Scene5. 5月10日(土) PM6:00


シャワーのノズルを捻り、やがて熱い湯に変わったのを確認すると、海堂は思い切って頭からそれを浴びた。
5月とはいえ夕方に長時間走ってきたから、身体は熱いようで芯が冷え切っている。
痛いぐらいに肌を叩くシャワーがひどく心地よくて、ため息が漏れた。

今日は部活が休みだったので、海堂は朝からいつもの練習メニューをこなした。
乾から最後に貰ったメニューに沿って、黙々とたった一人で。
だが集中していたかと聞かれれば、頷けそうにもなかった。
練習をしながらも、もしかすると乾に会えるんじゃないかと淡い期待があった。

特に最後の長いランニングのコースは乾のマンション前を通るから、内心ひどく緊張しながらペースを落として
ゆっくりと走った。
だが、彼の姿は見あたらなかった。
おまけに記憶している乾の家とおぼしき窓にも明かりはついていなくて、落胆は二重になった。


昨日取り戻した記憶は、ほんの一部分にすぎなかったが、海堂はそれがとても愛しかった。
子供が宝物を取り出しては眺めるように、何度も何度も反芻した。
記憶の中の乾は、優しくて厳しい人だった。
叱責する声も、涙をぬぐってくれた指も、海堂には同じもののように感じられた。

自分はとても大切にされていたのだ。
(たったあれだけでも思い出したって言えば、先輩は喜んでくれるだろうか)

もう誕生日は明日に迫っていて、それを思うと気が急いた。
乾に会いに行こうかとも、何度も考えた。もう3日も顔を合わせていなかった。
付き合っていたと言われ、無理やりキスされて、彼を突き飛ばして逃げたきりだ。
(先輩、俺のこと嫌になったかもしれねぇな…)

こちらも混乱していたとはいえ、具合の悪い乾を放り出してきてしまったのだ。
自分のした事が今さらのようにチリチリと胸を灼く。
月曜になれば、どのみち顔を合わせることになる。
その時乾に、もうお前なんか要らないという目で見られたら、どうしたらいいだろう。

彼に拒絶されるのがとてもとても怖い。それは河村が言ったとおり、自分が乾を好きだからだ。
過去も未来も関係なく、今会いたいと心から願うからなのだ。
(迷路だな、まるで)
友達付き合いすら得手ではない自分が、恋愛なんて複雑な事をやっていたのかと思うとおかしくなってくる。
きっと乾が、分かりにくい自分の表情や言葉を懸命に拾ってくれていたのだろう。
(あの人、どこが良かったんだろうな、俺の)


長い間、ぼんやりとシャワーを浴び続けている自分に気づき、海堂は慌ててノズルを閉めると風呂場から出た。
ようやく暖まってリラックスしたせいか、眠気までさしてくる。
また冷えてしまわないようにタオルで身体をぬぐい、大急ぎで服を着ながら、ふと鏡に映っている自分の身体に
目がいった。
まだ中学生だから仕方ないが、鍛えていても細身で、お世辞にもいい身体つきとは思えない。

(でも、先輩が触れてた…んだよな)
(俺のこと欲しいって思ってくれて…俺も、あの人に触れて……)
(キスも、他にももっと)

無意識に自分の唇を指でなぞっていた。
自分のはどちらかと言うと柔らかくて。
あの日強引に合わせてきた乾の唇は、薄い感触だったがひどく情熱的だった。
キスだけで、どこかへ連れていかれそうで、脅えた。

リアルな場面が頭をよぎって、心臓が暴れだす。
乾の大きな手や指先、それに唇が、自分の身体にあますことなく触れたのだと想像すると身体中が震えた。
あの声で名前を呼ばれて、キスされたら、きっともうそれだけでおかしくなってしまう。
(なに考えてんだ、俺は)
風呂から出た時よりも身体が熱を上げていて、海堂は耳まで赤くなりながらタオルを頭から被ってしまった。
こんなにも乾の事ばかり考えている自分は、悪い病気に違いないとそう思った。



自室に戻って髪を乾かしてから一階のリビングへ下りてきた海堂は、テレビの前のソファに座ったが、スイッチを
入れる気にはならなかった。
目を閉じると、母親が料理をしている物音と共にいい匂いが漂ってくる。
小さい頃から誕生日には海堂の好きな料理ばかりが食卓に並び、ケーキも焼いてもらえた。
さすがに中学2年にもなると少し子供っぽいような気もしたが、家族の行事は大切なものだから、海堂は嫌がった
りはしなかった。

誕生日を祝ってもらえるのは、『生まれてきてくれて嬉しい』 と言われてるみたいだと思う。
今年は初めて、家族以外の人にそう言ってもらえるはずだったのだ。

「あ、兄さん。帰ってたんですね」
二階の部屋から今降りてきたらしい葉末が、リビングを覗き込んで声をかけてきた。
「ああ、ただいま」

このところ心配をかけどおしの弟に海堂がかすかに笑いかけると、葉末はふと思い出したようにキッチンの母親を
振り向いた。
「…お母さん、そういえば兄さんに何か手紙がきてませんでしたか?」
「あ、いやだ、忘れてたわ。葉末、そこのテーブルに乗ってるから、薫に渡してあげて」
料理から手が離せないらしい母が、葉末にそう頼むのが聞こえる。

(手紙……?)
葉末が持ってきてくれたシンプルな白い封筒を、海堂は不審げな顔で受け取った。
手紙などめったに人からもらったことがない。
海堂薫様ときれいな字で書かれた宛名をしばし見つめてから裏返すと、そこには不二周介と書かれていて、二度
びっくりした。

「不二先輩…?なんだ、これ」
「部活の先輩ですか?ああ、兄さん誕生日だからバースデイカードかもしれないですね」
兄に来た手紙に興味津々な様子の葉末は、気をきかせてペーパーナイフを持ってきてくれた。
ナイフを手渡されると、何となく丁寧に開けないといけない気がして、慎重に開封する。

驚いたことに、中には本当にきれいなブルーのバースデイカードが入っていた。
表面にHappy Birthday という飾り文字が浮き出ている。
不二とは部活中にそれなりに話もするが、こんなものを送りあうような仲でもないし、ひどく困惑した海堂はカードを
開けようとした。

