目覚めは幸せなものだった。とてもいい夢を見た気がした。
スリープモード、カイジョシマスという機械音声。軽い衝撃と共に神経回路が繋がり、再起動が
始まった。

ジェノスは試しに指先を何度か動かしてみると、ゆっくりと瞼をあげた。
視界は濃い緑で埋めつくされていた。最初は焦点が合わずぼんやりと色しか見えない。
だが、博士の新しいラボに居るのは分かった。こんな植物園みたいな場所、他に知らない。
変わった建物だと思ったものだが、こうしているのは爽やかでひどく気分がよかった。

目のサーチ機能が何度か動き、徐々に物が形を成し始める。最初はただの緑色だったのが、
多彩な植物に姿を変えた。中央にある白いテーブルも見える。
そして、黄色いコスチュームを着て、『お〜い』と言うようにこちらに手を振る人の姿。
胸が引き絞られるような思いがした。
「……せん、せい!?」

一瞬でジェノスのすべては覚醒した。処置用の寝椅子からガバッと身を起こす。
だがすぐにでも駆け寄りたい気持ちとはうらはらに、ボディはたくさんのチューブに繋がれている。
苛立ちのあまり、それを引っこ抜こうとして止められた。

「これ、ジェノス。暴れるでない」
「博士、早くこれを外してください!先生…何故先生がここに…」
「落ちつきなさい。サイタマ君はずっとお前を待っておったんじゃ。あと5分ほど待たせても別に
何とも思わんよ」
さっぱり意味が分からなかった。だが博士の声に自分への深い慈しみを感じて、乱暴な動きは
止まる。
見れば、サイタマはのんびりと茶を飲み始めていた。完全に待ち体勢だ。

「さてと、オヌシどこまで記憶があるのかね?」
「記憶ですか。怪人との戦闘後、かなり破損した状態で先生に助け出されたところまでは…救難
信号も送りましたが、それ以降は覚えていません」

そうかそうか、可愛かったのにのう…と博士がおかしそうに笑う。
そしてジェノスの体に繋いである機材をひとつひとつ外しながら、何があったか説明をしてくれた。
破損時に回路に異常をきたし、まるで子供のようになってしまっていた事。
研究所に行くのを嫌がる自分に、一緒に行ってやる、起きた時も居てやるとサイタマが約束をして、
ここまで運んで来てくれた事も。

「つまり俺は、先生に助けて頂いた上に一人で研究所行くのヤダヤダと駄々をこね、さらに先生を
タクシー代わりに使い、挙句の果てに何日もここに足止めをしたわけですか」
「まあだいたいそれで合っとるな。ホレ、ジェノス全部外れたぞ。そこに服が置いてあるから、ちゃんと
着てから先生の所に行きなさい。話があるそうじゃ」

破門だろうかとジェノスは動揺した。先生が破門のはを言うより先に土下座しようと決意する。
せめて見苦しくないようにと服だけはきちんと着て、ラボから温室へと入った。



「先生、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした!知らぬ事とはいえ先生に運んでいただき、
起きるまでここにいろとゴリ押しするとは…俺の中に先生への甘えがあったに相違なく、弟子として
あるまじき振る舞い。ですがどうか破門だけはお許しいただけませんか…俺は」

ガションガションと走ってきた弟子はまさに立て板に水という感じで、流れるように謝意を表明し始めた。
「ジェノス、長い。20文字」
眉間を揉みながらジト目でそう言ってやると、あからさまに言葉に詰まっている。
だがこっちも長い間待った挙句、言われるのがスミマセンだけでは報われない。
何かもうちょっとないのかよ、と期待を込めてサイタマが穴があくほど見つめていると、ジェノスは少し
躊躇してからポツリと言った。
「目が覚めた時、先生が見えて嬉しかったです」

(くっそ、何だこいつ可愛いすぎっぞヤッべ―)
サイタマは内心で頭を抱えた。いきなり素直きた。一番言いたいことはと考えて、こういう台詞を繰り
出す19歳は本当にタチが悪かった。
しかも久しぶりに動いているのを見たせいか、やけに眩しく感じる。破壊力抜群だ。

