自分に割り当てられた部屋に敷かれた立派な布団に突っ伏したまま、律は長い間動かなかった。
心に立った波は容易には治まらず、たまに握った拳を寝具に打ちつけてはそれを逃す。
悲しいのではなく、ただただ悔しかった。だからこそ泣くのはなけなしのプライドが許さなかった。

だが先刻、霊幻に言われた事に律の心はひどく傷ついていた。
同時に、ああやっぱりか…という思いもある。
結局自分は兄の代わりとして役不足なのだ。だから霊幻は危険だと言うばかりで少しも頼りにしてくれない。
(一緒にいた時間も、信頼も、力も全然足りてないからだ…)

息が苦しくなってきて、律はとうとう布団に仰向けに転がった。明かりにまともに目を灼かれ眩しい。
その時、『律』と遠慮がちに声がかかった。
睦がこの部屋について入ってきたのは知っていた。だがそれを気にかける余裕もなかった。今は枕元に座って
こちらを心配そうに覗き込んでいる。

『僕のせいで嫌な思いをさせてしまったね。済まない』
「別にあなたのせいじゃないです。僕は僕にちゃんと出来る事を提案したんだ。きっと兄さんなら霊幻さんに許可
なんか求めない。あの人だっていいとか駄目だとかいちいち言わない」

睦の願いを正確に霊幻に伝えてから、律は『睦さんを僕に憑依させて、弟さんと話をさせてあげればいい』と進言
したのだった。
力を得た最初の頃、エクボをよく憑依させていたからその辺は慣れている。
そのまま乗っ取られてしまう可能性はゼロではなかったが、睦に自分を支配し続けるのは無理だと思った。
律なりにきちんとデメリットも考えてから申し出たのだ
だが霊幻はにべもなく 『駄目だ。そんな事させられるかお前に』 と一蹴した。

頭ごなしな言われように、当然律は頭にきた。そこから激しい口論になった。
『なんでお前がそこまでする必要がある。その霊の言いたいことを伝えてやって除霊すりゃ終わりだろ』 という
霊幻の声も珍しく感情的だった。
思い入れしすぎだ。乗っ取られたらどうすんだよ。今会ったばかりの奴をそんなに信用するなんて危なすぎる。
彼が並べたてる言葉はどれもこれももっともすぎて、だからこそ律はひどく苛立った。

『そんなに僕のことを何もできないと思ってるんですか』
『いや、そういう意味じゃねーよ。余計なリスクをおかす必要はないってだけだ』
『どうしてあなたはそれを余計だと思うんです。僕だって機械じゃないんだ。自分にできる事ならしてあげたいって
思う時ぐらいあるんだよ!』
『律……あのな律、頼むから落ち着けよ』
『僕は充分すぎるぐらい落ち着いてますよ。あなたが分からずやなだけじゃないか』
『あのな…!俺はモブからお前を預かってんだよ。お前に何かあったらアイツに顔向けできねーだろ』
『ああ、ああもううるさい!兄さんもあなたも僕の保護者なんかじゃないだろ!!』

やっぱり本音はそれか、と思うと涙が出そうだった。苦しくて悔しくてもう霊幻の顔も見たくなかった。
(僕を大事に思ってくれてるからじゃない。ただ兄さんに頼まれたから)
そんなこと最初から知っていたはずなのに、いつから期待してしまっていたんだろう。
霊幻の隣にいるのが自分でも、少しは自然になった気がして。
ガラス瓶にはいった100円玉は地道に積んだ信頼みたいで嬉しくて。もっともっとたくさんにしたいと思った。
それがただの独りよがりだったと認めるのは、律にとって本当に辛いことだった。


「大っきらいだ、あんな人…」
『そんな心にもない事を言うもんじゃないよ。律の気持ちは嬉しかった。でも彼には僕が見えないし言葉も聞こえ
てないから、慎重になるのは仕方がないね』
「今すぐ僕に憑依して友章さんの所へ行ってしまえば…」
『それはできない。君とあの人の関係に修復できないような傷をつけてしまうから』

いい子だからまずは少し落ち着こう…ね?と、睦の手が律の頭をゆるゆる撫でるように動く。
彼にとって自分はひ孫みたいな年齢だ。多少の子供じみた振るまいも笑って許してくれそうだった。
直に触れる事こそないが、優しさもちゃんと伝わる。ささくれ立った心を慰めようとしてくれる。
でも、これは恋しい人の手じゃない。
どんなに腹がたっても、悔しい思いをしても、なんであんな人が好きなんだと思っても。
(未来がなくても、僕は)

