居間へ一歩踏み込んだ父は、ヨネヤのたい焼きを仲良く分けて食っている色男と雪うさぎを見て、
しばし立ちつくした。
あまりに長く絶句しているので、明仁はその間にたい焼きの胴体部分を余裕で完食した。

「父さん…」
石のように固まってしまった父を思わず郁実が背後からつつくと、ようやく呪縛が解けたかのように
父はヨロヨロと座布団に座る。

能天気かつ破天荒な父がこれほど動揺しているのを初めて見た。
どういう知り合いなんやろ、といぶかしみながら郁実も座った途端、明仁がにっこり笑いながら
先制パンチをかました。

「お久しぶりですね、義春おじさん」
「き…キミら、とうとう来てもうたんか……」
「ええ、10年は長かったですよ。郁ちゃんに会いたくて死ぬかと思いました」

(おじさんやとー!!?)
意外すぎるセリフに割って入ろうとした郁実を、父は手で制した。
「あー郁実。ちょっと間な、辛抱しといてくれるか」
2・3日風呂に入ってないであろう状態の頭をガリガリ掻きながら、ひたすら唸っている。


「ま・まあな…キミの恨みつらみは分からいでもないけど、そういうのは日記にでも書いて、お盆に
川に流すとかしてやな…毎年成仏させたらんことには積もる一方……」
「ああ、俺の怨念を書き綴った日記なら明日荷物と一緒に届くんで、お見せしますよ」

淡々とした口調で言いつのる明仁に、『怨念』という言葉はどうにも似合っていなかった。
だが、それが却って余計な迫力をかもし出しているとも言えるわけで。
少なくとも父は、裸足で逃げ出したいような顔つきをしている。

「ちなみにコピーはクソジジイのところに置いてきました。10年分もあったんで、コピーするのに
時間かかっちゃってもう。アハハハハー」
乾いた笑いをもらしながら、明仁は梅こぶ茶をすすった。
ちゃぶ台の上に座ったユッキーは、お猪口に入ったリンゴジュースを美味そうに舐めている。

前足で上手にお猪口を持ち上げている姿は、到底普通のうさぎとは思えず。
しかし、それを見ても驚く様子もない父は「ユッキーさんも…あんまり怒らんといて、な?」と怯えた
口調でお願いをしている。

明仁よりもむしろユッキーに怯えるあたり、父は相当の事情通とみた。
明仁の力は霊にしか効かないが、なにせこの雪うさぎは 『呪(じゅ)』 と『境界』 に関する力を持つ
という。
郁実がいないと本来の力をかなり制限されるらしいが。
その気になれば、誰かを呪い殺すのなんかお茶の子さいさいだろう。
そんな相手が一言も口をきいてくれなかったら、恐怖のどん底に叩き込まれても仕方がない。


とにかく、主従コンビからは明らかにドス黒いオーラが放出されていた。
父が借金でも踏み倒して逃げたのではないかと疑うほどだ。
でも、問題はたぶん郁実のことなのだ。
父のせいで、明仁とユッキーは郁実に会えなくなったということなのだろうか。
10年もの間……?

(10年て、すごい長いやん…)
(俺がふたつかみっつの時に、別れたいうことか)
(郁ちゃんに会いたくて死ぬかと思った…ってさっき言うとった、この人…)

その言葉にさらりと含まれた一途さに、郁実は思わず赤面しかけた。
いやいやいや、なにのぼせとるねん、俺!?と、自らつっこむ。

だが今この瞬間も、勘違いしようがないぐらい大事そうに見つめられているわけで。
祖母が死んでからずっと寂しかった郁実は、それを嬉しいと感じてしまう。
ただ、ヘンに意識している自分が気恥かしくてギャーッとなるのも本当で、どんな顔をしたらいいか
まったく分からない。
こんなん俺のキャラちゃうやろ!助けてくれー!という心境でもあったりするのだ。


「もう、何なんや!何のことなんかさっぱり分からんやろ。俺のことのくせに、俺を除けモンにして
話すんな!!」
内心の照れ隠しも手伝って、郁実はとうとう半ギレぎみにちゃぶ台を叩いた。
雪うさぎがびくりとしたので、「あ、ごめんな、ユッキー」と慌てて白い毛並みを撫でてやる。