その時、カードに挟まっていた紙片のようなものが、何かひらひらと落ちた。
「……?」
いぶかしみながら拾い上げた海堂は、それが写真だと気づく。
裏返してそこに写っているものを見た瞬間、息が止まりそうになった。写真を持つ指先が震え出す。

それには、無理やり何かを動かそうとするような乱暴さは微塵もなかった。
力、と呼ぶものならば。
凝り固まってしまった心を暖めて、中心から溶かしてゆくようなものだった。

とくん、とくん、と規則正しく自分の鼓動が、聞こえる。
白い制服のシャツ姿の自分と、手のひらに乗せられた小さな小さな子猫が、そこにいた。

写真が嫌いなはずの自分が、ほんの少しだけ微笑んでいる。
それはとても優しい、写真だった。
撮った人間が、自分を慈しんでくれているのが分かる。
そしてその眼差しに安心しているからこそ、自分が笑っているのだということも。

心臓が熱くて熱くてたまらなくて、海堂は服の上からその部分をきつく押さえ込んだ。
自分をきちんと所有していた自分へと、心が戻ってゆくのを感じた。
空っぽだった場所が、今やっと満ちる。

……失くしてしまった、あなたのかけら。

『海堂には、話したいことも伝えたいことも、ちゃんとあるだろう?』
懐かしい、声が響いて。
ざあっと目の前が、暖かなオレンジ色に染まっていった。

夕暮れの公園。バスケットの中には、自分と同じ名前を付けてもらった子猫。
ベンチに一緒に座って、あんな時でもノートに何か書き込んでいた。
だけど何故だか、ついでに話をしてくれているという感じはしなかったのを覚えている。

夕焼け色を背景にして、彼が自分に言ってくれた言葉が蘇ってきた。
うまく他人と喋れなくて、感じ悪いと思われてるだろうと決めてかかっていた自分に、一生忘れられないことを言っ
てくれたひと。
あの日から彼は、自分にとって、世界中の誰より大切だった。


記憶が戻る時はもっと痛みを伴って、嵐みたいに押し寄せて来るんだと、身構えていた。
なのに、なにもかも不思議なほど穏やかだった。
すべての場面が、想いが、真ん中で溶けて、水が染み込むように自分がどんどん潤ってゆく。
(最初から、あったんだ。俺の中に全部)

映画の予告みたいな切れ切れの瞬間が、目の前をいくつも流れ通り過ぎていった。
どれもささやかだったが、でもそれは海堂にとって忘れられない出来事だった。
(俺の、好きなひと)

めちゃくちゃに笑った顔、髪をさらさら梳いてゆく指先、抱きしめられた腕のぬくもり
「好きだよ」と囁く声
たまに見せる情けない表情、自分を叱ったりたしなめる口調
眼鏡の奥で細められる、優しい瞳
急に寂しそうに翳ってしまう横顔も、全部あった。ここにあった。
(どうして俺はあの人を、忘れることができたんだろう)


「兄さん……?」
隣に座っていた葉末が手を伸ばし、海堂の頬をそっとぬぐってくれた。
そうされて初めて、海堂は自分が泣いているのに気がついた。
テーブルの上に写真を置いて、とうとう両手で顔を覆った。
あまり自分が泣いている感覚がないのに、あとからあとから涙が溢れて止まらなかった。

「兄さん、思い出したんですか…?」
余計なことを言わない、弟の静かな声に、海堂は何度も何度も頷くしかできない。
人間の中には、こんなに涙が用意されていたんだと驚くぐらい泣いて、もうぐしゃぐしゃだった。

「その猫…俺が、拾って…乾先輩が、飼い主…探してくれた…」
「ああ、そうだったんですか…その時の写真なんですね、これは」

この写真は撮った乾の他に、猫の飼い主である高梨と、仲介をした自称・写真好きの不二の手に渡った。
カードには 『一日早いけど、誕生日おめでとう』 と書かれていて、それが涙でぼやけた視界に映る。
不二にもさすがに確信はなかったのだろうと思う。
だが海堂が思い出すきっかけになりうると判断して、この写真を送ってくれたのだ。


弟に肩を抱かれしばらくしゃくりあげていた海堂は、だが突然はっとしたようにカレンダーに目をやった。
明日、自分の誕生日である11日には、母が花丸をつけてある。
今日は、5月10日なのだ。

「俺、行かねえと…先輩のところへ」
そうつぶやくと、葉末のびっくりした声にも構わずに、海堂はものすごい勢いで二階の自分の部屋に上がった。
財布をポケットに突っ込み、上着に袖を通す。腕時計もはめた。
文字盤にちらりと目をやる。時間が、全然なかった。

再び階下に下りてきた海堂は、キッチンにいる母親に声をかけた。
「母さん、俺、予定通り今晩、乾先輩とこに泊まる。明日の昼過ぎにはちゃんと帰ってくるから」

こんな時間に?とか、晩御飯もうできてるのよ、どうするのとか。
普通は言われるはずの場面だった。
だが振り向いた母は、予定調和であるかのように振り向いて笑っただけだった。
「…そう?乾くんに近いうちに遊びにいらっしゃいって言っておいてね」

ふんわりした人ではあるが、海堂の母はぼんやりではない。とても聡いところがある。
葉末はこういう所が母親似だとよく考えるのだが、何をどこまで知っているのだろう。
当たり前だが、この母には一生勝てそうにないと、海堂は心中で白旗をあげるしかなかった。


忙しなくテニスシューズを履き、玄関を出ようとした瞬間、葉末が見送ろうとしているのに気づいて、海堂はせか
せかした動きを一旦緩めた。
この弟がいなかったら、自分はもうとっくにいろんな事に負けていた気がした。
幼くてもこの子は本当に芯がつよい。教えられる事ばかりだ。

「行ってらっしゃい、兄さん」
そう言った葉末の頭に手を伸ばし、自分とよく似た癖のない髪をくしゃくしゃ撫でてやる。
「葉末、明日作文楽しみにしてるからな」
途端に、明りが灯るように弟が笑ったのを確認すると、海堂は夜の街へと全力で駆け出していった。




Scene6. 独白(海堂 語り)


駅までの道を、ただたどり着く事だけを考えて走った。
改札口が見えた時、俺は走りながら財布を開け、お守りのようだったあのカードを改札機に突っこんだ。
時間が1分1秒でも惜しい今、このカードが電車の切符の役目もするのがありがたかった。

