その時、荒北はバイト先の飲食店のすぐ横にあるコンビニにいた。
雑誌を軽く立ち読みして、今日は寒ィなおでんでも買うかと考えていたところだった。

まだ10月も半ばだというのに、急に冷え込んだ夜だった。
何故だろう、今になってもあの夜のことを克明に思い出せるのは。
馬鹿げて聞こえるかもしれないが、運命の曲がり角みたいなモンだったのかと思ったりもする。

そういう瞬間が人生にはあると知らなかったわけじゃない。
ただ、それは荒北がかつて経験したものとはまったく違っていた。
抗えず目をそらせず、気づいた時には胸の内にするりと入り込んでいて手遅れで。
だがそれにハッキリ名前をつけるのは怖い。
そんな何かに己を奪われる日がとうとう来たのだと知りもせず、カゴに適当に明日の朝食の
材料を放り込み歩いていた。


会計を済ませ、外に出ると風が強かった。何となく目を眇める。
愛車であるビアンキのロックを外そうとして、携帯が着信を知らせているのに気がついた。
メールではない、通話だ。
表示された名前を見て、荒北は少し虚をつかれた。今泉俊輔。

なんだオイ珍しいなァ、オレに電話してくるなんてと小さく呟く。
彼は同じ大学で自転車競技部の後輩でもある。高校最後のインハイでは競い合ったし、元々
知らない仲ではなかった。
だが、高校の先輩である金城が同じ部にいたし、今泉の親しみも尊敬もそっちに行くのは当然
といえば当然だった。

それでも入学して半年もたてば、一緒に練習もするしレースにも出る。
荒北や待宮にも徐々に慣れて、そこそこ軽口もたたくようになっていた。
最初はいかにも育ちが良さそうで潔癖な感じの今泉を、好き嫌い以前にどう扱っていいのか
分からなかったが、話してみるとただの自転車バカで。
不器用で生真面目で 『おりこうチャン』
だが走る時は息をのむ程の前へ進む情熱を見せる彼の姿には、胸がすくような思いがした。

実は住んでいる場所が近くて、たまにその辺で出くわすようになり、『ちゃんと食ってっかァ、
おりこうチャン』 と声をかけては嫌そうにされて笑うような日々だったのだが。
それにしても直接電話をしてくるのは珍しい。

「モシモーシ?オレだけどどーしたヨ?どっからかけてんの」
「………」
「今泉ィ?聞こえてっか」
「……あ、ら…きた…さ……」

ようやく肺から吐き出したような掠れた声。最初は電波が悪いと感じたが、向こう側が騒がしい
のだと気づく。人の声がやたらとしている。
それとサイレン。めちゃくちゃ近い。救急車か消防車の警鐘。なんだ、コレは。
背筋に氷塊が落ちたようにゾッとする。悪い予感に奥歯をギリリと噛みしめ、荒北は誰もいない
路地で声を張り上げた。

「オイ、なんだそのサイレン!?どうした!なんかあったか、どこにいンだお前!!?」
「家の……まえ、です」
「家ェ!?オメーのマンションだな?ちゃんと返事しろ!」
「…は、い……火事、なって、いえ…かえったら……も…ぜんぶ…」
「……ッ!!」

頭に血が昇っているのに血の気が引くというかつてない体験を荒北はした。
言葉が詰まって出てこない。落ちつけ!と思うがこれが落ちついてられっかよ!とも思う。
だが、ひとつの考えが浮かび、荒北は自分の顔をベチッと平手で張り倒した。
コイツはオレに助けを求めてんじゃねえか、と。
世間話がしたくて電話してきてんじゃねーぞと、無理やり己にクールダウンをかます。

「今泉、キッツイだろうけど答えろ。お前、怪我はしてねェか」
「……オレは、だいじょ…ぶ、です…」
オレは、って事は家にあるモンは全滅ってことかよ、マジか…とビアンキのサドルに拳を打ち
つける。
本人が生きているだけマシだと思うべきだろうが今はとても思えない。
もう火は消えてんのかと聞こうとして、それをマズイ薬のように飲み込んだ。行けば分かる事を
わざわざ聞いて時間を潰している暇はない。
「今すぐ行ってやっからそこ動くんじゃねーぞ!駅前にいるからすぐだ!待ってろ!!」

