夜のうちにまた雪化粧をしなおした敷地内は、柔らかそうな手つかずの白にすっぽりと覆われていた。
空にはミルク色のもやがかかり、子供の描く絵のようにあどけない印象を与えてくる。
名も知らぬ小さな鳥が、さえずりながら木の実をついばんだ。
それは、初めて来た人間ですら懐かしいと思ってしまうような情景だった。

池の周囲の雪はすでに家人によってのけられ、木蓮の木までの道がつけられていた。
そこへ車椅子に乗った志方友章が姿をみせた。ガウンを着て、膝には暖かそうなブランケットがかけてある。
だが、その表情からはまぎれもない緊張がうかがえた。
無理もない事だが、まだ信じられない部分も多々あるのだろう。

朝食のあと、霊幻と律は志方に面会を求め、昨夜彼の兄である睦の霊と接触したことを報告したのだった。
志方も屋敷に超常現象がおきているのは知っていたし、何かがいるというのは認めていただろう。
だがそれが70年も前に死んだ自分の兄だと聞かされ、やはりすぐには消化できないようだった。

木蓮の植樹の件も含め、律はもはや志方本人以外知るよしがないような事実をいくつか口にした。
それは調べれば分かるようなものではなく、やがて依頼主は苦しげにしなびた両手で顔をおおった。
打ちのめされたような姿だった。
まだ若い霊幻や律には到底想像もつかないような感情に、この老人は揺さぶられているのだ。
彼がそれに一応の整理をつけ、二人を呼び出したのは、もう昼をだいぶ過ぎてからのことだった。


志方に手招きされ、白いダッフルコートの留め具をすべてはめ終えた律は彼へと近づいた。
律以外には見えないが、すでに睦は木蓮の木から出てきていた。背後には霊幻が控えてくれている。

「霊幻くんは君にこんな事をさせるのは本当は反対なんだと言ったね。なのに何故、危険を冒してくれるんだい?
君は年の割に冷静にものを考えられる子だと思うんだが」
「僕も、兄がいる弟だからですよ」
本当にそれだけだなと律は思う。霊幻にも言ったが、自分は博愛主義でも聖人君子でもない。
これから先も誰彼かまわず助けたりはしないだろう。

「僕の兄さんは比類のない超能力者で、僕は彼に劣等感や羨望ばかり抱いてきました。関係性が改善されたのも
割と最近になってのことです。兄さんがいつも僕のことを思ってくれてるって気がついたのも」
「それは…君も少し大人になったんだろうな」
「どうでしょうね。だけど兄というのは本当にすごいんです。昨夜も 『僕が死ぬようなことがあれば、やっぱり律を
見守ると思うな』 って当たり前みたいに言うんですよ」

モブ、あいつパネェな…と霊幻の呆れたような声がした。僕にも理解できないですよと律は肩をすくめる。
志方が面白そうに笑ったので、ちなみに兄はこの人の弟子ですと解説をしておいた。

「私の兄も同じだって言いたいんだね、律くんは」
「それを僕が言うのは簡単です。だけど、最後の言葉はお兄さんから聞いてほしい。僕の力は大した事ないです
けど、それぐらいは叶えてあげられるんです」


律は霊幻を振り返ると「憑依のタイミングが悪くて倒れたりするのいやなんで、ちょっと支えててもらえますか」と
頼んだ。
睦が何か悪さをするとは思えなかったが、一応は警戒しておこうと考える。
体は貸すが、自我というか意識は保っておいた方がいいだろう。
しかしその辺は感覚の問題なので、いちいち説明するのが面倒だった。勝手にやることにする。

両肩を霊幻の手がつかみ、もし倒れ込んでも大丈夫となったところで、「……律」と彼は言った。
「なんて顔してるんです。そんな難しいことじゃないし、心配いりませんよ」
「分かんねえから。そんなの俺には」
ほんのすこし怒ったようなその声に、はっとさせられる。
超能力者だらけの戦いの最中も、口先と物理攻撃だけで平然と渡り合っている人だから忘れていた。
持つ者と持たざる者の断絶は、ほんとうは自分たちの間にも横たわっているのだと。

(この人は、自分も超能力者になりたいと思ったことはあるのかな…)
答えてくれるかは分からないが、聞いてみたいと思った。
いつだって知りたい事ならたくさんある。
帰りの電車の中ででも訊ねてみようか。掴みどころのない人だし、はぐらかされるかもしれないが。

