郁実に人に言えない悩みができたのは、中学生になったばかりの頃だった。

他人どころか、たった一人の家族である父にも言えない。
歴史小説を中心に他にも様々なジャンルの著書がある小説家の父は、郁実を可愛がってくれるが、
まずは仕事命!の人だった。
我が家である古い日本家屋の隅の離れを仕事場にしていて、いったん筆が乗るとなかなかそこから
出て来なくなる。

まあ、あんな気ままな生き方をしていれば、世間様との間にズレが生じるのは致し方ない。
普通の父親像を彼に求めることなど、はなから諦めている郁実ではあったが。


しかし、祖母亡き今、相談できる相手といえば父しかいなかった。
思春期特有の悩みすら相談しにくい人を相手に、この異変をどう説明すればいいのか。
まだ真新しい学生服の襟にあごを埋めるようにしながら、知らず深いため息がもれていた。

『父さん、俺…実は 幽霊が見えるようになってもうてん』
そう告白したら、いったいどういうリアクションをされるのか。分からないから余計に悩む。

(まずは小説のネタにされる可能性が、めっちゃあるわな…)
大人が 『遠くへ行きたい』 って思うんは、こういう時なんかな…と、郁実はしょんぼり肩を落とした。
しかし郁実の場合、遠くへ行っても問題は全く解決されない。
日本中のどこへ行こうと、霊はきっとうじゃうじゃいるに違いなかった。

これまで、誰にでも 『しっかりしてる』 と言われる自分が自慢だったというのに。
今はどうしていいのか分からない。ものすごく心細かった。
だってそうだろう。自分はまだ中学生で、相手は幽霊なのだ。
ていうか、そもそもどういう組み合わせなのだこれは。ツッコむ前に泣きだしそうだ。

(ばあちゃんが生きとってくれたらな…何でも聞いてくれたのに)
庭によく飛んでくる蝶を指差して、『あれはあんたの守り神さんやから、捕ったらあかんよ、郁実』と
教えてくれた祖母がひどく恋しかった。

祖母は信心深い人だったし、幽霊が見えると言っても笑いとばしたりはしなかったはずだ。
怖いんや、めちゃくちゃ怖いねん、と取り繕わずに言えたらどんなにいいだろう。


幽霊も勿論だが、それより自分が他の人とは違う存在になったことが怖かった。
でも、誰にも言えない。
元来、気のつよい郁実は、自分が弱音を吐けたのは祖母にだけだったのだと痛感する。

(そっか、俺、寂しいんやな…)
ふと、そんな思いがよぎった。
心を許せる人がもういないという事実は、今さらのように郁実の孤独を深くする。
胸の奥が、しんとなる。

離れにこもって一日数回しか顔を合わせない父の他に、誰もいない家。
待っている人も、帰ってくる人もいない。
それを想起させるような冷たい静けさは、知らぬ間に郁実の中にも巣食っていた。
中学一年生が背負うには、それはあまりに重い荷で。
夕暮れ間近の家路をたどる足取りは、一歩進むごとに鈍くなるばかりだった。




それは本当に突然やってきた。
ある日気がつくと郁実には、クラスメイトや近所の人には見えないものが目に映るようになっていた
のだ。

最初は、どれも普通の人間だとばかり思っていた。
だが中には事故にでも遭ったのか、目をそむけたくなるような惨状のままでうろついている者もいて、
初めて見た時など頭を殴られたようなショックを受けたものだ。

一般人と同じように歩いている者の中にも、郁実にしか見えてないらしいのが時々いる。
正直、それが一番困る。
うっかり話題にのせてしまったものの、友達にそれが見えていないと気づいた時には、どうやって
誤魔化すかで冷や汗をかいた。


(せやけど、幽霊ってこんなハッキリ見えてええもんなんか!?)
普通、もっとぼんやり捕らえ処がないからこそ、なんか怖いんちゃうんか、と郁実は思う。
しかし視界に映る霊と思しき者たちは、ぼんやりどころか常にフルハイビジョンを誇っていた。

ハッキリ言って、見えすぎだ。
そういう意味では、最初のショックを過ぎた今、どうにも緊張感が保てなくなっている。
それがまた非常にヤバイと、なんとなくだが分かってもいた。

これらは、もはやこの世のものではない。
だから昼間でも怖がるべきだし、対処法がない今はなるべく目を逸らして通り過ぎるより他にない。
そうしようと心がけてはいるのだ。

だが、昼日中から平気でふらふらしている霊を見ると、むっとした。
こんなにも自分を悩ませておきながら、なんでこいつらは気軽に出歩いているのか。
『夜に出るもんやなんて嘘っぱちやないか!どういうことやねん!?』 と、首根っこをつかんで問い
質したくなってくる。
それもこれも突き詰めれば、自らの性格のせいなのかもしれないが。


