「あ、雪ですよ霊幻さん!すごく積もってる」
最寄りの駅から一時間、そこでローカル支線に乗り換えてさらに数十分。
常緑樹だろうか、冬なのにだんだん緑が濃くなっているのには気づいていたが、電車が山側にのぼっていくに
つれ、車窓から見える景色は劇的に変化した。

調味市ではめったに見ない雪に珍しく律がはしゃいでいる。その様子に霊幻は『旅行で来てるんならもっといい
んだがな』と埒もない事を考えた。
車内に暖房がよく効いているせいか、律の頬が赤みを帯びているのについ見とれてしまう。

「おお凄えな。律、お前ん家は休みにスキーとか行ったりしないのか?」
「子供の頃はたまに。でも兄さんがあまり好きじゃなかったみたいで…」
「まあそうだろな。あいつにウィンタースポーツを満喫しろっつっても無理な話か」
「僕は別にソリなんかで遊ぶのでも良かったんですけどね」
楽しくないと意味がないし、でも兄さんは僕が無理して合わせてるんじゃないかって思っちゃってたみたいで…と
律は苦笑している。


あの夏の雨の日から半年が過ぎていた。
二人に表だっての変化などはなく、あの時の事は双方忘れたかのように普通に接している。

だが律は、夏休みが終わり学期が始まっても事務所に通ってきてくれた。
さすがに毎日ではなかったが、生徒会の仕事もあり忙しいだろうに、黒い学生服姿で夕方に夜にとひょっこり姿を
見せては『依頼はありましたか』と聞く。
一時はモブと同じに携帯を持たせるかと考えた霊幻だったが、それをやれば律が来る回数が減ってしまう。
ごめんな、と心で詫びながらずるい手段で手元に置いた。最近はそこまで煮詰まってしまっていた。

少し、気持ちの在り方が変わったのだろうか。
硬質な雰囲気の中にわずかの柔らかみを覗かせるようになった律は、以前にも増して人目を惹いた。
惚れた欲目と思いたかったが、そうじゃないから困ったものだ。
実際ここに来るまでも、駅や電車の中で男女問わずチラチラと見られまくっていたのだ。
人を呪えるもんなら呪いたい気分だった。なのに本人は慣れているのか平気な顔をしている。

(またなぁ…なんで今日はこんなにめかしこんでんだ。いくら出張だからって)
オフホワイトのダッフルコート。千鳥格子のマフラーをふんわり巻いて、中に着ているワインレッドのセーターも
シックで似合っている。
ジーンズとハイカットの靴は反対にカジュアル目。
まさにカッコ可愛いという絶妙のラインを押さえたいでたちだ。

『ちょっと田舎で寒そうだから、あったかくして来いよ』と言ったのは確かに自分だが、駅で落ち合った瞬間、頭を
抱えずにはいられなかった。
律をその辺の奴らに見せるのが嫌すぎて、どっかへ攫ってやろうかと本気で思ったほどだ。
いつものうさん臭げな顔の下、霊幻がこんな事を考えているとは誰も気づきはしないだろう。


カタタン、カタタンと揺れながら斜面を登っていく電車は、街中では考えられないぐらいゆっくりだ。
その速度が丁度いいと律は思う。
早く着くのは便利だけど、大事なものを見落としてしまうから。
以前の僕なら合理的じゃないって馬鹿にしてたのかな…とも考えた。ゆらゆらと小さな幸せに浸るのがこんなに
気持ちいいなんて知らなかったのだ。

(それに、今ほど一緒にいられる時はもうないはずだから)
元々、自分は一時的な代役だった。受験が終わり春になれば兄は霊とか相談所に戻ってくるだろう。
このポジションを返したらきっとめったに会えなくなる。
お前は俺にとってもう誰かの何かなんかじゃない、と霊幻に言われたのを忘れたことなんかないけれど。
やっぱり無理だ。兄のつくった場所に居座るなんてできそうにない。

でも好きだから、今はこの人の役に立ちたいという決意が律の中には芽吹いていた。
初めての恋を後悔ばかりで終わらせるのなんか嫌なのだ。
強くなりたい。一途な願いは、静かにひたすらにこの胸を灼きつくしていく。


雪の積もった山側へ夕方になって行こうとする者は少なく、車内に客はまばらだった。
緑色のびろうどの張られた古い座席に二人は並んで座り、ずっと他愛もない話をしている。
傍から見たら何に見えるのだろう。年の離れた兄弟か、親戚だろうか。

