目をあけるよりも先に叩くような水音が意識に入りこんできた。ああ、雨かと曖昧に思う。
自分がどこにいるのかも判然としないくせに、そのまま眠っていたかった。
ここは、大丈夫という奇妙な安心感。
こわいという気持ちに耐えながらずっと生きてきたくせに、そんな臆病な心がいやだったのに。
今は不揃いに落ちては地で弾ける幾億の雨粒が、小さな律を囲み、守ってくれている気がした。
だから大丈夫。
こんな天気も嫌いじゃない。こうしていると落ち着くし、うまく呼吸ができるから。


重い瞼をあげると部屋の中は薄暗かった。
なんで電気ついてないんだ…と思うが、真っ暗ではないしまだ昼間なのだろう。時計を見た。3時半。
だんだんと記憶が蘇ってきて、ああ除霊のあとで眠ってしまったのか僕はと知る。
身を起こすと、かけられていたスーツの上着が落ちそうになって慌てた。
あの人のだ…と手繰り寄せた瞬間、ほんの微かに煙草の匂いがした。ここで吸っているのを見た事ないが、
喫煙者だったらしい。

「霊幻さん……」
雨がひどすぎて律の呼ぶ声はどこにも届きそうになかったのに、簡易キッチンからガタガタッと何か取り落とした
ような物音がして「おう、こっちにいるぞ」と応答があった。
起きたんだな、ちょっと待ってろと続けて言われ、律はスーツの上着を膝に乗せたまままたぼうっとする。
クーラーも止まっているから暑いはずなのに、これだけの雨が降ったせいか気温は奪われ半袖では肌寒い。
すべてに陰影ができている部屋の中は、まるで別世界のように律の目には映った。
先刻、祓ったばかりの日本刀はまた刀袋に包まれ、もはやただの物として静かにデスクに横たわっている。

「まだ眠そうだな、大丈夫か律」
そう声をかけてくれた霊幻は湯気のたつカップをふたつ持っていた。片方を貰うととてもいい香りがする。
女性客に除霊と称したマッサージをする時に出すハーブティーだった。
一口含んで、ほっとするのを感じる。厳密に言うと美味しいものではなかったが、リラックスするのは本当だなと
初めて分かった。
こういう物をひとつずつ知りながら、自分も大人になっていくのだろうか。


「停電したんですか、これ」
「ああ、今もひどいけど最初はいわゆるゲリラ豪雨ってやつでものすごい降り方しててな。でかい雷が落ちてやら
れた。まあ小降りになるまで辛抱しとけ。午後の客もキャンセルしてきたし、今日は店じまいだな」

外はあの豪雨だというのに、律がピクリともせずに眠り続けるのが霊幻は少し怖かった。
停電してからは薄暗い中で白い頬だけが目立ち、息をしているか確かめるのに顔に触れてしまったほどだ。
その温かさに安堵し、同時につるっとしたきめ細かい肌にヤバいぐらい心臓がスキップした。
ああ、何だかなと天を仰ぐ。
悪いことはしてないが、心情的には充分やましい事をやっている。
モブにぶっ飛ばされんぞと思いつつも、上着で律をくるんでやった。女の子にもこんな事した覚えがない。
いや、誰かの顔を飽かずこんなに見続けたのも初めてのことだった。

「兄さんは降られなかったかな。あの後すぐに帰りました?」
「ああ、道草くってなけりゃモブは心配ねえよ。それよりムリさせたな。体平気か」
「そういう心配されるって事は、兄さんに比べて僕はまだまだって事ですね…」
「バカ、誰とも比べてねーよ。俺は、お前が」
「知ってます。僕が比べてるだけだ」

くすりと笑う律の顔が見えづらく、苛立ちにも似た感情に掴まった。霊幻は引き出しからある物を取ってくると、律と
自分を隔てるテーブルの上に置く。
雰囲気重視のため、これに火をつける時はいつもライターではなくマッチを使っていた。
「アロマキャンドル…またあなたはそんな商売道具ばっかり使って…」
やんわりと律は窘めてきたが、小さな炎がともるとテンションがあがったのか少し嬉しげな顔になる。

