本格的に受験勉強を始めた頃から、兄は除霊のバイトに行く回数が減っていった。
律から見ればあんな胡散臭い男とはこのまま縁を切る絶好のチャンスだと思うのだが、兄は笑い「師匠が勉強に
集中しろって言ってくれたんだよ」と言う。
表情にも声にも。そこには確かな信頼がこめられていた。
血の繋がった弟である律も知らないような時間を、長く長くこの二人は共に過ごしてきたのだ。

学生のうちは家と学校が世界のほとんど全てだ。息が詰まるが、何とかそこで上手くやらなければならない。
だが、兄には別の場所があった。彼が探して見つけた人だ。

「でも、師匠にも手に負えないような除霊の依頼が来たら困るだろうな…」
「まあそこは上手く回避するんじゃないの。兄さんと知り会う前からあの事務所やってたんだし」

幾らなんでも霊幻に霊能力がない事ぐらいはもう兄にも分かっているだろう。それでも彼はその部分をやんわりと
誤魔化しながら喋る。
多分、関係を壊したくないとかそんな事を考える時期は二人の間で過ぎてしまったのだ。
(それって家族並みって事なんだけどね…)
気づいて律は憮然とする。兄に対する感情は単色には程遠かったが、大切であるのは変わらない。
だから面白くないという子供じみた感情だって湧く。表に出しはしないけれど。

兄は好きな牛乳の入ったコップを持ってしばし考えていた。律はミルクコーヒーのマグ。
そんな苦いのよく飲めるねと言われるが、砂糖もミルクも入ってるからただのカフェオレだ。慣れればおいしい。
それにコーヒーはなんとなく大人の味のような気がした。バカみたいだ、我ながら。

「ねえ律、たまにでいいんだ。師匠の仕事を手伝ってあげてくれないかな」
「…はあ!?なに言ってるの兄さん」
「律は生徒会の仕事もあるし、毎日のようにとは言わないよ。気が向いた時に行って師匠の様子見てあげてよ」

勉強にもなると思うんだよねと兄は言う。ほら、律は超能力の使い方はだいぶ覚えたみたいだけど、霊関係は
ほとんど経験ないしさ…と。
確かに、と思う部分もあった。
普通に生活していたら、そうそう霊がらみの事件に出くわす事はない。
まああのインチキ事務所に持ち込まれる案件はほとんどが依頼主の気のせいらしく、霊幻にマッサージをされて
スッキリ帰っていくようだったが。

「そうだね…僕のせいで兄さんも霊幻さんもひどい目に遭わせてしまった。もしかするとまたそんな事もあるかも
しれない。僕は自分を鍛えておくべきだ」
「いや律!そんな深刻な話じゃないよ。そんな事思ってない!僕はただ、律も正しく力を使えたらって」

うん分かってる、分かってるよ兄さん…と目を見ながら繰り返した。
兄の心がこれほどつよくなったのは、あの人の影響が大きい。彼がなるべくまっすぐ育つようにと、添え木のよう
に傍にいた。
師匠という呼び方はダテじゃなかった。
(まあ相性ってもんがあるし、僕に有効かどうかは疑わしいけど)

だいたいあの男の弟子になる気もさらさらない。だけどもうすぐ夏休みだ。
成績のいい律には補習などあるはずもなく、部活もやってないから長く退屈な日々になるだろう。
それもいいか、と急に思った。喉から手が出るほど欲しかった能力を手にしたくせに、自分はそれを使いもせずに
持て余している。
(人の役にたつならいいかもしれない)

たくさん悪いことをしたという自覚はあって、だが誰も律を責めはしなかった。それはそれでキツイのだ。
だからせめて、もう少しマシな自分になれればと思う。
(ボランティアみたいな?)
漠然とそう考える。ボランティアというより贖罪か。自分は、いったい誰に許されたいのだろう。

「わかった、兄さん気が向いたら行くよ」
「ほんとに?あ、でも危ないことはだめだよ。手に負えないと思ったらムリって言って逃げるんだ」
「いや、多少手に負えない事もやらないと強くならないんじゃない」
「え?うーん、そうだな…でも今までに本当に危なかった事もあったからさ」
「兄さんがそこまで言うなんて相当だね」

