思い切って自室のドアを開け、足音を忍ばせてキッチンへ向かった。午前1時。
それでもフローリングの床が小さく軋むのが耳につくのは、外が静かすぎるからなのだろう。

同居人を起こしたくなかった。自分と同様、彼も明日は大事なレースを控えている。
だからこそ、普段より早目にベッドへ押し込まれてしまったのだが、頭の中を占める事が多すぎてぐるぐる
した挙句、眠れずにいる。


僕はこんなに考え込むタイプだったかな…と坂道は自分に呆れる思いだった。
どんなに考えたって明日になればひとつも役に立たなくなるだろう。

ロードレースとはそういうものだった。生き物のように未知で、1分先の事すら予想ができない。
タイヤのパンク、機材トラブル、落車、事故、怪我、そして過酷さに心を折る者も多く出る。
いくら作戦を練っても、備えてみても、それが思い通りになったことは今まで一度もなかった。

『不確定要素の張本人が、それ言うか』
『そうやで。小野田くんにそれ言われたらかなわんわ。意外性の男が』

レースをワケの分からない展開に持ち込むのはいつもおまえだろ、と大事な人たちの声が蘇る。
その後、声を合わせてしまった事に気がついて、二人ともすごくイヤそうな顔をするのが常だった。
だが、文句ばかり言い合っていてもこの二人の間にもまたつよい絆があった。
友達という名でくくっていいかどうか。だが、坂道にはそれがずっと前から分かっていたのだ。



牛乳でも飲も…と、極力音を立てないように冷蔵庫を開け、マグカップを手探りでさがす。
ホントはちょっとあっためられるといいんだけどな、と電子レンジの方を見やった瞬間。
「温めろ。夜中にそんな冷え冷えのもん飲んでんじゃねーよ」
突然かかった声に胆をつぶす。ひゃっ!!?とヘンな声をあげてしまった。
マグカップも倒した。まだカラだったから良かったが、夜中に大惨事になるところだった。

「いま、い…今泉くん、いつの間に…」
「オレがドア開けたのにも気づかねーとか、どんだけ考え込んでんだ」
パチンとスイッチの音がしてキッチンの明かりがつく。眩しくて目を細めた。つよい光。
彼がどんな表情をしていたのか、最初の数秒見逃した。
隙をぬうように、牛乳もマグカップもさっさと取り上げられてしまう。

「あ、あの…」
「オレの部屋行ってろ。持っていく。あ、ちゃんと布団かぶっとけ」
有無を言わせない口調ではあったが、声は優しかったし、怒っているわけではない事ぐらい分かる。
うん、と頷くと、大きな手で頭をぽんぽんとされた。
その瞬間、ほ、と安心したような吐息が体の奥から漏れる。
自分のことをよく分かってくれる人が傍にいる、その潤沢さに微笑み、少し涙が目元に滲んだ。

「おまえ、それ昔っから得意だな。泣き笑い」
「得意とか不得意とかいうもんなのかなそれ」
「まァ、それが出る時はおまえはもう腹をくくってるサインなんだけどな」
「え……」
「むしろそっからが速すぎて、オレでも振り落とされないかって身構える」

マグカップの牛乳に砂糖をひと匙放り込みながら、「部屋行っとけ」と再び今泉に厳命された。
頷いて、向こう側の彼の部屋へと向かう。



同じ自転車競技部のある大学に進学して、家から通うのは無理だったからルームシェアということで互いの
両親に許可を貰い、一緒に住みだした。
高2の春から付き合っていたわけだが、共同生活ってどうなのかなと最初は不安で。
今まで見えなかった部分が見えて嫌われないだろうかと、随分緊張した。

だがすぐに、伊達に長い時間を一緒に過ごしてきたわけではないという事に気がついた。
緩い生活ルールを二人で決めたら、後は特に何の支障もなくて。
むしろ大学生活と部の活動の慌ただしさに流されるようにして初夏を迎えた。
予想外だったのは、何かする時も何もしない時も今泉のセミダブルのベッドに引っぱり込まれて一緒に眠る
事ぐらいだった気がする。

だが、大学生活最初のレースを控えて3日ほど前から別々に眠っていた。
お互いの体調管理のためには当然なのだろう。
それでも、今泉の部屋にそっとすべり込んだ坂道はベッドに腰をおろし、ああ僕はちょっと寂しかったのかな
と思った。
誰にも気がねせず好きな人と眠るというのは、想像も追いつかないぐらいに幸せだったからだ。

布団かぶっとけって言われた…と思い、ベッド横の小さな明かりひとつで薄暗い中、それにくるまり目を閉じ
る。
自分の事で負担はかけたくなかったが、今泉もまた今夜は眠れなかったのではないか。

