だがバイトに行っていた文房具と雑貨の店にもっと入れないか聞い
てみたのだが、今は空きがないと断られてしまった。

だが、捨てる神あれば拾う神ありというべきか。
大学のクラスメイトにバイトを探していると何気なく話したところ、 『じゃあ今泉!うちの店で働かね?
』 と急に言われ、驚いたものだ。
家が洋菓子店をやっていて、店長である母親が今度は男の子のバイトがいいわねえ…と言っている
らしい。
お前みたいなイケメンなら即採用!大歓迎だって!と凄い勢いで畳みかけられたのだ。


湯を沸かしティーバックで紅茶を淹れて、今泉は貰ったケーキをそっと皿にのせた。
特別甘いものが好きなわけでもないが、店でお薦めを聞かれるだろうし、味や材料を覚えないとなと
生真面目に考える。
幾重にも違ったスポンジやムースが層になったケーキはほとんど立方体で、全体的に白っぽい色味
の中、綺麗なグリーンのムース部分が目を惹いた。

「うお、なんかこう上品っつーか……この緑色何ィ?」
「ピスタチオってナッツを練り込んでるみたいですね。こういう色が出るって言ってました」
「ケーキなんて苺がのった生クリームのアレぐらいしか知んねーよ」
「オレもですよ。ん、でもあっさりした甘さで美味いですね。男でも普通に食えそう」

体のでかい男二人がコタツに潜ってやたら繊細なケーキを食べている図というのはどうなんだと、
今泉は少しおかしくなった。
それから、さっき荒北がまたも蒸し返した問題について考える。
時間はあるのに何もする事がない。何も好きな事がない。そういう自分についてだった。

「荒北さん、オレね、9歳の時からロードレースやってたんです」
ン、知ってるよォ、高橋サンに聞いた、と向かいに座る人はごくごく普通に返してくる。
自転車の話をするのは本当に久しぶりなのにだ。

「前に本で読んだんですけど、ひとつのスポーツに子供の頃から打ち込んできた人間は、それ以外
の事を何も知らないって。だから怪我なんかで引退せざるを得なくなった時、明日から何をしていい
のかも分からなくなるって書いてありました」
荒北の持っていたフォークが皿に擦れる、妙に耳障りな音がした。
なにかを掻き毟るようなそれに今泉は目を瞠ったが、あ、悪ィ、そんで?と言われ、深くは考えずに
また話に戻ってしまう。

「オレもそれと少し似てるんですかね。自転車の他に趣味も好きなもんもなくて、遊べばいいのに
って言われても何していいか分かんねーし」
「……ウン」
「だからバイト増やしたんですけどね。でもどうせなら、次のバイクは自分の稼いだ金で買えたらと
思ってるんですよ」

高いから全部は無理かもしれないけど、半分でも1/3でも。
それは共に暮らすようになって以来初めて今泉の口から出た、自転車に対する前向きな言葉だった。
それがいつの事なのか今泉は言わなかったし、荒北も聞かない。
(でもコイツは、ちゃんと前を向いてんだ)
あれこれ気を揉むのは、オレの思い上がりだなと恥ずかしくさえなる。
つよくて誇り高い。あの夏、最初に対峙した時から今泉はそんな風だった。目を灼くほどに美しかった
のだ。


その時、携帯が震える音がした。二人ともどちらの着信か分からず自分のを見やる。
荒北がゆっくりと立ち上がった。
そう広くもない部屋なのに少し距離をとり、通話ボタンを押す。
「……アア、どーもォ。いや?そろそろかかって来るかと思ってた。金城に聞いてたし気にすんな。
ただオレな、今飯食ってんだわ。悪ィけど後でこっちからかけ直してもいいかァ?……ウン…」

何とはなしに話を聞いていた今泉は、あれ、何でかけ直すとか言うんだと不思議に思った。
ケーキもほとんど食べ終わっているし、冷めるようなものでもない。
「それにしても…久しぶりだよなア…」
その声に懐かしいという感情が滲んでいてドキリとした。誰だろうと思い、詮索するなと慌てて自分を
戒める。

だが、荒北の口元に浮かんでいるであろう笑みを見るのは嫌だった。
そんな自分を浅ましいと思う。でも混ぜこぜになった感情は、抑えつける度に嵩を増してゆくばかり
だ。

(どうしてきれいなものばっかりじゃないんだ、ここにあるのは)
失ったはずの心臓に、今は溢れそうなほど別のものが詰まっている。
それが感謝と尊敬だけなら、どんなによかったことか。