「でもいい匂いだ…花の香り?」
「だろ。気分も少しは明るくなるしな…マグノリアって書いてあったぞ」
「マグノリア……ああ、木蓮か。木に咲く花ですね。こんな香りなんだ」
「物知りだな。お前、勉強が好きってより知識を得るのが好きなタイプか?」
「そうかも。そういう風に思われたいです…100点とったから凄い人じゃなくて、色んな事を知っていてそれを上手に
使える人になりたいっていうか」

ちらちら動く小さな炎。微かだけれど暖かみまである。ぼんやりと流されるまま答えた律は、それってこの人の事
みたいじゃないかとハッとした。
だが向かいで頬杖をつく霊幻は、そこまで深読みしなかったようだ。
真っ黒な律のそれとは違い、彼は髪も目の色も明るい。柔らかなロウソクの光が映えていた。
雨は降り続く。どこにも行けない二人はだからここにいる。膝にかかった上着を返せない。返せとも言われない。
大人の男のひと。子供の自分。
だけど本当は、そんなのどうでもいいんじゃないだろうか。


「霊幻さん…僕は、今日兄さんにちゃんと出来てましたか?」
「うん?」
「普通の、兄弟みたいに。分からないんです。前よりもっと分からなくなった。どういうのが普通なのか。兄さんが
喜んだり褒めてくれるとそれが正解なのかなって思うけど、そんな事考えるのがもうおかしい…」

突然何を口走っているんだろう。弟子の弟でしかない自分にこんな事言われてきっと驚いてる。情緒不安定な奴
って思われてる。冷静な自分はそうストップをかけるのに。
霊幻が身を乗り出し、律の話を聞く態勢をとってくれるから、つい甘えたくなるのだ。
職業病みたいな反射的なものでも。
兄と過ごしてきたから慣れっこなのだとしても、それを持った事のない律には嬉しくて胸が痛むほどだった。

「モブのことが大好きなんだな、お前は」
「え……」
「昔なぁ、あいつがここに初めて来た時に『自分の力が怖いんです』って俺に言った。何度も何度も『こんな力いら
ない』って。やっと話したのは半年後だったか…力が暴走して弟にひどい怪我をさせてしまったんですって」

霊幻のスーツで覆われた膝の上で、律の指が忙しなく何度も組み替えられる。
神経質な動き。カウンセリングみたいな仕事柄、分かっていた。これはひどく繊細な場所だと。
誰かに触れてほしい。でもかさぶたを剥がすのは痛みを伴うから、律はひどく怖がっている。
(それでもな。お前の心に触るんなら、俺がやってやる)

何日も何日もふたりで過ごすうち、律は色んな表情を見せるようになっていた。
繕わない生の感情は、かたちを整えもせずにぶつかってきて、霊幻の巧みに隠した感情を揺さぶる。
過程だけならモブの時と同じだったかもしれない。お互いを知り、いい意味で雑になり、妥協点を見つけ、特別な
他人になっていく。

だがこの熱っぽく急かされるような思いは、どっから来たんだと問い質したくなるようなシロモノだった。
さっきの除霊の時も、本当は怖かったのだ。
モブや芹沢が除霊をする時もヤバイと思ったら撤退させるし、心配だってしないわけじゃない。
だが今日は、律が何と戦っているのか、自分には全く見えない事が怖かった。
モブが弟を必ず守るという確信がなければ、手に負えなかったと謝罪して刀を依頼主に返していたところだ。

