Scene1. 薫


耳がキンと鳴りそうなほど凍えた空気の中を、俺は一人学校へと向かっていた。
人気のない道。まだ朝の7時を回っていない。
テニス部の朝錬は7時半からだったが、いつも人よりも早く自主練を始めるのが俺の日課だった。

同じ学年の奴らが、物好きな奴という目で自分を見ているのは知っている。
だが、そんなことはどうだってよかった。
たかが30分の事でも毎日続ければ、やってない奴との差は必ず出てくる。
俺は強くなりたかった。事実上3年が引退した12月、校内ランキング戦がある。
1年がレギュラーを獲るチャンスがやっと巡ってくるのだ。

「海堂」
この時間に誰かとかち合うわけないと思っていた俺は、急に呼び止められ、思わずビクっとなった。
だがすぐに聞きなれた声だと気づき、安堵して振り返る。

「っす。早いっすね、乾先輩」
「ああ、おはよう」
ひらひらと手を振った長身に眼鏡の先輩は、あっという間に追いついて、俺の横へと並んだ。

俺はしゃべるのがすごく苦手だ。
だが、この人相手ならば、少しはつっかえずに思った事を話すことができた。
俺が考え考え喋っても、先輩は何が楽しいのか、いつも俺の言うことを待っていてくれたからだ。


半年ほど前、公園で子猫を拾って途方に暮れていた俺を助けてくれたのが、乾先輩だった。
ただの通りすがりで何の関係もなかったのに、先輩は俺の代わりに猫の飼い主を探してくれたのだ。
部活の時なんかも、面倒見のいい人だなとは思っていた。
まあ、例のデータを収集するって意味合いもあったのだろうが。

でも、ほとんど喋った事もなかった俺に親切にしてくれたから、びっくりした。
その後も、俺を何かと気にかけてくれる。そのことが、なんだか嬉しかった。

子猫はすぐに貰われていったからそれきりかと思ってたのに、先輩はトレーニングの仕方を指導したり、俺の
フィニッシュショットを完成する助言もしてくれた。
秋の新人戦で負けた後、無茶な自主トレをしていた俺を、きつく叱ってくれたのもこの人だった。

『海堂、練習するのと身体を痛めつけるのは違う。そんな真似するのを俺は絶対許さないからな』
『先輩には…関係ねぇだろ』
『関係なくなんか、ないよ』

どんなに叱られるよりも、その時、眼鏡の下で先輩が悲しそうな目をしたのが効いた。
俺がケガをしたりテニスができなくなったら、この人を悲しませるのかなと考えたら、意地を張っている自分が
すごくダメな奴に思えた。

だから一晩考えた末に、俺は先輩に謝った。
改めて自主トレのメニューを見て欲しいと頼んだら、先輩はめちゃくちゃ嬉しそうに笑って、「実はもう考えて
あるんだ」と言ってくれたのだ。
最初から、俺が考え直すって分かってたみたいに。


「……海堂?海堂ってば」
「えっ、あ、すんません」
ぼんやりと記憶を辿っていた俺は、呼ばれてふいに我に返った。ヤバイ、何言われてたのか分かんねえ。
だが先輩はそれすらお見通しという顔で、「新しいメニュー、調子どうだ?」ともう一度聞いてくれた。
このささやかな思いやりが、いつも俺を喋りやすくしてくれるのだろうなと感じる。

「あ、すげえいいっす。でも量的にはちょっと物足りない感じしますけど」
「うーん、今はバギーホイップの精度を上げることを中心にメニュー組んでるからな。あれが完全に海堂の
ものになったら、また組み直してあげるよ」

バギーホイップショット。俺のフィニッシュショットとして、先輩が薦めてくれた打ち方だ。
リーチが長く、持久力のある俺に合っているからと教えてもらった。
勿論、打てるようになるまでものすごく練習したけど、俺はそんなのは苦にならなかった。
強くなれるのなら、何だってした。俺には行きたい場所があるのだから。

でも、なんでこの人は俺に優しくしてくれるんだろう。
ここのところいつも胸にある疑問が、またよぎってモヤモヤしてきた。
何の得にもならねえのに。俺はこんな性格だから、感謝してても礼も上手く言えないのに。
いつも、自分では気づかないような事まで、助言したり手助けをしてくれる。


「もうすぐだね、ランキング戦」
「…っす」
耳に良くなじむ先輩の声を聞きながら、二人で校門をくぐり、テニスコート脇を抜けてゆく。
誰かと一緒にいる事が苦にならない自分が、不思議に思えた。
それでも静まりかえったコートを見れば、途端に闘志が湧いてくる。
勝ち残ってみせる、と強く思った。その為にキツイ練習をこなしてきたのだ。