ほろりと涙がこぼれて落ちた。限界まで張りつめた心に穴があく。次々と溢れ出すものがもう止まらない。
両方の拳で目を覆い隠すようにして、律は声をころし肩をふるわせ泣きじゃくった。
短いが激しい夏の夕立のようだった。
いつからか随分、泣き虫になってしまったなと思う。
霊幻がそうしろと言ってくれたからだ。気持ちを表に出すのはお前にとっていいことなんだぞと。

(ただ優しい人ならそれでいいって訳じゃないんだ…)
少なくとも僕には。荒れる思いの波間で、そんな確信だけが灯台のようにチカチカ光る。
誰も好きになれない自分が不安だった。そういう感情を持ってない欠陥人間みたいで。
でもそうじゃなかった。ちゃんと律にもその日は訪れた。懐かしい彼のあの予言どおりだったのだ。

『世界の基本はお前だろうが』
そう言って笑った霊幻の顔を、今目の前にいるみたいに思いだすことができる。
律という名の意味も教わった。溜まった涙を吐き出させてくれた。
『お前はさ、特別な力を持ってる奴の苦しみも持たない奴の苦しみも分かるだろ?』

忘れられないことばかりだ。だから自分は傷ついてもこの恋をやめない。
何年も生きてない未熟な子供と言われようと、こんな奇跡が二度とあるかは分からないから。
どれだけ泣いても彼を思う。

『ねえ、あの人も苦しそうな顔をしていたよ。君を傷つけるつもりじゃなかったんだよ』
「そう…なのかな」
『口も達者だし頭も回るタイプなのに…あの人、律に関してはすごく不器用だよね』

耳をすましてみたが、隣の個室に人の気配は感じられなかった。霊幻はさっきの部屋にまだいるのだ。
今なら気づかれずに外に出られるはずだ。
そう閃いた律は、目元の涙をグイとぬぐい布団の上で跳ね起きた。黒い瞳には力が戻ってくる。
どうしたって欲は出る。それを浅ましいとは思わないが、今この時の自分には不要だった。
一人で泣いていても変わるものなどありはない。動くのだ。

ずっと一緒にいてくれた霊に話しかけるその声は、すでに日頃の聡明さを取り戻していた。
「頭も冷やしたいし、ついでに行きたい所があります。僕を案内してください睦さん」

白いコートだけを急いで着こんだ律は、出かけに兄から渡された“お守り”をポケットに滑り込ませた。
指先でそのなめらかな感触を確かめ、ひとつ頷く。
本当は、兄の持つこれが羨ましくてしょうがなかった。貸してもらった時は胸が痛かったけれど。
(でも兄さんが正しかった。僕のことを誰よりも考えてくれてる)

兄のしてくれたことが自分への情なのか贖罪なのか、そのボーダーラインすら判然としない。大人になれば分か
るようになるのかだって怪しい。
だけどそれが人なんだと律は考える。曖昧で、馬鹿で、愛しい。
力を得てからも長く迷ってばかりの日々だった。だがやっと往く道が微かに見えたのだ。だから。
(そういう今生きてる人間も、かつて生きていた霊のことも、繋ぎたいんだ…)

大それた望みだろうか。多分そうなのだろう。なのに躊躇いのひとつもないのが不思議だった。
生をうけ、最初にさずかった己の名。死の間際まで持ちうる唯一のもの。その意味を思った。
『お前はお前の名前みたいに生きろ……律』
あの雨の音を聞きながら、彼は自分にどんな未来を見ていたのだろう。
疎まれる結果になってもいい、それに近づきたい。あの人の予言はすべて自分が本当にする。

律の横顔から迷いは削ぎ落されていた。
霊幻に行く先も告げずに、この家を守護する者を連れて、見た目は一人きりで素早く離れを出ていく。
猫のように軽いその足音は、とうとう最後まで誰の耳にも届くことはなかった。



(なにやってんだよ、俺は…)
食事の膳は片付けられてしまい、急須と湯呑み茶碗だけとなった掘りコタツに霊幻は長い間つっぷしたままだった。
酔いなど100年も前に醒めてしまった。暖かいはずなのに寒くてたまらない。
血の気がひいているような感覚だ。
部屋がしんとしているのは、自分のアパートと比べても大差はないはずで。
なのに静寂の質が違った。ここはまるで地の果てだ。裁きの場に一人ぽつねんと立たされている。