俺が駅に入ったと同時に、向こうのプラットホームに電車が滑りこんで来た。
ダッシュで階段を駆け下り、また上がり、電車からはき出された人々に逆流して、俺はギリギリのタイミングでそれ
に乗る事ができた。

もう6時45分。電車で目的地までは40分ほどというところか。
流れてゆく町並みはもう暗くなっていて、たくさん灯った明かりが目の前を流れてゆく。
電車の窓には、奇妙にはっきりと自分の姿が映って見えていた。

間に合うだろうかとか、許してもらえるのかとか。
そんな事を今考えるのは、よそうと思った。

これは全部、俺の弱さがまねいた事だったのだと、もうはっきりと分かっている。
だがその一方で、俺は先輩が交わした約束を違えるとは思わなかった。

この先に、どんな結末が用意されているとしても。
(あの人は、きっと俺を待ってる)
手の中のカードに印刷された大きなジンベエザメの写真を、俺は大事そうに見やった。
今はこれだけが、俺をあの人に導いてくれるものだった。



あのランキング戦の日、俺も先輩も自分がレギュラーから外れる可能性など考えてもいなかった。
手塚部長が青学のしきたりを破ってまで越前を参加させた事には驚いたが、俺は自分の力を信じていたし、ぽっ
と出の1年に負ける気などさらさらなかった。

今も、コートの向こう側から、不敵な笑みを浮かべて俺を見る越前を思い出せる。
強い奴が勝つ。勝った奴が強い。
そういう当たり前の事を、思い知らされた瞬間だった。
越前の策にはまり、疲弊してろくに動かなくなった自分の足を、俺は感情任せにラケットで何度も殴った。
悔しくて、悔しくて、そうでもしないと叫び出しそうだった。
自分がどんな思いでこのレギュラージャージを手に入れたか、そればかりを思った。

そして、これを手放さずにすむ可能性は、まだ消えたわけではなかった。
(倒せばいいんだ。…戦って、乾先輩に勝てばいい)
乾先輩が、越前にも俺にも負けるなんて、ほとんどありえないと知っていた。
だがチャンスさえ与えられるなら、俺は自分の中のどんな感情も捨てて戦えると思った。


『レギュラーの座は、ぜったい諦めねぇ…』
コートから出た俺がすれ違いざまにそう言った時、先輩は驚いたような顔をした。
それが、俺の闘志に火をつけてしまったのは本当のことだ。

この人はもうずっと、俺にテニスを教えてくれていた。
その根底に「好き」という感情があったのは事実だ。
しかし先輩は、俺にトレーニングの仕方を教え、オーバーワークを諫め、フィニッシュショットを完成させる手助け
をしてくれた。
先輩がいたから、俺はこんなに早くレギュラーになれたのだと思う。

だがそれに感謝する一方で、俺の心には先輩に反発する気持ちが芽生えていた。
あの人は、意識していなかったのかもしれない。だが俺には分かっていた。
いつのまにか先輩が俺を、自分の後ろからついて来るのが当然のように思っていたのを。

あの瞬間、俺は今までで一番強く、それを感じた。
それは越前に負けた事以上に、屈辱だった。
自分が完全に下に見られている。あの人にとって全然対等じゃないということが。


大番狂わせの連続に、青学男テニは大騒ぎになっていた。越前が、俺に続いて乾先輩を破った。
(どうせ大番狂わせなら、もっと驚かせてやる)
コートに入った瞬間から、俺は乾先輩に対するどんな感情も全て殺した。
(俺がアンタに勝った事がないのも、アンタが俺を見下すのも、今日で終りだ、先輩)

俺の気持ちが勝ったのか、あるいはあの人にどこか隙があったのか。
俺は乾先輩に勝って、レギュラーの座を守りきった。
俺は今も自分があの人に勝った事を誇らしく思うし、後悔はしていない。
だが物静かであってもプライドの高い先輩にとって、レギュラーを剥奪されるというのがどういう事なのか、あの時
の俺はまだ分かっていなかった。


結論から言えば、乾先輩の態度はとても立派だった。
翌日、いつもと全く変わらない態度で部活に現れた先輩は、学校指定のジャージ姿だった。
竜崎先生が、先輩に皆のトレーナー的な役割もしてもらう事になったと言った。
勿論先輩も自分の練習はするが、今まで以上に他の部員の面倒も見なければならない。

「時間がない」が口癖の先輩には、重すぎる負担だと思った。
だが先輩は俺に、『皆のデータも取れるし、俺も勉強になるからね』 と笑うだけだった。
俺は、凍りついたように何も言えなくなった。
お前が俺にそれを言うのかと、あの人に返されるのが怖かったからだ。

乾先輩の態度は何ひとつ変わらなかった。
あの人は俺に嫌な態度を取ったり、冷たくした事など絶対にない。今までどおりに優しくて、大切にされていた。

だが俺は先輩に、どんな顔で接していいのか分からなかった。
何故なら俺たちは、あれから一度たりともランキング戦の事を口にしなかったからだ。
お互いまるで何もなかったかのように振舞っていた。
先輩の態度は表面的には自然だったが、俺たちは不自然そのものだった。

先輩に笑いかけられるたびに、俺はひどく脅えた。
あの笑顔の下で、先輩は本当は俺を疎ましく思っているんじゃないか、と。
抱きしめられても、キスをしても、ぬくもりは届かなかった。
悲しくて、悲しくてたまらなかった。ダメになってゆく自分の気持ちが。

だけど我慢しなきゃいけないと思っていた。後悔はしないけれど、俺はあの人から大事なものを奪った。
プライドの高い先輩が、どれだけの悔しさを抑えこんでいるのか分かるから。
(きっと今一番、俺の顔、見たくないだろうに)

話していても、俺とあの人の間には目に見えない障壁みたいなものがあった。
目の前にいるのに、ちゃんと触れあえない自分がひどくもどかしくて。
だがそれでなくても対人関係の下手な俺には、それを緩和する事などできなかった。


俺はあの人を好きで、本当に好きで。
だけど、乾先輩を好きでいることが、つらくてたまらなくなっていった。
その気持ちに負ける日が、とうとう来た。

あの雨の日、無言で走っていた俺たちの後ろを、越前と桃城がふざけながらついて来ていた。
俺はもう、自分達は本当にダメなのかもしれないと思っていた。
ケンカをしたのなら 『ごめんなさい』 と謝ることもできる。話し合うこともできるだろう。
だけど先輩は笑っていても、俺を拒絶していた。
それは恐ろしいほどの孤独感だった。
一人でも平気で毎日を過ごしていたかつての自分が、とても強靭な生き物に思えた。
(俺たちは、何のために、お互いを好きになったんだろう…)

