「俺が覚えてる範囲ではこんな感じやってんけど」

郁ちゃんの消化に悪いので食事中は霊の話はNGです、と明仁が最初に父に釘を刺したから
昼食は落ちついて食べることができた。
ご飯に大きなハンバーグとしゃきしゃきの野菜と目玉焼きが乗ったロコモコとスープを美味しく
たいらげて満足する。
祖母の作るものを食べて育ったので、郁実には明仁の作ってくれる洋食メニューが珍しい。
自分も作れるようになりたくて、最近は一緒に台所に立ち覚えようとしている。


スケッチブックに描いた絵を示されて、父がなんとも言えない唸り声をあげた。

ユッキーも明仁もいない時に霊に遭遇した場合(学校や通学途中が多かったが)それを絵に
描いて説明する事を郁実は思いついた。
郁実には、毎朝明仁が固有結界を張ってくれる。
だから家の外で霊に出くわしても、郁実には見えるが霊は視認されていると気づかない。
家に帰ってから、主従コンビに説明し除霊するかどうか決めるために絵を描いた。
鉛筆でスケッチブックに素描するだけだったが、特徴を掴むのが上手く、それは案外役に立つ
ことが多かったのだ。

「相変わらず上手だね、郁ちゃん」
「裁判の時の絵を描く人になれますよ、郁実さま」
「はは…イマイチ陽気な職業とちゃうなー」

義春の方に向けられた絵を皆で覗きこむ。
大きな体に童顔な小早川がにこにこしている。そのがっしりしたスーツの肩には右に二体、
左に一体の霊。すべて女性と推測された。

推測、としか言えないのには理由があった。
右の二体は進行速度こそ違うが、光に包まれて輪郭がぼやけ溶け崩れようとしていたのだ。
特に片方はもはや肩から上ぐらいしかない。
もう一方は腹から上ぐらいはまだ残り、小早川にしがみついている。

“20代ぐらい?肩までのふんわりパーマ。おでこに大きな傷がある。死因?”
“40〜50才ぐらい?ちょっと太ってる。ショートカット”
と郁実の字で走り書きがつけられていた。
“明仁が浄霊するときに似てる。金色の光に包まれて溶けていってるように見えた”


「郁ちゃんは、ただ霊が見えるってだけじゃないのがスゴイよね」
明仁が複雑そうな表情でぽつりとそう言う。
「ですねー私も霊自体は見えるんですが、郁実さまの霊視の力を借りて見ている時は見え方
が全く異なりますから」

「何が違うんや?」
郁実がユッキーに訊ねると、ユッキーは絵に前足をぺたりと置いた。
「ただ見えるだけなら小早川さんが霊に憑依されているとしか判断できなかったでしょう。でも
郁実さまの目を通せば、小早川さんが霊を自分に憑かせてじわじわと浄霊していってるのが
分かります」
「なるほどな。見え方の差で事実が全然違ってくるいうことか」
おまえもほんまにチート能力者やなあ…と父に言われて、郁実は「そんなもんかな?」と首を
傾げた。

「とにかくこれで小早川くんがこの家に霊を持ち込めた理由は分かったわけや」
「そうですね。憑かれているだけならユッキーの結界に弾かれていたでしょう。だがこの霊は
もう彼に取り込まれて浄化されつつある」
「小早川さんがある種の霊能力者やって俺が言うたのは当たりか?」
「当たりだね。俺もそう思うよ」

ただ問題はこっちの子供の霊だね、と今度は明仁の指がとんとんと絵を差した。
夢に干渉してきた子供。
着物の梅の花の模様まで、郁実はきちんと描き込んでいる。
黒いおかっぱの髪につぶらな目。だいたい5歳ぐらいに見える幼女の霊。

「この子は右の二体とあからさまに違ってる。欠けた部分も溶けた部分もまったくないし、彼の
肩のあたりで結構動き回ってた」
「あー小早川さんの肩に座ったりぶらさがったりして遊んどったよな」
なんか可愛かったで、自分の陣地って感じで、と郁実は小さく笑った。

