いったい自分は、恋とはどういうものだと考えていたのだろう。

数時間前と同じ顔ぶれ、同じ場所。だがそこにある空気はぴんと張り詰めていた。
その圧をのがすように、律は何度か深い呼吸をする。肺に届く空気はひやりと冷たい。
本当は、今から除霊をする睦のことを一番に考えてやるべきかもしれなかった。
だが、彼と霊幻のやり取りを思い出すと、睦が律に何がしかのものを残そうとしているのは明白だった。
律が現世の理を曲げてでも、志方兄弟に与えたものがあったように。

この人はリアリストらしいから、恋が成就すれば幸せなんて考えてないんだろうな…と思う。
今でも霊幻と自分は充分苦しんでいた。見なかったふりをするのが、利口というものだろう。
そんな事ができればの話だけど…と律は嘆息する。
昨日から幾つか年をとってしまったような気がした。大人にそんな事を言えば笑われるだけだろうが。
自分が好きな人に愛されていたと知るのは、幸福であり、だが背負いきれないほどに重い重い事実だった。


池で絢爛とした色合いの鯉がぱちゃんと跳ねた。夜から朝にかけて氷が張っていたのに元気なものだ。
昼間の光を浴び、雪はもうほとんど溶けてしまっていた。
それでも街中のように踏み荒らされることがないせいか、この庭はどこを見渡しても本当に美しい。
睦が守りたかったすべてを、律はその目に焼きつけた。
終わったあとはきっと違って見えることだろう。
万感の思いで丈高い木を見上げている彼の老いた弟も、さよならの時を待っていた。

「何年も生きてない僕には、あなた方の気持ちを理解することは到底できません……でもお兄さんの事は
ちゃんとお送りしますから」
「律義な子だね…君は。ああ、名前の通りだ」
そう言って志方は皺を深め、ほんの少し笑う。それは諦めることを知っている人の顔だった。
苦しきことのみ多かりき、そんな人生の果ての果て。

先刻の霊幻の告白には驚かされたはずなのに、それをカケラも表に出そうとはしない。
同性のこんな子供に恋してるなんて尋常じゃない話だろうに。
だがそれを胸ひとつにするりと収められるこの人は、やはり立派だと思わされた。
(生きてるとどうにもならない事ばかりだって、よく分かってるんだ……)
ただの想像にすぎない。だがそう思う。律には経験が足りず、根拠となるものをほとんど持たない。
だがそんな子供にも、恋は容赦なく押し寄せるのだ。この世の定めなど役に立たなかった。『律』 となりうる
のは、幼い己ただひとりだけだった。


「最後に睦さんと少し話をします。その後に送りますから」
身内の前で除霊という言葉をはばかったのだろうか。本当に大人っぽい奴だと霊幻は半ば呆れながら頷いた。
「おう。済まねえな、律。何にもしてやれなくて」
嫉妬して傷つけて泣かせて、自分は昨日からこの子を切り刻んでばかりいる。
なのに律は綺麗だった。眩しいほどに。きっと本人には分からないようなことなのだろう。
それはあの夏の日、霊幻が遠く夢見たヴィジョンに少し似ているようだった。
途切れてしまった絆、分かり合えないはずの誰かと誰か。
それを一瞬でも結ぼうとする律の志が誇らしく、身を案じる事しかできない自分が情けなかった。

だが頬に明るい日差しを受け、律は「そんな事はありません」と首をゆるく振った。
「あなたがいなかったら、僕はここには来なかった。全てのことにはちゃんと意味があるんです」
「律…」
「まあ勿論、兄さんの方が上手くさばけたでしょうけどね」
「んなこと言うな。睦も志方さんも俺も、律でよかったと思ってるよ」

だから、二度とモブとも誰とも比べなくていい。
そう言いながら、乱れてもいない律の千鳥格子のマフラーを直してやる。照れ隠しだとバレただろうか。
ふふ、と少年の口端だけが柔らかく緩むのに見惚れた。
愛されたかった、きみに、俺は。
「これからはそうします。これは僕にとっても小さな始まりです。見ててください霊幻さん」
愛したかった、ただきみを。そんなことも許されない世界で、ただ自分は見守ることしかできない。