消え入りそうな返答を確認して、通話を切る。
自転車の拘束を解き、跨ったと同時、荒北はレースの時にも見せないような急発進をした。

しんと冴えた夜の冷気。ちらちらと瞬く街の明かり。
向かい風がその身を力づくに押し込めようとしてくる。だが切り裂くようにして走った。

こんな感情任せに走ったことは今までなかった気がした。
野獣などと二つ名がつく激しさとはうらはらに、荒北の走りには常にクレバーさがあった。
だが今はそんなモンクソ食らえだ!と思っている。はやくしろ、とそればかりが鳴り響く。
『どうして』 と考えたのはもうずっと後になってからだった。
その時荒北の頭は、特別親しいとも言えない後輩のことでいっぱいになっていた。




あの夜、自分は何故荒北に電話をしたのだろうと未だに考える時がある。
親でもなく、高校の先輩である金城にでもなく。
近くに住んでるから一番早く来てくれそうだと思ったのだろうか。だが、ハッキリ言ってあの時
自分の頭はロクに働いてはいなかった。
助けて、という声にならない声が、ちゃんと夜空を飛んだのかすらも実感がなかった。

消えない炎、消防の放水の音、白かった壁が黒く煤けている、焦げ臭い匂い、喉が痛い、大騒ぎ
をする野次馬、近くでわんわんと鳴るサイレン。
煩くて、怖くて、道路脇に座り込んだまま、目も耳もふさいでしまおうとした。
男だしもう大学生で一人暮らしもしていて、自分では結構しっかりしてきたと思っていたのに。
一度電話をしてからはもう指先ひとつ動かせなくなった。

「今泉ィ!!!」
その時、名を叫ぶ大声が、今泉を脅かす何もかもを飛び越えまっすぐにここへ来た。
無茶苦茶に負荷をかけた急ブレーキ。きしむ音。
ああ、またそんな乗り方をして。自転車が怒ってますよ。
必死の形相で近づく荒北を見ながら、今泉はぼんやりとそんな事を考えていた。


まだ火は消えていなかった。銀色の防火服を着た消防の人間が大声で指示を出しながら激しく
動き回っている。焦げ臭い空気に軽く咳きこんだ。
面白そうに火事を眺めては写真を撮る野次馬の群れに殺意が湧いたが、それも道端に座り
込んだ今泉を発見した途端、一切合財ふっ飛んだ。

うわずった声で名を呼べば のろのろと顔を上げる。焦点の合わない眼差し。
頬も服も煤で黒く汚れきっていた。
何だよ、帰ってきたらもう火事になってたんじゃねェのかよ!?なんでこんなひどい格好して
んだと混乱する。
それでも嬉しげに少しだけ笑うのを見た。胸がズキリと痛む。あらきたさん、という唇の動き。
思わず手を伸ばし、今泉の頬を両の掌で包んだ。ひどく冷たかった。だが生きている。

「大丈夫か、ホントに怪我してねェんだな?どっか痛いとこねえか」
はい…と頷く今泉は、自分に沁み込む他人の温度にやっと深く呼吸ができた気がした。
(あ、うるさいの、ちょっとましになった…)
防波堤のようだ、この人は。弱々しく片手を荒北の手に重ねる。
普段ならとても考えられないような行為だったが、今は許してほしいと思った。


「ちょっといいかな、キミはその子の友達かな?」
背後から声がかけられる。荒北が振り向くと中年の消防士らしき男が立っていた。
一旦、今泉から離れて頷く。
「友達っつーか、オレは大学の部の先輩にあたるんですケド。何スか」
「ああ良かった、その子未成年みたいだしね。実はさっき彼、もう火が回ってるのに部屋へ
行こうとしたんだ。誰か家にいるのかって焦ったよ」
「………はァア…!?」
キツイ眼差しで今泉を睨む。膝をかかえたまま今泉はビクリとして顔を伏せた。

