その鉢植えを買ったのはほんの思いつきだった。
大学にほど近い本屋で、好きなアニメ雑誌を手に入れ、他に何か…と思った時にふとそれが目についた。

小さなラッパのような形の黄色い花。かわいいな、と坂道は微笑む。
決して派手な花ではなかったが、何だかいいと思った。
店先にそれが置いてある花屋は、とても洒落た店だったのでちょっとだけ躊躇したが、おずおずと近づく。
髪をひとつに束ねた女性の店員さんが気がついて、「気に入られました?カロライナジャスミンって言うん
ですよ、それ」と笑顔で教えてくれた。

「ジャスミンて、あのお茶のですか?」
「本当はジャスミンの仲間ではないんですけど、そういう香りがするんです。育てるのも簡単だし花つきも
良いですよ」
「ベランダに置いて育てられますか?」
「日当たりのいい所に置いて下さったら大丈夫です。育て方のメモもお渡しできますしね」
「じゃ…じゃあひとつください!」

買っちゃった…と、ビニール袋にはいった鉢植えを見て坂道は目を細める。
花なんて母の日のカーネーションぐらいしか買ったことがない。
それに自分の部屋ではなく、ベランダという共有スペースに置くのだ。同居人である今泉は気に入ってくれる
だろうかと思った。
(先に聞いてみるべきだったかなあ…)

高校生になってからずっと自転車競技部で一緒で、レースでも一緒に走ってきた人。
そうして、自分の初めての友達にもなってくれた。
優しくて強くて速くてかっこいい。友達想い仲間想いでもある。
いいところしか思いつかない。
そんな今泉を、いつの間にか恋心的な意味で好きになってしまった時、坂道は嬉しかった。
絶対誰にも悟られないつもりだったし、好きなだけなら許されるだろうと思ったのだ。

(付き合って2年になるなんて、今も夢みたいに思える…)
高校2年の時、彼に好きだと言われた。信じられなくて、たくさん泣いてたくさん笑った。
最後に彼の手をおずおずととって、気持ちを受け入れた。
自分は自転車でぐらいしか彼の役に立たないし、ガッカリされるんじゃないかと不安な時期もあったが、今泉
は変わらず優しく、だがそれまでにない熱をこめて坂道に接してくれた。

それ以上に幸せなことなんか、もうありえないと思っていたのだ。
だが、同じ大学に進学し自転車競技も続けながら、二人は今同じ部屋に住んでいる。まだ大学生になった
ばかりの初夏だから、住み始めたというのが正しいか。
ルームシェアをしたい、と今泉が坂道の母に持ちかけてくれたのだ。
初めて実家を離れる息子を不安視していた母は、大喜びでそれを承諾した。

これって実質、同棲ってことかな…と坂道ははわわ…となったが、4年も彼と一緒に暮らせるのだとじわじわ
沁み込んでくると、頬がひどく火照ったのを覚えている。
学校でも部活でもずっと一緒だったけど、忙しくてなかなか恋人らしい時間をとる事ができない二人だった
のだ。
『お前らみたいにいっつも一緒におれる恋人同士なんてなかなかおらんのちゃうか』と、鳴子にはよくからか
われたものだが、恋に不慣れな坂道でもやっぱりいちゃいちゃしたい。

嬉しかった。こんなに全部願いが叶っていいのかなと心配になったぐらいだ。
だから僕は今泉くんの邪魔にならないように、好きでいてもらえるように頑張るね!と言うと、彼は『お前は
お前のまんまが一番いいんだよ』と深い静かな声で言ってくれた。



「た、ただいま〜」
妙な声音で帰宅の挨拶をする坂道に、今泉は小さく笑ってしまった。
どれだけ一緒に過ごしてきたかと思うのに、同居してから坂道の緊張はなかなかとれずにいた。
なんでそんなガチガチなんだよ?と聞くと。
『や…やっぱり一緒に住んだら僕の嫌なとこが今泉くんにバレちゃうんじゃないかと心配で…』と言い出し、
何を今さらと呆れたものだ。

でもまあ、数カ月たったので肩の力も抜けてきている気がする。
俺の方こそ坂道に嫌われないようにしねーとな…と思いながら、リビングに新聞紙を広げ、その上でバイクの
整備をやっている自分を省みる。
これは大丈夫なのだろうか。
自分の部屋でやるには手狭なのでここでやっているが、油の匂いもするし、一度確認しとかねーとなと思った。

