ここより永遠に



Scene.1



夢遊病患者のようなおぼつかない足取りで校舎から出てきた乾は、ひどく軽装だった。

青学テニス部のデータマンとして他校にも名を知られている乾の荷物の中には、常にパソコンやデジカメや
録音の機械、ノートなどがみっしり詰め込まれていたものだ。
だが今は、学生服の上からハーフコートを着て、薄っぺらいカバンをひとつさげているだけだった。

その上、ラケットを持っていない。
ラケットを持たない自分というのがひどく所在ない気がして、どんより落ち込んだ気持ちに拍車がかかった。

しかしそれも致し方なかった。もう授業は大した内容ではなかったし、部活もない。
卒業式が明後日に迫っていた。


青学は中高一貫教育で、高等部も同じ敷地内にある。
だから卒業式と言っても、終業式に毛がはえた程度で、その日忙しいのは答辞をやる手塚ぐらいなものだろう。
だが乾にとっては、大切な人との距離ができる節目の日であった。



家に帰ろうと校門に向かっていたはずなのに、無意識の欲求の方が勝ってしまったらしい。
いつの間にかフラフラとテニスコートが見える場所へと来てしまった自分に気づきハッとなる。

(いったい何をやってるんだ、俺は……)

自分の行動が気恥ずかしくて、乾は正直、頭を抱えたくなってしまった。
だがパコーン、パコーンとボールを打つ音を聞いているうちに我慢できなくなって、彼を目で探す。

すぐに、遠目にも鮮やかなオレンジ色のバンダナを捕捉した。
彼の周囲には数人の一年生が群がっていて、何か打ち方のコツを教えてやっている様子だった。
一年生たちも怖がっている感じはなくて、なんだか楽しそうだ。



『アイツ、最近ずいぶん変わったっすよ。下級生にも色々教えてやったり、愛想はあんまないっすけどね』
部長としての自覚が出てきたんすかね、と校内で行き会った桃城が、笑いながらそう言っていた。


乾たち3年が引退した後の青学は、確かに選手層が薄くなってしまっている。
越前・桃城・海堂という中心選手はいるが、団体戦はそれだけでは勝ち抜けないのだ。
自分だけが強ければいいというわけにはいかないのだと、彼も悟ったのだろう。


その上、海堂は手塚から青学テニス部の部長を引き継いでいた。
後輩に人気のある桃城が指名されると思い込んでいたらしく、当初はかなりとまどっていたようだが。
今こうして見ると、部長になったことで海堂本来の良さが引き出されているように感じられた。

(元々、海堂は年下には優しいからな。皆が気づいてなかっただけで)





先日久しぶりに泊まりに来た海堂は、見慣れた乾の部屋にある物を見つけて表情を曇らせた。
それは高等部の制服一式と、教科書だった。
高等部はブレザーにネクタイだから、アンタいよいよ年齢が読めなくなりそうっすねと冗談ぽく笑っていたけれど、
彼の表情から寂しげな影は拭いきれていなかった。

何も変わったりしないよと言いたかった。
そして何も変わらないと、彼にも言ってほしかった。

だが残される立場の海堂には、制服ひとつ変わるだけでも乾が遠くへ行くような気分にさせられるのだろうと、
分かってもいた。

…今、乾が遠くから彼を見つめるだけで、あのフェンスの向こうのコートに入って行けないのと同じに。




『俺と離れるの、寂しい?』
それは乾にしては直球の問いだったから、海堂は驚いた顔をしたが、肯定も否定もしなかった。
ただ、浮かんだ薄い微笑みは、かつて乾が見たことのない類のものだった。

『俺とアンタは、今まで一緒に居すぎたんじゃないっすか』
『……え』
『学校も部活も同じで、すげえたくさんの時間を共有してきた。でも本当はそんなに一緒に居られる恋人同士
なんて少ないはずだろ』


彼の言いたい事は理解できた。
世間に星の数ほどもいるカップルは、毎日の忙しなさの合間を縫って、会える時間を探すのだ。
今までの自分たちが恵まれすぎていたのだと、彼はそう言っている。
だが、大人びた表情で大人びた事を言う海堂を、乾は見ているのが辛かった。



……その夜、どうあっても弱音を吐かない海堂を、乾はベッドの上で長い時間をかけて抱いた。

いつにも増して丁寧な愛撫を繰り返し、彼がとろとろになるまで快感を引き出してゆく。
唇と舌と指先を使って、彼が頑なに隠そうとしている感情を、溶かした。
乱暴さが全くないだけに余計にタチが悪い乾の所作に、海堂はたまりかねて身体を丸め、ベッドから逃げ出そう
とするほどだった。


乾のセックスは、二人が初めて身体を繋げた日から一貫して、海堂の快楽が優先だった。
それを彼はいつも気にしている様子で、『もっとしたいようにしてもいい』 などと言うこともあった。

(なんにも分かってないんだからな、海堂は)
恋人のそんな睦言はとても愛らしかったから、乾はわざわざ説明してやったことがない。

強気な瞳が涙に潤んでゆく、その美しさ。
ただでさえ高い体温がさらに上がり、汗で綺麗な髪を頬にはりつかせて、吐息をこぼす。
プライドの高さを放棄してまで、彼が乾と何もかもを分かち合おうとする刹那。
愉悦が深まるにつれて漂う甘い香りに、いつも気が狂いそうになる。
腕の中の存在に、乾がどれほど煽られているのかを、彼はきっと分かっていないのだ。



『…な…んで…俺ばっかり…アンタ、全然悦くなってねえだろ……』
とっくに限界にきているくせに、まだ自分を保とうとする恋人に、乾はただ甘く微笑みかけるだけで、しきりに
弱い部分を甘噛みしては唇で啜りあげてやった。

『…せ、んぱい。乾…せんぱ…』
汗ばんだ乾の背中を、何か探すような仕草でかき抱く、しなやかな腕。
溺れるように焦点を失ってゆく、その声。
ついには低くすすり泣くようになってもなお、彼を愛する手を緩めてなんかやらなかった。

(俺がきみの寂しさを暴いてやらなくて、誰がそれをするんだ)
痛いほどに、そう思った。
強がってばかりいる彼に、自分がしてやれるのはたったそれだけだった。



『薫、寂しいって言ってごらん』
『……な…に…』
『俺と離れるのイヤだ、寂しいって言って。言うまでは、このまんまだからね』


長い間、達することを許されずに優しく苛まれ続けて、海堂はもう限界だった。
そんな彼の耳朶を唇で愛撫しながら、乾は自分の声がどんな効果を及ぼすのか承知の上で、そう囁いた。
しなやかな海堂の身体に、びくん、と震えが走る。

普段は一度ほども違う二人の体温は同じになり、心臓が壊れそうに鳴っているのを感じた。
熱くて、熱くて、たまらなかった。
もうとっくに溶けあってしまった身体には、境目なんかどこにも見当たらない。