だけど同時に、なんだか胸が痛かった。
この人が俺という存在を問題にしていなくても、レギュラーを争うライバルには違いないのだ。
俺は、乾先輩を利用してることになるのだろうか。

「バギーホイップ使えば、きっと勝ち抜けるよ。早く上がっておいで」
高い位置から降ってくる穏やかな声に、俺は思わず顔を上げ先輩の顔をじっと見つめた。
うん?と小首を傾げた先輩の眼鏡の奥の目が笑っていて、おかしいぐらい安心する。

だがその瞬間、俺は何かほんの小さな違和感を感じて、まばたきをした。
「あれ…先輩、あんたもしかして、体調悪いんじゃないすか」
「えっ!?」

部室のドアの桟の上に隠してある鍵を探っていた先輩は、そのままの格好で固まってしまった。
この人のこんなに驚いた顔を見たのは初めてだ。
見当外れの事を言ったかと思ったが、一方では妙に確信じみたものがあった。
どこがどうとかじゃねえんだけど、何かがおかしい。

「うわ…なんで分かったんだ、海堂。絶対誰も気づかないと思ってたのに」
なんで気づかれたくないんだ?とも思ったが、とりあえずは聞かれた事に答えるべきなのだろうか。

「なんでって…ほんのちょっと身体が重そうな感じするし、顔色も悪いような気がする…」
俺の言葉に、先輩が部室の鍵を握りしめたまま、照れくさそうな顔をしたからびっくりした。
多分、クラスとか部活でも表情読めないと言われる類の人だろうに。

「…乾先輩、カギ…」
鍵を開けるよう促すと、先輩はらしくもない慌てぶりで、やたら音をたてながら部室を開けてくれた。
「ごめん、ごめん。なんか…うれしくてさ」
「うれしい…っすか?」

ロッカー代わりの木の棚に荷物を突っ込むと、俺たちは並んで着替えながら、ぽつりぽつりと言葉を交わした。
なんだか今までに見て知っている先輩とは、どっかが違うような気がした。
「うん。うちの両親て共働きでね。だから病気の時なんかはさっさと一人で病院行って薬も飲んで、なるべく
面倒かけないようにしてるんだ」

淡々とした口調の乾先輩に、俺は思わず着替えの手を止めてしまう。
いくら大人びて見えてもまだ中学生だ。
具合悪い時でも面倒かけないようにするなんて、やや過保護な親を持つ俺には考えられなかった。

そしてそれ以上に。
この人が、こんな自分の心の柔らかくて脆い部分の話をした事にも驚いた。
だけど俺は、何故か嫌だとは思わなかった。
俺に話してもいいと思ったのなら、もっと聞かせてほしい気がした。
知りたいと思った。結構身近にいるのに、本当はよく知らないこの人のことを。


「けど自分で隠してるくせに、ホントは気づいてほしいって気持ちもあるんだよ。だからさっき海堂が分かっ
てくれてすごく嬉しかったんだ」
もうオレンジのバンダナを結んでしまった俺の頭を、先輩の大きい手がぽんぽんとたたいてくれる。
子供にするようなそんな仕草にも、反発心は湧いてこなかった。

俺は無言でただ、先輩の表情が移り変わるのをしばらく見続けていた。
うん?と首を傾げて、俺の言葉を待ってくれる。
俺はこの人が、誰にでも均等に優しく振舞う時の顔も知っていた。
今はもう、あんな顔を自分に向けられることが怖かった。その他大勢、なんて嫌だった。

だって、いつの間にかたくさん見てしまったから。
めちゃくちゃ優しかったり、怒ったり、へこんだりする顔。少し弱かったり。俺をたしなめてみたりもする。
それから、ふいに浮かぶ飾りっけのない笑顔も。

つくってない顔、なんだろうか、あれは。
だとしたら俺は、少しは気をゆるしてもらえてるんだろうか。特別…に?
(でも、なんで)
自惚れてしまうのが、怖かった。


「海堂…?」
自分でも何を考えてるのかがよく分からなくて。
頭の中はごちゃごちゃで、その混乱に泣きそうになりながら乾先輩を見上げた。
そんな俺の様子に困惑したのか、耳によくなじむ声がもう一度ためらいがちに「海堂」と呼ぶ。

それから俺の頭にのっかっていた先輩の手が下りてきて、眼鏡の奥の瞳が、情けない顔の俺を映しこんで
るのもはっきりと見えた。
それでも俺は、催眠状態みたいに動けない。
先輩の指先が動き、さらっと髪を梳いたのを感じた瞬間、心臓がドクンッと音をたてた。
(逃げないと、もう戻れなくなる)


「てか、アンタ調子悪いんなら朝練なんか出てる場合じゃねーだろ!?」
次の瞬間、我に返った俺は裏返った声でそう叫び、爆発的に赤くなりながら乾先輩から身をはがした。
焦る気持ちとバクバク言う心臓の、両方に手がつけられない。
今髪を梳いていった指の感触が、訳わかんねえぐらいはっきり残っている。
どうしてくれるんだよ、コレ!?

