「わざわざ調味駅で降りなくてもよかったのに」
「まあそう言うなよ。もう遅いし、ほんとなら家まで送っていきたいとこだ」
「女の子じゃあるまいし」
「はは、いいんだって。俺もちょっと相談所に寄るからな。留守電に依頼が入ってるかもしんねえし」

それにしてもこっちまで降ったとはな…と霊幻は雪の積もった街路樹へもの珍しそうな視線をやった。
今はやんでいるが、夜更けになって気温が下がれば道も凍るかもしれない。
それに加えて単純に寒さのせいか、平日の夜なのに駅前には人通りが少なかった。さまざまな店のネオンだけ
が、虚しくぴかぴか派手な光を放っている。
冬休みだし本当なら学生だってまだ大勢たむろっている時間だろう。
助かったなと思う。少し話がしたかったのだが、スーツ姿の自分と私服の律の組み合わせは目立つ。
駅の東口を出てすぐの噴水の方まで律をひっぱっていくと、自分の体で覆い隠すようにした。

もの問いたげに見上げてくる黒い瞳。どんどん美しくなるこの子に焦りを覚えぬわけがない。
この2日で律はまた変わった。惹かれる人間はこの先もあとを絶たないだろう。
ホントなら今すぐ好きだと告げたいぐらいだと霊幻は思った。だが律は疲れきっているはずだ。
どうせならちゃんと受け止めてほしい。今は全然その時じゃねーなと逸る思いを抑え込み、笑いかける。

「あのな律、大変だっただろ。頑張ってくれてありがとな」
「霊幻さん…僕は」
「いやな思いもさせたし、ほとんどの事をお前任せにしちまった。だけど来てくれて助かったよ。今日はすぐ風呂
にはいってゆっくり寝ろよ」
「はい…でも僕もいろいろ勉強になったし、忘れられない事ばかりでした」
「そうか。まぁ経験は金じゃ買えないことも多いもんな」
「本当にそうだと思います」

手の中の木蓮を見やる律。言葉と一緒に白い息がするっと流れる。その唇も触れたら冷たいだろうか。
考えるよりも先に、思わず手が伸びた。
指先が一瞬空をさまよい、律のこめかみの辺りから髪をさらりと撫であげる。

「お前が受験勉強しなきゃならないのは痛いな。モブも戻ってくるか分かんねえし。春からどうすりゃいいかな
……なーんて、安い賃金でこき使っててそりゃねえか?」
「僕は…!あわてて受験勉強をする必要なんてまったくありません」
「まーなーお前成績いいもんな。でも親御さんにも申し訳立たねえしな。生徒会長もやってんだろ?」
「……兄さんが戻ってくるから、僕が要らなくなるんじゃないですよね…?」
「バカ言うな。要るに決まってんだろ。別にバイトじゃなくたって、来たい時には来たらいい」

律が俺をいやにならない限りはな、と冗談めかして言うと、少年はくしゃりと泣きそうな顔をした。
なんでそんなこと言うんですか…と咎めるような小さな声。
凛として大人びて見えるかと思えば、ささいな事で揺れる。ごめんそれを見るのも好きなんだと思う。
(お前に、幾らかでも影響力があると思うと安心すんだよ…)
誤魔化すように笑った。髪をかきまぜながら「冗談だって。それよりこの出張の報酬は次来たときに渡すからな。
ボーナスなんかめったに出ねえぞ」と気を引き立てようとする。

最後に少し笑ってほしかったが、なにもこれが今生の別れでもない。浮かない顔の律に、じゃあなお疲れさんと
告げると背を向けた。
寒ぃな、どっかに屋台でも出てたら一杯やるか…と思いながら、ストールごとコートの襟をかき合わせる。
波乱づくめの案件はこれで終わったと甘いことを考えていた。
少なくともこの時、霊幻の方はそのつもりだったのだ。



(僕のことを諦めるつもりなんだ…!)
あまりの事に律は血の気がひいた。よろよろと噴水のふちに腰かける。まるで氷みたいに冷たい。
だって今はまだ1月だ。春はまだ随分先なのに、霊幻はわざわざあんな話をしてきた。
やんわりと、これから律の存在を切り離していくつもりに違いない。

急にもう来なくていいと言われたら、自分も反発したり泣くか怒るかアクションを起こせた。
だが、あんなもの柔らかに 『律のことは要るに決まってる』 『でもモブの時もそうしたんだから、同じに扱わない
といけない』 と順々と諭されたら、ごねる事もできないではないか。
さっき電車の中で見た慈しむような表情も、つまりあれだ、『お前を好きになってよかった』 的なふっきろうとして
いる時の甘く切ない心持ちだったのではないだろうか。