「お前、今日はえらくかわいいカッコしてんな」
「そうですか?依頼主がお金持ちの地主さんだって聞いたから、普段着みたいなのもまずいかと思って」
「そういうとこまで頭が回るのがすげーよ」

聞かれ、そ知らぬ顔で律は嘘をついていた。
『ちょっと遠いんだけどな、除霊の依頼が入ってんだ。冬休みだし一緒に来てくれねーか、律』
年末最後に会った時、霊幻にそう頼まれてどんなに嬉しかったかしれない。
相手方から一泊していいという申し出があったからなおさらだった。出張で泊まりだ。
女子じゃあるまいし…と自分でも気恥かしくなったが、着ていく服はものすごく悩んだ。

『助手なんだし、あんまり子供っぽく見えたら恥をかかせるかも』
『でも、僕がいくら大人ぶったっておかしいだけだよね』
『それなら霊幻さんにいつもよりかわいい格好してんなと思われた方がいい…かな』

本当は彼のグレーの皮手袋を見て、自分のミトンがひどく子供っぽいと感じ凹んだのだ。
兄とお互いに選んだ物だから大切にしていたけれど、今日は別のにすればよかった。
服と色は合っていたからつい身につけてしまったのだ。
霊幻はいつものスーツだが、上背があるのでチェスターコートが似合っていた。こっそり何度も見てしまう。


「資料読んどいてくれたよな、律」
「ええ。依頼主は志方友章89歳…と言いたいとこですが、最初に依頼してきたのは志方氏の甥や姪だったそう
ですね。叔父の家を訪ねると必ず怪異現象が起き、中へ入れない。霊の仕業ではないのかと」

ところがその後すぐに連絡があり、依頼は志方友章本人からのものに差し替えられたのだ。
まあ確かに、血縁とはいえ他人の家の除霊をしろというのもおかしな話だけど…と律は思う。
色々妙にしっくりこない。だが今のところ、自分たちは紙に書かれた情報しか持ち合わせていないのだ。
行ってから探り出すしかないし、そっち方面は口の達者な霊幻に任せておけばどうにでもなるだろう。

「志方さんと電話で話したんですよね。どんな感じの人でした?」
「ああ何か食えないじいさんでな。『甥や姪がうちに入り込もうとすると邪魔されるんだよ。あの子らが連れてきた
人間も屋敷には入れないようだ。私を守っているのかな』だとよ」
「それって霊の存在を認識してる?」
「さあな…俺も霊がいるって信じてるのか聞いたんだけど、こんな古い屋敷だから一人や二人いるんじゃないか
ってはぐらかされた」

ううーん手強いですね…と律は顎に手を当てて考えていたが、急にハッとしてこちらを見た。
「えっ…甥や姪の連れてきた人間も屋敷に入れない?それって誰の事です?」
「それについてもだんまりだ。あなた達がここへ来たらお話しますだと。言ってる意味分かるか」
「うわあ…僕らが偽物の霊能力者だったら屋敷には入れないし、会うこともないから話す必要ないって事じゃない
ですか」
「お前、ほんとに賢いよな」

律の飲み込みの早さに霊幻は舌をまいた。モブと出張の時は依頼内容を前もってこんなに説明したりしない。
何しろモブの超能力は出力がデカイので、言ってみれば力まかせに解決してきたわけだ。
(だけど、適材適所。役割分担してコイツにはどう行動するか自分で考えさせた方がいいか)

「しかも俺たちが偽物でも、志方のじいさんは甥や姪の苦情にちゃんと対応したって体裁は保てるもんな」
「自分にデメリットはなしとか狡猾な人だな…利用されるのもバカにされるのも嫌いなんですけど僕は」
「おいおい、律。頭ん中はクールにしとけよ」
「分かってます。どうせ僕らは本物じゃないですか」

普段はもの静かなくせにプライドが高くて、軽んじられると気の強さがわっと前面に押し出てくる律。
コイツのこういうとこが好きだと霊幻は思わずにいられなかった。
僕らは本物だという言葉。霊能力者という意味ではなくてもさりげなく認められている。
(俺にも俺にしか出来ない事があって、そこはプロだと信用してくれてんのかね…)