「よし、律。行け」
霊幻の手が両肩にぽんと置かれ、睦の宿る木へと押し出してくれた。
何気ない彼の仕草や声に、自分への愛がこめられていると思えば胸がつまった。知らなくていい事なんか
ひとつもないんだと律は改めて思う。
どんなに苦しんでも、秘密にされても。
かけ違えたボタンみたいにまっすぐには向き合えない二人でも。
不甲斐なく苛立っても、すべてが嘘のように思えても。
(だから、僕は僕に真実を教えてくれた人を、できうる限りの力であちら側へ送ろう)

蕾はついているがまだ固い。春はまだ遠いのだ。葉のない丈高い木蓮。マグノリアという原名までが美しい。
その細く節くれだった幹に、律はそうっと手をつけた。触れた瞬間もうわかった。黒い瞳が揺れる。
「ずいぶん…弱ってしまっていますね」
『……うん。律が望みを叶えてくれたから未練がなくなっちゃったんだろうな…』
「もうこのままにしておいても自然に消えるかもしれません」
『だろうね。でも僕は君に頼みたい。僕を終わらせてくれるよね』
「ええ。そういう約束ですから」

済まないね、君のような小さい子にしんどい思いをさせて…という睦の言葉に笑ってしまう。
誰か他の大人にそう言われたら反発するし腹も立ったことだろう。
だが彼の正直さは、律には不思議と楽だった。この人にとって自分は小さい子なのだ。大人ぶる必要はない。
今在る自分よりも大きく見せる必要すらない。

『どうして、あんなことを?』
志方と霊幻に聞かれたくない部分だけは、思念で会話をする。くすくすと睦は悪戯っぽく笑った。
『僕は、何で君たちがお互いの気持ちに気づかないのか不思議だったけどね…律もちょっと鈍感だよね』
『言われてみればそうですが…絶対にありえないと思ってましたから』
『うん、彼もそう思い込んでるから、目の前の君の気持ちが見えないんだろうな』
『見えないっていうか、見たくないのかもしれません』
『ああ、そこまでちゃんと考えたのか。偉いね』

想い想われたい、それは当たり前の欲求だというのに、それを許さないあの霊幻の強固な意思。
それを思い出すと涙が出た。すべては自分の為なのだと今は分かっていたからだ。

『僕もまああの時は、彼に本音を吐かせたくてかなり煽ったけど、本当は霊幻さんが正しいのかもと思う。
君たちが相愛になったから幸せになれるかというと…まあ難しいだろうね』
『ハッキリ言いますね』
『今さら取り繕っても仕方ないだろう?ただ問題は、可能性は常にゼロじゃないってとこだ』
『そうですね。あの人の懸念は痛いほど分かりますが、大きなお世話とも言えます。僕の幸せも不幸せも僕が
決めることですから』

そして、霊幻の幸せは霊幻が決めなければならない。
本当にどうしようもなかったのだ。好きになってしまったことは。
自分が子供なのも、あの人が案外とまともな大人なのも、想うが故に互いを傷つけたことだって。
恋は夏に生まれて、秋を共にし、冬へと至った。
ずっと宝物のように隠し持っていた。それを消し去るなど、とうとうどちらもできはしなかった。

『彼の決意も固いよ。君が好きだと告げても拒絶するかもしれない』
でしょうね、と声に出して律は呟く。きっと霊幻は自分を遠ざけようとするだろう。思いを容易に認めたりはしない
だろう。
『律を愛しているんだよ彼は。だから』
『知ってます今は。それを僕に気づかせてくれてありがとうございます、睦さん』

うねり絡み合い天をつく枝たち。見上げ、だがそこで言葉はぷつりと途切れてしまう。続かない。
蒼穹はほとんど触れそうなほど近く、まるで彼を迎えにきたかのようだ。
くらり、その色に眩暈がした。
もうあまり時間がない。彼が消えるより先に彼を消さなければならない。
感情はまざり、ミルクを注いだコーヒーのように渦を巻く。
昨日知ったばかりの人。だがもう少しだけここにいてほしい人。終わりを下すのは自分の幼いこの手なのに。

