まだ春浅い、だが暖かな空気をまとった夜だった。

先刻、話をしていた居間には縁側があり、手入れの行きとどいた庭に面している。
飛び石があり、小さな池もある昔風の庭だ。
桜はもう盛りを過ぎていたが、左手にあるこんもりとしたつつじが、じきに美しい花を咲かせるだろう
ことは、一目見ただけで分かった。

祖母が亡くなってから、郁実がこの庭の世話をしているのを明仁は知っていた。
夜になるとよく一人で、寂しそうにこの縁側に座っていたことも。
それを 『見る』 たびに、胸が潰れそうなほど切なかった。
郁実は決して一人ではないのに、それすら伝えてやれない自分の無力さが腹立たしかった。



「眠れないの、郁ちゃん」
今も縁側に腰掛けていた、浴衣姿の郁実にそっと声をかける。
年季の入った感じの縁側を、ユッキーが明仁を追い越し、郁実の膝元まで駆けていった。

「ユッキーもお風呂入ったん?ふかふかやなあ」
優しくユッキーの背を撫でると、今度は明仁の方を見ておかしそうに笑う。

「父さんも体は大きいねんけど、丈がちょっと足らんな。今日はまあそれで我慢して」
寝間着がわりにと出してくれた義春の浴衣は、確かに少しばかり裾が短かった。
明日になったら荷物が届くから、全然問題ないよと言いながら、明仁も郁実の隣に腰をおろした。


「郁ちゃんはいつもパジャマじゃなくて浴衣で寝るの」
「うん。気候のええ時だけな。昔はばあちゃんが縫ってくれとったんやけど、最近は近所の呉服屋
さんでしてもらってるねん」

…なんかおかしいかな、と郁実が自分の周りを見渡すのが可愛くて、明仁は微笑んだ。
「そうじゃないよ、よく似合ってるからいいなって思って」
「気に入ったんなら何枚か縫うてもらおうか?明仁みたいな男前のやったら、呉服屋のおばちゃん
はりきって作ってくれるで」
「ほんと?じゃあ、ご挨拶がてらに行ってお願いしようかな」

他愛のない会話も、その後に続く沈黙にも、そら恐ろしいほどの幸福を感じた。
何度も夢に見ては、それがただの一方通行だと知る日々。
この庭も、10年ずっと見守ってきたからよく知ってはいる。
それでも郁実と共に座り、本当に自分の目に映す光景には空気も香りも温度もあって、これが現実
なのだと明仁に教えてくれていた。


反対に郁実は、この庭に明仁やユッキーと座っていることに現実味を感じられず、ふわふわとした
気分でいた。
いくら丁寧に説明してもらったとはいえ、許容できる量の何倍もの新事実を知ったのだ。
頭が熱をもったようにぼーっとしていて、風に当たりたくなってここに出てきた。

でも一人でいたいとは思わない。
黙っていても、この三人で寄り添う安心感はとても大きくて。
もう自分一人でぐるぐる悩んだりしなくてもええんやな、と素直にそう思えた。
自分のことは自分で始末する、と肩ひじ張っていたことが嘘みたいに感じる。


「俺、ほんまはまだ全然消化しきれてないねん…びっくりする事ばっかりで…」
「そんなの当然だよ。俺たちも郁ちゃんに会えるって興奮してたから、一度に色んなことを押し付け
すぎてしまったね…ごめん」

そう言われて、郁実はふるふると首を振った。
「そんなことない…二人とも、俺を助けに東京から来てくれたやないか。俺、まだお礼も言ってへん
かった」
ほんまありがとうな、と言ったあとに、少し躊躇ったが思いきって付け加える。
「俺、ほんまは怖かってん。突然霊が見えるようになって、誰にも言えんし、どうしたらいいんかも
分からんかったし…」

「ああ、お可哀想に郁実さま…ホントにね、義春さまは早めにこの事をお話しておくべきだったと思い
ますよ!そうすれば少しは違ったのに」
「まあ、おじさんとしては、郁ちゃんに霊視能力が発顕するなんてのは、できたら間違いであってほし
かったんだろ…」

それは仕方のないことだ、と明仁は苦い気持ちで考える。
九条の一族の人間なら、霊能力を発顕する可能性は誰にでもある。
だがそれでも、自分の代の能力者が判明してしまえば皆一様に胸を撫でおろし、能力者を奇異の目
で見るようになるのだ。