あの夏から徐々に煮詰まっていく心は、自覚ならしていた。
律への想いはつのるばかりで、だがそれを態度にも口にも出すまいと固く戒めてきた。
“大人”である以上、当然それはできるはずだった。
だが、自分が知らずどんな泥濘にはまっていたのかを、霊幻は今こそまともに直視していた。

緑色の眼の怪物とはよく言ったものだ。醜い唾棄すべきそれは人の心をなぶり餌食にする。
知らぬ間に浸食され、主導権は奪われてしまう。
(お気をつけ下さい、将軍。嫉妬というものに)
有名な演劇のセリフが頭をよぎった。部下の策略により疑心暗鬼に陥った男が、ついには妻に手にかける。

霊幻の胸を、いつの頃からか激しい嫉妬が噛んでいた。
律に惹きつけられる人間、特に想いを告げることに何ひとつの障害もない人間に。
自分は好きだとは言えない。どんなに近づいても誰より遠い。好きと言わないのは無論律のためだ。
15も年上の男、しかも兄の師匠。困らせるだけだ。何よりまずいのは万が一律が応えようとしてくれた場合だった。
大変なことになる。誰でも思うまま選べるはずの相手を、こんな想いに巻き込めない。

そうやって自分のしている事は全てあの子のためになると、心の中頑迷に言い張ってきた。
律にもそれを押しつけた。これは安全で正しいことだから、大人に従えと。
だがそんなのは嘘っぱちで、ただ醜く膨れあがった怪物から目をそらしたいだけだった。
どうあっても自分を正当化しなければならなかった。


先刻、この場所に出現した志方家の霊は律と二人で話をし始めた。
だが霊幻には、志方睦の声も姿も認識できない。
それでも会話を重ねるうちに、律が少しずつ彼に思い入れていくのが感じられた。
『睦さん』 と今会ったばかりの霊の名前を呼ぶ。色んなことを問うて、時に自分のことも話したりした。

こいつはどんな言葉を、声を、律にかけているのだろう。
見えず聞こえぬ自分が惨めだった。いくら説明されても、霊幻が本当に知りたい事は分からなかった。
注意深い性格の律が、急激にこの霊に肩入れしている。
同情をひいてるのか?自分よりも優しい、嬉しくなるような言葉をかけてやっている?
頭が冷えた今思えば信じられないような邪推ばかりが、霊幻の中で増殖した。
愛とはとても呼べない、醜い感情がひたひたと水位をあげていた。この心臓より発した持たざる者の苦しみ。

(俺はしたいように律に優しくできない)
(俺だけがそれをできねーんだ)
(なのに何でどいつもこいつも、当たり前みたいに可愛がったり触ったり好きだとか言えんだよ)

志方睦の願いを聞き出した律が 『睦さんを僕に憑依させて、弟さんと話をさせてあげればいい』 と進言した時には、
もう頭の中は煮えたぎっていた。
律の気を引いているこの霊を取り憑かせる?バカ言うな、冗談じゃない。
ちゃんと実績がある事を示したかったのだろう。 『力を得た最初の頃、よくエクボを憑依させてコントロールしてた
ので大丈夫です』 と続けて説明され、もはや言葉も出なかった。

あくまでも冷静な大人の判断、それを装いながら 『そんな事させられるかお前に』 と切り捨てた。
律の言っていることは子供の感情論、それで片付けようとした。
ありふれたつまらない正しさを振りかざし、だが実のところは今ぽっと出てきた霊にバカみたいに嫉妬している
だけの事だったのだ。

しかし、腹を立てているくせに予想以上に整然と反論してきた律に、霊幻は危うく押し負けそうになった。
こっちはもうあの時、ただただ感情まかせでものを言っていたのだ。
律の方がずっと冷静だった。デメリットも考慮した上での提案だったのだから。
『そんなに僕のことを何もできないと思ってるんですか』
『僕だって機械じゃないんだ。自分に出来る事ならしてあげたいって思う時ぐらいあるんだよ!』

ああ分かってる、律。ちゃんと分かってるって。でもじゃあ俺のこの苦しさはどこにやればいいんだ。
お前を好きだから、傷のひとつもつけたくないし、誰にも触らせたくないんだよ。
言っていいならどんなに楽だったか。そんな瞬間が、この半年の間に何度あったことだろう。