「何か取りに行きたかったんだろうけど、私らも人命が最優先だからね。お金で買える物は
諦めてもらうしかないんだ。分かるよね?」
「……すみませ…ん…でした…」
途切れ途切れの謝罪の言葉。バァカチャンが!と荒北の吐いた叱責に大きな身体を丸める。
そんな暴挙に出たから服も顔も汚れまくってんのかヨ、とやっと合点がいった。

素人目で見てもマンションの出火元がどの辺りかは燃え方で分かる。
今泉の住んでいたのは2階で、ほぼその真上だった。もう消防の水もさんざん捲かれているし
部屋にあった物はどうにもならないだろう。

「ご迷惑かけてすんませんした。オレからもちゃんと言い聞かせときますんで」
「うん、キミが今夜は引き取ってあげてくれるの」
「ハイ、連れて帰ってもいいスかね」
「いずれ警察から連絡いくだろうけど、先に本人から親御さんに電話させといて」
いい先輩来てくれて良かったね、と消防士は目尻に皺を寄せて笑った。今泉の頭をポンポンと
やるとその場から去ってゆく。

「いい人だなァ。ほんとならオメ―もっとメッチャクチャに叱られてんぞ」
はーっとため息をつき、荒北は自分の上着を脱いで今泉に着せかけた。
何か言おうとする前にいいから着ろ!と強引に出る。首元までジッパーを上げてしまった。
自分も寒いが、今泉が痛々しくて見ていられない。

立てるか?と聞かれ今泉は頷いた。オレん家行くぞと言われ、心の底から安堵する。
来てくれてありがとうございますと言いたかった。だが、唇がはくはくと動くだけで声が出てこない。
荒北はビアンキを片手で引き、今泉の袖口を引っ張った。
それでようやく一歩を踏み出せた。

なおも続く喧騒からゆっくりゆっくりと逃れてゆく。角を曲がれば吸いこむ空気が急に澄んだ。
どちらも何も言わなかった。
風のつよい夜の底で、相手は何を思っていたのだろう。今になっても分からないのだ。




「お風呂いただきました。ありがとうございました」
キッチン部分で何かやっている荒北に声をかける。彼は自分の服を着た今泉を見て何故か
少し驚いた顔をしたが、「そこ座っとけ」と早くも出ていたコタツを顎でしゃくった。

家にはないから馴染みの薄いコタツの布団をめくると温かくて、今泉はまだ風呂の熱が残る
体が冷めないようにそこに潜り込んだ。
はー…と息を吐き出しながら目をつぶる。何て夜だ。現実とは思えない。
だが、自分が大学に入ってからひとつひとつ積み重ねてきたものは呆気なく灰になった。

一生懸命やってきたのにな、と嗤う。
認めたくないが、自分が世間知らずなのは知っていた。高3のインハイが終わってからは一人
暮らしに必要な事を母親に教わった。たくさん失敗しながら。

それでも実際一人で生活し始めると目が回った。
大学へ行って、自転車部の練習に出て、家に帰れば食事の用意、洗い物、掃除洗濯アイロン
がけ。毎日は無理だが短時間のバイトも入れた。
半年たってやっと、それら全てをセルフコントロールできるようになってきていたのだ。
住んでいた部屋もようやく自分の住処という雰囲気を出し始めたのが誇らしかったのに。

だが、それらはたぶん時間が経てばいつかは諦めたりやり直したりできる事だった。
たったひとつを除いては。
ズキンと胸が痛くなる。今は考えるな。自分を守ろうとする自分の必死な声がする。


「よし、食え!」
そんな今泉の目の前にドカンと置かれた物があった。えっと思ってまじまじとそれを見る。
深皿にやたら大きなお握りが湯気をたてていた。塩昆布がのっている。
さらに急須が来た。
困惑しながら荒北を見上げると、「茶漬けみてェなモンだ、かけて食いな」と言う。
それに二人分の味噌汁、コンビニで買ったと思しきおでんが並んだ。