ましてや、九条の血筋でもない人間にそれを受け入れろという方が無茶な話だった。
椿と平気で結婚したというだけでも、義春は規格外の大物だと思う。
母親が、自分をどう扱っていいか分からず迷走していたのを思うと、いつも暗い気持ちになった。


「義春おじさんは、郁ちゃんのことを気にかけてないわけじゃないよ。さっき郁ちゃんがお風呂に入っ
てる間に 『郁実のことをどうかよろしくお願いします』 って頭を下げておられた」
「父さんが…」
「まー義春さまも腹をくくったということでしょう。私はそれで全てがチャラになるとは到底思えません
けどね」

相変わらず許す気持ちになれないらしいユッキーは、厳しいセリフを吐きながらも郁実の膝にずり
ずりとよじ登ってくる。
「お祖母さまが亡くなられてからの郁実さまがどんなにお寂しそうだったか…義春さまはもっと思い
やりをもって、郁実さまに接するべきですよ」

その言葉にまたも首を傾げた郁実は、思いきって訊いてみることにした。
「あのな…二人ともなんでそんな事知ってんの?ってこと多いんやけど…もしかして何回かここに
来たことあるんか?俺に会わんかっただけで」
「いや、大阪に来たのはほんとに初めて。だけどね…」


静かな庭をひらひらと横切ってきたものに気づき、郁実はそれを目で追った。
あの蝶や、と思う。
背後の居間からもれる明かりだけでは色まで見えないが、紫のはいった美しいアゲハ蝶。
それはしばしの間、飛びまわった後、明仁の差し出した手にひどく優雅にそっととまった。

「長い間、ご苦労さま。よく働いてくれたな」
その言葉と同時に蝶はふわりと光を放ち、明仁の手の中に脆く崩れおちていった。
あとには、除霊の時に明仁が使っていた札のような紙切れが少しだけ残る。
ひどく擦り切れたそれを、明仁は大事そうに握りしめた。

「それ…いったいなに」
「これはね、郁ちゃんとひき離される時に俺がつけた式神だよ。簡易版の使い魔とでも思ってくれ
たらいいかな」
「式神を通して、主も私も郁実さまの様子を見聞きすることはできてたんですよ」

「それで、俺に霊が見えるようになったのにも気づいたんか」
「うん、そろそろとは思ってたんだけど」
「ずっと…見守ってくれとったんやな、10年も、忘れんと」

あの蝶を 『あんたの守り神さんやから』 と言った祖母は、何をどれだけ知っていたのだろう。
郁実がこの先に背負うものを思えばこそ、あの人は厳しくて優しかったのだろうか。

(知らんかった…俺、めちゃめちゃ守られてたんや)
当たり前のような日々が、どれほどの人の手で庇護されてきたのかを知る。
まして、彼らのことを覚えてもいない自分を見つめ続けた明仁とユッキーは、どんな思いでいたの
だろう。



「あのさ…明仁は…」
「うん?」
「いくら決められた事でも、霊視能力者を守れとか…そんなん嫌やなかったんか」

この人に大切に思われているのを、もはや疑うことはなかったけれど。
自分がもし彼の立場なら、困るし、嫌だと思ってしまうだろう。
その考えは郁実の心にすきま風のように冷たく吹きこんだが、どうしても聞いておきたかった。

「郁ちゃん…」
思いつめた様子で見上げてくる郁実に、ああ、きれいだな…と明仁は見惚れる。
内側からほのかに光るような魂。
この子に霊が惹きつけられても仕方がないかと、そう思わされた。
どんな暗闇に沈んだとて、救われたいと願わない心などどこにもないのだ。
手を、伸ばしてしまう。それは自分も同じことだ、と微かに笑う。


「嫌だと思ったことない、っていうのはあまりにも嘘っぽいよね」
「……っ」
息を飲んだ郁実に、「ああ、ちがうちがう。誤解しないで」と明仁は苦笑しながら手を振った。
「子供の頃の話。郁ちゃんが生まれる前の話だから」

蓋をして忘れ去っていた日々が蘇ってくるようで、明仁は胸にわずかな軋みを覚えた。
どうして自分と他人とは違うんだろう。
そんな小学生らしからぬ悩みに、鬱々としていたあの頃。

「俺はね、7歳の時にもう除霊師の能力が認められてたんだ。最初は理解できなかったけど、だん
だんそれがどういう事なのか分かりはじめてさ…」
「あの頃の主は荒れてましたよねえ…」
と、ユッキーがしみじみとした様子で語った。なんでだか保護者口調であった。
「もう、やさぐれ小学生ですよ。そんな 『役目』 なんか知るかー!って、修行もしないし、使い魔の
私のことも放置してましたし…」