こんなガキに何を、と霊幻の常識的かつ事なかれ主義な部分がわめいても、制御できそうにない。
お前なにしたの俺に?と律に聞きたかった。


「俺はさ、お前のこと知らないから目の前のモブの悩みばっか聞いてきたし、アイツが本気で力をふるうとどうなる
のかも知らなかった。小さかったお前がどんだけ痛くて怖かったか考えた事もなかったんだよな…」
「それが普通です…あなたにとって僕はただの弟子の弟で、」
「でも今はそうじゃねーからな。俺にとってお前は影山律で、誰かの何かなんかじゃ、もうない」

しんどい事があるんなら言えよ、未成年のうちは相談料はタダにしといてやるからと早口でまくしたてる霊幻がおか
しくて笑ってしまった。そんな事ばかりやっているから儲からないのだ。
本当は、もっと器用に立ち回れるくせに。

「………へんなひと」
そのたった5文字は、鈴の音のように軽やかに澄んで、律の唇から零れ出た。
降りしきる雨など妨げにもならなかった。炎の向こう側で霊幻の目が見開かれ、ああちゃんと届いたと思う。
花のごとく綻びゆく、己の感情。

「霊幻さんて、階段の踊り場みたいな人ですね」
「なんだそりゃ、褒めてんのかけなしてんのかどっちだ」
「褒めてる…のかな。誰だってみんな一度に天辺までは上れないじゃないですか。だけど途中で休ませてもらえる
と、またそのうち上っていけるようになる…」

ああだけどそれは、いずれ皆が上を目指してまた歩き出すってことだ…と聡い律は思い至った。
いつでもここにいるこの人に安心して、いってきますと言って立ち去ってゆく。
たまには顔を出す者もあるだろう。だがずっと彼と一緒にいてあげる人間はいないのだ。
この事務所でひとりひとりを見送っては取り残される霊幻を想像した。いずれは兄も芹沢も己の人生に踏み込んで
いくだろう。自分なら寂しくて耐えられそうにない。
(それでもこの仕事を続けてるってことは、やっぱり人が好きなのかな…)

もうぬるくなったハーブティーで唇を湿らせるようにしながら、律は不思議な思いに囚われていた。
うさん臭い、口ばかり達者、出たとこ勝負、兄をいいように使っている。
それがこの男の印象で、どちらかといえば潔癖な性格の自分とは相容れないはずだったのに。
この夏の雨がやまなければいいなんて、どうかしてる。
閉じた世界に二人きりの時間を毀したくなかった。このまま一緒にいたかった。

「あなたの言う通り、僕はあの事故以来ずっと兄さんが怖かった。超能力を得た今は、どれほど桁違いの力なのか
理解したから余計にね。でも僕が兄さんを大好きなのも本当だ…やっかいなもんですね兄弟って」
「でもモブにはお前が必要なんだよ」
「そうかな。僕は兄さんを羨んでひがんで怖がって腫れもの扱いして……心の中は劣等感でいっぱいだった。憧れ
なんてキレイなもんじゃなかった。それでも兄さんと同じものになりたくて」
「同じものってなんだ。超能力者か」

それはそうなんですけど、ちょっと違うかな…と律はぼんやり視線を浮かせる。
頭のいい奴だと霊幻の冷静な部分は考えていた。ありふれた慰めの言葉に簡単にほっとしたりしない。
自分という人間をいやという程分析してある。
15も年下の子供と甘く見てかかればピシャリと扉を閉ざされるだろう。それで一切がお終いだ。
だが、今そこはゆるりと口を開けていた。そして霊幻が他者に対しこれほど言葉を探しあぐねた事はなかった。
目の前の寒そうな程か細く見える少年に、何を言えばいいのだろう。


「兄さんは、僕の世界の基本だったんです」
律はロウソクの火に手をかざした。凍えた指を温めるように。迷った旅人が灯火に惹かれるように。
現実の中の非現実。
そんな場所で虚勢を張っても仕方ないと思うと楽になれた。ただの子供の戯言だ。泡と消える。
「生まれた時から当たり前に身近にあるのに、僕は持っていなかった。だから同じになりたかった」