伝えられずに死んだ言葉は、積もり積もって霊幻を駄目にしていた。
この霊の思惑どおりに律を使わせてなんかやるものか。
自分の心の平安のみを求めて、霊幻はついに律が一番傷つくであろう言葉を口にしていた。
『俺はモブからお前を預かってんだよ。お前に何かあったらアイツに顔向けできねーだろ』

それはなかった事にできるなら、もうこの舌を噛み切ってしまってもいいぐらいの後悔だった。
左の手の甲を、右手の爪がガリ…ガリ…と引っ掻いている。やがてじわりと血が滲む。

『俺にとってお前は影山律で、誰かの何かなんかじゃ、もうない』
そう言って嬉しがらせた相手の口から、お前はモブの付属品だみたいな言葉が出たのだ。
どんな裏切りだ。俺なら許せない。二度とこんな奴を信用する気になれない。律はあの雨の日からずっと、役に
立とうとして頑張っていたのに。
ともすれば一人になりがちな自分の横に、音もなく寄り添ってくれたのに。


「謝らねーと……律に…」
泣いているかもしれない。軽蔑されるより口先だけの男と罵られるより、それが万倍も辛かった。
もっと感情を外に出せよと言ってきたが、そんなのを望んでいたわけじゃない。
傷ついて泣く律を思っただけで、霊幻はよろめいた。

何を言うかも思いつかない。
あの子を好きになってから、いつも言葉が追いつかずにいる。この自分が丸裸だ。
頭で考えるよりも先に感情が奔っているからだ。それがいいのか悪いのか考える余裕すらない。
こんな俺がいたのかと一歩ごとに苦い笑いを噛みくだいた。長い廊下をワイシャツ一枚の格好で渡る。

「律…?入っていいか。もう一回話がしたいんだ」
染みひとつない高級そうな襖は霊幻を拒絶しているようだった。だがそれを軽くノックして呼びかける。
何度か繰り返したが、割り当てられた個室はしんかんとしたままで、応答はなかった。
泣き疲れて寝入ってしまったのだろうか。あるいは口も利きたくないのかもしれないが。
だがその時、霊幻は急に嫌な予感におそわれた。それはもうある種の勘としか言い様がなかった。

律!?と叫び襖を開け放つと、そこには誰もいなかった。
敷かれた布団には少しだけ乱れがある。横には律のマフラーや手袋、ボディバッグなどが放りだされていた。
だが、よく似合うと見惚れていた白いコートがどこにもない。

睦を憑依させて志方の所に行ったのか、という考えがまず頭に浮かんだ。
だが霊幻は、それを即座に丸めて捨てた。
どこに行った。あの霊と一緒か。騙されて連れていかれたのか?いや、律は自分でコートを着ているし、簡単に
操られるとも思えない。ならば。
「くそ!追っかけるに決まってんだろうが!」
家人が離れの玄関に持ってきてくれた靴も、霊幻のものだけしかない。やはり律は外へ行ったのだ。

スーツの上着だけを雑にはおると、自分のチェスターコートは手で引っ掴んだ。
落ち着けるわけがなかったが、冷静になれと必死に念じる。
あの子は理由もなく姿をくらましたりはしない。
何かヒントがあったはずだ。好きなら思いだせ。駅で会った時から今まで、律の言った全ての言葉を思い出せ。


外に一歩踏み出せば、山の頂に近い土地は霊幻を凍りつかせるほどの寒風を吹きつけてきた。
降っていないと思っていた雪がちらついている。
敷地内にはところどころ常夜灯が配置されていて、真っ暗ではないのがせめてもの救いだった。
切ないほどに長く深く続いている夜の闇。律、どこだ律、と頭が割れそうになるぐらい考え求めた。

細切れのシーンが蘇ってくる。暖炉ではぜる炎。出窓に歩み寄り、遠くを眺める律のほっそりした姿。
『池の向こう側の一番背の高い木……あれが何の木か知ってますか?』
絡み合うような枝のシルエットが印象的だった。律の問いに、白い大きな花が咲くんだと志方は言った。
(木蓮……そうだ、マグノリア)
律はあの木を気にしていた。呼ばれましたとあの時言った。それに意味がないわけがない。どうして看過してしま
ったのか。だが必ず追いついてみせる。

