「今帰った。郁ちゃんの具合どうだ?」
「ああ、主、ご苦労さまでした。特にうなされているご様子もないし、大丈夫と思うのですが」


郁実の枕元にちんまりと座っていたユッキーが明仁を見上げ、小声でそう言った。
枕元といっても、居間で横にならせて軽い掛け布団でくるんだだけだ。
祖母に昔風に躾けられた郁実は、病気でもないのに昼間から横になるなんてだらしないと
思っているらしく、寝かしつけるのに一苦労だったのだ。


それでもとにかく眠らせてよかった。
しゃがみ込んで郁実の額にそっと掌を触れさせたが、波動が乱れている感じもなく、今は
こんな場所でも熟睡できているようだ。
ほ、と明仁は無意識に安堵の吐息をもらした。
どんな事にも冷静に対応できるよう修練を積んできたくせに、我ながら情けない。
だがこんな時に冷静でいられる自分を想像しても、誰だよコイツという感じではある。

(朝食のあと郁ちゃん寝かせて、片づけものをして、俺が買い出しに行ってたから2時間…)

本当はもう数時間眠ってほしいものだが、どうだろう。
無言でそのまま明仁も座り、ただ郁実へと視線を流す。不安に蝕まれる。
何が原因かまだ分からない。
分からないから嫌なイメージばかりが増殖する。怖い、と思う。



数時間前、土曜日なのでいつもより少し朝寝をした明仁はようやく起き出すと、台所で朝食
の準備をしていた郁実におはようと声をかけた。
いつもの休日の風景。
だが郁実は眠そうに目をしょぼしょぼさせていて、動きもなんだか危なっかしい。

傍らではユッキーがおろおろと郁実を見守っていた。
明仁の顔を見るやいなや、『主!郁実さまから包丁を取り上げてください』と訴えてくる。
味噌汁に入れる豆腐を手の上で賽の目に切ろうとしていた郁実から、豆腐も包丁も慌てて
回収した。

『郁ちゃん、どうしちゃったの。気分が悪いの?』
『いや…どっこも悪ないで…ただちょっと…ちゃんと眠れんかっただけやねん…』
『ちゃんと眠れなかった…って何?どういうこと』

言われたことへの反応も遅い。
問われたことをよくよく考えてから今度は答をしぼり出そうとする郁実を、明仁は気遣わしげ
な表情で見やった。

『急いでないよ。ゆっくりでいいから』
『んー…』
『全然眠れなかった?』
『いや…寝るのは寝たんや。ただ夢ん中にあれがおって…朝まで消えてくれんかったから、
寝た気がせーへんっていうか…』

『あれって何…郁ちゃん』
背中に冷たいものが流れるような心地で明仁は問いかけた。
まさかこの家の中で、と思う。
この家はユッキーの水も漏らさぬような結界に守られているのだ。
かつてどの使い魔も持たなかった完璧な守護を、ユッキーは郁実のために身につけた。
それは、この家が郁実にとってどこより安全であるようにという願いからだった。
ありえない……だが。

『赤い可愛らしい着物の、小さい女の子やった。お人形みたいな…』
『郁実さま…それは』
『うん…悪いものって感じはせんかったけど……あれ多分霊やと思う…』




(俺、郁ちゃんが眠ってるとこ見るの、ほんとは苦手なんだよな…)
膝を立てて座り、すうすうと寝息をたてる郁実の顔を見つめながら、明仁はひとりごちた。
理由ははっきりしている。
よく似た面差しの、郁実の母親の死に顔を思い出すからだ。
我ながらネガティブすぎるとは思う。
だがもしこの子が失われたらと考えるだけで、自分は足元すら覚束なくなる。

(そんな事にならないよう、修行してきたんだろうが)
細に知られたら「未熟者め」と一喝されることだろう。
だが、死が残酷で理不尽なものだと一番知っているのも自分たち霊能力者だった。

畏れも恐れも忘れてはならない。
強くそう噛みしめながら、明仁は愛している人の頬へまたそっと手をのばす。
ほんのり差した赤みと温もりに触れると、ガチガチになっていた自分の体もほどけていく
ような感覚が得られて、ほんの少しだけだが微笑みが生まれた。

