時間あるなら裏門坂歩いて降りねーか?と彼が言った。
柔らかないい匂いのする風が吹く春の夕暮れ時。
坂道は少し驚いてから、ブンブンと必死に頷いた。

今日はウルサイのもいないしな、と言いながら、今泉は慎重な手つきでSCOTTを引き起こす。
走っている時はどうしても愛車に負担をかけてしまう。
でも普段は、坂道がちょっと妬けるぐらいにその青い自転車は大切にされていた。

羨ましいな…と思うのは、気持ちが深まった証拠だろう。
今はどうやっても勝てなさそうだし、自転車の次でいいから好きでいてほしい。
そんな事を考えて、何だかくすぐったい気分になる。


斜度のきつい裏門坂を、カラカラと自転車を引きながら二人で歩いた。
今は同じクラスだし、坂道とはほぼ一日中一緒にいる。
それは有難かったが、自転車で埋め尽くされた毎日では二人きりの時間など容易に作れなかった。

(せっかく両想いになったってのに)
だが友達でも仲間でもない時間をひねり出そうと努力する自分は新鮮だった。
初心者には難しい事だらけだが、ちゃんと言葉や態度で伝えていきたいと今泉は思う。

誰かを好きになる自分など想像できなかったし、何故好きになるのかも分からなかった。
だがそれは頭で考えるよりも先に来た。
気がつけば坂道は世界の真ん中にいた。ただもうそれだけの事だった。



「今泉くん…あのさ、あの去年…」
「うん?」
さっきから言おうか言うまいか迷っていた。去年の今頃彼と出会い『走れ』と言われたこと。
(けど日付まで覚えてるって、記念日好きの女の子じゃあるまいしちょっと気持ち悪いかなー)

ううーんと坂道は内心で頭を抱えた。
百面相をしている坂道を見て、今泉はおかしそうに笑った。
それは鈍い坂道にも分かるぐらい特別な笑顔で心臓が跳ねる。ドギマギする。

「お前とここ競争した事か?早いもんだな、もう1年たったのか」
「うんそう!覚えてた?」
「忘れるわけねーよ。それに正確には去年の明日だ」

きょねんのあす…と坂道は呪文のようなその言葉を呟いてみる。
今泉も覚えていてくれたのが嬉しい。そして今下っている坂を必死で登ってくる自分たちが見えるような
気がした。

(僕はまだママチャリで走ってた…)
でもその自転車には今泉がサイコンをつけてくれた。幹がサドル位置を直してくれた。
性能はロードレーサーと比較にならない。
だがそれはもうただのママチャリではなかった。始まる未来を積んでいた。

「じゃあ、去年の今日の僕は…もう今泉くんに出会ってたけど、その先に何が待ってるかまだ知らない
んだね」

小さな世界でうずくまっていた自分が懐かしく愛おしいと思う。そっと語りかける。
もうこの人は来てくれたよね?
ど素人の僕にママチャリで競争しろなんて無茶を言うからビックリしただろうね。
何がしたいのか何を欲しがってるのか全然分かんなくて。でも本気の目をしてたから引っぱられたんだ。
引っぱり出された。外へ外へ。


「オレも同じだな。去年の今日…まだ何が始まるのか知らずに一人で勝手にダメになりかけてた」
「…今泉くん?」
それは自分が愚かだったからだ。だがとても苦しんでいたのだと今は分かる。
(どこにでも行ける自転車に乗ってるくせに、どこにも行けなくなっていた)

前を見れば、世界は果てしなく広がっているのに。
あの頃の自分は何より好きな自転車さえ見ていなかった。顔を伏せ、内に籠もり、ペダルを踏むだけで
強くなれたとバカみたいに勘違いしていた。

「オレにはおまえが必要だったんだよ、坂道」

胸が痛くなるような優しい声で今泉がそう告げるのを、坂道は目を見開き、ただ聞いた。
なんでも出来る人、なんでも持っている人だと。
周囲に思われている今泉が自分を好きだと言ってくれた時、どうして?と思わずにいられなかった。

(でも今は少し分かる気がする)
誰でもそうだ。彼も、完全な強さなど持ち合わせてはいなかった。
焦ったり、気持ちがくじけたり、泣いたり、もう駄目だと思ったり、ロードレースはそんな事の連続で。
(だけど今泉くんは、ずっと一人で走ってきたんだ)
弱みを見せず、ずっと先頭を独占してきた彼が、あの頃抱え込んでいたものは。


「今泉くん……ダメになりかけてたって言うのは」
さやさやと葉ずれの音がする。
夕暮れのオレンジ色。うねるこの坂をずっと歩いていたくなる。

今泉の横顔も穏やかだった。
だが一瞬、坂道は踏み込むのをためらった。
それぞれが隠したい傷を持っている。自分だってそうだ。
だがこの人の事をもっと知りたいという願いは増すばかりで。どうしようもない、これが恋の部分なのか
と考えてしまう。

「それは御堂筋くんとのことで、かな」
低い位置から必死に見上げてくる坂道に、ああ聞かれたな、もう逃げらんねーなと今泉は思った。
踏み込まれたい、踏み込まれたくない。
好きな相手にかっこ悪い部分をさらしたくないのは当然で、だがここまで来てほしいと願う二律背反。

「まァそれもあるけどな。そのせいで自分が勝つ事ばっか考えるようになって、一人でいいと思って、
その度にオレは狭く狭くなって……息をするのも苦しくなってった」

がっかりしたか?こんなんで、と言うと、坂道は少し怒ったようにぶんぶん首をふる。
ハンドルにかかった手、制服の袖口をぎゅっと握ってきた。
なんで手じゃねーんだと笑い、坂道の左手を指から絡めとる。温もりが直に触れ、伝い近づく感覚。
一人のままでは決して知りえなかったもの。
ここにいてくれる人。


「でもなんかな、今は自転車があったらどこへでも行ける気がする」
「うん、僕もだよ。でも今泉くんと一緒だともっと楽しいよ」
「楽しいか。おまえそればっかだな」
「う…ヘンかな」
「いや…いい。オレに足りないものはおまえの中にあるんだろ。だから好きになったんだ」

さらりと言われ、慌てたら恥ずかしいと思うのに繋いだ手が温度をあげた気がした。
終わりが来て欲しくなくてゆっくりゆっくり歩くけれど、裏門坂の果てが遠く見えてくる。
(僕に足りないものも、きっと君の中にある…)


去年の明日、自分と彼はこの坂で奇妙なレースをする。
ロードレーサーとママチャリ。優勝ばかり重ねてきた経験者とド素人。
だけど全力で、なにもかもを忘れ去るようにして登る、登ってゆく。ゴールまで。
(走った人にしか分からないんだ。だから走って、今泉くんと僕)

「坂道、明日ここ登るか、二人で」
「あ、僕が今言おうとしてたのに」
「ハンデは…もう要らないな。負けるのイヤだしな、オレも」
「今泉くんが相手でも、僕も登りで負けるわけにはいかないよ」
「競争だ」
「競争しよう」

未来に何が待っているのか分からなくても、約束を自分たちはきっと守るだろう。
そう信じることが力だった。
繋いでいた二人の手は、いつの間にか指切りのかたちに結ばれていた。