口に出すと陳腐なものだ。笑われてもしょうがないなと律は思ったが、顔を上げると霊幻が本当に笑っていたの
には驚いた。
馬鹿にするみたいな嫌な笑い方じゃない。心底おかしそうに肩を揺らしている。
それでも少し頭にきた。真面目に聞いてくれてると思ってたのにこの人はと睨みつける。だが。

「あのなあ、世界の基本はお前だろうが」
「……なに言って…」
「自分の名前の意味も知らねーのかよ。本読むのも勉強も好きなくせに」

急に霊幻は立ち上がると律の横にどっかりと座り直した。狭いソファにぎゅうぎゅう詰めになる。
ネクタイの先を邪魔そうに胸ポケットに突っ込み、メモスタンドを引き寄せる大きな手を見ていた。
新しい紙に意外に整った字で幾つかの言葉が書きつけられる。
旋律、法律、規律。
分かるよな?と問われても分からず、首を傾げればまた笑われた。でも今度は腹は立たなかった。

「音楽とか法とか社会生活とか、まあ場は色々あるんだが、その世界における定めのことを言ってる」
「僕の、名前?」
「そうだ。人に示された道、誰もが倣うべき在り方だな」

なんとなく堅苦しい名前だと思うだけで、意味なんか考えた事もなかった。だが今この人の言葉が胸に落ち、丸く
波紋を描いて広がっていくのが分かる。
世界における定め。誰もが倣うべき在り方。
それはずしりと重く、だが目の眩むような輝きを放っていた。身体が震えるほどだった。

「お前はさ、特別な力を持ってる奴の苦しみも持たない奴の苦しみも分かるだろ?」
「霊幻さん…」
「モブにはな、持たない奴の事は分かんねえんだよ。なんで自分の力が羨まれるのか、本当の意味で理解する日
は来ないだろうな。いいものだなんてこれっぽっちも思ってねーし」
「じゃあ僕と兄さんは、結局分かり合えないのかな」
「でも今は、お前が分かってやれるようになったじゃねーか。弟を傷つけたモブがどんな思いだったのか」

人と人が完全に分かり合う事などない。大人になるにつれその諦めの度合いは深まるばかりだ。
それでもと霊幻は思う。こいつが今ごろ超能力に目覚めたのには、ちゃんと意味があるんじゃないのかと。

隣に座る少年の顔を長くつくづくと見やった。これは祈りだ。ただの手前勝手な妄想みたいなもんだ。
それでも夢のように掠めていく光景がある。
さほど遠くない未来に、兄とはまた違うものとなった彼を。その凛とした眼差しを。
自分は馬鹿みたいに信じたがっている。

「そういう人間になれよ。持つ者も持たざる者もみんなが『あんな風になれたら』って思う道を示せ。お前はお前の
名前みたいに生きろ……律」


まるで絵空事のよう。
とんでもない事を言っているくせに、霊幻の目も口調もひどく明るいものだった。
数秒、律の中では様々な思いが渦を巻き、ほとんどパンクしそうになる。
僕に何を期待してるんですかと言いたかった。これ以上何を。反発は当然あるのに。
深い意味を込めて名を呼ばれると、それを強く意識した。ああ多分この先ずっとずっとそうなのだ。
律、という単純な音。
だが彼が呼んでくれるうちは必ず思い出すだろう。あまさず隅々まで響く自分に懸けられた思いを。離せなくなった
その温もりを。
得てしまえばもう、なかった頃には戻れないのだ。

(ああ、ひどいな。こんなに理不尽なものなのか…)
自分の心なのに自分の都合も聞いてくれなかった。予告も気遣いもありはしなかった。
奪われる、という言葉が一番近いのか。これはもはや暴力だ。
想像していたような甘やかなものなんかじゃない。ただただひたすらこの人が欲しいと思う。
嵐のような感情の奔流に茫然と立ちつくしている。