赤面する俺と、困り顔の先輩が互いに何かを言いかけた時、マンガみたいなタイミングでバターン!とドアが
開いた。
「おっはよー乾!海堂もいつも早いにゃー!」
「お、二人とも熱心だな。感心感心」

何の悪気もない、まぶしいほどの明るさで青学ゴールデンペアが部室に登場した。
青学の宝・無敵のダブルスペアが俺たちの間に割って入ってくれたのを幸い、俺はラケットをひっつかんで
ドアへと猛ダッシュした。

「お先っす!」
「ああっ、海堂!?」
とにかく逃げなければと思ったが、部室を出かけて大事なことを思い出した俺は、ばっと振り返って叫ぶ。
「大石先輩!乾先輩調子悪いんで、練習出させちゃダメっす!」
「え…そうなのか?分かったぞ、海堂!!」
「なに、乾風邪〜?」

背後から俺の名前を呼ぶ乾先輩の声が追いかけてきたが、俺は振り向かずに走った。
いや、逃げだした。
あの人の傍の居心地のよさに慣れきっていた自分に、今さらなタイミングで俺は気づいたのだ。




Scene2. 乾


「不眠症、ねえ…」
出し巻き卵をきれいな箸さばきで口に入れながら、不二がいかにも楽しそうな口調でそう言った。

昼休み、生徒会室である。
一緒に昼メシを食おうとダダをこねる英二を大石に押し付けたと思ったら、不二に捕まってしまった。
抵抗もむなしく俺は生徒会室に連れ込まれ、尋問を受けるはめに陥っていた。

朝の一件で俺の体調が悪い事がレギュラーに知られてしまい、朝練どころか放課後も参加させてもらえる
かも怪しくなってきている。
海堂にうかつに触ってしまったことを釈明したいのに、俺は!

いや、釈明の余地など果たしてあるのだろうか。
あの瞬間、俺の心の中はかなりやましかった。自分を正当化できそうにない。
海堂が泣きそうな顔で俺をじっと見上げるもんだから、可愛くて可愛くて、脳が沸騰する思いだったのだ。
抱きしめてキスしなかっただけまだ理性が残っていたとも言える、まさにギリギリの状況だった。

ああ、俺はもうダメだ……髪、さらさらだったし。
まだ指先には感触がしっかり残っている。
世間ではもしかしなくても、これをセクハラと呼ぶのかもしれない。

海堂はどう思ったんだろう。
挙動不審な変な先輩だと思われても、事実だから取り消しようがないではないか。
また以前のようにあの子がよそよそしくなってしまったら、俺は本当に不眠症で死ぬかもしれない。

あんなに苦労して時間をかけて、やっと気を許してもらえるようになったのに。
今日なんか俺の体調が悪い事にまで、気づいてくれたというのに!
俺はなんで目先の誘惑に負けたりするんだ……つまりは可愛かったからなんだがな。


「あの子が好きで好きで、思い悩むあまりついに眠れなくなったってワケ?」
「そうだよ」
悪びれもせずに即答した俺に、さすがの不二もしばし瞠目したが、やがて肩を揺らして笑いだす。

「恋の力ってすごいね。乾がこんなダメ面白い人間になるなんて思いもしなかったよ」
「なんだそれは…」
怒る気にもなれず、俺は昼メシ用に買ったコロッケパンを半分ほどで投げ出した。
体調が悪いのは本当だ。
ここのところ睡眠時間は多くて2・3時間。食欲もなくなってしまっていた。

自分が誰かを想うあまり眠れなくなるなんて、半年前の俺が聞いたら笑いとばすだろう。
だがこの気持ちは現実で、俺を支配してしまっている。


半年前の猫の一件で、俺は海堂を好きだとがっつり自覚してしまった。
恋心というものは、自分ではどうにもできないのだと思い知る。
消すことも減らすこともできない。やたら増える一方だ。
あの子が大切で、愛しくて、目が離せなくて。
海堂がいないと、俺は酸素不足みたいに苦しくてたまらなくなった。

少しでも傍にいたかったから、俺はテニスにかこつけてアドバイスしたりトレーニングの仕方を指導したり、
とにかく何だってやった。
海堂を強くしてやりたい気持ちも勿論あった。
テニスをしている海堂が、一番好きだった。
普段は人見知りで警戒心の強いあの子が全開になるのは、ラケットを握ってる時だけだったから。

