思えば、この部屋のキッチンには最初から調理器具も調味料もそろっていた。
男の一人暮らしにしては、食器類も結構あった。
茶碗、小皿、大皿、深皿、グラス、コーヒーカップ。それと箸や鍋敷き、鍋つかみ。
それらが手に取りやすいよう配置されているのにジェノスが気づいたのは、随分たってからの事
だった。
そう、自分で家事を色々とやるようになってからだ。

サイタマの部屋に押しかけ居座ったのはいいが、師は持っていった金を受け取ってくれなかった。
これは正直想定外だった。
この部屋が男二人で住むにはとんでもなく狭いのはさすがに理解していたし、不自由の代償に
金銭をと思っていたのに。
それを突っ返されるとジェノスは途方に暮れた。顔に出ないから、その困惑ぶりは少しも師に
伝わっていなかったのだが。

一生懸命考えた末、ならば先生のために家事や雑用をやろうと決意した。
家事というのは、プロフェッショナルな者ならば給料を貰えると聞く。
(俺がそれぐらい優れた働きぶりをすれば、きっと先生に満足していただけるはずだ!)
そういった事をした経験は生身の時代にもなかったが、今は便利なものだ。
ネットで検索すればノウハウも裏技もご丁寧に写真つきで閲覧できる。

洗濯や掃除は、意外と上手くいった。細かい作業をするためのアームを博士にもらい、家にいる
時はそれを使う。
アイロンがけもじきにコツを掴み、きれいに仕上がると、何か誇らしいような気がした。
もっとも最初、服のしわを取るために焼却砲から温風を出そうとして2〜3枚サイタマのTシャツを
燃やしたし、パンツにアイロンをあてるなとも言われたが。
ジェノスとしては、パンツは先生の大事な部分を守っているので、いつもシャキッとまっさらのよう
な状態にしたいと思っている。
かくして師弟の間で、パンツにアイロンありかなしか論争は未だに終結せず続いていた。


問題は料理だった。
もちろんジェノスは一度も料理をした事がなかった。
だが、未経験だった洗濯や掃除が上手くいったので気をよくしていたし、レシピもある。
食材を切ったりするのは、アームがとても器用に出来ているからきっと大丈夫だ。

そして先生の事を思うなら、やはり栄養が大事だろうと考えた。
ハッキリ言って貧乏暮らし。だが、だからこそ少ない予算でも師に栄養のあるものを摂ってもらい、
ヒーロー活動にまい進して欲しかった。

だがジェノスは、料理には他の家事で使わなかった機能が要る事に気づかなかった。
味見をするための味覚である。
今でこそ備わっているが、最初はものを食べてエネルギーに変換するだけだったのだ。
それでも、レシピ通りに作れば “ちゃんと” 出来ると信じていた。
美味しく作ろうなどという考えは頭に浮かびもしなかった。もう何かを味わった記憶などとうに
薄れてしまっていたのだ。

「先生、今日のお昼は俺が作ってもいいですか?」
そう訊くと、師はひょいと眉をあげ、へえ…という顔になった。どこか面白がっているようにも見えた。
いいぞ、じゃあ頼んだと言い、また寝転がって漫画本を読む体勢に戻ってしまう。
調理過程を見る気はないようだった。

よし!とキッチンに立ったジェノスは、冷蔵庫から食材を色々取り出した。
そうは言っても初回だ。具材を炒めて炊いた飯と合わせ味をつけるだけのチャーハンにしようと
決めていた。
高い栄養価というと、肉・魚・野菜・卵・穀物を全て投入すべきだろう。
ソーセージを切り、ツナ缶を開け、カニカマを裂き、ピーマンやじゃがいもや玉ねぎや大根を細かく
刻んだ。それらが合うのかどうかは全く考えなかった。
卵を割るのは初めてで、力加減ができずにたくさん殻が入った。だが、カルシウム満点で却って
好都合だと思う。

(中華料理というのは、強火で炒めるのがコツとあったな)
コンロの火など最大にしても、とても強火とは感じられなかった。
できれば自分の焼却砲で炒めたかったが、それはまたの機会にする事にして、ぬるすぎる最大
火力にフライパンを乗せ、まずは大量の油を入れた。
「……?」
何故か油から湯気が立ってきたが、まあいい。

切った大量の具材を一気に投入した。ジュワアアア…とすごい音と煙が上がった。
そうだ、かき混ぜないといけないと思い、フライ返しを出してきたが、差し入れてみるともうフライ
パンに具材がくっついている。
なんだこの軟弱な調理器具は思いながら、懸命に焦げた部分をこそげ取りつつ、とにかくかき
混ぜ続けた。もう全体的に黒くなっている。火が通ったのか。

今だと思い、冷や飯と卵を突っ込んだ。キッチンはもの凄い匂いに満ちていたが、そんな事に
ジェノスは気づかない。
全部が黒くてネチャネチャしていた。写真ではもっと米粒がパラッとしていたような気がしたが、
いくらやっても粘度が上昇するばかりだ。