「全然大丈夫ですよ、郁実さま」
と言いながらも、ユッキーは郁実の手の感触を喜ぶように耳をねかせて甘えた。
主から殺気のこもった視線を投げかけられても、ユッキーは鼻にもひっかけなかった。



郁実の剣幕にようやく踏ん切りをつけたのか、父は深いため息をつきながら 「分かった。説明する
よってに。とにかく落ちつけ」と告げた。
目線を、明仁の方へゆっくりと流す。

「彼はな、九条明仁くんいうて、おまえの母方の従兄弟にあたるんや」
「いとこ!? って、母さんの方は親戚いてへんて言うとったやん!」
「あーまあ、いろいろ事情があってな……実は親戚はぎょうさんおる…」

「あんないけすかない一族と一緒くたにしないでください、おじさん」
にっこり笑いながら自己主張する明仁を見て、郁実は自分のうかつさを呪った。
最初に父を「おじさん」と呼んだから、父の親戚と思いこんでしまったのだ。
ちゃんと身なりを整えれば父はそこそこ男前ではあるが、明仁とは似ても似つかない。
この整った容姿は、どう考えても母の方に関係ありそうなものであった。

「で、ユッキーさんは明仁くんの使い魔やねん」
「父さん、ユッキーを見ても驚かんねんな。ユッキーにどんな力があるかも知っとんのか」
「ああ、そりゃな。この二人はおまえのお母さんが死ぬまで、東京の家で一緒に暮らしとったし」
「一緒に住んどった!?」
「それにお母さんにも、ユッキーさんとは別の子やけど、使い魔がおったから」


次から次へと、信じがたい事実が明らかにされて、郁実の脳は飽和状態になった。
明仁はどう多めに見積もっても二十歳をふたつみっつ越えたぐらいの年齢だ。
母が死ぬまでというと、小学校の中〜高学年ぐらいだったはずだ。
何故、親戚の家に居候をする必要があったのか。

(いや…もしかしなくても俺か)
(信じがたい話やけど、俺と一緒に暮らしたかったとか…?)

そろそろ郁実も、この一人と一匹の無茶苦茶な行動力の源が何なのか、直視しないわけにいか
なくなってきた。
ふと見れば、明仁もユッキーも好き好き大好きオーラをひっきりなしに放っている。
この主従コンビのやる気は、明らかに確実に間違いなく郁実にかかっていた。

そして、父がさらりと発言した 『お母さんにも使い魔がおったから』
つまり、写真でしか知らない死んだ母にも、霊能力があったということなのだろうか。
自分の霊視の力は、母からの遺伝なのか。

父が何もかもを承知している様子なのに、郁実はかなりのショックを受けた。
足元がグラグラするような感じで、うまくものが考えられない。
ずっと一人で悩んできたというのに、どうして何も教えてもらえなかったのだろう。
自分のことなのに、自分が蚊帳の外だったことを知り、じわりと瞼の裏が熱くなった。


「あー…郁ちゃん、泣かなくていいから。不安に思うことなんか なんにもないよ」
涙など見せていないのに、ふいに明仁が柔らかな口調でそう言った。

俯いた額へ落ちた前髪を、そっとかきあげてくれる指。
声も、全部が優しい。
唇をふるわせながら 「…泣いてへん」と強がったが、近くでくすりと笑う気配がする。
「俺に隠しても無駄だよ。郁ちゃんが赤ちゃんだった時も、泣きそうだとすぐ分かったんだから」


そんな郁実を庇うようにちゃぶ台にだんっと立ちはだかったユッキーは、父に向けて怒鳴った。

「義春さま、アンタなんでそうデリカシーがないんですか!?」
「えっ、俺!?」
「郁実さまはご自分の能力に人知れず心を痛めておいでだったんですよ!それをたった一人の
家族に 『実は何もかも知ってましたー』 って言われたらショックに決まってるでしょうが!」
「そ、そうか…そうやんな、うん」
「だいたい小説家のくせして、もうちょっと筋道立てて話せないんですか!?」
「ゴメン、ユッキーさん、そこは精進するよってに…」