「ああ主、やっとマシな顔つきになりましたね」
「なんだよ、お前だってテンパってたくせによく言うよ」
「まあそれは否定しませんがね…郁実さまはお小さい頃から主がへこむとすぐに感づかれ
るんですから。見てくれだけでも平気な顔をしててください」
「……そうだった。悪い」
「うっわ…素直な主ってなんかキモーイ」
「お前な…俺をどうしたいんだよ、いったい」



まぜっかえすユッキーと憤然とする明仁のやりとりが届いて、ふ…と郁実の意識は表層
へと浮かびあがった。
浅く瞼を開ければ、すぐに明仁の顔が見える。
(ああ…心細そうなカオさせてもうたな…)
一番最初に、そう思った。
どんなに取り繕われたって、自分に明仁のことが分からないはずがない。
それは考え理解するというよりも勘に近くて、光みたいな速さでひらめくものだ。

ごめんな、と告げたかった。だが、明仁もユッキーも郁実に謝られる事など望まない。
だからこんな時、どう言えばいいかすごく難しくて困った。
(俺が子供じゃなかったら、なんか気のきいた事が言えるんかな…)

「あ…郁実さま。起きられたんですね!」
白いふわふわの雪うさぎが嬉しげな声をあげたので、郁実は薄い布団から片手を出して
その体を柔らかく抱き寄せた。
それから、優しげに目を細めてこちらをのぞき込む人の名を呼ぶ。

「……明仁」
「いいから、そのまま横になってて」

起きようとしたのを留められ、郁実は枕代わりにしていたふたつ折りの座布団にまた頭を
埋めた。確かに寝起きすぐに動くのは辛い。
明仁の指が額にかかった髪をさらさらと梳いてゆく。気持ちがよかった。

「どんぐらい寝とった?」
「2時間ぐらいだね。見たとこよく眠れてたみたいだけど、夢にヘンなもの出なかった?」
「うん。大丈夫や、よう寝た」
「ユッキーがずっと見張っておりましたからね!郁実さまに何も近づけやしません」
「そっか…ありがとうな」

雪うさぎの背を撫でながら、さっきはアカンかったけど今ならまともに物が考えられそう
やな…と郁実は思う。

「霊障は受けてへんよな、俺?」
「ない、というのが今の時点での俺の答なんだけどさ。夢に出たものが郁ちゃんの言う通り
霊なら、楽観はできない」
「でも、ただの夢かもしれんし、俺の勘違いかもしれんで」
「それならそれでいいのですよ、郁実さま」
「そうそう。何でもなかったのなら、それが一番いい」

ただね、と明仁は慎重に言葉を選びながら郁実に言った。
怖がらせたくはないが、郁実も自分の能力の強さは自覚していかねばならない。

「今までに俺たちには判断がつかなくて、でも郁ちゃんが『あれは霊だと思う』って言った
ものが、そうじゃなかった事は一度もなかっただろ」
「う…それは」
「確率の問題ですね。今までの事例が100%である以上、軽く扱うべきではないと」
「ううーん…そうやな…」

黒いおかっぱの髪と黒い瞳、赤い着物を着た女の子。まだ5つか6つぐらいに見えた。
想念が凝り固まって悪い霊になりかけているものは、郁実には何となく分かる。
あの子が本当に霊だとして、悪いものではないとそう思った。
明仁とユッキーが郁実の直感に重きを置いているなら、それも重要なのかもしれない。

「うん…油断したらアカンっていうのは分かるんやけど、どうもな…ユッキーの結界の中で
俺に干渉できる霊がおるっていうのが信じられへんねん」
「まあそれは俺も正直びっくりしてる」
「入られへんやろ、この家の結界の中には。霊と名のつくもんは蟻の子一匹通さんような
もんやって、じいちゃんも褒めとったし」

主二人が自分への信頼をちゃんと言葉にしてくれたので、ユッキーは誇らしさではちきれ
そうになった。
郁実がふいによいしょと上半身を起こし、自分を抱きあげ ぎゅっとしてくれる。
長い耳をぴるぴるっと震わせれば、喉元にそれが当たったらしく「くすぐったい、ユッキー」
と笑われた。
濁りのない、明るい声音。
ああ、なんて愛しいのだろう。この人の全てを自分は守らねばならない。


「まあ今は様子を見るしかないか。土曜日なのに可哀想だけど郁ちゃん、今日は家の中に
いてくれるかな」
「うん、分かった」
「その子供がまた出るようだったら、俺が郁ちゃんの夢に入るから心配ないよ」

