Scene4. 薫


夕飯を済ませた俺は、珍しくそのままリビングに居座っていた。
母親がキッチンで洗い物をしている音を聞きながら、さっきから親の敵みたいに睨んでいる物がある。
俺がとてつもなく苦手なもの。それは電話だった。


あの後、ひょこひょこ右足をひきずりながらテニスコートに戻ると、菊丸先輩がラケットを片手に俺の所へ
すっとんできた。
「海堂、大丈夫か〜?乾に叱られた?あいつあんなに怒んなくてもいいのに!」

確かに厳しい言われ方をしたが、先輩を悪く思われたくなかったから、俺は慌てて首を振る。
「や、俺が悪かったっすから。お騒がせしてすんませんした」

ぺこりと頭を下げると、菊丸先輩はただでさえ大きな瞳をまるくして、それからへへっと笑った。
「なんか海堂、最近イイ感じかも〜」
「え?」
「かわいくなった、かな」

いつも太陽みたいによく笑うこの人にかわいくなったなどと言われ、俺はどうリアクションしたらいいのか
分からなかった。
だが菊丸先輩は戸惑う俺の手を引くと、Dコートにいる手塚部長のところへずるずるひきずって行く。
「手塚ぁ〜海堂かえってきた!」

もう夕方近い12月のきりっとした空気の中で、手塚部長が侵しがたいような様子で立っているのが見えた。
俺と一つしか年が違わないなんて、信じられない。
その姿を見ていると、コート内でケンカなんかした自分が言い訳できないほど子供じみて思えた。

「部長、申し訳ありませんでした」 せめてもと俺は深々と頭を下げた。
「どんな処分でも受けますから」

「…といってもこの足じゃ、校庭100周ってわけにもいかないよね、手塚?」
部長が何か言おうとした瞬間、不二先輩が笑顔で先手を打った。
さっきの乾先輩と同じだ。
先にわざと校庭100周とか言って、それより重い処罰にならないようにしようとしてくれてる。

さらに傍に立っていた河村先輩が、控え目な口調で言い出した。
「あのさ、この4人俺に貸してくれないかな、手塚?」
「…どうする気だ」
「うん。青学の応援旗を一度洗って修繕したいと思ってたんだ。けど、あれでかいから、さすがに俺一人
じゃムリだし。結構重労働のうえ、部のためにもなるからいいんじゃないかな」

ラケットを持たない時の河村先輩は、穏やかでとても優しい人だ。みんなに好かれている。
だから彼の申し出を部長も無下にはできないのを、全員が承知していた。

「タカさん、やっさし〜にゃ」
「いやホント大変なんだよ、英二」
「タカさんにこう言われちゃ断れないよな、手塚」
最後に大石副部長がにっこりしながら話を一気にまとめにかかった。
青学の母と異名を取る彼は、いつもながら恐るべき手際の良さだ。

「おまえら…」
俺と荒井たちを庇おうと畳み掛けるように話を進めていくレギュラー陣に、部長は眉間に手を当てて低く
うめいた。
しかし常に判断の早いこの人は、諦めたようなため息をつくと俺をまっすぐに見据える。

「仕方ない。普通はこんなことではすまんぞ。肝に銘じておけ」
「はい。ありがとうございました」
部長と、それからレギュラー陣にも俺はていねいに頭を下げた。
皆が、よかったという表情で笑ってくれていた。
俺みたいな無愛想な後輩、どうでもいいんだろうと思っていたのに、そうじゃなかった。
だから俺も、信用を取り返さないといけない。

離れたところに固まっていた荒井たち三人に視線を向けると、脅えたような後悔したような顔をしていた。
周囲の人を掻き分けるようにして俺は三人の前に立った。そしてはっきりした声で告げる。

「さっき、俺が悪かった。乱暴してすまなかった」
「あ…いや」
「俺らも、ひどいこと言ったし…」
相手もぼそぼそと謝罪のような言葉を口にしたが、俺は自分が謝りたかっただけだから、それについては
どうでもよかった。
ちゃんと乾先輩と約束したことが果たせたから、少しだけ安心した気持ちにもなれた。


「…海堂、乾は?」
不二先輩がいぶかしげな声で俺に聞いたから、あの人を待たせているのを思い出す。
「あ、先輩は今日どのみち体調悪いんで、俺を連れて一緒に帰ってくれるらしいっす。部長たちにも伝え
といてくれって」

俺の言葉に、不二先輩と菊丸先輩はファンの女子がきゃあきゃあ言いそうな笑顔を浮かべた。
「乾もどさくさまぎれにやってくれるよね」
「はあ?」
「いいの、いいの。乾に送らせれば!荷物も持たせちゃえ!」
「ほら海堂、乾待ってるんじゃないの」
「あ…ハイ」

いまいち訳が分からなかったが、周囲に急かされて俺はテニスコートを後にした。
振り向くと菊丸先輩が手をぶんぶん振っているのが見えた。
その瞬間、ここにちゃんと戻れてよかった、という思いがこみ上げてきた。
俺にとってテニスはかけがえないものなのだ。取り上げられたらどうしていいか分からない。

全部、あの人のおかげだ。
足をひきずってゆっくりと歩きながら、俺は心の底からそう思った。



「…ねえ、薫」
「ん?」
「今日送ってくれた先輩、優しそうな人だったわね。乾くんて言った?」
「ああ…」

洗い物を続けながら話しかけてくる母親の声を、俺はぼんやりと聞いていた。
警戒心の強い俺も、さすがに家族の前では気が緩む。
今日はいろいろあって疲れていたから、他人が見たらびっくりするほど子供っぽくなっていそうだった。