心の準備をする時間は充分すぎるほどあった。
とっくにできていると思っていた。
だが、強くあろうともがいてみても自分たちは未熟で、柔らかい心を持て余してばかりいる。
(それがだめだとは思わないんだけどさ…)



片方だけ砂糖入りにしたホットミルクのマグを持ち自室に入ると、坂道は部屋を明るくせずに言われた通り
布団にくるまっていた。
ん、と片方差し出せば、ありがとうと両手でくるみこむように受け取る。
「今泉くん、何か上着着て」
「ああ、そうだな」
放り出していたパーカーに袖を通し、カップを持ち直して坂道の隣に座った。ぎしっと音がする。


それから、二人は黙って暖かい飲み物をすすった。
月が出ているのだろうか。カーテンが閉まっていても外はうっすらと明るい。
部屋の隅で鈍く光を反射する今泉のSCOTTがひどく美しく見えていた。

互いに体を少しだけもたせかけ、相手の重みを感じながら明日のことに思いをはせる。
……昔、金城が言ってくれたものだ。
『おまえが辛くなったら俺たちがいる。俺たちが辛そうになったらおまえが全力で助けろ』と。
その教えは今も二人の中に生きていた。
一人じゃなかったから。
過去が去り未来が来る流れの中で、歯を食いしばって立っていられたのだ。

だがもう、どこにも逃げ場はなくなった。朝は手が届くほど近づいている。
鳴子と相対する時がついに来たのだ、と心でぎゅっと噛みしめる。


3年のIHが終わり、進学のことで慌ただしくなってきた頃に突然鳴子は『ワイ、大学は関西に戻ることに
したわ』とアッサリした口調で切りだした。

三人ずっと同じ道をゆくなどありえないと思っていた今泉ですら、認めたくないがショックを受けた。
なんなんだよ、おまえそれ、と言いたくなった。
悪友、仲間、好敵手、どう呼んでも違うような気がする。
だが、知らぬ間に今泉にとっても鳴子はかけがえない人間になっていた。
絶対に言ってやらないがそうだったのだ。

まして坂道がどれほどの懊悩を抱え込んだか、見ているだけで辛いほどで。
だが、最初こそ泣いたものの、鳴子が決めたことに駄々をこねるような性格ではない坂道は、それから長い
長い時間をかけて彼との別れに気持ちの折り合いをつけていったのだ。
(巻島さんがいなくなった時よりもひどかったな…こいつ)

『二度と会えへんわけやあるまいし、泣くな、小野田くん!』
笑いながら言う鳴子を正直殴ってやりたくなる時もあった。
去って行くヤツはサバサバしていても残される方はそうはいかない。喪失感をどう埋めればいい。
だがそういう時、さよならを突きつけた張本人は最後にはいつも自分たちにこう言うのだった。
『自転車乗りは未来が来るのを待っとったらアカン。もっと速う走るもんや。おまえらと一緒におったら
絶対にできん事をやるためにワイは行く』



「……まあ何ていうかさ、分かってたんだけどね。鳴子くんが次にやりたい事なんて」
「だな」
「大学最初のレースで今泉くんにがつーんと勝ったら一番派手でカッコイイと思ってるんだろうなあ」
「オレとおまえにだろ。いい加減自分の受けてる評価も受け入れろ」
「チームでだとそういう事になるのかな…でもまさか鳴子くんと御堂筋くんに組まれるとは思わなかった」

顔を見合わせ、苦笑いをこぼす。
偶然だったらしいが、鳴子の進学した関西の大学には御堂筋も入学していた。
何とも凶悪な組み合わせだ。どんなチームに仕上がっているのか想像もつかない。

「手強いぞ、あいつら」
「うん、そうだね。ほんとにそうだ」

嬉しそうに坂道が頷くから、ああもうこいつは、と今泉は半ば呆れたような気持ちになった。
悩みも迷いもあるはずなのに、いつしか『たのしいね』にすり変わってしまうのだ。
出会った時からずっとそうだった。
テンションが上がり始めてる。
坂道の中で鳴子を敵に回すという事実より、鳴子と本気で走り競えることの方が上回ろうとしている。

(こういう時の坂道は速ぇぞ。鳴子、御堂筋)
(そんで、それがあるとオレも強くなれるってオマケ付きだ)
(本気で来い。負けても慰めてなんかやんねーからな)



カラになったカップを今泉がまとめて置いたからもう寝るのかな?と思ったが、彼はまた隣に座ると手を
握りこんできた。
さっきよりも触れた部分が多くなって、じわ…と体温が伝わる。
坂道は嬉しくなってしまい笑いかけた。
気持ち込めてぎゅ、と握り返したのだが、何故だか今泉は急に拗ねたような子供っぽい顔つきになった。