ペコペコする父に「フン!」と鼻息も荒くはき捨てると、ユッキーはくるりと郁実を振り向いた。
「郁実さま、大丈夫ですか」
「うん、平気や…」
「郁実さまには、このユッキーと主がついておりますよ!なにもご心配はいりません」

ちいさな真っ白いうさぎが、懸命に自分を励まそうとする様子が愛らしくて、郁実は微笑した。
「じゃあ、ユッキーが話してくれるか。俺の力は母さんからの遺伝なん?」
「はい。でもまずは、九条家に生まれる霊能力者についてお話した方がよろしいかと…」

そう言うと、ユッキーは郁実と向かい合う形でちゃぶ台にちょんと座り直した。
明仁は黙ってこちらを見ている。
どうやら、この話はユッキーに任せるのがいいと判断したらしい。



雪うさぎは、郁実にとても不思議な話をしてくれた。
200年以上も遡った頃、九条家では変死としか言いようのない死に方をする者が一族に何人も
出るようになっていたという。

昔は医療も今ほど発達していないから、病気や怪我で簡単に人が死ぬことも多かった。
しかしそれとは明らかに種類の異なった死に方に、当主はひどく頭を悩ました。
そして手をつくし、色々と調べさせた結果、一世代に二人、霊能力のある者が必ず生まれている
という結論に達したのだ。

もちろん、それが判明するに至ったのは、さらに何代かを経てからの事だったらしい。
幾人もの霊能者や陰陽師が九条家に招かれた。
そしてその者たちの力を借りて、一族内の霊能力者の把握が行われていった。
その間にも、霊に憑かれたり、霊との不用意な接触であの世に連れて行かれてしまう者は続いた
という。


最終的に分かったのは、一世代に霊能力(除霊能力)のある者が一人、霊視の力を持つ者が
一人生まれるようだということ。
除霊能力のある者は、何故か霊視の力がひどく弱い。
反対に霊視能力者は、霊に対抗する術を全く持たない。

元々、一族の者を死なせないことが目的で重ねられた調査であったため、その時代の九条家の
当主は、二人の能力者が互いの力を補完し、守り合うシステムを考え出した。

除霊能力のある者は、割合幼いうちから力を発顕するのが常だったが。
霊視能力者は、思春期を迎えた頃に突然「見える」ようになる。

だから、除霊能力のある者には早いうちから霊に対抗する術を体得させておき、その代の霊視者
が判明すれば、コンビを組ませた。
そして他の一族の者も、能力者を異端視せずに、彼らをあらゆる面からバックアップするようにと
命じられてきたという。


何代も何代も能力者たちは、自分と相棒の命を守るために工夫を重ねてきた。
九条家に出入りする術師から教わった事を、自分たちの力に合うようにアレンジして、今のような
昇霊術に近いものになったらしい。

使い魔を組み込むことによって、そのシステムは一層強固なものになった。
郁実たち三人に関していえば、

ユッキーは <呪>と<境界>
郁実は <霊視>と<循環>
明仁は <解放>と<昇霊> を司っている。



「……というわけで、その九条家オリジナル・なんちゃって除霊術の15代目の継承者が俺なんだ
よ、郁ちゃん」
「緊張感ゼロになるんで、なんちゃって除霊術とか言うのやめてください、主」
「だってそうだろ。陰陽道も除霊術も混ざりまくって、もう何が何だか分からなくなってるし」
「そんなイカサマっぽい術師の使い魔やってる私の身にもなれ、と言うとるんです」

言い合いをする明仁とユッキーを見比べながら、郁実は聞かされた多くの新事実に、ほうっと
ため息をもらした。
驚くべきことばかりだが、先に明仁やユッキーと除霊を行ったせいか、頭から信じられないという
拒絶反応は起こらない。