「おう、それでいんだよ。別にお前に責任あるわけじゃねーし、ヒーローは約束を守るもんだ」
「ありがとうございます先生。本当にご立派です。でもこんな何もない所で退屈だったでしょう」
「いや、博士と話さなきゃなんねー事があったからな」
「博士とですか」

理由は分からないが、いつも以上に先生がご親切だとジェノスは感動していた。
真っ先にスライディング土下座するつもりだったのだが、サイタマは見るからに機嫌が良さそうで、
そんな行動に出れば逆効果のような気がしたのだ。
選択を誤らなくてよかった。先生は度量の大きな方なのだ。弟子の失態など意に介さない。

座れと促され、師と向かい合う形になった。
しかし考えてみると、椅子に座り膝付き合わせて話をした事は今までなかったようだ。
やたら近いし妙に改まった雰囲気で、どこを見ていればいいのかと困惑する。

「あれ、ジェノスお前、顔ちょっと変わった?」
「顔ですか?起きてすぐなのでよく分かりませんが、どこかおかしいですか先生」
「いや、ちょっと大人っぽくなってんなと思ってよ…博士がいじったのか?」

サイタマの顔が一層近づいて、ソワソワした。本当に先生はどうなさったんだろうと思う。
からかうような表情は今までジェノスが見たことないもので、熱暴走を起こしそうだった。
感情があまり表に出ない仕様でよかった。でなければ絶対に赤くなっている。


「それで先生、俺にお話があるとの事ですが」
「あーそれなんだけどさ、予定が狂っちまってな。本当は明日お前を起こして話するつもりだった
んだよ。だから実はお前のメンテも終わってねーんだ。中途半端な事になったもんだ」
「……?予定が狂った」

ジェノスは首を傾げながら、師の言ったことをよくよく分析してみた。
何か予定が立てられていた。それに伴い自分は明日起こされるはずだった。修理も明日に合わ
せて終わる予定だったのか?だが想定外の事があって今日になってしまったようだ。
そしてそれはサイタマにとって不本意な事らしい。

「つまり…明日でないといけない理由があったんですね?先生も博士もそのつもりだったのが、
だめになった」
「察しがいいな。実はS級ヒーローに召集かかってんだよ。ジェノスは直ってないから行けねーって
言ったら俺だけでも必ず来いって」
「S級に!?また重大な問題が起きたようですね。先生、俺も一緒に行きます!!」
「いや俺の話聞いてたか。ダメだお前はまだ直ってねーの。だけどしょうがないから一旦起こした
んだよ。言いたい事あったから」

俺が明日中に戻れたらいいけど、無理なら遅れるより前倒しの方がマシかと思ってよとサイタマは
唸っている。
結局、なんかカッコつかねえのな…と小さな呟き。
どうしてですか先生はいついかなる時もかっこいいです!と訳も分からぬまま激しく主張したが、
ハイハイといなされてしまった。


「しかし最強のヒーローであるサイタマ先生と天才科学者クセ―ノ博士がそんなにも待ちわびるとは。
俺は勉強不足で知りませんでしたが、明日はどんな国家的行事が……ハッ!まさか先生に国民
栄誉賞が!?」
「いやいや何言ってんの、お前の20歳の誕生日だから」

金色の目が大きく見開かれた。温室に差し込む光でジェノスの髪も目もきらきらしている。
はたちのたんじょうび、と確認するように声に出す弟子は、そういう日がある事も忘れていたらしかった。
そういやクリスマスにケーキ買ってやった時も喜んでたっけな…とサイタマは思い起こす。
結構手痛い出費だったが、ジェノスはリクエストしたおでんも作ってくれてずっと楽しそうにしていた。

まだまだ子供らしいとこあんな…と微笑ましくなる一方で。
俺なんかよりずっと人間らしいわお前、とあの時思った。
誰も何も必要じゃなかった自分が、この弟子をなくす事だけはいつしか怖くなっていた。

「全然考えてもみませんでした。成人というものですね。それで先生は俺を祝ってくださるおつもりで…」
「ん。それもあるけどよ、ジェノス」
「はい」
「俺はさ、お前が大人になるのをもうずっと待ってたんだよ。分かんなかったか?」
「先生…どういうことか俺にはよく…?」

