Scene1.  5月8日(木) PM6:15


夕暮れの帰り道には、部活で疲労した身体を労わるような優しい風が吹いていた。
一人黙々と歩いていた海堂は、通りかかった家の木に美しい花が咲いているのに気づいて、思わず立ち止まった。
この木は、薄紅色とまっ白の花を咲かせるものを、2本対にして植える事が多い。
この家でもそれを知って植えたらしく、今を盛りと二色の花が咲き誇っていた。
(5月に咲く花…か)

海堂は、自分の生まれたこの季節が好きだった。
風薫る、という言葉にちなんで付けられた自分の名前も。
小さい頃はよく 『女みたいな名前』 とからかう奴もいたが、そんなのは殴って黙らせたものだ。

目を閉じれば、家族以外の誰かが 『きれいな名前だね』 と笑顔で言ってくれたのをかすかに思い出せる。
それがとても嬉しかったことも。
もしかしたらそれは彼だったんだろうかと、花を見上げながら海堂は考えずにはいられなかった。



昨日乾の家から逃げ帰ってから、まる一日がたっていた。
あれから長い間、海堂の心は嵐のようにぐちゃぐちゃで、凪いでくれなかった。
自分と乾が親しかったというだけでも信じられなかったのだ。
男同士で付き合っていたと言われ、抱きしめられ、無理やりキスされて、怖かったし混乱した。

部屋に一人になってからも、海堂はあんな事をされたのが悔しくて、歯を食いしばって泣くのをこらえた。
いつも力づくで、乾に乱暴されていたんだろうかとまで疑った。
乾ははっきりとではないが、二人に身体の関係があった事を匂わせる発言をしていた。
自分の身体を誰かに好きにされていたというのは、プライドの高い海堂には受け入れがたい事実だった。


だが眠れない夜を過ごし、カーテンの向こうが白み始めた頃に、心はだんだん静まっていった。
パズルのピースのたくさん入った箱を抱え、途方に暮れている自分が見える。
だけどその中には正しいのも間違っているのもある。選り分けないとダメなのだ。

大きな布団の上で猫のように丸くなって、海堂は要らないものをひとつずつ捨てていった。
何を信じればいいのかを一生懸命に考えた。
そしてついにそのうちの一番大きなかけらを、海堂は痛みを伴いながら埋め込んでみた。
自分と乾が付き合っていたのだという事実を、認める。


事故にあってから2週間、自分は改めて乾を見てきた。
(あの人があんな嘘を言ったり、俺に乱暴してたなんて、考えられねえ)

ボールから海堂を庇ってくれた時も。
付き合っていたと告げた時の表情や、必死に抱きしめる腕、震えていた声も。
まがいものなんかないと思った。
あれが 『好き』 という気持ちなら、あの人は今も変わらずに自分を想ってくれているのだ。
(ああいう気持ちが、俺の中にもあったんだろうか)

そしてそれを認識してしまえば、色々合点のいかなかった事もはっきり見えてきた。
少なくともレギュラー陣は、自分達の関係を知ってたのかもしれない。
菊丸や不二や大石などは、記憶が戻らないのかをしきりに聞いてきた。
自分と乾が親しかったんだと教えてくれた時の、桃城の困ったような表情にも納得がいく。

(先輩は…どんな思いで傍にいてくれたんだろう…)
昨日まで恋人だった相手に他人みたいな眼で見られて、どんなに悲しかったかしれないのに。
それでも自分達が付き合っていたとは言わずに見守ってくれていた。

(昨日もきっと言う気はなかったんだ、あの人は)
昨日海堂が乾の家に行ったのはアクシデントの結果で、突発的な事だった。
思いがけず二人きりになり、乾自身も倒れて弱っていたから、衝動的に抱きしめてしまったのかもしれない。

ひとつずつ納得して飲み込んでもまだ、誰かと付き合っている自分というのは想像の範疇を越えていた。
それでも、自分がどういう人間なのかはよく知っている。
たとえ乾にどんなに熱烈に好きだと言われても、それに流されることだけは絶対にない。

自分は、自分のものだ。
だから、それに乾が触れるのを許されていたということは。
(俺が、あの人を好きだったってことなんだ、きっと)

ひとつも眠れずに迎えた朝、目をこすりながら海堂は、ただ素直にそう思った。
まだすべてを受け入れたりはできなかったが、それは胸の中で指針のように小さく光った。
訳が分からなかった時よりも、今の方が数倍ましだ。
何を見つければいいか分かったのなら、自分は逃げずにそれを探しに行けばいい。




「…海堂先輩!」
大きな家の塀からはみ出すように薄紅と白の花を咲かせている木を見上げる海堂の姿。
それを目にした瞬間、リョーマは彼の名を呼んでいた。
振り向いた海堂が、自分に気づいてとても嫌そうな顔をしたから笑ってしまう。

だがこの先輩は噂されているような、怖い人物ではなかった。
しゃべるのが苦手なせいで、もう一言あれば円滑にいく人間関係を上手にさばけないだけで。
(どっちかって言うと、優しくて、不器用)