(そうだ、調味料を入れなければ)
もう取り返しがつかない所まで行ってしまっているフライパンの中身に、最後に醤油と塩こしょう
をぶっかけた。
豆腐と同じで上に調味料がかかっていれば何とかなるだろうと思い、そのまま大皿に初めての
料理を移した。何故だかものすごく重かった。



どうぞ、と弟子がテーブルにのせた皿の中身を、サイタマは三度見した。
今まで料理をやらせた事はなかったし、すごく美味いものが出てくるとは思わなかったが、これは
また悪い意味で予想のラインを軽々と飛び越えてきたものだ。
「なんだこれ」
一応、スプーンとフォークを握ってみたが、それぐらいしか言う事がない。もうむしろ面白いの範疇
に入るかもしれない。

「?チャーハンです」
向かいに座った弟子は意気揚々という顔をしていた。褒めてほしがってる大きな犬みたいだった。
「はじめてつくったので、ちょっと見た目は悪いですが」
「黒すぎだろ」
ツッコミどころが多すぎて指摘するのも面倒だったので、サイタマはそれだけを端的に言った。
弟子の眉が悲しげに少し下がる。

「いえでも、先生に栄養のあるものをとっていただこうと、俺もイロイロと検索をし知識を得ました。
なにぶん家族を失う前も後も、料理をする機会はなかったので、今回はじめて挑戦しましたし、
見た目と…もしかしたら味も悪いかもしれませんが、栄養価の高いものをふんだんに使いました。
栄養価は高いはず……です」

いつも通り、いやいつも以上に長すぎる説明セリフだった。だがその時のサイタマは、何故か
『ジェノス、20文字!』  と言う気にならなかった。
何が良くなかったのかも分からずに、「…栄養価は」とポツリともう一度呟く弟子。
キョトンとしている一方で、途方に暮れた子供のようにも見えた。
コイツなりに一生懸命ではあるんだよな…とサイタマはハゲた頭をかく。だからと言って褒める所
がないのは困ったものだ。

「あのなぁ〜メシは栄養だけあってもしかたないんだぞ」
「?」
よっと師が立ち上がったのを、訳も分からずジェノスは目で追いかけた。
怒っては…いないようだと思う。そういう雰囲気でない事だけは分かる。

「まぁ待ってろ。あ、そのメシはおいとけよ」
そう言ってサイタマはキッチンに入っていった。
はっとしたジェノスは、自分もその後を追い、キッチンの小窓から師がやっている事をじっと観察
し始める。

サイタマは焦げついたフライパンに苦笑いして、「あーこりゃ今は使えねーな」と言うと水を張って
横にやってしまった。もうひとつのフライパンをコンロにセットする。
出してきた具材はウインナーと玉ねぎとネギと卵だった。
先にといた卵を冷や飯に混ぜ込んでいる。卵かけご飯みたいだなとジェノスは思った。
器用に包丁を使い、玉ねぎをリズミカルに刻む手。
強大な力を秘めたあの手が、こんな細やかな動きをするなんて知らなかった。

小さめの火にかけ、薄く油をしいたところにネギをまず入れ、玉ねぎ、ウインナーの順に炒めていく。
そこへ卵と混ぜたご飯を投入し、強火に変えてジャッジャッとフライパンを振ると、中身は米も具材
もパラパラしているようだった。
(ネットの写真と同じような感じだ…)

あとは少し醤油を回し入れて、塩こしょうをふり、最後に小瓶を出してきて中身を2滴ほど垂らした。
また上手に撹拌する。
「先生、今のは何ですか」
「ん?ごま油。香りがよくなるんだよ」

目を丸くしている弟子は、いつもの自信満々な鬼サイボーグとは程遠いイメージだ。
サイタマは笑いが抑えられなくなった。
バカにしてるわけじゃない。微笑ましいとでも言えばいいのか。
コイツ、中身はなんかまだ子供なんだよな…と、胸のどこかが緩んだような気がした。

「ジェノス」
「はい、先生」
「料理とか飯とかには、たぶん、大切なものがたくさんあって…」
先生ぶるつもりはなかった。だがせっかく一緒にいるのだ、強さ以外にも後になってジェノスが
ここで覚えたと思い出す事があったっていい。
チャーハンを盛りつけた皿を、コトンと正座した弟子の前に置いた。
ホカホカ湯気のたったそれは、サイタマが初めて人の為に作ってやった料理だった。

「見た目とか、味とか、もちろん栄養もな」
黒くない!と驚いたジェノスが呟くと、そこかよ、とサイタマは肩を揺らし笑う。
(先生が、 『先生の顔』 をしておられる…)
声も顔つきも優しかった。何も知らない俺に呆れただろうと思うのに。

小さなテーブル。真っ黒でグチャグチャの塊がのった皿と、写真で見たようなパラパラの米粒の
チャーハン。
「そんで、あとは一緒に食う相手だ」
向かい合って座った師と自分。それが大切と、彼は教えてくれた。
皿から立ち昇る湯気のように、温かな言葉。

