夢を見ていた。平凡でありきたり、だが思うだけでも涙が出そうな情景だった。

体のほとんどをサイボーグ化しているとはいえ、脳が生身である以上、眠るし夢も見る。
ただそういう場合、普通は失くした家族が出てくるものかと思っていた。
だが、ジェノスの夢を占めるのは、いつもサイタマとの日常におけるささやかな場面ばかりだった。


師の部屋に居座ったその夜、早くも考え方の相違で言い合いとなった。
これしかねえけどと余分な掛け布団を貸してくれようとしたサイタマに、ジェノスは必要ありません
と言った。
自分はほとんどが機械で、床にそのまま寝ても寒くも痛くもありませんからと。

今考えると、まず自分の言い方そのものが失礼だったのが分かる。
悪気はなかったのだ。ただ単に不要、それだけだった。それがない事を何とも思っていなかったし、
それを差し出してくれる人もずっといなかった。
自分が人らしく扱われること。自分を人として扱ってくれる誰か。

忘れてしまっていたから、サイタマが延々と同じことを説くのもよく分からなかった。
困惑する自分に、師は毛のない頭をガリガリ掻きながらとうとうこう言った。
『あのな、俺が嫌なの!お前が寒くも痛くもないとかは関係ねーの。俺にはそういう風に見えるし、
そういう奴が横で寝てる、それが嫌なんだよ』
『先生…』
『あー要するにだ。想像しろ。俺にお前がどう見えてるか。ここに住むつもりならな』


その夜、サイタマの貸してくれた布団にくるまり、ジェノスは小さく縮こまって言われた事をよく考えた。
想像しろと師は言った。
彼の目に映る自分。鏡に映した自分。
生きているくせに色んなことを放棄したその姿は、我ながらひどく醜悪だとハッとさせられた。

例えば、人は部屋に花を飾ったりする。
それはなくても困らないし、死んだりもしない。
だがとても目に美しく色や香りは心和ませてくれる。そういうものだと覚えている。
人と暮らした経験があるなら想像できるだろうが、先生はそう言いたかったんだろうかと考えた。

この部屋にはサイタマなりの快適があるのだ。
それを不要だと言い放ってしまった。
無理やりここに乱入した上に、師を不愉快にさせてどうするんだと、思い至れば恥ずかしさで死にそう
になった。

『俺が嫌なんだ』 という言い方は、なんだか好きだと思った。
この人は、たとえ世の中の人間の全てが違う考えでもそう叫ぶのだろう。
自分の形すら曖昧になっていた時期だったから、まるでワンパン食らったようにそれは鮮烈に響いた
のだ。

(明日からは、先生が快適であるよう心を配ろう)
そう決めると、急に隣で眠る師の寝息がよく聞こえるようになった。
安心して肩の力が抜けたからなのだと、その時はまだよく分からなかった。

翌日 『先生、場所をとりますが布団を買ってきてもいいですか』 と尋ねると、師は漫画本から顔を
上げもせずに 『ん。重ねたら問題ないんじゃね』 と答えた。
だが、布団や枕と一緒に買ってきたスリッパを見ていたのをジェノスは知っていた。
自分の事を気にして下さった、と嬉しかった。そんな風にしてすべては始まった。



日々は目まぐるしく過ぎていった。停滞していたものが一気に流れ出たようだった。
師のために食事を作り、向かい合って一緒に食べる。洗濯や掃除もする。
初日に持って行った金は突っ返されたので、自分に出来ることを考えた結果だった。
最低限の家賃や光熱費、食費は受け取ってくださいと迫り、なんとかサイタマを頷かせたが、使っ
てくれているのかはよく分からない。

つまりハッキリ言ってしまえば貧乏だった。
だがジェノスは同じ間違いを二度も犯さなかった。先生がこれでいいと思っておられるのだから、
この予算内で楽しく暮らせばいい。
一度そう決めてしまうと、やる気が出た。やりくりは結構性に合っていた。

師と二人でスーパーのタイムセールに行き、安い食材を手に入れると、今日はこれで何を作ろうか
と考えた。
何ごとにも興味の薄そうなサイタマだったが、好物が食卓にあると嬉しそうな顔をする。
日々のジェノスの働きに、たまに 『ありがとな』 『サンキューな』 と頭をポンと撫でてくれたりもした。