「だいたいあいつほんっとムカつくんだよ、鳴子」
「ええっ!なにいきなり、どうしたの今泉くん」
「坂道、おまえに!遠くからいつまでも大事に大事に思われやがって。どんだけオイシイんだよ!」
「えええ〜っ!!?」

口をパクパクさせながら坂道は考えをまとめようとするが、心拍数がダダ上がりするばかりだ。
要するに、自分が鳴子のことばかり思い悩んでいたから嫉妬したということだろうか。
だとすると今泉くんほんともの好きだなあという感想になるのだが、怒られそうなので言うのはやめた。
もう既に目が据わっている。

「いやいやいや…だって今泉くんと鳴子くんはちがうよね!大事だけどどっちも!」
「どうちがうんだよ、言ってみろ」
「ええっ!?ちょ…ちょっと待って下さいよ…ええとだって確かに今泉くんも鳴子くんも僕の親友だけどさ…
今泉くんが遠くに行ったら僕、こんなフツーにしてらんないよ」
「つまりどういうことなんだよそれは」
「まだ追及すんの!?うわーもー大好きなんだから今泉くんが一番に決まってるってことだよー!」

うす暗がりの中で今泉が満足そうに笑ったのを見て、顔から火を噴きそうになった。
恥ずかしい、死ぬ。
もうなんで分かりきってることを言わすかなあ、と恨めしくもなり。
だが、言葉にしなくても伝わってると思うなんて怠慢だったかな、とも感じた。
『正解だ』 というように、坂道のおでこにくちづけがひとつ落ちてくる。手をまた握り返して応えた。


「言ってなかったけどな。オレとおまえが付き合ってんのがバレたその日から、鳴子のメールの件名はずっと
『はよ別れんか!フラれてまえスカシ!』だ」
「なっ」
「なのにあいつは言うんだよ。『小野田くんを泣かしたり不安がらせたらバァーッと駆けつけておまえを
絞めコロスからな!覚えとけやスカシ!』ってな」
「わー全然筋道通ってないね…さすがは鳴子くんだよ…」

でもいくらなんでもロードで関西からバァーッと来るのは無理だよ、冗談だって、と坂道は言ったが、今泉は
イヤそうに眉を吊り上げた。
「おまえな、あいつらは500キロや600キロ、オレに嫌がらせをするためなら嬉々として走って来んぞ」
「あいつらって…鳴子くんと御堂筋くん?」
「ああ。まあどっちみち、そんなことには絶対ならないからいいんだけどな」

絶対なんだ…?と小さく口の中で呟けば、当たり前だと返された。
「さっき言ったよな、もしオレが遠くに行ったらって」
「う…うん」
「オレはおまえに遠くから大事に思われるのなんかごめんだ」

ちゃんと呼ぶからついてこい。前でも後ろでもいいから近くにいろ。得意だろうがそういうの。
ぽつり、ぽつりと。
今泉がひとつずつ投げかけてくる想いを、坂道は不思議な気持ちで見つめていた。

この人は、望めば誰の心でも簡単に手に入れることができただろうに。
静けさに満ちたこの夜を眠らずに過ごすなら、おまえとがいいと言ってくれる。
楽しいことも悲しいことも持ち寄って、分け合い迎える朝も一緒にいたいと言ってくれる。

その生真面目な優しさをずっと愛してきた。
間近にある今泉の頬のラインにあいた手でそっと触れ、微かに笑うその顔に見とれた。



「俊輔くん」
「うん?」
「僕は俊輔くんをちゃんと大事にできてるかな」
「坂道…?」
「鳴子くんが最後に二人で話した時、僕にこう言ったんだ……『今泉はおまえを大事にするやろ。ワイには
分かっとる。だから小野田くん、おまえには今泉のことを任せるで』って…」

「そんで……おまえは何て答えたんだよ」
「“うん、わかった”って」

 『信じてたんです、オレは あいつがついてきてることを』
 『オレが あいつに ついてこいっつったんで』
 『したらあいつは “わかった”っつったんで』

突然、遠い夏の日の自分の言葉がぶわっと熱風のように押し寄せてきて、今泉の呼吸を止めた。
美しい青空。
見上げ、こんなに晴れていたのかと知り呆然とした。
そして同じ空の下、死力を尽くして走っているであろう坂道のことを祈るように想った。

あいつは言ったことを果たすだろう。
なんの根拠もなくそれを信じていた。
口元には笑みが浮かび、だが涙がでた。もはや無力なくせに何度となくひたむきに想いつづけた。
それが届くと自分はあの時信じていた……