リョーマが入部してまだ1ヶ月ほどだったが、毎日部活で顔を合わせていると、色々な事が見えてくる。
海堂は先輩なのをかさにきて理不尽な要求をしたり、後輩をいじめたりしなかったし、ぶっきらぼうだが聞いた
事にはちゃんと答えてくれた。
聞けば弟がいるらしく、リョーマが生意気な態度でも、どうにも邪険にしきれない様子が妙にツボにはまった。

「おつかれっす」
「……ああ」

担いだラケットバッグをガシャガシャ揺らして、リョーマは海堂の横に追いついた。
彼が何もしゃべらないから、並んで同じように木を見上げてみる。
暖かいオレンジ色の空を背景に、息が詰まりそうな程たくさんの薄紅と白の花があった。

「きれいっすね。何て花なのかな」
「……ハナミズキ。花と水と木って書くんだ」
いつも通りのぶっきらぼうな声。律儀に空に文字を書く指先に、リョーマはかすかに笑った。
「へえ、詳しいっすね。海堂先輩の好きな花?」
「そうだな。家にもある。俺が5月生まれだから、生まれた時に植えたらしい」

珍しく海堂が身構えずに自分の事を話してくれるのに、却ってリョーマがどぎまぎした気分になってしまった。
(困った人だよね。寄るんじゃねえってオーラ出してるかと思えば、無防備だし)

手が届くんじゃないかと、錯覚する。この綺麗な存在に。
リョーマのこの気持ちに気づいているのは、今のところ乾だけだろうが。
入部してからこっち、海堂の預かり知らぬ部分で乾にどれだけ威嚇されたか分からない。


「…乾先輩、今日学校休みらしいっすね。昨日から具合悪かったんすか」
「ああ…まあな」
「もしかして、何か思い出した、先輩?」

どこかぼんやりしていた海堂が、途端にキツい眼差しを自分に向けるのを、リョーマは平然と受け止めた。
本気の目が一番きれいだな、とこの場にそぐわない事を考える。

「ああ、先輩たちが付き合ってるのは見れば分かったっす。あの人もう、海堂先輩のこと宝物みたいに大事に
してたし。海堂先輩は…」
「俺、は……?」
乾との事を何かひとつでも知りたいのだろうか。
必死に見つめてくる海堂の顔を、リョーマはやるせないような思いで見上げた。
(ねえ、そんな顔しないでよ)

この人を好きになるまで、自分には思い通りにならない事なんかないと思っていた。
なのに何だって、彼が別の誰かをとても愛していると、思い知らされなければならないんだろう。
(記憶もなんにもないくせに、なんで、こんな探して)
それを見て、もっと好きになったりしてしまう自分が救えなくて笑えた。


「俺ね、一度だけ海堂先輩が笑ってるとこ、見たことあるっすよ」
「…え」
「乾先輩と一緒のとき何か言われて、先輩最初怒った顔してたけど…あの人が必死の顔で追っかけて来るの
見て、そのうち笑いだした」

こんな事を教えてやる自分は、ずいぶんお人よしだったんだなとリョーマは思う。
だが海堂の表情が、屈託をかかえ曇ったままなのを見るのが、もう嫌になった。
こんな状況で付け込んだって、絶対にこの人は自分のものにはならない。

あの笑顔を見た瞬間、思い知らされた。
彼は乾が注ぐ愛情に応えているんだと。自分も好きだと言う代わりに、少しだけ笑い返す。

「俺が笑うなんてガラでもねえ、って思ったんだろ」
言われた事にとまどうような海堂に、リョーマはゆっくり首を振った。
「一途なんだなって、そう思った」

二色の花びらがはらはらと降ってくる下で、海堂はリョーマの言葉に目をみはった。
いつも小生意気な後輩は、妙に真面目な顔つきで、落ちてきた白い花びらを掌で受け止めている。
(こいつ…誰かを想ってる…すごく強く)
それはただの直感だった。だがリョーマの人をくったような態度の奥に、一瞬それが見えた気がした。

「…おまえ、好きなヤツ、いんのか」
「いますよ、片思いっすけどね。好きなのどうにもなんないし」
「おまえみたいな奴なら、誰にでも好きになってもらえるのかと思ってた」
「俺もそう思ってたっすよ。でも諦めるつもりもないけど」
クックッと肩を揺らして笑い出したリョーマを見て、訳が分からずに海堂が眉を寄せたその時。


「兄さーん!!」
元気のいい足音と共に、葉末がほとんど飛びつくような勢いで海堂に追いついてきた。

「葉末、どうしたお前、こんな遅い時間に」
「お母さんにお使い頼まれたんです〜」
笑顔でそう言うと、葉末は傍にいたリョーマに気づいてぺこんと頭を下げた。
「お友達ですか、兄さん」
「いや、テニス部の後輩だ。越前、リョーマ」

海堂兄弟を初めて見た人間は、あまりによく似ているのに呆気にとられるのが常だ。
リョーマも例外ではなかったが、その上葉末が兄を庇って、牽制するような目で自分を見たのに気づき、それが
おかしくてたまらなかった。
(すごいね。乾先輩の他にも、この防護壁を突破しないとダメなんだ)

「海堂先輩そっくり…先輩が産んだんすか」
「いいからお前、もう帰れ」
憮然とした様子で海堂は、リョーマの背中をはたいた。
その接触に気を良くしたようにリョーマは笑いながら、お疲れっすと言うと走り去ってゆく。