「…今日怪我したの…俺が悪かったんだ」
「そうなの?」
母の歌うような優しい相づちに、自然と先を促されてる。
だから俺は痛めてない方の片膝を立て、そこに顎をうずめるような姿勢で独り言のように続けた。

「先輩には何の関係もなかったのに…“部活中に怪我をさせてしまったんです。申し訳ありません”って
言ってただろ…あの人俺を庇ってくれて、手当てして送ってくれたのに…」
社交辞令なのかもしれないが、母親に向かってそう言って頭を下げた先輩を見てすげえ焦った。
あれじゃまるで先輩が俺に怪我させたみたいだ。なんであんな風に言ったんだろう。

「お母さんは、乾くんが本当にそう思ったから言ったんじゃないかって気がするけど」
「え…なに」
「自分がもっと気をつけてたら、薫に怪我させずにすんだって思ってるんじゃないかしらね」

そんな事を言われてびっくりした。だって四六時中俺を見ていられるわけじゃないだろう。
「そんなの、ムリだ。絶対」
「そうかもね。でも守れなかったと思ったんでしょう」

『守れなかった』その言葉が、胸を衝いた。
誰にも守ってほしいなんて思っちゃいないけど、先輩は俺の事をそんな風に思ってくれてたんだろうか。
丁寧に包帯を巻いてもらった、自分の右足首に視線を落とした。
頬の涙をぬぐってくれた指先の暖かさも、まだはっきりと思い出せる。
……思い返せば、あの猫の一件以来、俺は先輩に優しくされてばかりきたんだと気づく。

(確かめたい。ちゃんと…知りたいんだ)
ずっと胸の中でわだかまっていた思いがあった。
それに名前をつけるのが俺は怖かった。
自分が誰かに特別優しくしてもらえるような人間だという自信がなかったからだ。

だけど今は、強い意志が胸に湧いていた。
そしてそれを見計らったようなタイミングで、目の前にコトンと置かれた物があった。
いつの間に作ったのだろう。
それは俺の愛用の青いマグカップに入ったホットミルクと、それから電話の子機だった。

上目づかいに見上げた先には、俺が一生勝てそうにもない母親の笑顔があった。
「お母さんね、男の子でもやっぱり素直な子が好かれると思うの」
俺は言葉の意味をしばらく黙って咀嚼すると、マグカップと電話を持ち、やがて二階の自分の部屋へと
上がって行った。



電話は苦手だ。そもそも喋るのが苦手なのだ。
男テニの連絡網のプリントと電話の子機をガラステーブルに並べて、俺は湯気を顎に当てるようにしながら
ホットミルクをゆっくりすすった。

だがどんなにゆっくり飲んだところで、いくらも時間を稼げるわけでもない。
それでも少しは落ち着いたような気もして、意を決した俺は番号をプッシュした。
深呼吸しようとした瞬間、コール2回でいきなり相手が出たから、心臓が止まりそうになった。

『はい、乾です』
留守電の録音かと思うような平坦な声に、俺は電話を切ってしまいたい衝動にかられた。
だがなんとか踏みとどまると、途切れ途切れに声を絞り出す。

「…あの、テニス部の、海堂と申しますが…先輩っすか?」
『え…か…海堂なのか?』
途端に乾先輩の声は、よく知っている温かみを取り戻した。
何どもってんだろう、この人、とちょっとおかしくなった俺は口元にゆるく笑みを刻む。

『どうした、足痛くなった?』
「や、平気っす。ちゃんと手当てしてもらいましたから」
ソファの上で膝を抱えた体勢で、よく知っているのにどこかが違う先輩の声に耳を傾けた。
不思議だった。電話ってこういう機械なんだと初めて気づかされる。
離れた場所にいる、会いたい人の声を聞く。ただ単純にそれだけなんだ。

「今日のうちに礼が言いたかったから。俺今日はホントにどうかしてたっす。すみません…ありがとうござ
いました、先輩」

なんとなくこの人は、謝られるよりもありがとうと言われた方が喜ぶ気がした。
だから滑らかではなかったけれど、俺は一生懸命そう告げてみた。
だが先輩は、電話の向こうで何故かしょげたような声になる。

『あのさ、海堂。俺あんなひどい怒り方してごめんな…荒井たちが何を言ったか、後で桃に聞いた…』
「桃城の奴、余計な真似しやがって…」
先輩にヒイキされてるとか言われて逆上したなんて、この人にだけは知られたくなかったのに。
桃城なりに俺の事をとりなしてやろうとしたのかもしれないが、結果的には恥ずかしさ倍増だ。

「そんなの関係ないっす。何言われたって、あんな事していい理由にならねえし」
『それはそうだけど…』
先輩が口ごもり、少し沈黙が流れた。
でも慌ててしゃべらなくても大丈夫なはずだ。この人はちゃんと待ってくれる。

「…俺、あの時、先輩に呆れられたと思った」
『海堂?』
「あんだけバカなことしたんだから、当たり前なのに、嫌われたくないってそう思った」

目を閉じて、話す言葉と聞く声に自分の全てを集中させる。
この人に言いたいことがあった。何もかもを伝えるのは無理かもしれねえけど。
自分の素直な気持ちを電波に乗せる。
……伝わるといい。他になにもいらないから。

『俺は。俺がぼんやりしてなかったら、海堂に怪我なんかさせなかった』
「アンタ、やっぱりそんなこと考えてたんすか」
『だっておまえは、よっぽどでないとあんな事をする子じゃないだろ。だからその限界を超えた時は…俺が
ちゃんと止められると思ってたんだ』

そんなのただの自惚れだったけどな、と小さい声が苦い響きをはらんだ。
だけど俺は、嬉しい気持ちでいっぱいになった。
先輩は、俺をちゃんと信じてくれていた。
俺は理由もなく暴れたり他人を傷つけたりする奴じゃないって。


