『10代目、これを』
この数カ月、うかつに触れることすら避けてきた人だった。

だが獄寺は、ひどく素直な気持ちで彼の琥珀色の瞳を見つめ、その手をとった。
彼の掌に、キーホルダーも何もつけないむき出しの銀色の鍵をそっとのせる。

『鍵…?もしかして獄寺くんの部屋の鍵?』
『そうですよ。オレがいない間はガキどもが煩くしてもシメることもできないし、だから
もしも10代目がちょっと一人になりたいなとか思ったら、オレの部屋を使ってください』

たぶん彼は『いつ帰ってくるの』と訊きたかったに違いない。
あるいは、『本当に帰ってくるの』と。
傍らにあるキャスターつきのスーツケースを見やり、12月にしては薄着の獄寺を見て
とても不安そうな顔をした。


『イタリアってあったかいとこなんだよね。お父さんとゆっくり話をしてきて』
『ありがとうございます。まあどっちみち退屈だろうと思うんすけど』

にかっと笑ってから、こんなに屈託なく彼に笑いかけるのも久しぶりだと思った。
ずっと二人とも緊張して。
互いの主張を決して譲るまいと、静かに意地を張りあってきた。
それにどちらも少し疲れてしまっていたのかもしれない。

今力を抜いてみれば、離れたくない気持ちばかりが胸を焦がした。
言いたい言葉だって数えきれないほどある。

(本当は、あなたがいないと息をするのも上手くできないってのに、オレは…)
それほど愛しい人だった。
彼の右腕でありたいという願いがこれほど強くなければ、とっくにこの身を投げ出して
いたことだろう。


『行ってきます。良いクリスマスを、10代目』
『クリスマスまでまだ2週間もあるよ、獄寺くん』
非難するような眼差しには、それまで戻ってくる気がないのかと驚きが混じっていた。
『みんなで一緒にクリスマスパーティしないの』

だが獄寺は曖昧に笑うと、最後にツナの頬を指先でそっと撫で、もう一度 『行って
きます』と告げて背を向けた。

一歩進めば進むほど、彼との距離が大きくなっていくことに、潰れそうな胸の痛みを
感じながら。
それでもこの時の獄寺は、ツナから足早に逃げ出すことしかできなかったのだ。









「え、獄寺のやつ、クリスマスまでに戻ってこねーのか」
「……うん、たぶん」
「オレはまた、2・3日でぱっと行ってぱっと帰ってくるのかと」
「山本さ、前に獄寺くんの代わりにイタリア行ったことあるだろ。行くだけでも何やかんや
で2日ぐらいかかるんじゃないの」
「あ、そっかそっか。そうだった」

ハハハ…という自分の笑い声がさすがにこの場で浮いているのを山本も自覚していた。
季節は冬だったが、今日はとても天気がよかったので昼食を持って屋上に出た。
だがツナは、母親手作りの弁当を砂を噛むように味気ない顔つきで食べている。


獄寺も罪な奴だよな、と山本は思うが、彼ばかり責めてやるのも酷というものだ。
ここ数カ月のツナと獄寺の煮詰まり具合はハンパなかった。
なまじ表面だけは今までどおりでいようとするから、余計にギクシャクするのが目立つ。

笑顔は失われ、二人ともが辛そうに表情を曇らせ。
だが相手が自分を見ていない時に、獄寺が、ツナが、隠しきれないほど愛しげな視線を
送っているのを山本は何度も見てきた。

あー…好き合ってんだな、こいつら、とそう思った。

いくら能天気な山本であっても、男同士というのが普通じゃないのは分かっていた。
だがおそらく、この二人を奇妙に対立させているのはそんな事が原因ではないのだ。

(獄寺は、ボスであるツナに固執してるし)
(ツナは獄寺に自分自身を見てほしいのに、そうじゃない事に苛立ってる…)


「イタリアってさー冬でもあったかいんだよね」
「あーでもブーツの形にタテに長いからな。あったかい所もあるけどスキーで有名な山
とかもあるらしいし、場所によるんじゃね?」
「ふーん…」
「獄寺の故郷って、どんなとこなんだろな」
「お城で暮らしてたって言ってたし、街中じゃなさそうだよね」

獄寺くんが全然違う世界から来た人だって、オレすっかり忘れちゃってたよ…とツナは
少し寂しげな顔で言い、俯いた。

オレもそうなんだよな、と山本もひとりごちる。
どう見ても日本人とは違う髪と瞳の色を持つ獄寺は、日本語が流暢すぎるのが却って
ちぐはぐに感じるはずなのに、外国人だと思ったことさえなかった。