おそるおそる急須を傾けるとほうじ茶の香りがした。あ、美味しそうだと思う。
箸と木匙を渡されたので、何となく匙を手にとり、お握りを崩した。中にビックリするぐらい大きな
焼き鮭が入っていて今泉は目を丸くした。
「荒北さん…鮭デカいです…」
「あーいいだろソレ。漫画でそーゆーのやっててなァ、食ってみたいと思ったんだヨ」
「いや、何ですかこのシャケ比率…」

いただきます…と呟き、木匙に鮭とご飯を上手にのせてパクリといく。
「おいし……です…」
「ダロー?見た目はちょっとばかりアレだけどな」
何も食べられないと思っていたのに人間の体は正直だ。なるべくがっついてないようにと思い
ながらも今泉は匙を動かすのを止められなくなった。
その様子を見ながらニヤニヤ笑い、荒北は「おかわりあっからな」と言ってやった。

(寒い、眠い、ひもじいがピークにくると人間生きてく気力なくすって言うからなァ…)
前にテレビやっていて得た知識だ。だから荒北は家に帰るやいなや風呂を沸かし、今泉を放り
込んだ。あったまった所でメシの波状攻撃をかけた。

それにしても、自分のジャージを着せても何か妙に品がいいのには驚かされた。
金持ちの家で飼われていた毛並みのいい迷子犬を拾ってしまい、自宅で食べ物をやったら
大喜びで食ってるみたいな微笑ましさも感じる。

と、おでんの卵を食べていた今泉が一旦箸を置き、「あの、荒北さん…」と改まった口調で言い
出した。
「迷惑かけてすみませ…」
「あーそういうのイラネ―から。どうしてもやりてェんなら明日以降にしろ」
「や、でも…」
「あのな。明日からはお前、色んな事イチからやり直さなきゃなんねーだろが。だから今日は
腹いっぱい食って寝ちまえ。オーダーはそんだけだ」

まア、コイツ寝られるかどうか分かんねーな…と荒北は内心では考えていた。
自分ですらかなりのショックを受けているのだ。
タイミングが悪かったら、今泉は死んでいたかもしれない。それを思うとゾッとする。
奇禍というのはこんなに理不尽に襲いかかるものなのか。
そんなものに見舞われた今泉が、今夜普通に安らかに眠れるわけもなかった。



「オメ―も知っての通り、部屋はもう一個あんだけどヨ。今日んとこはオレの部屋に布団敷く
かんな」
言われ、はいと頷く。さっきからそれしかやってないなオレ…と今泉は思った。
何かを決めてもらえるのはものすごく楽だった。ホントこの人、口は悪いけど思いやりがあるん
だよなと力なく笑う。
本人はそんな事言われたら 『ウッセ!』 と吐き捨てるだろうが、事実だからしょうがない。

荒北の部屋には、金城や待宮に連れられて来た事が何回かあった。
その時、2LDKの部屋に一人で住んでいる理由を聞いたことがある。
大学の友人とルームシェアするために借りたのに、たった数カ月で 『彼女と同棲する事になっ
たから』 と出て行かれてしまったそうだ。
その後また引越しをする踏ん切りがつかず、そのまま暮らしているらしい。


荒北はセミダブルのベッドの横に、予備の布団を敷いて今泉を寝かせた。
食事をしてから顔色はマシになっていたが、一人で寝させられるほど楽観的になれない。
ただの後輩相手にそこまで気を揉んでいる自覚が荒北にはなかった。
電気消すぞォと声をかけたが豆電球にしておいた。いざという時、ちゃんと顔が見えるように。

暖色の明かりがぽつんとついた馴染みのない天井が、今泉の視界に映り込んできた。
この空虚さをどうしたらいいのだろう。
胸の真ん中をごっそり持っていかれたようだった。そして自分はただただぽかんとしていて。