「とにかく霊の探索は僕がやりますから、霊幻さんは喋る・騙す・塩を撒くを頑張ってくださいね」
「お、おう…?」
「霊じゃなくて人間が危害を加えてくるかもしれないし」
「それな。そこまで分かってんのなら、なおさら無茶してくれるなよ。大人の腕力には敵わんだろが」
「僕が超能力持ちだなんて誰も知りませんよ。自分とあなた一人ぐらいは守れますから、安心してソルトスプラッ
シュを」
「律君の頭ん中の俺のイメージ、塩しかねーの」
「相手を煙にまいてる間に核心に迫るのが霊幻さんの武器でしょう」

車掌ののんびりとした声が目的地をくり返し告げている。それをBGMに律は口端だけで軽く笑った。
たった二両の電車は、雪に覆われたひなびた駅へゆっくり吸い込まれていく。
ああ、俺はいつまで黙って見てられるんだろうな…と霊幻の胸はきしんだ。
ふくふくと暖かそうなミトンに包まれた手を、離さずにいられる術がもしあるのなら。それがどんなにずるい手段
でも自分は構わなかったのだ。



駅には志方家からの迎えの車が待っていた。それに乗っているうちに山の中腹に広壮な邸宅が見えてきて、
霊幻も律も度肝を抜かれた。
「なんですかね、あれ…家っていうかむしろお城?」
「屋敷って言葉すら追いついてねーとかマジ凄えな。庶民には理解できないスケールだぜ…」
「何人で住んでるのか知らないけど、不経済すぎてなんかもう逆に面白くなってきましたよ僕」
二人のひそひそ話を耳にした運転手が笑いながら「この山全体が志方家の持ち物ですよ。今はもうこういう
大地主さんていなくなりましたねえ…」と教えてくれる。

ものすごく古い日本家屋という外観なのだが、巧みに修復して昔の風情を保っているだけで、中は近代的かつ
快適らしい。
それにしても広い。玄関でチャイムを鳴らしても家人が出てくるまでに30分くらいかかりそうだ。
雪の積もった石垣が遠く長く連なっている。
車から出たらものすごく寒いだろうなと律は思った。とても遠い所まで来てしまったような気がした。

幾つも門はあるらしいのだが、駅からの最寄りのものを抜け、車はどんどん敷地内を走っていく。
たくさんの木々は雪で隠れて寒そうにしていた。だがそれぞれ緻密に計算して配置されているのだろう。
いったいこの建物全体のどの辺りなのか見当もつかないが、ようやく車はとまった。
そこで運転手が、困ったように眉を寄せながら後部座席を振り返る。

「あの…話は聞いておられるでしょうが、ここまでお連れしても屋敷に入れなかった方が大勢いまして…」
「運転手さん、あんたは入れるんだよな?」
「はい。私にも訳が分かりませんが何か不思議な力が働いているようで…でも家人には何も起こりません。拒絶
されるのは…」
「旦那様に対して含みのありそうな人間だけってか」

その時、律がさっさと車のドアを開け一人外へ出た。長めの前髪の下、目を眇めながら屋敷を見ている。
「どうだ、何かいるか?」
「いるかいないかと問われれば、完全にいますね。でもなんか」
「んん?」
「僕が思ってたのと全然ちがったな…」
きれいな空気、きれいな家…と歌うように律が呟く。子供みたいな感想だった。てことは悪いモンが取り憑いてるっ
て訳でもないのか?と霊幻は首をひねる。

「でも俺、さっきからすげー入りたくないんだけどあの家に。正直怖い」
「そういう呪いがかかってますね。気に入らない人間はそう思い込まされるんでしょう」
「気に入らないって、誰にだ?」
「それはいいから。さあ行きますよ」

玄関から数十歩という所で立ち止まると、律はまるでそこに障壁があるように空に手をかざした。
「ちょっとだけ破ります、霊幻さんは僕と一緒に入って」
そう言い、こちらのコートの袖口をぎゅっとつかむ律の指なし手袋がやたら可愛く見えて困った。
そんな霊幻の煩悩をよそに、これまで訪問者を選別しまくってきた結界は律の力ですぱっと切り裂かれた。急いで
修復されたようだが時すでに遅く、二人は敷地に入ってしまっていた。