ずっと、自分に課せられた 『使命』 が疎ましくてならなかった。
従兄弟どもはどいつもこいつも嫌いだったし、昔は兄と半分しか血が繋がってない事を知らなかっ
たから、下手をすれば兄が霊視能力者かもしれないと考えたりもした。
とにかく色々くよくよ悩んでは、いつだってイライラして。
普通に接してくれたのは、常時マイペースな父親だけだった気がする。
情緒不安定な明仁を周囲は持て余し、母親がたまに泣き出すことさえあった。

だが、それにも心は動かなかった。
泣きたいのは自分の方だ。
いずれ誰かを命がけで守らねばならない、その理不尽さに一人涙で枕を濡らしたものだった。


「今思うと暗い子供だったよなあ…悲壮感たっぷりっていうの?」
「いや、暗くなるだけの理由はあるような気ぃすんねんけど…」
「えーでも、その頃の主、相当ウザかったですよ」
「ウザい言うな、おまえは」

軽くユッキーの頭をこづくようにすると、前足を揃えてくくく…と人間みたいに笑っている。
そういえばこいつはいつだって我慢づよかった、と明仁は今さらのように気づかされた。
それは郁実を奪われてからの10年も、決して変わることはなかったのだ…

「だけど郁ちゃんが生まれたら落ちついちゃった。未来は俺を脅かすものじゃなくなったんだ」
「未来…?」
「たぶん俺は、未来が訳の分からないものだってことが怖かったんだよ…」

そう呟きながら、明仁は初めて訪れた土地の夜空を見上げた。
月のかからない夜だったが、案外星が見えていて明るい。
昔の人は星を道標にしたという。暗闇を恐れなくてもいいと教えてくれる、かすかな光。

もし郁実が生まれてすぐに能力者だと認定されなかったら、自分はずっと惨めなまま長い年月を
過ごしてきたのだろうか。
閉じた瞼にちいさな郁実の姿が浮かび、目を開ければユッキーを抱いた中学生の郁実がいた。
愛しさが、胸に満ちる。

この10年、辛い思いをして代償を払ったけれど。きっと自分は幸せなままだった。
遠い空の下にこの子がいる。それだけで自分は幸福な人間でいられた。
笑顔をなくさずにすんだのだ。



郁実が生まれたのは、明仁が9歳の夏だった。
叔母である椿のことは好きだったから、出産の報を聞いた数日後、突然思い立って一人で病院に
行ってみた。
初めての子供だったし、おめでとうぐらい言ってあげたくなったのだ。
すごくすごく暑い日で、赤ちゃんはたいへんだなとふと思った。


部屋へ行くと、ベッドの上で椿は赤ん坊を腕に抱いていた。
明仁が顔を見せても、彼女は驚きもしなかった。
まるで全てを予期していたかのように、つよい眼差しで明仁をまっすぐに見据えた。

『……明仁。昨日、お父さんに言われたわ』
『じいちゃんに?…なに』
『この子に、郁実に…霊視能力が発顕するだろうって。私も、そう感じる』

びっくりした。
生まれた途端に能力認定された子供など、聞いたことがなかったからだ。
霊視能力者は特に、思春期になってやっと力を目覚めさせるのが普通なのだ。

『あなたが霊視者を守る役目を嫌がってるのは知ってる。でもね明仁…』
椿がなにか続けて言っている。
だがその時にはもう、彼女の言葉は明仁の耳にろくすっぽ届いていなかった。
椿の胸元に顔を押し付けた赤ん坊を見た瞬間から、すごく鼓動が速くなっていたのだ。

でもそれは全然いやな感覚じゃなくて。今すぐ駆けよって、顔を見たくてうずうずした。
はやくはやくと何かに急き立てられている。
(……これは、もうずっと前からの約束みたいなもの)
今それがやっと自分の前に訪れたのだと、ふいに明仁は理解した。


波立つ気持ちを懸命に抑えながら、明仁は椿に向かって両腕を差し出した。
一瞬、椿は驚いたように目をみはる。
まだ体の小さい明仁に赤ん坊を渡すことを躊躇したようでもあった。
だがやがて彼女は、慎重な手つきで柔らかくて温かな生き物を託してくれた。