その時、茶色く陽に透ける霊幻の目を見上げながら、律はあれ?と首をかしげた。
何かがひっかかった。
こんがらがったものが解ける最初の一手が光ったような気がしたのだ。
もう少し考える時間があれば…と思いつつも、今はそれどころじゃないかと無理に気持ちを入れ替える。
ゆったりと深く呼吸をした。

「睦さん、大丈夫です。きてください」

律の瞼が閉じられ、がくんと頭がさがった。肩を掴んだ手に重みがかかり霊幻の肝が冷える。
だが次の瞬間、もう黒い瞳はあいていた。
ふ…と弧をえがく口元。まったく違う笑い方をする、それはもう律ではなかった。
ありがとうございますと囁くと、『彼』 は自分の弟へと向き直った。歩き方もまとう空気も別人だった。

『………友ちゃん』
もう90歳に届こうかという老人に、彼は迷いなくそう呼びかけた。
おそらく、志方もその時まではすべてを信じきれていなかっただろう。
だがその落ちくぼんだ目に涙が盛りあがるのを霊幻は見た。枯木のような手が伸ばされる。兄さん…ああ本当に
睦兄さんだ…という声。

「なんてことだ…本当に70年もここにいてくれたんですか。誰とも交わる事もできないのに。どんなにか寂しくて
辛かったでしょうに、どうしてこんな…」
『そんなことはなかったよ。僕はこの家で起こるいい事も悪い事もずうっと見てたんだ。友ちゃんの頑張りもね。
ああ、本当にごめんね。僕は友ちゃんに何もかもを押し付けてしまった…』
「何を言うんです、若くて聡明だった兄さんがあんなに呆気なく死ぬなんて…無念だったでしょうに」

それは不思議な光景だった。白いコートを着た少年が老人の頭を撫でている。
志方友章はその手を握りしめ、思うさますすり泣いていた。
睦は治療法が見つからず手をこまねいているうちに、病気で逝去してしまったという。
金持ちの家とはいえ、医療も進んでいない時代だ。今ならばあんな病気で死ぬことはなかったと、友章は何度も
何度も思ったのかもしれない。

「家で不思議なことが起こると、兄さんがイタズラ好きだったのを思い出していました。いつも私を庇ってくれる風
だったから余計に」
『そうなんだ。まさか本人とは思わないよね』
「今となっては、兄さんがやりそうな事だって思いますけどね…」
二人はそう言いながら笑い合った。仲のいい兄弟だったんだな…と関係ない霊幻ですら思わされる。
こんなだったと聞かされるのと、本人同士が話しているのを見るのとではまた違った。
モブと律が、この二人の境遇に自分たちを投影してしまったのも無理はないのかもしれない。

だが正直いって霊幻は、律の中に睦が入っているのにもう長く耐えられそうになかった。
そんな権利もないのにどんだけ嫉妬してんだよと自分でも思うが、一刻も早く出ていかせたい。蹴り出したいぐら
いだ。
ああ、かっこ悪ィな俺は…と嘆息しながらも、昨日の一件もあり、辛抱して律を見守るより他になかった。
尊重するって決めただろ、と己に言い聞かせる。


『この子にあまり負担をかけてはいけない。僕の願いについてはもう聞いているね?』
「……はい。私にどこでどう死ぬのかを自分で決めるようにと兄さんが伝えたがっていると」
『そう。僕もね…身内が年老いた友ちゃんからこの家まで奪おうとするのに腹がたって、もう煩い奴はみんな閉め
出してやろうと思ってたんだ…最後まで』

律の姿をした睦は、池を挟んだ向こう側にある志方家の母屋を眺めやり、懐かしげに目を細めた。
家の外観は、古めかしい昔の風情を保っている。
それを維持できるだけの財力もまた、友章が必死に保ってきたという事なのだ。
この家は、彼が志方家の総領として心をくだき立派に生きてきた証だった。だからせめてここで静かな死を迎え
させてやりたかった。

『でもね、やっぱり逃げ隠れするのは友ちゃんらしくないよ。骨のおれる仕事だと思うけど、おまえは志方家の
最後の当主だ。この家で死ぬのか、この土地ごと処分して別の場所で余生をおくるのか、自分の意思をはっきり
と示すんだ…友章』
兄の言葉に、車椅子に座る老人の顔が決然としたものに変わった。
心なしかその体まで一回り大きく見えるほどだった。
深く頷き「分かりました、兄さんの仰る通りにします」という志方の声からは、あの疲れ倦んだ調子はかき消えて
いた。
うん、友ちゃんは立派だ。父さんや母さんも誇りに思うだろうよ、と睦は晴れやかに笑う。