「アホかおまえ…は、なんでそんな簡単に…」
声が掠れる。胸が詰まる。嬉しさと切なさでない交ぜになった心をどうすることもできなくなる。
目の前の人の揺るぎなさを感じ、ああ泣きそうだと今泉はぼんやりと思った。

どうしてこいつはこうなんだろう。いざとなったらもう迷わない。
1センチの隙間だろうがこじ開けて平気で走ってくる。回して回して軽々追いついてきて…そんで笑うんだ。

「えっ!?簡単すぎた?ごめん、僕でもちゃんと俊輔くんのことを…」
「ほんっとーにアホだろ…一回そう言ったら絶対守るくせに」
「…?守るよ。僕がそうしたいんだから守るよ」

あっという間に腕を引かれ、きつく抱きすくめられた。
苦しいぐらいの抱擁なのに、今泉の心の震えの方が強く伝わってくるようだった。
泣いてるの?と訊いてみたら、ちがう好きだと噛み合わない答が返ってくる。
それがひどく愛しく思えて、困りながら抱きしめるしかなかった。

人がたくさんたくさん溢れる世界で彼に出会った。
世界は拓かれ色がつき、そして二人同時に速いピッチで駆け出した。ドキドキして怖さなんか全部忘れた。
坂道は思う。
夜がとても長くても、朝がとても遠く思えても、この人と生きていこう。
自分たちには自転車がある。
やってくる未来すらチギって、もっと遠い向こう側へと僕らは走っていけるんだろう…



弱ったな、ちょっと離したくないんだが明日レースだしどうすんだ…と今泉が盛り上がりすぎた気持ちを
どこへやるべきか困惑し始めた時、携帯が震えて着信を知らせた。
静かすぎた部屋の中で、その振動とチカチカ瞬く光に腕の中で坂道が驚いたように身動ぎする。

「誰だ、こんな時間に」
腕だけ伸ばし携帯の表示を見て、だが今泉はげんなりした。
メールの文面にさっと目を通すと、それを坂道に見えるように目の前にかざしてやる。

件名はいつも通り 『はよ別れんか!フラれてまえスカシ!』
文面はといえば 『どうせまだ起きとるんやろ、そこのバカップル!明日は天才・鳴子様が大活躍して
おまえらにスンマセンでしたて言わせたるからな!覚悟しとけよ!ワイは小野田くんしか慰めんからな!
自分の涙は自分で拭けスカシ!』 と書かれていた。

「うわ、鳴子くん夜中にわざわざ煽らなくてもいいのに…」
内心ひえええ〜と思っている坂道を片腕に抱いたままで、今泉はリモコンで一旦部屋の明かりをつけた。
ぱっと明るくなり、うわ、眩しい…と坂道が目を伏せている間に、今泉は無表情で携帯をちゃっちゃと操作
する。

「坂道」
「えっなに」
「あっち見ろ」
急に言われて頭も回らぬまま、今泉とくっついた状態で彼がかざした携帯の液晶に目線をやる。
カシャ、とシャッター音。

「え、え、ちょ…今の撮った?え、まさか今泉くん送る気じゃ…!!?」
「もう送った」
「うわあああああ…明日鳴子くんに何て言うの」
「別に。バカップルらしいとこを見せてやっただけだって言ってやれよ」


それよりもう寝るぞ、と声をかけると、うんじゃあ僕自分の部屋戻るねと坂道が布団からもぞもぞと抜け出
そうとした。
その体を有無を言わせず布団で再度ぐるぐる巻きにし、ベッドに転がしてやった。
身動きとれなくなった所を見計らいまずはメガネを取り上げ、無抵抗の相手の額と鼻先にキスを落とし、最後
に唇を触れあわせた。

「だめだ、ここで寝ろ」
「いやいや、行動に移る前にそれ先に言おうよ!」
「どうせ全部実行すんだから、後で言おうが先に言おうが同じだろ」
「心の準備があるんだよ。ドキドキしすぎて死んじゃうよ」
「おまえ、いつになったら慣れるんだよ…」

ベッドサイドの携帯が何故か怒ったような勢いで震え出す。きっと鳴子からだろう。
二人とも同じことを思い、だが笑みを交わすだけだった。明日のことは明日のことだ。今はこの人と眠る方が
先決だった。

「今泉くんと一緒に寝たら、はやく明日に到着しそうだね…」
眠そうな声で坂道が言う。
ああ、競争すんぞ、遅れんなよと言うと、うんわかった…と頷き目を閉じる。眠りかけていても律儀だ。
それがおかしくだが愛しくもあって、今泉は坂道の寝顔を見つめながら 「一緒に遠くまで行こうな」と呟いた。

美しい光を湛えた朝は、彼らが思っていたよりもずっと優しい速度で二人を迎え入れてくれようとしていた。