今まで、獄寺のツナへの気持ちに気づかなかったわけじゃない。
ただそれでも、彼はツナの傍に居るためなら自分の心も殺すだろうと知っていた。
(ツナは…獄寺の居場所だ)
その居場所を自らの意思で離れた獄寺がどれほどキツかったのか、いない今の方が
よく見える。

(だって、誰より好きな相手がアイツのことを好きだって言ってんだ)
(普通の人間なら辛抱できねーだろ)

同時に、明らかに両想いだと分かっていながら決してそれを認めようとしない獄寺を
この数カ月ツナがなんとか崩そうしては、失敗するのも見ていた。
それが重なるにつれ、ツナが少しずつ意気消沈してゆくのも。


「アイツもう帰ってこないんじゃないかとか考えてないよな?ツナ」
「……思ってない…こともない…」
「おまえがそんなんでどうすんだ」
「だって山本、オレがんばったんだ。獄寺くんにこっち向いてほしくて…けど、けどさ」
「ツナ」
「獄寺くんは、『10代目』しかいらないんだ…ダメツナなオレなんかいらなくて…」

親友の大きな瞳にこれほどの苦悩が湛えられているのを、山本は初めて見た。
涙もこぼさない。だが伝わる。
それはとても痛ましく、だがとても美しいものだった。

大空を埋め尽くしている、嵐。
こんな時でもお前らは一緒なんだな、と少しだけおかしくなる。
だがいずれ、どんな激しい嵐も大空は内包してしまうだろう。そういうものだ。
ずっとずっとそうだったのだ。

(獄寺は、きっとツナのところに帰る)
あたりまえに、何の不安もなく山本は思った。この苦しみもいつかは消えるはずだ。


「そりゃ違う」
「山本…?」
「まず沢田綱吉ありきなんだよな、獄寺は」
「よくわかんないよ…言ってる意味」
「そうか?単純じゃね。沢田綱吉が、アイツの10代目だってことだろ」

わかんない、と拗ねたような口調で繰り返すツナは、それでも言われたことを考えては
いるようだった。

そうだ、考えてやれよ。 山本は心の中で励ますように呟く。
あいつに足りないのは何か。
足りなくても平気だと思い込んできたのは何なのか。
おまえにしか埋めてやれない。おまえしか愛してやれない。
そういう巡り合わせのことだったんだろう。

(だけど答は他人が教えるもんじゃなし)
はぐらかすような顔つきの山本にツナは軽くむくれていたが、突然力をつけないととでも
いうように膝の上の弁当を必死にかきこみ始めた。
その勢いは案外と頼もしく、笑いを誘われる。

薄青い冬の空は、遠いイタリアと同じ色なのだろうか。
(同じモンを見てるよな?)
フラついて戻る様子がないもう一人の親友に確認するように心で呟き、山本もまた父親
特製のいなり寿司を勢いよく頬張りだした。









いつ以来かも忘れる程の年月を経て戻った故郷は、驚くほどに牧歌的だった。

この城が自分の父親がボスを務めるマフィアの巣である以上、反社会的な者が集う場所の
はずなのだが。
ここが田舎であることもまた事実。
子供の時は気づかなかったけど、ここは郊外じゃねー田舎だと獄寺は苦々しく考えた。

狭い狭いと思っていた並盛の自分のマンションがどんなに便利だったかを嫌というほど思い
知らされ、コンビニがないことにイライラし、煙草ばかり吸っている始末だ。

やる事がない。時間が進まない。考えに耽るしかない。
何もかもがとても居心地が悪い。
まるで間違った型に嵌められてしまったように。


そもそも以前の自分は、娯楽を必要としたことがなかった。
ただ自分の居場所を求め、だが求め方も分からず暴れて毎日を過ごすだけで、楽しいとは
どういう事かも知らない いびつな人間だった。

(だからそういうの、みーんな10代目に教えていただいたんだよな…)
火の点いていない煙草を噛んでいた口元が、ふっと優しい形に緩む。

コンビニで買い食いや立ち読みをする。漫画を読んだりゲームをする。
彼が好きだと言ったDVDを借りてきて観る。買ったCDを交換して聴いたりもした。
年相応の他愛もない金もかからない遊び方を知らなかった獄寺には、それらはびっくりする
ぐらい新鮮で。

それに彼は、獄寺に教えてあげられる事があるのが嬉しそうだった。
お互いに感想を言い合って、同じ所が好きだと分かると子供みたいに笑い合ったものだ。


ああ、きっと。時間を何度巻き戻したって、自分は彼を好きになってしまうだろう。
一人になって分かるのは、そんな単純な事だけだ。
未来にいた時に、たくさんのパラレルワールドの存在も認識したが、どの世界に行ったとて
違う想いを抱えた自分がいるとは思えなかった。