駈け出した時、霊幻はもうカケラも迷っていなかった。
自分という男が捧げる言葉を何ひとつ持たないのは、負け戦に出るようなものだ。
だが走っていくことならばできる。それに値打ちがあるかないかは、大事なあの子が決めるのだ。

好きな相手を尊重できなくなっていた。
どんな自己保身ヤローだ俺は、と勘だけを頼りに暗がりをすり抜けながら思う。
機関車のように白い息が休みなく吐き出される。急ごうとすればするほど足がもつれる。
自分だけが苦しくて自分だけが思いやっている? 『反吐が出ますね』 と律に言われるところだ。

からかいが過ぎて怒らせてしまうと、以前の塩対応が戻ってくることもあった。
それでも拝み倒して謝れば、最後は小さく笑って許してくれた。
半年もそんな顔ばかり見ていたくせに、喜ぶだけで少しも分かっていなかった。
いつも自分ばかりが許されてきたのだと。
思いやりはひたすらに、あの小さな手から頭上へと降りそそいでいたことを。



今はいた息さえ、一瞬でカチコチに固まってしまいそうなぐらいの寒さだった。
ちらちらと降り出した雪は律の髪にまとわりつき、柔らかな飾りのようにほの白く光っている。
『雪はね、ひとひらひとひら花の形をしてるんだよ。ほら見て、兄さん』
昔そう言って、服についた六花をふたり仲良くのぞきこんだものだった。
きれいだねと笑い合った誰より近しい人の声が、携帯に届くのが不思議だった。そういえば僕たちはあまり離れた
ことがない、と律は今さら考える。
分かり合えないと思っていた時でさえ、それはお守りのような安心を互いにもたらしていた。

今はこんなに遠くにいるが、心なら寄り添っている。兄弟だからだ。
兄が自分のことを考えてくれる。
それに甘えてもいいんだと知るまでに、馬鹿みたいに時間を費やしてしまったけれど。

あおぎ見る紺色の冬空は果てなく広く、信じられない数の星がまたたく。
とてもちっぽけな自分。
だが空気と同じに気持ちは澄みきっていた。背後には木蓮が美しく枝をひろげ、まるで影絵のようだ。
『これはね、友章の10才の誕生日にふたりで植えたんだよ』 とさっき睦が教えてくれた。
思い出のあるその木に宿った彼は、弟の長く苦しい生涯にだまって寄り添ってきたのだ。

『僕も、もし死ぬような事があれば律をずっと見守ると思うな。だからその人の気持ちはよく分かる』
「縁起でもないこと言わないでよ兄さん。それに見守るんなら高嶺さんとかじゃないの」
『ツボミちゃんはそういうタイプじゃないからさ…うん、そこはやっぱり律なんだ』

とんでもない事を告げてくる兄の声は優しかった。母屋からもれる明かりを頼りに話をしている。
ここでは兄の携帯が一番明るく光った。寒くないの律?と聞かれ、そうでもないよと笑う。

家の電話を鳴らすと分かっていたかのように兄が出た。
今日こっちへ来てから起こったことを全部話した。この屋敷がどんな所か。依頼主の語った過去。彼の兄である
志方睦という霊の願い。律がこうすればと申し出た事。霊幻とのいさかいの顛末。
あいた片手は木蓮の幹にそっと触れていた。こうすれば木の中に戻ってしまった睦と意識が共有できる。
兄さんの言葉も聞こえているだろうと思った。
長い孤独と無力に耐えてきた彼のことを自分たち兄弟が話すのは、僅かながらの慰めになるかもしれない。

『その人を憑依させて弟さんと話をさせてあげるのに、師匠は反対したんだね?』
「そう。僕に何かあったら兄さんに顔向けできないってさ…自分では出来ると思ったんだけど」
『もちろん律にはできるよ。何だって100%安全てことはないけど、もしもの時は僕が空を飛んで律を助けにいく
から、大丈夫だよ』
「それって兄さんを保険にしてるみたいなんだけど、いいのかな」
『僕がピンチになったら律が助けてくれるから、おあいこだと思う』

兄をピンチに陥れるような相手に自分が敵うわけなかったが、その信頼は嬉しかった。
それにひとつひとつの力は小さくても、協力する事で戦局が変わる場面もある。そういうのも見てきた。
自分に何の力もないと思い込んでしまうのが一番救いようがないのだ。