こんな状態で嘘がつけるほど、海堂は世慣れてはいなかった。
乾の身体に抱きすくめられ揺すられながら、彼はほとんど咎めるような視線で見上げてきた。


『…っ、あんた、サイアク…だ…』
『俺の恋人は意地っ張りだからね。こうでもしないと気持ちが聞けない』
『…言って…どうなるっていうんだよ…』

彼の声に含まれた感情が、今にも決壊しそうに震えていた。愛しさに胸がつまった。
そう、どうにもならないことだった。だが胸に秘めるのはとてもつらいだろうから。

(俺は、きみの心をこじ開けてでも、それを)

『…俺が安心できるからね。聞かせて』
汗で湿り気を帯びた髪に指を触れながら、わざと自分の為だという言い方をする乾に、見開かれた黒い瞳から
とうとう涙がこぼれ落ちてしまう。


感じやすい心を持つ彼を、愛おしんで、子供をあやすように両腕で揺すって。
乾が笑いかけると、彼もつられるようにくしゃっと笑顔になった。
頬に残るその雫は透明で、それはそのまま乾の中に巣食う不安すら押し流してくれたような気がしたのだ。




あの夜、自分たちは大丈夫だと乾には信じられた。
何度も何度もお互いの寂しさを口にして、強く抱きしめあって、最後は二人で眠りに落ちた。
彼にこんなにも近づける人間は自分以外にいないと、うぬぼれる事さえできた。

(なのに、よりにもよってこんな時期に、越前が割って入ってくるなんて)



寒い吹きさらしに立ち通しなのも忘れて、乾はぼんやりとオレンジ色を目で追いかけていた。
海堂がもてるのは、今に始まった事じゃない。
だが彼は相変わらず自分に寄せられる好意には鈍感だったし、そんな不逞の輩は乾がせっせと掃き集めては
生ゴミの日に出してきた。


越前が海堂を好きな事も最初から気づいていたし、今までもさんざん牽制はしていたのだ。
だが、心のどこかでは油断していたのかもしれない。
からかうような態度ばかりで、本気で迫る様子を一向に見せない越前に。

(完全に、隙をつかれた。まさかあんな告白の仕方をしてくるとは)



月間プロテニスが出たのは昨日のことで、今朝にはもう校内で大変な話題になっていた。
あの越前リョーマに、片思いをするような相手がいると。

それが海堂の事だと分かる人間は、男テニのほんの数人にすぎないだろうが。
(海堂はあの記事を読んだんだろうか。いや、読んでなくても、いずれは耳に入る)



あの越前のコメントは、告白された本人にのみ、それと分かるような内容だった。
ということは、乾の預かり知らぬ場所で、二人がああいう会話を交わしたことがあるのだと推測された。

越前の突然の告白に、焦りや憤りよりもむしろ、乾は呆然とさせられていた。
ようやく大丈夫と思えるまで固めた物が、足元からガラガラ崩れてゆく感じがする。

ここに来てようやく自覚した。いや、無理やりさせられた。
海堂と離れることに対する自分の不安が、どれほど大きく育っていたのかを。



オレンジのバンダナに、これまた見慣れた帽子が近づくのが目に入った途端、乾は何か怖い物を見たかのように
踵を返し、その場から逃げ出した。

校門を走り出てゆく乾の姿に、数人の生徒がぎょっとしたような顔をしたが、本人は自分が目立っている事になど
気づきもしなかった。

ただ今は、瞼の裏に焼きついた海堂と越前の姿を、追い払ってしまいたかった。






Scene.2



「あ、やっぱここにいたのか!探したんだからな〜」

外に会議中の札がかけてあるのも構わず生徒会室に乱入した菊丸は、拗ねた様子で中にいた不二を睨んだ。
今や校内でもちきりの噂について不二と話そうと、授業が終わるのを心待ちにしていたのだ。
なのに、ちょっと目を離したスキに逃げられてしまった。

部活を引退してからというものの、菊丸も放課後の長さをもてあましていた。
自分はあまり練習が好きではなかったが、毎日テニスをするのが当然の体になっていたんだなと驚かされる。



「よく分かったね。ここは今日特別に借りたから、誰にも分からないと思ってたんだけど」
「不二が手塚とどっか行ったって聞いた……って、うわ、手塚なにやってんの!?」


広い部屋の一番奥にある生徒会長の机には、以前と変わらぬ威厳で手塚が鎮座していた。
彼は大きな机の上に硯を置いて、なんと一心不乱に墨をすっている最中だった。

「卒業式の答辞だ。下書きは終わったから、今から清書をする」
「本番では、和紙に筆で書いた物を使うらしいよ。こう畳んであるの、英二も見たことあるだろう?」
「マジで!?結婚式のスピーチみたいじゃん。手塚、本気でやるの?」
「無論だ」

祖父に色々な事を仕込まれて大きくなったせいか、時代錯誤な感すらある手塚は、答辞をする以上は礼を尽くして
行うつもりだった。

これだから老けてるとか顧問の先生とか言われるんだよと菊丸はこっそりと思う。
だが、手塚国光の生き方を今さら軌道修正することは、親でも無理な話であった。




「あ、そんな事より!おチビの例の記事、すっごい騒ぎになってるぞ〜」
手塚には一人で勝手に墨をすらせておく事にした菊丸は、久しぶりのセンセーショナルな話題にワクワクしつつ、
問題の雑誌を引っ張り出して机に置いた。

「ああ、やっぱりその話か。僕も堀尾たちから話題騒然だとは聞いてたんだけどね」
貢ぎ物のように、さっき下級生から貰ったマドレーヌやクッキーを差し出せば、用意いいねと不二がかすかに笑う。

一応、恋人同士の二人きりの時間を邪魔している自覚はあるのだ。
だから差し入れのつもりだったのだが、聡い不二にはそれが分かったようだった。



お湯が沸いてくる小さな音を聞きながら、二人は顔を寄せ合うようにして雑誌のページを覗き込んだ。
月間プロテニスで、芝が新しく始めたコーナーである。

いつもは誰かが買ったのをちゃっかり読ませてもらっていた菊丸だが、今回ばかりはそうもいかずに、残り少ない
お小遣いをはたいた。
なにしろ自分がよく知っている三人に関係あるのだから、興味深々の内容だ。