ふと顔を上げると、坂道がにこにこと見下ろしている。
「なんだよ、どうした?」
「うん、僕、今泉くんがバイクの整備やってるとこ見るの大好きなんだ」
「はあ?なにがいいんだよ?」
「整備士さんみたいでかっこいいし、自転車をすっごい大事に扱ってるの分かるから、少し羨ましくなるぐらい
なんだよ」
「羨ましいって…自転車がか?」
「う、うん……これってやきもちかな」
「お前のことも同じか、もっと大事にしてるつもりだけどな、俺は」

足りねーってんなら…とニヤリと笑うと、坂道は腕に抱えた荷物をそのままに赤くなり、大丈夫、充分足りて
るよ!と首をぶんぶん振る。
それに合わせて小さな花がかすかに揺れた。甘い香りがしている。
「どうしたその鉢植え。買ったのか?」
「えっあっそうなんだ!見かけて何か欲しくなっちゃって!ベランダに置いてもいいかな」
「いいに決まってんだろ。見せてくれよ」

そう言われてみると、ベランダには何も置いていなくて殺風景だ。
あまりそういう事に頓着する今泉ではなかったが、恋人同士で住んでいるのに潤いがなさすぎたかとも思う。
その辺の情緒は、アニメや漫画を好きな坂道の方がまだ発達しているのかもしれない。
(それにしてもこれ…)
小さな釣鐘型の黄色い花。あまりにも坂道本人のイメージに近くて思わず笑ってしまう。
黄色にもいろいろあるが、今乗っているBMCによく似た色の花だった。

「育て方のメモも貰ってきたから、僕明日から水をやって世話をするよ」
「……いや、俺に育てさせてくれねーか」
「えっ?なんで?今泉くん園芸とか好きだっけ?」
「それはねーよ。けど…こいつお前に似てるだろ。お前が言うところの『俺が大事にしてる物リスト』にこれ
を加えてみるかと今思ったんだよ」
「えええ〜ぼ、僕に、似てるっ?」
「似てるだろ、黄色いし」

あと小さくてかわいいしな、と今泉は心の中で付け加えた。
実のところ、自分はまず坂道をかっこいいと思っているのだ。誰より尊敬もしている。
だから不用意にかわいいなどとは口にしない。女の子に言うようなそれでもない。
だが、明るいその笑顔も声も、たまにおかしな事をしでかすところも、かわいいとしか表現できない時があっ
て、それは愛しいと同義なんだろうといつも思っている。



かくして、今泉は本当に鉢植えの世話を始めた。
やるとなったら徹底してるんだよなあ今泉くんは…と坂道は感心するやら呆れるやらだ。
育て方のメモを読み込み、さらにネットで検索して印刷したもっと詳しいものをコルクボードに貼っている。

鉢はひとつしかないのに、立派なガーデニング用の台とじょうろも買ってきた。
朝は土が乾いてないか確認してから水をやる。たっぷり目がいいらしい。
つるがよく伸びるタイプの植物なので剪定をしたり、わき芽を摘んだり、粒状の肥料を少しやったりと、お姫
様みたいに大事に扱っていた。
「やってみると案外おもしろいな」と言う彼の手元で、明らかに花数を増やしたカロライナジャスミンはつや
つやとした黄色を見せつけている。

(僕に似てるって言ってくれたっけ…)
だが、妙にしょんぼりしてしまうのは何故なんだろう。
訳がわからなくて坂道は何度も首をひねる。
自分が買ってきた花をあんなに大事に育ててくれてるのに…と反省しきりだ。

だけど何となく分かる所もある。
これまで彼のスコットにさえ少々やきもちをやいていたのだ。
なのにあの鉢植えは、即日『今泉くんの大事にしてるものリスト』に加えられた。
まるでライバルが増えたみたいだ。狭量な自分をいやだなあと感じるのだが、恋する心はままならない。

例えば、坂道にも大事にしている物はいろいろある。
シンプルな今泉の部屋とは違い、大好きなアニメのグッズで満ち満ちた自室の中でもラブ☆ヒメの湖鳥フィギ
ュアなんかは特別な一品だ。
(今泉くんは僕の好きな物に嫉妬することなんか……なさそうだなあ)