相変わらず扱いづらい奴だったが、その後姿を見送りながら海堂は、リョーマの印象が少し変わったように思った。
誰かを好きになる気持ちをちゃんと持っていて。
それにやはりとても強い。テニスだけじゃなく、心も全部が。
自分でもリョーマには惹きつけられるものがあるし、あいつに片思いさせる相手とはどんな人だろうなと思う。

(俺にも、大事なことを教えてくれた気がする……)
葉末に袖を引かれて我に返るまで、海堂はオレンジ色の町並みに小さくなるリョーマの背中をずっと見ていた。
言われた言葉を、心の中で何度も何度も繰り返しながら。




Scene2.  5月8日(木) PM7:00


(何だったんでしょう、あの小さい人は!?)
もうすぐ晩御飯時。母が料理をする音を聞きながら葉末は、リビングに座ってTVのニュースを見るフリをしていた。
だがその心中は、穏やかどころではなかった。

さっきお使いの帰り道、兄とその後輩の越前に行き会ったのだ。
後輩ということは中学1年生なのだろうが、身長は葉末と大して変わらなかった。

いや、そんな事はどうでもいい。問題は越前が兄を見る目つきだ。
どうして兄は、あのあからさまな好き好きビームに気がつかないのだろう。
(「俺、悪い虫だから」と言ってるも同然の、あの越前さんの態度が通用しないなんて。すごいです、兄さん!)

まあ勿論、兄がモテるのは昔からで(本人は気づいたためしがなかったが)葉末はかつて何人もの身の程知らず
を陰で撃退してきたものだ。
だが学校まではなかなか手が回らない。
最近はその役目を一手に引き受けてくれる人間が登場したので、兄の安全はその人物に任せてあったのだ。

(いったい何をやってらっしゃるんですか、乾さんは!?)
呪詛を込めて、抱いていたクッションに無言で拳をお見舞いする。
越前は葉末が見たところ、10年に一度ぐらいしかお目にかからないタチの悪そうな虫だった。
さっきも言葉は交わさなかったが、葉末が牽制しているのを面白がっている様子で笑っていた。
ああいうのから兄を守る事が乾の存在意義だと信じている葉末は、歯軋りしたい思いだった。


晩御飯の時間なので、母親に呼ばれる前に階下へ降りてきた海堂は、ソファに行儀よく座ってニュースを見ている
弟に気づいて苦笑した。
普通の小学5年生なら、この時間帯はアニメとか観るんじゃねえのかなと思う。

そういえばこの頃、自分の事で頭がいっぱいで葉末を少しも構ってやれなかった。
悪い事をしたなと思う。わがままを言うような弟ではないから、なおさらだ。

「葉末、今度コートの予約取るから、一度テニスしに行くか」
「ホントですか、兄さん!」
途端に葉末の顔がぱあっと明るくなったので、海堂は隣に座りながら小さく笑って頷いた。
テニスが好きならスクールに通えばいいのにと思うのだが、葉末はいつも海堂に教えてほしがった。

「じゃあ、乾さんも誘ってください!僕この前教わったサーブが上手に打てるようになったんで見てもらいたいです」
弟の言葉に、海堂はぎくりとして言葉に詰まった。
乾が自分の家に来たり、家族と面識があるという可能性を考えていなかったのだ。
だが二人が付き合っていたのなら、あのマメそうな乾が海堂の家に興味を示さないはずはなかった。

「え、乾先輩…か?その、前に3人で…行った…よな、テニス…」
「……兄さん?」
ズキン、と頭の芯が痛んだ。ああ、またあの頭痛だと心の中で身構える。
事故の日はひどい雨だったらしいから、雨音が聞こえるのはきっとそのせいなのだろう。

頭痛も雨音も、事故の後遺症なんだとずっと思い込んでいた。
だがこの時初めて海堂は、違うのかもしれないと感じた。
(俺は心のどっかで、あの人の事を思い出すのを拒否してるのか…?)

一瞬意識が朦朧としていたのかもしれない。
気がつくと葉末が小さな手で海堂を揺さぶり、心配そうに呼んでいるのが目に入った。
「兄さん、頭痛いんですか?お医者に行かなきゃだめです」
「…大丈夫だから。もう治った。大丈夫だ、葉末」
痛みを訴えた場所に無意識に触れていた指先で、泣きそうな顔をした弟の髪を撫でてやる。

だんだんと痛みが薄れてゆく。これはシグナルだったんだろうか。
記憶が戻ったらつらいから、考えるなという?