そのページはミーハーな芝の企画らしく、まるでアイドルのインタビューのように交わされた会話をそのまま載せる
形式を取っていた。

不二や菊丸も、「いずれゲストに出てね〜」とオファーされていたのだが、記念すべき第一回に登場したのは青学の
一年生ルーキー・越前リョーマだった。






芝 : リョーマくん、誕生日はいつだっけ?
越 : 12月24日っす。
芝 : ああ、そうそう!クリスマスイブなのよね〜さすがは王子様。
       イブに生まれたって言っても全然違和感ない感じ!
越 : はあ… 
芝 : 血液型は?
越 : O型。
芝 : えーっと、じゃあ家族構成を教えてくれるかな。
越 : 両親と従姉妹と猫っすね。
芝 : 好きな食べ物は?
越 : 和食…焼き魚とか、茶碗蒸しとか。
芝 : あら、渋いわね。でも意外性があっていいかも。
越 : はあ…そっすか。
芝 : それじゃあね、好きな花ってある?
越 : 花…っすか。
芝 : あ、ゴメンゴメン、男の子にはあんまりキョーミなかったかな。んじゃ、質問変えて…
越 : いや、あるっす。……ハナミズキ。
芝 : ハナミズキ?えーっと、あれのことかな。木に白とかピンクの花の咲く。
越 : (頷く)
芝 : えーリョーマくん、帰国子女なのに珍しい花を知ってるのね。何か理由があるの?
越 : 好きな人が好きだって言ってたから。
芝 : ………はい?
越 : 俺の好きな人が、5月生まれで好きな花だって言ったんすよ。だから俺も好きになった。
      (しばし、深い沈黙)
芝 : ええーーーっ!!?
越 : 芝さん、声デカイ…
芝 : 待って、ちょっと待ってよリョーマくん。好きな人いるの!?付き合ってるの、その人と!?
       いや、その前に、これってオフレコよね?リョーマくんの秘密だから雑誌に載せちゃダメなのよね?  
越 : や、別にいいっすよ。俺の片思いだし。
芝 : ええーーーっ!!?リョーマくんが、片思い!!?どこの女よ、それ!?(錯乱)
越 : (無言でナイショのポーズ)
芝 : (息も絶え絶えの状態で) ちょっとリョーマくん、ホントにいいの?
       好きな人いるなんて公開しちゃったらモテなくなっちゃうわよ〜
越 : どうでもいいっすよ。本命以外は。
芝 : いやああぁぁぁー!!(号泣)






「コレってどう考えても海堂のことだよな〜5月生まれって言ってるし」
不二がコーヒーを淹れはじめたのを横目で見ながら、菊丸は微妙に困った声でそう言った。

内心いつでも、乾と海堂のことをお似合いの恋人同士だと考えていたのだ。
まあ普通の組み合わせではないかもしれないが、そんなのは不二と手塚で慣れっこになっていたし、何よりとても
好きあっているのが分かる二人だったからだ。


(乾とは、一年の時から同じ部で仲いいしさ。汁はキライだけど、面倒見よくて優しい奴だし)
(薫ちゃんは弟に欲しいぐらいいい子だにゃ。こんな事になって、きっと困ってるんだろうな…)

椅子の上であぐらをかくようにして、菊丸はうーんと唸った。
本来なら当然、乾と海堂を応援してやりたいところだ。応援どころか、積極的に介入していたかもしれない。

(でも、ライバルがよりにもよっておチビとはな〜俺、おチビのことだってすごく好きだしさ)



我関せずな態度ですましている手塚が、妙に小憎たらしい気がしてきた。
むぅーっとふくれながら手塚ににじり寄ると、菊丸は彼の手から墨を取り上げた。
代わりに問題の雑誌をぐいぐい押し付ける。なんで手塚には人並みの好奇心が足りていないのだろうと思った。

「こら、菊丸、返さんか」
「ヤダ。手塚だってちょっと心配しろよ!乾も海堂もおチビも大変なんだからな!」
「だからと言って、他人がどうこうできる問題ではなかろう」
「うわ、ヤダヤダ、手塚の冷血人間!不二、なんか言ってやれよ」

振り返ると、不二の背中が微妙に震えている。どうやら笑っている様子だ。



手塚も諦めたのか反省したのか知らないが、硯を脇に押しやると、意外に素直に記事に目を通し始めた。
「何だ、この軽佻浮薄な内容は」などとつぶやきながら、ページをめくってゆく。
ケイチョウフハクって何?と不二に尋ねると、「まあ、ミーハーって事かな」と答が返ってきた。

「手塚ぁ、芝さんからミーハーを取ったら何が残るんだよ…」
菊丸のツッコミはもっともだったが、芝とてこの企画が初回からこんな内容になるとは思ってもみなかったはずだ。



「こんな告白のされ方したら、女の子なら絶対落ちるって!乾どう思ってんだろ。てかどうしてんだよ、あいつ」

その言葉に、綺麗にラッピングされたお菓子を皿に盛り付けていた不二の手がふと止まった。
生徒会室の中は暖房が効いていて暖かかったが、外はまだまだ寒い。
だが新生男子テニス部は、いつも通りにコートで練習をしている時刻だった。


「…さあ。もう帰ったんじゃないかな。僕も気になって何度か教室を覗いたんだけど、捕まらなかった」
「今ごろ、どっか物陰から海堂を見張ってたりして〜」

乾が今この瞬間に本当にそうしているとも知らず、菊丸は自分の言葉に暢気に笑った。
データ取りと汁のおかげで、すっかり変人ぽいイメージが定着している乾が、遠くから海堂をいくら盗み見ようとも
誰もおかしく思わない辺りは、怪我の功名と言えなくもない。




「…まあ、大丈夫だと思うけどね。乾と海堂は」

みっつ淹れたコーヒーを大テーブルの方に置くと、「手塚」と呼んで不二はこちらに来るように促した。
ばさ、っと机の上に雑誌を伏せて立ち上がり、手塚も即席のお茶会に着席する。
ひとつだけ、見るからにミルクが大量に入ってそうなコーヒーを選ぶと、菊丸は美味しそうにそれをすすった。

「なに、自信ありげじゃんか、不二。でも相手はおチビだぞ〜俺だったら自分の好きな子におチビが告白したら
イヤだけどな」
「それは僕だって同じだよ」


良くも悪くもこのメンバーは、越前リョーマがどんなに魅力的な人間か分かっていた。
テニスが桁外れに上手いだけではない。
整った容姿と、猫のように気まぐれな性格。
クールな振る舞いの中に存在する情熱や、ふとした時に見せる子供っぽさと、閃くような笑顔。

その類稀れさを知るからこそ、みんな越前が誰かに片思いをしているという事実に、これだけ騒ぐのだ。


(まあ実際、越前に惹きつけられない奴なんていないだろうね)

ふと、隣の席でコーヒーを飲んでいる手塚が目に入った。
自分の恋人に誰かが言い寄るだけでも嫌だったが、それが越前ともなると確かに死活問題だ。

「薫ちゃん随分変わったもんな。前みたいに怖い顔してないし、ほんとは親切で優しいから、モテてもしょーが
ないんだけどさ…」




『自分の一番欲しいものは決まってるのに、それから目を逸らしても何にもならんぞ、不二』
ふ、と不二の脳裏に乾の言葉が蘇ってきた。

もっとじりじりと暑い夏の日だった。同じ、この部屋で。

あの時自分は、手塚との事をあきらめれば楽になれるとまで思いつめていた。
いつか必ず別れが来る。手塚は広い世界に飛躍するような選手なのだからと。

(…怖かった。戻れなくなった自分の心が。いつかどうしようもなく傷つくことが)