新人戦で負けた後、海堂が無茶苦茶な自主トレを始めた時は、心配で頭がおかしくなりそうだった。
オーバーワークで怪我をしたら、という不安が、四六時中俺を苛んだ。
不注意から起こる怪我でテニスができなくなる奴なんて、ざらにいるのだから。

だから俺は、嫌われるのも覚悟の上で海堂をキツく叱責した。
一時は反発されたし、関係ないとも言われたけれど、最終的に海堂は俺の苦言を受け入れてくれた。
ちゃんと俺に謝って、練習メニューを見て欲しいと頼んできた彼を、前よりもっと好きになってしまっても
それはもう仕方がないだろう。


「僕は褒めてるつもりなんだけどね」
「どこがだよ」
わざと音源を切ってあるのか、昼の放送も遠くから聞こえるだけで、妙に静かだ。
生徒会室だってのに、学校に人が居るざわめきが感じられないなんておかしなものだなと思う。

「いや、本当に。誰かさんに見習ってほしいぐらいだよ」
「手塚か。テニス部部長、兼、生徒会長ってどんな人間だよ。しまいに過労死するぞ、あいつは」
不二は表現しがたいような微笑を口元に浮かべていた。
それを見ただけで、手塚が生徒会長になった事が気に入らないのだと知れた。

会う時間が、減るからか。
怖くてあまりつっこんだ事はなかったが、不二と手塚が付き合っているのは分かっていた。
この不二と、あの手塚である。いくら俺がデータマニアでも、知りたくない事だってあるのだ。

「過労死よりは、恋煩いで死ぬ方がいいんじゃない?」
昼メシを途中で放棄して、せめてもと自作のドリンクを飲み始めた俺を、さすがの不二も気がかりそうな目で
見た。
こいつでも、手塚と1分でも長く一緒にいたいとか思うのだろうか。
元の自分がどんな形をしていたか思い出せないぐらい、取り乱したりするのだろうか?
もし、誰でもそうなのなら、俺も少しは安心できるのに。

「そうだな、俺もどうせ死ぬなら、その方がいい」
苦笑混じりだったが、それでもどこか甘い気持ちで俺はその言葉を受けとめていた。

日常は変わらなく運行していても、俺の世界は変わってしまった。
学生服を着て、授業を受けて、テニスをして、データをまとめて。
やってることは同じなのに、心の中にはいつもあの子がいる。
それは俺みたいな性格の人間には負担のかかる変化だと分かっていた。だが、もう戻れない。

「もういっそのこと好きだって言えば、乾。このままじゃ近々倒れるんじゃないの」
「う…確かにな」
自分が肉体的にも精神的にも限界に近づいてる事は、承知していた。
だが踏み出せないのは、今のままなら少なくとも嫌われずに傍に居られるからだった。

叶う確率の低さはもう笑ってしまうほどで、賭けに出る意味なんかないと思うぐらいだ。
だがリスクを犯しても、彼の特別になりたい気持ちは日々増してゆく。

「海堂って実は結構モテるしね。ぶっきらぼうだけど親切だから、女子に密かに人気あるみたいだよ」
「…知ってる。海堂は動物と子供と女性と老人には親切なんだ…愛想は全然ないけどな」
「なるほどね。自分より小さかったり弱い者には優しいんだ。乾じゃ全然見込みなさそうだね」
本当の事を笑顔でサックリと言われて、俺は思わずでかい身体を丸めてしまった。
ああなんで俺は、海堂に優しくしてもらえるカテゴリーに入っていないんだよ!


私立の青学の生徒会室にしては旧式な石油ストーブの上で、やかんが蓋を持ち上げた。
カタカタと音がする。
不二が備品のコーヒーを取り上げ、飲む?という仕草をしたが、俺は首を振った。
豆から挽くほど本格的ではないが、この部屋には一応コーヒーフィルターも置いてある。
水っぽいインスタントよりはずっと上等であろうそれを、不二は俺に背を向け自分の分だけ淹れ始めた。

「もし次のランキング戦で海堂がレギュラー入りしたら、競争率は一気にはね上がるだろうね。女の子は
クリスマスとかバレンタインには勝負に出てくるよ」
どうやら手塚がらみで、イベントではよほど嫌な思いをしているらしい。
不二の言葉には何やら怨念じみた響きがあったが、俺は言われた事をよくよく吟味してみた。

告白されたからといって、海堂が今すぐ誰かと付き合うとも思えないが、可能性はゼロじゃない。
彼には親しい女の子だっているのだ。
……俺の脳裏を高梨の妹の顔がよぎった。

猫を貰い受けてからあの子は、内気ななりに努力して海堂によく話しかけてくるらしい。
猫の様子を報告したり、写真をくれたり。
今ではクラスの連中も皆その事を知っていて、高梨妹が海堂のことを好きなのに気づかないのは当の
本人のみという状況らしかった。