「で、でも兄さん、もうひとつの方は承服できません!何故、今除霊してもらわねばならないのですか。私はもう
何年も生きません。最後まで一緒にいて下さい。話ができなくてもいいんです、兄さんがいてくれると思えば、
私は…私は……」

この苦しい人生のなにもかもに耐えられる…と老人は言いたかったのだろうか。
少年の腕にすがりながら、「私が死んだら彼らに成仏させてもらえばいい。お願いですから兄さん」とかきくどく
彼の孤独がかいま見えるようだった。
だが志方睦は、弟の手を外して数歩後ろへと退いた。さよならの準備だと霊幻にも分かった。

『ものごとには潮時というのがあるんだよ。彼らがこの家の結界を破った時、やっと僕に引導を渡してくれる人が
来たんだと思った。こんな可愛い子だとは予想外だったけどね』
「律くんは…自分にも兄さんがいるんだと言っていました…」
『うん、それもきっと何かの巡り合わせだろう。この子は誰にでも感情移入するタイプじゃないし』
「どうしても…逝ってしまうのですか、兄さん」
『うん。本音を言うとね、僕にも見たくないものはあるんだ。この家が壊されるところと…友ちゃんが死ぬところだけ
は、どうしても』

志方友章の目から涙があふれ、皺のよった頬に幾筋もの痕をつける。
膝のブランケットにもぽたりぽたりと滴が落ちた。それでも、彼は兄から目をそらさなかった。
「そうですね…この世に残る仕事を終えたら、私もじきにそちらへ参ります」と絞り出すような声がする。
昔ふたりで植えた木蓮の木が大きく枝を広げるその下で、睦は『また会おうね』と答えた。

それが、この兄弟が今生で交わした最後の言葉となった。
70年の時を越えて、現世の理すら曲げても、律がこの二人に授けようとしたささやかな福音だった。



実際はそう長い時間ではなかったのだが、睦が振り向いた時、やっと終わったかと霊幻は安堵した。
モブという保険もかけてあるし、律がどうこうされる可能性も低いとは思っていたが、緊張はあった。
あとはコイツをさっさと出ていかせて、除霊をしたら終了だ。
だが、律の姿をした睦はそれ以上近づいてこようとせず、霊幻を見据えると静かに言った。
『あなたにも苦しい思いをさせてしまいましたね』

「はあ?何が言いたいんだよアンタ」
思わず気色ばむ霊幻の前で、律の唇に見たこともないような笑みが刷かれる。
それは美しかったが、霊幻の背筋には寒気がはしった。大切な子を好き勝手にされている嫌悪だった。
この霊が現れた時、律は言っていた。
あなたとは違う意味で食えないタイプって感じです、と。

「何もかもお見通しってわけか。なあ早くそいつから出ていってくんねーか」
『やれやれ、もはや我慢も限界って感じですね。僕はもう少し律と一緒にいたいんですけど』
「気安く呼び捨てにしてんじゃねーぞ」
『いいじゃないですか。この子は僕にとっても特別です。あなたに分かりますか?70年ぶりに自分の声が誰かに
届いた時の気持ちが』

舐められまいとしてツンツンしてて可愛かったなあ…と睦は楽しげに言う。
煽りやがって…と頭の中、冷静な部分ではちゃんと気がついていた。
だが依り代が律である以上、物理攻撃もできず人質にとられたも同然だ。彼の言葉を聞くしかない。
歯がみしながらも、ひとつ分かったことがあった。
律の外見がどんなに好ましくとも、中身なしではそれはただの容れ物にすぎないと。
睦と向き合いながら、霊幻は自分がどれほど律の感情や意志に惹かれていたかを思い知っていた。


『あなたの隠し事ならちょっと見ただけで分かりましたよ。僕も100年近く現世にいるんでね』
「で、せせら笑ってたって訳か?性格悪いんだなアンタ」
『生前よく言われてましたね、それは。だけど少なくとも僕なら律をあんな風に泣かせたりはしない。あなた中途
半端なんですよ霊幻さん。殺すならもっと完璧に殺さないと、自分の心を』

律の姿、律の声が容赦なく霊幻を断罪してくる。本当に心臓を貫かれるような思いがした。
ああそうだな。コイツの言う通りだ。
自分はこの恋を味わい楽しんでいた。願望も育つがままにしていた。
気を許してくれるようになった律を見る度に、もし同じ気持ちだったらと想像しては自分の心を慰めた。

