小早川隆史(たかふみ)は、人生最大の緊張と幸福を伴う運命の日を迎えていた。

小早川はアメフトの選手のような大きな体に似合わぬ文学青年であった。                     
本が大好きな彼は、おとなしい性格にもかかわらずひとつの野望を持っていた。
それは、昔から大ファンだった小説家・相楽義春の仕事にかかわりたいという事だ。


どんな本も読んだが、相楽義春の小説は小早川にとって別格だった。
複雑な事情があって、小学生の頃からずっと長い休みは田舎の祖父母の元で暮さねば
ならなかった。
そこはとても田舎で夜になると何もやることがなかった。
だから持っていった本だけが友達だったのだ。

テレビは煩くて好きじゃなかったし、好きな本を繰り返し読んでは色んなことを想像した。
そうすると、案外と退屈もせずに時間は過ぎてゆき、祖母に早く寝なさいと叱られるほど
だったのを思い出す。


相楽義春の本と出会ったのは、小早川が中学生になってからだった。
彼が歴史小説や時代小説を書く人だというこは何となく知っていた。
だがある日、子供向けのファンタジーが出版されたのだ。

「竜の国、千年紀」というその本は児童書らしく字も大きかったが、歴史小説家の書くもの
だから面白いかもしれないな、と手にとった。
そして、家に帰ってからご飯も食べずに読みふけった。
すごい、すごい、すごい!と思いながらページをめくった。

児童書と銘打たれていたがその内容は子供だましではなく、歴史小説家らしい緻密さと
美しい描写に満ちていた。
血沸き肉躍るような冒険、兄弟の絆、傾国の危機、たくさんのドラゴンの群れ飛ぶ情景。
読み返す度に物語の中で自分が活躍しているような気分になれた。

特に主人公のカイトとシリルの絆は、兄弟のいない小早川の憧れだった。
少々短慮だが大胆で行動力のある兄のカイト。過酷な運命にさらされても愛する気持ちを
忘れない健気な弟のシリル。
兄弟を、一頭の巨大な白銀のドラゴンがいついかなる時も守り戦う。

国を追われた二人の元には、やがて幾人もの魅力的な仲間が集う。
たくさんの国の命運をも巻き込んで、竜とは何なのか、そして彼らの祖国を狂わせたものの
正体が徐々に明らかにされてゆく。


シリーズ化した『竜の国』の最初のページには、『子供たちへ』と必ず書かれていた。
不思議なことに、相楽義春のプロフィールは大阪在住ということ以外伏せられたままで、
彼が結婚しているのか子供がいるのかも分からない。
だがきっと、自分の子供に読ませるために書いたんだろうなと想像した。
それを羨ましく思ったが、同時に読んでくれる全ての子供たちへという意味だろうとも感じ
小早川はなんだか嬉しかった。



いつも自分を勇気づけてくれた本を書く相楽義春の仕事に関わりたいと、中学生ぐらいの
頃から漠然と考えはじめ、それが夢になった。

出版社に就職し編集の仕事をしたいと思い、それを考えに入れて大学も選んだ。
人と競う事は苦手だったが、懸命に勉強して良い成績を修め、「竜の国、千年紀」を出して
いる出版社に就職できた時は本当に奇跡だと思った。

実際に入社してみれば、当たり前だが相楽義春には大ベテランの編集者がついていた。
新米の自分の入る余地などあるはずもない。
だがまあそんなのは想定内だったし、のんびりした性格の小早川は『定年になる前に一度
でいいから相楽先生の担当になれたらなあ』と思っていたのである。
それぐらいの超絶長期計画だったのだ。……だが。


入社して数年がたち、ようやくこの仕事をやっていけるという自信がつき始めた頃に、驚愕
の転機が訪れた。

相楽義春の担当編集者・笹川が定年間近になり、新しい担当を決めるというのだ。
しかも新担当には、若い編集者を大抜擢するという。
それもこれも「竜の国、千年紀」の劇場アニメ三部作の企画が持ち上がったせいだった。
様々なメディアミックスの予定があり、それに対応するためにも若手の起用が望ましかろう
という方針が打ちだされたのだ。

小早川は戦った。のんびりした性格も返上し、今度ばかりはどんな相手も谷底へ蹴落とす
つもりで頑張った。
中には、単に大きな企画に携われるということで相楽の編集者を希望している者もいた。
それを悪いとは思わないが、その程度の志望理由の者に負けるわけにはいかなかった。