今もまだ、あの部屋は煤だらけで真っ黒に焦げ、水浸しのままなのだろう。
(そこに、まだ置き去りにされてる…)
ああどうして今日に限って一緒じゃなかったんだ。焼けてしまった。二度と戻らない。
込み上げてくるものがあった。苦しい。感情の行き場がどこにもない。

「……荒北さん」
「ンー?どしたよ、寒ィか」
「こういうこと…言っちゃいけないの分かってるんです…また、怒られるかもしれないですけど、
でも…」
「なんだヨ、言ってみな」
「自転車。……焼けちゃいました」

ヒュッと自分が鋭く息を吸い込む音を荒北は聞いた。次の瞬間、がばっとベッドから跳ね起きて
いた。
なんてこった…と頭を掻き毟りたくなる。
なるべく冷静でいたつもりだった。だが自分も相当テンパっていたのだと知る。
ここまで一度たりとも今泉の自転車の事が頭に浮かばなかった。何を部屋に取りに行こうと
したのか、そんなものひとつしか考えられなかったのにだ。

今泉とつよくつよく結びついていたあのバイクの深い青が瞼の裏をよぎった。

見おろした所にある目は少し脅えているようだった。
やっぱり言わなきゃよかった、と後悔しているのが手に取るように分かる。
ちょっとこっち座れ、と荒北はベッドの空いた部分をぽんぽん叩いた。大儀そうに起きあがる今泉
の腕を掴み、隣へと引き上げる。
掛け布団で大雑把にくるんでやると、ビックリしたような顔をした。

「理由、ちゃんと聞いてやんねーで悪かった」
「荒北…さ…?」
「正ー直に言うけどヨ、オレな、今の今までお前の自転車のこと頭ン中からスッポ抜けてたんだ。
どんだけテンパってんだって話だよナァ…」

外でカタカタと風鳴りがした。きっと身を切るように寒いのだろう。
荒北が己を責めるように口元を歪めるのを、今泉は瞬きもせずに見つめていた。

火の回った部屋に入ろうとしたのは自分でも馬鹿な事をしたと思う。他人に迷惑をかけたのだって
今は反省している。
(だけど、それでも分かって欲しかった…)
あの時、どうして身体が勝手に動いてしまったのかを。
あれがただの 『物』 じゃない事を理解してくれる人、一人だけでいいから。
今、自分が半分以下になったような心許なさに、気を抜けば消えてしまいそうなのだ。

「……苦しいか」
「苦し…です。ココ、からっぽで……だって、だってあれは、オレの…」

心臓だった。そう、今泉はハッキリと自覚した。
9歳の時からロードに乗っていた。何台乗り替えて来たのかもう思い出せない程だ。
だがそれは自分の汗も血も涙も流して共に走り、愛しんで愛しんで別れてきたものばかりだった
のだ。
こんな風に、引き千切られるように喪った事などありはしない。
すがるように荒北を見た。この瞬間、今泉の世界には彼の他に誰もいなかった。

「分かってンよ。お前が何を失くしたかぐらいオレにはちゃんと分かってる」
「あ…らきた…さ」
「自転車しかねェんだ。そういう生き物なんだ、オレもお前も」

ダロ?と問われる。
薄明かりの下、今泉は瞳を大きく見開くと、カラッポだと言った胸を手でもがくように掴んだ。
何かに大きく揺さぶられたような感覚。
波打ち、波打って頂を越える。

…ふ、と堪えきれないような切ない息を吐いたと同時。
美しい双眸からは澄んだ液体が溢れ出し、いくつもいくつもの雫を結んだ。

自分が泣いているのがよく分からないといった顔つきで、ただぱたぱたと涙の珠を落としていく。
そんな今泉を、荒北は食い入るように見つめた。
いつも、弱みを見せるなんて冗談じゃないという風で、生意気で。
そんな彼が、自分を鎧っていたものをひとつずつ取り払っていく様から目を離せなくなった。