霊幻と律が玄関に入ったことに運転手は驚きながらも、執事のような格好の中年の男性に引き渡した。
「どうぞ、大旦那様のところへご案内いたします」
うさん臭そうな男と子供を相手に礼儀を崩さないのは立派だな。そう思いながら霊幻は歩き始めた。
屋敷の中はとても暖かくて明るい。家の内装は実に瀟洒なもので、上品な中にも金がかかっているのがはっきり
見てとれた。古式ゆかしい城みたいな外見とはえらいギャップだ。

律は黙って少し後ろをついてくる。霊の気配を探っているのだろうか。
コートを脱ぎ、ワインカラーのタートルニット姿になるとそのほっそりしたラインにドキリとさせられた。
いつもは学生服だから、実際より着膨れて見えるのだろう。

(コイツにばっか頼ってるんじゃ大人の面目たたねえな…)
そんな風に思うのは、律がいつも一生懸命だからだ。夏以来、二人で仕事をしてきたから知っていた。
いつもコイン3枚しか受け取らないくせに、決して手を抜かない。
役に立とうとしてくれている。その気持ちが自分の抱くものとは違っていても、やはり嬉しかったのだ。

急に暖かな屋内に入って気が緩んだのか、そんな事を霊幻が考えていた時だった。
長い廊下のつき当たりに飾られていた重そうな壺がふわりと宙に浮いたのは。
それは先を歩いていた家令の男性を器用にすり抜けると、猛スピードで霊幻に襲いかかった。
油断した。うわっ!!?と叫び声をあげながら、せめて頭を庇おうとする。
自分に与えられる痛みを覚悟した。だが。

「………あ?」
霊幻の手前30センチほどの空間で壺は止まり、なおもそこを抉ろうとゴリゴリ動いていた。
結界、バリアー、何と言うのが正しいのか知らないが、それが攻撃を阻んでいる。
パリッパリッと漏電するような音と光が放たれ、次の瞬間、壺は爆散した。割れるなんて可愛いものじゃなかった。
だがその残骸もひとつも霊幻には届かない。

「わあ、怖かった。霊幻さんありがとうございます。ちゃんとガードしてくれてたんですね!」
呆然としていたところへ律のわざとらしい棒読みセリフが聞こえ、ええ〜?と思いながら振り返る。
律の唇だけが動いて何かを言っている。し・お。ここで塩かよ!と霊幻は泣きたくなった。

お客様お怪我は!?と血相変えて駆け寄ってきた男に、「ああ何ともありません。なかなか凶暴な霊ですな。こら
しめるために一旦清めときますんで」と意味ありげに答え、懐から取り出した食卓塩を激しく撒き散らかす。
掃除が大変で嫌がられそうな技NO.1のソルトスプラッシュだったが、たった今怪異現象のぶつかり合いがあった
せいか、とても感心した目つきで見られている。
背後では霊幻先生かっこいい!と律が拍手していた。コイツも詐欺師向きだとしみじみ思った。



通された部屋は書斎という感じで、棚のたくさんの本と香りのいい薪が燃えさかる暖炉が印象的だった。
屋敷の主は車椅子に乗っていた。小柄なもはやしなびたような体に、そういえばこの人はもう90歳近いんだったと
律は思い出す。だがその目は生き生きとしていて、ユーモアたっぷりという感じだ。
一筋縄ではいかないがなかなか魅力のある人。そんな風に見てとる。

「遠路はるばるようこそ、霊幻先生。おや、かわいい少年探偵を連れているね」
「霊幻新隆です。初めまして。こっちは私の助手で影山律。この子もとても力が強いので同行させました」
「ほう…それは頼もしい」
律は何も言わずにただぺこりと一礼した。ただの子供と見くびられる方がむしろ有利だ。
自分が口を出すような場でもないし、その隙にいろいろ観察しようと無表情の下で決めると、霊幻と共にすすめ
られたソファに座った。

「腹を割って話そうか。失礼ながらあなたがここまで来れるとは思っておらんかった。もう何人も甥や姪が霊能力者
と名乗る人間を連れてきたが全部箸にも棒にもかからんような連中でな」
失礼ながらと前置きして失礼なことを言う老人に、霊幻が苦笑いをする。
「まあ、自称霊能力者というのは多いし、真贋を確かめるのも難しいもんです」
霊幻さんがこういう事言うともう訳がわからなくなるな…と律は横でこっそり辛辣なことを考えた。

「で、この家にはやはりいるのかね。いやもう先刻、妨害を受けたようだが」
「いるかいないかと問われれば完全にいますね。ですが志方さん、除霊してしまっていいんですか」
霊とはいえあなたに不利益がないように動いてる気がするんですけどね…と霊幻が一気に切り込んだ。
それもそうだな、と律は向かいに座る老人へと視線を流す。
依頼主の望みが本当は何なのかは、ハッキリさせないといけない。
(除霊をしたがってたのはこの人じゃない。そのままにしてくれって言うかな…?)