海堂を好きな気持ちなら、俺は誰にも負けないのに。
他の誰かが彼に好きだと告げて、彼に触れるのを、俺は正気で見ていられるのだろうか。

「クリスマスに…告白しようかな、俺…」
覚悟もないままにぼそりとそう言ってみると、不二が哀れむような目つきで俺を見た。
「クリスマスって乾…他の連中と同時にスタートしてどうするの。本気で欲しかったら、どんな汚い手を使っ
ても先手を打たないと」
うっすらと目を開いて恐ろしい事をさらっと言う不二に、俺は本気で腰が引けた。
こいつがどんな悪辣な方法で手塚を自分のものにしたのか、想像もつかなかった。

だが、不二は不二なりに、なりふりかまっちゃいられなかったんだろう。
今の俺には、それが分かる。
高梨妹みたいな優しそうな女の子を蹴落としてでも、俺は海堂を誰にも渡したくないのだ。
眠れない夜をいくつも数えて、ようやく辿りついたのはこんな平凡な答だった。


その時、突然ノックもなしにドアが開き、この部屋の主が入ってきた。
不二と俺を認めると、眉間にかすかに皺を寄せる。
「おまえたち、ここを私用で使うなと何度も言ってるだろう」
「いいじゃない、乾が体調悪いの手塚も知ってるだろ。寒い教室に置いとけないからね」

別に俺は風邪をひいてるわけじゃないのだが、不二は笑顔で手塚を言いくるめた。
怖い。かなり怖い。こいつら本当に付き合ってるのか。
手塚は諦めたようにため息をつくと自分の席に座ったが、さらにその背後から意外な人物が入って来て俺を
どきっとさせた。

「お邪魔するよ」
「あれ、番記者さん。珍しいね、新生徒会長の取材?」
「いいね、その呼び方。部長とか呼ばれるよりずっといいわ」
報道部部長に就任したばかりの高梨は、デジカメを片手にニヤリと笑ってみせる。
そして、俺と不二が昼メシを広げていた側の椅子のひとつにどかっと腰を下ろした。

不二が二人のためにコーヒーを淹れ始めた隙に、高梨は俺を真正面から見て、意味深に笑った。
「体調不良なんだって、乾?猫ちゃんが手におえないか」
「うるさいな」
不二と同じぐらい勘のいい高梨は、猫の一件の時、すでに俺が海堂を好きだと気づいていた。
俺が自分の気持ちに気づくよりも、こいつらが見抜く方が早かったのだ。
もう取り繕ってみても仕方がない。

「うちのカオルは大きくなったぞ〜美也が甘やかすもんだから、ちょっとデブになってきたけど、カワイイんだ
これが」
カオル、カオル言うな!馴れ馴れしい!
俺にとっては気が遠くなるぐらい綺麗な響きを持つ彼の名前を、高梨は平気で口にした。
わざとだと分かるから悔しくて俺はギリギリ歯噛みしたが、余所の家の猫の名前にまで口出しできない。

「高梨は猫を飼っているのか」
どうやら猫という言葉だけが耳にとまったらしい手塚がぼそっと聞いた。
しかも手には生徒会規約などという代物を持っている。どんな中学生なんだよ、お前は。

「そうそう、写真見るか〜べっぴんさんだぞ」
恐ろしい事に高梨は、本当に猫の写真を持ち歩いていた。
なんだこいつ、結構本気でかわいがってくれてるんだなと拍子抜けする思いだ。
妹に任せっきりなのかと思っていたが、写真を手塚の前にずらりと並べる様は、ただの親バカだった。

手塚が感心したように写真を眺めている間に、高梨は戻ってきて小声で俺に囁いた。
「今週の日曜、テニス部休みだろ?俺ん家に猫見に来ないか?あの子と一緒に」
「……え?」
突然の誘いが、ひどく自分に都合のいい話なのにとまどって、俺はぽかんと奴を見返してしまった。
「あの子は美也が誘うって言ってた。来るだろ?」

こいつが、妹が海堂を好きなのに気づいていないはずがない。
なんで俺に加勢するような真似をするんだ?と頭の中が疑問符でいっぱいになった。

「高梨、おまえ何で…」
「ん〜別に乾の味方するわけじゃない。誰を選ぶかはあの子が決める事だろ?美也にだってチャンスは
あるし」
人の気持ちを見透かすような、でもどこか暖かな眼差しで高梨は笑った。
言ってる事は分かるが、普通は自分の妹に加勢するもんだろう。本当に変わった奴だ。
だが休日に海堂と二人で出かけられるというのは、今の俺には一年分の幸運がまとめて降ってきたような
ものだった。