最終的な決定権は、担当編集者の笹川が持っていた。
軍配は、相楽マニアの小早川にあがった。候補者最年少の勝利であった。



大阪支社で初めて相楽義春に引き合わされた日、夕方になってもまだにまにましている
小早川に、笹川は「いつまでもファン気分でおったらアカンで」と釘を刺した。

「わ、分かってます!僕はそりゃ未熟ですけど、相楽先生に今まで以上に良い作品を書い
ていただきたいし、努力します!」
鼻息も荒くそう言った小早川を見て、笹川は少し優しい目になった。
ちょっと孫を見るおじいさんみたいな目つきではあったが。

「まあええわ。お前ほんま頑張ったもんな。今度相楽先生の御自宅に行く日だけはまだ
ファン気分でも許したる」
「え…なんでその日だけなんですか?」
「お前、相楽先生のご家族のことは頭に入ったんか」
「もちろんですよ!えーと、先生は昔は東京におられて結婚されたけれど奥さまが若く
してお亡くなりになって、実家のある大阪へ戻られた」

今日相楽本人から聞かされた略歴のようなものを、小早川は復唱した。
「息子さんの郁実くんが中学2年になったばかり。あと一年前から、奥さんの甥にあたる
明仁さんという人が同居中。この人は…僕より4つか5つ年下っぽいですね」

どうやら合格点だったらしく、笹川はよしよしと頷いたあとに爆弾を投下した。
「お前、相楽先生の著書はどれも暗記するぐらい読んどるようやけど、特に好きなんが
あるやろ?」
「竜の国 千年紀…ですか」
「これもなあごく内輪の人間しか知らんことなんやが、竜の国の主人公の兄弟な」
「カイトとシリル…」
「あれのモデルは明仁くんと郁実くんやねん」

小早川は言われたことをじーっと考えた。笹川の教えてくれたことが小早川にとって大変な
事すぎて、ちょっとの間理解が遅れた。

「な、なんですってーーー!!?」

煩いなあ…と片耳をふさぐ笹川に、小早川は詰め寄った。
「モデル…モデルってことは、あの兄弟のイメージってことですか。実写映画はひどいもん

でしたが、今回は本物ですか!!?」
「まあ先生が1巻を書いたんは郁実くんが赤ちゃんの時やったから、あくまでも想像やった
んやろうけど…うん期待してええで」
「マジですか」
「いやもう、すごい美形一族やから」
「美形…ああ、イケメンってことですね」
「まあお前も本物見たらイケメンなんて安っぽい言葉は二度と使わんやろなー」

したり顔の笹川の言葉に小早川の期待はMAXまで膨れ上がった。
絶対に絶対にその二人と親しくなって色々話をしてみたい。いやもう拝むだけでもいい。

だが笹川からは 『お前、初対面で郁実くんに馴れ馴れしくすんなよ』とお達しがあった。
一瞬、先生が嫌がるのだろうか、すごい箱入り息子なのか!?と思ったが、『いやいや、
明仁くんの方や』と言われた。

なんでも彼は郁実のことをそれはそれはそれはもう大変に可愛がっているという。
『擬音にするとメロメロっちゅーやつやな』 と聞かされ、本とおんなじだ!と小早川はさらに
盛り上がった。
あの兄弟のモデルの二人が物語と同じように互いを大事に思い合っているなんて、何という
素晴らしいことだろう。

それから土曜日まで、小早川は興奮しっぱなしだった。
時間を見つけては 『竜の国〜』 を再読し、モデルだという二人について思いを巡らせた。
顔は変えられないので仕方がないが、散髪に行き、スーツをクリーニングに出し、シャツと
靴下は新品を用意した。
さらに靴を磨いて、出来る限り清潔に身なりを整え、とうとう運命の日を迎えたのである。






「そ、そうなんです!相楽先生の本はどれも大好きなんですが特に『竜の国〜』が好きで、
あの兄弟のモデルがお二人だって笹川さんに聞いてからは興奮して眠れませんでした!」
「うーん、でも俺シリルには性格あんま似てへんけどな。あんな大人しないやろ?」
「そんなことないよ。気持ちの優しいところが郁ちゃんにそっくり」

包み込むような笑みを見せる明仁と少し照れくさそうな顔をする郁実。
そしてそんな二人をしごく満足げに見つめる新担当の小早川。

新担当との顔合わせは申し分なくうまくいっているように見えた。
だが義春はうなぎ昇りな違和感を持て余し、離れの仕事部屋に引き籠りたくなってきた。

とりあえず何がおかしいかというと、明仁がおかしい。
真っ青になって倒れかかるほど具合の悪そうな郁実にそのまま客の相手をさせるなど
ありえなかった。
お姫さま抱っこして二階に郁実を寝かしつけに行くぐらいのことをしてくれないと、こちらは
目の前にいる明仁がニセモノなんじゃないかと疑惑の念さえ湧いてくる。

明仁が小早川にやたらと好意的に話しかけているのも気色が悪い。
好きな小説の登場人物のモデルである郁実に小早川が興味津々なのは明らかで、普段の
明仁ならそんな相手に愛想よくするなど考えられないわけだが。

(……って、この子ら手ぇ繋いどる!?)