そこへ家令の男性がお茶を運んできた。紅茶らしきポットと大きなアップルパイののった皿が出される。
「律くんお腹がすいてるだろう?この後すぐに夕食を運ばせるが、とりあえず食べなさい」
私は子供がお腹をすかせてるのが嫌いでね…と志方に言われ、ちょっとびっくりしてしまった。
だがお茶受けとしてはボリュームのあるそれは、確かに自分が空腹なのを思い出させる。
じゃあ遠慮なくいただきますと言い、フォークをいれると湯気が立っていた。焼き立てらしい。


律と霊幻がもぐもぐやっている間に、志方はある程度の事情を話してくれた。
彼には子供がおらず、二人の弟とその子供たち…つまり甥や姪には早いうちから財産を分与していた。
その辺、ケチではまったくないようだ。
むしろ金が要るのは若いうちだ、年寄りになってから金が入っても仕方がないという考えらしかった。
なのに人間の欲というのは果てがないらしい。
二人の弟はもう亡くなったが、残された甥や姪はこの土地と屋敷まで欲しがるようになったという。

「なかなかえげつない話ですなあ」と、霊幻は紅茶を飲みながらあけすけに言い放った。
「庶民には理解しづらいが、1億持ってても目の前の100万が要らないわけじゃないって感じですかね」
ちょっと霊幻さん…と律は脇を小突いたが、志方は面白そうに笑っている。
だがその老いた顔には疲れのようなものが見てとれた。この年で、よくしてやっていた身内に金のゴタゴタを起こ
されたのはやはり辛かったのだろうか。

老人の背後には大きな出窓があり、雪化粧をした庭が一望できた。
たくさんの樹木が植わっている。なのにその中で、池の向こうの背の高い木に律の意識は吸い寄せられた。
葉がひとつもなく、細い枝が絡み合うように張り出したそのシルエットは、まるで絵本の情景のようだった。

「彼らが連れてきて屋敷に入れなかった人物ってのは、不動産屋か何かですか」
「ああ。あと高級な介護施設のオーナーも連れてきとったらしいぞ。私をさっさとお払い箱にしたいんだろうて」

子供の前でするような話ではないなと志方が言うので、いえお気遣いなくと律は返した。
反吐が出るなあとは思うものの、世の中そうきれいごとばかりでは済まないのだろう。
霊幻の事務所に依頼を持ち込む人間をいろいろと見るうちに、少しは分かるようになっていた。

それにかつては、喉から手が出るほど欲しいものが自分にもあったではないか。
欲望の禍々しさは我が事として全身に刻まれている。人はみんなずるくて弱くて身勝手なのだ。
(それでも、僕は)
誰かを傷つけた過去をあがなう事はできなくても。
お前はお前の名前みたいに生きろと言った霊幻の声を思い出す。
それだけで、律の中からすっといらない雑念は抜けていく。自分の仕事はただ真実を見極めることだった。


「僕もお聞きしてもいいですか」
「うん、勿論だ」
「今だけでなく過去に、あなたに不利益をもたらす人間にこの家の霊が何かした事はありましたか?」

ああそうか、今だけじゃねーのか…と霊幻は思わず小さい声をもらした。
一瞬、律と視線が絡み合う。おう、もっとやれやれとそそのかすように笑いかけてやる。
志方がすうっと息を吸い込む音がした。遠い眼差し。まるで時間をたぐり寄せているかのようだった。

「そう、昔から何度もあったね。だけど今までは…イタズラみたいな感じだったんだよ」
「イタズラ?」
「やられた人は怖いかもしれんが、驚かせて面白がるみたいな風だったし、そう頻繁でもなかった。まあ年に1・2度
ぐらいだな」
「それが今回は妨害したり攻撃したりか…ここの霊は怒ってんのかね」
「そうですね…今までと違って直接的すぎますよ」