間近にある茶色の目と奥の奥まで見交わすうちに、律の視界はぼやけ、溢れ出た雫は手でぬぐってもぬぐっても
何の役にもたたなくなっていた。
濡れる、滴り落ちる。
自分の形すらなくしてしまう。もうぐちゃぐちゃだ。意味を成さない責めるような声が口から漏れる。
この人は何をしたんだ僕に、と滅茶苦茶に揺さぶってやりたかった。
こんななら、恋なんて知りたくなかった。

『この先ずっと、僕は本当に誰かを好きになる事はないんじゃないかって…』
『この霊幻新隆が予言する!!ある日突然ズドーンと落ちるな』
『そしたらもうお前澄ました顔なんかしてらんねーぞ。泣いちゃうかもな、律?』
『それいいですね。泣くほど、誰かを好きに』


目の前で律が泣き出した。同時にまたもテーブルの上の物がふわふわと宙に浮き、好き勝手に舞い始める。
メモスタンドもペンも二人分のカップも火がついたままのキャンドルも。
「あ…また、力が……」
制御できてないと不安げな顔をする律は、膝にかかった上着が浮き上がったのを必死に手で押さえている。
「どうしよう…また僕はちゃんとできてない…」
「あのなあ、お前は細かいこと気にしすぎなんだよ」

霊幻は自分の上着を手にとると、律の頭からばさりとかけてやった。本当に寒そうで見ていられない。
コイツはずっとこんなだったのかと思うと、弟のくせに甘え下手な子に愛しさばかりが湧きあがる。
ああ、こりゃどうしようもねえな…と嗤った。
全部持っていかれた。人に関する事なら絶対に遅れをとらない、冷静に勝ちに持ち込めるとうぬぼれていたのに
このザマだ。
だが、自分を保てるようなものをたぶん恋とは呼ばないのだ。
涙のいっぱい溜まった黒い目に、言い含めるように直接語りかけてゆく。

「これはお前にとっていい事なんだよ。気持ちが外に出てるし、ほら誰も傷つけるような動きはしてねーだろ」
「怖くないんですか…霊幻さんは」
「全然怖くないな。あとちゃんと出来てないってのは何だよ。今だってお前の兄貴は弟が自慢すぎてはち切れそうに
なってんじゃねーか。これ以上立派になってみろ。モブの奴パーン!て破裂すんぞ」

きょとんとした顔になった律はやがて小さく吹き出した。ふふ…と笑う度に目元の水滴がほろりと頬を伝う。
張りつめていたものが緩んだのを感じた。やっと安心したのだ。
その泣き笑いを記憶におさめると、霊幻は二人の横に浮いていたキャンドルを掴みふっと火を吹き消した。

さほど広くもない部屋はまた薄闇に沈む。
ザアッと叩きつけるような雨音が急に二人の所へ戻ってきた。
黒猫みたいな律が闇に溶けてしまいそうに思えて、かけてやったスーツの上から緩く腕を回す。
抱きしめるという程、感情は込めない。
だが律をとじ籠めたこの小さな輪は、今の霊幻のありたけの我儘だった。

「律、雨がやむまでもっと泣いてろ」
「そこは泣かないでって言うとこじゃないんですか?」

素直じゃないし可愛くもない。
そんな返答をしながらも、律はワイシャツの胸にそっと額を押し当てた。
これくらいは許してほしい。本当は抱きしめられたかったけど、そんな日は決して来ないのだから。

(それでも、僕に泣いていいって言ってくれたのはあなただけだ)
温かな涙がまた頬を流れて落ちる。なのに、ああ僕は笑ってるんだなと思うと不思議な気がした。

雨の音。律と呼ぶこの人の声。書いてくれたメモ。100円玉の詰まったガラス瓶。
部屋には冬に咲く花の香りがしていた。
好きな人がくれたものは、どうしてこんなに幸福をもたらしてくれるのだろう。
だから悲しくはなかった。
この時に終わりなんか来ないでくれと願う互いの心も知らずに、律は額の傷にあたる霊幻の体温だけを感じると、
微笑みそっと目を閉じた。







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