(つまり俺が、この人と対になった15代目の霊視能力者ってことなんか…)
最初霊があまり見えていないようだった明仁が、郁実に触ることで霊視が可能になった理由も
今は納得できる。
郁実が自分の能力を、彼に循環させていたということだろう。


「もうお分かりでしょうが、郁実さまの母上も霊視能力者でした。椿さまは14代目ですね」
「ちなみに今の九条の当主は俺や郁ちゃんのじいさまなんだけど、あの人は13代目の除霊師
なんだ」

他に聞きたいことはある?と明仁に優しく促され、郁実は当面の疑問をかき集めた。
「霊視能力者は思春期にならんと、『見える』 ようにならんって言うたよな」
「うん、実際、郁ちゃんもそうだっただろ?」
「でも、俺が霊視できるようになるって、ずっと前から分かっとったみたいや…」

その郁実の指摘に、明仁の表情がさっと曇ったような気がした。
アンタが悲しそうな顔するの苦手やな、俺…と郁実は思う。
ひどく明朗な空気をまとっている印象の人だから、なおさらだ。

「郁ちゃんは特別だったんだ…生まれてすぐに、じいさまが 『この子に霊視能力が顕れるだろう』
って断言した」
「過去に例のないことですが、椿さまもそう感じるとおっしゃっていたんです」

「それは良くないことなんか?」
「え?」
「二人とも、なんかその…可哀想なことやと思っとるみたいやから」

一瞬、明仁とユッキーはどう反応すればいいか迷うように顔を見合わせた。
痛ましい、と思ってくれているのか。
生まれてすぐにこんな重荷を背負った自分を。
この主従コンビが根っこの部分では非常によく似ていることに気づき、郁実は何だかおかしくなって
しまった。

「早くから分かっとったから、明仁さんもユッキーも俺のこと可愛がってくれたんやろ?」
「郁ちゃん…」
「郁実さま…」

ごめん、さすがに全然覚えてないねんけどな…と、郁実は残念そうに苦笑してみせた。
それでも感じ取ることはできる。
自分はきっとこの二人に大切に守られて、幼い日々を過ごしたのだということは。


「いやもー可愛がるゆうか、溺愛ゆうか、ベッタベタやったいうのが正しいけどな」
今まで黙って茶をすすりながら聞いていた父が、ここでようやく割って入った。
みっつめのたい焼きに齧りつこうとしたので、お寿司取るからたいがいにせえよと郁実が止める。

「郁実が生まれてから、椿は床に伏しがちになってしもてな。お義母さんが毎日のように来てくれ
はったけど、おまえの世話は明仁くんとユッキーさんがかなりしてくれとったなあ…」
もうほとんど乳母やったで、乳母!と父はカラカラ笑う。
それを見て、この人は俺の世話なんかせんかったんやろうなーと郁実は確信を持った。

「ていうか、明仁さんて当時小学校高学年ぐらいやろ。親戚の家に住み込むって、親は何も言わ
んかったんか」
「あ、明仁でいいよー郁ちゃん」
「え、でも、俺ずっと年下やし…」
「俺ね、郁ちゃんにそう呼ばれるのが夢だったんだ。お願い」
「どんな夢やねん。よう分からんわ」

いくら近しいと感じる相手でも、イキナリ呼び捨てにするのはちょっと躊躇われる。
だが除霊をした時のあの感覚を思うと、名前は重要だという思いは確かにあった。
どちらかといえば、余計なものなしで呼びたい気持ちがあるのも本当だ。

「明日からずっと郁ちゃんと一緒に暮らすからって言ったら、母親はなんか色々言ってたような
気がするけど…俺 全然聞いてなかったし」
「明仁さまの父上は褒めてくださいましたよねっ」
「そうそう。『その年で愛に生きる決意をするなんてかっこいいぞ、明仁』 って言ってたな」
「そして 『これで育児書とベビーカーを買いなさい』 とおっしゃって、封を切っていない札束をぽん
と渡してくださったんですっ」

「ちょ…封切ってないて、もしかして100万か!?」
「はい。使いきれなかったんで、他にお洋服や素敵なベビーベッドも買ったんですよね、主!」
「あのベビーベッドに寝かせた郁ちゃんは、ほんとに可愛かったなあ…」