「最近乾先輩、忙しいから、分かんねえけど聞いてみるな。いいって言ったら一緒に行こう」
なだめるようにそう言うと葉末は一応頷いてくれたが、やはり何か納得していない様子だった。
弟が聡いのを百も承知している海堂は、隠しきれなくなってきたかと感じる。

2週間前の事故の時、普段は年よりずっと大人びた葉末がひどく泣いたから、言いだせなかった。
記憶が戻らないなどと。
言って心配をかけるのは絶対にだめだと思っていたのだが。
(このままじゃバレるのも時間の問題か)
弟に負担をかけたくなかったが、ここはもう素直に助力を求めるべきなのかもしれないと海堂は思った。



「……でね、お母さん。僕、兄さんの事を作文に書いたら先生にとても褒めてもらえたんです」
にこやかに食事時の会話を続けながらも、葉末の心には暗雲がたれ込めていた。
(もう絶対に、完璧に何かおかしいです!)
よりにもよって、乾と3人でテニスに行った事があったかどうかあやふやだなどと。

あの事故があってから兄はずっと浮かない顔だったし、そういえば乾の話をしなかった。
もしかしたらまたケンカをしているのかもしれない。それもかなり深刻な?
だから越前のようなタチの悪い虫が、兄の周囲に我が物顔でちょろちょろしているのだろうか。

本当は今すぐにでも、兄を捕まえて問いただしたい事が山積みだった。
だが海堂家の食事時のルールは結構厳しい。
口に物が入ったまま喋ってはいけないので、葉末は仕方なく当たりさわりのない会話を展開していた。

「まあ、良かったわね。兄弟の事を書く作文だったの?」
「いえ、家族なら誰でもいいんです」
今日の夕飯は中華で、食卓には母が腕によりをかけた美味しいスープやレタスで巻いて食べるミンチ、それに
春巻きや海老の料理もあった。

家の人間はみんな食事の仕方がきれいだが、中でも芸術的なまでに美しい食べ方をする兄は、ふと気になった
ように茶碗と箸を置いて葉末に聞いた。
「みんな普通親の事を書くんじゃないのか。クラスの奴になんか言われたりしなかったか」
ぶっきらぼうな言い方だったが、兄が心配してくれているのが葉末にはすぐ分かる。
みんなと違う事をすると、葉末がいじめられたり仲間はずれになるんじゃないかと思っているのだ。

「あ、そうなんですよ。みんなのお兄さんやお姉さんはすごく偉そうで、すぐ叩かれたりいじめられたりするんです
って。だから作文には書かないって。僕びっくりしました」

それについては葉末は本当に驚いたものだ。
兄は言葉数こそ少ないがいつも優しい。
葉末が悪い事をしても頭ごなしに叱らずに、どこがいけないのかちゃんと教えてくれる。
自分が兄に叩かれたりいじめられるなど、どんなに想像をたくましくしても考えられなかった。

「でもみんなが、僕の兄さんみたいないい兄さんを持ってるわけじゃないですから」
海堂に関しては、乾と大して変わらない思考回路を持つ葉末がきっぱりそう言うと、母が楽しそうに笑った。

「その作文、薫に見せてあげないの?葉末」
「あ、まだダメなんです〜」
ちらりとカレンダーを見やる。今日はもう8日だ。兄の誕生日の11日まであと少し。
「兄さんのお誕生日に、プレゼントと一緒に渡そうと思って。楽しみにしててくださいね」

ああ、と笑って頷いてくれた兄を見ると胸が痛くなった。
どんな心配事があるのか知らないが、誕生日までにそれをなくしてあげなくてはならない。
(特別な日なのに、兄さんが楽しい気持ちになれないなんてゴメンです)
葉末はテーブルの下で小さな拳を握りしめ、兄に心配をかけている眼鏡をはげしく呪った。



やはりというべきか、食事が済むとすぐ海堂は葉末に捕まった。
部屋に連れ込まれて腹をくくった海堂は、弟がなるべくショックを受けないように注意しながら話をした。
事故のいきさつも知らなかった葉末は、この時初めて兄が乾を庇って階段から落ちた事を知った。

しかもその原因は、さっき会った越前とモモシロとかいう人物だという。
それだけでも十分に頭が煮えていたのに、兄がそれ以来乾に関する記憶を失くしたと聞かされて、葉末はしばし
絶句してしまった。
「失くした…って兄さん、何も覚えてなかったんですか。名前も…?」
「…ああ」

ソファに並んで座った兄の顔を葉末はまじまじと見つめた。何から言ってあげればいいのか分からなかった。
ありえないような事が起こってしまって。
それからの2週間を、二人はどんな思いで過ごしてきたのだろう。

「だ…だけど、乾さんと親しくしてたのは思い出してきたんですよね。僕に話してくれるって事は…」
「いや…正確に言うと何も思い出せてないんだ。周りが教えてくれた事や先輩本人が言った事で、そうなんだって
分かってきただけで…」

……どうして気づいてあげられなかったのだろう。
たくさんの言葉や思いが、葉末の中にいっぺんに溢れてきた。自分の鈍感さが、悔しくてたまらなかった。

途方に暮れたような顔をした兄は、いつもよりずっと小さく見えた。
それでも探していたのだろう。つよい人だから。泣きもしないで、一人で必死に。
なにを探していいのかも分からぬままに。

「……兄さん」
小さな手を伸ばして葉末は兄の肩に触れた。もうとっくに声が震えて、視界も曇っていた。
「つらかったでしょう…兄さん……」
その葉末の泣き声に、海堂は目をみはった。そういう風に、これまで誰も言ってくれなかった。
だけど自分は、きっと誰かにそう言って欲しかったのだと気づく。