だが乾には あの日、もう分かっていたようだった。
恋をするというのは、戦いなのだと。

未来のことは分からない。自分の心であっても、だ。
不確定なそれを抱えて、誰もが畏れに立ち向かうしかない。
彼の静かな覚悟は、今も消えぬまま、不二の胸の中に残っていた。忘れてはいなかった。


(…僕にそう言ったきみがダメになったら、お話にならないよ、乾)
口元にだけに柔らかな笑みを刷いて、どこにいるのか知れない友人へと、そっと話しかける。

恋とは、自分自身と戦ってゆくことだった。




「海堂は変わってないよ。彼は最初からああいう人だったんだ」
「どゆこと?」

首を傾げた菊丸と、コーヒーを飲む事に熱心な顔をしながらもちゃんと話を聞いている手塚に、不二は静かな
口調で告げる。

「うん、ただ扉が閉まっていたんだと思う。ぎゅっと縮こまって、人とどう接したらいいか分からなくて困ってた」
「あ、そうそう、そんな感じだったよなーしゃべらないし、何か言われたらギロッて睨んできて」


不器用な子だな、というのが最初の印象だった。
よく見れば、やっている事は真面目すぎるほどだし、売られたケンカは買うけれど特に乱暴なわけでもない。
練習にも熱心で、当時の一年の中ではいち早くレギュラーになるだろうと思わされた。
だが、しゃべるのが苦手らしく、自分が誤解されがちなのを、もう仕方ないと諦めているようなふしがあった。


「乾が外からノックして、話しかけて、扉をひとつずつ開けていった。それは、誰にでもできる事だとは思えないんだ」
「うん…そだね」

確かにあの頃の海堂はまっ白な素材で、あるいは誰と恋をしても変わったのかもしれない。
だが誰かに惹かれるというのは、乾の口癖のように理屈ではないのだ。
例えば越前が乾より先に海堂の前に現れていたとして、彼の扉を開けてやれただろうか。

(僕には、そうは思えないんだよね)


基本的にへたれな性格の乾が、今現在、越前問題でぐるぐると悩んでいるであろうことは容易に想像できた。
だが、自分に偉そうに説教した以上は、それを貫いてもらわないと困るのだ。

(だから僕は、きみに一票入れさせてもらうよ、乾)

人の悪そうな笑みを浮かべながらも、どこか真剣な気持ちで不二は、乾が自らの言葉を実践してくれることを願った。
タイムリミットである卒業式は、もう本当に間近まで迫っていた。






Scene.3



3月もようやく半ばにさしかかろうとするこの時期、寒い屋上で昼食を取るようなもの好きなどほとんどいない。
まして屋上からさらに突き出している吹きっさらしへ、誰かが登ってくる心配などなさそうだった。


たまに天気のいい日に一人で昼休みをすごすこの場所が、海堂は気にいっていた。
今日は必要に迫られて来たのだが、幸いぬけるように空が青く、予想したよりも暖かい。
風呂敷に包んだ大きな弁当箱を置くと、脚を投げ出してぺたんと座った。

元々、海堂は手足が長かったが、今はそれに見合うだけの身長になり、とても伸びやかな印象だ。
そして何より内面の変化が、彼にもたらしたものは大きかった。
今の自分がどんなに人目を惹く存在なのか、本人には相変わらず全然分かっていなかったのだが。



太陽の光を感じ取ろうとするように、そのまま空を仰ぎ、目を閉じてみる。
最近、忙しかったせいだろうか。こんな静けさは久しぶりだと思った。

(違うな。わざと忙しくなるようにしむけてた)
自嘲気味な笑みが、海堂の口元にかすかに浮かぶ。


3年が引退したテニス部は、当然2年が中心になって動かして行かなければならなくなった。
自分が強くなる事だけを考えていればいい時期は、終わってしまったのだ。

予想もいていなかった部長就任で、男テニの中心メンバーとなってみて初めて、部を運営することの煩雑さに
驚かされた。
とにかく雑用が多いのだ。部内の人間関係や揉め事も含めて。

大石が人当たりの良い笑顔の裏で、どれだけの仕事をこなしてきたのかを痛感させられた。
今まではただ張り合うばかりだった桃城が、しっかりと自分をサポートしてくれなかったら、どうしていいのかも
分からなかったに違いない。


3年の引退で急激に選手層が薄くなったチームで、期待のできそうな者を育てあげるのも責務だった。
自分と桃城とそして越前がいるにしても、それだけでは団体戦を勝ち抜けはしない。
去年、全国制覇をしたチームなのだから、当然注目度もハンパではなかった。
海堂も桃城も、あらゆるプレッシャーに歯を食いしばって耐え、新しいチームを安定させようと奔走した。



だがそんな中、海堂は下級生の指導をし、自分も練習に励み、自主トレも今までどおりに行っていた。
そんな姿を見た桃城が さすがに眉をひそめ、『ほどほどにしとけよ、海堂』 と諫めるほどだった。

しかし自分は、そんな声に耳をかそうともしなかった。
忙しければ考えずにすむと思った。乾がもうすぐ卒業していなくなってしまうという事実を。



どうしようもない事だ。自分と乾が年が違うのも、彼が必ず一歩先へと進むのも。
こんな苛立ちや不安は、この先何度でも巡ってくるのだろう。
だから絶対に弱音を吐かないと、決めていたのに。


心に張りめぐらしていた弱い虚勢など、結局何の役にもたちはしなかった。
乾の部屋に泊まった夜、海堂はありったけの弱音を全部、口に出して言わされた。

(あの人に、なにか隠しごとができると思ってた俺がバカだったんだけどな…)


だが、本当は嬉しかった。
自分の心を暴かれることに、反発がなかったわけではないけれど。
お互いの境目が分からなくなるほど深く混じりあい、唇を触れあわせながら。

『…寂しい』
『うん、俺もさびしい』
『離れ、んな…』
『言われなくても、離してなんかやらないよ…』


薫、薫…と乱れた呼吸の合間に、溺れるように名前を呼んでくれた彼の声。
頭の芯がしびれるほど、感じながら。
バカみたいな睦言を、言ってもどうにもならない事を、何度も何度も囁きあった。

それが、余計な苦しさを胸に積み上げるばかりだと、本当はどちらとも知っていたというのに。



もう、卒業式は明日だ。
あの夜、ようやく自分たちの繋がりを実感できた気がしたのに。
毎日連絡を絶やしたことのない乾が、昨夜はメールも電話もよこさなかった。

(先輩、あの記事の意味に気づいたのか……考えこんでなきゃいいけどな…)

目に染みるような青い空を、飛行機が轟音を響かせながら斜めにすうっと横切ってゆく。
それをぼんやりと見つめながら、海堂は弁当に手もつけずに、約束の相手が来るのをただ待っていた。