思えばこの人は、最初からいつもそうだった気がする。
愛想なしで、感じ悪いと思われても仕方ないと諦めていた俺に、そんな風に思った事ないよと言ってくれた。
『海堂には、話したいことも伝えたいことも、ちゃんとあるだろう?』
あんな言葉をくれる人が家族以外にもいるなんて、想像したこともなかった。
だから嬉しかった。絶対に忘れることなんかできないぐらい嬉しかったんだ。

言葉にできないことを、言えるまで待ってくれて。
言えないことは、読み取って分かってくれた。
そんな事がある度に、俺の心には名前のない綺麗な想いが増えていった。

(ああ、そうか…俺、この人のことが好きなんだ)
すとん、と答が落ちてくる。
あたりまえで単純で、でも名前を与えてやるとしたら、たったひとつしかない。
(もうずっと、ずっと好きだったんだ。先輩のことを)

『…だから嫌ったりしないよ。いつもちゃんと見てる、海堂を』
一度気づいてしまうと、何もかもが急にはっきりした。
先輩あんた、なんて声でしゃべってるんだよ。
それもう、告白だって。気づかなかった俺も相当鈍いけど。
(そんでこの人も、どこがいいのか分かんねえけど、俺のことが好きなんだ)

「アンタ、ほんとに過保護っすね、先輩」
もう笑うしかないような気分になった俺は、口に出してはそう言った。
だってすげえ間が抜けてる。好きだ、好きだってお互い言ってるんじゃねえか。
もうずっと傍にいて、なのに俺たちは一番近くでそんなことばかりを繰り返してきた。

「でも見ててください。すぐに先輩のいる所に追いついてみせる」
『海堂…』

誰かを好きになったのなんか初めてだった。だからどうしたらいいのかなんて全然分からなかった。
だが俺は、この人に守られるだけの自分にはなりたくないと強く思った。

俺にとってテニスが譲れないものであるように。
あんたにとっても、それは同じことなのだろう。

だから今、ちゃんと心を決めておく。
俺はこの人に追いつくし、必要ならばいずれこの人とも戦う。絶対に迷わない。
そういう 『好き』 が、世界にひとつぐらいあってもいいと思ったんだ。




Scene5.  乾


部屋の気温が急激に下がってきたのを感じて、俺は身震いした。
彼の電話の声を、吐息ひとつも聞きもらしたくなくて、ヒーターの微かな音も邪魔に感じて切ってしまって
いたのだ。
俺は椅子からベッドに移動して、ひっぱり出した毛布にくるまるような姿勢になる。

海堂は本当につよい奴だと、今日改めて思い知らされた。
彼を正門前で待っている間に、桃城が俺を捕まえて、荒井たちと海堂のいざこざの真相を話したのだ。

『あいつら、その…海堂が乾先輩にヒイキされてっから上達するんだとか言いやがって…』
言いにくそうに言葉を選ぶ桃城からそう聞いた途端、どうにもならないような憤りが湧き上がった。
『だから乾先輩、あんま叱らないでやってくれないっすか。アイツ怪我もしてるし…』

それは荒井たちにというよりも、むしろ自分自身に向かうものだった。
海堂があんな事をするなんて余程の理由があったのだろうとは思っていた。
だが俺は、理由も聞いてやらずに彼を叱った。

海堂はプライドが高いし、それに見合う努力をいつも惜しんだことがない。
中傷だと分かっていても、どんな思いをしたことだろう。
ひどく傷つけられたからこそ、我慢しかねて手を出したのだ。

なのに彼は保健室で俺に叱責されても、言い訳ひとつしなかった。
自分が悪いと認め、俺に言われたとおり手塚とケンカ相手の荒井たちにも謝罪しに出向いていった。
気持ちも、身体も傷ついたのに、俺には謝るばかりで自分の痛みをついに口に出さなかった。


家に帰ってから俺は、海堂に電話しようかと延々悩んでいた。
部内での海堂の立場を考えて、わざと皆の前で厳しく振舞ったところはあったのだが、それでもあまりに
冷淡すぎたと思わずにいられなかった。

彼がすみません、と声を詰まらせながら涙を零した時、本当は抱きしめてやりたかった。
あんなに彼が小さく頼りなさげに見えたのは初めてで、たまらない気持ちだったのだ。
だが朝の出来事を考えると、彼に不用意に触れるのも怖かった。
好きで好きでたまらない人だからこそ、拒絶されるのを俺は恐れた。

俺は、本当にどうしようもなく臆病でダメな奴で。
なのに彼はそういう躊躇いをぽんと飛び越えて、電話をかけてきてくれた。
喋るの苦手で、電話なんか大嫌いなくせに。
今もたどたどしく、だが懸命にしゃべるきみを、愛しく思わずにいられるわけがない。

『先輩、体調悪いんすよね。風邪なんすか?』
「いや…ここんとこずっとよく眠れなかったんだ。いいとこ2・3時間かな」
『不眠症…ってヤツですか』
「うん。まだ薬のお世話にはなってないけどね』
『心配事、とかが…あるからっすか』
「うんまあ、そうかなあ」

きみを想って眠れないのだと、そう告げたらどんな顔をするだろう?
だが、彼が不器用な心配の仕方をしてくれるから、不思議なくらい心は落ち着いていった。
今日一日の感情の起伏が嘘のようだ。
海堂も疲れただろうけど、いろんな事があって俺も疲れきっていたのだと知る。

俺だけに話しかける、彼の声。
電話を発明した人は、ちゃんとノーベル賞を貰っていただろうか。ないなら、俺が賞をやりたい。
好きな人をこんな風に独占できる機械だなんて、今日まで知らなかったんだ。
世界中の片思いしてる人間は、みんなきっと感謝してる。
ずーっとこのまま、きみの声を聞いて、ふたりきりでいたいなと思う。