「……うん」
海堂は弟の小さな肩に、静かに頭をもたせかけて目を閉じた。泣きはしなかった。
この暖かな存在が、自分の代わりに泣いてくれるから、もう充分だと感じられた。
しばらくそのまま海堂は、自分に兄弟がいることを両親と神様に感謝していた。


お互いに気持ちが落ち着いた後で、葉末は乾の話を色々してくれた。
「さっき晩御飯に出た海老のマヨネーズソース和えね、乾さんがお母さんに作り方教えてくれたんですよ」
「先輩が?」
「下に薄切りのオレンジを敷いてあったのが美味しかったでしょう?乾さんはとっても料理が上手なんです」

おかしなもので、この2週間目の当たりにしてきた乾本人よりも、葉末の話の方がずっと生き生きと感じられた。
乾は海堂の家にもよく来たし、葉末と3人でテニスや遊びに行くことも何度もあったという。

弟の話を聞いているうちに、海堂は自分が乾と一緒にいてとても楽しかったんだと知っていった。
でなければ人付き合いの苦手な自分が、自宅に招いたり休日を過ごしたりするわけがない。
(とても大切にされていて、とても大切に思っていた)

さっきリョーマに言われた事もよみがえってくる。
いきなり好きとか付き合ってるから考えようとしたのが、まずかったのかもしれない。
「一緒にいて楽しい」とか「大切」なら、海堂にも理解できた。
もしかしたら答は、その延長線上にあるのだろうか。


長い間 話をして、兄がおやすみを言い部屋を出て行った後も、葉末はずっと考えこんでいた。
乾がそう簡単に兄を諦めるとは思えないが、相当痛手を受けているに違いない。
そして何も言わずに一人で苦しんでいた兄を思うと、つらく悲しかった。

勿論、越前もモモシロとやらも、わざとやったわけではないだろう。
だが、諸悪の根源が平気で兄にまとわり付いていたのを思い出して、葉末は怒りでブルブルした。
何もしないわけにはいかない。絶対にだ。
(越前さん、僕の目の黒いうちは、あなたの好きにはさせません。させませんよ!)

海堂薫の守護天使は仕事が速かった。
兄が久しぶりに少し安心して眠りについた頃、葉末は行動を開始した。




Scene3. 5月9日(金) PM1:30


外はとてもいい天気で、乾はそれを感じ取るように深呼吸しながら、大荷物を持ち、橋を渡っていた。
どちらの袋にも少し遠い所にある、値段は高いが質の良いスーパーの食材が詰め込まれている。

今朝になってようやく、熱が引いた。
海堂が家に来たのは7日の夕方だった。それから乾は高熱を出して、文字通り寝込んでしまったのだ。
心も身体も疲弊しボロボロで、どうなってもいいという捨てばちな気分でいた。
あの子を見つめながら、何もなかったように生活するのにもう耐えられなくなった。

だがいつもは能天気な母親がさすがに心配したのか、昨日珍しく会社を休んで乾の傍にいてくれた。
料理も家事もやりつけていない人だから手際が悪く、作ってくれたおかゆはボソボソだったし、たまにキッチンから
食器の割れる音が聞こえてきたりもした。
それでも、乾の心が少し和んだのは本当の事で。
熱で浅い眠りを繰り返しながら、母親の冷たい手が額に触れたり髪を撫でてくれるのを感じ、安心した。

誰かに慈しんでもらえると、自分を痛めつけたりできなくなる。
自分が、自分以外の誰かにとっても大切な存在だというのを思い出すからだ。


昨日の夜には熱は37度ぐらいまで下がっていた。
そんなに眠ってばかりいられず、ベッドで本を読んでいた時に、葉末から電話がかかってきた。
葉末が事の顛末を海堂から聞きだしたのは、ついさっきだと言う。
兄の様子がおかしい事に気づかなかった自分を、ひどく怠慢だと考えているようだった。

『お願いです。待ってあげてほしいんです、兄さんを』
葉末に海堂の様子を聞かされて、乾は驚いた。
あれだけ怖い目にあって乾から逃げ出したのだ。もう二度と自分の顔を見るのも嫌だろうと思っていたのに。
頭痛も続いているくせに、彼は懸命に乾との思い出を拾い集めているというのだ。

(ああ、そうか…戦う相手がちゃんと見えたら、逃げないから、あの子は)
ある意味うかつだったとも言える。
海堂の事を思いやればこそ、乾も周囲の人間も隠し事をしてきた。
だがそのせいで海堂は、自分が探すべきものが何なのか分からなかったのだ。
さっきも彼は葉末から、乾との思い出をしきりに聞きたがったという。

『つよい人だね、きみのお兄さんは…』
全ての事と向かい合う。その海堂の姿が目に見えるようだった。
そこまで自分の気持ちを整理するだけでも、どんなに辛かったことだろう。
自分は事実も激情もないまぜにして、彼にぶつけたというのに。

『待ってるよ。もし記憶が戻らなくても、構わない。俺の気持ちはここにあるんだから』
葉末にというより、むしろ海堂に向かって、乾は静かな声でそう言った。
彼を失くして、自分は空っぽになったのだと思っていた。
とてもとても言葉では言い尽くせないぐらい好きだったから、後にはなんにも残らないのだと。