うっとりと追憶にふける主従コンビを横目で見ながら、郁実は小声で「九条家ってお金持ちなん?」
と父に問うた。
「うん、まあな。明仁くん見れば分かるやろ」
「確かに、無駄に育ちが良さそうなオーラが出とるけど…」
「ついでに言うと明仁くんはお父さんに瓜二つなんやで。見た目もやけど、この軽やかな性格が
また…」
「そ…そうなんや…」



明仁とユッキーが幸福な育児時代の話に熱中し始めたので、郁実は一旦席を外し近所の梅寿司
に出前を頼む電話をかけた。
注文を告げると、「あれ、ずいぶんたくさんやな。お客さんかい、郁実ちゃん」と聞かれる。
「うん、東京から…従兄弟が来とるねん」
「へえ、そうなんか!じゃあ美味いネタいっぱい入れたるからな」
「ありがとう、おじさん」

ずっと今まで、親戚なんかいないと思っていた。
だから「東京から従兄弟が来てる」と人に話したことに、ちょっとドキドキする。

電話口から居間の方をふり向けば、そこには明かりが灯っているし、話し声も聞こえてくる。
耳をそばだててみると、どうやら郁実を公園デビューさせた時のことらしい。

「郁実さまがあんまりお可愛らしいから、人が寄ってきて大変でしたよね、主」
「そうだったな…あの日は俺の人生でも五指に入るぐらい輝いてる」
「キミの人生、他にええことなかったんかいな…」
呆れたようにボヤく父の声に、郁実は小さく吹き出した。
たくさん人がいる家ってええよなあ…と思わずにいられない。

祖母が死んでからの一年、離れで仕事をする父とはなかなか顔を合わせることもなく、食事も一人
でとることが多かった。
がらんと広い家に一人でいると、ひどく寒々しい気持ちになったというのに。

(どれぐらいここにいてくれるんかな)
今日は金曜だから、今日明日ぐらいは泊っていってくれるのだろうか。
明仁には仕事があるだろうし、きっとそれが限界やろうな…と、また寂しい気持ちになった。
でもきっとまた来てくれるし、自分だって会いに行ける。
一緒にいられる間は、暗い顔はしないでおこうと思う。


「しかしまあ、明仁くんもまだ子供やったのに、郁実に対して我慢づよかったよなあ」
「郁ちゃんは手のかからない赤ちゃんでしたよ。夜泣きもあまりしなかったし」
「でもキミ、どんな事があっても笑顔を絶やさんかったやろ。よっぽど郁実が好きなんやなと感心
しよったんやで」

居間に戻ってみると、まだ他の面々は育児期の話で盛り上がっていた。
マナイタに乗せられる俺の身にもなってくれとは思うが、知らない話なのでちょっと聞きたい気も
してくる。複雑だ。

「そうですよね。主は、郁実さまが最後のひと匙まで飲みこんだ離乳食を次の瞬間全部戻しても、
ミルクをお腹いっぱい飲んでうとうとする郁実さまをおんぶしてたら背中に全部リバースされても、
嫌な顔ひとつしたことがありませんでしたよ…」
愛ですね、とユッキーは感動の涙をぬぐった。
しかし郁実は、愛の名のもとにかなりの間違いが横行していたのではという悪寒におそわれた。

「ちょー待て。吐いてばっかりやないか!なんかおかしないか!?」
「うーん、今考えると、ちょっと食べさせすぎてたのかな」
「ちゃんと育児書を読んで実践してたのにおかしいですね。まあ時々、独自のアレンジは加えて
ましたけど」
「オイオイ…独自のアレンジっていったい何やねん…」

自分がすくすく育ったのが、何かの奇跡のように思えてきた。
誰かストップをかける人間はいなかったのだろうかと、じっとりした目つきで父を見てしまう。


「まあとりあえず、それはええわ」
本当は全然よろしくなかったが、ため息をひとつつくと郁実は気持ちを切り替えた。
聞いておかねばならない、もっと重要なことが残っている。