「でも今夜は、なんだか眠れそうな気がするよ…」
『…そうっすか?』

言葉と一緒に吐き出す息が白かった。
部屋は寒いけど俺の心の中はほこほこと暖まっているから、その証拠みたいに見えた。
海堂はちゃんとあったかい部屋で電話をしてるんだろうか。
さっき見た感じでは、あのお母さんにぬかりがあるとは思えないけどな。

…なあ、海堂。
俺は大人ぶってみても本当はまだ子供で、きみに惹かれるようになってから色んな事に迷ったけれど。
今なら、ちゃんと分かる気がする。
(俺がきみを好きなんだ)
きみが誰に愛されても、誰を愛したとしても、それは関係ないことだった。
この気持ちは変わらずに、ただ俺の中に在るものだった。


「海堂、今度の日曜日、高梨んとこの猫いっしょに見に行こう…?」
色々考えすぎていたセリフも、俺の口から嘘みたいにあっさりとこぼれ出た。
別に策を弄さなくても、素直に誘ってみれば彼は無下に断ったりするわけなかったのだ。

俺の声が次第に眠そうになってゆくのを感じたのだろうか、海堂も一段と声をひそめて囁くように喋る。
『いいっすよ。だから先輩、眠ってください。俺も今から寝るから』
「ほんと…?」

じゃあ今寝たら、海堂と一緒に眠れるんだな。
回らない頭で考えても、それはすごく魅力的な申し出で、俺は子供みたいな笑顔になった。
ずっと眠れないのが怖かったのに、今はとても楽しい。

受話器を耳に押し当て、毛布にくるまったまま、俺はベッドにごろんと横になって目を閉じた。
スヌーピーのキャラクターにいつも毛布を持ってる奴がいたっけ。なんか今の俺みたいだ。
服もそのままだし、眼鏡もかけっぱなしだけど、そんなの全然かまわなかった。

「おやすみって言って、海堂」
俺の子供じみた願いに、電話の向こうで彼がくすりと笑う気配がした。
『…おやすみなさい、先輩』
彼の低い囁き声を聞きながら、俺はかつてないような深い眠りに急速に引き込まれていった。




Scene6.  薫


日曜日。空模様は朝から怪しくひどく冷え込み、今にも雪がちらつきそうな天気だった。
俺は襟元にぐるぐる巻いたマフラーに顎を埋めるようにして、待ち合わせの場所へと向かっていた。

(うわ、先輩もう来てやがる)
目印のコンビニ前で一人たたずんでいる乾先輩を、女性客がちらちら見ながら入って行く。
確かにどう考えても中学生には見えない。
チャコールグレーのシンプルなコートを着た先輩は、全体をモノトーンでまとめているせいか、背の高さも
相まってすごく大人っぽかった。
何となく気後れしたような気分で近寄れなくなってしまった俺を、しかし先輩の方が見つけて手を振った。

「海堂、早かったね」
「…っす。早かったねじゃないっすよ。アンタ何時から待ってんですか」
俺が到着した今でさえ、約束の時間の15分前なのだ。だが彼はただ嬉しそうに笑うだけだった。

「んー?さっき来たとこだけど」
「すげえ嘘くさいんすけど、それ」
ごく自然に先輩が歩き出したからついて行けばいいんだろうと判断して、俺は横に並び歩調を合わせた。

「海堂が待ち合わせの時間より早く来る確率、98%」
先輩お得意の確率トークが出て、俺は精神的にちょっとヨロめく。
この人がどんなキャラかなんて今さらだけど、こんな変なの好きになって大丈夫なのか、俺。

「てか、遅れないっすけどね。その2%は何なんすか」
「ん〜?海堂の行く手を、困っているお年寄りとか捨て猫が阻んでる場合を考慮してみた」
「そうっすか…」

えもいわれぬ脱力感に襲われはしたが、俺だって先輩と出かけられる今日を楽しみにしていた。
特に、自分の気持ちを自覚した今となっては。うれしさが顔に出ていないか心配になるほどだ。

「先輩、あれから眠れてるんすか?」
そう聞いてやると、先輩は目も当てられないぐらい幸せそうな顔をした。
こういうのを見ると、俺って本当に鈍かったんだなと思う。何で今まで気づかなかったんだろう。

「うん、海堂のおかげだ。あの日からスイッチが切れるみたいに寝られるようになったんだよ」
「俺は何もしてないっすけど、でもよかった」
現役のスポーツ選手にとって、睡眠が取れないというのは大問題だ。体調にもメンタル面にも影響する。
ナリは大きいけど、結構神経質なとこあるんだよな、この人。

「え、海堂がおやすみを言ってくれたからだろう」
「偶然じゃないっすか。それでなくてもあの日、俺も先輩もクタクタだったし」
わざとはぐらかしているのだが、先輩は納得いかなさそうな顔で俺を覗き込んできた。

「じゃあ、今度データ取ってみようか。俺が眠れなくなったら、海堂におやすみを言ってもらって眠れるか
どうか試してみるんだ」
「それぐらいいいっすけど、先輩が眠れなくなるのは困る」
さらっとそう言ってやったら、眼鏡の奥でちょっと目を見開き、先輩は何だか黙りこんでしまった。
そのまま冷たい空気の中を、二人ゆっくりと無言で歩く。


俺は正直なところ、また少し迷っていた。
この人が俺を好きだということはもう疑う余地がなかったけれど、先輩はどうしたいんだろう。
世間的には普通の組み合わせじゃねえし、俺が好きだと言ったら困らせるかもしれない。
先輩はこのまま、親しい先輩後輩でいいと思ってるかもしれないのに。