死んだ母にそっくりだと言われる顔立ちとはうらはらに、郁実は無駄に負けん気が強かった。
母に似ているのが嫌なわけではないが、きれいな顔と言われても全然嬉しくない。

小さい頃からそういう事でからかわれる時が多々あり、たいていは拳で相手を黙らせてきた。
勝とうが負けようが、ふっかけられたケンカはもれなく買うのがモットーだ。
そのせいか、細身の体つきの割に案外ケンカ慣れしている。

郁実にちょっかいかけてくる奴がいると、幼馴染の美晴が「ちょっとアンタら、この子を見た目どおり
と思たらケガするよ。けっこう武闘派やねんから」と諌めるほどだった。
まあそれで相手が簡単にデレるのは、美晴がめったにいないような美少女だからだろうが。

(ほんまはな。父さんや美晴にちゃんと話すれば聞いてくれるって分かってるんやけど)
いつかは私はいなくなるんやからと、郁実はまだ幼い頃から自分のことは自分で始末をつけるように
祖母に躾けられていた。
そのせいか他の誰かを頼ることに慣れていない。損な性格やなあ…と思う。

それに、こんな訳の分からないことに親しい人を巻き込むのも躊躇われた。
こんな怖いこと、知らずにすむなら知らない方がいいに決まっている。
あの幼馴染には水くさいと後で殴られそうな気もしたが。
それでも自分は男だから女の子に怖い思いをさせたくない。それぐらいの矜持は持っているのだ。




とぼとぼと歩いているうちに、家の近くを流れる小さな川の傍へ出た。
この辺りは変わった地形をしていて、川だけが高い場所に流れている。
だからいったん緩やかな坂を登って川べりへと上がり、橋を渡ってまた坂を下りることで、ようやく
向こう岸へ行けるわけだった。
川の両岸には歩道がついているが、何とか車が一台通れるぐらいの幅だ。
時折老人が犬と散歩をしていたりもするが、車と出くわすと危ないので、案外この道には人通りが
少ない。

さらさらと流れる川の周辺にはびっしりと草が生えていて、名も知らぬ花が咲き乱れていた。
春のうららかな夕方。
一年でも、こんなに気持ちのいい時期はまたとない。

だが郁実は、この一週間ほど橋を渡る時必死で見ないふりをしていたものの事を思い、眉を寄せ
ながら考え込んだ。
まだ少し遠くにある小さな橋を見やり、立ち止まる。


実はこの橋のたもとには、おそらく事故に遭ったのであろう、ひどい有様の小学生ぐらいの男の子の
霊がいた。
あそこから動いているのを見たことないから、地縛霊というやつかもしれない。

今日まで何とか目を合わせずにやり過ごしてきたが、いつも郁実をじっと見ているのは知っていた。
美晴と一緒に通った時も自分ばかり見ていたから、もしかするとこっちが見えている事もバレている
のかもしれない。

(話しかけたら、俺の言うこと分かるんかな)
(ていうか、あっちも喋ったりするんやろか)
(あいつ、自分が死んでること、分かってへんから成仏できんのかな…)

さまざまな疑問が渦を巻く。だがそれに答えてくれる人などいなかった。
それに元々見て見ぬふりというのは郁実の性に合っておらず、ストレスは溜まるばかりだ。

目を合わせて話しかけてみようか、と思う。
そういう考えに傾いたのは、その男の子の霊がいかにも害がなさそうだったからだ。
ほとんど動くこともできない相手に何かされるとは思えず。恐れるべきだという警告が、自分の中で
薄れてゆく。
素人が下手に霊に手出しをすれば、かなり危険な目に遭っていたかもしれないと郁実が知るのは
この先、もう少したってからの事である。



川べりの歩道には、幸い他に人の気配はなかった。
オレンジ色の光に目を細めながら、郁実はゆっくりとした足取りで橋のたもとにうずくまった子供の
霊に近づいた。
この一週間で多少見慣れたが、頭の片側と目がつぶれている。
手足も折れたのだろう、妙な方向に曲がっていて見るに堪えないような姿だった。

惨禍が自分を襲ったときに、この子供は何を思ったのだろう。
どこへも行けない自分を、どう思っているのだろう。
(痛かった、やろうな…)

だが初めて郁実と目を合わせた瞬間、驚いたことに子供は無事な方の目を見開き、笑った。
無惨な外見だというのに、花が咲いたような笑顔だった。

自分の存在を認めてくれた人がいたのが、嬉しかったのか。
どれほどの長い年月、そんな相手を待っていたのか。
胸の奥が、ぎゅうっと引き絞られた。
まだたぶん小学校2・3年ぐらいだ。本当はとても可愛らしい顔をしていたのだと分かる。


「おまえ、俺の言っとること分かるか?」
心がさざめく。
胸の真ん中に一粒の雫が落ちたように、やりきれない悲しみが波紋を描いた。
きょとんとした顔の子供は、訳が分からないのかただもう一度にこりと笑ってみせる。

「そこから…動かれへんのか」
可哀想に思うのともまた違う。ただひたすらに悲しい。
こんな目に遭ってなお、救われず同じ場所に縛り付けられているとは、この子が何をしたというの
だろう。