一人暮らしが長かったらしいサイタマは、家事も一通りできるようだ。たまにキッチンに来て、『今日
の晩飯、俺が作るわ』 と言う時もある。
師の作ってくれるものは美味しくて、ジェノスは自分に相談もなく物を食べる機能をつけたクセ―ノ
博士と口論した時のことを思い出した。
(俺はあの時も、博士にこんな機能は不要だと言ってしまった…)

だが今は感謝している。サイタマと向かい合い、彼の作ってくれた料理を食べられる。
それはとても楽しいし、嬉しくて、温かい。自分の中の頑なさがほどけるような感覚。
『オヌシが少しでも人らしく生きられるようにと思ってな』
今度博士に謝らないといけないなと思った。なんじゃ今さらと笑われるだろうか。生きていると恥ずか
しい事が多すぎて困る。



また情景が変わった。
サイタマが何も分かっていない市民たちに罵声を浴びせられたり、時には本当に物を投げつけられ
たりしている。
そして自分は手を出したり大声で言い返したりしたいのに、木偶の坊のように突っ立ったままだ。
師が、そんなことを望まないと知っているから。
悔しい。悔しい。悔しさで頭の中が焦げつきそうになる。

(お前らの命を救ってくれたのは先生なのに!!)
(何故、苛立ちや不満を先生にぶつける)
(なんで今自分の目で見た事を信じられない!?先生の正義を分かろうとしない!?)

世の中には絶対に取り戻せないものがあるのだ。
それを守りたくて、ヒーローたちは自分のひとつしかない命を賭けて戦っている。
だが理解されないことも多かった。
ましてやサイタマは、自分が正しいと思った事を通すためならわざと汚れ役をかって出たりもした。

平然とした顔の師の後ろからとぼとぼとした足取りでついてゆく。悲しいしやりきれない。
こんな風で先生は大丈夫なのか。
世間から誤解を受けたままでいいのか。
インチキだの、ひどい奴だの、お前を応援する奴なんかいないとまで言われて、痛みを感じない
わけがない。
(いくら先生が強くて普通じゃなくても、報われないのはつらいことだ…)

と、先を歩いていたサイタマが急に振り向いた。手が伸びてくる。頬をムギュッと摘まれジェノスは
瞠目した。
『はは、イケメンが台無し』
『せんせ…?』
『ばーか、なんでお前が泣くんだよ』
『…先生、俺には涙を流す機能はついていません』
『そうか?まあいいや、うどん食って帰ろうぜジェノス』

そう言って、サイタマはまたさっさと歩き始める。マントがひるがえった。
ああ俺には自前の正義なんかないのだ。そうジェノスは思い知る。あるとすれば師のこの背中だけ
だった。

(先生、いなくならないで下さい)
(俺が追っていけないような所へ一人で行ってしまわないで)
(俺は…俺は、はやく強くならないと先生を見失ってしまう)

最初は復讐をとげるために強くなりたい、その願いだけを振りかざして彼の傍に居座った。
だが、今はおこがましくてもサイタマを知りたいし分かりたかった。
好きな人が孤独になるのを見ていられなかった。
圧倒的な力ゆえに普通の世界と乖離する一方なこの人に、自分はついて行けるのだろうか。

おかしなものだ。
好きと頭で理解するよりも先に、呼吸をするような自然さで恋をしていた。

想像せずともこんな想いは師の迷惑になると分かりきっていた。だが、彼の背に指を伸ばしながら
生きていてよかったとジェノスは初めて感じていた。
『うどん食って帰ろうぜ』
その不器用でワンパターンな励ましを、どんな愛の言葉よりも大切に思った。



夕焼けが視界を茜色に染める。
今度はたくさんの買い物袋をさげたサイタマと自分が並んで歩いている。
何度も何度も繰り返された光景だ。ジリジリと暑い夏の日もあったし、木枯らしの吹きすさぶ冬の日
もあった。

袖はどうにもならなかったが、冬場はニットの服を着てマフラーを巻いたり帽子をかぶってみたりした。
焼却砲で燃やしてしまうから、手袋だけは断念したのだが。
少しは暖かそうに見えるかと師を伺えば、ふはっと笑い 『なんかモコモコしてんな』と言われたものだ。

ジェノスは買い物帰りのこんな時間が好きだった。
他愛もない話しかしないが、サイタマと同じ家に帰るのは嬉しい。
『家』 だなどと言ったことはない。だが 『家路を辿る』 という言葉を思い出した。幸せな響き。