恋と忠誠心の境目はいったいどこだったのか。

あの人の笑顔を守れるような自分になりたいと、心から思った。
その思いが、いつしか『右腕』の在り方を大きく逸脱してしまっていると、気づいた日から
辛かった。
幸せで、幸せで、幸せで、だが同じだけの重さで辛かった。
自分の醜い欲が彼を汚してしまっているように感じられて、うしろめたかったのだ…



山頂から吹き下ろしてくる風に「寒ィ」と首をすくめて、故郷にいるのに日本語で喋ってしまう
自分に獄寺は呆れた。
(逃げて、逃げてきたけど、今も昔もここはオレの居場所じゃねーってことか)

父親からはただ話がしたいから帰って来ないかと促されただけだ。
だが、その話の内容はある程度予想がついていた。

姉のビアンキから、獄寺の態度が軟化していることは知らされていたのだろう。
父の話は簡単明瞭だった。
戻ってきて、跡を継ぎ、この城に君臨するマフィアのボスになる気はないかと。

逃げてきた自分にはおあつらえ向きの駆け込み場所。
過去の自分が欲しくてたまらなかったものが皿にのって差し出されている。
だがそれは彼の守護者の地位を返上し、自分のファミリーを従え生きることだった。

二度と会えない、そう思えば。
あーオレ死んじまうな、とフツーに思った。


(なんかやっぱ、どうしたって違うんだ)

未来の記憶は持ち帰ったため、両親が本当に愛し合っていたことや、母が自分の死期を悟り
身を引いたこと、彼女の死が本当に事故だったことも今は知っている。
だから昔のようにむやみやたらと反発する気持ちは失せていた。

父が妻子ある身で、若くて才能のあった母を日陰の存在におとしたのは事実だ。
ビアンキや彼女の母親を傷つけたことも。
だが責めを負うなら母も同じであり、彼女はどうしようもない恋の代償を払って死んだ。
今初めて自分は、偶像ではない彼女のことを考えている。

(好きになっちゃいけない人を好きになる)
(オレはそんなとこもあんたに似ちまったのか。母さん…)

強い風がゴオッと音をたてて、獄寺の銀色の髪をなぶっていった。

『オレさ、びっくりするかもしれないけど、獄寺くんのこと好きみたいなんだ…』
『……』
『あ、ちがう、そうじゃない。ちゃんと言う。好きなんだ、きみが』

美しくて、辛い記憶。
そんな言葉をくれた人を、自分は世界の果てにも等しいほど遠くに置き去りにした。
目を閉じれば、あの時の彼の表情ひとつひとつが浮かぶのに。
鮮やかに、浮かぶのに。
今一人になってみると、自分が何にこだわっていたのかも分からなくなる。

自分も好きだと。ずっと愛していたのだと。言ってはいけなかったのか。
あの人は、本当に好きになってはいけない人だったのか。
同じだと、彼は何度も言ってくれたのに。
オレときみの気持ちは同じだよと、琥珀色の瞳はまっすぐにこちらを見ていたのに。

「10代目……っ」
自分が決めたルールも、後生大事に守ろうとしたものも、掌の上の雪のように儚く形を失くし
ていく。
未だ嵐のように乱れる心を持て余し、こんな自分を彼は今も待っていてくれるのだろうかと
獄寺は泣きそうな思いで考えた。

(オレのこと、考えてくれてますか。まだ諦めずにいてくださいますか、10代目)









風呂からあがったツナは、パジャマ姿で湿った髪にタオルをかぶせたまま、何か飲もうと台所
に足を踏み入れた。
だが、そこでピタリと一度立ちすくむ。
日本の一般家庭の台所にまったくそぐわない美女が、けだるげに座っていたからだ。
よくよく考えると、ビアンキもふつーにうちに住んでるよなー、と母の寛容さに改めて驚く。

「ビアンキ、なんか飲む」
「いいわ、夜に水分摂らないことにしているし」

冷蔵庫を開けて牛乳を出し、コップに注ぐ。毎朝毎晩飲んでいるが身長が伸びる様子はない。
爪の手入れをしているビアンキに対し特に話題もなく、ただふと彼女の弟のことを思った。
どちらもうつくしい面差しをしているが、別に似ていないのに。
母親違いのこの姉弟を見ていて気づかされるのは、平気なフリをして損ばかりして不器用だ
という事だった。