(そんで俺は、見えるだけで)
(話しかけても、結局はなんもしてやれんのや…)
他人にはないこの力が何の役にも立たないとに気づかされて、郁実はうなだれた。
この子供にぬか喜びをさせてしまった気すらして、いたたまれない。

だけどせめて、頭ぐらいは撫でてやりたくなった。
優しくするのは、悪いことじゃないように思えたからだ。
不思議そうに自分を見る子供の頭へと、そうっとそうっと指を伸ばしてみる……



「それに触ったらいけないよ」

郁実の指先がピタリと止まった。
ウソやろ、と思う。さっきまで自分の背後には確かに誰もいなかった。

そしてその声は、目の前の霊に郁実が触れることを明らかに制止していた。
それは、声の主にも 『見えている』 ということではないのか。
その事実に気づかされ、驚愕する。
もはやこの世のものではない彷徨える魂のかたち。それを、自分と同じように…?

「むやみに同調してしまうと連れていかれるからね…」
川の流れる音に紛れ、だが鮮やかに届くその声へと、郁実は警戒心も露わな眼差しで振り向いた。


………逢魔が時
夕暮れ迫るこのひとときをそう呼ぶのだと、昔祖母から教わった。
その元々の由来は、「大禍(おおまが)時」
この時刻に出くわすものは災いを呼ぶ、きっとそういう意味なのだろう。


だが茜色に染まる道に忽然と現れたのは、品のいいスーツ姿の青年だった。
かすかに光沢のあるライトグレーのスーツは、郁実の目から見てもすごく上等そうだ。
どう考えても安物ではないそれを、嫌味なくさらりと着こなしている。

まだ、若い。二十歳を少し越えたぐらいだろうか。
艶のある黒髪、その面差し、指先までもが全て整った印象で粗い部分が見当たらない。
(ちょっと大阪にはおらんタイプの男前やな…)
そんな場合ではないのに、郁実は立ちつくしぽかんと見とれてしまった。

笑みが浮かぶと一気に華やぐ容貌は、だがちゃんと男らしさを兼ね備えてもいる。
むしろ美形と呼んだ方が正しいのか。
そんな形容が似合う人間に出会うとは、正直ビックリであったが。


ただ、彼のネクタイの色柄がスーツとちょっとちぐはぐなのが気にかかった。
その事実に郁実の脳内は?マークでいっぱいになる。
普通スーツとネクタイというのは合った物同士を一緒に買うんとちゃうんかと、数少ない父の背広を
思い起こして考えた。
こんな上等そうなスーツならなおさらだ。
なんかこう、間違えたネクタイをしめてきちゃったーという雰囲気がひしひしと伝わってくる。

ついでに言うと、男は手に蓋つきの籐のバスケットを下げていた。
何故、バスケットなのか。その辺はツッコんでもいいのか。

本人は完璧な容姿をしているというのに、まるで間違い探しのように見つかるそれらの問題点に、
郁実はなにやら頭痛がしてきた。
誰か気にかけてやる人間はいなかったのだろうか。

一番最初にまず、「ええんか、アンタそれで」と声をかけたくなってくる。
悲しいA型のサガである。美晴にはオカン体質と呼ばれているアレだ。
郁実が気を取り直し、緊張感を再びかき集めるまでにしばしの時間を必要とした。



「アンタ、何モンや。こいつが見えとんのか」

知らず子供の霊を庇うようにしながら、郁実はとにかく踏ん張って立ち、相手を睨みあげた。
というのも、近づいてきた男がかなり上背があったからだ。
中学に上がりたての郁実の身長は150センチ台後半。
男は明らかに180以上あるようで、至近距離で顔を見ようとすると首が痛くなりそうだった。

男は郁実の剣幕に動じる様子もなく、ただ包み込むような眼差しで見つめてくる。
夜空の色の瞳は少し悲しげで、もどかしそうで。
それを見返していると、ひどく胸が詰まった。

ごめん、分かっとる、大丈夫やから、と何故か慰めの言葉が口から出そうになる。
それが何を意味するのか全然分からなくて。
なのに切ない。
どうしてだろうこの人を悲しませたくない、とごく自然に思っている自分がいた。


だが男は吐息をつくと、ぱっとその場の空気を入れ替えるように郁実に笑いかけた。
そういう顔をすると、少しだけ子供っぽかった。
整いすぎた顔に明るさが宿ると、余計に魅力的に見えてくるから始末が悪い。

「うーん、どっちかというと見えてない方に入ると思うよ、俺は」
「ウソつけ!今俺に触ったらあかんて言うたやないか」
「ほんとほんと。俺にはね、そこにぼや〜っとした塊しか見えてないんだ。小さいから子供の霊かな
って思うけど、どんな外見なのかはさっぱり」

相手が誤魔化している様子はなかったが、郁実は眉を寄せて考えこんだ。
まあ確かに、自分にウソをついたって何にもならないが。
それにしたってこの男は幽霊を当たり前に許容している。それ自体が普通じゃない。
自分と同じような霊感体質をもった人なのだろうか…