大まかな事は分かってきたな…と霊幻はすばやく考えをめぐらせる。
ここの霊が何者か知らないが、高齢になった依頼主への仕打ちを余程腹に据えかねたのだろう。
(最初にこのじいさんが言ったとおり、守ろうとしてんだな…)
その時間稼ぎに志方ものった。甥や姪の要求に対し結論を先延ばしにしたくて、霊のはりめぐらせた結界の中で
籠城していたというのが本当のところか。

(時間稼ぎっつってもなあ…やろうと思えば、志方は自分が死ぬまでこうしていられる)
ちらりと律を見れば、どうやら同じような考えに至ったようだった。
軽く頷いてみせてから「まあまずは調査ですな。霊と接触できるか試してみますので」と言う。

「そうだな。もし接触できたとして、除霊するかどうかは保留にしておいてくれるか」
「ええ。でも俺たちに危険が及べばそれは保障できませんな。あなたは引き籠っていたいんだろうが、こっちも万能
じゃないんでね」
「はっきり言うね。だがその方が信用できるよ」
「何でもそんなもんでしょう。出来ることと出来ないことがある。最善は尽くしますよ」


会談はいったん終了となった。
二人には離れに宿泊の用意をさせてある。調査に必要なら一泊といわず何日か滞在してくれて構わないと言われ、
時間も稼げたなと霊幻は息をつく。
さっきいきなり実力行使に出た霊だ。慎重に動かなければ、何をしてくるか分かったもんじゃない。

それに今回の場合、放置するのが依頼主の気持ちに沿うのかもしれねーなと正直思わされた。
自分たちの仕事は霊についてのトラブル解決だが、結局は安心させるという事に繋がる。
何がなんでも除霊するのだけが正しい答でもないし、この老人が死ぬまでここに閉じこもりたいのなら、勝手に
すればいい。
(それに、律にあんま危ない事をやらせたくねーしな…)
それが恋する人間特有の身勝手な思考だということに、今の霊幻はもう気づけなくなってしまっていた。

その時、隣に立っていた律が目の前をすいと横切り、出窓の方へと歩み寄った。
外に厳しい視線を投げている。まとう空気までぴんと張り詰めているのが感じ取れる。
「どうしたね、律くん。何か気になるかい?」
「志方さん。池の向こう側の一番背の高い木……あれが何の木か知ってますか?」
老人がビクリと身を震わせるのを霊幻は見た。
律の言葉は確かに何かにひっかかったのだ。だが次の瞬間、表情はもうきれいに取り繕われていた。

「木蓮だよ。まだ時期は早いが、白い大きな花が咲くんだ」
「そうですか。ありがとうございます」
律も深追いはしなかった。あっさり引き下がると、行きましょうと逆に霊幻をうながして退室する。

「なんだったんだ今の?」
小声で聞くと、律は難しい顔をしたまま「呼ばれました」と言う。
「呼ばれたって、えっなにお前、ここの霊にか!?」
「はい。でも僕お腹がへってるんで、ご飯の後にしてくださいって伝えておきましたから」
「それであちらさんは納得したのかよ」
「うんいいよって言ってましたよ」

なんだそりゃ、凶暴なのかと思えばフレンドリーとかヘンな霊だな…と霊幻は頭をガリガリ掻いた。
同時に、律が早くも自分には見えないモノと対峙していることにひどい不安を感じる。
(持たざる者の苦しみか…)
それを律に分かってもらうには、胸にある想いを吐露するしかなかった。つまりは不可能ごとなのだ。

苦しいな、と霊幻は口元だけで嗤った。
顔が見たい、傍に置きたい、傷つけたくない。もう箱にでも入れてしまっておこうか。
思うがままに愛せないのがこれほど辛いことだったとは。
この年になったって“初めて”はあるのだ。せめてそれは全部この子にやりたいと願ってしまう。

「霊幻さん、離れってどんなものなんです?」
「あーそこだけ独立した建物つーか、風呂とかも専用にあって、客が母屋に行かなくてもいいようになってるんだと
思うぞ」
「すごい、貸し切り旅館みたいだ」

白いコートを腕にかけ振り返る律は、また少し旅行気分が戻ってきたのか明るい声で話しかけてくる。
そのすべてを、綺麗だと思った。
抱きしめることも口づけることも永遠になくとも、これが自分の最後の恋だった。




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