『なあ、ジェノス』
『はい。何でしょうか先生』
『あのな、別に答えなくてもいいんだけどよ…お前、復讐っていうの終わった後どうするか決めてんの』

言葉に詰まり、師の顔を探るように見た。彼は最初からジェノスの過去にあまり興味がないようだった
から、そんな事を聞かれるとは夢にも思わなかった。
今も世間話をしているような淡々とした表情で、朱や紫の混じる空を見上げている。
何か言わなければ、と焦った。先生を納得させられるような、何か当たり障りのない事を。

『申し訳ありません先生…全然考えてませんでした。終わるまで何年かかるかも分かりませんから』
『謝らなくてもいいけどよ。ふーん、そっか』
『でも選択肢はひとつできました。ヒーローを続けるという』
『ま、そうだな。お前なら他に何にでもなれそうだけど』


ジェノスはこの世の誰より愛している人に、ずっと優しい嘘をつき続けてきた。
サイタマは世間の諸々に関心薄くひどく面倒くさがりではあったが、あの小さな部屋で自分とありえ
ない程近しく暮らしてしまったのだ。
情が移ると言うではないか。犬猫でも一緒に暮らせば何らかの思いは湧く。

だから背負った重荷は決して見せない。自分が死んだ時、師があまり悲しくならないように。
(無理だろうか…先生は優しい方だから)

仇敵である暴走サイボーグと対決する時、ジェノスはどんな事があってもそれを破壊する気でいた。
憎しみの火は消えない。失ったものを思えば怒りは増すばかりだった。あんな事を繰り返させない。
だが同時に、きっとその時自分も死ぬのだろうと思っていた。
だからそこから先などはない。未来を思い描くこともない。

『でももし俺がヒーローではなくなっても、先生はずっと俺の先生です』
『別の仕事するようになっても先生って呼ぶ気かよ』
『そうです。俺が死ぬまでずっと』
『なんだよ、縁起でもねえな』

本当におかしな事を言ってしまったとヒヤリとした。気の抜けたような声と顔に騙されがちだが、師は
ジェノスの感情の変化に意外と敏い。
だから誤魔化すように明るい口調を作り、話を続けた。
スーパーのある地区は人も多いが、もうゴーストタウンに入った。しんと静まり返り、荒んだ雰囲気
のこの街。
だが夕焼けはどこも同じだ。平等に美しい。

『先生がご家族を持たれる日までは、なるべくお傍に置いて頂けたらと思いますが』
『家族?ああ、結婚するって事か?ねえよそんなの。こんな低収入のハゲんとこに来る女なんか
いねーし』
『そんな事はありません!』
『ジェノス?』
『今だって先生の素晴らしさを理解する者も徐々に増えています。いずれは優しい伴侶を得られて
子供もできて…そんな日がちゃんと来ます!』

(ああ、今日もまた俺はたくさん先生に嘘をついた)
そんな未来が来ればいいと師のために願う。その気持ちは本当だ。
だが見たくない。見なくてすむように、早く復讐を果たし彼の思い出を抱いて消えてしまいたかった。

それでも、出会わなければよかったとは思わないのだ。
幻のような敵をがむしゃらに追い求め、戦う事しか考えず、人である事を放棄していた四年がどんな
に苦しい日々だったか今は分かるからだ。

何もない自分のまま、死んだりしなくてよかった。
楽しいことや嬉しいこと。温かな食卓。助けた相手にありがとうと言われた瞬間。知り合った人々との
たくさんのやりとり。支えてくれた人への感謝。そして誰かを好きになるということ。
そんな形のないものたちで構成される 『強さ』 はここに育っている。

『まあなんだ。そう言ってくれるお前には悪いけど、今んとこ予定のよの字もねーな』
『それは俺が一番よく知ってます』
くっそ!とサイタマが軽く蹴飛ばす真似をする。すみません先生悪気はないんです、と笑い声を
あげた。


ゆらゆらと夢の中を漂い続けるうちに、二人で見た夕焼けの豊かな美しさがよみがえる。
『いい夢見ろよ』 と師が言ったから、決まって最後はここに辿りつくのだ。

あの狂ったサイボーグに立ち向かう時、自分は人間でなければならない。
機械同士では意味がない。
それに気づかせてくれた大切な人を、最後の一秒まで自分は想い続けるだろう。
(誓いますから、先生…)

鬼サイボーグと呼ばれる彼の口元が幸福そうに緩んだ。
それを熱心に見つめる者がいるとも知らず、子供のような無邪気さでジェノスは長い夢に身を浸し、
溺れた。



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