『ねえ律。恋は幸せのひと色だけじゃすまない。苦しいこと切ないこともたくさんだ』
「……はい」
『だけどそれが生きてるって事なんだよ。すべてを味わえるのは生者の特権だ』
「睦さん…」
『僕はね、きみの幸せだけじゃなく、きみが悔いなく生きるようにと願っているよ』

そう言い、睦は律に最後の言葉を授けてくれた。どうしようもなくなったら思い出すんだよ、と。
それを必要とする時がすぐそこに迫っているとも知らず、律は目を閉じ、胸の奥深くに刻み込んだ。
(忘れない、一生忘れない…)
涙はなかった。この交錯を生かしてこそ彼も報われるはずだ。

睦が最後に目にしたものは、懐かしく古めかしい我が家、取り囲む豊かな山々と土地、老いた自分の弟。
そして不器用で真剣な恋をしている男と、彼が心より愛している少年の姿だった。
(袖振り合うも他生の縁、か…)
他生は輪廻。ほんのすれ違うほどでも、何度も生まれ変わった上での深い宿縁だと聞かされた。
そういう人たちに囲まれて逝くのは怖くなかった。
終わりがきた、と睦は微笑む。こんなに悔いなく安らかに逝けるなんて、考えたこともなかったのに。

『さようなら、愛しい子』

さようなら、と律も小さく同じに呟いた。
除霊の力を腕に集める。『人を終わらせる』という意識をもった事はかつてなかった。何の感慨もなく祓ってきた。
たとえばあの日、兄に手助けされて刀の悪霊をおとしたように。
だが今胸にあるのは、一抹の寂しさと誇らしさだ。
ちらりと志方へ視線を流せば、お願いしますと言うように深くゆっくりと頭を下げてきた。

律は木の幹に腕を回し頬をつける。そしてそれをきつく抱きしめた。
純粋に睦のことだけを思いながら、力を徐々に流しこんでゆく。
(なんだろう…温かい……)
木が、発熱している。律を包む大気は冬そのものの厳しさなのに、根本からせりあがる霊力に呼応するように
その熱は上へ上へとあがっていき、とうとう木蓮全体を包みこむ。

「え……っ!?」
その時、思いもよらぬことが起こった。律も志方も霊幻も息をのみ、その変容を注視する。
固く固く凝っていた木蓮の蕾がすべて早送りの映像のように動きだしたのだ。
先端から表皮がめくれ、花びらが覗いたかと思うとのびやかにゆるやかにその全体をあらわした。

やがて柔らかな日の光を受けて、花弁の一枚一枚が開いてゆく。
その純白。大きな大きな白木蓮の花。
高潔と慈悲を象徴するそれは、キンと冴えた空気の中で、贈り物のように華やかに咲き誇った。
息詰まるような一面の白、白。
雪より美しいそれが律の頭上で天蓋となり、甘く品のよい香りを漂わせはじめる……


「霊幻…さん…」
振り向いた律の頬に光っている涙をみとめた。今すぐ抱きすくめたくなるような泣き笑いの表情。
不思議なことには慣れっこの自分たちも、これには心を動かされずにいられなかった。
(なんだよ睦の野郎、こんな事したら絶対忘れらんねえだろうが…)
もういってしまった相手に、霊幻は大人げない文句を投げる。勝ち逃げされた感がハンパない。
それでも白いコート姿で立ちつくす律に、こんなにも映える花は他に考えられなかった。

「本物はこんな香りなんですね…」
「ああ。しかしアイツもとうとうあっち側にいけたんだな…キザな事しやがって」
でも綺麗だな、見たこともないぐらい綺麗だと言えば、律は頷き、届かない花に細い指をのばそうとする。
志方を窺うと「いいよ」と笑ったから、霊幻は特別きれいな一枝を選んで手折り、律に恭しく差し出した。

「こいつはな、ノースポインターフラワーって言うらしい」
「え…?」
「蕾が必ず北を向くんだ。方角を教えてくれる。人の倣うべき道を示す、お前にそっくりだな律」
「………っ」