ふわりと笑い返しながら、明仁は「そうだね」と相づちを打つ。
だが義春とユッキーの目にはその笑顔がとてもとてもうさんくさく映っていた。
明仁の脳内が 『郁ちゃん笑うとマジ可愛いなー』 という考えで満たされているのがバレバレ
だったからだ。
今更ではあるが、この男には郁実以外の人類を可愛いと思う能力がなかった。


コホン、とわざとらしく咳ばらいをしたユッキーが「主、もう結論は出ているんでしょう」と促す。
「ああ…」と頷きながら、明仁は意味もなく洗練された動作で膝を崩した。
なんで明仁の動きっていっつもあんな綺麗んかな…と郁実は関係ない事をふと思う。

「この子は、小早川さんのしゅ…」
「守護霊じゃ!まちがいない!!」

明仁の言葉をひったくるように、聞き覚えのある声が部屋に響きわたった。
ぎょっとした郁実を守るようにユッキーが素早く膝へと潜りこみ、明仁がその肩を抱く。
「ユッキー!」
「主、あれですよ!」

ユッキーのほわほわした手が、棚に乗っていた古いタヌキの置物をさす。
明仁が立ち上がり、ほとんど握り潰すような勢いでタヌキの頭をひっ掴んだ。
「四大(シダイ) 空に帰す」
滅するという意味のその呪文を明仁が唱えた瞬間、質量を保っていたタヌキの置物は金色の
光を放ち崩れ去った。

後には使い古され汚れた札が一枚ひらひらと舞う。
凄味のある笑顔でそれを拾いあげた明仁は、「変態め…」と吐き捨てながら札を細かく破った。


「ああ恐ろしかったね、郁ちゃん。俺が退治したからもう心配ないよ」
「いや、今のあれ、じいちゃんやん…?」
「いい年して孫の生活を盗み見するなんて、品性を疑いますよまったく!」
憤然としながらユッキーが床に散らばった札の残骸を更にぐりぐりと踏みつけている。
「いったいじいちゃんが俺につけた式神って何体あるんや。今ので三体目やで。明仁に潰され
たんは」

簡易版の使い魔ともいえる式神は、付けた者の手足・目や耳となって働く。
幼い郁実が東京を離れる際に、明仁は守護の意味をこめて蝶のかたちの式神をつけていた。
だが当時まだ術者として未熟だった明仁には一体が限界だったのに対して、祖父は複数の
それを平気で保持しているらしい。

事情を知っていそうな父をジト目で見やれば、俺も詳しいことは知らんてと首を振る。
「ただまあ…分かっとる事といえば、式神をつけたんはお義父さんと明仁くんだけやないって
事やな」
「えっまさか…」
「ああ、細(ささめ)くんも何体かつけとるはずや。日本におまえより厳重に警護されとる中学生
は絶対おらんやろな」
「セコムもびっくりやな…」

数もそうだが、郁実が東京を離れる時につけたのならばもう10年以上経過している。
複数の式神をずっと保持していられるとは、祖父と細の術者としての能力の高さを思い知らさ
れる気分だった。


と、今度は電話が鳴りだした。じいちゃんやな、と郁実は立ち上がる。
するとユッキーが唐突に腹を押さえて転がりはじめた。
「ああっ…!お腹が痛いです…!嫌なことが起こったので私の繊細な心が耐えられずに
今まさに悲鳴をあげております…!」
「ユッキー……」
「郁実さま、申し訳ありませんが早退させていただいても宜しいでしょうか」
「うん…ええけどな…家からどこへ向かって早退する気やねん…」

不穏な空気を感じて振り向くと、今度は明仁が黒い持ち手の巨大なハサミをチョッキチョッキ
やりながら、電話線をまっぷたつに切断しようとしていた。
「うわあ、明仁くん!何しよん!?落ち着いてーや!」
「おじさん…こんなもので繋がってしまったから人類はコミュ障になり果てたんですよ」
「なんかカッコええ事言うてるわこの子!でも全然意味分からへん!!」