嬉しいことはあまさず享受し、いざ具合が悪くなると一線を引いて。
睦はそれを責めている。あなたはなんて自分勝手なんだと。
律を一番に思うのなら、バイトに来るのを止めさせるべきだったのだ。余程の事がないと顔を合わせたりしない
元の関係にすぐさま戻るべきだった。

分かっていた。それぐらい分かっていた。
だが、恋をした人間にそんな事が可能なのだろうか。
どんなに巧みに感情を隠せても、自分も機械ではないのだ。水ももらえずに生きていけない。

「……り、だ」
『え?』
「無理だろ。殺せるわけねえよ…こんな気持ち…こんな、こんなに…」

あの夏の雨の日に律が言ったこと、表情、そのすべてが霊幻の中で鮮やかに息を吹き返した。
『霊幻さんて、階段の踊り場みたいな人ですね』
『誰だってみんな一度に天辺までは上れないじゃないですか』
『だけど途中で休ませてもらえると、またそのうち上っていけるようになる…』

それがどれほどの孤独なのか、聡いこの子はもう理解していたのだろうと思う。
いずれ誰からも置き去られると決まった人間のために。
泣いて傷ついても何かをもたらそうとしてくれた律を、こちらから手離せるわけがなかったのだ。


霊幻は律の顔だけをひたと見つめると、よろめくような足どりで一歩二歩と距離を詰めていった。
足元で積もった雪が踏みしめられ、きゅっきゅっとちいさく鳴る。
向こう側にはひどく驚いた顔の志方がいた。自分が話しかける相手が律ではないのも承知していた。
だがもう、何もかもが止められないところまで来てしまった。
言いたかった。
生涯これ一度きりでいい。音にかえて、声に出して、きみに言って聞かせたかった。

「好きだよ、律。死ぬほど好きだ」

一度堰を切ってしまうと、それはもはや留めておけるものではなかった。
苦しげな愛の言葉がとめどもなく溢れる。外に向けて初めて解放される。ずっと許されてきたくせに、まだ律に
赦しを乞うている自分のどうしようもなさに涙が出そうだ。
今ここに、あの子の心はないのに。

「ごめん、ごめんな律、言ってやれなくて…」
「そしたら、ちょっとはお前の自信にも繋がったかもしれなかったのにな」
「だけど、15も年上の男がよ、お前みたいに綺麗で賢くて甘え下手でかわいい奴にこんな事言えると思うか…?」
「俺なんかが、お前を欲しいなんて、絶対に口に出すべきじゃねーんだよ」

馬鹿な大人でもそれぐらいの事は分かってたんだ…と悲しい声が、小さな神さまに訴えかけていた。
木々の間から降りそそぐ光。まるで告解だ。
想いはひんやりと清浄な空気をのぼって、空の一番高いところにある水色へと溶けていく。
これがまた今夜雪となり、この土地に音もなく降り積もるのだろうか。

『それが、あなたの感情ですか』
「ああそうだ。もう隠し事なんかなんもねえぞ。満足したか、志方睦」
『まあいいんじゃないでしょうか。頭がいい分めんどくさい人だ、あなたは』
「あらいざらい吐かせたくせに、まだ文句かよ。別にアンタにどう思われようといいけどな」
『そうですね。我々の間で重要なのは、律のことだけだから』


『それでは、この子をお返しします』
そう言うが早いか、睦は腕を大きく広げ、霊幻の腕の中へ倒れこんできた。笑っていた。
律!と叫びながら、霊幻は細い体を夢中で受けとめた。力がはいっておらずぐったりしている。
閉じられた目、頬に触れそうなほど長いまつ毛、顔色はあまりよくない。
だがすうすうと規則的な呼吸が聞こえた。眠っている。今はもうこの身体の主は律なのだ。戻ってきた。

頭の芯がくらりとした。
感情が出きった反動なのだろうか。いやまだ大きな衝動が残っている。
ものも言わずに霊幻は、律をきつく抱きしめていた。
これまでもこれからも絶対にしてはならない事だった。いささか火事場泥棒的だがもう構いはしない。

自分たちをかこむ白銀の世界すら忘れ、ただ愛しい子の温もりだけを追った。黒髪に頬を押しつける。
それは、ほんの数秒だけ生じた人生の間隙だった。
堪えていたものを解いた霊幻は、そこに膝をつき、すこしだけ泣いた。
苦しいのに捨てられず、掠め取るようにしか律を抱けない。そんなどうしようもないような恋をしていた。