その、重み。
それが伝わった瞬間、明仁は訳も分からずに涙ぐんでいた。

「………郁ちゃん」

会いたかったよ。
どうして気づかなかったんだろう、今まで。
こんな繋がりが他の誰かとの間にありうるなんて、なんで思えたんだろう。

明仁の腕の中で、郁実は機嫌よく声をたてて笑っていた。
顔を近づけると、信じられないような小さな手で頬をぺたぺたと触ってきた。
それにつられるように、明仁もいつしか一緒に笑いだしていた。

どのくらいぶりだったかも分からない、本物の笑顔。
郁実によって灯された光は、その先どんな時も明仁の心から消えたりしなかったのだ。



「…というわけで、生まれてホヤホヤの郁実さまを見た途端、主は一気にデレましてね」   
「そ、そうなんや…」
「無理もありません。郁実さまは一撃必殺の愛らしさでしたから」

明仁が情感たっぷりに語りあげた過去は、はっと気づけばユッキーによって超カンタンにまとめ
られていた。

郁実が小さい時もそうだった。
明仁はよく郁実を抱っこして、昔話や童話など色んなお話を聞かせてあげたものだが。
最後の一番いい場面で、ユッキーがいつもおかしなまとめ方をするのだった。
郁ちゃんの情操教育に支障が出たらどうするんだ、としょっちゅう腹をたてていた。

(コイツ、いつかうさぎ鍋に放り込んでやる…)
さっき感謝の念を抱いたことも忘れ、明仁はやや本気モードでそんな事を考えた。


「でね、主はその後すぐに私の所に来て、 『郁ちゃんが怖がるから、その姿を変えてくれ!』 と頭を
下げたんですよ」
「え、ユッキー、その姿変えられんの」
「ハイ。当時の私は主のやる気のなさを象徴するように、翼の生えた獅子という燃費の悪い姿を
取らされていましてね」
「あー…それはちょっとな…赤ん坊が見たら絶対泣くわ」

わざとらしく明後日の方向を眺めている明仁へ、郁実はからかうような視線を向けた。
子供の頃のことなのに、気恥ずかしいらしい。
余裕綽々なカオばっかりかと思っていたが、そうでもないんやなと安心した。

どうもこの人は、郁実の前では常に格好よくありたいようだが。
なにしろ外見だけなら完璧すぎるほどなので、中身が 『なんかちょっとヘン』 ぐらいの方がこっちは
親しみが持てる。
そうは言っても本人は納得せんやろうけどなーと、予想はできていたが。


「そんで、赤ん坊の俺が好きそうな うさぎになってくれたんか」
「はい。主と二人で、郁実さまにふさわしい使い魔の姿を三日三晩ほど追及いたしました」

(三日三晩…?)
若干引いた郁実だったが、小学生と翼の生えた獅子が夜通し話し合いをしている姿を想像して
ちょっとメルヘンやなとも思った。
だが10年前と中身に大した変化のない主従コンビは、そのヴィジュアル決定会議の模様をつぶさ
に語りはじめた。

「とにかく、小さくて可愛くて手触りがよくてあったかいヤツがいいって思ってさ」
「ぬいぐるみの原理やな…」
「でも犬とか猫なんて、ありふれてますしね!」
「そうそう、リスとかフェレットもいいかなと思ったんだけど、色がイメージじゃなかったんだ」
「やはり郁実さまには清らかなピュアホワイトがよろしいかと思いまして」
「中学生になった郁ちゃんにも似合ってるなんて、俺たちってほんとハイセンスだよなー」

浴衣の袂に手を入れた明仁が、満足げにうんうんと頷く。
こんなアホなことを語っていても、美形っぷりが全く損なわれていないのが立派だ。
アンタ、昼間のスーツにネクタイ合うてなかったぞ、と喉まで出かけたのを郁実は必死に抑えた。


「あ、でもでも!郁実さまがご希望なら他のに変えますよ!」
「例えばどんなん?」
「黒いヒョウとかいいんじゃない、郁ちゃん。強そうで」
「人に見られたら通報されるわ!!」
「大きなかっこいい鳥とかどうでしょう。郁実さまのピンチに上空からこう、バッサーッと飛んでくる
んですよ!」
「なんで最初っからピンチの時を想定しとるねん」