よっし言うか!とサイタマは膝をたたき勢いよく立ち上がった。いったい何の話なのだろうか。
よーく聞いとけよ一回しか言わねーと念を押され、はいと頷いたジェノスは魅せられるように師を仰ぐ。

いつも洗濯して大事にアイロンをかけていた黄色のヒーロースーツ。この姿が一番好きだ。
ずっと見ていたい。
ああ、この人は俺の太陽だと思った。
人らしさをなくした凝り固まった種のような自分は、この光に触れてまた新しく芽を吹いた。

今もそうだ。サイタマが思いきり笑うから。
臆病さや頑なさなど溶けてしまうような笑顔で、大声を張りあげるから。
圧倒的な力と熱が、心のある場所へたしかに届く。彼の強い手で鷲掴みにされる。
逃げられない。もう、どこへも行けない。
「俺、お前が好きだジェノス。ずっと前からマジで好きだった」


空白は長かったのか短かったのか。
気がつくとジェノスは、震えながらか細い声で先生、先生…と何度も呼び続けていた。
師の少し紅潮した顔を見ただけで、本気で言っておられるのだと分かった。心拍数を測るまでもなか
った。

「先生…でも俺は男だしサイボーグです…俺は先生に家族を作ってあげられません」
「それがどうした。俺が結婚したらとか平気な顔で言いやがって。こっちはめちゃくちゃ凹んでたんだ
ぞ!俺はお前がいいんだよ。お前はどうなのかとっとと言えよバカジェノス」
「俺は…っ、先生が欲しいと仰るなら心でもコアでも今すぐ差し上げます!!」
「重っ!!」

ハ―…とため息をつきながらサイタマは両手をジェノスの金属製の肩へとのせた。
先生嬉しいけどもーちょい普通に言ってくんねジェノス君?とねだってみる。
知っているけど知りたいのだ。この唇が、自分への想いを吐き出すところが見たかった。
ジェノスの目がひた、とサイタマに向けられる。一途で怖いぐらいきれいなそれ。

「俺、先生を愛しています」
「……ッ!!?おま…」
「好きと百回言っても千回言っても足りません。他に誰も好きになった事がないから、これが普通か
そうでないかも分かりません」

そう言ってまばたきをしたと同時、ジェノスの白い頬につ…と水滴がつたうのをサイタマは見た。
ジェノス、お前泣いて…と言うと、きょとんとして指先で濡れている部分をぬぐいじっと見つめる。
「ああ、泣くってこんな感じでしたね…」
口端で笑みをつくったが、零れる涙はほとほとと止まる事を知らない。美しい泣き顔。
お慕いしています先生、俺でいいならずっとお傍に置いてください、好きです好きなんです…ともう
まとまりのつかない言葉が、嗚咽でさらに滲んでゆく。

好きな子に泣きながら好きですと言われて、黙って突っ立っているほどサイタマも枯れてはいなか
った。
座ったままのジェノスに覆いかぶさるようにして、腕を回すときつく抱いた。
触れたボディはひやりとしていたが、ずっとこうしてたらあったかくなるかもなと考える。
足りないものがあれば自分が分けてやればいい。

短い金髪に頬をつけ、「あーもう離してやれねーぞー」とぶっきらぼうな声で告げた。
声もなくジェノスの腕が回り、ぎゅっと抱き返してくる。
どう見ても弟子の方が離してくれそうにない。
だいたい自分たちが思いきり抱きしめて平気な相手など、探してもめったにいないわけで。
普通じゃなくて良かったよな、と今さらながらおかしくなった。


「じゃあそろそろ俺行くわ」
「はい。先生と一緒に行けないのは残念ですが、お帰りをお待ちしています」
名残り惜しそうに抱擁が解かれる。それでもまだ急には動かず、手袋をしていない右手がジェノスの
頬に触れた。
今まで冗談で摘まれる事はよくあったが、それとは違う優しい手つき。

「おう。明日中にダッシュで戻るから、お前はもうひと眠りして博士にきれいに直してもらえ」
「先生、S級召集という事は何が起きるか分かりません。どうかお気遣いなく。俺はもうとても幸せ
ですから」
乏しい表情なりに笑顔に近いようなものを作ってみた。
博士は涙を流す機能しか追加していないようだ。それでも伝わるものはあるんだろうとジェノスは思う。
サイタマが照れたような顔をしたから、それを確信する。