『それにしても師匠がこんな風になるなんて。なんかもうダメすぎる…』
「兄さんはそう思うんだ。でも僕も 『アンタは保護者なんかじゃないだろ!』 って怒鳴っちゃったけど、冷静になっ
てみると保護責任があるのはやっぱりあの人だしね…無茶はさせられないのかなって」
『そうじゃない、律。そういう事じゃないんだよ』

兄は珍しく饒舌だった。顔が見えない分、きちんと伝わるかどうか不安なのかもしれない。
彼は、律の返事も待たずにとつとつと言葉を重ねる。霊幻について語る。
今までありそうでなかったことだった。
律はそれを、池に映った凍りつきそうな月を見つめながら聞いた。携帯に耳を押し当てた。

『僕にとってあの人は、初めて会った時から師匠だった』
『そういう約束っていうか…そんなので結びついてた』
『僕をかかえこんだ日から、あの人が柄にもなく“いい大人”でいようとしてたのも何となく分かってたんだ…』
『でも、律は違うのに』
『律にとっていい大人である必要なんかどこにもないのに。不器用すぎるよ、師匠は』

“あの人、律に関してはすごく不器用だよね” “あの人も苦しそうな顔をしていたよ”
ついさっき睦に言われたことが思い出された。触れた木の幹が、律に呼応するようにぽうっと温まる。
“そうそう、そうだよ” と睦も一緒になって頷いている。

『ねえ律……僕も最近分かるようになったんだけど、大人っていつも正しくなんかないんだよ』
『師匠だって間違えるし、その時の気分で思ってもないような事を言っちゃったりもするし』
『大人も子供もそんなには変わらないよ』
『師匠と律も、自分で考えてるよりもきっとずっと近くにいる』
『だからね、心配しなくていいんだ』
『律は決めたように進めばいいんだよ。僕はいつでも傍にいるんだから…』

兄さん…という掠れた声に、律は万感の思いをのせた。
これは恋とは違ったものだ。だがこんな風に兄も睦も、死ぬまで、死んでも弟を守りたいと言う。
なんという重荷だ。だがそれを苦にもせず、彼らは太陽のように愛を惜しまない。
(なんか…すごくあったかいな)
ふたりの兄に挟まれているからかな?と律は微笑んだ。志方にもそれを伝えたいという思いを新たにする。

「ありがとう。電話してよかった。兄さんはやっぱりすごいね。世界一だよ」
『えっ…いやいやそんなわけ…あるのかな、まいったな』
「まあ、霊幻さんの100万倍はかっこいいよね実際」

だが幼かった兄をここまで育てあげたのも、今の自分を支える言葉をくれたのも、まぎれもなく彼だった。
霊幻がいつも正しくなくたっていい。それだから好きになったわけじゃない。
嘘でも詭弁でも詐欺でもなんだっていいのだ。
あの人の声で呼ばれたい。それこそが自分の全き欲であり恋でもあった。
単純な、たった二音を聴かせてほしい。たくさんの願いを込めて、あの夏の日のように──…

「律!!!」

一枚の磨きぬかれた鏡のような池。そのほとりにぽつんと立つ白い姿をやっと認めた。
だが細かな雪が乱れ飛び、霊幻の視界をめちゃくちゃに遮る。
目を離したが最後、今度こそ消える気がした。理性はふっ飛び、なりふり構わぬ大声で名を叫んでいた。
こっちを向け律、とそればかり念じながら、おぼつかない足取りで距離をつめる。

顔のところだけがぽうっと明るくて、モブの携帯を持たされていたのかとようやく合点がいった。
きっと色んな事が辛くてたまらず、兄に相談したかったのだろう。
それすら見越して弟に携帯を渡していたモブがまた凄すぎて、あいつに勝てるヴィジョンが全っ然見えねえ…と
霊幻は唸り声をあげた。当たり前ですよとアッサリ言われそうだ。

俺は今どんな顔をしているだろうと思う。
だが息を切らし、とうとう辿りついた人の頬があまりに白く、手袋もしていない手も痛々しくて、霊幻は泣きそうに
なった。
用意した言葉など最初からない。
ただ食い入るように律の顔を見ながら、手に持っていたチェスターコートを無理やり着せかけた。

「ちょ、霊幻さん!?落ち着いてください、僕コート着てますよ!それよりあなたが着ないと風邪を…」
「いいんだよ俺のことなんか」
「だってこんなに寒いのに」
「いいから着てくれ。俺は…俺はな、お前が寒そうにしてんのが苦手なんだよ」