それでも緊急事態が起こった時、俺の心も身体も正直に動いた。
桃城にぶつかられて乾先輩が体勢を崩した瞬間、俺は全身であの人を安全圏に押し戻した。
どんなに心が離れていても、彼が大切だった。
反動で、自分の身体が階段のてっぺんから投げ出されてゆくのを他人事のように感じた。
……自分自身を助ける事はできなかった。

落ちてゆく瞬間、俺を必死で見つめていた乾先輩の表情を、スローモーションのように思い出せる。
お互いに手を伸ばしたけど、指先は触れることすらなく、離れていった。
さよならなんだ、そう思った。
水底にゆっくりと沈んでいくように。深い眠りにつくように。

(ありがとう、俺なんか好きになってくれて)
(すげえ嬉しかったんだ)
(笑いかけてくれて、抱きしめてくれて、俺の言葉を聞いてくれて、ありがとう、先輩)

落ちてゆくほんの1秒か2秒、俺はあの人を見て笑っていたのかもしれない。
(…ごめん、俺、あんたに何もしてやれなくて)

俺がいなくなればあの人は楽になれるだろう。
そんなバカな事を思うほど、俺の心が弱ってしまっていたのが、全ての原因だった。
俺は先輩との全ての出来事を白紙に返した。
なにもなかったんだ。リセットして知らない同士に戻って、悲しいことも全部忘れられたらいい。
(そうしたらもう、俺もあんたもつらくないだろう…?)

今はそれがただの自己満足だったと分かる。恥ずかしいぐらいだ。
あの人の為だとか、きれいごとを並べ立てて、俺はただ逃げ出したかったのだ。
壊すことからも、ぶつかることからも。



……急にガクンと電車が揺れた。
土曜日の夜の車内は、たくさんの人が溢れ、騒がしかった。
遊びに行った帰りらしい親子連れは、疲れたのか子供が父親の服の裾を掴んでぐずっている。

カップルも多かった。こっちは今から遊びに出るところなんだろうか。
以前は電車の中でいちゃつくカップルなんてバカだと思ってた。
だけど今は幸せそうに見えて、羨ましかった。暖かい手を繋げる相手がすぐ隣にいることが。

俺は、何となしに自分の掌をじっと見つめた。
この手は、あの人の乾いた大きな手の感触を、自分の物のように覚えている。
まして、身体を繋げた記憶は鮮烈だった。
自分の身体中に刻まれたあの人の思いを、どうして忘れられたのだろうと不思議に思うほどに。

(あの夜、先輩と俺は、できるかぎりの事をして、お互いに近づいた)
(触れて、混じりあって、声を枯らして)
(先輩は泣きそうな声で、何度も何度も俺を呼んでいた)
(身体は熱くて辛かったけど、心は静かだった)
(とても安心して満たされていたから、少し未来に何が起こるかなんて、考えもしなかった)


……長く触れあった後、俺が何度目を覚ましても、先輩はちゃんと起きていた。
二人で寝るには小さすぎるベッドの上で、俺を自分の身体でくるみこむように抱いて、何度も何度も髪を撫でてくれ
ていた。
『…どうした、寒くない?』
『どうしたじゃねえよ、なんで寝ないんすか、アンタ』

眼鏡をかけっぱなしだから、眠る気がないのは一目瞭然で、俺は掠れた声で先輩にそう言った。
だけどあの人は、困ったように笑うだけだった。
『…なんだか夢みたいだから。目を離したら、海堂いなくなっちゃうんじゃないかと思って』
『夢みたいって、俺がここにいるのがっすか』

今はさらりとした感触に戻ってしまっている互いの身体を抱きしめて、俺たちは夜明けを待っていた。
自分が何を得て、何を失ったのか分からなかったけれど、ただとても幸福だった。

『て言うより、海堂が俺を好きになってくれたのが、夢みたいだなって…』
それは俺の台詞だろ、と言いたかった。
あんたみたいに何でも揃ってる人なら、誰にでも好きになってもらえるだろうに。
なんで俺を欲しがるのか、今でもよく分からないままで。

『アンタ、ほんと物好きだよな…』
呆れたように俺が言うと、先輩はちょっとムキになったような口調で言い返してくる。
『海堂、ほんとに分かってないよ。海堂を見てるヤツなんてたくさんいるんだから。俺なんて本当は…ただの早い者
勝ちなのかもしれないのに』

最後の台詞が聞き捨てならなくて、俺は右手を伸ばして先輩の耳をギューッと引っぱってやった。
『痛いよ、海堂…』
『アンタ、俺を見くびるのもいい加減にしとけ』
先輩に抱かれることに、抵抗がなかったわけじゃない。
だけど抱きあってもキスしても埋まらないこの距離を、時々寂しく感じる事があった。
ほんの一瞬でもいいから、お互いがお互いのものになりたくて、俺はあんたに全てを預けたんだ。

『ったく…どうやったら安心して眠るんすか、アンタは』
『え……?』
『好きって言えばいいのか?何回ぐらい?』
『海堂…あの』

人の心なんて、自分のでも絶対とは言えない。
だから誰かを好きになったら、もう安心して眠れる夜なんか来ないのかもしれなかった。
でも俺はこの人がとても寂しがりだと知っていたから、今夜だけでも甘やかしてやりたかったのだ。

先輩の首に抱きつくようにして、耳に唇を触れさせて。
いくつかの言葉を繰り返しささやいた。
普段ならとても言えねえけど、恥ずかしくて身体が震えそうになったけど、でも告げた。

顔を見せるのを嫌がってしがみついた俺を引き剥がすようにして、先輩が目を合わせてきた。
視線が絡むだけで、お互いの身体が熱くなるのをはっきり感じた。

ほら、目を見たら、分かるだろ。こんなの言わなくても。
俺がアンタを好きで好きでたまらないなんて、バレてるだろ、先輩。
何を不安に思うことがあるんだよ。



電車が失速しながらゆっくりと蛇行しはじめたから、先頭車両が大きな駅へと吸い込まれてゆく様子が見えた。
もうすぐ目的地に到着する。
俺と先輩が水族館に行く約束をしたのは、本当は今日だったのだ。