考えすぎると、また臆病になっていく。好きな人だからなおさら怖い。
俺の心は今日の空模様みたいに、どんよりとして重かった。
……いっそ雪になればいいのに、と頭の片隅で考えた。




「海堂くん、お願い。機嫌直して」
高梨家のリビングで向かい側に座っている高梨に懇願されて、俺は眉間の皺をさらに深くした。

この部屋に入ってから、まとわりついて離れようとしない猫のカオルが、俺を見上げてにゃあと鳴いた。
少々太りすぎだがツヤツヤとした毛並みの猫を、抱きあげて自分の膝にのっけてやる。
俺の剣幕に恐れをなした高梨先輩と乾先輩が二階の部屋に退避してしまったため、今は二人と一匹しか
ここにはいない。

「ごめん、海堂くんがそんなに嫌がると思わなかったの。いい写真だし、記念になるからと思って。あたし
お兄ちゃんに言って外すから」
いや少なくとも乾先輩は、俺がああいう事をされるのを嫌がるタイプだと承知していたはずだ。
そう思うと腹がたって仕方がなかった。


高梨家に着いて暫くはとてもなごやかな雰囲気で、俺は猫を久しぶりに見られて嬉しかったし、余所の
家というものも珍しかった。

報道部長らしく、部屋には高梨先輩が撮ったらしい写真がたくさん飾られていた。
特に俺の目を引いたのが、銀製のフォトフレームがたくさん乗っているチェストだった。
外国の映画に出てくるやつみたいだなと思ったのだ。
家族の記録のように、幼い高梨兄妹の写真もたくさんあった。きっと高梨先輩の写真好きは父親あたりの
影響なのだろう。

だが、シンプルなフレームに収まった写真を目にした瞬間、俺はぎょっとしてそれをひっ掴んでしまった。
「高梨先輩、これ!?」
「あーそれ乾から巻き上げたんだ。カワイイだろ〜」
傍にいた乾先輩は血の気が引いたような顔つきで俺を見ると、必死で弁解をし始めた。
「海堂、俺は最後まで抵抗したんだ!海堂が嫌がるの分かってたし!」
「おまえが他人に渡したくなかったんだろうがよ…」

それは猫を拾った日に、乾先輩が撮った写真だった。
猫を写す前に、試し撮りだと言って俺も一緒に撮られたものだ。
じゃあ何か。この写真は半年もの間、高梨家のリビングに堂々と飾られてたってのか。信じらんねえ。

「没収する!」
「ええっ、そりゃないよ薫ちゃん!?」
「先輩アンタのもだ!データ入ったモンごとよこせ、すぐよこせ!」
「海堂それだけはカンベンして。俺は個人で楽しむだけだから!」
「どさくさにまぎれて怪しい事言ってんじゃねえぞ!」


かくして小ずるい上級生二人は、怒り心頭の俺を高梨に押し付けて二階へ緊急避難してしまった。
リビングには重たい沈黙が流れている。
困り顔の高梨がおずおずと差し出したティーカップを、俺は無言で受け取った。
紅茶。ジャム入ってるから、ロシアンティか。
客が余所の家でいつまでもふてくされてるのも、礼儀知らずだよな。

「もう、いいから」
「え?」

細いティースプーンで底に溜まったジャムをくるくる混ぜながら、俺はそう言った。
「飾らないんなら、置いといてもいい」
「ホント!?海堂くん」
ああ、と頷くと、高梨はとても嬉しそうな顔で、俺の膝に乗っかった猫に「よかったね、カオル」と囁いた。
何がよかったのか俺には全くもって理解できなかったのだが。

部屋は外の寒さを忘れるような快適さで、低いソファに座った俺たちはお互い無口だったから、会話も
途切れがちだった。
向かいに座っている高梨は、一年の男どもにすごく人気があるらしい。
癖のないきれいな茶色のセミロングの髪を、俺にはどうなってんのかよく分かんねえけど、いつも上手に
編んだり留めたりしていて、それがきれいな顔立ちに似合っている。
おとなしめの性格だけど、自分の意見はちゃんと言うし、芯のつよい感じがした。

こいつなら、乾先輩の隣にいてもしっくりくるだろうな。
そんなことを考えてしまう自分がなんだか嫌で、俺はむやみに猫を撫で回していた。

「あのね、海堂くん」
「うん?」
ふいに思い切ったように高梨が話しかけてきたから、俺は顔を上げて彼女を見た。
いつも一生懸命だよな、こいつ。
見た目だけじゃなく、そういう所が皆に好かれるんだろう、きっと。

「覚えてないかもしれないけど、入学してすぐぐらいの頃に、あたしが誰かとぶつかって運んでた苗木を
全部落としちゃった事があったでしょう…」
「ああ、ぶつかったヤツ逃げやがったんだよな」
高梨は園芸部で、ちょうどビニールの鉢に植えられた苗木がたくさん入った箱を運んでいたのだ。
ぶつかった野郎は逃げるし、廊下は土も苗木も落ちてぐちゃぐちゃになった。

「皆がじろじろ見るし泣きそうになってたら、海堂くん手が汚れるのも構わずに、元どおりにするの手伝って
くれたよね」
「あんなの、当たり前だ」
「でも助けてくれたの、海堂くんだけだったよ」
そう言われると何か照れくさいが、ああいう場合に手を貸すのはやっぱり当然だと俺は思う。

「でもあの時ね、海堂くんが全然しゃべらないからちょっと怖かったんだ…」
「……」
「あたしまた泣きそうな顔してたのかな。そしたら海堂くん、『植物は強いから、これぐらいでダメになったり
しない』って言ってくれた」

高梨はほんのり優しい笑顔を浮かべて、俺を見ていた。
胸の真ん中が急に熱くなった。今の俺にはその表情に込められた気持ちが、よく分かったからだ。
(乾先輩じゃなかったんだ…こいつが好きなの)