じゃあ霊幻さんに言っといてくれる?と言うと兄は嬉しげに頷く。突然夏休みの予定が決まってしまった。
律はマグカップの中の白く濁った液体をぼんやりと見た。
人が羨む要素はたいてい持っていると言われた自分が、欲してやまなかった最後のピース。
それが嵌った瞬間からこの憂鬱は晴れない。青い空などどこにも見えはしないのだ。



「はい、じゃあ除霊しときますんで2時間後にまた来て貰えますか?大丈夫、大した霊じゃないですから!」
友達と夏の風物詩・肝試しをやったら心霊写真が撮れてしまったという女子大生は、ホッとしたようだった。
ドア付近に座っていた律が『お待ちしてます』と一言添えると、見惚れてぽーっとした顔になる。
大人びて見えるけどソイツ中学2年だぞ、と霊幻は胸の内でつっこむ。
だが夏休みで私服なのもあって、高校生ぐらいには見えているのかもしれなかった。

客が出ていってしまうと、パソコンを立ち上げ、さっそく例のお祓いグラフィックにとりかかった。
だが、いつものように派手に技名を叫ぶ気にならない。
モブも別に反応はしなかったし、律も同様なのだが、何故かこの弟の前だと異様に気恥かしくなる。
(クッソ〜やりにくいったらねーな)

律に師匠の手伝いに行ってもらえるように頼んだんです、とモブが電話してきた時は驚いた。
まあ頼むだけならタダだ。だがまさかあの律が、そんな事を請け負うとは思わなかった。
嫌われてはいないだろうが、ごくたまに顔を合わす時はツンツンしていて、塩対応もいいところ。
大事な兄さんにまとわりつく俺が気に食わんのかねぇと微笑ましくもあったのだが。

しかし実のところ、この代打はありがたいと霊幻は思った。
モブが受験勉強に忙しくなってから、自分で何とか処理できるもの以外の霊のお悩みは森羅万象丸を紹介して
客にそっちへ行って貰っていたのだ。当然その分収入も減る。
それにこの夏は芹沢も今までの遅れを取り戻す集中講義があるとかで、アテにできそうになかった。

無論、律をモブと同じように考えるべきではない。くぐってきた修羅場の数も能力を自在に操れるかも違う。
霊幻はその辺をムチャ振りするタイプではなかった。
『だけど絶対危ない事はやらせないで下さいね、僕の弟に』
おまけにそう釘をさしてきた時のモブの声のひんやり感が、今も耳から離れない。コイツ手のつけようのない
ブラコンだなとびびらされた。知ってたけど。

「お疲れさまです」
「いや別に疲れてねーけどな…なにそれ買ってきたのか」
「いえ、普通にコーヒー淹れてそれを冷やしただけです。いちいち買うのも不経済ですし、何より…」
「何より?」
「暇ですから、すごく」

あっそ…と言いながら、水滴の浮いた冷たそうなアイスコーヒーのグラスを受け取る。
律の持っている方はミルクが入っていて白っぽかった。氷がカランと高い音をたてる。
「さっきの客、憑いてたか?悪いモン」
「ええ。本当に低級霊だったので、放っておいても大した事ないけど除霊しときました」
「そうか、ご苦労さん。じゃあ写真をキレイにして完了だな」

頷き、立ったまま律は霊幻の手元を覗き込んでいる。パソコンに興味あんのかと思った。
やってみたいか?と聞くと、そうですねと言う。
これは依頼主のだから俺がやるけど、今度別の写真で練習させてやるよと言ってやった。
まあこんなしょうもない技術が、本物の超能力者になった律の役にたつのかははなはだ疑問だ。
(でも、経験値をあげるってのは無駄じゃねーからな…)

律は最初の日にバイト代はいらないと言った。どこかへ出張する時は交通費だけ負担してくれたらいいと。
客がいなくて暇な時は、宿題をしたり本を読んだりしている。
最近は霊幻の書棚にある本にまで手を出し始めた。マッサージの技術とか学んでどうする気なのか。
だが、自分なら絶対買わないような本があるから面白いとも言っていた。
別に未成年に読ませてマズイ物もないし、まあいいかと放ってあるのだが。