「アンタ、こいつに何かするつもりなんか」
「何かって、なに?」
「分からんけど…でも、用があるからここに来たんやろ?」
「うん、それはそうかな」

「こいつ多分事故に遭ったんや。頭半分潰れてるし、手足も折れとる」
「……そう」
「これ以上ひどい事せんといたってほしい。助けられんけど、そっとしといてやりたいんや」

敵か味方か判別しかねる相手だったが、郁実はぺこりと頭を下げた。
「お願いやから」と男の目をまっすぐに見つめ、さらに頼み込む。
馬鹿みたいに正攻法なやり方。
だがせめてこの子供の霊を守ってやりたいと思った。これ以上傷つけたくなかった。


そんな郁実に男は驚いたように目をみはったが、やがてくしゃりと表情を崩して笑った。
「優しい子に育ったね…」
「え?」
「お祖母さんの躾が良かったんだな。俺たちじゃ、結局甘やかすばっかりだったろうし…」
「なに…なんで…俺のこと、知って…?」

はぐらかすように微笑む、見知らぬはずの男。
だが郁実はここでやっと、彼が 『用がある』 のは幽霊でなく自分の方かもと思い至った。
掠れた声で、「アンタ…ほんまに誰なん?」と問いかける。

不思議と怖くはなかったが、とまどう気持ちは大きかった。
同じように霊感のある人間にそう簡単に出くわすとは思えない。何かあるはずだ。
だが男は、どうやらこの場では郁実に正体を明かす気がないようだった。

「ま、それについては後で全部説明するよ。長い話になりそうだから」
軽くいなすような言葉に、郁実は反抗的な気分になり男を睨みつける。
だが、それすら予想していたかのように彼は、ごめんごめんと拝むような仕草をした。
「とりあえず今はそれで納得しといて。逃げたりしないよ」とも。



「それより郁ちゃん、この子を助けたい?」
「……っ!」
祖母のことを口にした以上、この男が自分を何らかの形で知っているのは予想できたが、いきなり
名前を呼ばれて心臓が跳ねた。

(郁ちゃん、て…)
今までそんな風に呼ぶ人間はいなかった。それに、ちゃん付けの呼び方なんか大嫌いだ。
なのに、なんでこんなにしっくり馴染むんだろう。
瞼の裏がじわっと滲むぐらいその呼び声は胸に響いた。泣きそうになる。

(……なんで、そんな呼び方)
かき乱された胸の内を隠そうとするように、郁実は強い眼差しで男を見上げた。

「助けたい?って言われても、誰がどうやって助けるねん」
「うん、郁ちゃんがね、俺に力を貸してくれたらこの子送ってやれるよ」
「送るって、成仏させるってことか」
「まあ、そんな感じかなあ」
「でも俺、霊が見えるだけやで。アンタに貸す力なんかなんにもない…」

先刻、自分の無力さは噛みしめたばかりだ。
彼にどんな力があるとしても、自分に何かができるとは思えなかった。
だが、男はものすごく楽しいことが始まるみたいな顔をして、郁実の手をひょいとすくい取った。

「とりあえず、ちょっと見せて」
「見せてて…ちょっ…なに人の手握りよるんやヘンタイ!!」
「ヘンタイはないでしょー俺、郁ちゃんに直接触らないと見えないんだから」
「意味分からんわ!ていうか、なんで恋人つなぎやねん!?」
「へえこれ、恋人つなぎっていうんだ。これから毎回これで行こうかな」

色男は指を絡めて握りこんだ手を、上機嫌でぶんぶん振りまわす。
その笑い顔はやたらと開けっぴろげで、郁実はいろんな意味で負けそうになった。
何にと言われても、いろいろだ。
とりあえず、自分が美形なのを気にもとめないような子供じみた笑顔に毒気を抜かれる。

「いやまあ、俺としてはもっと別の所を触ってみたいんだけど、手で我慢してるんだよ?」
「なんやねん、そのいかにも譲歩しました的な言い草は!?」
「あ、郁ちゃん、今やらしーこと考えたね。やらしー」
「くっそ…中学生にセクハラで逮捕されてまえ!明日の朝刊に実名で載ってこい!」


ぎゃんぎゃんと郁実は喚いたが、しっかりと繋がれた手から微かに流れ込むものを感じて首を
傾げた。
体温とかそういうんじゃない、何か。
流れ込み、廻り、混ざって、そしてまた彼の元へと流れ出してゆくような感覚。
(循環しとる……?)