袖も通さないままで、霊幻のキャメルのコートのボタンが手早く留められていってしまう。
背の高いこの人の物だ。ぶかぶかで丈も膝下までくる。
もう体は冷えきっていたが、彼のコートにくるまれた瞬間、律は心からの安堵がこもった息をついた。
無理に屈み込んでいる霊幻の顔がとても近くにある。
よく見えた。彼がどんなに苦しげな顔をしているのかが。
さっきは傷ついた自分の心にばかりかまけて、まったく目に入ってこなかった。

「探しにきてくれたんですね。すみません、ちょっと頭を冷やしたくて」
「頼むから謝んな。俺が悪いにきまってる。でもお前が急に消えたから、頭ん中真っ白になって、二度と見つけ
られなかったらどうすりゃいいって、そればっかり思って…」

ぶつりぶつりと途切れる言葉は、未だ動揺がおさまらないのだと伝えてくる。
律はぶかぶかのコートの中を泳ぐようにしてなんとか腕を通した。
携帯を持たない方の手で霊幻の顔にためらいがちに触れる。彼の白い息が流れ手首にかかる。
ああ、愛しいと思った。許せないことなどひとつもない。

「なにか苦しいことがあるんですか?僕には話せないような」
「律…」
「さっきはあなたらしくなかった。それぐらい僕も気づいてもよかったはずなのに」
「あのな…甘やかすなよ、俺を」
「もういいんです。霊幻さんが迎えにきてくれたから」

ごめんな、ごめんなとバカみたいに繰り返した。それしか言葉が出てこない。何を謝っているのか分かりはしない。
ふれあう指も頬もしんと冷たい。
ちゃんと言った方がいいかと思ったが、生真面目にその都度頷くから、涙が出そうだ。

生きているから取り返しがつく事もあるのだと、その時やっと気づかされた。
それをできずに死んだ者の声を、今の律は繋ごうとしている。
持つ者と持たざる者。生者と死者の断絶を。
(ああそうだ。そういう風になれって、俺がこいつに言ったんじゃねーか…)


その時、律が握っていた携帯から無粋な呼び声がした。
まだ繋がっていたらしいそれに慌てて応答した律は、面白そうに笑い手渡してくる。
「兄さんです。師匠に替われって」
終わった…と観念しつつ、ンンッとひとつ咳ばらいをして「モブか?俺だ」となるべく平静な声を出した。

『師匠、僕の弟を泣かせましたね』
「イキナリ核心かよ。前置きとかないのお前?てか、アー…そう言ってたかやっぱ…」
『律が言うわけないでしょう。だけど僕には分かります。師匠すみやかに一回あの世に行って下さい』
「…すまん。ご期待には沿ってやれんが、今夜のことは全面的に何から何まで俺が悪い」

ふうん…と不穏な空気を漂わせながらも、モブは考え込む様子をみせた。
『そこは認めるんですね』
「ああ。だけど大人の事情でな、律には危ないことさせられねーんだよ」
『なにカッコつけてるんですか。僕が気づいてないとでも思ってんのかアンタは』
「えっ……なにモブくん、なんの話…」
『いつもの僕は人の気持ちなんて全然分からない奴だけど、律と師匠は他人なんかじゃない』

喉がつまる。まだ決定的な事は言われていないのに、完全に負けだと悟った。
どうして子供たちは、知らぬ間にさっさと大きくなってしまうのだろうか。
大人の未熟さばかりが浮き彫りになる。傷つきながらも成長してきたこの兄弟の、それぞれ違った優しさに揺さ
ぶられる。

『万一の事があれば僕が弟を助けます。だから思うようにさせてやってください』
「モブ…お前…」
『今の師匠、本音は言わないし言い訳には僕を使うしすごくかっこ悪いです。でも僕だってツボミちゃんの前だと
そうなっちゃうんだ。全然うまくいかないんだ。知ってます…そういうの何て言うのか』
「……ッ」
『師匠は、律が好きなんですね』

律に背を向けたまま、霊幻は息をのむほどの星空のどこかから雪が降ってくる不思議な光景を見つめた。
風がここまで運んでくるのだ。
ああ…ああそうだよ、と想いの丈をこめて強く頷くと、視界がぼやけた。
あの小さかった子供に、ひた隠してきた恋を暴かれる日が来るなどと、誰が想像できただろう。
だが、認めてしまうと急にすべてが澄んだ。
誰かに知ってほしかったのか俺は、と思った。
その誰かが、自分の弟子で自分以上に律のことを思うモブだったのは当然の帰結のような気がした。