「ちょっと待って…どうしよう……」
恋をしたのは初めてだしよく分からないが、何て展開が速いんだと律は頭をかかえた。
自分が聞いているのを知らなかったとはいえ、霊幻のあの熱烈な告白は今日の昼間のことなのだ。
いやしかし、むしろ吐き出してしまった事で気持ちの整理がついたのかもしれない。
こちらも今日まで同様の苦しさだったのだ。霊幻の心境の変化は想像できないこともなかった。

ずっとここに座っていても何も変わらない。時間は刻々と過ぎていく。霊幻はどんどん遠ざかる。
じわ…と熱い涙が滲んだ。強がってみたところで律はまだ14歳だった。そして昨日今日と多くの経験をし、感情
を揺さぶられ、もう心身ともに疲弊しきっていた。

膝にのせてある白い木蓮の枝を呆然と見つめる。ノースポインターフラワー。
後で兄の携帯で調べたところコンパスフラワーとも呼ぶらしかった。文字通り、羅針盤だ。
陽のあたる南側がふっくらと膨らむことで、蕾の先がのこらず北を指す。

『蕾が必ず北を向くんだ。方角を教えてくれる。人の倣うべき道を示す、お前にそっくりだな律』
あんな風に言われて、どんな顔をしていいか分からないぐらい嬉しかった。涙がでた。
だけど、かいかぶらないでほしい。僕は方角を見誤りぐるぐる回ってるだけの針みたいだ。
そう自棄になってここにはいない霊幻に訴えかける。
あの人はいつも絵空事を笑って押し付けてくるけど、そんな立派なものじゃない。
(ただ、ただあなたが好きだから)
そんな風になれたらと思うだけだった。この花に似ているというならこの花のように。


ぐっと律の中で想いが高まった、その時思いがけぬ変化が起こった。
木蓮が青白い光を炎のようにまとい、ぱあっと明るくなる。驚いて怖々触れてみたが熱くはない。

(僕の超能力のオーラと同じ色だ…)
それで気がついた。元の木と同様、これは律の力を養分にして咲いているのだ。
ふわり…といつの間にか自分の体まで数センチ宙に浮いていた。
念じてもいないのに体は勝手に行こうとしている。どこへ。そんなの決まっていた。己が指し示す人へ。
(だってまだ言ってないんだ。僕は一度もなにも言えてない)

急いで手袋を外す。木蓮の枝もバッグに入れた。
両方のジッパーで花を固定し、落ちたりしないよう工夫する。
コートの前を全部留めると、肩掛けしていたボディバッグに体を通した。金属のパチンという音。
千鳥格子のマフラーにあごを埋め目を閉じた頃には、律は自分の超能力の光に全身を包まれていた。

『律、今日できることを明日に延ばしてはいけないよ』
睦の最後の言葉がよみがえる。こんなに早く必要とすることになるなんてとおかしい。
『目が覚めてもちゃんと世界があるなんて信じているのは怠慢だ。会いたい人には今日会いにいくんだよ』

今はそれにどんな重みがあるのか分かった。
急な病に侵され、夢も希望も愛情もすべてこの世に置いて死なねばならなかった人だから。
同じ後悔はするなと言ったのだ。
悔いなく生きるなど不可能かもしれない。だがそれをひとつ減らすことならば律にも出来るはずだ。

(会いたい人には今日会いにいくんだよ……)
彼の声を響かせながら律は地面を蹴った。調味駅の上空へまっすぐに強く跳躍した。

急激な上昇に耳がキンと痛くなる。夜に飛ぶのは初めてだった。
気がつけば、宝石箱をひっくり返したようなきらきら光るパノラマをたった一人で見降ろしていた。
「……高いところまで来すぎちゃったな。でもこんな風に見えるんだ」
この一粒一粒の光に人がいて生活がある。そう思うとすごく愛おしい。
両親と兄のいる自分の家もこの中のどこかに紛れ輝いているはずだ。だが、今はまだ帰れない。

ゆっくりと高度を下げる。
幸い夜で、暗い空に律が浮かんでいるのは誰にも発見されないだろう。
駅から相談所までの道を目で辿る。視認できた。あの道筋のどこかに彼はいる。
飲み屋とか僕が入れないとこに行ってないといいけど…と思うが、どこに寄るにしてもまず相談所が先だろう。
今ならまだ間に合うはずだ。

