「今泉くん、手嶋さんが二人一組で15分おきにスタートして走ってこいって」
「…そうか、じゃあ久しぶりに一緒に行くか小野田」
「うんっ!僕と今泉くんポジションが違うから最近あんまり一緒に走ってなかったしね」

今日も暑いな、と坂道は空を見上げる。毎日、毎日のことだ。
だが、今のうちに慣れておかないとインハイの時はどんな天候なのか分かりはしない。
(自然ってどうにもならないものだけど、条件はみんな一緒だ)

去年はインハイ途中で田所が体調を崩した。あんなにスタミナのありそうな人でもそうなる。
鍛えて備えておくしかない。
僕はまだ体もひょろひょろだし、もっと食べた方がいいかな…と思った。

そういえば今日の昼食の時、今泉はあまり食欲がないようだった。
そういう日もあるだろうけど、今泉くんは弱音なんて言わない人だから、無理しないか心配だな…と
ふと隣に立つ彼を見上げる。

「おーい、小野田、今泉!スタンバイしろ」
遠くから手嶋が手をあげて呼びかけている。
二人は傍に置いていた競技用のヘルメットに手を伸ばした。カランと音をたてて今泉のヘルメットが
地面に落ち、坂道は目をみはる。

「……今泉くん?大丈夫?」
「悪い、すべった」
同時にかがんでヘルメットを拾おうとした瞬間。触れあった手にびくっとしたのは坂道の方だった。
(えっ!?すごい冷たい)

眼鏡の奥から今泉の表情をじっと見つめる。いつもいつも見ている人だ。大事な人だ。
いつもと違うところはないか、観察する。
だが今泉は自分に呆れたようにふ、と微笑んで、ほら行くぞと坂道を促すだけだった。
おかしいな、僕の気のせいだったかなと眉を寄せるが、それ以上気になる所は見つからない。
そのまま坂道は、その時今泉が無意識に発していたサインをとうとう受け取りそこなってしまった。



平坦を走り抜け、もうすぐ登りに入る。斜度があがった途端に坂道は水を得た魚のようにケイデンスを
あげ始めた。
楽しげに軽く早く車輪を回し、ほとんど歌い出しそうなほどご機嫌で坂を登る。

だが、その頃には今泉の手足は泥のように重たくなっていた。
朝起きた時には体調の悪さを自覚していた。
しかし、学校を休むとか部を休むという考えはかけらも浮かばなかった。
今年の自分は総北のエースだ。
なのに少々の体調不良で休むようでは、いい雰囲気で仕上がろうとしているチームに申し訳が立た
なかった。

自分のハアッハアッという息づかいがうるさい。蝉の鳴き声もうるさい。
普段は境目も分からない程一体となっているはずの自転車のホイール音がうるさい。
頭から水をかぶってみたが、じっとりと不快に湿気がまとわりつくばかりだ。

焦げ付くほど熱くなったアスファルトが、ゆらゆらと陽炎を立ち昇らせている。
先へ行く、坂道の姿が遠い。
黄色いジャージの背中はまるで向日葵のように鮮やかなのに、追いつけない。

気づけば、坂道と自転車、その足元に水たまりのようなものが光って見えていた。
雨なんか降ってない。
一瞬で水分など乾ききるような、そんな日差しの下なのに。
(ああ、何だったっけな…前にも見た…)

きつい日差しに眩暈を覚えながら、今泉は混乱した頭で記憶を探った。
去年のインハイの最終日だ。
断腸の思いで坂道を一人送った。小さな背中を必死に前へ押し出した。

(……あの時)
あの時も、自分と坂道を隔てる地鏡のような水たまりを見た。
後で逃げ水と言うのだと知った。蜃気楼だ分かってる。錯覚なのだ、それでも。

(逃げていくんだな…また届かなくなるのか…)
一緒に行ってやりたかった。あの日、手の震えを止められずにいた坂道と。

好きな相手がするりと手元から離れ、消えていってしまうその心もとなさ。
それが怖くて今泉は力なく笑った。
(つれていってくれたのむから)
脆くなってしまった思考の最後のかけらで、相手に願ったのはそれだけだった。