さらっと明仁が告げた言葉に郁実は目をまるくした。
「夢に入るって…そんなことできるんか明仁」
「できるよ」

こういう時、明仁は多くを語ることがない。ただ何でもないようにできる、と言う。
その静かな自負が、どれほどの修練に裏打ちされているのか知りたかった。
そんな思いを込めて年上の従兄を見たけれど、明仁ははぐらかすように微笑むだけだ。

「そんじょそこらの術者に使える方法ではありませんがね。主にとって郁実さまは近しい
存在ですから、意識を重ねやすいかと」
「他に比べる人がおらんから分かってなかったけど、明仁ってすごいねんな…」
「俺は郁ちゃんを守らなきゃならないんだから、これぐらいは当たり前〜」


その時、電話が鳴った。コール音で義春が仕事場にしている離れからの内線だと分かる。
明仁がぱっと立ち上がり、受話器を取った。
「…はい……ああもう来られてるんですか。今郁ちゃん起きましたから…ええ、大丈夫そう
です、今のところ。準備あるんで10分後ぐらいにしてもらえますか?はい…じゃあ」

「あっ、そうか。今日、笹川さんの後任の人挨拶に来はるんやった。そうや、お茶菓子…」
どうしよう、という顔をした郁実に明仁が 「ぬかりはないよ。さくらモンブラン人数分買って
きたから」と請け合う。
「明仁、買い物行ってくれたん?」
「うん。お茶菓子と晩御飯の買い物もしてきたから。先にお茶淹れようか」
「ありがとうな。何にする?紅茶?日本茶もええな」


ユッキーはモンブラン後でゆっくり食べたらええわ、このままここにおり…と郁実に言われ
頷いたユッキーは居間の定位置で来客を観察することにした。
義春の仕事を長く支えてくれていた担当編集者の笹川がもうすぐ定年になるため、新担当
を連れて挨拶に来ることになっていたのだ。

随分と若い人が抜擢されたと聞きますし、興味ありますね…と思う。
ただそうなった理由もある程度は分かっていた。

義春は時代小説や歴史物をメインに書く作家だが、ひとつ児童書のシリーズを持っている。
「竜の国 千年紀」という長編ファンタジーだ。

両親を戦争で亡くした兄弟が主人公で、兄のカイトは15歳にして竜の国のドラゴンマスター
の地位を得た少年。
そして弟のシリルは幼いながらも突出した力を持つ魔術師だった。
だがある日、国中の竜が狂い暴れるという事件が起こり、それに呼応するように竜の国は
他国からの侵略を受ける。

何の証拠もないまま、シリルが災いを呼ぶ魔法で竜を狂わせたと糾弾され、裁判もなしに
処刑されそうになり、カイトは弟を連れてあやういところで国を脱出する。
たった一頭だけ狂わなかった白銀の竜をお伴にして、兄弟は追手をさけながら他国を巡り
仲間を得て、祖国に何が起こったのかを調べてゆく。
時にシリルの魔法で何百年も時間を遡りながら、兄弟は国の成り立ちとそれを歪ませた
ものの正体、そしてその根深さに気づいていくのだが……


という内容のこのシリーズは義春の本来の読者層とは違う子供たちにとても人気があり、
一方で歴史作家らしい緻密な構成が大人にも好まれていた。

第一章が昔実写映画化したことがあるのだが、今回劇場アニメ三部作の企画が持ち上が
っていて、それに伴いコミカライズやゲーム化などの予定もあるという。
こういうメディアミックスに対応する部署は出版社の中にあるのだろうが、担当編集者に
若手を抜擢したのは今回の映像化に向けての意図があるのだろう。

新担当の人は聞くところによれば、マニアと呼んでいいぐらいに義春さまの作品のファン
らしいですね…と考えながら、ユッキーは来客がよく見える位置にちんまりと座った。
「竜の国 千年紀」は自分たちにとっても特別な作品だ。
気に入らない人間には任せられない。



ユッキーが品定めをしようと居間で待ち構えているとは知らず、郁実はお湯を沸かしお茶の
用意をした。
さくらモンブランに、あまり渋みのないすっきりした日本茶を添える。
和洋折衷になるが、こういう取り合わせも割と好きだ。

急須に湯を注いで蒸らしながら、ケーキをセッティングしてくれている明仁の顔を見上げた。
この人がまとう静かな、だが明朗な空気が郁実はとても好きで。
なのに明仁がいつもと違うと感じるから、やはり少しへこんでしまう。
(何でもないフリしとるけど、心配かけとるよなあ…)