目をあけると、すぐそこに霊幻がいてくれた事がむしょうに嬉しかった。
布団の脇に座ってぼんやり外を眺めている彼を、律は密かにじっくりと観察させてもらう。
疲弊したようで、妙にすっきりした感じの顔をしていた。
この人はいつも無意識にオーバーリアクションをとるから、素の状態は珍しい。
霊幻さん…と小声で呼びかけるとハッとして律を見た。言葉よりも先に彼の手が伸びてきて、褒めるように髪を
撫でてくれた。

「おう、起きたな。気分どうだ」
「大丈夫です。僕どれぐらい寝てました?それとあの…志方さんの件うまくいきましたか」
「睦が抜けてからもう一時間ぐらいたってるか…志方のじいさんは兄貴の願いをちゃんと受け入れたよ。お前は
なんにも心配しないでいい。よくやってくれたな律」
「そうですか、よかった…」

身を起こそうとしたのだが、霊幻の人差し指に額をつつかれ、ぼふんと羽根枕に逆戻りさせられた。
いいから横になってろと言われ、そこはまあ素直に頷いておく。
ここは律に割り当てられた部屋のようだった。
昨夜は霊幻がこっちに布団を運んできて、結局二人で並んで眠ったのだ。
楽でいられるようにか、セーターは脱がされグレーのカットソーだけになっていた。ベルトも抜かれている。

「霊幻さん、今から一時間後に除霊を行います。志方さんの都合を聞いてきてもらえますか」
「おいおい無理すんな。明日でもいいだろうが。じいさんも絶対そう言うぞ」
「いいえ。すぐに終わらせて、僕たちは夕方の電車で調味市へ帰りましょう」
「律…?」
「今度こそお兄さんは消えるんです。それをやった人間がいつまでもウロウロしていたら、志方さんも落ち着いて
悼めませんよ。他人は退散すべきです」

霊幻は驚きと呆れのいり混じったような顔で律を見おろしたが、やがてハーッと大仰なため息をついた。
「お前な…なんでそんな大人っぽい考え方できんの」
「別に普通じゃないですか。それにあまり時間を置くと志方さんの決心が鈍ってしまうかも」
「まあそれはあるか。じいさん、自分が死んでから除霊してもらえばいいって睦に粘ってたしな」
「なら、善は急げです。行ってきてください」

へえへえと言いながら、霊幻は一応ネクタイを締め直し上着をはおった。何度もつけたり外したりしているせいで、
ネクタイはもうしゃきっとはしていない。
だが鏡も見ずに結構うまく結んでいる様子に、律はちょっとどきっとさせられた。
時々こういう変なタイミングで、大人の男の人なんだなと再確認させられてしまうのだ。


「時間になったら起こすから寝てろよ」と厳命し、部屋を出ていく霊幻の背中を見送った。
念のため、彼の足音が離れの廊下を渡り小さくなったのを確認してから、律はやっと身を起こした。
様子がおかしいとは思われなかっただろうか。
なるべく頭の中から追い出して考えまいとしていたから、大丈夫だろうと思うのだが。

ぶわっと急に体温が上がったような気がした。そう2℃ぐらいは。全然大げさじゃないと主張したい。
頬も、それから耳や首すじまでも、たぶん真っ赤になっている。
畳んであったセーターや傍にあったボディバッグ、果ては掛け布団まで盛大に浮き上がった。
嬉しいことがあると周囲の物を浮かせてしまうこの癖、何とかならないかな…と律は頭をかかえる。
だがこの現象は、今までに霊幻に関係した事でしか起こらなかったのだ。

立てた膝に赤い顔をうずめて、どうして今まで分からなかったんだ僕は…とポツリ呟いた。
考えだすともう平静ではいられない。
彼が言ったことを脳内で再生するのも無理だ。気恥かしくて直視できない今のところ。
何の望みもないと思い込んでいたのだ。動悸は速いし心の中は喜びでわやくちゃだ。布団に潜ってゆっくり考え
たいが、かんじんの掛け布団は依然宙に浮いている。

ほうっと熱をはらんだ吐息が、唇からもれた。
だからと言って簡単じゃない。分かりきっていた。それでも。
自分の恋が叶う……少なくともその可能性はあるのだという事に…律だけは、とうとうここで気がついた。







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