「寿司が来る前に聞かせてもらいたいんやけど、なんで二人は10年も俺に会われへんかったん?
父さんが会ったらアカンって言うたんか」
「いや、それは誤解やで郁実!俺はそんなことはしてへんし!」
「じゃあなんで、明仁…もユッキーも父さんのこと怒っとるんや」
「あーそれはな…いろんな事情が重なったんや…俺も悪いのかもしれんけど…」

父はまたガリガリと頭を掻く。二日に一度は風呂に入ってほしいものだと郁実は思った。
今は作家といえど、イメージが大切な時代ではないか。
著者近影など、このままでは絶対に本に載せられない。

「あのな…おまえのお母さんが死んで、俺は途方に暮れてしもたんや。こういう仕事やから、郁実
の世話をしながら執筆なんて不可能やと思たし」

吸ってもええか?と訊かれたので、「一本だけな」と灰皿を父の手元へ押しやる。
カチッと音をたてて煙草に火をつけた父は、大きく吸い込み、ゆっくりと煙を吐き出した。
「結論から言うと、大阪のこの家に戻って、俺の母親…つまり郁実のばあさんに面倒みてもらう
しかなかったんや」

だが、父はその時点では、明仁もユッキーも当たり前に大阪について来ると思っていたらしい。
だから大阪移住はそう大した問題ではないと考えたのだ。

小学生が親から離れて東京から大阪に移住するというのは大した問題の気もするが、そもそも
明仁は色んな意味で普通の小学生ではなかった。
その時点でもう、実家に戻る事などないと決めていたという。
だが、物事は想定した通りに進んではくれなかった。
九条家の当主、明仁や郁実の祖父に当たる人が、明仁の大阪行きを許さなかったのだ。


「なんでアカン言うたん?おじいさんは、明仁とユッキーが俺と対になっとるの知ってたんやろ」
「除霊師と霊視能力者、そして使い魔の絆…それについては、誰よりも理解しておられます」
「じゃあ、なんで?10年も会うたらアカンなんて…ひどいやん」

会ったこともない祖父への怒りをつのらせる郁実に、ちゃぶ台上のユッキーはとても困った様子を
見せた。
「そうですね…10年間、主も私も本当に死ぬより辛い思いを味わいました…ただ、ある意味では
主に責任がなかったとも言い切れないのが複雑なところでして…」
「明仁に?」

けげんそうに首を傾けた郁実に、ユッキーは言いにくそうに言葉を紡いだ。
「修行を…してなかったんですよね、ぜんっぜん」
「え?」
「つまりその…除霊師としての修行をですね、郁実さまのお世話に夢中になりすぎて全くしてなか
ったんですよ。そんな状態で東京から離れるなんて許さーん!!と怒鳴られまして…」

居間はどんよりとした空気に包まれた。これはフォローしにくいわ…と郁実も思う。
だがそもそも、母が死んだこと自体が予想外の出来事だったはずだ。
明仁を責めるのは酷ではないかと、まだ見ぬ祖父に対する反発心が再び湧いてきた。

「でも、実際俺が霊視できるようになるまで10年あったわけやん。修行ってどんなんか知らんけど
明仁だってちゃんとやるつもりやったんやろ」
「郁ちゃん…」

「確かに、状況が変わったのは主のせいではないですよね。本家に移って、奥方さまに郁実さまを
見ていただくという選択肢もありましたし」
だけど、義春さまは大阪移住を強行なさった、とユッキーは父を睨みあげる。
ぐえっ…と父は踏まれたカエルのような声を出した。


「そしてあのクソジジイは、郁ちゃんに霊視能力が発顕するまで会うことも禁ずると俺とユッキー
に言い渡したんだ…」
「『郁実を守る力のない奴が、郁実に必要とされると思っとるのか』 と言われましたね…」
「そんな…そんなんひどい!」

悲しげな明仁とユッキーを見ていると、郁実はもうたまらなくなった。
父の前だというのも忘れ、ユッキーを膝に抱きよせ、明仁の手をぎゅうっと握る。
「必要かどうかなんて俺が決めることやないか。なんやねん、それ。横暴や!」