傷ついているくせに瑕ひとつないその心。
(ああ、綺麗だなァ……)
こんなに誰かを美しいと思ったことはなかった。呆れるような激しさで、それは来た。

手を伸ばし、頬を伝っている涙に触れる。
今泉の感情に指先が濡れたのを感じた瞬間、荒北はもうどうなってもいい気がした。
自分から距離を詰め、腕を広げた。
泣いている人を抱きしめるなんて初めてでぎこちない動きだったが、今泉の額が肩口につくと
たまらなくなって、震える体を腕の中に閉じ込める。

「お前がいやなら、明日になったら全部忘れてやっから。カラッポになるまで泣いとけ」
自分の声とも思えない掠れた甘い音。
今泉は一度顔を上げビックリしたように荒北を見たが、その合間にもぽろぽろと零れる雫があって
唇を寄せたいような衝動にかられた。
バカかオレァ…と嗤い、今泉の頭に手を回し、またきつく抱きしめる。


頭の芯が熱を持ったようにぼうっとしていた。だが先刻までの死にそうな程の寒さはもうない。
壊れた蛇口のように涙は止まらないままだ。
それらは全て、押し付けられた荒北の肩の辺りに吸い込まれていく。

子供の頃以外で、誰かの前で泣くのも、抱きしめられるのも初めてだと今泉は思っていた。
どうして人と人がこんな事をするのか、分かったような気がした。
荒北の片腕は、ぜってー離さねえとでも言うようにぴったりと自分を抱きしめている。
なのにもう一方の手は慰撫するように優しく、髪を梳き、嗚咽が漏れるたびに背中をゆるく叩いて
くれる。
流れ込んでくるものがある。
まるで愛されていると錯覚しそうなこの慈しみに、永遠に浸っていたかった。

「……俊チャン、あのな…」
「は、い…?」

あ、オレの名前知ってたんだこの人…と場違いなことを考えた。
普段なら反発していたことだろう。だが今は少しもいやだと思えない。呼びかけは優しい。

「そいつにとってほんとに大事なモンが壊れる時は、持ち主の代わりに壊れるんだってヨ…」
「そ…なんですか…」
「アア、だから俊チャンが今無事でここにいんのは、あの自転車のおかげかもナァ…」

「自転車…ライトがつかなくなってたんです…」
「……そっか」
「バイトあったから、今日は仕方ないって歩いて行って……もしバイクで帰ってたら、もっと、
ずっとはやく家に着いてた…」

そうしたら、部屋で火事に巻き込まれていたかもしれない。悪くすれば死んでいただろうか。
(本当に、守ってもらえたみたいだ…)
荒北の言葉がただの慰めな事は分かっていた。だがこの喪失にちゃんと意味があったのだと
思い込まされると、少し、ほんの少し救われた気がした。
それが自分に都合のいい作り話だったとしても。

新しい涙が溢れた。
今泉はとうとう声をあげて泣き出した。子供のようになりふり構わず、失ったものの為に泣いた。
自分からも荒北にしがみつくと、もう寒いことも怖いこともなかった。
(ああ、オレは、この体温を忘れることはきっとない…)



悲痛にしゃくり上げる声はいつしか止まり、気づけば腕の中で今泉はすうすうと規則的な寝息を
たてていた。
目元は泣き濡れていたが、瞼を閉じたその顔には安心があり穏やかなものだった。

ちゃんと寝かせてやんねーとな…と思うが全然離したくなくて、そんな自分に荒北は呆れる。
痛くて、甘くて、苦い。
ない交ぜの感情が心にマーブル模様を描いていた。
なんだろうなァ、コレ、とボヤくマネをしてみたが分かりきっているのだ。同情や責任感がこんな
思いを生むはずがない事は。

肩口にもたれている黒髪に、唇をそっと触れさせた。
明日からどうしたらいいのかは、荒北にも分からなかった。

愛しいとかなしい。
それは本質的には同じもので、生まれて初めてそう感じた相手を、荒北はその夜、身じろぎも
せずに長い長い間抱きしめていた。





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