夢の話はしない方がよかっただろうか、と考えかけたが、それはいけないとまた思った。
隠してもし大事に繋がれば、それは明仁とユッキーを危険に晒す。
二人はきっと、どんな怪我を負っても郁実を守ろうとする。
それぐらいなら、まだ最初から警戒できている方がいい。余計な心労を増やすとしても、だ。

「なんで俺には自分を守る力がないんかなあ…」

気がつけば、ぽつりと胸の思いを声に出してしまっていた。
しまった!と思ってももう遅い。
明仁が軽く目を見開き、耳触りな音をたててフォークを盆の上に取り落とした。

「あ…ちがう!ちがうねん、俺…あの、明仁に迷惑かけたないって…だから…」
「郁ちゃ…」
「自分で何とかできたらええのにって思て…明仁を頼りにしてないわけとちゃうねん」


じわ、と瞼の裏が熱くなった。やはり情緒不安定になっていると自覚する。
だが次の瞬間にはもう、明仁の大きな掌にほわっと両の頬を包まれていた。
その温もり。間近にある深い色をした瞳。
そのすべてに、肩ひじ張った自分などあっけなく溶かされてしまう。
子供扱いされたくないと思いながらも自分は、 『郁ちゃんはまだ子供なんだから』と明仁に
言われたがっているのだ。
そんな風に甘やかしてくれる人なんて、ずっと誰も知らなかったから。


また一緒に暮らせるようになってやっと一年。
明仁は内心でため息をもらした。
郁実は随分と自分やユッキーに懐いてくれているが、それでも自分の事は自分でという
スタンスを崩さない。
中学2年になったばかりで体も細くまだまだ幼いと言えるのに、甘えるのは下手なままで。
そんな様子を見る度に、愛しさばかりが手のつけようがないほどつのってゆく。
温めるように、頬をぽんぽんと何度か撫でた。
甘えてもらえないなら、俺が甘やかすまでだけど、と明仁はあっさり方向転換をきめる。


「郁ちゃんさ、これ、何のセリフなのか知ってるよね?」
「え?」
少し芝居がかった声音で明仁が、もう暗記しているほどの懐かしい物語を口にする。

『国の行く末は気がかりに思うよ。でも俺が一番大事なのは国でも信念でもない』
『…シリル。兄さんは、おまえがいない世界で生きていけるほど強くないんだよ』


「『竜の国 千年紀』や…」
途端に郁実は嬉しげに笑った。あの物語は父が自分に読ませるために書いたのだろうかと
ずっと思っていた。
もしかしたら弟のシリルのモデルは自分なのかな、とも。
だからカイトのような強くて優しい兄がいればいいのになと憧れた。
そして一年前、明仁とユッキーに会えた時にようやく合点がいったのだ。
あの兄弟と白銀のドラゴンは、自分たち三人のことだったのだと。

「カイトは明仁にそっくりやもんな。俺すぐ分かった」
「だろ?だからさ、あの主人公と俺の言いたいことはいつもよく似ているよ」

あの物語の1巻を叔父が書いた時、自分たちはまだとても幼かった。
だがあの頃もう、自分の心にあり永遠に消えない思いを義春は理解し、物語に綴ったのだ。

「今もおんなじ。郁ちゃんには最初から背負っているものがあって…それが郁ちゃんを傷つけ
ると知っていても俺にはなくしてやれないんだ」
「明仁…」
「でも俺は郁ちゃんを支えるよ。そして一緒に傷つく。ユッキーもだ」

だからもう迷惑かけるとか言っちゃだめなんだよ?ときれいな瞳にそっと言い聞かせる。
うん、と頷いてからもう一度見上げてきた郁実は、ほんの少しふっ切れた顔だった。
何もかもをゆだねるような事は、結局この子にはできないのかもしれない。
それでもよかった。
ごめん。縋っているのはいつもいつも俺の方なんだ、と心の中でそっと呟く。



その時、居間の方へ人が話しながらやってくる気配が伝わってきた。
明仁がとりあえず客人二人と義春の分のお茶とケーキを盆にのせると、「あ、俺持ってくわ」
と郁実がひょいと持ちあげた。
「どんな人やろな?新しい担当さん」
「さあね。随分若いらしいけど。俺よりちょっと年上ぐらいで義春おじさんの編集って本当に
大抜擢だよね」