モブもそう口数は多くないが、子供の頃に知り合ったせいか悩みがあると素直に霊幻に相談してきた。
低賃金で活躍してもらっている事もあり、彼の言葉にはけっこう真面目に耳を傾けてきたと思う。
そのせいか、まったくの無報酬というのも何だか据わりが悪かった。
だが目の前の律は、イケメンで頭もよく要領も良さそうだ。こんなタイプの悩みが想像できない。
そもそもどういう風の吹きまわしでここに来ようと思ったのだろう。


「なあ律、お前夏休みなのにデートとかしないのか?モテんだろ」
「好きでもない女子とですか。あんまり興味ないですね」
「モテんのは否定しねーのかよ。世の男どもを残らず敵に回しそうな言い草だな。付き合ってから好きになる
パターンもあるだろが」
「そういうものなんですか?」

特別に誰かを好きになったことないから分かんないですね、と律は曖昧な口調で言った。
今まで自分の感情は、よくも悪くも兄ひとりに関してだけ振れていたような気がする。
愛情、羨望、渇え、苛立ち、恐怖、嫉妬、劣等感、なにもかもが彼に起因していたから。
(あんまり綺麗なものは見当たらないけどね…)
自分はそういう性質なのだろうと思った。兄のように素直じゃない。あんな風に人を好きになれない。
また心に“羨ましい”という波が立つ。リフレイン。そんな事の繰り返しだ、ずっと。

「モブは好きな女の子がいるらしいぞ。お前もがっつり青春を謳歌しろよ〜」
「…ッ、恋愛してたらそんなに偉いんですか」
「オイオイそんな意味じゃねーよ…お前ぐらいの年の奴の楽しい事って言やそれかと思っただけだって」

霊幻の声は宥めるように優しかった。いい加減に見えてもこの人は大人なのだ。
そして律の年齢×2も生きているくせに、こんな子供の話にちゃんと向き合ってくれようとするから困る。
「すみません…ただ…」
「ただ、何だ?」
「この先ずっと、僕は本当に誰かを好きになる事はないんじゃないかって…」

(怖くなって)

『今日ツボミちゃんと久しぶりに喋ったんだ。あ、ほんのちょっとだけどね』
『ツボミちゃん綺麗になったなあ。昔から可愛かったけどさ。僕のこと今でもモブくんて呼んでくれるんだよ。すごく
嬉しかった』
彼女のどこがいいのかサッパリ分からないが、幼馴染の高嶺ツボミの話をする兄を見るのは好きだった。
きっと本当に、大した話はしていないのだろう。
それでも想う人の声を聞き、目を見交わしたというその幸福感は、律の心にも伝播してくる。
ふわふわと暖かく高揚したそれが、人のものなのが悲しかった。


グラスを手にしたまま俯いてしまった律を、霊幻は少しの驚きと共に見ていた。
これは……臆病なのか?と首をひねる。意外だった。モブとは違う意味で抑制が効きすぎている。
そのセーブしきった自分を、自分と思い込んでいるような、律。
(なんでこんなんなってんだ?もっとこう、心のままに動けねーのかなコイツ)
感情が剥き出しになったらどんな顔するんだ、と訳の分からない期待が胸を掠めていった。

「あーあのな。まず俺が悪かった。お前まだ中二だもんな。大人になってから好きな人がやっとできる奴
だって大勢いる。心配すんなよ」
「ほんとうに?」
「おう。それにお前みたいなタイプが一番ヤバイんだぞ。この霊幻新隆が予言する!!ある日突然ズドーンと
落ちるな。うん、なんか見えるわ。そしたらもうお前澄ました顔なんかしてらんねーぞ。泣いちゃうかもな、律?」
「なに言ってるのか全っ然分かんないんですけど。落ちるって?」
「バ―カ、恋に決まってんだろ」

得意げにそう言い放ってみたものの、目の前の律がポカンとしているのに気付き、ヤッべー俺かなり恥ずかしい
事言ったか?と次のリアクションに困る。
だがその時、黒い瞳はほんの少しだけだが緩んだ。
いつも緊張していたそれが柔らかみを帯びてゆく様を、霊幻は座ったまま無言で見上げていた。

「それいいですね。泣くほど、誰かを好きに」
「え!あー…だろ!?うん。俺の予言は当たるからな。期待しとけよ」
「どっかの神社でおみくじでも引いた方が当たる気がしなくもないけど」
「信じてねーのかよ」
「信じませんけど、騙されたくなる気持ちはちょっとだけ分かりました」
「おい、俺は誰も騙してねーぞー」
「それより早くして下さい。依頼主が戻ってきますよ」