「台風が直撃しても行かせてもらう」
「いや、お前、今12月だからね…」
呆れた声で高梨がつぶやいたが、俺は既にどうやって海堂を同行させるかに気を回していた。
そればかりに自分の思考が集中していたこと。そして体調の悪さ。
重なった条件が自分の注意力を鈍らせる事になろうとは、さすがの俺も考えもしなかったのだ。




Scene3.  薫


「じゃあ一年はコート2面使ってサービスの練習。各自狙った所に打てるようになれよ」
大石先輩の指示を聞いて、一年はぞろぞろとA・Bコートに散った。
俺もポケットにボールを2個突っ込むと、さらに左手に2個持って、とりあえず一本打ってみる。
だが鮮やかな黄色のボールは、無残にネットにひっかかった。

「なんだ、マムシ調子悪ぃな」
舌打ちする俺をからかう口調でいつものごとく桃城がからんできたが、無視してもう一本打つ。
今度はかろうじて入ったものの、お世辞にもいいサーブとは言えない。

コートを挟んだ向こう側のベンチでは、乾先輩が座って何かノートに書き込んでいた。
結局体調不良で、練習参加を止められたのだろう。
一応レギュジャは着込んでいたが、ラケットを持って立ち上がる様子はなかった。
(そういえば、どこが悪いのか聞かなかった。風邪かな)

朝練前に俺が妙な態度で逃げ出したから何か言われるかと身構えていたのに、先輩は特に俺に構う様子も
見せなかった。
だからなおさら、自分だけが意識してるようでイライラした。
(結局気まぐれなんだ。俺に特別優しいなんて、考える方がどうかしてる)

ついさっき教室で高梨が、今度の日曜、家に猫を見に来ないかと聞いてきた。
『あの…乾先輩も一緒にね。先輩はお兄ちゃんが誘ったから、海堂くん用事なかったら、二人で遊びに来て
ほしいの』
頬を染めて、いつもより少し早口で喋る高梨を見て、ああ、こいつ乾先輩のことが好きなのかとようやく気が
ついた。
だからちょっとでも一緒に居られるきっかけが欲しくて、こんなに一生懸命なんだろう。

あの人は性格はちょっとヘンだが、頭いいし顔もいいし、人にも優しい。
いくらでも好きになってくれる人がいるんだ、高梨みたいな奴が。
今まで愛想なしの俺を構ってくれてた方がおかしかったんだ。期待したらダメだろう。

それでもコートの向こう側の先輩が、こちらを見ようともしないのが悲しかった。
力まかせに打ったボールは、トスは曲がってるし身体は開いてるしで、またネットにひっかかる。
今の俺みたいだった。気持ちも身体もバラバラで。こんなんで上手くいくはずがない。

隣のC・Dコートではレギュラー陣がラリーをやっていた。
河村先輩のパワーのあるストロークに、大石先輩が押され気味だ。
早くあそこに行きたい。
それだけが俺の望みのはずだった。余計なことを考えてる暇なんかないのに。

苛立った仕草でボール籠に近づいた俺は、ガシャと必要以上に音をたてながら、ほぼカラになった籠を向こ
うに押しやった。
「なんだよ、ホントにどっか悪ぃのかよ、マムシ」
片手に3つもボールを持った桃城がやけにしつこく聞いてくるのが煩わしくて、「うるせえ」と最高に低い声で
はねつける。

さすがに桃城がムッとした気配が伝わってきた。
こいつとは毎日のように口ゲンカをするが、どっちも本気じゃない。日課みたいなもんだ。
だが今日は、そんなもんにまともに取り合うのすらしんどかった。


「あームリムリ、桃城。海堂は高梨とのデートでアタマいっぱいなんだよ」
突然あからさまに嫌なトーンの声が聞こえてきて、俺はそいつをキツい目で見返した。

同じクラスの奴だ。荒井とかいったか。
いつも3人でツルんでいて、口だけは達者なのか、時折今みたいに根拠もない事を嫌味ったらしい口調で
言う奴だ。
どうもさっきの高梨と俺の教室でのやりとりを、聞いていたらしい。

タイミングが悪すぎた。異様に好戦的な気分になった俺は、「ふん、やっかんでんじゃねーぞ」と吐き捨てる
ように言い放った。
荒井が顔を真っ赤にしたのを見て、少しスッキリする。
だが、代わりに取り巻き連中が「なんだと、コラ。いい気になってんじゃねーぞ」と吠えはじめた。

「ぞろぞろツルまねえと人の悪口も言えねえくせに、何いきがってんだ、おまえら」
「おい、よせ、海堂」
Bコートで始まった小競り合いに周囲の一年が気づき ざわめき始めたのを見て、桃城が止めに入ったが
もはや俺も奴らも歯止めが効かなくなっていた。