霊幻がこちらを振り返りながらパチンと携帯を畳んだ。
その顔からは、先ほどまでの苛立ちや苦悩はきれいにぬぐい去られていた。
ああやっぱり兄さんには敵わないなと律は苦笑する。幾ばくかの言葉を交わすだけで霊幻に己を取り戻させる。
(でも、僕はこの人にとっての兄さんになりたいわけじゃないんだ…)
羨む気持ちは一生消えないのかもしれない。だが律がなりたいのは、もっと別のものだった。

泣いたのなんかもう遥か昔のことのように思えた。静謐な世界が律と霊幻を優しく包みこんでくれる。
粉砂糖みたいな雪が、髪に肩にと落ちてきた。
「終わりましたか?」ともの柔らかに問うと、頷き携帯を返してくれた。その手がとても寒そうだ。

そのまま二人は声もなく白木蓮の木を見上げた。冬の終わりに咲く花だ。蕾らしきものはついているが、花開く
のはまだ先だろう。
マグノリア。きっと同じことを考えている。
あの日、事務所で灯したキャンドルがこの花の香りだった。これも何かの巡り合わせだろうか。


「お前さ、この木を見に来たんだろ」
「ええ。これは友章さんの10歳の誕生日に兄弟で植樹したんだそうです。睦さんは死後この木に宿って、弟さんを
見守ってきた。今もこの中にいます」
「そっか。で、決心は変わんねーんだな?」
「そうです。僕は博愛主義者でも聖人君子でもないから、誰でも彼でも助けられるなんて思いません。これは僕の
力のの及ぶであろう事案で、個人的感情で僕がやりたいことです」
「そうくるか…」
「すみません、開き直ってますよね。でも僕にやらせて下さい」

そう言って律は、はにかむように笑った。
六枚の白い花弁を内に秘め、今まさに綻びゆく蕾にも似た笑顔だった。
これを止めたら、俺はもう俺を許してやれなくなんだろ…と霊幻は思う。

嫉妬も苦しさも消えたわけじゃない。だが、この花が咲くところを誰より近くで見ていたい。
醜く美しい、これが自分の生の感情だった。
世の中を渡っていくためにあえて殺し、長くそれがある事すら忘れはてていたもの。

「よし分かった。明日の朝、志方のじいさんに話をするからな。ご対面とその後に除霊といくか」
「あの、霊幻さん…兄さんに頼まれたから考えを変えてくれたんですか?」
「いーや。俺はお前がやりたい事を尊重してんだよ。それぐらい分かれ。頼んだぞ、律」
「は…はい!」
「まあでもな。あんまり急いで大人になってくれるなよ」

小声で言い終わるよりも先に霊幻は盛大にくしゃみを連発した。冷凍庫かよ寒すぎっぞとぼやく。
「戻りましょう。すぐお風呂に入ってください。あなたが寝込んだら洒落にならない」
「おう。だけど俺、どうやってここまで来たか全然道を覚えてねーぞ」
「大丈夫です。睦さんが誘導してくれますよ」
律の言葉に応えるように、少し先の常夜灯が点滅した。どうやらそれに従ってここへ来たらしい。


屋敷の結界を越えた時のように、律は霊幻のスーツの袖口を握るとほんの少し先を歩きだした。
なにしてんの律くんと聞かれ、革靴は滑りやすいですからと振り向かずに言う。
本当に、うっすらとはいえ雪が積もった道をこんな靴で走ってきてよく転ばなかったものだ。

「あと布団をそっちの部屋に運んでいいですか?僕、庶民なんであんな大きな部屋、落ち着きません」
「ン?ああ、そうだよな。俺がお前の方に運ぶわ。重いだろ」
「じゃあトランプ持ってきたんで、後でやりましょう。もちろん何か賭けて」
「修学旅行かよ…てか賭けるって、俺金ねーぞ?」
「あなたにお金があるなんて考えた事もありませんよ」

お互いが笑う気配だけが伝わる。
ああ、ずっとこんなならいいのにな。叶わぬ願いにまた胸がきしんだ。

好きと同じぐらいどうしても言えない言葉を、二人ともが口の中でころがしていた。
『春になっても一緒にいたい』
モブが事務所に戻ってきても、律が受験勉強をするようになっても、会える理由を探してみたが、そんな都合の
いい接点は結局どこにも見つけることはできなかった。





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