笹川や小早川の位置からは見えないのだろうが、卓の下で郁実と明仁がひそかに互いの
指を握り込んでいるのに気付き、義春は別の意味で驚愕した。
(え…まさか、郁実の循環の能力を使っとるんか!?)

背筋にひやりとしたものが走る。そんなはずはない。
何故なら、この家にはユッキーが結界を張っているのだ。
霊と名のつくものが、この家に入れるはずがない。
だが郁実の懐にもぐりこんだユッキーもまた、険しい顔つきで小早川を凝視していた。
なにか緊急事態が起こっている。
二人と一匹は談笑するようなふりをしながら、まったく視線を外そうとしていない。


「そのうさぎは明仁さんが東京から連れてきたと聞きましたが、郁実くんによく懐いてるん
ですね」
「おじさんは離れにいることが多いし、俺も仕事がありますから。郁ちゃんが学校から帰って
きた時に寂しくないようにと思ってね」
「そうやな。俺、帰ってきたらユッキーおるようになったから嬉しかった」
「思いやりがあるんですね、明仁さんは」
「うん、いっつも俺のことばっかり考えてくれてる」
「俺の思いやりは郁ちゃん以外に発揮されたことなんか一回もないけどね」

ほんの一瞬、明仁とユッキーがちらりと自分の方を見たので、義春はぎくっとした。
この主従コンビは、郁実の祖母が死んでから彼らが居つくまでの一年間、郁実が寂しい
思いをしていたことを未だに根にもっている。
まあ確かに、俺も思いやりが足らんかったか…とは思うのだが。
明仁が今言ったとおり、自分は離れで仕事ばかりしていたし、その間郁実はがらんとした
母屋に一人きりだった。
犬でも飼ってやったらよかったんやなあ…と思うのだが、今さら遅い。
主従コンビの恨み手帖の義春の項には、太字でこの事が記載されているに違いなかった。



「お前も満足やろ、小早川。明仁くんはほんま郁実くんを可愛がっとるからなあ」
少し冷めかけたお茶を含みながら、笹川がそう言って笑った。
「は、ハイ!もう感動です。本当の兄弟みたいで…本の中の二人がもう何年か年をとったら
きっとそのまんまだと思うんですよ!」
「従兄弟どうしにしては、ほんま仲ええよな。子供の頃からそうやったん、明仁くん」

話を振られた明仁は無駄に爽やかな笑顔を浮かべて郁実だけを見つめはじめた。
どうやらもう、小早川を観察するのを放棄したらしい。
ユッキーもまるで口直しのように自分を抱っこしている郁実をじいっと見上げている。
どうしてこのコンビは一分たりとも郁実に飽きるということがないのだろう、と義春は腹の
中で考えるだけ無駄なことを考えた。

「ええ、これは多分笹川さんも御存知ない事だと思うんですが…」
「えーなんやなんや」
「実は俺は郁ちゃんが生まれてから大阪に引っ越すまでの3年ほど、叔父さんの家で一緒
に暮らしていたんですよ」
「ええ!!?ちょ…ちょー待ってや」
「郁実くんが生まれてから3年ってことは…明仁さん小学生ですよね!?御実家を離れて
たんですか!?」

明仁、そんな話余所の人にしてええんか?と郁実が眉を寄せたが、いいのいいのと上機嫌
で明仁は続けた。

「いや別に親に問題があったとかそんなんじゃないですよ。まあ驚かれるでしょうが、うちの
本家では自立心を養うために男の子はよく親戚の家に預けられるんですよ。ホームステイ
みたいなものです」
「へえ〜厳しいお家なんですね。すごい」
「それやったら、ほんまに郁実くんと兄弟みたいに過ごしてきてんなあ…大事なはずや」