何を言うかなんて全然頭に浮かばなかった。もうそんなのはどうでもよかった。
会いたいから会いにいく。単純なそれが正しいのに、二人はいつも頭でばかり考えすぎていた。
理由なんか要らない。
今すぐに会いたい。
あの人の顔を見れば幸せになれる簡単な自分に、それ以外大事なことはひとつもなかったのだ。



夜が更けるにつれ気温は急激にさがり、雪が降っていないのが不思議なくらいの寒さだった。
霊幻は、相談所にほど近い公園ぞいの並木道を歩いていた。
もうあのまま電車に乗ってアパートに帰ればよかったか…と身震いする。みんな暖房の効いた部屋でテレビ
でも見ているのだろう。周囲には人っこひとり見当たらない。

たった二日でいろんな事があったよなあ…と考えた。後でモブの携帯に電話して、律がちゃんと帰ったかを
確認しよう。もしかすると本人が出るかもしれない。今夜のうちにもう一度声が聞きたい。

「………ん?」
それは、前触れもなしにやってきた。
超能力を持たない霊幻ですらギョッとするほどの圧に、その場が見る間に支配されつくす。
背後からゴオッ!と突風が吹きつけ、街路樹に積もった雪をさらうと、すべてを空中へ高く高く飛ばした。
「うわッ、何だこれ!!?」
ここだけ雪が降っているようだ。舞いあがった細氷が街灯の光を受け輝きながら飛び散る。夢のような光景。

だが次の瞬間、霊幻はもっと夢のようなものを目にしていた。
煽られはためくコートの裾。固く握られた拳。
真白の月を背景に高い場所に律が浮いていた。ドクリと心臓が跳ねる。いっぱいに溜まった涙。
だが悲しいのではない。苦しそうでもない。律は微笑んでいた。
喉が塞がって声も出せない。細い指が届くはずもないのにこちらへと差し向けられている。

信じられない、と。
驚きと混乱とに確かに飲みこまれはした。
だがどうしたんだと聞くほど霊幻は間抜けではなかった。閃くように今までの何もかもが符合した。
噛み合わずにいたものがカチリ、とはまる感覚。

本当はずっと傍にあったのだ。
この子から溢れていた感情の正体に気づかなかった自分は、これまでどれほど愚かだったのだろう。
ここへ来てくれた。それがもう答だった。
だから胸に去来するものを抑えつつ、霊幻は見上げ、律が自分に何を言うのかをただひたすらに待った。

「追いかけてきたんです。会いたくて」
「ああ」
「霊幻さん…、最初に僕が無意識にものを浮かせてしまった時のことを覚えていますか?」
「覚えてるよ。夏だったな。お前は要らないって言ってたけど、毎日300円だけでも受け取れって渡したんだ。
突っぱねられたくないって俺は内心ヒヤヒヤしてたな…」
「そうだったんですか……僕はびっくりしました。何が勝手に僕の中で動いてるんだって。怖かったけどでも
すごくドキドキしてた。あんなことは初めてだったから」

いつもあの夏のことを考える時、思い出すのは雨の日の出来事だった。
(でも違った。始まりはあの日じゃなかったんだ)

言葉少なにこちらを見上げている愛しい人を、律は同じ思いの丈で見つめ返す。
もう伝わっている。大丈夫。深い安堵に胸をなでおろす。
知っていますか?僕が何かを浮かしてしまうのは、いつもあなたのせいなんだ。
物も心も、自分の体までも。
どうしてなのかは分かりません。何が特別なのかも。
だけど今はもう知っていた。あの時、二人の心はいびつにだけどぶつかって音を鳴らした。
恋をしたことのない子供と恋などしたくない大人は、不器用に物語を始めた。
そこからひどくひどく遠回りをした。

「僕は、人を好きになってみたかった」
「ちゃんとそうなったじゃねえか」
「そうですね。ムカつくけどあなたの予言どおりになった。ある日突然ズドーンと落ちる、でしたっけ」
「そうだよ。泣くほど、誰かを好きに」
「あなたが好きです」
「律……」
「あなたが好き…大好きなんです。僕は後悔なんかしたくない。どうなったっていい。あの日から霊幻さんを、
僕は、泣きたいぐらいに好きだった。声に出さずに終わるなんて冗談じゃない…!」

言いたい事を外に出してしまって気がくじけたのだろう。今や律はボロボロと泣いていた。
だが身を包むオーラは眩いほどの輝きを放っている。
青と白。それをベースに緑や紫が虹のように交錯する。
まるで嵐だ。少年の感情は色を変え形を変え、てらいなくまっすぐな想いを伝えようとしてきた。
(ああ、俺も言わねえと)
もう一秒も絶望させていたくない。もう何も悲しむことなんかないんだと教えたい。
霊幻は上空へ片方の手を伸ばした。多幸感で足がふらつく。泣かないでくれとそればかりを思った。