悔しいけれどこの人の言葉は、すっと心を軽くするんだと律は思う。
また同じものが積もり積もって重くなっても、今助けられたことに意味があるから、皆がここに来る。
(心配するな、か…)
律はしっかりしてるな、賢いから大丈夫ねと言われ続けてきた自分には珍しい言葉だった。
兄の心を乱さないためにも、その『よく出来た、だが必要以上に目立たない自分』は都合がよかった。
だが、頭で考えるよりも先に感情が動くというのはどんなだろう?
当たったらそれはそれでムカつくが、一度ぐらいこの人の予言とやらが的中しないかな…と本気で思った。



心霊写真の女子大生もお代を払って笑顔で帰っていき、その日の午後はもう相談客はなかった。
そういえばここの相談料は、律が予想していたよりもずっと安かった。
いったいこんな収入で霊幻は生活できるのだろうかと逆に心配になるぐらいだ。
相場というものがないような商売だ。ひどい所だと何十万も請求したりするのではないかと思うのに。
(うさん臭いけど、この人悪い事はしないんだよな…)

5時になったので帰り仕度を始めた律を、その時、霊幻がちょっとこっち来いと手招きした。
「?何かやっといて欲しい事ありましたか」
「いや、違うけどよ。手ぇ出してみな。両手でこうな」
掌を上にして差し出す。お椀のかたちの律の手の中に、霊幻は3枚のコインをチャラ…と落とした。
いつから握っていたのだろう。彼の体温が少し移ったそれをまじまじと見る。

「お前バイト代要らないって言ったけど、毎日これだけでも受け取れよ」
「霊幻さん……なんで」
「ん〜?そりゃお前が役に立ってくれたからだろ。今日の依頼主と俺にとってもな」

なるべく普通に笑いつつ「たったこんだけでも、毎日貰えばいい事したって実感わくだろ?」と付け加える。
だが実は霊幻は、相手がどんな反応をするかと内心ヒヤヒヤしていた。
要らないと突っぱねられるか、300円て子供のお駄賃ですかと冷ややかに言われるか。
なんとなく、拒絶して欲しくなかった。
だから、表情の変わらない律と見つめ合う数秒がやたらと長く感じられた。

そんな二人の沈黙を無遠慮にさえぎったのは、デスクに乗っていたはずの霊幻のボールペンだった。
来客のある時に使う、蓋つきのちょっとだけ値の張るペンが浮き上がり、ふよふよと飛んでいる。
「ンン…?」
重ねてあったメモ、本、卓上カレンダーも新聞も、外してあった腕時計も空中を楽しげに飛び回っている。ぶつかり
はしない。
敵意のある動きではない。これは。

「律、これお前が飛ばしてんのか」
「えっ、わ…分かりません。なんでこんな…僕は飛ばそうなんて思ってない…」

焦ったように律が周囲を見回す。静まれ降りろと念じているのだろうか。だが戻らない。
ある意味では力の暴走だ。コントロールができていない。だがこれは感情の発露と言えるんじゃねーのかと
霊幻は気がついた。
律の感情が宙に舞っている。
途端に笑いがこみ上げた。からかうようなニヤニヤ笑いだ。りーつ、と呼ぶ。

「なあ、嬉しかったんだろ。だからこんなんなってる。違うのか?」
「………」

見開いた瞳は生まれたての生き物のように澄んで美しかった。怖いぐらいだと霊幻は思う。
舐めたら甘いんじゃねーかなどと、とんでもない考えが頭をよぎった。
だが次の瞬間、律の顔はぶわっと真っ赤になった。
口の達者なはずの子供が、どう言い返したらいいか分からないという様に口をパクパクさせている。それを見ている
だけでこっちまで何故か高揚する。
人が悪い。意地が悪い。だがもっと見ていたい。
願いも虚しく、律は紅潮した頬を隠すように背を向け、そこにある荷物をひっ掴みながら大声で叫んだ。

「帰ります!お疲れさまでした!!」
「おい、この浮いてんのどうすりゃいいんだ」
「僕がいなくなれば戻るんじゃないですか!?知りませんよ!もうほんとやだ、あなたって人は…」
「ん?」
「何でも分かったような顔をして」