「……あ、来た来た」
ぎゅ、と一層つよく手を握り込まれ、なんだか途方に暮れたような気分で男の横顔を見上げた。
初めて会ったのにどうして、郁実より郁実のことを知っているのだろう。

ただ分かるのは、この男が郁実の力を忌避すべきものと考えていない事だった。
それが、ささくれだっていた心をそっと癒す。
誰かに知られて、怖がられたくなかった。
だけど、訳の分からないこの力を一番恐れていたのは、本当は郁実自身だったのだ。

「……郁ちゃん」
「…え!?あ、な…なに!?」
「こんなに見えてるの、いつも…全部が?」
「全部って…幽霊のことか?うん、分かりやすく怪我とかしてない奴は、普通の人間と見分けがつか
んねん」

(ていうか、ほんまに俺に触ったら見えるようになっとる?)
先刻までは漠然とした目線のやり方だったのに、今は膝を抱えて座る子供の霊の顔ををしっかりと
とらえている。
彼は、ひどく緊張した面持ちになっていた。
こんなん初めて見たんならびっくりしたんかもしれんな、と郁実は気の毒になった。
霊には申し訳ないが、グロであることは否定のしようがない。

「俺の力が強いのは、郁ちゃんの力が強いせいじゃないかと予想はしてたけど」
「え?」
「いや、もっと早く来るべきだった。こういうの見えて怖かっただろ。誰にも言わなかったの?」
「……言わんかった」
「郁ちゃんは、自分の事は自分で解決しようとするもんな…」

なんでそんな事を知っているのか。
だが、こちらの気持ちを和ませるように優しく笑いかけられると、たくさんの疑問がまるで意味のない
事のように溶けてゆく。

川はさらさら流れているし、夕日は長くうねった道をオレンジ色に染めあげている。
子供の霊も、不思議そうに郁実と男を見比べていて。
さっきまでと何も変わってはいないのに。
繋いだ手は、なにかができそうな予感を簡単に郁実に抱かせてきた。
根拠も、理由もあったもんじゃない。



その時だった。

「あるじ〜あきひとさま〜開ーけーてーーー」
男が繋いだ手とは別の側に持っていた籐のバスケットから、謎の声が響いたのは。
あまりのことに、郁実は「ひぃっ」と離れようとしたが、がっつり繋がれた手はほどけない。

それだけではなく、中から何かが蹴ったり暴れたりしているようで、次第に持ちにくくなったらしい
男は「やれやれ…」と呟きながら、いったんバスケットを地面に置いた。
それでもまだ、中のものの暴れるのに合わせてバスケットは微妙に動いている。

「ちょ…な・なんかおるで。何入れとるん!?ていうか、しゃべってんねんけど!?」
「ああ、大丈夫大丈夫。害はないからね」
「目の前におる霊よりおかしなモン見せられて、害がないとか思えるかアホー!!」

「主〜アンタ、なに一人でカッコつけてんですかーいい加減にしないと呪いますよ〜」
「おまえに呪われたらホントに死ぬから嫌だな」
「出せ言うてるのが分からんのか、このクソ主がー!」
「はいはい、分かったよ。血気盛んだなあ……誰に似たんだか」

そう言って、男はちらりと郁実の方を見ておかしそうに笑う。
え、俺?なんで?と思う暇もなかった。

地面に置かれたバスケットの留め金がパチンパチンと外された瞬間、バーン!と叩きつけるような
勢いで上蓋が開いた。
目にもとまらぬような速さで地面に降り立った白い塊を見た途端、郁実は思わず呟いた。
「あ、雪うさぎ…」

その感想は、よく考えればひどく間抜けなものだった。
雪うさぎというのは、実際に雪で作ったうさぎのことだ。生きているうさぎの種類ではない。

だが、真っ白な、本当に純白の小さなうさぎは、郁実の言葉に耳をぴくぴくっとそばだてた。
真っ赤なびろうどのリボンに金色の鈴をつけているのが可愛らしい。
だがあれほど暴れたくせに、さっきからその鈴が一度も鳴らないことに郁実は気づいていた。

(こいつが、さっき喋っとった?)
じいーっとこちらを見上げてくる赤い目が、こぼれ落ちそうなほどうるうるしている。
郁実のリアクションを待っている…気がする。
できれば腹話術かなんかやと思いたい…と切に願ったが、一応はうさぎににっこりしてみせた。

その瞬間。
「いくみさまーーーー!!!!!」
「うおぁああああ!!!?」

雪うさぎは地面を蹴り上げ、イキナリK点越えの大ジャンプをかました。
そのまま郁実の学生服の胸のあたりにしがみついたが、ずるずるっと腹のあたりまで落ちてくる。

「危ない!落ちる!落ちるって!アンタちょっと手ぇ離せ!」
うさぎを両手で抱えてやりたくて、繋がれたままの右手を振りほどこうとしたが、男は「ヤダー」と
そっぽを向いている。
仕方がないので、左の掌でずり落ちてきたうさぎを受けとめた。
最初に思ったよりもずっと小さかった。ほっとしながらなんとか持ち上げる。

「こら、おまえ、危ないやろ!落ちたらどないすんねん!」
「あぁ、郁実さま、どんなにお会いしたかったことか!ユッキーでございますよ!お小さかったから
覚えておられないんでしょうね…くぅっ…なんて口惜しい……」
掌の上で激しい身振り手振りでしゃべり、むせび泣く白いうさぎの姿に、郁実は遠い目になった。