「律、俺も言いたいことがある。降りてきてくれ」
「や…いやです」
「おいおい、そりゃまたなんでだよ?」
「ふられるのいやです。もうずっとここにいる」
「いや振らねえっての。何言ってんだお前」
「嘘つき…!霊幻さんのバカ!!」
「はあ?もうな、お前頼むからそんな泣くなって。もしかして何か怒ってねーか」
「怒ってますよ!人のこと死ぬほど好きだとか言ったくせに、僕を遠ざけようとしたじゃないですか!!」
「!!!?」

人がいないとはいえ天下の往来で律は大声でわめき倒すし、霊幻はといえばショックのあまりその場に
しゃがみ込んだ。ちょっと待て…ちょっと待ってくれ…とあからさまに動揺しながら何度も呻く。
「律くんまさか…あん時、全部聞いてた…?」
「聞いてましたよ。意識を保っておかないと乗っ取られたら危ないと思ってましたから。睦さんがあんな事を
始めるとは思ってもみなかったですけど」
「睦…あんにゃろう…」

今日の昼間、自分がどんな振る舞いをし何を言ったのかを思い返すとこの寒い戸外で頬が火照った。
顔もあげられない。
洗いざらい吐かされた、あれは律を傷つけた事への意趣返しなのだと思っていた。
だが睦は霊幻の“隠し事”など一目みて分かったと言っていた。律の気持ちも同様だったはずだ。
あの食えない男は、このままでは永遠に膠着状態だったであろう二人のバランスを揺さぶり、崩しにかかった。
そして霊幻の言葉は知らず律へと届き、この子は決断をした。ここに飛んできてくれたのだ。

「…違うんだ律…遠ざけようとなんかしてねえって。逆だ…」
「え…?」
「もう決めてたんだ。近いうちにちゃんと言うって。まさか先制攻撃を食らうとは思わなかったがな。お前の気持ち
も全然分かってなかったし…何つーかダメな大人だな俺は…」

どうせ格好なんかつかないらしい。その辺どうにもならないらしい。
それでも伝えたいことは、満ちて今にも溢れようとしていた。
まだ衝撃も冷めず、恥ずかしさで軽く死ねる感じではあったが、霊幻は手に持っていたクラッチバッグを地面に
ぽいと投げ捨てた。
腹を括り、ゆっくりと立ち上がる。

「なあ律、聞いてくれ。昼間言ったことは残らず俺の本音だ」
「霊幻さん…」
「15も年上の男が、お前みたいに何でも揃っててこれからの奴に何を言えるんだって今も思わなくもねーよ。
これからだってどうなるのかは俺にも分からない。お前の人生めちゃくちゃにするんじゃねーかってマジで怖い」

それでもなぁ、と霊幻は笑い言った。先のことが分からないのは相手が誰でもおんなじだよなと。
五年先、十年先を思い患っていったいどうなるというのだろう。

見返す律の目はふたたび潤みはじめていた。透明な珠は嵩を増し、もうすぐ零れおちることだろう。
その感情を受け止めたいと霊幻は思った。
この子が好きと言ってくれた、今の延長線上にこそ未来がある。
数限りない選択と結末を気にしながらは、とてもじゃないが生きていけない。そんなのはもういい。

「最初は、お前をどう扱っていいのかも分からなかったのにな」
「そんなの、僕もです…」
「俯いてるかツンツンするばっかで、笑うとこも見たことねーし、何すりゃ喜ぶのかも分かんねーし」
「僕を…喜ばせたかったんですか…?」
「そうみたいだ。あと泣かせたい気持ちもあったな。見たかったんだよ俺は、お前の感情を丸ごとぜんぶ」
「ちゃんと見てください…」
「おう。でもちょっと遠すぎんな。暗いしよく見えねえよ」

足を踏ん張り、霊幻は大きく両腕を広げた。
それがどんな重さを自分の人生に加えるとしても、もう恐れる気はなかった。
奇跡ならば起こった。今からそれが落ちてくる。絶対に取り零さない。きっとこんな恋は二度とない。

「降りてきてくれ。好きだよ、律。死ぬほど好きだ」

まだ12時間も経っていなかった。同じ告白を同じ人にした。だが今度こそそれは本物の影山律の心に響いた。
限界を越えた水滴が頬をつうっと流れて落ちる。
美しい泣き顔。
焦れるほどゆっくり降下しながら霊幻に近づいてくる、それが最後の逡巡のようで愛おしかった。