放っておくと果てなく暴走していきそうな主従コンビに、俺はまさかこの二人のストッパーになる
ために生まれたんとちゃうやろな、と郁実はいぶかしんだ。

とにかく、黒ヒョウや怪鳥を目撃されては、もうここに住めなくなる危険性がある。
小さな子を褒める要領で、「俺はそのまんまのユッキーが可愛くて好きやな」と言ってみた。
すると雪うさぎは、「可愛くて好きー!!」と膝の上でジタバタはしゃぎだす。
掴みはオッケーや、と郁実は思った。
昔はこの二人が自分の乳母だったらしいが、今は完全にこっちが乳母気分だ。

「そうやで。今ぐらいのサイズなら持ち運びもカンタンやろ。俺の服のフードの中にも入れるし、ええ
感じやと思わん?」
「分かりました。私、一生この姿でおります!!」

「郁ちゃん、フードにユッキー入れてるとこ、今度写真に撮らせてくれる?」
「撮影は終日禁止とさせていただきます」
「え〜」
「と、言いたいとこやけど、まあほどほどにな」

これでは東京にいた時も、周囲の人間は相当手を焼いたに違いない。
しかし今や、手綱は渡されたというか押しつけられたわけで。
この先は自分の平凡さこそが唯一のブレーキになるはずや、と郁実は信じて疑わなかった。




思ったより長くここにいてしまったようで、隣に座る郁実がだんだんと眠そうにし始めたことに明仁は
気がついた。
そういえば、就寝時間もいつも早かったはずだ。
今日は力を使わせてしまったし、疲れているのだろう。
重そうな瞼を必死に開けようとしているが、もはや意識もとろりと溶けてきた様子だった。

「郁ちゃん、もうお布団入ろうか」
「まだ起きてられる…もーちょっと一緒におる…」
「心配しなくても、明日もあさってもその先もずーっと一緒だよ?」
「でも…夢かもしれへんもん」

浴衣の袖に触れようとした郁実の指を、明仁は微笑みながら自分の手で包みこんだ。
夢のようだと思うのは自分の方だ。この幸福をまだ現実と信じきれずにいる。

だが同時に、覚悟を試されている気がした。
この子の身体や命だけではなく、柔らかな心までも守ってゆけるのかと。

『郁実を守る力のない奴が、郁実に必要とされると思っとるのか』
10年前 祖父に突きつけられた言葉は、今も胸に刺さったまま抜けない。
生涯、抜けなくていいと思った。
口に出して認めたりしないが、その正しさを明仁はとっくに理解していたからだ。

今日遭遇した霊などは、まだ扱いやすい方だった。
そもそも成仏できない霊というのは訳ありがほとんどで、自殺者やひどいのになると殺されたなど
というのもいる。
そんな赤の他人の痛みを、郁実はこれから死ぬまで見続けてゆくのだ。

この綺麗な瞳に、優しい心に、そんなものを映したくなかった。
だが、見えなくしてやることもできない。
自分にできるのは、郁実と痛みを分かちあい一緒に傷ついてゆくことだけなのだ。


強がるばかりで甘えることに不慣れな指先は、明仁の手の中で 『こうしててもええんかな?』と
戸惑っているようだった。
そんな郁実に、「眠かったら 寄りかかってていいよ」とそっと囁く。

少しびっくりしたようだったが、自分の膝の上でユッキーがいつの間にか目を閉じているのを見て
同じようなものだと思ったのか。
明仁の身体に遠慮がちに寄り添い、伝わってくるその重み。
それは、赤ん坊だった郁実を抱かせてもらったあの日のことを明仁に思い起こさせた。


「夏になったらさ、この縁側でスイカ食べたり昼寝したりしよう、郁ちゃん」
「花火もしたいな、俺…」
「いいね、花火。でもユッキーは暑いの苦手なんだ」
「毛皮やもんな。じゃあ、庭にビニールプール出したるわ。水浴びしたらええやん」
「そんないい物与えられたら、コイツふやけるまで入ってそうなんだけど」

肩口にもたれた郁実が、ちいさく笑う。
「ちょっとした楽しいことは色々あるけどな、どれもフツーやで…」
「普通じゃないよ」
「え…」
「郁ちゃんさえいてくれたら、俺の人生は美しいよ」

未来がどんなものであれ、遠くから見つめるだけの日々は終わったのだと明仁は思う。
自分たちはあらゆるしがらみを蹴散らして、この子の手を取った。
もう、離れることはない。


安心したように、郁実は今度こそ瞼を閉じた。
片手を膝のユッキーに触れさせ、もう一方は緩く明仁と繋いだままだった。

「おやすみ、また明日」
優しい声がそう囁いてくれる。
それに促されるように、ことり、と郁実の意識は夢の境界へ吸い込まれていった。





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