現状を整理してみると。
自分の右手は、霊が見えている(らしい)見知らぬ色男が掴んで離そうとしないし。
左手には超ハイテンションの喋るうさぎが鎮座している。

(俺の平凡な日常は、いったいどこへ消えてもうたんや…)
もうアカン…と、やや絶望的な方向へ気分が傾いた。
5分ほど前、幽霊が見えるというだけであんなにも悩んでいた事が懐かしい過去に思えてくる。


「こんなに大きくなられて!椿さまにそっくりですねえ」
「え…うさぎさん、俺の母さんを知っとるん?」
「ちょ…主、聞きました?うさぎさんですって!郁実さまカワユス!」
「もー郁ちゃん、マイナスイオン出しまくりだよな」
「そんなもん出とったらビックリするわ。おまえら人を何やと思とるねん!」

三人が三人とも好き勝手な事を言っているうちに、夕日がだんだんと傾いてきた。
道には長い影がのびている。
それに気づいたらしい男は「あ…まずいな」と呟き、郁実の手に乗ったうさぎに話しかけた。

「ユッキー、人避けも兼ねた結界張って。日が暮れる前にこの霊払ってやらないと」
「了解です。見ててくださいね、郁実さま!」
ぴょん、と郁実の手の中から飛び降りると、うさぎは二人から少し離れた位置まで駆けてゆく。
その小さな背中は、まさにやる気マンマンであった。

「え、え…ほんまに成仏させんの?俺どうしとったらええん?どっか行っとこか」
「郁ちゃんはどこにも行っちゃダメだよ。ここに居てくれるだけで、俺とユッキーはすごい力を出せる
んだから」

繋ぎっぱなしで忘れていた手を、男はまたひょいと持ち上げた。
そんな仕草ひとつもひどく優雅で、映画の中のワンシーンみたいに見える。

「循環してるのは、感じる?」
「う…うん。アンタからもあのうさぎからも、なんか流れたり混じったりしとった」
「それ、やってるのは郁ちゃんだから。郁ちゃんのもうひとつの力」
「俺の…?」
「うん。俺とユッキーは個々の力がどんなに大きくても、郁ちゃんが循環させてくれないと半端な
ものにしかならないんだ。今まで潜在的な力のほんの一部しか使えたことがないと思う」



「スタンバイOKでーす!主、ちゃっちゃといきますよー!!」
ユッキーはきょろきょろと左右を確認してから、体に似合わない大声でそう叫んだ。
男が片手をあげると、チリーン…チリーン…と澄んだ鈴の音が高くひくく周囲に響き渡る。

雪うさぎが、前足をとんっと勢いよく地面につけるのが見えた。
途端に地面に発光する複雑な模様がうねり、ざあっと流れるように広がり始める。

「うわっ!?」
「大丈夫、あいつは郁ちゃんを傷つけたりしないよ。怖がらないでやって」

白い光で編まれた美しい模様は、郁実たちの足元までもさらって広がるとやがて立ちあがった。
それを見て、この力が小さな部屋のように自分たちを囲みつつあるのだと郁実にも分かる。

(あ…閉じる…)
チリーン…とひときわ高い鈴の音と共に、小さな空間が完全に閉じたのを感じた。
なんとなくだが、『生きている世界』 とは遮断されたような気がする。
だとしたら、ここは死に近い場所なんかな、と郁実は考えた。
妙に落ち着いている自分がなんだかおかしい。
今ここに存在するのは、郁実と男と雪うさぎ…そして子供の霊だけだ。


密封された空間では、激しい循環が起こりかけていた。
手を繋いだままの男と郁実は、ユッキーの作りだした結界の一部を踏んでいる。
そのせいで三人の力は郁実を通じて混じりあい、ひとつの大きな力へと変貌していった。
足元から熱風のようなものが吹きつけて、前髪が煽られる。

男は空いている右の手で、懐から文字の書かれた札のようなものを数枚取りだした。
最初はぺらぺらだったのに、力が通ったのか白く発光し、ぴっと立ちあがる。

「すごいな、これほどとは思わなかった」
結界内に溢れる力に感嘆したように呟く男に異議を申し立てたい郁実だったが、自分の中を通過
する力にあてられて最初は声も出なかった。
ものすごい船酔いに見舞われたような感覚だったのだ。

だがそれにもだんだん慣れてくると、今度は別の気持ち悪さに気づく。
なんというか、右からも左からももっと大きな圧力を感じるのだ。
それにガンガン扉を叩かれている。男もユッキーもそれが分からないのだろうか。


「さあ、いい感じに力も満ちたし。ここからは俺の出番だな」
どうやら本格的に除霊を始めようとしているらしい。快い緊張が彼を取り巻いているのが分かる。
だがそんな男に向けて、郁実は大声で怒鳴った。
「コラー!こんな詰まったフロの排水管みたいな状態で満足そうにすんなー!!」