カードを貰った時俺は、誕生日は家族で祝う習慣だから、あまり長く一緒にいられないと困り顔で先輩に訴えた。
そうしたらあの人は少し考えて、じゃあ前の日を俺にくれる?と提案してきたのだ。

『その日は両親ともいないから、泊まればいいよ、海堂』
『前の日でも、いいんすか?』
『うん、だってそうしたら、誕生日になった瞬間に一緒に居られるだろう?』

水族館へ行って、ケーキを買って、ご馳走もいっぱい作ろうなと、先輩はまるで自分の誕生日みたいにはしゃいで
いた。
その様子が、俺は少し切なく思えた。
小さい頃からこの人が、親の都合で誕生日もクリスマスもすっぽかされ続けてきたと知っていたからだ。
(そんな風に、誕生日を祝ってほしかったんだろうな、この人)

だから俺は、その日は思いきりお祝いしてもらおうと思った。
そうしたらきっと、先輩が誕生日にどんな事をしてほしいのかが分かるんじゃねえかなと思ったのだ。
1ヶ月も空けないですぐ、先輩の誕生日は巡ってくる。
その時には、俺ができるだけ喜ばせてあげる番だ。そんな風に、思っていた。


のろのろとプラットホームに入り、ようやく止まった電車のドアが開くと同時、俺は改札を目指して走り出た。
駅に溢れた人ごみを縫うようにすり抜けて、たまに人にぶつかってしまっては「スミマセン!」と叫ぶ。
だが先へ進もうとする足は、決して止めなかった。

もし先輩に会えたら、謝らなきゃならない事がたくさんある。
今度こそ、お互いが抱え込んでいたものから目を逸らさずに、そしてたくさん話もしないといけない。
だけど今は何よりも、1分1秒でも早く、あの人のところへたどり着きたいと願った。

俺が自分を一番許せなかったのは、あの人を一人ぼっちにしてしまった事だった。
人の世話ばっか焼くくせに、本当は寂しがりのあの人の手を、俺は絶対に離してはいけなかったのだ。




Scene7. 5月10日(土) PM7:30


駅から目的地へと、ひたすらに走った。
幸いにも海堂は駅周辺の地理や、水族館の場所、そして水族館自体の造りなどはよく分かっていた。
乾にカードを貰った時うれしくて、行くのは1ヶ月も先だったけれど、ネットで色々調べていたのだ。
(それがこんな事に役に立つなんてな)

だがひとつ問題があった。もう時間は7時半になろうとしている。
水族館の営業は8時までなのだが、入場は7時で締め切られているはずだ。

煌々と明りがついた巨大な施設は、ショッピングモールや映画館、それに食事のできる店の入ったビルで、今の
時間はそちらの方が賑わっていた。
もうすぐ閉館の水族館の方には、あまり人がいる様子がない。
たまに入り口から客が出てくるのを認めて、海堂はその明りに向かってまっすぐ駆けていった。


「…入れてほしいってきみ、もう30分もせずに閉館なんだよ?中に知り合いがいるのなら、ここで待ってたらいい
だろう」
入場口を取り仕切っていた年配の男性が、弱りきった口調でそう言った。
どうしても人を探さなければならないと訴える海堂に対して、その答はもっともだと言えた。
もし乾が中にいるのなら、確かにここで待った方がちゃんと会える確率は高い。

だが海堂は、どうしても自分で乾を探したかった。自分から会いに行きたかったのだ。
自分が無理を言っている事など百も承知だった。決まり事を破ろうというのだ。
だから、ただ何度も「お願いします!」と頭を下げて、頼んだ。

その必死さが伝わったのか、海堂の父ぐらいの年齢のその男性はため息をついてとうとう折れた。
「…仕方ないね。閉館の8時には必ずここに出てくるって約束できるかい?」

その声にぱっと顔を上げると、男性は「内緒だよ」と少し笑って、もう閉まっていたゲートを開けてくれた。
ありがとうございますと頭を下げた海堂に、彼は先をうながす。
「もうエスカレーターは止まっているからね。最上階まで自分で上がらなきゃならないが…」

海堂は目の前の長い長いエスカレーターを、キツい目で睨み上げた。
止まってしまったそれは、もはや先が見えない程の長い階段と化してしまっていた。
「大丈夫です。必ず時間には降りてきますから」
そう言うが早いか、海堂は係の男性を地上に残し、全速力で階段を登りはじめた。

この水族館は、中央部分に超巨大な水槽がある。建物8階分の高さだ。
そしてその水槽の周囲を、通路がゆるやかな螺旋状にぐるぐると取り巻いて、ゆっくりと階下へと降りて来るしくみ
になっていた。

ちなみに通路の外側にも、さらに囲むように水槽があるのだが、通路自体は一本のみだ。
枝分かれしている部分もほとんどないし、この時間では館内の客も少ないはずだから、乾を見失わずにすむと
海堂は思った。
勿論それは、本当にここに乾が来ているという仮定の上での話だったが。


8階分の階段を駆け上がるのは、日ごろ鍛えている海堂でも足にきた。
誰もいない、永遠に続くような高みへの道を自分一人が走ってゆく。
足音は響くけれど、奇妙に現実味がなかった。
昼間、客で溢れている時なら可愛らしく見えるはずのたくさんの魚の絵が、つくりものじみて見える。

まるで世界に一人きりのようで、不安が胸をさした。
スタートした地上を見下ろしても、よく見えなくなっている。頂上はすぐだったが、ひどく遠く思えた。

自分はいったい何をやっているのだろうという思いがこみあげてきた。
勝手に乾がここにいると思い込んで、走ってきて。
(一人よがりもいいとこじゃねえのか)
途中でついに一度海堂は立ち止まった。ハアハアと荒い呼吸をつき、足元を見つめる。
気持ちがくじけて、涙が出そうになった。

だが、自分がここに来るまでに、色々な人の手助けがあったことを思った。
リョーマや葉末や河村の言葉が蘇る。他のテニス部のメンバーもみんな自分の事のように心配してくれた。

今度の事でよく分かったことがある。
誰かに優しくできるのは、折れないつよさがその人の心にあるからなのだ。
今自分がくじけたら、貰った優しさは全部無駄になってしまう。
(俺はもっと強くならなきゃダメだ)