うつむき、苦しいなと今泉は思った。
苦しみと幸せは背中合わせで重なり、まるで一枚のコインのようだった。
片方だけを求めるなど許されないと、それだけはもうハッキリと示されてしまっていたのだ。




クリスマスが間近に迫り、バイト先の洋菓子店は忙しくなってきた。
クリスマスケーキは予約分と当日売りなので本番は24日なのだろうが、街や店の装飾と雰囲気に
ウキウキするのか、ケーキや焼き菓子を買いに来る人が増えている。
(こんな忙しくなるより前にバイトをスタートできてよかったな)
店に立ちながら、今泉はしみじみそう考えていた。

ケーキの名前や特徴は覚えたし、トングで箱に入れるのにも慣れてきた。
だが一個買いのできる焼き菓子を別料金のバスケットに詰めてラッピングしたり、箱入りの菓子を
包装したりは練習中だ。センスも要る。
今の所そちらは店長に任せっきりだが、見ているとやはり綺麗に仕上げられないと意味ねーなと思う
し、あまりお客を待たせるわけにもいかない。

接客の方は、荒北に言われたので店長にどうしてほしいと思っているのか聞いてみた。
すると彼女は『ああ、その先輩分かってるよね〜今泉くんみたいな子は高嶺の花路線でいけばいい
んだって。上品で優しそうな雰囲気出しとけば』と言ってくれた。
それはそれで難易度が高いのだが、始終にこにこ笑うよりは実践可能な気もする。
自分が行った事のあるレストランなどの接客を思い出し、物腰や言葉づかい声のトーンを真似して
みたりもした。

二人づれの女性客に注文のケーキの入った箱を手渡した今泉は、店内に他に客がいなかったので、
見送りをすべく外まで出た。
(えーと、ここで言えばいいんだよな。あのセリフ)
「ありがとうございました。またどうぞお越しください」
舌を噛まないか心配だったが、上手く言えたようだ。女性客ふたりはぽーっとした顔で見上げて来た
が、これ以上のサービスはできねーぞと内心で思う。



夕方、来年書く予定の卒論についてゼミの教授と話し込んでいた荒北は、外へ出て時計を見、バイト
まで時間余ってんなァ…と嘆息した。
だがふいに、こっから近いし俊チャンの働きっぷりを覗いてみっか…と思いつく。
自転車を引きながら冴えた空気の中を大股に歩き出した。
クリスマスはもうすぐだ。
赤と緑と金色の飾り。流れる音楽。薄闇が迫ってきたのでもう電飾を点けている店もある。

恋をするってのがどういう事か、今までオレは全然分かってなかったよなァと荒北は考える。
実のところ、大学に入ってから告白されて付き合った女子もいたわけだが、可愛いとは思っても相手
をもの凄く好きだとは感じられぬままに、いつも何となく終わるばかりだったのだ。

想いの丈などそれぞれ違う。比べられるものでもない。
だが家に帰ればちゃんといる相手にわざわざ会いに行くこの情熱には、我ながら呆れた。
本質的には強いヤツだと知っているのだ。
だがまた理不尽に傷つけられるんじゃねーかと思うと心配でたまらず、オレほんっとバカになって
ねェか…と甘苦い笑いを呼吸と共に吐き出した。
大切で大切で、もう誤魔化すことすらできない。


店に入るつもりはなかったから、一車線ずつの道路を挟んで反対側の歩道を歩いていった。
すると、女性客二人と連れだってちょうど今泉が店から出てくるのが見えた。
白のシャツに黒のパンツ、それに黒のギャルソンエプロンをつけただけのシンプルな装いだったが、
却って彼のまとう清冽な空気を際立たせている。
(イケメンもあのレベルになると飾る必要ねーんだな…)
荒北が煩く言い聞かせたせいか、今泉は口元に穏やかな微笑を浮かべるのみだったが、それがまた
女性客にはたまらないようで随分と粘られていた。

客がいなくなり、気が抜けたのかほっとした顔がやけに可愛かった。
今の撮っときゃよかったなと思った瞬間、今泉がこちらに気がついた。明かりが灯るようだ。表情が
変わる。
それが作りものじゃない事ぐらい荒北には分かった。
まるでオレにめちゃくちゃ会いたかったみてーじゃねェの、とバカみたいな考えが掠めて、胸がうずく。