いや、ホンマのこと言うとちょっと不思議に思っとったんですわ、と笹川は今度は義春の方
を向いて言った。
「亡くなった奥さんの甥っ子さんが同居することになったって言いはるけど、今まで奥さんの
方の親戚の話も聞いたことなかったし、なんか唐突やなと思て」
「ああ、そうでしたか…」

明仁が同居していた理由は嘘八百ではあるが、この辺りの事情はごく身内とも言える自分
の編集者には話しておくべきやったか、と義春は気づかされる。
確かに自分の甥ならともかく、若くして死んだ妻の甥が同居というのは不自然だった。

「明仁くんは…自分も小さかったのに生まれたばっかりの郁実をいっしょけんめい世話して
くれまして…」
そう呟いた途端に、義春の脳裏に昔の情景が蘇った。
赤ん坊の郁実、小さな明仁。ユッキーがいて、椿がいる…
細や義父が使い魔を連れて家にやってくる…たまに明仁の兄の千明もそこに加わる…

「だからこの子は…俺のもう一人の息子みたいなもんなんですわ」
本当はユッキーのことも含めて言ってやりたかったが、義春のその呟きに明仁とユッキー
はちらりと嬉しそうな笑みを見せた。
いつもこのコンビにはいびられまくっているが、10年離れていても家族であることを義春は
忘れなかった。
この主従コンビがいつか郁実のために大阪へやってくるであろう事も確信していたように
思う。


「いいお話です…っ…皆さんはつよい絆で結びついた御家族なんですね…っ」
小早川が湯のみ茶碗を握りしめてむせび泣いている。
「まあ男所帯で潤いはないけどなー」と、義春ははぐらかすように笑った。

「なにをおっしゃるんです先生!こんな美形揃いなのに。潤いまくりですよ」
「小早川、イケメンはやめたんか?」
「イケメンなんて安っぽい言葉は僕の辞書から抹消しました。さっき初めてお二人を見た時
思ったんですよ…その……なんてきれいな一対なんだろうって…」

自分の言ったことに照れたような顔をする。
そんな自分の新担当を見るにつれ、複雑な思いが胸に込み上げた。
何が、起こっているのだろう。
笹川が選んだだけあって、彼は若いが熱意があり義春の小説をとても愛してくれている。

郁実と明仁を『一対』と無意識に表現しているのもそうだ。
この二人が対をなした存在だということを、感じ取っているのだ。

長年の夢が叶って自分の編集者になれた小早川の嬉しそうな様子に、義春の心は重く
沈み始めた。
考えたくない事であるが。
もしかすると、この後郁実たちから聞かされる話如何では、小早川を担当から外さねば
ならないのではないかと。





玄関まで笹川と小早川を見送り、横開きの戸が閉まったと同時に郁実は大きく息を吐き
だした。
体も心もがちがちに緊張してしまったままだ。
それを隠して表向きはにこやかに談笑するなんて、中学2年には高度な技すぎる。
ユッキーは必ず傍にいてくれるが、明仁も家にいる土曜日で本当に良かったと思った。

そのユッキーが「郁実さまあああああ…!」と絶叫しながら、郁実の足元にタックルする
ような勢いで抱きついてきた。
「申し訳ありません!申し訳ありません!郁実さまをあんな恐ろしい目に遭わせるなんて
何という不始末…!ユッキーは…ユッキーはもう腹を斬ってお詫びするしか…」

白い毛をブルブル震わせ号泣する雪うさぎを、郁実は笑いながら抱きあげた。
郁実の快適性を考慮して常時ミリ単位で整えられているふかふかの毛皮に頬ずりする。
「腹なんか斬ったら痛いやないか。俺になんかあったわけでもないのに泣かんでええ」

じわっとユッキーの体温が染みてくる。さらにそこに明仁の腕が伸びてきて郁実の頭を
自分の胸に引き寄せてくれた。
無言のまますっぽりと明仁の腕の中に収まり、安全だとそう感じる。
そう、自分はいつだって安全なのだ。疑う余地もない。

「郁ちゃんごめん、すごく無理させた」
「いや、むしろあの場に俺を残してくれて助かったわ。俺もじっくり見たかったし、明仁にも
見てほしかったし」
「でもごめん。他の方法を考えるべきだった」
「アホやなあ…そんな顔すんな。二人とも過保護すぎんねん」


俺にしかできん事は俺がやる、と言いきる郁実に、明仁はそっとため息をもらした。
そうやって自分で立っていようとする郁実を誇らしく思う一方で、泣いたって取り乱したって
いいのにと思うのだ。
(怖かった…って言えば、俺たちが責任を感じる)
(だから郁ちゃんは、そんなことは絶対に言わない)