「人にイヤミ言ってる暇あるなら、自主トレでもしろ」
「んだと、おまえなんか、乾先輩にヒイキされてっから上達するんじゃねーか!」

その言葉に、心のどこかで血が出た気がした。
あからさまな、それは中傷だった。そんなことは分かっていた。
だが、今の俺を傷つけるには十分だった。
努力している自分も、それを助けてくれるあの人も、両方が汚されたような思いがした。

めくらめっぽう投げつけられた物にまともにぶつかったようなダメージを食らい、急に黙りこんだ俺を見て
勢いづいたのか、連中はさらに言いつのる。

「あんないたれりつくせりのメニュー組んでもらったら、誰だって上手くなるだろ、フツー」
「おまえが強いのなんか、そのせいじゃねーか」
「よせ、同じメニュー組んでもらって、おまえらにアレこなせんのかよ!?海堂が努力してんの知ってんだろ
うが」
「なんだ、桃城、海堂の肩持つのかよ」
「ちげーだろ、荒井、落ち着けって」

珍しく俺を庇うように間に割って入っていた桃城を、俺は無言で押しのけた。
そして、荒井の足元にガツっとボールを投げつける。
ボールは荒井の顔すれすれに跳ね返り、一瞬ひるんだ顔をした奴らは、次の瞬間3人まとめてかかってきた。


Bコートで突如、乱闘が始まった。
1対1なら負けたりしねえけどなんせ3人がかりの上に、桃城と隣のコートにいた河村先輩が止めようとした
せいで、一時コート内は大混乱の様相を呈した。

俺はといえば、暴れまくっていて周囲の声も聞こえないほどだった。
取り巻きの奴に押さえつけられて荒井に腹に一発入れられたが、自由な方の足でどかっと蹴りを入れる。

理性という理性は全部吹っ飛んでいるくせに、意識はどこか澄んでいた。
ずっと何もかもがスローモーションみたいにはっきり見えていて、なのに音が届かなかった世界へ、乾先輩
が俺を呼ぶ焦った声が割り込んでくる。
「海堂!海堂、よせ!!」
それが、俺の異常な興奮状態をぷつんと途切らせた。
突然力の抜けた俺は、ボールがいっぱい詰まった籠にぶつかり、それもろとも派手な音をたてて仰向けに
転倒した。

「……ってえ」
我に返った途端、右足首に鋭い痛みが走り、俺はそこを手で押さえながら溢れかえった黄色のボールの
真ん中にうずくまってしまった。

大混戦だったBコートは、今や水をぶっかけたみたいに静まり返っている。
1年生だけではなくレギュラー陣も集まっていたが、俺があまりに派手に倒れたんで、全員固まってしまった
らしい。
一番近くに居た桃城が慌てて、「大丈夫かよ、海堂!?」と俺に手をのばしかけた。

だが次の瞬間、「動かすな」と、感情を一切排除したみたいな平坦な声がした。
大きなシルエットが俺の傍へと屈み込む。
「海堂、手どけて」
靴下を履かないむき出しの俺の右足首にひやっとした指先が触れ、軽く押さえた。
それだけで強い痛みを感じて、俺は声を殺した。
至近距離にある乾先輩の表情は、怒りを通り越して冷たく感じられるほどだった。

俺の顔を見ようともせずに患部を仔細に調べると、先輩は背後にたたずんでいた部長に言った。
「とりあえず保健室に連れて行く。こいつらへのペナルティは後日改めてって事でいいか、手塚」
「分かった。手当てが先だ、頼む」
中学生とは思えない威厳で手塚部長が判断を下し、大石先輩が荒井たち3人をとりあえず隔離する。


「タカさん、海堂しょってくから手ぇ貸して」
「あ…ああ」
先輩があまりに淡々と言ったから、言葉の意味を理解するのに時間がかかった。
だが乾先輩はしゃがんで背中を向けるし、河村先輩は足に負荷がかからないよう丁寧に俺を助け起こして
くれる。

「あのっ…俺自分で歩けます。大丈夫っすから!」
事の成り行きにパニクった俺が、うわずった声でそう主張した瞬間。
乾先輩は振り返り、右手で俺の肩をわしづかみにして、「いいかげんにしろ!」と一喝した。

今まで叱られた事はあっても、怒鳴られた事などなかった俺は、その一声で完全に沈黙した。
周囲の人間も、腰が引けていたように思う。
この人が怒鳴るところなど、多分誰一人として見たことがなかったのだ。
言葉を発することすらできなくなった俺を軽々と背負うと、乾先輩は奇妙な沈黙の中、悠々とコートを横断
して保健室へと歩き出した。

(呆れられた、きっと)
唇を噛んでいないと泣きそうだった。
先輩は何も言わない。
ただ俺を背負ってくれる背中があったかくて、ささくれだっていた心が急速に凪いでいくのが分かった。