呼吸を整え、海堂は自分を鼓舞するために頬を軽く何度かはたいた。
もう頂上は見えていた。あそこまでたどり着けば、あとは降りてゆくだけのことだ。
ガンッと最初の靴音を大きくたてて、残りの階段を一気に駆け上がった。

(ここに先輩がいなければ、また探しに行けばいい)
(俺はもう絶対に、あの人を諦めたりしない)
何度も心に繰り返しながら、とうとう海堂は8階分の階段の一番上まで登りきった。

最上階のエントランスは、うっそうとした森のようになっていた。
客を最初に迎えるこの場所には、人工のものだが水の流れるせせらぎも聞こえてくる。
しばし周囲を見渡していた海堂は、やがて決然とした表情で、緑と水と魚が溢れる美しい空間へと足を踏み入れ
ていった。




目の前を、びっくりするほど大きな魚がスーッと優雅に横切っていった。
この水族館はとても面白い構造になっている。建物自体が海を模してあるのだ。
だから最上階からゆるゆると降りて来るというのは、海の深みへ潜ってゆく事を意味していた。
出口にほど近いここ最下層で見られる生き物は、みんな深海魚だ。
乾は信じられない程の水をたたえた巨大な水槽を、一人静かに見上げていた。

今朝、乾はこの施設が開くと同時に入場した。
元々有名な施設だし、土曜日ということもあって、朝から家族連れやカップルや団体客などで大賑わいだった。
だが乾には持て余すほど時間があったから、小さなメモを取り出しては色々なデータを取っていた。
配置されている魚や海獣の種類や生態、原産地などを書き込む。

私服姿の乾は到底中学生には見えなかったらしく、二度ほど高校生ぐらいの女の子に声をかけられたりもしたが
「連れがいるから、ごめんね」とさっさと断りを入れた。
本当に海堂と二人で来たつもりでいた。
それが一人よがりな行為だと知っていたけれど、約束どおりあの子の誕生日を祝ってやりたかったのだ。

休憩用に配置されたソファに座って、客や水槽をゆったりと眺めたりもした。
気持ち良さそうにすいすい泳いでゆく色とりどりの魚。
グルグル回りながら泳ぐラッコや、愛嬌たっぷりのペンギンの群れ。
変わり種としては、様々な種類のクラゲを綺麗な色にライトアップしている一角もあった。

ガラスには小さな子供がべったりくっついていたが、背の高い乾は離れた場所からでも余裕で観察する事ができ
たから、気にはならなかった。
(そう、俺は「観察」なんだよな)
ふと気がついて、苦笑気味になる。どうも自分は可愛いとか綺麗だとか単純に何かを楽しむ事を知らない。

だがあの子が一緒なら、きっと楽しいだろうと思った。
海堂が夢中になって魚やイルカやペンギンを見ている傍で、自分は余計な解説をしてやるのだ。

『先輩、イルカすげーきれいっすね。あんなに速く泳ぐって俺知らなかった』
『イルカって実は鯨の仲間なんだよ。ハクジラ類の小型のものをイルカと呼ぶんだけどね…』
『アンタ、そんな訳分かんねえウンチクより、可愛いなとかねえのかよ』
『いや、そりゃもう可愛いよ、海堂が』
などと乾が調子に乗って囁いて、海堂にドカッと足を踏まれるとか、いかにもありそうだった。
自分の想像に乾は、暗いのをいいことにひそかに笑ってしまった。

(イルカ、一番好きだろうな、海堂は)
前からそう思っていた。
だから二人で旅行に行ける年になったら、ドルフィンダイビングに行けたらなと、ぼんやり夢見たりもしていたのだ。

楽しいことを持ち寄って、悲しいことは半分ずつにして。
そして彼はいつも自分を守ってくれたから、同じように守ってあげられればよかった。

今の自分には分かる。
本当に大切なのは、たったそれだけのことだったのだ。



ちらりと腕時計を見れば、もう7時45分になろうとしていた。じきに閉館のアナウンスが流れ出すはずだ。
(そろそろ出ないといけないか…)
名残を惜しむように、この水族館で一番有名な、巨大なジンベエザメをもう一度だけ見上げる。

その時、この時間帯にふさわしくない誰かの走る足音が響いてきて、乾はおやと思った。
もうこのフロアには自分一人しかいない。
閉館前に職員が走り回るというのもおかしな話だと、そちらを振り向いたのと、
「乾先輩!!」
呼ばれたのが、同時だった。

心臓が、完全に止まった気がした。
彼のことを一日考えすぎて、とうとう自分は幻まででっちあげたのかと、真剣に思ったほどだった。
自分が見ているものが、到底信じられなかった。
だが少し離れて立つ海堂が、一度自分を呼んだ後、ひどく咳きこみ始めたのを見て、呪縛が解けた。

「か…海堂!?」
慌てて近寄ると、海堂は喉をヒューヒュー鳴らしていた。
ほとんど身体を丸めるようにして咳きこみ、物も言えない状態の海堂を見ているのが辛くて、乾は腕に彼を抱き
こむようにして、必死で背中をさすってやった。
偽物だろうが本物だろうがどうなっていようが、構わなかった。
目の前に彼がいて、自分の手で触れられる。彼の手も必死に自分にしがみついてくる。

「せ…せんぱ…」
「大丈夫、大丈夫だから。まだしゃべるんじゃない。いい子だから、な」
(ずっと走って来たんだろうか?どこから?)

疲労と酸欠としか言いようのない海堂の有様を見ているうちに、胸がつぶれそうになった。
自分に触れられるのを嫌がる様子を見せないから、乾はゆるく包みこむように彼に腕を回した。
嫌なら振り払える程度の抱擁だったが、腕の中の海堂はそれに安心したように少しずつ呼吸を整えてゆく。

「そう、ゆっくりな。大きく息して。大丈夫、もう急がなくていいから」
少し回復してきた海堂に、何か飲ませてやった方がいいだろうかと自販機を目で探しながら、乾は身体を一旦離そ
うとした。
だが、海堂の手が服をしっかり掴んでいて離してくれそうにない。

「海堂、なんか飲みもの買ってきてあげるから、待って…」
「せんぱ…約束…遅くなってゴメン……」
「え?」
「約束、してたのに、今日来るってここに…ごめんこんな待たせて…」
「か…いどう、それって…」