「…あ、いたいた。待たせたっすね、海堂部長」
「遅せぇぞ、越前。メシ食う時間なくなっちまうだろうが」
「日直だったんすよ」


海堂のいる場所まで登ってきて、ひょっこりと顔を見せたリョーマは、この呼び方まだ慣れないっすと言った。

「部活中でもないのに、そんな呼び方する必要ねえよ」
「そっすか?俺、実はかいどー先輩って呼ぶ方が好きなんだよね」

急に嬉しそうな顔で笑うから、そういうとこは可愛げがあるかと思ったりもする。
リョーマは桃城と仲がいいが、こういう甘え方を見せるのは むしろ自分の方になのだと最近海堂は気づいていた。



海堂と同じように脚を投げ出してぺたりと隣に座る。
手には購買のパンがふたつと、リョーマの代名詞のようになっている炭酸飲料の缶が握られていた。

「……なにニヤニヤしてんだ、お前」
「だって、待ち合わせみたいじゃないっすか」

男同士で使う言葉でもないのだが、待ち合わせには違いねえかと生真面目に海堂は考えた。
今日この場所にリョーマを呼び出したのは、他ならぬ自分自身だったのだから。



リョーマの言葉に下手に反応すれば、からかわれるネタを提供するだけなので、海堂は肩をすくめると自分の
弁当を開いた。
うわ、それが有名な重箱弁当っすかと、中身を覗き込まれる。

「先輩のお母さん、料理上手かったっすよね。ほら、前にごちそうしてもらった…」
「ああ、そうだったな。乾先輩とお前と…」

夏頃に偶然二人と行き会ったリョーマは、海堂家の晩御飯におまけで招かれたことがあったのだ。


ふ、と海堂の表情が緩んだ。

『乾先輩』とただ名前を口にするだけなのに、なんだかとても優しい顔になる。
そしてそれを本人が全く意識していないのだから、本当に始末におえない。


リョーマは、それを見ていると胸の内側がモヤモヤしてきた。
こんな時だ。
彼の心を、どれぐらい乾が占めているのか思い知らされるのは。


リョーマは自分に自信があったし、望みが叶わないなどと考えたりしたことはない。
だが実際には、目の前の人に手が届かなかった。
無理やりにでも 振り向かせたいと思うのに、思い通りになったことがない……今のところは、だが。



「食ってもいいぞ。お前それだけじゃ足りねえだろ」
「え、ホントっすか?俺、実は和食の方が好きなんすよね」
「…知ってる。焼き魚と茶碗蒸し、だろ。インタビューで読んだ」


別段なんの含みもないような口調で、海堂はさらりとあのインタビューの事に触れてきた。
却ってリョーマの方がどきりとする。柄にもなく、体温が上がるのを自覚した。

(この人が俺を呼び出すなんて、あの記事の事だって分かっちゃいたけど)
箸がねえな、とぼそりとつぶやいた海堂を、手でつまむからいいっすとリョーマは慌てて遮った。




いただきます、とこんな場所でも丁寧に手を合わせる海堂を見て、リョーマも真似をしてみる。
彼のこんな一面も好きだった。
少々古風かもしれないが、礼儀正しい人だ。

自由奔放なのが自分の特性だと分かってはいたが、彼の整えられた所作を綺麗だと感じたし、あんな風に
なれたらとよく思った。
きれいなものは、誰が見たってきれいなのだから。


最初はあのキツイ眼差しにやられたのだと思う。
ランキング戦で対戦した時、ネットの向こう側に見た射すくめるような視線を忘れられない。
自分に必死で向かってくる選手など いくらでもいるというのに、何故、彼なのだろう。
強い光をまともに見てしまい、目の裏に残像が残るように、心が灼けた。




「お前またそんな炭酸ばっか飲んでんのか。牛乳飲め。背が伸びねえぞ」
「ふーん、海堂先輩より大きくて年上だったら、俺のこと問題にしてくれるんだ」

海堂が重箱の蓋に乗せてくれた味噌漬けの焼き魚を、指先で摘んで口に入れながら、リョーマは拗ねたような
口調でつぶやいた。
(だいたい不公平だって。学年が違って、出会うのが遅れただけじゃん)

自分にはどうにもできないことで出遅れているのが、悔しい。
乾と海堂が、周囲から安泰カップルみたいに見られてるのも悔しかった。


だが、何と言っても卒業シーズンだ。
距離ができれば、どんな関係だって不安定になる。
この時期に自分が割って入ったらどうなるだろうという意地悪な気持ちも働いて、インタビューに気持ちをさらした。


何より、彼にちゃんと自分を見てほしくなった。扱いにくいナマイキな下級生なだけでなく。
(俺もあんたが好きなんだってば。気づいてよ、先輩)
年下なのはどうしようもないけど、身長ぐらいはすぐに追い越してみせるから。



「…お前を見る時に、背丈や年の事を気にする奴なんかいねえだろ」

だが、海堂が彼特有のぶっきらぼうな口調でそう言った時には、あやうく心臓が止まりそうになった。
リョーマとよく似た艶のある彼の黒髪を、風がさらりとかき乱してゆく。

(凶悪なんだけど、この人…)
心に響くから、たまったものじゃない。
これ以上、好きにさせられたら、かなわないと思う。



他人から褒められるのなんか日常茶飯事で、リョーマはそんなの挨拶程度にしか思った事がない。
なのに今は、嬉しくて自然に口元が緩んでいた。

彼の目に、自分がちゃんと映っている瞬間がある。それだけなのに。
それを、言葉で教えてくれたことが嬉しい。
いつだって喋るのを苦手そうにしている人だからなおさらだった。

好きだな、と改めて自覚する。自分は、この人を もうずっと好きでたまらなかったのだ。




リョーマがふわりと笑ったのを目にして、海堂は驚いて箸を止めた。
自分の言ったことの何が、彼を笑顔にしたのかが分からなかった。
ただそれはいつも見慣れた生意気そうなものではなく、もっとずっと柔らかい表情だった。


最初、あの記事を見た時は、ただの冗談かもしれないと思っていた。
いつもリョーマは自分をからかって面白がるようなふしがあったし、彼の『片思いの相手』を自分だと確定するには
あの記事は曖昧すぎた。


でも違った。こんな顔をされては、気づかないふりも もうできない。

欲しいと言われている。
眼差しで、表情で、この類稀れな存在から求められていた。



『きれいっすね。何て花なのかな』
『……ハナミズキ。花と水と木って書くんだ』
『へえ、詳しいっすね。海堂先輩の好きな花?』
『…そうだな。家にもある。俺が5月生まれだから、生まれた時に植えたらしい』


白と薄紅の花びらの降る下で、交わした言葉が鮮やかに蘇ってきた。
いつから、だったのだろう。
きっともう長く想われていたのだ、自分は。この飄々とした態度の裏側で。




「俺はあの時、お前が片思いするなんてどんな相手だろうと思ってた」
「自分だって思わなかったんすか、全然?」
「思うわけねえだろ。お前そんなそぶり見せた事なかったし…」
「そうっすか?乾先輩は最初から気づいてたけど。それから葉末もね」


こっちから言わないと海堂先輩、絶対気づいてくれないっすよね。

およそ恋の告白をしているとは思えないような落ち着きぶりで、リョーマは重箱から俵形のお握りを無断で取ると
食べはじめた。
却って海堂の方が、どんな反応をしていいのやら判断に迷う。


(…辛くねえのかよ、おまえ。俺が応えられないの知ってるくせに)

それとも自信があるのだろうか。いつかは振り向かせてみせるという?