「ま、それは俺もすっかり忘れてたけどな」
少しむずがゆい気分でサイタマは弟子に白状する。いくら年上でも、自分みたいなのが何言って
んだという面映ゆさはかなりある。
「食えよ」
そんで、覚えとけと思った。
一緒にいた時間。お互いの為に作った食事のことを。

ジェノスがスプーンを持ち、無言でパクリと食べたのを見て、何とはなしにほっとした。
自分も目の前の惨憺たる作品を口にする。
苦いわ辛いわジャリジャリなのに粘っこいわ、それはもう凄いものだった。
だが、ジェノスは初めから人の為にこれを作った。俺よりずっと上等じゃねと思う。


結局、サイタマの作ってくれたチャーハンの味は、味覚を備えつけていないジェノスに感じ取る
ことはできなかった。
美味しいです、なんてウソは言えない。
だが、ひたすら手は動き、スプーンを何度も口に運んだ。

熱と口の中の物の感触、それしか分からないのは切ない気がした。
(ごま油を入れたら香りがよくなるって先生が仰っていた…)
ではあのたった2滴ほどで、いい香りがしているのだろう。それが知りたいと思う。

家族を失ってから、初めての希求だった。
奪われたもの、自分で捨てたもの、その部分を機械で埋めて今のジェノスは存在している。
それらを再び拾うことはできるのだろうか。
(味覚がほしいな…先生が作って下さったものの味が知りたい)
(今でも、口にものをいれて食べるということが、こんなにうれしいのに…)
(もし、美味しいですと言えたら俺はどんなに)

どこかふわふわした心持ちで、ジェノスは食べ続けていた。
時間になれば家のテーブルに料理が並ぶ。
その意味を、幸せを。当たり前すぎて考えたこともなかったそれらに思いをはせた。

「あっ、スープも作ってやりゃよかったなあ。チャーハンだけだったら飽きるよな」
スプーンを口に入れながら、サイタマが悪いな、と言った。
彼が皿の黒い物体を文句も言わずにパクついている事にギョッとし、今言われた事にも反応
しなければならず、ジェノスは大混乱に陥った。

「!? そ、そんな!絶対に!飽きない!」
師の平熱然とした顔を見ながら叫びたおし、あっ敬語じゃないとまた慌てた。
「いえっ!飽きません!!!」

だってずっと食べていたいと思ったのだ。味を知りたいとも思ったのだ。
うれしいのに。
こんな嬉しさは、100万回繰り返したって色褪せたりしないとジェノスは思う。
いつか、いつかは自分も料理が上手になって、サイタマにも同じ気持ちになってほしい。
(俺、さっきから欲しいばっかりだ…)

ジェノスの勢いに押され、少し眉をあげた師は、急にふはっと笑い出した。
そんな必死になんなくても伝わってるって、と言われたような気がした。
ものぐさで、言葉では多くを説明しない人だが、それでも一緒に暮らすうちに何となくそうだろうと
分かることもある。

「それより先生、そんな黒いもの、もう食べなくていいですから!」
「なんで。お前が俺につくったんだろ、食うよ」
そう言うと、師はまずくてまずくて大変だったであろう皿の中身をきれいに完食してしまった。



気恥かしくも懐かしい思い出だ。
だいたい今なら分かるが、チャーハンは火加減と手早い調理が求められる結構難しい料理だった。
初心者がぶっつけで作って上手くいくわけがない。
(あの時、先生が辛抱して全部食べて下さったのは大きかったな…)
お前が俺につくったんだろ、という言葉はジェノスの中に大切にしまわれている。
それをお守りにして、懸命に腕を磨いてきた。

「先生、お昼を作ろうと思いますが、チャーハンでいいですか」
「おう、いいぞ。何のやつ」
「シンプルですが、野沢菜と卵のチャーハンにしようかと」
ああ、あれ美味いよな。俺の好きなやつだ、と言う師に、どこかがじんわり温まる。
(あなたが好きだと言ってくれる、俺の料理)

「じゃあ俺、スープ作ってやるわ」と、サイタマは立ち上がりキッチンへ入ってきた。
「何のスープですか、先生」
「シンプルだけど、もやしとネギの中華風な」
「チャーハンだけだと飽きますもんね」
「いや、飽きたりしねーぞ。ジェノスの作ったメシなら」

絶対に、とサイタマは付け加えた。ああ、あの時のことを覚えておられるのかなと思う。
でも何の気なしに言ったとしても、それはそれで別によかった。
(俺があなたの為につくる料理と、あなたが俺の為につくってくれる料理)
それが一度に並んだ食卓はこの世で一番贅沢なものだ。

だからジェノスはキッチンが好きだ。
隣に立つ人には及ぶべくもないが、自分の手でうれしいを作り出せるこの場所を、いついつまでも
かけがえなく思っている。