「あれからあたし、海堂くんの事ずっと見てた。無口だけど優しいのも、テニスすごく努力してるのも」
(俺が気づかなかっただけで、高梨は)
「この子、海堂くんから貰えてすごく嬉しかった。あのね、海堂くんのことが好きなの」

内気な性格の高梨が自分から言い出すなんて、どんなに勇気がいったことだろう。
それほどの想いが、俺に向かって差し出されていた。
どんな奴でも喜んで受け取るであろう高梨の好意に、俺の胸はただひどく痛んだ。
傷つけたくない。でも俺はこいつに応えてやれない。

「ごめん、な」
ほんの少し前の俺だったら、興味ねえの一言で片付けていただろう。
誰かを好きになるのが、どんなに苦しくて切なくて幸せなことか、知らなかった。
だが、今はせめて、高梨の気持ちにきちんと言葉を返してやりたい。

「俺なんか好きって言ってもらえて、すげえ嬉しい。けど俺も、好きな人がいる。この気持ちは自分でも
どうにもなんねえから」

恋をするというのは、すごく残酷な面もあるんだと初めて知る。
高梨みたいなきれいで優しい奴でも、想いが叶わないこともあるんだ。
だって俺の心は、もうあの人のもんだった。
あの人が俺を受け入れようと、拒絶しようと、それとは関係のないことだった。
(俺は、なにを迷っていたんだろう)

高梨は表情をくしゃっと歪め、だがそれでもまっすぐな瞳のまま俺を見つめ返した。
「…うん。ホントは分かってた。海堂くんの心に、あの人がいること」
「高梨…」
「でも言いたかった。好きだって、一度でいいから」

彼女の真摯な眼差しの中に、俺は自分自身の気持ちを鏡のように映し、見ていた。
ああ、俺も同じだ。一度でいいから、あの人に好きだと伝えたい。
今まで優しくされて、支えられて、叱られて、笑いかけてもらって、どんなに嬉しかったのか。
声に出して好きだと言いたい。たったそれだけの事だった。

俺は膝の上のカオルを抱きあげると、テーブル越しに高梨へと差し出した。
今まで家族以外の誰かに好いてもらえるなんて、想像したこともなかったのに、高梨はこんなに綺麗な
気持ちを俺にくれた。
応えてやれないことが、本当に辛かった。
もし俺が誰も想っていなければ、いつかはこいつを好きになったかもしれないのに。

だが期待を持たせるような言葉は、俺の口からひとつも出てこなかった。
それが一番残酷だと、本能的に分かる。俺にはもうあの人がいる。

「ありがとう。こいつ、頼むな」
「……うん…」
高梨は瞳を潤ませて、だがほんの少しだけ微笑むと、カオルを受け取った。
カオルは何も知らずにみゃあと鳴いて、それでも飼い主の気持ちが分かるのか、金色の目でじいっと
高梨を見上げている。

やがて高梨は目元をぬぐうと、「お兄ちゃんたち呼んで来るね」と言って、部屋を出ていった。
ぱたんと閉まるドアを目で追いながら俺は、唇を噛みしめ、迷ってばかりだった自分の心をやっと今定め
ようとしていた。




Scene7. 乾


「高梨、おまえなんであの写真飾っておいたりしたんだ」
海堂と猫の写真の事で彼の怒りを買った俺たちは、慌てて二階の高梨の自室に避難してきていた。

広いが物でいっぱいのその部屋を見て、ちょっと自分の部屋を連想させられる。
メモ、本、雑誌、カメラ、フィルムなどで雑然としているが、それが奇妙な居心地よさを醸し出していた。
こいつと俺は意外と共通項があるのかもしれない。

そういえば高梨と俺も元々は顔見知り程度で、自宅を行き来するような仲ではなかった。
海堂が、あの子がいるからだ。
自分では考えもしないんだろうけど、彼はそういう触媒のような存在になっている。
そんなことを考えた次の瞬間、俺ははっとして高梨を見た。

「…わざとやったのか、おまえ」
「気づくの遅いって、乾」
こいつ特有の癖のある笑みを浮かべながら、ヒーターのリモコンを拾い上げスイッチを入れる。
のろのろと鈍い音がして、冷え切った空気に暖かさが混じり出す気配がする。

だが反対に、俺は自分の身体が芯から冷えていくような思いだった。
人の気持ちに聡いこの男が、海堂が写真を飾られるのを嫌う事ぐらい分からないはずないのだ。
上手に誘導されて、今や階下には海堂と高梨の妹二人きりだ。

「……っ!!」
何をしたいのか自分でも分からなかった。
だがそれでも踵を返して階下へ戻ろうとした俺を、ドアの前に立って高梨が阻んだ。

「どいてくれ」
「ダメ。乾にもチャンスをやっただろ。それを活用しなかったのはお前の怠慢だ。美也にもチャンスをやる」
高梨の言っていることが正論すぎて、俺は何も言い返せなかった。
衝動に身を任して、高梨を突き飛ばしてでも階下へ行くことはできる。だが、どうしようというのだ。

不二に言われた事が、脳裏によみがえってきた。
『他の連中と同時にスタートしててどうするの』
ああ、そうだ。俺には海堂に好きだと言うチャンスなんかいくらでもあった。
それを利用しなかった臆病な自分に、他の誰かを阻むどんな権利があるというのだろう。

それでも今この瞬間、高梨の妹が海堂に好きだと打ち明けているのかと思うと、気が変になりそうだった。
俺は手近にあった一人用のソファにどさっと座り、胸の痛みに耐えるように両手を握りしめた。
頭をたれて祈るような姿勢で、ただ繰り返し彼の名を心の中で呼ぶ。
何故俺は、彼が誰かのものになる前に、この気持ちを告げなかったのだろう。