ようやくまともに物が言えるようになってきて、海堂は懸命に乾を見上げた。
100年ぐらい会ってなかったような気がした。
(乾先輩…だ。やっと会えた…)

大きな水槽を背景にした乾の表情からは、何もかもが突然すぎて、ひどく混乱しているのが見て取れた。
「海堂…俺のこと、思い出してくれたの……?」
小さな、かすれた声が、おそるおそるそう聞くから、胸の真ん中が痛くなる。
乾の服の裾をぎゅうっと握りしめたままで、海堂は何度も頷いた。

笑ってくれるのかと、思っていた。
だが乾がとても悲しそうな顔で、髪にそっと触れたから、手遅れだったのだろうかと思う。

(先輩、もう俺が嫌になっちまったのかな)
その考えは、身体が冷たくなるほど恐ろしかった。
目の前にいるのに、触れているのに、やっと会えたと思ったのに。
自分たちの心は、もうとても遠い場所にあるのだろうか。
だが乾は、やがて両手で冷えた海堂の頬を包み込み、苦しげな表情でまっすぐに目を見つめてきた。

「…あのランキング戦からずっと、悲しい思いばかりさせてきた…」
「乾先輩…?」
「記憶が戻った時も、すごくつらかっただろう?俺は海堂にひどい事をしていたから…」

ごめん、と繰り返す血が出そうな声と、自分の頬をじわじわと暖めてくれる手の温もり。
そのどちらをも、愛しいと海堂は思った。
だから頬に触れている乾の手を、自分の手で包み込んだ。
色々なことがあったけれど、乾も自分も、もう充分に苦しんだのだ。


「ちがう、先輩。俺も先輩も間違ってただけだ。どっちが悪いとかじゃねえよ」
「海堂、でも」
「すぐに自分ばっか責めるの、アンタの悪い癖だ」

厳しいぐらいの声。そして彼特有の強い眼差しに射すくめられて、乾は動けなくなった。
自分一人が悪かったと自虐的になるのは、ある意味楽な事だった。
だが海堂は、もう楽な道になんか行かせてやらないと、そう言っている。
どんなにか辛かっただろうに、彼は今、もう一度、乾を選び取ろうとしていた。

「俺も、先輩に寂しい思いをさせた。あんたも傷ついてる。俺と同じぐらい」
「…海堂」
「でも俺、信じてたっすよ。あんたはここで、俺を待っていてくれるって」

……だから、走ってきたんだ、迎えに来た。

そう海堂が囁いて、小さく笑ったのを見た瞬間、乾は自分の中で何かがゆっくりと溶けて溢れるのを感じた。
胸の真ん中が、とても熱くて。もう我慢なんかできそうになかった。


ずっとずっと自分を戒めてきた。
自分には泣くことなど許されないのだと。
彼を見失ったあの日から、悲しみは膨れあがり、どこにも行き場はなかった。

だが今は悲しくなんかなかった。
彼がいてくれる。自分を見つめ返してくれる。自分を探して、ここへ走って来てくれた。

いつのまにか、泣きだしていた。
物心ついてから、人前で泣いた事など一度もなかったのに。
自然とただ涙が溢れ出して、止まらなくて。乾は恋人の目を見つめながら、静かに静かに涙を零し続けた。
黙って見上げる海堂の頬にも、乾が流した涙がぽたぽたと落ちてくる。

(きみの差し出した手を取るのは、俺のワガママだ、それでも)
(俺は、海堂がいないと、もう幸せになれないんだ)


考えるよりも先に、二人はいつのまにか手を伸ばし、柔らかくお互いを抱きしめ合っていた。
痛んでささくれだってしまった心を寄せ合い、癒すように。
指先がお互いの身体をなぞって、ここにいることを確認してゆく。
涙で濡れた乾の頬に、海堂は自分の頬を擦りよせた。暖かな、感触。

会いたかった、会いたかった、と相手が言っているのが、言葉にしなくても伝わってきた。
だから、それ以上必要なものなど、なにもなかった。

(こんな人、世界中探したって一人しかいない)
(だからもう、絶対に離したりしない、きみを)
……閉館を告げるアナウンスが、流れはじめる……


すすり泣く乾を抱きしめた肩越しに、この水族館の象徴とも言うべき巨大なジンベエザメがゆったりと泳いでゆく
のを見て、海堂はおかしくてたまらなくなった。
せっかく水族館に来たというのに、全部素通りしてここまで来てしまったのだ。
(楽しみにしてたんだけどな)

まあ1ヶ月もしないうちに、今度は乾の誕生日が巡ってくる。
そうしたら、今度は自分があのカードを買って、一緒に来ればいい。
未来が許されているのなら、自分達はいくらでも埋め合わせがつくのだから。

「先輩、行くぞ。俺、ここに特別に入れてもらったんだ。係の人に迷惑かかる」
涙腺が壊れたとしか形容できないような泣き方をしている乾が、うんうんと頷いた。
深い深い海の底に沈んでしまっていた心は、今やっと水面へと浮かび上がってゆく。

海堂は、乾の左手に自分の右手を滑りこませると、ぎゅっと握りあわせてみた。
(ああ、やっと、つかまえた)
その安堵感で、胸がいっぱいになる。
そしてまだしゃくりあげている彼の手を引っぱって、出口へと歩きはじめた。

手を繋いだ二人はそのまま、音のない美しい深海を振り向くことをせず、外の世界へと踏み出していった。






エピローグ 5月11日(日) AM9:45


「海堂…海堂…?」
遠く、自分を呼ぶ声が何度も聞こえた。聞き慣れた、耳によくなじむ優しい声。

だんだんと自分の意識が浮上するのを感じながら、海堂はその声が心地よくて少し笑った。
それに何故か、信じられないぐらい美味しそうな匂いも漂ってくる。
重い瞼をこじ開ければ、明るい光と見慣れた部屋、そして心配そうな顔で自分を覗き込む乾の姿があった。

「せんぱい…」
自分の出した声が、痛々しいほど割れて掠れているのにぎょっとする。
だがまず乾に向かって、海堂は優先順位の高いことを訴えかけた。
「先輩…腹へった…」

昨日記憶を取り戻したばかりの海堂が、目を覚ましてもちゃんと自分を覚えているか内心不安だった乾はあまり
の第一声にカクンとベッドに突っ伏した。
「海堂、誕生日の朝なんだし、もうちょっとこうロマンチックな会話で始めないか」
「だって俺、昨日晩メシ食ってないんすよ」
すげえいい匂いしてる…と横になったまま、周囲を見回す海堂に、乾は得意そうに笑ってみせた。