だがここにきてやっと分かった。何も失くしてなどいなかった。
(俺が好きになった海堂は、ちゃんといる)
(俺の心も変わらない。今も、ここにある)


葉末との電話を切った後、まだ微熱の残る身体をベッドに横たえると、乾は小さく笑った。
(こんなヘロヘロになった俺を見られたら、海堂に叱られるだろうなあ…)
追い詰められると意外に弱くて、眠れなかったり食べなくなる乾を「でかいナリして何やってんすか、アンタは!?」
と怒る海堂の姿が目に浮かんだ。

乾が自分を大事にしない事があるのを、あの子はひどく嫌った。
『俺がどんな思いするかちゃんと考えろ』 と言われたこともある。
だからとりあえずは元気にならなくてはいけない。ちゃんと考えてちゃんと動ける自分を取り戻すのだ。

心は静かになっていた。
母と守護天使のおかげで、本当に何日かぶりに乾はぐっすり眠ることができた。


翌朝には熱はひいていたが、大事を取ってもう一日学校を休まされた。
だが両親が出勤すると、乾は風呂に入り、冷蔵庫をかき回してちゃんとしたブランチを作ってたくさん食べた。
そして午後になってから、スーパーに買い物に出かけたのだ。

久しぶりに外気に触れた気がした。今がどんなに爽やかな季節なのかも忘れていた。
空気は澄んでいて、太陽は眩しいし、空も青い。川を流れる水がさらさら音をたてている。
(海堂は、こんな日に生まれたのかな)
そう思って、乾は穏やかに微笑んだ。

自分のやろうとしている事は、あまり積極的とは言えないかもしれない。
だができる事をやるともう決めた。
今、あの子は必死で乾を探してくれている。
だから自分は待って、想い続けるだけだ。この川のように途切れることなく、ずっとずっと。

(きみが思い出せないなら、最初から始めたってかまわない)
(そしていつかまた、俺を見つめてくれる日があるのなら……俺はもう他に何もいらない)

「…あ、アレの予約もしないといけないな…」
ぶつぶつと独り言を言いつつも、背筋はしゃんと伸ばすと、乾は橋の向こうの店に向けて歩いて行った。




Scene4. 5月9日(金) PM3:30


もう掃除の時間も終りで、真面目にホウキを持って掃き続けていた河村は、ふと焼却炉の方へ歩いてゆく人影に
目をとめた。
テニス部の後輩。今、男テニを水面下で騒がせている問題の人。

口数は少ないが、練習熱心で礼儀正しい海堂の事を河村は気にいっていた。
海堂も自分のパワー不足を気にしているのか、河村がたまに自主練に付き合ってやると嬉しそうにしてくれる。

いや、正直に言うと最初は分からなかったものだ。
だがよくよく注意してみると彼は、無愛想な表情の下に様々な感情を持っていた。
(乾は、最初からそれに気づいてたんだよな…)

焼却炉にゴミを捨てている海堂をじっと見ているうちに、すれ違ってしまっている二人がとても悲しく思えた。
乾も海堂も何も悪い事をしていないのに、どうしてこんな風になってしまったのだろう。
(…あんなに、お互い好きあってたのに)


「お〜い、海堂!」
何の用事があるわけでもないのに、河村は思わず大きな声で海堂を呼び止めてしまった。
こっちに気づいた海堂は、いぶかしげな顔をしたが、カラになったゴミ箱を持って歩み寄ってくる。

「ごくろうさん」
「おつかれっす」
軽く頭を下げた海堂に、そういえば教えてやれる事があるのを思い出し、河村は「今ちょっといいかな」と言った。
少し首を傾げてから無言で頷いた海堂は、人馴れしない猫みたいに見えた。
だが多分、部の先輩の中で自分は、彼にとってあまり身構えずにすむ部類だろう。
座る場所もなかったので、二人は傍の芝生の上に直に腰を下ろした。

「あのさ、乾だいぶ具合良くなったらしいよ。まだちょっと熱あるから大事をとったみたいだけど」
海堂が重く感じないよう、なるべくさらっとした口調でそう言ってみる。

おとついの夕方、海堂は乾を自宅へ送って行った。
そして昨日・今日と乾は学校を休んでいる。
部内では皆、何が起こったのか心配半分、好奇心半分ではちきれそうになっていたが、海堂はいつにも増して
無口で、決して何も言わなかった。

反発されるかな、とひやっとしたが、海堂は俯いて小さなため息をつく。
「そうっすか…よかった」
その表情は柔らかくて、あの事故以来の海堂とは全然違うから、河村の胸に期待のようなものが生まれた。
(何か、思い出してきたのかな)
(少なくとも、乾のこと絶対心配してる。海堂は)


二人は芝生の上に足を投げ出して、しばらく黙ったままでいた。
目に染みるほど空が青い。今は一年でも一番気持ちのいい季節で、しかも海堂はもうすぐ誕生日だという。
こんな日に悩み事を抱えている後輩に、河村は何かしてやりたくてたまらなくなった。
今、どうしているのか分からない乾のためにも。