今は全く使い途がなかったが、二人に触れると力がゆっくりと循環し始めるのを感じた。
『だから俺たちは、決して離れてはいけなかったんだ…』
除霊をした時、明仁が言っていたことの意味に気づかされ、涙がでそうになる。

10年もたっていたのに。
何もかもが変わるには充分な時間だったのに。
明仁とユッキーは郁実を忘れずに、郁実の危機にこうして大阪まで駆けつけてくれたのだ。



「まあ当主さまにもお考えがあったのだろうとは思いますが、それで全てが水に流せるかというと
そんなもんじゃありませんよね」
「これで恨まなかったら、どんな聖人だって話だよな」
今またちゃっかり郁実と手を恋人つなぎにした明仁は、ユッキーの言葉にうんうんと頷いた。
「まあでも腹いせにジジイに一撃入れてきたし、ちょっとスッとしたけど」

その言葉にやたら激しく反応したのは父だった。
「お義父さんに一撃入れた!!?」という絶叫に、郁実はビクッとした。

「ちょ…ちょー待って。明仁くん、キミお義父さんと手合わせできるぐらい強いんか!?」
「それってすごいことなん?」
「すごいも何も、おまえのおじいさんは武道の神様みたいな人やねんで。その人に一撃入れられ
るっていうたら…」
「どんぐらい強いん」
「いやー…熊と素手で戦えるんちゃうかな……」

ギャグかと思ったが、父は青ざめた顔色で明仁を窺っている。
今までユッキーよりは僅かに明仁を安全だと考えていた様子だったが、この瞬間それは完全に
瓦解したらしい。

明仁はにっこり笑うと、「熊とか暴漢に出会ったら俺に言うんだよ、郁ちゃん」とのたまった。
何と返したらいいのやら、郁実には判断がつかなかった。


「実は私も、ちょびっとだけ腹いせってやつをして来ちゃったんです〜郁実さま」
今度は郁実の膝にぬくぬくと収まったユッキーが、愛らしい口調で恐ろしいことを言い出した。

「な…なに、まさか呪い殺したりとか…してへんよな…ユッキーそんな子やないよな…?」
「もう、当たり前ですよ〜私がして来ちゃったのは」
「きちゃったのは!?」
「明仁さまが10年間書き綴った怨念日記があるんですけど、それのコピーにちょこっと呪いを
植えつけて、当主さまの枕元に置いてきましたー!」
「呪っとるやないかー!!」

郁実のツッコミにも全く動じず、雪うさぎはチッチッチッ…と前足を振った。
別に死んだりしませんよーと言うが、祖父の安否が異様なまでに気にかかり始める。

「あのですね、その怨念日記にちょっとでも触れると、全部読まずにはいられなくなっちゃうんです。
これで当主さまも、私たちの恨みつらみを我が事のように追体験できるんじゃないかと」
「そ…それはまたオシャレな呪いやな…」
「まあ心配しなくても、一週間ぐらいで呪いの効果は消えますし」

それまでに祖父がノイローゼになっていなければいいが…と郁実は真剣に思った。
隣に座っている父に向けて、『謝れ!何でもええからとりあえずこの二人に謝っとけ!』 と、念を
飛ばす。
明仁とユッキーの次のターゲットは、どう考えても父以外にありえなかった。



その時、ブーッブーッとレトロな呼び出し音が鳴った。どうやら寿司が来たらしい。
ユッキーに「普通のうさぎのフリしてんねんで」と言い渡すと、郁実は玄関へ走っていった。

届けてくれたのは、梅寿司の若大将(といっても郁実の父と同年代)・誠二だった。
大きな寿司桶がふたつあったので、片方は誠二が居間まで運んでくれる。
「こんばんは、先生。御親戚が来てはるって聞きましたよ」
ちゃぶ台に桶を置いた誠二は、明仁を見ると驚いたように目をみはった。
「こりゃすごい男前やなあ。さすが郁実ちゃんの従兄弟さんだけあるわ」