高梨はそんな俺を不思議といたわるような目で見下ろし、ぽつりと言った。
「そんなに好きか、あの子が」
「好きだよ。多分最初に会った時から、ずっと好きだった」
それを聞いて、高梨は何とも言えないようなため息を漏らした。
窓のブラインドに指先で隙間を作り外を眺めるふりをしながら、独り言のように低く呟く。

「苦しい思いをするのに、なんで皆誰かを好きになるんだろうな」
「それでもいいんだよ」
「…乾」
「俺の毎日は今まで確かに穏やかだった。でももうあんなのは要らない。苦しくても、俺は海堂の傍に…」

平坦で熱のない、彼のいない世界に戻りたいとはもう思わなかった。
『先輩が眠れなくなるのは困る』
きみのぶっきらぼうな優しさを感じる度に、俺は幸せで。胸の真ん中が暖かくなるばかりで。
ずっとずっと傍にいてほしいと、そう願った。
あんなのを知ってしまったら、もうきみなしでいられるはずがないんだ。

「何も言ってやれんわ。俺も所詮まだガキだからなあ…」
途方に暮れたように言う高梨が憎めなくて、俺はぎこちなく少しだけ微笑んだ。
報道を志しているせいだろうか、こいつは自分の知らない事を知ったかぶりしたことがない。

あるがままにそう言えるこいつは、飾りっけがなくて正直だった。
臆病な心を抱えた俺には、その時の彼がひどく揺るぎないように見えていたのだ。





「…降って来ちゃったなあ」
「そうっすね」

高梨の家を出る時にひらひらと舞い始めた雪は、少し歩くうちに本降りとなりつつあった。
海堂は紺色のダッフルコートの襟元に巻いたマフラーに、顎を埋めるようにして歩いている。
暖かな部屋にいた後では、外の冷気がひときわ身にしみた。
そして、彼はまるで半年前に戻ったような無口さだった。

俺達は奇妙におし黙ったままで、降りしきる雪の中をただ歩き続ける。
高梨の妹との事は気にならないわけがなかったが、俺からはそれを言い出せなかった。

冬の夕方は日が落ちるのが早い。
既に薄暗くなりかけていたから、降ってくる雪の方が明るいぐらいに見えた。
視界を埋めつくすような白。その中で、海堂の髪と瞳の漆黒が美しくて見とれた。

でもその黒にも雪が降りかかり、いつしか彼がその白にのみ込まれて消えそうな気がした。
ただの錯覚なのに、俺の背筋をぞくっとした悪寒が走る。

「海堂…」
少しだけ先を行く彼に思わず指を伸ばし、それからはっとしてそれをひっこめた。
その瞬間、彼はくるりと俺を振り返った。

「俺、高梨は先輩のことが好きなんだと思ってた」
唐突なその発言は予想外もいいとこで、言われたことを理解するのに俺は数秒もかかってしまった。
その間、俺はかなりぽかーんとした顔をしていたんだろうと思う。

「……え、…は?あの、海堂?なんでそんな面白いこと思いついたの?」
動揺のあまりおかしな問いかけをする俺に、海堂も困ったように眉を寄せる。
「だってあいつ俺に話しかける時、いつも先輩のことも言ってたし」
「…や、それは単なる話題作りだろ…」

彼女は彼女で必死だったんだよ。
人がたくさんいる教室で話しかけたら目立ってしまって、それだけできみを困らせるから。
せめてきみが答えやすいようにと、前もって色々考えていたんだよ。
猫やテニスや高梨や俺のことなら、気を緩めた海堂が少しでも違う顔を見せてくれるんじゃないかって
期待してたんだ、きっと。

それは、俺も同じだった。
共通の話題や海堂の好きなものを見つけて、きみの言葉を聞かせて欲しかった。
ほんの一瞬でいいから笑ってくれないかと、そんなことばかりを願ってきた。

「あの子は、海堂を……」
(俺は、きみを……)
思わずそう口走った俺を見やり、海堂は口元に薄く笑みを刷いた。
「うん、さっき言われた。先輩も気づいてたんすね」

そう言ってまた俺に背を向ける。紺色のコートの背中が2歩、3歩、4歩と先を歩く。
その後姿を、俺は絶望的な思いで見ていた。
高梨の妹は想いを告げて、海堂も自分の勘違いを悟ったのだ。
もう遅い。
襲ってきた絶望感に、俺はその場にしゃがみこんで泣き出したくなった。

雪はしんしんと絶え間なく降り続ける。
それは物理的には障害にもならないほど儚いものなのに、今の俺には信じがたいほど彼との距離を
隔てて見えていた。
そんな中、背中を向けたまま彼の告げた言葉は、雪のひとひらのように低く途切れ途切れで、俺の耳に
届くのがやっとだった。

「俺ホントに鈍いっすね…」
「え…」
「高梨のこともそうっすけど、アンタを好きだって気づいたのも最近だし」


自分の足元に視線を落としていた俺は、今、彼が言ったことを、反芻する。
何か信じられない、全部をくつがえすような言葉だった。
自分が間違って、自分に都合いいように解釈してないかと、必死で何度も考えた。
顔を上げるのが怖くて、でも、彼の顔が見たくて。見たくて。

一生分の勇気をかき集めて顔を上げると、彼はもう俺を振り返っていた。
視界一面の白に紛れるようにして、少し離れた場所から、凛としたつよい眼差しで俺に告げる。

「俺、乾先輩のことが好きです」

迷いを一切排除した、厳しくさえ聞こえる声。
甘さのないそれは、恋の告白にはあまりにも不釣合いだったけれど。
それでもそこに籠もった熱が、俺の胸をつよく震わせた。
今、彼が好きだと、俺に向かって好きだと、そう言ったんだ。