(この2カ月、オマエの色んな顔見んのを許されてきたんだなァ、オレは)
本人は相変わらず自分を無愛想だと思っていそうだったが。
涙で始まったそれは、笑ったり困ったり怒ったり照れくさそうにしたりと二人の平凡な毎日を彩った。
見る度に幸せな気持ちにさせられてきた。守りたかった。


道路の向こう側に、水色のビアンキと共に立ちこちらを伺っている荒北を見つけた。
ヒラヒラと手を振られ、途端に気持ちがぶわっと浮く。
思わずあちらへ渡ろうとしたが、何台かの車が走り抜けて今泉の邪魔をした。イライラと左右を見たが
なかなか途切れてくれない。
危ねェぞ、来なくていーから俊チャン、と荒北が声と身振りで伝えてくる。
そう言われては駆け寄ることもできず、今泉は近いようで遠い彼をもどかしく見つめた。

(オレがちゃんとやれてるか見に来てくれたのか…)
面と向かってそう聞けば、ついでだのたまたま通りかかっただのと言うのだろう。
だが今泉はこの2カ月、自分がどれほど荒北に大事にされてきたか分かっていた。
拾われた犬みたいなものだって構わないと本気で思えた。

あの災いが自分たちを結びつけたのかと思うと不思議だった。
あれがなければ二人は普通の先輩後輩で、それなりに記憶に残る思い出を共有し、ただそれだけの
関係のまま終わったことだろう。

今、道路を挟んで立っている人が、こんなに優しく笑うのも知らないままだった。
俊チャンと呼ぶ時のあの声。
寝起きの顔。節の高い指と大きな掌。少し猫背な歩き方。
ポンポンものを言うくせに、傷つけてねェかなみたいな心配顔でチラリとこちらを見やるのも。
この体に残って決して消えない彼の体温も。

そんな全てが、あの夜を通り過ぎないと手に入らないというのなら、もういいと今泉は思った。
自分は何度でもあの夜を受け入れるだろう。傷つくことなど厭わない。

「俊チャン、こっち向いて笑ってみなァ」
向こうで荒北が携帯をかざし、そう声をかけてきた。
また写真を撮って母や高橋に送る気らしい。
ったく、オレが笑うの苦手だって知ってるくせに…と小さく呟くと、今泉は顔を上げまっすぐに荒北を
見返した。

自転車を持たない自分に値打ちがあるのか。
分からない。ないのかもしれない。
でもキレ―って言われたから。声に出して言えない気持ちは目に込めて、そしてせめて笑顔で。

(あなたのことが大好きなんです)

シャッター音が微かに聞こえた。また左右から車が走り抜ける。一瞬、互いを見失う。
それが途切れた時にはもう荒北は踵を返していた。
今泉の方を見て軽く手を上げると、ゆったりした足取りで歩き、そのまま角を曲がって見えなくなる。




角を曲がった荒北はビアンキを塀にもたせかけると、どこかが痛むような表情で今撮った写真を
確認した。
『俊チャンが元気でやってるって報告だよォ』 といつも言いくるめてきたから、撮られる事には慣れて
しまったようだ。最近は文句も言わない。
だが、彼の母親や高橋に送っているのはせいぜい半分ほどだった。
自分だけのモンだ、誰にも見せられないと思う表情が、いつの間にか荒北の携帯の中には降り積も
っていた。

だがこの写真、これは。
暖かな色の店の明かりを背景に笑う今泉をもう一度見やり、荒北はダウンジャケットの胸に携帯を
押し当てた。

いっそ何処かへ連れ去ってしまえたら。
そんな彼を傷つけるだけのエゴを、深く深くこの胸に沈める。
今泉が自分に寄せてくれる信頼を損なえば、きっとどこかへ行ってしまう。それには耐えられない。
(だから言わねえ。一生言わねェよ。けどな、俊チャン…)


夜が忍び寄った冬空には、輪郭のぼやけた白い月がかかっていた。
手の届かないものの象徴であるそれを、少し離れた場所から今泉も荒北も静かに見上げていた。
想いは確実に脈を打ち、熱をはらむ。
同じ希求をかかえ、同じ月を見て。
だがこの時の二人は、自分は決して叶わない恋をしているのだと、ただそう信じきっていた。