また涙ぐむ。少し赤らんだ頬。あなたの方がキザなことやってますよ、とツンを発揮しながらも律は、自分に
与えられた一枝を大切に受け取った。
白い小鳥がたくさんとまったような、それの香りをすうっと吸い込んでいる。
びろうどめいた艶やかな花弁を撫でては微笑む、その仕草までもが愛おしい。

この子が花開いた瞬間を見届けたことで、酩酊感に近いような満足を霊幻はおぼえていた。
これは自分のものだ。生涯忘れはしないだろう。
志方が車椅子を動かしこちらへやってきた。長かった気がした。だがこれで依頼は完了したのだ。




来た時と同じローカル線の電車が、今度は斜面をカタタンカタタンとゆるやかに滑り下りていく。
そののんびりとした揺れは律の眠気を誘ったらしい。
うとうとと舟を漕ぎ始め、今はもう霊幻の肩にもたれて健やかな寝息をたてている。
その日最終でふもとへ降りる電車だ。この車両は二人きりだった。律の膝の荷物の上に、丁寧にセロファンで
巻かれた白木蓮の一枝が置かれ甘い香りをはなっている。

もう一晩泊まっていくようにと、志方は最後まで粘っていた。
確かに今から帰るのでは、律の帰宅も遅い時間になってしまうだろう。いくら家に連絡していても、中学生には
あまり相応しくない。
だが、志方を静かに悼ませてあげたいという律はとうとう譲らなかった。
結局、来月にでもまた遊びに来ること、友達やそれに君の兄さんも必ず連れておいでと約束させて、やっと解放
してくれたのだ。

普段はどんな依頼でも、終わってしまえばそれまでの事が多い。
そもそも霊幻はその辺ビジネスライクだったからだ。
だが今回のケースは誰にとっても特別なものとなった。兄を送ってくれた律との縁を途切れさせたくないという
志方の気持ちも分からなくはない。
睦と最後にどんな話をしたのかも聞きたいと思っているのだろう。

(俺もそうだ。根こそぎアイツに吐き出さされた…)
飄々と人を食ったような顔で生きてきた自分が、他人の眼前で秘めた恋を大声でさらしてしまうとは。
あまりの事に変な笑いがこみ上げてくるぐらいだ。
だが、俺も睦に救われたんだろうなと霊幻は認めないわけにいかなかった。
ずっと苦しんできた。たとえ律が知らなくとも、この子の目を見て愛を告げられたことで、澱のように底に溜まった
ものは一度すっかり消えてなくなっていた。
今は自分の心がよく見通せる。そして心地よい倦怠感が霊幻の体をつつんでいる。

好きだよ、と何のてらいもなく思った。
ミトンをはめた小さな手をそっと握り込む。肩にあたるサラサラした黒髪。ずっとこうしていたくなる。

この道を来た時は、こんな静かな心持ちになれるとは思いもしなかった。
悲壮感たっぷりで手前勝手、絶えずイライラして、それでいて己と向き合おうとはせず。
望みのない恋に酔っぱらった自分は、律の目にどんな風に映っていたのだろう。
そして今霊幻は、考えたくなくて最後まで逃げていた事にとうとう直面しようとしていた。
心地よさげに夢にたゆたう寝顔に祈るように語りかける。手袋越しの体温が胸をいたくする。

(なあ律……すっげーカッコ悪いこと白状してもいいか…?)
(俺は、俺はさ…お前が本当にこんなにも好きだけど、両想いになんかなりたくなかったんだよ…)
(お前は人を好きになってみたいって言ってたよな)
(俺は恋なんかしたくなかった。絶対誰ともそんな羽目に陥りたくなかったんだよ……)

夕暮れ時の車窓、外界ではまた雪がしんしんと降り出していた。
雲間からさす茜色の光線と乱れ飛ぶ雪が美しいコントラストを描いている。
いつも街中にいるせいか、圧倒的な自然を目にすると自分ちっちぇえなと思い知らされ、笑ってしまうほどだ。
わかってたけど。弱さもずるくて情けないのも、今に始まった事じゃないぐらいは。