だが俺は、そんな自分をどうしようもなく勝手だと思った。
今ぐらい自分を嫌だと思った事はなかった。



保健室に着くと先生は不在で、先輩はまず俺をベッドに下ろし、湿布や包帯テーピングなどをまとめて持っ
てきた。
俺の足元にしゃがみ、もう一度患部を押さえたり細かく調べてくれる。
そして、ほっとしたように「多分、軽い捻挫だと思う。大したことなくて良かった」とつぶやいた。
その声がいつもと変わらないトーンだったから、俺はまた泣きそうな気持ちになる。
だが湿布を張ってくれながら、先輩は厳しい口調に戻ってこう言った。

「海堂、どっちが悪かったか知らないが、練習中にコート内で乱闘騒ぎなんて、あの場で退部させられても
文句言えないよ」
「……はい」
小さい声で返事をした俺は、はっとする。
あの時先輩は、ペナルティは後日改めてでいいなと手塚部長に先手を打った。
この人は、とっさに俺と荒井たちを庇ってくれたんだ。退部という最悪の処罰にだけはならないように。

「それから普段の桃との口げんかぐらいならともかく、今日はお前、自分が怪我をしたよな」
「…はい」
「反対に、テニスができなくなるような怪我を誰かに負わせてた可能性だってある」
「……っ!」

そんなこと考えてもみなかった。でも本当にそうだ。
俺は自分のイライラを解消するためだけに、仕掛けられたケンカに乗った。
そして結果的に、あの3人の誰かに二度と治らないような怪我を負わせていたかもしれないのだ。

あいつらだってテニスが好きなはずだ。俺と同じように、目指している場所があるのに。
俺はなんて考えなしだったんだろう。この人に愛想つかされたって当然だ。


180センチに届く長身の先輩が俺の足元にしゃがんでいて、頭のてっぺんが見えるのが妙な感じだった。
そうしているうちに朝からわだかまってた事が溶け出して、俺はいつの間にか声を殺して泣いていた。
最初、先輩は包帯を巻くのに集中していて気づかなかったが、手元にぽたぽた雫が落ちてきたのに驚いて
顔を上げる。

「え…か、海堂…?」
「す、すみませ…すみません、先輩、俺…」
「ちょ…あの、海堂、ごめん俺、きつく言い過ぎたよな、あの…」

急にオロオロし出した先輩を見てるうちに、余計に涙が止まらなくなった。
本当なら人前で泣くなど俺にとって最高に恥ずかしい事のはずだったが、今日はもう十分恥ずかしい事ばか
りやっているから、どうでもいいような気がした。

「泣かないで、な?」
見下ろしたところにある眼鏡ごしの瞳はいつもの優しさを取り戻していて、俺だけを見てくれていた。
不思議な安堵感が押し寄せてくる。
それから、ためらうような指先が近づいてきて、そっと俺の頬の涙をぬぐってくれた。
その優しい感触から、俺はもう逃げようとは思わなかった。



「帰る前に手塚に侘びを入れにいくこと」
「はい」
「それから、もしかしたら海堂は悪くないかもしれないけど、なるべくたくさんの人の前で荒井たちに謝ること。
できるか?」
「はい。俺が悪かったっす。謝ってきます」

手当てをしてもらった後、泣いたのがバレないようにか目も冷やすように言われた。
結局、何もかも先輩任せになってしまったのが気になったが、俺はもういろんな事が一度にありすぎて、この
まま眠ってしまいそうなほど疲れていた。

だがやるべきことはやらなきゃならない。
今日中に部長に謝罪するのも、荒井たちに人目につくところで謝れというのも、部内での俺の立場が悪くなら
ないようにという先輩の配慮だと分かっていた。
このタイミングを逃したら、元々喋るのが下手な俺は、部でいろいろ言われてもとりなす事ができないだろう。

前は、そんなんでもいいと思っていた。
別に誰とも慣れ合うつもりはなかったし、一人で努力して強くなれればそれでいいと思ってた。
だがそんなのは自分勝手なだけだと、先輩を見ていて今やっと気づく。

荒井たちに謝るのも嫌だとは思わなかった。
自分の方が悪かったのだと、だから謝りたいと、今はすっきりした気持ちで思えたからだ。

使った包帯や湿布を棚にしまいながら、乾先輩はよしよしって感じに笑ってくれた。
嫌われずに、すんだのかな。
俺あんなバカなことばっかりやったのに、許してもらえるんだろうか。

「じゃあ、行っておいで。俺正門前で待ってる。送って行くから、一緒に帰ろう」
遠慮すべきだと分かっているその言葉だったが、また叱られたりしたくなかったから、俺は素直に頷いた。

本当は叱られたくないからじゃない。先輩と一緒にいたいんだって、俺が自分でちゃんと気づくのはもうこの
すぐ後のことだった。





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