さあ、先に拝んできたら、と背中を押すと郁実はいたずらっぽく笑い、盆を運んでゆく。
それを見送った瞬間、だが明仁は頭の芯に抜けるような痛みを感じて眉をしかめた。
額を指先で押さえなんとかやり過ごすが、悪い予感が波のように押し寄せ、囚われる。
(なんだ……これ)


一方郁実は既に座って話をしているらしい客人のいる居間へと、盆を抱えて入ろうとした。
「おお郁実くん、久しぶりやな。なんか具合悪かってんて?無理せんでええよ」
父の担当編集者の笹川が温厚そうな笑顔でそう言ってくれる。
「あ、大丈夫です。もうどうもないから」
そう言ってふと視線を横に流すと、新しい担当と思しき若い男がにこにこと満面の笑みを
浮かべてこちらを見ていた。

その男を見た途端、郁実は頭の中が真っ白になった。
手っとり早く言えば、不意打ちで殴られたようなショックだった。
手が震え、思考がまとまらず、郁実は青ざめ大きな盆を取り落としかけた。だが。

「郁ちゃん、大丈夫だよ。落ちついて」

いつの間にここに来たのだろう。明仁が背後から抱きしめるようにして郁実の手ごと盆を
しっかりと支えてくれていた。
その馴染んだ声が鼓膜を震わせた時、郁実はやっと呼吸を取り戻した。
だがまだ震えが止まらない。
ユッキーが慌てふためいたようなもつれた足取りで、郁実の足元に駆け寄ってくる。

「おいおい、大丈夫かいな郁実」
さすがに驚いたのか父がそう声をかけたが、明仁は盆を卓の上に置くと「大丈夫だよね?
郁ちゃん」と背を支えて座らせてくれる。
具合の悪い郁実にそのまま客の相手をさせようとする明仁に、父がものすごく不審げな顔
をした。

「うん…大丈夫や。ちょっとくらっときただけ」
「貧血ですかね!?無理しないでくださいね」
問題の男が身を乗り出し、本当に心配そうな顔でそう言ってくる。


明仁がお茶とケーキを客に出している間に、郁実は波立つ心を抑えて、ようやくまともに男を
見ることができた。

別に男自身に問題はない。
アメフトの選手のような大きな体をしていて、それに童顔がのっているのがミスマッチだが、
優しそうな普通の若い男だ。

だが問題は、別にあった。
筋肉の盛り上がった男のスーツの両肩には…右に二体、左に一体の霊が憑いていたのだ。
三人とも女性の霊だ。
そして……

「明仁くん、君らの分のお茶は?」
「あ、俺と郁ちゃんは後でゆっくりいただきますので、お構いなく、召し上がってください」

郁実は明仁が自分をここに残らせた意味を考えた。
明仁は霊視能力がとても低い。今現在は、男の肩に複数の霊が乗っている事しか分かって
いないだろう。
(俺の循環の能力を使わんと。明仁にも見てもらわんとあかん)

その郁実の思いが伝わったように、明仁が卓の下でそっと郁実の手を握り込んできた。
郁実に直接触れば、各々の能力は循環する。
郁実の霊視能力も明仁は共有することになる。
ユッキーも郁実の膝に潜り込んできた。ユッキーの毛皮にももう一方の手をのせる。

(どういうことなんや…一体)

ユッキーが結界を張った家に、この男は自覚があるのかないのか霊を三体も持ち込んだ。
それだけでも驚愕すべき出来事だったが。
郁実はぎりっと奥歯を噛みしめる。
左肩にのっている霊。
それは、昨夜から郁実を悩ませている赤い着物の小さな女の子の霊だったのだ。


繋いだ手から、明仁の緊張が伝わってくる。ユッキーも毛を逆立てていた。
だから今はとにかく二人の役に立てるようにしよう。
考えるのは後でもできる。見るべきものをすべて見て記憶するのだ。
女の子の霊が目に入れば、明仁の驚愕はいやでも深まることだろう。
だから最初のショックをやり過ごした自分が、今度は落ちついて。


郁実は微笑さえ浮かべながら、澄んだ視線を向かいに座る男へと向けた。
三人分の能力は触れ合うことでじわじわと動きをつくり、循環をはじめる。

九条家15代目の霊能力者トリオは、無言で水面下での活動を開始した。





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