未来がどんなものなのかは、誰にも分からなかった。
海堂は、本当にそれが怖かった。自分の恋がどこへ向かうのか、ひとつも確信を持てなかったからだ。




「諦めろ。分かってんだろ、俺が応えてやれないことは」

わざと突き放すような口調で言った。
なのに、リョーマはとらえどころのない笑い方をしただけだった。


「イ・ヤ。ていうか無理っす」
「越前、おまえ…」
「はいそうですかって引き下がれるぐらいなら、最初から好きになんかならない」


平然としてお握りとパンの両方を口にするリョーマを見ているうちに、妙なもので海堂の肩からは力が抜けた。
もっと言えば、ガクッときたという感じだ。
とにかく相手が悪すぎる。
口が達者な事にかけては、海堂より一枚も二枚も上手なのだ。



あの記事を見てから、早く何とかしなければと一人思いつめていた。

乾と自分の関係に、これ以上の不安材料を作りたくなかったのだ。
だからこそ、リョーマの真意を聞き出し、はっきり断ってしまおうと思った。きれいに解決してしまいたかった。

なにもかも全て、自分の心の平穏のためだった。

リョーマが自分に懸けてくれている想いを、終わらせられると思うほど。
いつの間に自分は、そんなにも傲慢になっていたのだろう。



結局は自分の恋を貫いてゆくしかない、そう気づかされる。
自分にも思う人がいる。
彼を諦めろと言われても できはしないのと同じで、リョーマの気持ちを断ち切ることもできなかった。


(つよくなりたい。どんな事があっても、この気持ちだけは消えないように)

逃げて守りに入っていた自分が、とても恥ずかしく思えた。
もし、自分に何らかの値打ちがあるとしたら。
リョーマが好きになった自分も、乾が好きになった自分も、こんなものであるはずがない。




ふと顔を上げると、染みるような青空を背景に、学ラン姿のリョーマがやけに目新しく映り込んできた。

油断すれば、心をもっていかれそうな相手だった。
だからこそ自分は、なるべくまともに彼を見ないようにしていたのかもしれない。

それぐらい、最初からこいつには惹かれていたんだと、心の中で海堂はあっさり認めた。

だが、自分の恋しい相手は他にいる。
それとこれとは、似ているようで全く意味が違うのだと、今ははっきりと理解できた。



「俺は、今言った以外の返事をおまえにやれねえぞ。後は好きにしろ」
「海堂先輩に隙があったら、俺、これからは遠慮なくつけ込むんで。覚悟しといてよ」

賽は投げられた。
本格的に困った顔をする海堂を見ながら、リョーマはお気に入りの炭酸水を一口含んで、笑った。

「まだちゃんと言ってなかったっすね。好きです」



周囲にはクールだと思われている自分にも、大声で好きだと言いたい人がいる。
告白して振られたというのに、とりあえず今、彼を独占しているだけで満足な気がするから不思議だった。

それに彼が卒業するまでには、まる一年も猶予がある。

(諦めてなんか やらないよ。あんたにも、乾先輩にも、絶対負けない)


空は青くて、未来の可能性は無限に思えた。
好きな人の仏頂面を心ゆくまで堪能しながらリョーマは、柄にもなくドキドキしている自分が新鮮に思えて
もう笑うしかなかった。






Scene.4



まだ9時を回ったばかりだというのに、いつにも増して早い時間に風呂に入った海堂は、濡れたままの
髪を大雑把にタオルで拭いた。

こんな髪の拭き方をしているのを乾に見つかると、いつもタオルを取り上げられる。
それから丁寧に髪を押さえるようにして、水気をぬぐってくれるのだ。
『女じゃねえんだから、髪が傷むとかそんなのどうでもいいっすよ』と、抵抗してみてもムダだ。
海堂を甘やかす事を生きがいにしているあの男は、そんな言い分を今まで聞き入れた試しがなかった。



広い自室のガラステーブルの上に置いた携帯電話に、海堂はふと目線をやった。
だがもう今夜は、乾からメールも電話も来ないことが分かっていた。

それでも、心配はなかった。
ここのところ付きまとっていた不安や焦燥を、自分の中に感じることはない。
明日は用があってとても早い時間に出かけると、もう母親にも告げてあった。


『明日ね、乾くんの卒業式』
『…別に先輩だけじゃないけどな』
『薫も、どんどん大人になっちゃうわね…お母さん、なんだか複雑だわ』
『何だよ、それ』
『ここんとこ寂しそうにしてたけど、もう大丈夫な顔してるもの。自分で何とかしちゃうのね』


慈しむように頬を撫でてくれた、細い指先。
何も言わずに見ていてくれる母親の言葉に瞠目し、同時に自分は本当に恵まれていると思った。
喋るのが苦手で、他人と関わるのが難しかった自分が、それでもひねくれずにいられたのは、常に両親や
弟の愛情を感じていたからだ。


だからだろうか。乾が寂しそうな顔をするのを見ると、たまらない気持ちになった。

自分はひとつ年下だし、彼はそれでなくても大人びていたから、最初は世話を焼かれるばかりなのが
心苦しかったし、ある意味気詰まりでもあった。
だがひとつひとつ彼を知ってゆくにつれて、自分にもあげられる物があるのだと知った。



(いつからだろう。あの人の声を聞くと、振り返るようになってた)

(たくさんたくさん話をした)
(家族以外とこんなに話したことなかったから、自分にびっくりした)

(たまに喧嘩もするけど、仲直りの後はもっと好きになれた気がしてた)

(あの人の寂しさを埋めたかった)

(それが、俺には過ぎた願いでも)
(先輩が欲しがるのが俺の心なら、ひとつ残らずやりたいと、そう思っていたんだ)



昔に比べればマシになったが、やはり自分は口下手で、思っていることの10分の1も乾に伝わっていない
のではないかと心配になる時もあった。

だがそうではなかったのだと、今日乾が教えてくれた。
だから自分はもう迷わない。不安になったら、ちゃんと目で見て確認できるお守りができた。



携帯と一緒にテーブルの上に置いてあった封筒を取ると、海堂は寝床のあるスペースへと移動した。
母が干してくれたらしい、ふかふかのお陽さまの匂いがする布団の上に座る。