はあ…とため息をついて郁実はユッキーをひと撫でし、明仁の手からハサミを取り上げた。
二人が十年も郁実から引き離されていたのは、祖父の決めたことで。
A級戦犯である祖父は、主従コンビからそれはそれはもう大変な恨みをかっていた。

「どうせ、じいちゃんには相談せなあかんやろ。観念し、二人とも」
そう言い渡すと、鳴り続けていた電話の受話器をあげる。
同時にスピーカーをオンにして、祖父の声が他にも聞こえるようにした。

「はい、相楽です…じいちゃん?」
「おお郁実か。今日も別嬪さんじゃの」
「いや別嬪て俺、男やから。それにしてもまだどっかから見とるん?何体式神おるんや」
「それは教えられんがな。だがじいの目の黒いうちは郁実をどんな事からも守ってやるからの」
「いや…明仁とユッキーおってくれるし霊関係は大丈夫やで?そんな心配せんでも…」

俺でこれやったら一人娘だった母さんはどんな扱いやったんや…と郁実は思った。
だが祖父は大真面目な声で反論する。
「何を暢気な事を。敵は霊だけとは限らんぞ。お前が小さい頃からわしや細が式神を使って
何人の不埒者を成敗してきたことか」

「あー変態の親玉がなんか言ってるねー郁ちゃん」
電話口までやってきた明仁が朗らかな口調でそう言った。
「おお、何やら心の狭そうな男がおるなと思ったら、明仁か」と、祖父も挨拶代わりのジャブを
繰り出す。
「まだくたばってなかったのかよ、ストーカージジイ」と卓球のような速さでの応酬。

そして明仁は、郁実の両肩にぽんと手を乗せて言い聞かせた。
「俺の心は狭くなんかないんだよ。むしろ敷地面積的にはすごく広いんだけど、郁ちゃんで
いっぱいだから他になんにも入る余地がないだけで」
「そ…そうなんや…?」
「主、それが心が狭いってことなのでは…?」
「煩いよ、お前は誰の味方なんだよ」
「すまんなあ…郁実。こんなめんどくさい男をお前に押し付けてしもうて…」

よくある事だが父は一人、悟りを開いたような表情でお茶をすすっている。
あっちこっちからわあわあ言われて頭がクラクラしてきた郁実は、とりあえず各方面をたしな
めるように言った。

「じいちゃん、俺が明仁をめんどくさいなんて思うわけないやろ。煽らんといて」
だよね。と微笑む明仁に向き直り、こちらにもびしっと言い渡す。
「明仁も。じいちゃんにそんな口の利き方したらアカンやろ」
そうだとも、郁実は礼儀をわきまえたええ子じゃな…と今度は祖父が相槌をうった。

しかし叱られた主従コンビはめげなかった。ひそひそと何かを語り合いはじめる。
「まあ何ですか…主。郁実さまは立派なお祖母さまに育てられたので敬老精神が発達して
おられるのですよ」
「なるほどな。世の中には1000人に1人ぐらいの割合でまったく尊敬する必要がない老人が
発生するって知らないんだな」
「ましてその1000人に1人がご自分のおじいさまとなると…」
「悲劇だな」
「悲劇ですねえ」


そこのめんどくさい男と毛玉は放っとけ郁実、と祖父に言われ、確かにこのままやと永遠に
本題に入れんわ、と郁実は頷いた。

「じいちゃん、小早川さんが居てはった時から見とったん?」
「おう。だがワシも霊視能力は低いからの。あの男の両肩に霊がくっついとるのしか分から
なんだ。そのあとの郁実の絵の説明はちゃんと聞いとったぞ」
いつも闊達な祖父にしては考え考えしゃべっているようだ。
それだけ、今回の件はすべてがイレギュラーなのだろうと感じる。

「……まあワシらも知ったかぶりしたところで霊の事を大して分かっとらんのが実情だ。郁実、
お前のように表面以上の何かを見て取る霊視能力者なんぞ、九条家始まって以来じゃな」
「また大げさな…」
「特異な能力のもとに特異な能力が引き寄せられたか…あるいはあの守護霊が導いたか…」
「あの子は小早川さんの守護霊や言うたな、じいちゃん。御先祖様なん?」
「おそらくなあ……あの男の能力があの男を食ってしまわんように、霊にとり殺されんようにと
守ってやっとるのか」