やがて肩に律の手がおずおずと触れた。目を合わせながら額を擦りつけるようにする。
霊幻の首に腕が回った。同時に互いをつよくつよく抱きしめた。
オーラが消え去り、どさっと心地よい重みが全身にかかる。
律…と呼べば、濡れた顔が寄せられた。抱きあげたままの格好で頬ずりする。冷えた涙と温かい肌。
恋が叶う。霊幻の視界も一度にぼやけた。
ああ、やっとだ。やっと触れた。もう離せと言われても離してやれない。
律のバッグからのぞく木蓮の花が、まるで笑っているかのように見えていた。頭の中が真っ白になる。


好きな人と触れ合うってこんななんだ…と半ば呆然としたような思考の中を律はふわふわ泳いでいた。
ぎゅっと抱いたまま地面に下ろそうともしない霊幻が不思議だった。

指が痛いぐらいコートに食いこんでいる。耳元で、律…律…と熱っぽく掠れた声が繰り返す。
それにたまらなくなって、整髪料の香りのする短い髪を無意識に指で梳いていた。
背の高い人だからきっと顔にはめったに触れない。
そう思い、まだ濡れた輪郭も手で確かめてみた。暗くて見えないが、暖かな茶色を湛えているはずの瞳。

ああ、神様、僕はただの子供にすぎないけれど。
恋をした責任の半分は背負います。決して二人分をこの人に押し付けたりしないから。
この幸せを続けさせて。今日という日も明日にも続けさせてほしいんです。
誓いますから。
群青の空に向け律はひっそりとした願いをかけていた。さして遠くの事を、多くの事を望んだりはしなかった。



「とは言うものの、お前まだ14なんだよな…せめて18になるまでは待たねーと」
「そう言うだろうと思ってました。それまでは恋人(仮)ですか」
「(仮)でも俺のだって主張していいんだよな?」
「勿論です。僕も主張しますから。でもたまにこうやって抱きしめるぐらいは…あとその…キス、とか…」
「お、キスしてみたいのか?今する?」
「や、いいです…僕もう今日はいっぱいいっぱいなんで…こうしてるだけで」

満たされます、とポツリ言う小さな恋人をようやく地面に下ろすと、霊幻はまたきつく抱き寄せていた。
ああキリがない。こっちはそんな簡単に満たされてなんかやれない。
もっと触りたくて厚いコートの布地の上から指でまさぐる。
こうしていないと信じられなかった。落ち着いた口調とうらはらの大人の情動。
それにとまどいを見せ身じろぎする律の案外と柔らかな髪に、顔を埋めるように口づけをした。

「まあ急いでもしょーがねえか。まだ4年もあるし、知りたい事もやりたい事も山ほどある」
「僕も。あなたの事まだ何も知らない……でも3年半ですよ」
「ん?」
「僕の誕生日は7月です。あと3年半待ってくれたら仮はとれますから」
「そう言われると、すぐみたいな気がすんな」
「すぐですよ…一緒にいられたらきっと楽しい……」

ほろ酔いの男がふらふら自転車で走ってくるのに気がついた霊幻は、自分のコートですっぽりと律を覆い隠した。
こうすれば寒空の下で抱き合う酔狂なカップルにしか見えないだろう。
胸に頬をつけたまま、不安そうにこちらを窺ってくる律がやけにかわいい。
大丈夫だ、じっとしてろと囁くと素直にコクリと頷いた。

内緒な、当分は内緒だ。モブにも分かってもらわなきゃなんねえしな…とひとりごちる。
(それが一番の難関か…あのブラコンに俺は認めてもらえんのかね)
最近フィジカル的にもめきめきと成長してきた弟子のことを考える。
あいつの大事な大事な弟をくれと言うのだ。もう2・3発殴られるぐらいの覚悟はしておくしかない。

「律、明日土曜で相談所休みだけど、遅い時間でいいから来られるか?」
「はい…明日も会えるんですか?」
「もうな、月曜まで待てそうにねーから。こうしてたってまだ夢みたいだって思うのによ」

余裕のない男で済まねえなと言うと、顔を赤らめた律は「僕は初心者なので、その方が分かりやすくて安心
できます」と恥ずかしそうに笑った。

どちらからともなく絡ませた指を、きゅっと柔らかく握りこむ。目を閉じる。
多くのものをもたらしてくれた夜がしんしんと深まりゆくのを、ただ全身で感じていた。
その気の遠くなるような静寂を、甘い眩暈を、この先にどんな事があっても二人は忘れることはしなかった。




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