自分が、その時どんな顔をしていたかとか。何を考えていたのかとか、全く覚えていない。
ただ呆然として、それがじわじわと実感できるようになるまで、指先ひとつ動かせなかった。

「応えてもらえなくてもいい。言いたかっただけだから」
立ち尽くすだけの俺に、じゃあと簡潔に告げると海堂はまた背を向けた。
今度こそ、一人で立ち去ろうとする。


一秒ごとに小さくなり、しんしんと降る雪のヴェールにかき消されてゆく背中に、俺は痺れたような片手を
伸ばした。
(海堂が、行ってしまう。俺は、なにを)

誰よりも好きな人に、告白をさせて。
それに一言も返せずに、馬鹿みたいにつっ立っている。
伝えたいことがあるのに。いつもいつも言えずにいた言葉で溢れそうになっているくせに。
なにをやってるんだ、俺は。見送ってる、場合か!!


「海堂!!」
自分の想いを隠さない声で初めて彼を呼んだ時、胸がいっぱいになった。
ずっとこんな風に呼びたかったんだと知る。
さほど遠くに行っていなかった彼が、びっくりしたようにこちらを振り向くのが見えた。

ぼたん雪が目に入る。視界がきかなくて。
その薄い障壁を、掻き分けるようにして走った。

ほとんどぶつかるようにして彼に追いつき、手で触れたと感じると同時に彼をきつく抱きしめた。
片方の腕で身体を、もう片方の手で髪に触れ頭を引き寄せ、これ以上ないぐらいつよく抱く。
後から考えると無茶苦茶で、だけどもう絶対に離したくなかった。


「せんぱい…」
「俺…おれのほうが、好きでずっとすきで……最初から…」
声に出したら泣きそうで、自分のものとも思えないような支離滅裂な切れ切れの言葉がどんどん零れ
だしてゆく。
「言いたくて…海堂が大事で、嫌われたくなくて…毎晩眠れなくて」

それを聞いた途端、海堂の身体が脱力したのが分かった。
呆れたようなくぐもった声が、腕の中から聞こえてくる。
「アンタ…不眠症って俺のせいかよ…」
「うん、実は」
「どうしようもねえな、アンタも、俺も」

もう二人とも雪まみれで、髪も服も真っ白で。
でも俺の腕の中で顔を上げた海堂の瞳の色だけが、変わらない黒を保っていた。
俺は大事そうに海堂と額をそっと合わせると、真摯な声でもう一度告げた。
「好きだよ、海堂」
ずっとずっと言いたかった。どんなに長い間、きみを見つめてきたことだろう。

だが彼は、この天気とはいえ天下の往来であることが今更気になりだしたようで、「先輩、人に見られる」
とたしなめるように言う。
「恥ずかしがらなくてもいいのに」
「アンタこそ、それ言ってて恥ずかしくないんすか!?」
「俺はむしろ、他人に見せつけたい気分なんだけど。まあいいか、これで」

俺はもう一度海堂の身体を抱き直すと、着ていたコートで彼をすっぽりと覆い隠してしまった。
うん、これなら誰か通っても、雪の中で抱擁する酔狂なカップルにしか見えないだろう。
腕の中で海堂が何やらもごもご言っている。
調子に乗るんじゃねえとか言ってる気がしたが、気のせいだ。気にしてなんかやらない。


「好きだよ、大好き」
彼に好きだと言わせてしまったことがひどく悔やまれて、俺は降るようにその言葉を囁いた。

この間まで指先で触れるのもためらっていた、綺麗な髪を梳いてやる。
雪ですっかり湿ってしまって、いつものさらさらとした感触はなかったけど、でも嬉しくて。
このままじゃ風邪ひくなともぼんやり考えたが、それでもこのぬくもりを離したくなかった。

「好きだよ…」
何度目かの告白の後、海堂が腕の中で懸命にもがいて、ようやく顔を上げた。
苦しかったのか、緊張してるのか、頬が赤く染まっている。
キスしたいなあと思ったけど、それはさすがに思いとどまった。いい雰囲気だし、殴られたくない。

やっと自分のペースを少し取り戻した俺は、余裕のある笑顔で彼の顔を覗き込んだ。
「ん、なに?もっと言う?大好き」
臆面もなく告げてくる俺を潤んだ目で悔しそうに睨んだ海堂は、べりっと俺から身体を引き剥がし、噛み付く
みたいな口調で叫んだ。
「知ってる、そんなの!」

(うわ、ちょっと待ってくれ。かわいい)
俺が赤面してる隙に、海堂は怒った顔で雪道をずんずん歩き始めた。
突然腕の中は空っぽになってしまって、慌てた俺は必死になって彼を追いかけ始める。
だってまだ確認してないことがあるだろう。


「帰る!!」
「ちょっと待って。ね、海堂、俺と付き合ってくれるよね!?」
「うるせぇ、ついて来んな!」
「お願い、俺不眠症で死んじゃう」
「んなわけねえだろ。原因は解決したんだから!」

原因は解決したんだから。その言葉に、俺は愛しげに微笑んだ。

きみが俺を眠れなくさせた。だけど、そんな恋の病を治してくれるのもきみだけだった。
大丈夫、巡りくる夜をもう恐ろしいとは思わない。

だって俺はきみが好きだし
きみも俺を、好きになってくれたのだから。


幸せな軽口を叩きながら俺たちは、もはや自分が雪でずぶ濡れなのにも気づかずに歩き続けた。
季節はずれの大雪は、二人にとって忘れられない風景に変わった。

……翌日、俺も海堂も風邪をひいて寝込むことになるのだが、これはまた後のお話。