他に何か気付いたことはあったか?と問われ、郁実は眉を寄せた。
「なんとなく…やから、正しいかどうかなんて分からんけど…」
「言うてみい。お前の味方しかここにはおらん」

その祖父の言葉にはっとする。
覗きこんでくる明仁の瞳が包みこむように暖かい。
ちゃぶ台の上から気遣わしげな視線を送ってくるユッキー。黙って茶をすする父。
(ああ、俺は恵まれとるなあ)
噛みしめるように思う。どれだけ守られ、どれだけ慈しまれているのか。


じいちゃんが言うた事と似とるんやけどな、と一連の出来事を思い出しつつ郁実は言った。
「あの霊はすごく強いと思う。そんで、感じたのは全部のバランスを取っとるってことや」
「バランス……なんの?」
訊いてきた明仁を見上げ、なんとかうまく説明しようと懸命になる。

「除霊をすると明仁も消耗するやろ。修行しとるから、肉体的にも精神的にも強くて一晩寝たら
回復するみたいやけど」
「うん、そうだね」
「だけど、小早川さんは常に少しずつ除霊をしとるわけで、体にかかる負担をあの霊が何とか
してやってるんちゃうかなって思う。でないとあの人、普通に生活できへん」

「そういえば小早川くん、小さい頃ものすごい体が弱かったって言うてましたわ、お義父さん」
ふいに父がさらりと口をはさむ。
「検査しても特に病気も見つからんのに、高熱出したり、倒れたりしとったって」
「ふむ、このままでは死んでしまうと思うて、あの守護霊が憑いてやったんかの」
今まで黙っていた父が急に話しかけても、祖父は普通に受け答えした。
この二人も長いこと会った事もないやろうに、独特の雰囲気あるんよな、と郁実は思う。


「お義父さんはどうお考えなんです。小早川くんの存在が郁実に害をなすようなら担当を外す
べきなんでしょうが、今聞いてる感じではそこまでせんでもええって事ですか」
「ちょ…父さん、そんな一足飛びに結論出さんでもええやん!」
「結論出さんと、明仁くんもユッキーさんもどう動いていいか決められんで」
やんわりとだが窘めるような口調で父に言われ、う…と郁実は口ごもった。
「まあ確かに…小早川さんに外れてもらうか、明仁とユッキーに負担がかかるかの二択になる
んやろうけど…」

ずっとそうなんかな。これからもずっとこんな風なんか。
胸のどこかがちりちり痛む。自分を守る術を持たず、守られることしかできないジレンマ。
それは郁実を少し情けないような気持ちにさせた。
母さんはどう思とったんやろ、どうしとったんやろ、聞きたいなあ…と途方に暮れる。
本家に行った事もなく、手本とする霊視能力者もいない郁実には分からない事が多すぎた。


だが、ふいに電話口から祖父が妙に明るい口調で言い出した。
「そうでもないぞ郁実。どうじゃ、あの小早川とかいう男に能力の事を話してみんか」
「えっ」
目を瞠る。まず思ったのは 『そんな事してもええんや』 だった。

霊能力に関しては、なるべく口外すべきではないものと思い込んでいた。
だが考えてみれば、幼馴染の美晴や親友の大貴と浩正には打ち明けてもいいと祖父から許可
が下りている。
(でもそれは、不思議な事でも信じてくれるって思える相手やったからや)
(それでも打ち明ける時は怖かった)
(気味悪がられたり、嘘つきやと思われんて確信なんかなかった)
(見ることも感じることもできん人相手やから)


「何言ってんだジジイ。あいつは霊を認識できてないんだぞ。見ることも感じることも。なのに
そんな事を話しても気味悪がられて嫌な思いするだけだろうが!」
「まあ、こちらにはメリットはないわな」
「分かってるんなら、余計な事を郁ちゃんに吹き込むな」