「河村先輩は、その、俺と乾先輩のことを…」
だが見た目に反して低めの声で、海堂がいきなり核心に触れてきたのにはさすがに驚いた。
言いにくい事を言いにくそうに口にする彼に、負担をかけてはいけない。
とっさにそう思った河村は、わざと気軽な口調で答えた。
「…ああ、うん。知ってるよ。まあ暗黙の了解ってやつだけどね」

「まだあんまり思い出せないのかな、乾のことは」
「はい…」
掃除が終わって、校内は部活動へと人の流れが移行する時間だ。
ざわざわ、ざわざわと人の声が遠く聞こえる。
ただここだけは隔離されたように静かで、ゆっくりと時間が流れている気がした。

海堂は自分を信用して、話をしようとしてくれている。
だから河村は思い切って、自分が考えていた事を言ってみようかという気持ちになった。

「なあ海堂、俺は付き合ってる人もいないし、こんな事えらそうに言う資格ないかもしれないけど…」
「はい」
「思い出さなきゃいけないのかな、絶対に?」

気がつくと海堂はそのつよい双眸を、まっすぐに河村に向けていた。
河村の言葉の真意を探るように、確かめるように。
だがキツくさえ感じられるその視線の中に、怒りはなかった。むしろとても綺麗だと思った。
だから河村もひるまずに、穏やかにその目を見つめ返すことができた。

「勿論思い出せたら一番いいけどさ。乾は変わらずに海堂を好きだと思うんだ。いや多分前よりずっと」
「河村先輩…」
「今ここにいる乾に応えてやれないかな。難しい事言ってるのは分かってるけど」

失った記憶が戻る保証なんかない。
いつかはと期待しているうちに、二人は戻れるタイミングをやり過ごしてしまうんじゃないかと河村には思えた。
人間は思い出を大事にする生き物だけど、それよりずっと大事なものだってある。

(あんなに二人でいるだけで、幸せそうで)
(誰かを好きになったら、人はあんな風に変われるんだって思わせてくれた)
だから、このまま離れてしまわないでほしいのだ。

「…ゴメン、余計な事言っちゃったかな」
「いや、先輩の言うとおりっす」
気にさわっただろうかと少し焦って頭をかく河村を見て、だが海堂は静かに首を振った。
視線を外して、また空を見上げる。くせのない髪がさらりと流れた。

きっとこの2週間、乾以上に海堂はつらい思いをしてきたのだろう。
だが彼は今それすら乗り越えようとしている。
自分にとって本当に大事なものは何だったのかを、ひたすら探し求めている。

「俺は…確信を持ってあの人を好きだって言えれば、もうそれでいいんです…思い出せなくてもかまわない」
それは河村が今まで聞いてきた中で、一番切なくて、一番愛情に溢れた声だった。
何故、海堂本人が気づかないんだろうと、もどかしく思うぐらいに。
「俺はどんな気持ちだったんだろうって、そればっか考えてる」

探し物が見つからなくて、ないないって探していたら、結局自分のポケットに入ってたりすることがある。
それに似てるなと河村は思った。
この不器用な後輩は、誰かを想う気持ちが自分の中にもうあるんだと気づかない。
ポケットに手を突っ込めば、ちゃんと入っているのに。

「海堂は今だって乾をすごく好きじゃないか」
「え…」
「こんなに心配して、考えて、必死になってる。それって好きだからだろう?」

河村が笑顔で告げた言葉はとてもシンプルだったが、色々な意味がこもっていた。
海堂が驚いたような顔で、見返してくる。
だから笑ってまた繰り返した。自分を信じていいんだよと。

「大丈夫。俺が保証してやるよ。海堂はちゃんと乾が好きだよ」
海堂の肩をぽんぽんと叩くと、彼はもう少しで泣きそうな表情で頷いた。
やがて、「ありがとうございます」と小さくつぶやいた海堂のために、河村は良い魔法使いのように、もうひとつの
授け物をしてやった。



海堂は一目散に廊下を走り抜け、目的の場所へと急いでいた。
『…あのさ、海堂。これが何か思い出すきっかけになるかは、分からないけど』
そう言って、別れ際に河村が教えてくれた事があったのだ。
『保健室に行って、使用記録のノートあるよな?あれの去年の12月5日を見て来るといいよ』

胸騒ぎがした。何か大事なことがそこに在るような気がして、ひどく心が急いた。
乾は確か、二人が去年の12月から付き合っていたと言っていた。
12月の初旬なら、まだそれ以前だったのだろうか。
河村がわざわざ教えてくれたからには、その日何かがあったはずだ。
(俺と乾先輩が、近づくきっかけになるような事が、あったのか…?)