白いシンプルな封筒には、海堂がよく知る几帳面な文字で 『海堂薫様』 と書かれていた。
それは今日部活を終えて帰宅した海堂が受け取った、乾からの手紙だった。


すでに何度も繰り返し読んだその手紙を、眠る前に海堂はこっそりともう一度だけ開封した。






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最初、この手紙を読んだ時は、泣いていいのか笑っていいのか本当に困った。
『よくこんな気恥ずかしい手紙書けるな、あの人』 とは思ったが、乾の気持ちはひとつひとつが響いた。

彼はいつも言葉や態度で、惜しみなく好きだと告げてくれていた。それでも。
海堂がずっと見てきた乾の手書きの文字で綴られた言葉には、信じがたいほどの重みがあった。



手紙をたたみ、膝を抱えて目を閉じると、乾の想いにくるみこまれているような気がする。

『きみを好きになって良かった。心から、そう思うよ』

そんなの全部俺のセリフだろ、と思う。
乾のように上手く伝えることはできないけれど。


だが自分も同じ気持ちなのだ。あんたに会えて、好きになって良かったと。
その声はきっと、彼にも聞こえている。


(ありがとう、先輩……俺も今は、あんたに何度でもそう言いたい)

海堂は我知らず、とても柔らかく微笑んでいた。
それは乾と出会ってからの二年の間、水をもらい、陽の光で暖められて、花開いた笑顔だった。



明日の朝は、とても早い。
目覚ましを合わせ、手紙の入った封筒を大事に枕元に置くと、海堂はとても満たされた気持ちで横たわり
やがて静かな眠りに落ちた。






Scene.5



3月上旬の早朝はまだキンと冷え込み、冬の気配が強かった。
乾は小さな公園へと通じる長い階段のてっぺんに座って、海堂が来るのを待っていた。

学生服の上にコートを着ていたが、気温が低い上に朝もやがかかっていて、かなりな寒さだ。
だがそんな事も、大して気にならなかった。
彼に会いたくて、会いたくて、徹夜で待っていたって構わないような気分でいたのだ。



山側の高台にあるこの公園は、以前ランニング中に乾が偶然見つけた。
長い階段を登りきった場所から見下ろした街は本当に絶景で、いつか夜景を見に来ようと心に留めて
あったのだ。

そして去年の夏に、花火大会が行われているのをここから海堂と二人で遠く眺めた。

『こういうとこから花火を見るのも、いいもんすね』
『…だろう?特等席だ。花火が終わっても、夜景も星もきれいだよ』

好きな人となら、どこで何をしていても楽しかったけれど、彼が喜ぶ顔を見ると乾の幸せは何倍にも
膨れあがった。

海堂との思い出の場所は色々あったが、普段生活している街とは隔絶した雰囲気のあるこの公園を、乾は
一番に思いついたのだ。




ちょうど6時。階段の上がり口に、海堂が姿を現した。
特に時間を指定したわけではなかったのだが、几帳面な彼らしいと内心苦笑せずにいられない。

学ランの上からコートを着て、ラケットバッグを肩に担いだ見慣れた姿。
特に急ぐ様子もなく、一段一段を踏みしめるように近づいてくる彼に、出会った頃の姿が重なって見えた。

あの頃はまだ背が小さくて、手足だけが持て余すようにひょろっと長かったものだ。
顔立ちも子供っぽかったから、黒い瞳のキツさばかりが目立っていた。

ああ、とても大人になってしまったんだなと思う。
(…でも俺が好きになった海堂は、芯の部分は、これからも変わらないんだろうな)



透き通るような朝の陽射しを受けて、階段のてっぺんに座った乾は静かに微笑んでいた。
一歩踏み出すごとに近くなるその笑顔は、出会った時から変わらずに自分へと向けられていた。

あの頃、家族以外の人に笑いかけてもらえるという事自体が、海堂には特別だった。
口下手で愛想なしの自分に、見上げるほど背の高いこの先輩が優しくしてくれる理由などない気がして、
困惑したこともあった。

だが月日を重ねてゆくうち、彼は海堂にとってかけがえのない人になっていった。
彼が先に進むというのなら、自分は走って追いつき、また隣に並んで立つ。それだけのことだ。

(もうどうにもならない事を嘆いたりしない。俺はこの人と一緒にいたいんだ)




やがて海堂は、座っている乾と目線の高さが変わらない位置に来て、立ち止まった。

「おはよう、海堂。呼び出してごめんな」
「おはようっす。先輩アンタ、何時から待ってるんすか。時間指定ぐらいしろよ」

お互いに胸がいっぱいなくせに、口からは平凡ないつもの挨拶ぐらいしか出てこなかった。
だがここで会えたということだけで、二人にはもう充分すぎるように思えていた。


「……見納めっすね、その格好」
「え?ああ、コレか」

唐突な海堂の言葉に一瞬きょとんとしてから、乾は自分のコートの中の学生服を引っぱった。
「別に海堂が見たいのなら、いつでもリクエストにお応えして着るけど?」
そんなコスプレみたいな真似、いらねえよと言う海堂の仏頂面を見て、乾は肩を揺らして笑った。

「どうせ似合わなくなるだろ、じきに」
「そんなもんかな」
「そんなもんすよ」

さらに何段か上がって乾に手を差し伸べてやると、冷えきった大きな手が握り返してきた。
寒くて凍えているのか、ややぎこちない仕草で乾はよいしょと立ち上がる。
いつもの11センチ分の身長差に奇妙な安心感を覚えながら、二人は公園の中へと入っていった。





公園には、背もたれのある座席のような形をした古風なブランコがあった。
夏に花火を見た時も、乾はここに海堂を座らせて、自分は後ろからゆるくブランコを押してやりながら
街を見下ろした。

今日は、二人分の荷物をベンチの上にひとまとめにして置いた。
あの日と同じように海堂はブランコに座り、二人は眼前に広がる景色を眺めてみる。
パノラマのように美しい朝の街。
夜景のようなきらびやかさはなかったが、澄みきった空気の中で、それは今目覚めようとしていた。



「先輩、手紙ありがとうございました。すげえ嬉しかった」
「そうか、良かった。突然だったから、びっくりさせたかと思ったんだけどな」

二人は景色を見つめながら、ぽつりぽつりと言葉を交わした。
乾が背中を押してくれる度に、キイキイと軋んだ音をたててブランコが前後に揺れる。

「そっすね…けど俺は、ずっとあんたの手書きの文字ばっか見てきたし、メールとか電話よりもあんたの
気持ちがよく分かった気がしたんだ…」


こんな風に静かに話をするのは本当に久しぶりだと、乾も海堂も思った。
卒業式が近づくにつれ不安と焦燥が高まり、身体を繋げる事で無理やり安心を得ようとばかりしていた。

どちらも怖がっていたのだ。
眼前に広がりゆく未来の途方もない大きさに。


「あんまりカッコイイ事は書けなかったけどな。越前のインタビューを見た時には動揺して “もうダメだー”
って思ったしさ」
「なんでそこで、もうダメだになるんだよ。俺って信用ねえのか」