郁実の肩に手を置き、明仁が氷点下のような冷たい声で電話に向かって吐き捨てる。
だが、祖父は嗤ったようだった。
がんぜない子供をあやすような、からかうような空気がこちらに伝わってくる。
「郁実を箱にでも入れて閉じ込めておくか、明仁。そんな守り方しかできんのかお前は」

ガツン!と酷い音がした。
明仁の拳がそばの壁を腹立ちまぎれに殴りつけた音だった。
そのまま部屋を出て行こうとする。
だがすんでの所で明仁は振り返り、「ユッキー、郁ちゃんを頼んだ」と低く一言だけ言い置いて
から姿を消した。
郁実の顔は一度も見ず、まるで逃げるように。
後にはびっくりして声も出ない郁実と、気まずい雰囲気が残される。

「………じいちゃーん…」
「あいつは本当に修行が足りんの。山にでも放り込むか」
「いやなんであんな言い方するん…明仁わざと怒らせる必要ないやろ」
「なに、痛いところを突かれたから腹が立つんじゃよ」
「痛いとこ…て」
「あいつはお前を守る事と自分が安心できるという事をはき違えとる」

郁実、お前にも強うなってもらわんと困る。明仁とは別の意味でな。
別の意味。その祖父の言葉がずんと腹に響いた。
だが役割を与えられるのなら望むところや、とも思う。
知りたかった。自分に何ができるのかを。
この能力が何かを変えることもあるなら少しぐらい傷ついても構わない。そうしたいと思った。

「さっき、こっちにはメリットはないて言うたな。じゃあ小早川さんにはどういうメリットがあるんか
それをまず聞かせてくれるかじいちゃん」

祖父がどこから見ているのか分からないので、とりあえず電話機に目線を置く。
聞きたい事は聞く。だが、言いなりになるつもりもない。
いかに祖父がそそのかして来ようと、決めるのも実行するのもこちらだ。
(ホンマ食えん人やで、じいちゃんは…)
ちょっとの間も気が抜けない。
だが自分の信頼はどこに根ざしているのかを、見失うような郁実ではなかった。


いざとなったらお前の方が胆が据わっとるな…と呆れたように祖父がそうこぼす。
「そんなこともないけどな。どないするかは三人で考えるわ」
ちゃぶ台に乗っていた自分の使い魔を抱きあげると、その重みと温もりに力が出た。
今日は色々立て続けに起こって疲れてはいる。でもまだ全然大丈夫やな、と確信する。
「明仁とユッキーと俺に決めさせて」





もう一年になるのか…と、縁側に座った明仁は様々な事に思いをはせながら庭を見渡した。
背後の居間からもれてくる明かりに緩く照らし出された木々の緑。
変わらないと感じるとしても、それはきっと一年分だけ変化しているのだろう。
大切なあの子と同じように。
枝葉を広げ、背を伸ばし、少しばかり刈入れをし、瑞々しく光を反射する。成長する。

ついて行けてないのは俺の方だ、と苦く笑った。
大きくなった郁実と初めてゆっくり話ができたあの夜。
自分はただただ夢のように幸福で、この子を守るためなら死んでもいいと本気で思った。
(どんな独りよがりの押し付けだよ)

自分の望みと郁実の望み。自分の安心と郁実の安全。
それを同じと錯覚しかけていた。
そんな駄目すぎる己をよりにもよって祖父にあげつらわれ、キレて逃げ出すとは。

(師匠に知られたら山に放りこまれて、一年ぐらい修行のやり直しってとこだな)
未熟者め、とよくあの人に言われたものだ。今はそれが懐かしい。
増長したり勘違いばかりする自分を諌めてくれる人がいたらと思う。それが甘えでも。

だが郁実には師として導いてくれる人すらいない。
なのに懸命に道を探ろうとする。
あの子は本当に、強くあれるよう育てられていた。
亡くなった郁ちゃんのお祖母さんに一度でいいから会ってみたかった、と明仁は考える。


手にしていた煙草の灰が長くなっているのに気づき、傍に置いた灰皿へトンと落とした。
先刻、頭を冷やそうと外へ出た時、無性に欲しくなって一箱買ってしまったのだ。
こんな物を吸うのは何年ぶりだろう。
そう思いながら苦さを味わい、細く吐き出した煙の行方を目で追う。