めったなことでは動じない感じのする男が、びっくりしたように郁実を見た。
その間にも、郁実は大量の力のせめぎ合いで頭がクラクラするのを必死で堪える。
ここに居るだけでいい、なんて大嘘だ。初心者をどれだけ酷使するつもりなのか。

「くっそ、アンタもあのうさぎも、なんちゅー力やねん…」
「……郁ちゃん?まさか、まだ循環しきってないとか言うんじゃ…」
「詰まりまくっとるわ。多分やけど…まだ3割ぐらいしか循環しとらんで……」

唸りながらも、どうしたらいいのだろうと郁実は必死で考える。
これはきっと循環させている自分にしか分からない感覚なのだ。他の二人を頼れない。
この男とうさぎに通じている左右の扉。
それをもっと開けたらいいんや、とは思う。それは本能的に分かる。
(鍵…鍵みたいなもん……俺の目に見えるもんさえあれば…)

突然あることを思いついた郁実は、繋いでいた男の手をぐいっと力づくで引っ張った。
左手で彼の腕も掴み、自分の方を向かせて必死な口調で問いただす。

「アンタの名前!どういう字で書くねん!?」
「え、字って漢字のこと?」
「当たり前や。見えてないとアカンのや、俺には分かっとる。はよ言え!」

力にあてられて俺が気絶する前に、と言いかけたが、歯を食いしばってやり過ごす。
まだここでぶっ倒れるわけにはいかない。
男は一瞬ひどく心配そうに郁実を見たが、やがて小さく名前の文字を告げた。


腹をくくった郁実は、美しい模様に彩られた結界の頂上を見上げ、きつく目を閉じた。
視界が閉ざされると、余計に感じる。
右からも左からも、とめどなく押し寄せる力の奔流。
だがこれは決して自分を傷つけるものではない。だから怖がることはない。
ただ混じりあって、ひとつの力になりたがっているだけなのだ。

自分なら、それをかなえてやれる。

瞼の裏に文字を刻みつけるようにして、名前を描いた。
結界を作ってくれている雪うさぎ <ユッキー>
それに霊視の力を交わらせ、循環させる自分 <郁実>

……そして、この男は、本当はどんな力を持っているのだろう…?
繋いだ手をつよくつよく握りながら、郁実の口元には不思議な笑みが浮かんでいた。
どんなぶっつけ本番やねん、と責めたくもなる。
だが、何が起こるのか知りたがってドキドキしている自分ももう隠せない。

「明仁<あきひと>」
最後の名前を瞼に閃かせると同時に、郁実は声に出して呟いていた。



三人を隔てていた扉が、文字どおり砕け散る。
ゴオッと炎のようなものが、すさまじい速さと激しさで結界内のすべてをなめ尽くした。
灼かれているのに熱くない。
ただひと色の、純粋な激しい力。
これがあるべき形だと、郁実は心のどこかで確信していた。

「うん、そうだよ。だから俺たちは、決して離れてはいけなかったんだ」
まるで郁実の心の声が聞こえたように、隣で明仁が静かに応えてくれる。
ひとりひとりは違う存在でも、今この瞬間だけはひとつでいられる。そんな歓び。
もしくは、憧れ。

そっと目を開ければ、結界内は眩しい金色の光に満ち溢れていた。
明仁が右手に持つ札も、金色の炎を帯びている。
この世には完全なものなどないけれど、この場所は完全に近い。そんな気がした。


三枚の札は明仁の手を離れ、子供の霊の周囲に等間隔でふわりと浮いた。
不安そうにこちらを見る子供に、郁実は励ますように笑いかけてやる。
きっともうすぐこの苦しみは終わる。彼が終わらせてくれる。

「解<カイ>」
明仁は二本の指先を、子供の霊の額に触れるか触れないかの位置に留め、そう囁いた。

結界内に三人の力が融合している今、郁実にはその言葉の意味がはっきりと見えた。
瞼の裏側に、ぱっと閃く文字。
この魂を束縛するものから解き放つ、そういう力。

「廻<カイ>」
子供の負った無惨な傷が、金色の光をまとってだんだんと癒えてゆく。
いや、本来あったはずの姿に戻っていっとるんやな…と郁実は思った。
これが明仁の力だ。消すのでも排除するのでもない。回帰させるためにこそ発顕する。

廻る、廻る、運命の輪。
そこにもう一度組み込まれたら、この子はいつかまた新しい生を得ることができるのだろうか。


「もう…お別れなんか…?」
「うん、もうすぐね。顔をよく見ておいてやって、郁ちゃん」
「そやな…」

傷の癒えた子供の体にどんどん金色の光がまとわりつき、輪郭がぼうっと霞んでゆく。
郁実は思わず子供に向かって手を振った。
それに気づいて子供も笑って手を振り返す。また明日、とでもいうような仕草だった。
新しい明日に。