「俺、お前がちゃんと20歳になったらマジで言いたい事がもう一個あんだよ。だから間に合わせたいな」
「もうひとつですか?一日で大人になるとも思えませんが、先生は随分20歳にこだわられるんですね」
「あのな、ヒーローが未成年に手ぇ出せるかよ」

そう言いながらふいにサイタマは屈み込むと、目を瞠るジェノスにお構いなしで額にキスを落とした。
あまり慣れていない感じの不器用な動きだった。
なのに頭の中が熱を持ち、目がまたじわっと潤む。
先生これは手を出した事になりませんかと聞くと、ならねーよお休みの挨拶だとしれっと言われた。

「行ってくる」
ずるい大人はそう言い残し、もうジェノスを振り向かなかった。マントがばさりとひるがえる。

何百回も見てきた師の背中が温室を抜け、ラボを抜け、消えてゆくのを目で追いかけた。
だが心配することは何もない。
彼の登場で、雨はやみ、雲は払われ、日は差して、空が見える。
この世界は最強のヒーローに守られているのだ。あの人の拳が多くの人の心を救う。これまでそう
だったように、これからもずっと。



しばらくジェノスは座ったまま、むせ返るような緑の匂いと鳥の声、水の流れる音を感じていた。
この場所には生が溢れている。自分もその要素のひとつだ。生きとし生けるものの縮図。
近づく気配があった。目を上げれば、クセ―ノ博士がのんびりとした足取りでやってきた。笑っている。

「モニターで見とったがきれいな泣き顔じゃったのう。さぞかしあの男もどぎまぎした事じゃろうて」
「博士…」
「ワシも肩の荷がおりた。オヌシにはやる事が残っておるが、これからは先生と一緒に考えていくん
じゃよ」

はいと頷いたものの、明日からの二人がどうなるのかは想像もつかなかった。正直あまり変わらない
気もする。
それでも、サイタマとずっと一緒にいてもいいのだと思うと眩暈がするほど幸福だった。
変わらなくてもいい。好きな人とつつがなく暮らし、好きだと心のままに伝えられる。
たまにはさっきのように抱きしめてくれたりキスもしてもらえるかもしれない。
師がローテンションな事を熟知しているジェノスは、本日の盛り上がりが最高潮だと信じて疑わなか
った。

「それでは博士、メンテの続きをお願いできますか。先生が戻られた時にきちんとお迎えしたいのです」
「おおそうじゃった。サイタマ君も明日が本番じゃからな、それに間に合わせんと」
「……?先生も言いたい事がもうひとつあると仰いましたが、博士は何かご存知なんですか」
「オヌシも鈍いのう…告白が済んだら次はプロポーズに決まっとろうが」

驚きで声も出ないジェノスの髪を、老博士のしなびた手が優しく撫でた。
長く長く理不尽な行いをする敵と戦ってきた人の手だった。
成人のお祝いにたくさん機能を追加してやるからのう…とまるで本当の祖父のような情を見せる。
「サイタマ君の申し出に、オヌシが笑ったり泣いたりしながら 『はい』 と言えるようにしようなジェノス」


この人がいたのに。先生がいてくれたのに。自分は一人で何かを守ろうとしていた。
愛されていることに気づこうともしなかった。
未熟な己を思い知り、それでも彼らのように本当の意味で強くなりたいと願わずにはいられない。

「ありがとうございます、博士」と言い、ジェノスは彼を支えるようにして最初の一歩を踏み出した。
温室のぶ厚いガラス越しでも、見上げれば空が抜けるように青いのが分かった。
(先生もこの空の下、懸命に走っておられる…)

サイタマはこの先いつまでも自分の師だが、恋をするのは別腹だ。次に起きた時どんな顔をしている
のだろう。
ものぐさなあの人が今日とは違う言葉で好きと伝えてくれるのだろうか。
夢でも先生に会いたい、とそっと口元を綻ばせる。

額に触れていったお休みのキス。
その温もりはまだ真新しかった。もう二度と自分は切ない夢に囚われることはないとジェノスは知った。