付き合う以前から、彼は無理をして…今は無理をしていたのだと分かる…グッズ買いやイベントやアニメ映画
にも一緒に行ってくれたりした。
背が高く体が大きいので、今泉が同行してくれると何かと助かったものだ。
よく分からない商品を見せても、オタク知識を流れるように披露しても、彼は楽しげに自分を見ていた。
後で聞いたら、『俺は自転車以外に趣味とかねーから。好きなモンの話してるお前はキラキラしてて羨ましい
んだよ』と言ってくれたものだ。
(ああ、なんてよく出来た人なんだ…やっぱり僕にはもったいなさすぎる)

だけどそれでも、今泉と鉢植えが二人の世界を作っているのに何だかとてももやっとするのだ。
それはあの花に自分が手出しできないからかもしれない。
(でも、今泉くんはこれに触っちゃダメだなんて言わなかったよ…?)
(僕が勝手に近づけないって思ってるんじゃないか)
(疎外感を感じてるのも僕の方だけだ)
そこで坂道はやっと気がついた。自分は少し…寂しかったのだ。
この花を一緒に育てようと今泉に言われたかった。悪気なんかどちらにもないのに、いつの間にか二人はちい
さく行き違ってしまっている。



(なんか、ちょっと失敗したか…)
夕方から雨が降ると知って、今泉は花の鉢を台ごと部屋の中に入れた。
我ながら植物を初めて育てたにしては良い出来だと思う。
だが、これの持ち主である坂道は花を遠目に見て「きれいだね」と微笑むだけで、少しも触ろうとしない。
アイツが買ってきたのに俺の物みたいになっちまったからな……とどこから間違えたのか、考え込んでしまう。

あの時言ったとおり、坂道に似ていると思った。
だからこの花を枯らせたりしたくなかったし、懸命に調べて大事に世話をした。
自分には自転車以外に趣味もなかったから、意外と楽しくてはまってしまったという所もある。

だけど、本当は失敗しても枯らしてもよかったのかもしれない。
いろいろ調べてあれやこれやと話をして、たまに二人ともが水をやりすぎてしまったり、そういう事の積み
重ねを生活に取り入れたくて、坂道はこれを買ってきたんじゃないだろうか。
もちろん彩りという意味もあったのだろうが。

(俺はもともと人の気持ちの機微っつーのか…そういうのにうといからな…)
坂道は自分を完全無欠だと思いこんでいる節があるが、どうしてそんないいモンじゃない。
優しくしたい、大事にしたい、そういう思いがうまく伝わっているのかも実はあんまり自信がないのだ。

坂道が危惧した通り、一緒に住むというのはなかなか難しいことなんだろうなと今泉は考える。
だから小さなすれ違いも見過ごさずに、よく話し合って軌道修正してかねーと…と一人反省した。
せっかくこんなに幸せなのだ。
誰の目も気にせず触れあったり、想いを隠さず見つめあったりできるのだ。
俺も変わらないとな……と指先で黄色い花を撫でながら思う。それだけで周囲にはいい香りがふわりと漂った。


玄関の鍵がガチャガチャ回る音がした。
その慌ただしさに今泉は軽く目を瞠る。坂道には違いないだろうが、いったいどうしたのだろうか。
ぱたぱたと足音がしてリビングに入ってきた坂道はひどく息をきらしていた。
興奮したように頬までも火照らせて、だがその目は明るくきらきらと光っている。
そうして彼の手の中には、不思議な色合いの青い花の咲き乱れている植木鉢が抱き込まれていた。

「坂道……」
「プレゼントだよ。これっ…今泉くんに!」
「俺に?くれるのか」
「うん。今度は今泉くんに似てる花を探したんだ。見た途端これだって思った。綺麗な青で、星みたいで!」

またあの花屋に行くと、幸いこの前の店員さんがいた。
もうひとつ鉢植えが欲しいんです。今度は同居人のイメージの青い花のがいいんです。
そう言うと幾つか出して見せてくれたのだが、第一印象でもうすぐに決まっていた。
なんて綺麗なんだろう。本当に今泉くんにそっくりだと思った瞬間、それに自然に手は伸ばされていた。

「花びらが5枚で星みたいなんだけど、これね本当にブルースターって名前なんだよ」
「俺に似てるって……思うのか」
「うん!いつでも輝いてる。目印になる。勇気をくれる。僕にとっての今泉くんはそういう人だから」