バタン!と荒っぽくドアが閉まった。その大きな音まで、ぶつかる感情のようで心地いい。
ククク…と肩を揺らしながら笑う霊幻の手の中に、腕時計がふわりと降りてきた。他の物も場所はともかく優しい
着地をする。
(あんな事ぐらいで嬉しくなんのか)

超能力の発顕は強いストレスによるものが多いと聞かされた。
だがストレスとは悪い意味ばかりじゃない。本当は外的刺激によって心に生じる変化だ。
さっきの律の取り繕うことを忘れた顔が、自分という刺激で生まれたのなら、それは二人が音をたててぶつかった
証拠だった。
仕事柄ずっと人の気持ちばかり聞きすぎて、己の感情のことなど忘れ果てていたのに。

「……ン?」
夏の夕方の光が差し込む事務所で一人きり、霊幻はスーツの胸の辺りをぐしゃりと手で握った。
(外的刺激なぁ…俺にとっての)
自分のココは簡単には揺らがない。ある意味、麻痺したようなもんだと思っていた。
誰かにいちいち同調していたら身が保たないからだ。なのになんか変だなと考えてしまう。律が気になって仕方が
ない。

(アイツ明日もちゃんと来るかな。責任感強そうだし心配いらねーか…)
いくら楽しくても、あまりからかってばかりでは怒らせてしまうだろう。
どうやったら笑うのかね、そういや笑ったとこ見たことねえな〜と、椅子の背にギシッともたれかかる。

懐かない黒猫みたいな律がもの珍しいのだ、そう思い込もうとしていた。
かわいいと感じたのも、違う顔を見たいのもそのせいだと。
“落ちるのなんか突然だぞ” 訳知り顔でよくまあ言えたものだ。
何となくくっついたり離れたりを繰り返すような恋ばかりしてきた、情の薄い男がぬけぬけと。

だが言葉はすぐに意味をはらみ、育つ。
無責任に放ったその台詞がブーメランとなってはね返り、胸に突き立っているのにも気づかない。
愚かすぎる大人だった、あの時の自分は。



「母さん、これ貰ってもいいかな」
夕飯の支度で忙しそうな母に声をかけると、彼女は律の手の中の物をチラリと見て「いいわよ」と言った。
特に詮索もしない。何に使うのとかいちいち聞かない。
律は母のこういうザックリしたところが好きだった。無関心とはちょっと違う。むしろ兄や自分のことはしっかり見て
いて、その鋭さに驚かされる時もあるのだ。

自分の部屋に戻ると、律は台所から持ってきた小ぎれいなガラスの瓶の蓋をあけた。
元々は、何か貰い物のお菓子が入っていたはずだ。かすかに甘い香りが残っている。
ポケットから3枚の百円玉を取り出し、その中に落とし込んだ。チャリン!と澄んだ音がした。

あの人の前では絶対絶対絶対に認めたくなかったが、嬉しかった。
小学生でもバカにしそうな小銭、しかも兄や芹沢にも同じように渡しているのが分かりきっていてもだ。
(だって喜ぶのは僕の勝手だ)
役に立ったと言われたこと。そしてあの時のふわりと浮き足立つような心持ち。
家に帰っても、これを見れば鮮やかに思い出せる。

何でもそつなくこなせるのも考えもので、律にかけられる言葉といえば『すごいね』ばかりだった。
知識を得るのは好きだから勉強は苦にならなかったが、中身のない賞賛には飽き飽きしていた。
だが今日はあの人の役に立ったからこれを貰えた。分かりやすくていい。
褒められるのではなく、ありがとうなと言われたわけだ。抑えても口元が柔らかくゆるむ。

それにいずれは好きな人がちゃんと出来るから心配すんなとも言われた。
今まで、誰も律の不安に答えてくれた人はいなかったのに。
胸の中で凝り固まってしまったものが少し溶けたような感覚。
霊幻は仕事柄、人の気持ちを掬いあげるのが上手いのだろう。実際口先だけで世の中渡ってる感がハンパない。
それでもいいや、と思った。

Tシャツの胸の辺りを手で握り、「ある日突然ズドーンと落ちる」と声に出して言ってみる。
自らにかけた美しい呪い。
恋を知らないまま生きてきた律はまだ気づかなかった。
心のコントロールが効かない。彼の前で宙を舞った自分の感情がいったい何を意味していたのかを。





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