郁実はそういう風に育てられていた。今どきの子供らしくなく我慢することを知っていた。
いずれ道なき道をゆく。
この子がそうだと知っていた祖母が、郁実をつよく育てたからだった。
(俺たちには…決してできなかったことだ)

可愛がるだけがすべてではないと、大きくなった郁実に再会して痛感した。
だが離れていた十年、泣きたくても堪えてきたこの子の涙を流させてやりたいと思う。
大丈夫や、と言う回数を減らしてやりたかった。
それが守る力があるという事なのではないかと最近はよく考えるのだ。


「はいはいキミ達〜イチャイチャしながらでもええからお父さんにも何が起こっとったんか
説明してくれへんかなー」
ぎゅむっとくっついたまま離れようとしない15代目トリオに向かって、しびれを切らしたよう
に義春が促した。
「父さん、気づいとったんや?」と郁実が目をみはる。
「おまえと明仁くん手ぇ繋いで小早川くんをずっと見とったやないか。どういうこっちゃ。この
家の中で霊視能力使うとか何の緊急事態やねん」

ユッキーの結界に守られたこの家で霊視を行った事のありえなさに気づいている辺り、父も
伊達に霊視能力者の妻を娶っていたわけではないようだった。

「ユッキーさんの結界は、お義父さんの翡翠(ひすい)も細くんの山茶花(さざんか)も全く
及ばんような精度のはずやろ」
現在、九条家に属している他の二匹の使い魔の名を口にして眉を寄せる。
小早川がもし霊に憑かれていても、結界をくぐる時にそれは排除されてしまうはずだと言い
たいらしい。


その義春の柄にもないシリアスっぷりを見るうちに、逆に三人は肩の力が抜けてきた。
子細に霊視したおかげで、今は小早川が何であるのかある程度推測できている。
それに何が起こっても笑い飛ばせるぐらいでないと自分達らしくないではないか。
互いの目を見やり、同じような余裕が生まれた事に安堵して笑った。

「イチャイチャしながらでもいいんだってさ、郁ちゃん」
「義春さまもだいぶ話が分かるようになってきましたね」
「でも俺、こんなぬくぬく×ぬくぬく状態が続いたら絶対寝落ちしてまうわ」
「寝ちゃってもいいよ、もう」
「いやアカン。ちゃんと覚えとるうちにいつもみたいに絵描くから」

とは言ってみたものの、明仁の腕の中から抜け出すのは真冬の朝に布団から出るよりも
勇気がいった。居心地が良すぎる。

郁実は片手だけでユッキーを抱き、片手で明仁の腕をそっと外した。
見上げ、ああこの人がおらんかったら俺はどうなっとったんかなと思う。
明仁は、少しだけ誤解している。
一人ぼっちで泣くのを堪えるのと、誰かに一緒にいてもらえるから泣かずにすむのは全然
ちがっていた。
そんなに心配することはないのだ。


「じゃあ俺は昼ご飯作るよ。ユッキーは義春おじさんに事情を説明してくれるか。郁ちゃんは
絵を描く。それでいい?」
「そういえばお腹へったわ」
「だろ?ハンバーグのタネ解凍してあるから、ロコモコ作ってあげるよ」
「あ!ご飯にハンバーグと目玉焼き乗っとるやつか?俺あれ大好き」
「嬉しそうなカオして」
「明仁の作るもん、何でも美味しいから好きや」

へへ、と郁実は笑い、「じゃあ父さんはユッキー連れてって」と、大事な使い魔を父へと手
渡した。
父がいつになく気がかりそうにしているのは、郁実の安否ではないはずだ。
明仁とユッキーを郁実以上に信頼しているのだから。
新担当の小早川は、父の編集者になれたことをあんなに喜んでいた。
だが叶ったはずの彼の夢がダメになってしまうのではないか。それを危惧しているのだろう。

「小早川くん…憑かれとるんか、霊に」
真っ白い雪うさぎを腕に抱き、迷うような口調でそう問いかける父に郁実は首を振った。

「あの人、三体も霊をくっつけとった。それはほんまやねんけど」
「三体!!?」
「うん、だけど憑かれてるっていうのとはちょっと違うと思うねん」

まあ明仁とユッキーの意見も聞いて答え合わせしてからでないとハッキリした事は言えん
けどな、と郁実は慎重に言葉を選びながら父に告げた。

「あの人、ものすっごいイレギュラーやけど多分ある種の霊能力者やと思う」





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