「開<カイ>」
最後の呪文と共に、三枚の札がぱあっと燃えあがり跡形もなく消滅した。
結界の頂上が開き、ほどんど金色の靄のように変化した子供の霊はそこへと昇っていった。
ゆっくり、ゆっくりと。

「あいつ、どこに行くん?天国?」
「さあ…俺にもよく分かんないんだけどね」
「分からんのか。結構えーかげんなんやな」
「うんでも…安らげる場所に行ったんだよ、きっとね」

子供の霊が完全に消えたあとには、ぽっかりとオレンジ色の空がのぞいている。
郁実は眩しげに目を細めながらも、それに魅入られるように立っていた。
自分まで生まれ変わったみたいに思える、なんて言ったら笑われるだろうか。

「結界、解除します」
ユッキーの声と同時に、金色の結界は外側に向けて薄いガラスが割れるような音を立てて砕けた。
雪片のように降ってくる、あのうさぎの力。
手のひらでそれを受け止めると、本当に雪のようにふわりと溶けた。
なのに、残った感触は何故か温かかった。



チリーン…チリーン…とまた鈴が鳴って。
それをきっかけに現実の音が突然どっと戻ってくる。いや、こちらが生者の世界に戻ったのか。
体の奥の奥からほうっと息を吐きだしたと同時に、足の力が抜け落ちる。
立っていられなくなり、郁実はその場にへたり込んだ。

「郁ちゃん!」
この時、繋ぎっぱなしだった手がようやくほどかれた。
ずっと流れていた力が途切れ、右手がどうしてか寒いように感じてしまう。

スーツが汚れるのも構わずに、目の前で明仁が膝をつくのが見えた。
「しっかりして、郁ちゃん」
似つかわしくない慌てた手つきで郁実の体を支え、揺さぶる。ちょっと痛い。

「郁実さまー!!」と叫びながらユッキーが駆け戻ってきて、郁実の膝にかじりついた。
迷子が親にやっと会えたみたいにぎゅうっとくっついて離れない。
おまえら、そんなに俺が心配やったらちょっと手加減してくれ、と郁実は心の中でぼやいた。
(どんな実践主義の特攻チームやねん…)

なのに胸の中はスッキリ晴れてしまっている。もう笑うしかないような気分だ。
膝の雪うさぎを抱きよせ、目の前の男の腕をつかみ「俺、ちゃんとできたやろ?」と訊くと、頷いた
明仁の目が少し潤んだような気がした。

「すごいです!何もご存知ないのにあれだけの力を出せるなんて、郁実さま!!」
「いや、もし次があるんやったら、打ち合わせというモンを導入してくれ…」
へろへろになりながら訴える郁実の髪を、頬を、明仁の手が不安げに撫でてゆく。
ここにいる郁実が本物か、今さら自信がなくなったような顔をして。

なんだかなーと思う。
それを黙って許している自分は絶対どうかしてる。
でも拒めないのだ、どうしたって。
最後に指先が、左目元にある泣きぼくろをすっとなぞっていくのが分かった。

「やっぱり残ったんだ、これ…」
「え?」
「いや…ここまで一人でがんばってほんとに偉かったね、郁ちゃん」

慈しみに満ちた声。
子供扱いされるのはしゃくにさわるけど、もう一人で秘密を抱え込まなくてもいいらしい。
そのことが郁実に深い安堵をもたらしていた。
さっき霊を払った時だけじゃなく、一人で悩んでいた時間までも 『がんばった』 と認めてもらえた。
それが嬉しくて意地をはる余地すらない。

(まだこいつらが誰なんかも分かってへんのに…)
表面的な事は知らないのに、中身だけ分かってしまったような妙な感じだ。
説明するとは言っていたけれど、この後どうするつもりなのだろう。


「暗くなってきたしもう家に帰ろうか、郁ちゃん」
そんな郁実の逡巡をするりと読みとったように、明仁が手を差し出して言った。

いつまでも座り込んでいる自分が気恥かしくなり、何とか一人で立ち上がると、学生服の汚れを
パンパンと手で払う。
どうにも、この男のペースに巻き込まれている。
優しくされる事にすごい勢いで慣れつつある自分がなんだか怖い。

「家って…俺の家のことか?」
「うん。俺とユッキーをお父さんに会わせてくれるかな。必ず会ってくれるから大丈夫」

訊きたいことは山積みだった。
だが抱きあげたユッキーが、「郁実さまのお家!行きましょう、楽しみにしてたんですよ!」とねだる
ので、もう今いろいろ考えるのが面倒になる。



二人と一匹で、幽霊のいなくなった小さな橋を渡った。

自分に巣食っていた寂しさも、あの霊と一緒にオレンジ色の空に昇って消えてしまったようだ。
寂しい子供はもういない。
そう思うと、郁実の胸にはほっこりとした温もりが生まれた。
知らず浮かんだ微笑みを明仁とユッキーが見つめ、彼らもまた幸せそうな顔になる。

そうやって、再びすべては始まった。
生と死の象徴である川の流れをゆっくりと越えてゆく、彼らの歩みとともに。





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