「……ツナ」
「なに」
「あの子、もう帰ってこないわ。待つのはやめなさい」

ひくい声が何の前触れもなく告げた言葉にツナは内心ひどく動揺したが、それを表に出したく
なくて歯を食いしばった。それでもコップを持つ手が震える。
(獄寺くん、獄寺くん)
本当は自分以外の誰もがそう思っているのかもしれなかった。
待っている自分が可哀想だからはっきりとは言わない事を、ビアンキが口にしただけで。

「お父様は隼人を跡取りにしたがっているの。以前はあの子も反発していたけど、今はそれも
なくなったし、何よりあの子が日本を離れたがってるからいい機会だと思ったわ」
「………」
「だからもう待たないで。あの子を忘れて。それがあなたたちどちらにとってもいい事なのよ」

目をそらし、爪を丹念に彩りながら呟くビアンキは、どこかいつもの彼女らしくなかった。
そりゃそうか、とツナは考える。
愛のためなら死ねるなどと常日頃から放言している彼女が、弟にも自分にもそれを捨てさせよう
としている。
それはちぐはぐで、滑稽で、だけど切ない。


今は遠くにいる弟のことを、ビアンキは彼女なりに幸せにしたいと願っていて。
そのためなら、誰に恨まれても構わないというやり方に、ツナは寂しげに目を伏せた。
ほんと不器用だ、この姉弟は。最初に出会った頃からずっとそうだった。

だけど自分は、彼のそんな所も気になって仕方なくて。
自分の痛みを省みない獄寺を、今まで何度たしなめたことだろう。
昔に比べれば自分を大事にするようになってくれたけど、それでも彼は最後の最後には自分が
損をすればいいと思ってる気がする。

(幸せになってもいいなんて考えたことないから)
(獄寺くんは、オレの好きを受け入れてくれなかった…)

そんなことが離れた今になって分かるのは何故なんだろう。
自分たちはまだ子供で、今幸せと感じることがずっと先の幸せに繋がるのかまでは知らない。
それでもツナは獄寺に面と向かって言いたいと思った。

(オレを受け取って、幸せになれるか試してみてよ)
その“オレ”は、沢田綱吉だ。
ただのダメツナ。
人並みにできることなんかほとんどなくて、でも世界で一番きみのことが好きな。
(きみを幸せにできるのは、“10代目”なんかじゃない)


ふ…と肩の力が抜けた。
それはもう、獄寺に告白した日からずっと続いていた緊張だった。
それを通り過ぎた、と感じた瞬間。 ああ、会いたいなあ…と思った。

会って顔を見たい。自分を一人にしたことに文句が言いたい。なにやってんのと言いたい。
笑いかけたいし、彼がよくするみたいにニカッと笑うところが見たい。
触りたいっていうか、もう抱きつきたい。
獄寺くんが引こうが遠慮しようがもうオレ知らないよ、と思った。
なんだよ、オレのこと好きなくせに逃げてきみは本当にひどい。好きだけどさ、ひどい。


「うんもう、オレ待たないと思うよ」
「ツナ…それじゃあ…」
「年が明けたらイタリアに獄寺くんに会いに行く。帰って来ないんだからオレが行くしかないって
何で気づかなかったんだろ」

はあ、とわざとらしくため息をつきながら、ツナは旅費をどうするかだなーと思った。
リボーンかディーノに30年ローンぐらいで借りるしかないだろう。
それに自分はイタリア語なんか喋れないんだから、どのみちディーノには力を借りなければ
ならないのは明白だ。

「獄寺くんにとって何が幸せかは、その時、獄寺くんが決めると思う」

澄んだ湖面のようなビアンキの瞳に、ツナは自分の精いっぱいの気持ちをぶつけた。
彼女はこのまま弟を逃がしてやりたかったのだろうけど、それでは多分だめだ。
どんな結論にせよ、彼が決める。
自分はその時もしかしたら振られるのかもしれないが、それで諦めるとも思えないな…とツナは
笑った。
自分の幸せにだって、獄寺が必要なのだから。


(オレの答は出たよ、獄寺くん)
きみの気持ちが分かってるのがオレの強みだなと思った。
無理でも何でも受け取らせる。最初からそれぐらい図々しくなればよかった。

コップを水でゆすいでから、ビアンキに静かに「おやすみ」と告げる。
彼女はもう何も言わなかった。
納得はしていないだろうけど、反対もしなかった。
これから彼女は泣きたいような一夜を過ごすのかもしれないけど、それを慰める資格など
あるわけがないからツナは振り向かなかった。


自分の恋はもう、その身勝手さで京子もビアンキも傷つけた。
だから後戻りはしない。
それだけを心に決めたツナの瞳は、いつになく強い色を宿していた。




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