「うん、ご馳走作ってるから。下ごしらえはしてあったし、今仕上げしてたとこなんだ」
「下ごしらえってアンタまさか、俺が来なくても料理作るつもりだったんすか!?」
「俺が海堂とした約束、破るわけないじゃないか」
「俺が言ってんのは、そのメシどうするつもりだったんだって事っすよ」


実のところ、二人はまだ昨夜からろくに話もしていなかった。
乾のマンションに着くが早いか、どちらからともなく抱きあって、ベッドにもつれこんでしまったのだ。
もちろん話し合うことは大事だったが、互いが互いを欲しがる気持ちが強すぎた。
(…どうすんだよ、何回したのか全然覚えてねえ…)
明るい朝の光の中で、愛しそうに自分を見つめる乾に、海堂は唐突に耳まで真っ赤になった。

昨夜の乾は優しいけれど執拗で、海堂の身体で彼が触れなかった場所などない気がする。
溺れる、としか言いようのない行為だった。
海堂も寂しかった日々が長すぎてタガが外れたのか、恥ずかしい事を色々言った記憶が蘇ってくる。
しかもその自分の乱れっぷりを証拠づけるように、パジャマのズボンだけ履いて上半身は裸の乾の身体には跡が
たくさん残っていた。
(ああ、もう釈明のしようがねえよ、この有様)

「どうした、海堂。顔赤いよ?」
あまりの羞恥心に、笑顔で覗き込んでくる乾から自分を隠そうとして掛け布団をひっぱった海堂は、さらに恥ずか
しい事に気がついた。

乾のパジャマの上着は、なんと自分が着せられていたのだ。
ひとつのパジャマを分けあって着るという新婚さんでも自粛するような真似を、自分を巻き込んで平然とやっている
乾に、海堂は一瞬殺意を覚えた。
どうにか元通りになったと思ったら、朝からこれだ。

昨夜乾に会いに走って行った自分の選択は正しかったのだろうかと、海堂は頭まで布団を被って、いちから考え
直そうと試みた。
だがその間も、乾が傍らでごそごそ何かやっている。

気になって布団の隙間からそーっと覗くと、勉強机の上でケーキにロウソクを立てている背中が見えた。
「先輩、そのケーキ…」
「ちょっと待っててくれるか、今準備するからな」

戻ってきた乾は、まだ身体に力の入らない海堂を支えてベッドに座らせてくれた。
そして折りたたみの小さなテーブルを、海堂の膝の上にセッティングする。
まっ白にクリームを塗って、海堂の好きなフルーツがこぼれそうなぐらい乗っているお洒落な小さいケーキがテー
ブルにうやうやしく供された。
さすがに14本も立てられないらしく、細いロウソクが5本だけ立ててある。

「火、つけるよ」
ライターで火をつけてくれると、乾がさあどうぞという風に笑った。

自分と交わした約束は破らない、とさっきこの人は言っていた。記憶は戻るかどうかは分からなかった。
だが、彼の心は変わらずに自分に差し出されていたのだと知る。
乾のぶかぶかのパジャマ姿で、ベッドの上で、海堂は誕生日のケーキのロウソクを吹き消した。
誕生日おめでとう、と乾が優しい声で囁いてくれた。幸せで、泣きたくなった。


「今日から同い年っすね。ちょっとの間」
「え?」
とりあえずケーキを机の上に戻しながら、乾が虚をつかれたような顔で振り向いた。
「海堂もしかして、俺と同い年の方が良かったとか思ってる?」
「そりゃそうっすよ。追いついたと思ったら、アンタ先に行っちまうし…」

こんな愚痴めいた事を言うのは、自分らしくもないと分かっていた。
でも素直に本当の気持ちを告げるのも大事だと知ったから、海堂は俯きながらもそう言ってみた。
ギシッと音がして、ベッドの端に乾が腰をかける。

「同い年だったら海堂は、俺の事好きになってくれなかったんじゃないかと思うけどな」
「そっすか?」
「うん、同学年だとテニス以外でも張り合う気持ちが強いから、受け入れてもらえなかったと思う」

そんなものかもしれなかった。乾の言っている事も分かる気がする。
だけど、この焦りのような気持ちは、ずっとついて回るんだろうなと海堂は思った。
大事なものを手離さないためには、自分にはまだいくつもの強さが必要になってくるのだろう。


「……外、天気いいっすか」
「ああ、すごくね。海堂が生まれた日も、こんな天気だったんじゃないかな」

わざとらしい話のそらし方だったのに、乾は笑いながら律儀にカーテンを開けてくれた。
部屋に日光が溢れて、雲ひとつなさそうな青空も見えている。
この人のこういう所が、結局自分は一番好きなんだよなと海堂は内心苦笑してしまった。

「そうっすね。だからきっと俺の名前、を……」
言いかけた言葉は、最後まで言わせてもらえなかった。
あれ、と思う間もなく視界が暗くなって、頬に手が添えられて。
屈み込んだ乾の唇が、優しい優しい触れ方で、海堂にくちづけてくる。
気が遠くなりそうな、キスだった。

「生まれてきてくれて、ありがとう」
ぼんやりと見上げる海堂に優しくそう告げると、乾は料理ができるまでもう少し横になってていいよと、もう一度
海堂を寝かせてくれた。
そして、誕生日の歌を歌いながら、キッチンへと戻ってゆく。


ようやくふいうちのキスから我に返った海堂は、声はいいくせに調子っぱずれの恋人の歌声に気がついてベッド
の中で声を潜めて笑いだした。
「へったくそだな」

これからやる事はたくさんある。乾とももっと話をしないといけないだろう。
つらい事がなくなったわけじゃない。
だが、逃げずに立ち向かったからこそ自分は今ここにいるし、これからも好きな人の傍にいられるんだと思えた。

キッチンから漂う美味しそうな匂い。窓から差し込む澄んだ太陽の光。
頬を撫でてゆく、気持ちのいい風。
そして自分が生まれてきて嬉しいと言ってくれる人がいる。

(すげぇ、幸せ、だな…俺は……)

途切れ途切れに呟くと、布団にくるまり猫のように丸くなりながら、海堂はもう一度短い眠りへと身をゆだねていった。






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