憮然とした声でそう言ってやったが、あの手紙のおかげで乾の気持ちは理解できていた。
自分とて、彼の心を動かすような人が現れるのはいやだ。
だが、人の気持ちはどうすることもできない領域にあった。たとえばそれが自分の心であったとしても。




「昨日、越前に改めて好きだって言われた」
「…うわ。それホント、海堂」
「こんな冗談言ってどうすんだよ…でもアンタは、ちゃんと知ってた方がいいんだろ」
「まあ確かにな…その方が色々と手が打てるし」


色々手を打つって何だ、と海堂はうろんげな眼差しで乾を見たが、意外と真剣な顔つきに驚かされる。
自分の事に関してはなりふり構っちゃいられないんだと、言われた気がした。
だから薄く笑って、また正面の景色を見つめた。


「応えてやれないから諦めろって、そう言っといた」
「……うん」
「どのみち、人の言うこと聞く奴じゃねえけど。あいつ自分に自信があるから、余計に」
「海堂、好きだって言われて、少しは揺らいだ?」
「……まあな」

かいどう〜と情けない乾の声を聞きながら、海堂は自分でも軽くブランコを漕いでみる。
目の前の風景が近くなったり遠くなったりするのが、好きな相手の心のように思えた。

自分と乾は、本当に近くにいるのだろうか。
分かりあってきたのだろうか。



「分かってんだろ、先輩も。アイツは誰が見たって強くて綺麗な奴なんだってこと」
「うん、まあね」
「だけど、そういうんじゃないだろう」

足を地面に着けてブランコを止めると、海堂は上半身だけ後ろを向き、乾の腕を掴んだ。
そのままぐいぐい引っぱって、自分の正面に立たせる。

掴んだ腕は離さなかったから、乾はブランコに座った海堂の上に自然と屈みこむような姿勢になった。
視界がさえぎられ、風景が消える。


とまどった顔をした乾を、海堂は万感の思いを込めて見上げた。
どんなに長く想い続けてきたことだろう、この人を。
春も、夏も、秋も、冬も。


「……好きって、もっとどうにもならないもんだ」


貰った手紙の、何分の一にもならないのかもしれなかった。
だが、彼がいつまでも忘れないような言葉を、自分も言ってやりたかった。

重そうな黒縁眼鏡の奥にある乾の目を、海堂はただまっすぐに見つめた。
臆せず、凛とした、だがそれはとても優しい表情だった。

「あんたが俺に教えてくれたんだろ、先輩」




乾の表情が、泣きそうにくしゃりと歪むのを、視確できたのはほんの一瞬だった。


気がついたら、もう抱きよせられていた。
いつもは海堂に優しく包む腕が、がむしゃらな激しさで、きつく回される。
ブランコのチェーンがガシャンと音をたてた。
乾を見上げる体勢だった海堂は、彼の胸に深く抱きこまれ、息もできなかった。


抱く腕も押し付けられた身体も痛いほどで、つらくて声をあげそうなのに、海堂は身じろぎもしなかった。
このまま時間が止まればいい。そんな願いが胸を灼く。

決して叶わないことを願う海堂の耳に、その時乾の掠れた声が
あいしてるよと、一度だけ小さく囁いた。


中坊がなに言ってんだ、と茶化す事もできたはずなのに。
ただ、その言葉がジンと胸に響き、涙が出そうになった。

たくさんの言葉を上手に使えるはずの乾が、
胸の想いを表すためには、そう言うしかなかったのだと分かるからだった。


海堂は、同じ言葉を言うことはしなかった。
だがせめてもの返答のように、愛しい相手を、自分のせいいっぱいを込めて つよくつよく抱きかえした。


そういう恋だったのだ。最初から、自分たち二人は。






どのくらい長く、抱きしめていたのか分からない。

溢れた感情がゆっくりと収まってきて、我に返ってみれば、乾は大事な恋人を窒息させかけていた。
大慌てで腕を解き、自分の胸にぴったりと押し付けていた海堂の顔を覗きこむ。

「だ、大丈夫か、海堂!?」
「…くるしい、っす…よ。ちっとは手加減しろ…」
恨めしそうに海堂は訴えたが、自分からも抱きついていたわけで、乾ばかりを責められない状況だった。



ごめんごめんとつぶやきながら、俯いていた彼の顔を上げさせた途端、ちょっと目を見開いた乾は、突然
横を向いて爆笑しはじめた。

「な、なんすか!?何笑ってんだよ!!」
「だって海堂、それ…」

それと言われても分からない。笑いっぱなしの乾を憮然とした表情で睨みつける。
そんな海堂の左の頬を、乾は指先で優しく撫でてやった。
「跡がついちゃってる。ボタンの模様までくっきり」


マジっすかと困り顔になりながら、左の頬をゴシゴシこする海堂の姿は大変愛らしかった。
自分の学ランのボタンの模様がついているのだからなおさらだ。
『乾印の海堂薫』といった感じではなかろうか。
乾は内心かなりな満足感を覚える。ずっとついてればいいのになと思うほどだ。


「そんなことしなくても、じきに消えるから大丈夫だよ」
悪戯心を起こした乾は頬をこすっている手をとると、一瞬の隙をついて屈みこみ、ボタン跡に軽くキスをした。

「な、な、なにしやがるんだアンタは!?」
途端に真っ赤になった彼を見て、あんな事もこんな事もしてるのに、いつまでたっても純情だなあと乾は
かなりオヤジくさい事を考えてしまう。

「んー?海堂に悪い虫がつかないように、おまじない」
「つかねえよ!!」




何がおまじないだ、と憤慨しながらベンチに置かれた荷物の方へ向かう海堂を見て、乾もさすがにもう時間が
あまりないことに気づかされる。

ラケットバッグを担いだ海堂の横で、薄っぺらい学生カバンを慌てて持ちあげた。
卒業式を何かの終わりのように思っていた重苦しい気分は、朝の光に溶け込んで、いつしか消えようとしていた。



晴れやかな笑顔を浮かべながら、乾は海堂をうながした。
「さあ、じゃあ行こうか、海堂」
「そっすね。卒業式に遅れたらシャレになんねえからな」


そう言うと、海堂は先に立って歩きはじめる。
前を向いて、顔を上げ、何も畏れないような目をして。


(きみは本当に、来た道を振り返るのが似合わない人だな)

だが、それでいいのかもしれないと乾は思った。
覚えておくのは、これからもずっと自分の役目なのだろう。



階段を下りる瞬間、乾はあのブランコを振り返り、心の中に写真を撮るように それを焼きつけて納めた。

思い出はいつか色あせてゆくものだ。
今は鮮やかなこの風景も、年月を重ね、風化してゆく。


……だが、ここから始まった思いがあるのだと、自分は決して忘れることはないだろう。