走っている最中にまた例の頭痛が襲ってきた。激しい雨音も聞こえてくる。
もう分かっていた。これは事故の後遺症じゃない。
乾の事を思い出しそうになると、警報が鳴るのだ。辛いからやめろと自分が叫んでいる。

だが今の海堂は、そんな事に構っていられなかった。
ノックに応答がないので保健室に入ると、幸いにも保険医はいなかった。
現在使っているノートは机の横につるしてあったが、それではなく過去の記録を探した。
あまり周囲をいじり倒す必要もなく、幸いにも以前のノートは、無造作に積み上げて置いてあった。

ほとんど震えるような指先で、急いでページをめくると、あっさりそれは見つかった。
去年の12月5日。クラスと海堂薫という名前。
使用理由の欄には、捻挫と書かれていた。湿布と包帯を使っている。

自分の字ではなかった。だけどもう、見慣れてしまった几帳面な文字。
貰ったたくさんの自主トレのメニューの紙片に書き込まれていた、それは乾の字だった。
突然世界がグラリ、と揺れるような感覚が襲ってきて、海堂は机に手をついた。

警鐘を鳴らす頭痛に歯を食いしばって耐えながら、それでも自分の中に何かがせり上がってくるのが分かった。
無意識に自分を守ろうとする力よりも、何かもっとずっと強くて激しいもの。
それが防波堤を突破する。

『泣かないで、な?』
困ったような優しい乾の声が聞こえた。
暖かな指先が自分の頬に流れる涙をぬぐってくれる。
胸が痛くなるほど、優しい思い出。

海堂はそれを今現在の事のように、目を見開き、呆然としながら体感していた。
押し寄せてくる、記憶。色とりどりの鮮やかな、パレットにぶちまけた絵の具みたいな。

(あの日、俺はくだらねえ事で荒井たちとコート内で乱闘騒ぎを起こした)
(ボール籠ごとひっくり返って、右足に怪我をして)
(乾先輩が背負って、ここまで連れてきてくれた)
(手当てしてもらいながら、叱られた)
(ケンカした事もだけど、誰かにテニスができないような怪我をさせてたかもしれないって言われて)
(自分が情けなかった。この人に嫌われたくないって悲しくて、悲しくて)
(子供みたいに、すげぇ泣いた)

ひとつひとつを確認するように、順番に心の中でつぶやいてみる。
それは断片的な物だったが、海堂にとって初めてちゃんと蘇った記憶だった。
他の事はダメだったが、ケンカをした事やこの保健室で乾に手当てをしてもらった事は、細かい部分まで思い
出してきた。

丁寧に手当てをしてくれた指先。
自分はベッドに座らされ、乾はその足元にしゃがんでいたから、背の高い乾の頭のてっぺんが見えていたのを
覚えている。
つよい口調で叱責されたこと。
バカな事をした自分が恥ずかしくて、すみませんと何度もつぶやきながら、涙が止まらなかったことも。
(ああ、そうだ。自覚してたかどうか分かんねえけど、俺もうあの時先輩を好きだった)

鉛筆書きの文字を指先でなぞりながら、海堂は取り戻した記憶を何度も反芻した。
(あの人の優しさとか笑った顔とか声が、消えてなくなったらどうしようって思ったんだ)

消えてなくなったら。
その言葉に、改めて打ちのめされる思いだった。
ある日突然、海堂が乾を好きだという気持ちは消えてなくなったのだ。
好きな人を失いたくない。そんなこと、今の自分にでも分かるというのに。
乾の絶望は、どれほどのものだったのだろう。
(先輩、先輩…ごめん、先輩)

ベッドに座ると、目の前に乾がいるようで、切なくてたまらなくなった。
これが「好き」という気持ちなら、自分は何という大きな感情を抱え込んでいたのだろう。
膝に手をつくと海堂はぎゅっと目をつぶって、ただひたすら乾の事を考えた。
(もう少し…なんだ)
(何かもうひとつあれば、手が届く気がするのに)


とっくに部活の時間が始まっているのにも気づかずに、海堂はポケットから財布を取り出した。
中に大事な物が入れてある。
自分で買った覚えもないのに、いつのまにか部屋にあった、それは有名な水族館の入場カードだった。

(きっとあの人が俺にくれたんだ)
もうそれを海堂は疑っていなかった。
自分の誕生日は明後日に迫っている。きっと二人で行く約束をしていたに違いない。

「先輩……会いたい」
カードに印刷された大きなジンベエザメの写真を見つめながら、海堂はぽつりとそんな言葉をつぶやいた。
だがこんな中途半端な自分に、乾に会いにゆく資格があるのだろうか。

深い水底から浮かび上がってきたのは、ほんの少しの記憶と、そして今、海堂が乾を好きだと思う気持ちだけ
だった。
(本当は今すぐ走って会いにいきたいのに)

薄暗い保健室で 『会いたい』 と何度もくり返しながらも海堂は、明るい水面が見えているのに、そこへ行き着け
ない自分を感じていた。
もしかしたら、そこで乾は腕を広げて自分を待ってくれているのかもしれない。
乾の目を見ても、今ならちゃんと好きだと言えるかもしれない。


だが海堂は、取り戻せない記憶が気にかかっていた。
思い出したら辛いからやめろと、ひっきりなしに告げていた、あの頭痛。
(俺は何か理由があって、自分から先輩を忘れようとしたのかもしれない)

弱い心が、今もギリギリのところで自分を守ろうとしていた。
それが何かを思い出せたら、自分は乾に会いに行けるのだろうか。

カードを大事そうに手で包みこみながら、海堂はやはりどうしても記憶を取り戻さなければならないと思った。
(たとえ、そのせいで俺が壊れても、かまわねえから)

全ての事と向かい合う時が、そこまで来ていた。
それを肌で感じながら、だが海堂はもう不安だとか怖いとは思わなかった。
ただ静かに、決然とした気持ちで、それを待った。





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