「煙草吸っとるとこなんか初めて見たわ。びっくりした」
キシ…と縁側の板を踏む微かな音。沁み入るような優しい声が自分に向けられるまで、郁実
が傍に来ていると気づかなかった。
「郁ちゃ…」

どれだけぼんやりしてるんだ俺は、と自分を叱りつけ、大慌てで煙草を灰皿に押し付けようと
すると、郁実がそれを留める。
「消さんでええって。何でそんな喫煙見つかった高校生みたいなリアクションやねん」
「いや、体に悪いよ郁ちゃんの」
「傍で一本や二本吸われたぐらいで俺の肺は黒なったりせんから。吸いたい気分なんやろ」

俺にはまだそういうの分からんけどな、と笑う郁実は風呂に入ってきたらしく浴衣姿だった。
そのまま隣ではなく、縁側に腰かけた明仁と背中を合わせて座る。
それを意外に思ったが、直接ではないにせよ触れた部分の温もりが、お互いのささくれた心を
慰撫してくれるのを感じた。
ああ、俺は郁ちゃんにはほんとに敵わない、と明仁は緩んだ口元に煙草をまたくわえる。


「……あれから、じいさまに教えてもらった?能力の事を話して、小早川さんがもしそれを信じ
たらどういうメリットが彼にあるのか」
「うん、どういう事かは理解したつもりや」

合わせた背中。喋ると体の方からも声の振動が伝わる。顔が見えなくても平気だ。
分かりたい、分かってほしい。
そういう気持ちが二人の心を繋いでいる。一年前と同じようで確かに何かが変わっていた。

「九条家で霊絡みの事件に対応する時、小早川さんみたいな自覚のない野良霊能力者を
見つけてしまう事がたまにあるんだよ。その時によって対応は変わるんだけど」
「野良霊能力者て…」
背後で郁実がちょっと笑い、まあ保護されてないって意味ではそんな感じかと言った。

祖父が言っていた小早川にとってのメリットとは、まず彼が望むのなら九条家の庇護下に入れ
るという事だ。
自覚もなく無防備だった時に比べれば格段に高度な防御策を取れるようになるだろう。
それは下手に他人を巻き込まないという事にも繋がる。

もうひとつは、霊能力は比較的遺伝しやすいという問題だった。
これは九条家で過去に収拾したデータに基づいての推論にすぎないのだが。
それでも小早川に将来できるであろう子や孫に力が発顕していないか、注意は払われる事と
なる。
知らぬうちに霊障を受け死に至るような事態を避けられるかもしれない。


そう説明された時、ああ明仁がやっきになって隠そうとするはずや、と郁実は納得できた。
自分の性格的に、どうしたって小早川に一度は話すべきだろうと思ってしまう。
信じてもらえなくても気持ち悪がられても、それで嫌な思いをしても。
未来への禍根の種を残したままにするより、できるだけの事はしておいてあげたい。
そうでないと後悔する。

だが、だからこそ明仁は、そういう事ができるそういう事をやってみてもいいんだと郁実に知ら
せたくなかったのだ。
自分たちには自覚のない霊能力者を守る義務などない。
知らなければ、選択肢は 『小早川を排除する』 か 『小早川の存在を黙認し様子を見る』 の
ふたつだけだっただろう。

(知ってしもたら…もうみっつめの選択肢は無視できんようになる)
それは、本来背負わなくてもいいはずの物を背負い込んだということだった。
この年上の従兄が祖父に対して怒りを露わにした理由を思い、胸がつきんと痛くなる。


「……郁ちゃんは…小早川さんに話してみるつもりなんだろ」
「うん…怖くない言うたら嘘になるけどな…そうしたいとは思てる。でも明仁が反対する気持ち
も分かるから、無理には押し通せんな……」

触れた背中が暖かい。明仁が煙草の煙を吐き出す動きを感じながら、郁実は目を伏せる。
「俺はね、郁ちゃん…」
「……うん」
「俺はただ、郁ちゃんをできるだけ普通の子みたいに生活させてあげたいだけなんだ…」