その瞬間、狙いすましたように明仁が前に出た。
男相手でも好感度抜群と思われる、人懐っこい親しみのこもった笑みを浮かべている。
女性ならば、問答無用で落ちていそうだ。

「九条明仁といいます。今度大阪に転勤になりまして、義春おじさんの所に住まわせてもらうことに
なったんですよ」
「おお、そうなんか!そりゃ賑やかになって嬉しいわ。なあ、郁実ちゃん」
「大阪は初めてなんですが、すごく気に入ったのでずっと住みたいな、なんて思ったりして」
「そやろ、ここは下町やけど住みよいところやで。今度店にも食べに来てな〜」

酒は何が好きなん?日本酒ですね〜うちの店にも美味いのあるで…と、一気に盛り上がる明仁と
誠二を、郁実はポカンと眺めていた。
何か今、明仁がずっとここに住むと言ったような気がする。
自分の願望が都合のいいセリフを聞かせたのかと、疑ってしまうぐらいだった。

ふと父の方を見れば、諦めと困惑が入り混じったような苦笑いを浮かべている。
久しぶりに会ったとはいえ、昔は一緒に暮らしていた相手だ。
父は最初から、二人がここに居座る気なのだと観念していたのかもしれない。


誠二を送り出しドアを閉めたと同時に、郁実は猛ダッシュで居間へ戻った。
「明仁!ほんまにうちで住んでくれんの。ユッキーも一緒に!?」
父が横から「そういうことは世帯主に訊いてから決めようや…」とボヤいたが、誰一人気に留めて
やる者はいなかった。

うんうん、と笑顔で頷く明仁の横で、「主も私も、もう二度と郁実さまから離れたりしませんよ!」と
ユッキーが力強く断言する。

「でもっ、明仁は仕事があるやろ?どうするんや。辞めてこっちでまた探すんか」
「郁ちゃんはそんなこと心配しなくていいんだよ。ちゃんと大阪に来るための算段はしてあったし。
俺、来週から大阪支社勤務なんだ」

そんな都合のいい話があるとは、まだ子供の郁実にも到底信じられなかった。
しかし明仁が嘘をついているようにも見えず、なんとなくこの主従コンビが裏で暗躍したような予想
だけはついた。

無茶も無理も通してここへ来たのだろうと、そう思う。
住みなれた東京を後にして、人も言葉も文化も違うはずの大阪へ乗り込んで来た。
ただ、郁実一人を目指して。


「東京が恋しいことないんか。家族も親戚もみんなあっちに居てはるんやろ」
「郁ちゃん、『すっごくウザくて、もう顔を見るのも嫌な相手』 って関西弁でどう言うの」
「え、えーと…? 『けったくそ悪い』 ?」

おー関西弁て表現力に富んでて素晴らしいね、と明仁はぽんと手を打った。
「俺ねーあのけったくそ悪い一族から500キロも離れた土地にいるかと思うと、なんかもう心が
澄み渡ってくるのを感じるよ」
「は…はあ…」
「それに本当に大阪が気に入ったんだ。郁ちゃんが余所へ行くって言わない限りはずっと住み
たいって思ってる」

郁実さえおったら、ここが南極でも構へんくせに…と父が小声で当てこすった。
だが明仁に冷ややかな視線を向けられると、お湯をかけられたかつお節のようにしぼんでしまう。
どうせ負けるんやから、最初っから言わんかったらええのに、と郁実は呆れた。



「まあ何といっても、郁ちゃんみたいな美人さんが関西弁で喋るっていうのがいいよな」
「ギャップ萌えというやつですね、主。分かります」

関西弁サイコー☆と、主従コンビはものの見事にハモッた。
美人とか言うなコラー!という郁実の叫びに、明仁とユッキーの笑い声が賑やかに重なる。

本当にこの二人は、手のつけようがないぐらい自由きままで。
なのに、好きこのんで郁実に縛られたがっているのだ。
それを愛するというのだと、分かるには郁実はまだ幼すぎた。
ただ自分に寄せられた心を、これから大切にしなければと思うばかりだった。

引き離されていた星たちは、長い年月の果てに、この日とうとう同じ場所へと集った。





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