本気の本気でそんな事を言う。偽りなどかけらも見当たらない大きな澄んだ瞳。
(ああ、そんなだから。いつだって俺はお前には敵いっこないんだ…)

坂道が、頭上にかかった雲もそうしてはね除けてしまうから。本当に太陽のようだから。
それに救われる。輝いてる。目印になる。勇気をくれる。
もし口に出してそう言えば、ビックリしてそんな事ないよと言うのだろう。だが自分は知っている。
もう長く長くそばにいて坂道を見てきた。そういう全てをてらいもなく愛した。

青い花鉢を間に挟んで、背の高い今泉が軽くかがみ込む。
額には親愛のキス。そして唇に恋人のキス。それがふわりと落ちてきた。

坂道はその触れ合いを夢見るように受け入れた。柔らかく掠め取るようなそれにじわりと目尻に涙が滲む。
ぼやけた視界のうちでも今泉はとても綺麗で。
そしてその表情を見るだけで、自分と同じ想いを彼が抱いているのはちゃんと伝わってきた。

「ごめんな。悪気があったわけじゃねーんだけど、ちょっと寂しくさせちまったか」
「ううん。僕が素直にしてれば良かったんだよ」

「今度は一緒に…」
「うん、そうだね。一緒に育てようか。これは僕の『大事にしてるものリスト』に入れるよ」
「綺麗な色だな」
「うん…うん…そうなんだ…そうだよね…」

僕がちょっとだけグルグルしてるの、気づいてたんだ…?と坂道が首を傾げるから、今泉はゆっくり頷いた。
ロードレースをやっていると、チームメイトには弱い部分をどうしても見せるし見てしまう。
挫折したり倒れたり涙を流したりもしょっちゅうだ。
だから自分たちは、誰かの悩む姿をだめだとは思わない。乗り越えていくものだと知っている。
ことさらに説明したり言い訳する必要はなかった。

「ああ。俺らは長く一緒にいたから、相手の事は分かってるとどうしても思い込んじまうよな」
「うん…本当だ」
「だけど違う人間だから、分かんねー事やすれ違うこともやっぱあるんだ。なあ、坂道…」
「僕はちゃんとここにいるよ。何、今泉くん」
「俺もお前に嫌われたくない。けど失敗なしではいられないのも知ってる。それを恐れる気はねーよ。ただ
もっとよく知り合っていけたらって思ってんだ……」


外には音もなく細かい雨が降り出していた。二人の部屋の窓に斜めの線をぱたぱたとつけてゆく。
だがぶ厚い雲の切れ間からは、幾筋かの光が差していた。
それが花の青に光沢をもたせ、より一層不可思議な色にしている。まるで己の力で光っているようだ。

(これは幸せを呼び込む花だって、お店の人が言ってた…)
ふふ…と坂道は思わず笑ってしまった。
みんなを力強く引っ張っていく彼に、やっぱりそっくりだ。時には運命すらも味方につけて走る。
自分も引き寄せられた人間の一人だった。いつもその背中を必死に追い続けてきた。
この人に出会わなければ僕はどうなっていたんだろうと、ふと考えることがある。
この手の中には何もなかったんじゃないだろうか。想像するのも怖いことだ。彼を知らない世界だなんて。

(僕ね、君のことが本当に大好き)
心の中でそっとそう告げると、坂道はもう部屋の中に入っていた台に近づき、カロライナジャスミンの隣に
ブルースターを恭しく飾る。
青と黄色。僕らによく似た花。
僕らの生き方と意思を象徴する色。自転車とも同じだ。君がぜんぶを教えてくれた。

「この青い花と黄色の花も、今日から僕らと同じ二人暮らしだね!」
嬉しくなってそう言うと、今泉はいつもは細められた目を見開き、ふいに坂道の肩を抱いて快活に笑った。
「仲良くしような」と彼は言う。
友達になった時にすら言われなかったその言葉に、ふわりと体が浮き上がるような心地がした。

ああ、嬉しい。
新しい生活はワクワクするような新鮮な出来事でいっぱいだ。
君の今まで知らなかった顔を知りたい。
ふたつの鉢植えを仲間に加えて、さして広くもないこの部屋で、二人は改めて幸せなスタートをきった。




花言葉:
カロライナジャスミン 「甘いささやき」「素直」「気立てのよさ」
ブルースター 「幸福な愛」「信じあう心」