長く誰の感情にも忖度せずに、勝手気ままに生きてきた。何かに捕われる人間を軽蔑すらした。
それが自由だと考えていたからだ。
だから本気の恋に落ちた時、相手が男だとか年の差やモブの弟だという事よりもずっと、自由でなくなるのが
恐ろしかった。
自分が自分でなくなってしまうようで、本気で逃げ出したかったのだ。

(離してくれなかったけどなぁ、お前はさ…)
いや律は自分を好きなわけじゃないから、それも違うか。いつまでカッコつけてんだと肩をすくめる。
離れたくない。それだけのことだ。ひどい二律背反。
逃げたい逃げたい逃げたいと思うのと同じだけ、愛しい愛しい愛しいと思ってきた。

今はわかる。それが恋をするということだった。
歪んだ音と高く澄んだ音が両方鳴っている。それが不思議と共鳴し合い、ひとつの音色を奏でていた。
(自由がなんだ、バカヤロウ)
そう自分の卑小さをかなぐり捨てた瞬間に、それらは苦もなく調和した。
両方ともこの子に捧げればよかったのだ。今の律なら人の思いを忌避したり軽蔑したりしないだろう。
少なくとも、霊幻の身になって考えてくれるはずだ。

報われなくてもいい。近いうちに打ち明けるんだ…と霊幻は律の手を柔く握りながら決意していた。
春が来て会えなくなってしまう前に。
もちろん自分との事は考えてほしい。
だがそれが無理でも、律は愛されるとはどういう事かを知るだろう。
近い将来、この子が人を好きになり迷い苦しんだ時に、それは小さな支えになるかもしれない。

(俺に好きだと言われたことを、いつまでも律が憶えていてくれたら)
(そうだ、アイツの最後の言葉みたいに)
それって意味のある事なんじゃねえか?睦…と、憑き物がおちたような顔で霊幻は白い花に語りかけた。
もうどこにもいない自分の人生を掠めていった霊に、まるで親友と酒を酌み交わしている時のように。



ミトンのはまった手が優しく握られている。
ああ、この人は本当に僕のことが好きなんだな…と律は嬉しくなった。あの告白も睦が表に出ていたせいか
他人事のような見え方だったし、夢みたいに思えたりするのだ。

もちろん律はこんな大事な時に寝てなどいなかった。
そして、相手が自分を好きだと知っているとどんな大胆な事もできてしまうから恐ろしい。
電車に乗ってからは眠そうなフリをするのも、霊幻の肩にもたれての狸寝入りも平気で実行した。
少しは図々しくならねば、この膠着状態を打破することなどできはしないと思うわけで。
今は人間に可能な限りの薄目でもって、電車の窓に映る霊幻と自分の姿を見ていた。
そこにいるのはやはり大人と子供だったが、両想いかと思えば、まるでどこかへ駆け落ちする二人のようだ。

だけど、怖いな…と律は考える。
今日のこの人は僕のことを好きだろう。だが何の望みもないと思っている。自分も同様だったから、それが
どんなに苦しくて心もとないかがよく分かる。
(明日になれば、諦めてもう好きじゃなくなってるかもしれない…)
霊幻がそこまで移り気なはずもないが、水をもらえずにずっと想っていてくれなんて無理な相談だろう。

ガラスにうっすらと映る彼の表情は穏やかで愛おしげだった。
こんな顔もできるのかと思い、こんな顔を僕がさせているんだと胸がうずいた。握った手にほんの少しの力が
こもる。離さないでとそればかり願う。

好かれていると知ったところで少しも楽にはならなかった。
甘えて肩にもたれながら目を閉じたって、安心して眠れたりはしないのだ。
何も変わらない。一緒にいられる時間は、砂が零れるように減っていく。
もういっそ今、この手を強く握り返してしまおうか、と律は思わずにいられなかった。

何をすれば正解なのか、わからなくて脅える。
それほど大事な人に巡り会えたのだと、そんな単純なことに気づけないほど、今また律は雁字搦めになって
しまっていた。




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