普通の子みたいに。できるだけ。
決してそんな風ではなかったであろう明仁のこれまでの人生を思った。
得られなかった分、この人が自分に与えたいと願うささやかな幸福に泣きそうになった。
郁実の、この世に属さないものを映し出す瞳が涙で揺らぐ。

「明仁…!」
身を翻し、明仁の広い背中に抱きついた。腕を回し頬をつけて誰よりも近くに行きたいと思う。
ごめん、ごめん。
言うとおりにできなくてごめんな、面倒ばっかりかけてごめんな。
溢れる思いをどうしていいか分からなくなり、郁実はただぎゅうぎゅうと明仁にしがみつくしか
できない。


「……うわ、ちょ…待って、郁ちゃん」
慌てて、今度こそ明仁は持っていた煙草を灰皿に押し付けた。
自分の手をどこに持っていっていいか若干迷い、体の前に回された郁実の手を包む。
緊張が続いたせいか冷たい一回り小さな手に温もりを分け与えるようにして。

道なき道をゆく自分たちには、きっと正しい解答などなく。
それは先達である祖父や細も同じだったのだろうと明仁は思うことができた。
自分が万能ではない事を百も承知で、愛している人を守ってゆく。
難しい険しいその役目を課してくれた。

「泣いたりしなくていいんだよ。俺は郁ちゃんの信じた道を一緒に行く。9歳の時からそう決め
て生きてきた」
俺はきみのものだ。初めて赤ん坊の郁実を見た時に分かった。
それがどんなに狂った運命だったとしても。
最初の地点に戻れるとしたって俺はきみとゆく。だから俺のために泣く必要なんかないんだ。


「そっち向いてもいい?」
「……ヘンな顔しとるからいやや」
「まあそう言わないで。ちゃんと見てしみじみしておきたいんだよ」
「何?」
「郁ちゃんなんて大きくなったんだろうって」

回した手を緩く持ち上げられた。明仁がこちらへと向き直る。
微かな風が、二人の元へ春の夜のいい匂いを連れてきた。
それを感じ、やっぱり煙草なんてあんまりええもんちゃうなと郁実は思う。

どんな顔をしていいか分からなくて、ごちゃ混ぜになった心持ちをそのままさらすしかなくて。
だが、明仁は郁実の左目元の泣きぼくろを指でなぞりながら、「きれいだね」と笑った。

今の俺がそう見えるってどんなひいきの引き倒しやと呆れたが、本気で言っているようだ。
だが、この蛇口をひねりっ放しみたいな愛情がどんな時も自分を支える。
(もうなかった頃には戻れんわ)
だからひとり占めをするその対価を払ってゆく。



そこへユッキーがトットッ…と軽い足音をたてて駆けよってきた。
郁実の膝に半ばよじ登りながら、「さあさあ、今日はもう店じまいですよ!郁実さまはお休みに
なってください!」と強引に言い渡す。

「そうやな、また明日相談するんでええか?明仁、ユッキー」
気持ちは伝え合ったものの、小早川に話すかどうかはっきり結論を出したわけではない。
ただ三人とも、今日のところは限界だなと感じていた。
明日に回せる事はそうしても怠慢ではないだろう。ずっと一緒にいるのだから。

ふあ…と欠伸をする郁実を見やり、明仁も頷いた。
「小早川さんの件が落ちつくまでは俺とユッキーも一緒に寝るから、安心してていいよ」
「二人とも俺のためにずっと起きてたりしたらアカンで」
「ご心配いりません。ユッキーが郁実さまに三重結界を張りますのでね。家の結界にも注意を
払いますし」

お前の使い魔が役にたたんようならワシの翡翠を貸してやるぞ、と最後に祖父が電話でいらん
事を言ったので、ユッキーはものすごく立腹していた。
じいちゃんはなんでこの二人を煽るんが好きかなあ…と呆れ果てる。

それでも、色々な事がありすぎた一日は案外とつつがなく終わろうとしていた。
三人で顔を見合わせて、笑えるぐらいの余裕は取り戻して。