空がぐるりと回った。
おかしなぐらいの解放感と、うるさい音が消えるのと、体をうつ衝撃、それら全部を感じながら
今泉の意識はブラックアウトした。



「今泉くん!今泉くん!!」
突然、背後でひどい落車音がした。振り返った時にはもう、今泉の体は自転車ごと路肩に無惨に
放りだされていた。

凍りつくような思いで彼に駆け寄り、意識を失ったその体を安全な場所へとひきずっていく。
汗で貼りついた前髪を指でかきあげ、顔色の悪さにに心底怖くなった。
だが泣きそうな声で何度も呼ぶうちに、今泉はうっすらと目をあけこちらを見た。

「………さかみち」
名を呼ばれ、安堵と喜びと憤りと愛おしさがごちゃ混ぜでどっと胸にこみあげる。
ぼろっと涙がこぼれた。俯いていたから眼鏡のレンズにまでそれが落ちる。
坂道もショックを受けていた。今泉が落車する所など見たことなかった。ましてこんなに弱って動く
こともできない彼を。

落ちる涙をぐいぐいぬぐいながら、坂道は今泉のヘルメットを外し、ジャージを緩めた。
「頭打ってない?体痛いとこは?怪我してない?吐き気は?なにか飲める?それと…それから…っ」
矢継ぎ早に思いつく質問を並べる坂道に、今泉は口元だけで苦笑した。
「……坂道。大丈夫だ、悪かった……泣くな」
「泣くなって…言われたって…」

緩慢に持ち上げられた今泉の手を、両手でぎゅっと握りしめた。まだ冷たいそれ。
こんなにじりじりと暑い日差しの下、それが頼りなく思えて、だけど大切で大切で。
(きみが好き。いちばん誰よりもなんだ。ちゃんとわかってくれてる?)
だから僕が追いかけられないような所へぜったい行かないでほしい。
埒もない、そんなことばかりを必死に念じつづける。


「もう少ししたら後続が来るよ。きっと鳴子くんと青八木さんだと思う」
「……だな。さすがに動けねーし、監督に車出してもらうしかなさそうだ」
「今泉くん、今日ずっと体調悪かったんだよね?たまにそんな気がしてたんだ…」
「怒ってんのか?」
「怒ってるよ、気づいてたのにちゃんと聞かなかった自分に」

そう言いながら、坂道はホルダーにさしたボトルを取ってきてキャップを開けた。
身を起こすのを助けられながら、乾ききった体に水分を補給する。
それでやっと深く楽に呼吸ができた。
そういえば、人間の体の6〜7割は水だったなと考える。
滞ってしまった自分を助けてくれた坂道は、呼び水みたいなもんかと今泉はすこし笑った。

今は隔てるものがない。
いや、隔てていると感じたあの水たまりは、自分の弱さが見せた幻だった。
こいつはいつもそばに来てくれる。
自分も、たとえ体は離れても心だけは必ず一緒に行く。
(あの日、そう言ってきかせたのは俺の方だった…)


「今泉くん、ちょっと横になってて」
「ああ」
熱はないみたいだね、とひんやりとした手が額に触れた。優しいその感触に溺れそうになる。
そのまま、坂道は目の上に手をかざしていてくれる。
きつい日光をさえぎる影すらない場所なのに、風が吹き、とても静かで、今泉の心は今日初めての
安寧に包まれた。

「眠ってていいか」
「いいよ、僕がちゃんといるから」
「どこにもいかないでくれ」

そう言うと、かざされた手で顔は見えなかったが、坂道が少し言葉に詰まったような雰囲気が伝わ
ってきた。
「今泉くん、もしかして甘えてる…?」

言葉で答えることはせずに、ただ口元に笑みを浮かべる。
深い場所へ引き込まれるように意識がまた沈んでゆくのを感じた。
だが今泉には分かっていた。坂道は言ったことを必ず守るから、何も心配する事はないと。

遠くに自転車の音を聞いたような気もしたが、それもやがて高い高い夏空の極みへと溶けていった。