会社の横手にある通用口から外に出た鈴原奈津子は、人がいないのをいいことに凝った
肩を軽く回した。

夏が近づいているのが分かる、少し蒸したような空気。
ヒートアイランド現象を緩和するとかで、大きなビルが建ち並ぶこのオフィス街には案外と
たくさんの木が植えられている。

その木が育つのをしっかり見届けるぐらい長く、この会社に勤めているわけで。
ようまあ飽きへんもんや、と自分に感心させられた。
だが大きな川がそばに流れる大阪らしいこの風景に、愛着を感じているのも事実だった。
20年ほど前にグッドデザイン賞を受賞したという、自社ビルの外観には多少のツッコミを
入れたくなったが。


時計を見ると、珍しくまだ7時にもなっていなかった。
川にそって歩きながら、鈴原はこの先にある有名な洋菓子店のことをふと思いついた。
ここ最近のロールケーキブームに乗っかって、人気が爆発した店だ。
雑誌やテレビにも取り上げられ、百貨店では本数限定のためものすごい行列ができるらしい。

実はここが本店だったりする。
そのせいか、いつ見てもありえない数のお客が並び、40分待ちだの60分待ちだのと手書きの
ボードが出されていて、その列は橋の方までずっと続く。

だが、時間的に今ならそう並ばなくても買えるかもしれない。
外側だけが生地で中にクリームぎっしりのここのロールケーキを鈴原本人は好まなかったが、
高校生になったばかりの娘は喜んで食べる。
たまにはお土産もええかな、と笑うと、鈴原はどれぐらい人が並んでいるのかをまずは確かめる
ことにした。



ぱっと見れば店からはみ出している客は5人ほどで、これなら10分か15分で買えそうだった。
よし並ぼうかと歩みを進めたところで、鈴原は最後尾に立つ長身の男に気がついた。
メタリックブルーの携帯を手に、メールを打っている。
夕方になってもよれる気配のない上質なスーツを、当たり前のように着こなす品のいいその姿。

(あれ、王子やん)
社内の女子が使っている陳腐な呼び名が、頭をよぎった。

もちろん同じ会社の人間なので、名前も部署も知っている。
だが今、社外で改めて彼を見てみると、なんかもう神様にひいきされて作られたとしか思えんな
と呆れた。
王子などと呼びたがるミーハー女子社員の気持ちも、理解できなくもない。
その辺の男前だのイケメンだのとは明らかに一線を画している個体がそこにいた。

そんな彼は携帯をしまったところでこちらに気づき、親しみのこもった笑顔で軽く手を振った。
実に感じがいい。子供がいる鈴原でも悪い気がしないほどだ。

「鈴原さん、おつかれさまです」
「お疲れ。九条くんがこんな店に並んどるなんて、びっくりしたわ」
「いつもは誰かが買いに行く時に便乗してますからね。鈴原さんはお家にお土産ですか」
「うん、娘にな。たまには買って帰ったろうかなーと思て」

少し前に並んだ化粧の濃いOL二人組が、あからさまに彼を見ながら小声で何か話している。
合流した鈴原を見て、羨望と敵意むき出しといった様子だ。
なにあのオバハン、と言ったのが聞こえたが、鈴原は余裕たっぷりにフフンと笑ってやった。
(ただの同僚とはいえ、アンタらよりは親しいからね、こっちは)


しかし実のところ、この九条明仁のプライベートは謎が多かった。
というか、未だにほとんどが謎に包まれている。

3年ちょっと前、突然東京から彼が転勤してきた時、女性社員は色めきたったものだ。
ちょっと見ないような美形。ものごし柔らかく上品、身につけている物もさりげなく高価ときた。
何も聞かなくても、育ちが良さそうなのも見てとれる。

結婚したい!付き合いたい!いっぺん寝てみたい!…と様々な欲望をチラつかせながら、
社内の女子は時にさりげなく時にアグレッシブに彼にアタックを開始した。
普通の男ならば、ノイローゼになりそうな波状攻撃だったはずだ。
だが彼は、柳に風といった飄々とした態度で全方位からの攻撃をかわしまくった。

ちなみに、どうやら携帯を2台持っているらしく、メアドの交換を迫られるとあっさり教えてはくれ
るが全てどうでもいい方の携帯に登録されるらしい。
その携帯に電話しようがメールを打とうが、返信があった試しがないそうで、いつしか『メアドの
墓場』と呼ばれるようになっているとも伝え聞く。

まあそれを知った時は、同じ会社の女に手を出すほどアホやないってことかと、勝手に納得した
ものだが。
鈴原はさっき彼がメールを打っていたブルーの携帯が気になった。
あれがもしかすると、噂の本命用なのだろうか。



「九条くんはここのロールケーキなんかどうすんの。彼女にあげるん?」
「いや実は、待ち合わせをしてるんですけど、まだ時間あるから買っておいてあげると喜ぶかなと
思って」
「あ、やっぱりデートなんや?」
思わず追及してしまう鈴原に、彼ははいともいいえとも言わずに、ただ柔らかく微笑んだ。

「実は俺、叔父の家に住まわせてもらってまして、今から来るのはいとこなんですよ」
「え、そうなんや!?ていうか、そんなこと私に喋ってもええの、九条くん」
「なにかまずかったですか」
「いやだって九条くんの個人情報は、人事の子らでも見られへん極秘事項扱いやって聞くし…」


そうなのだ。彼がどんなに女子に迫られても、プライベートを一切明かさないことに加え。
普通なら何となく漏れてしまう住所や家族構成なども、ひとつも分からなかった。
東京から転勤してきたのだから一人暮らしだろうと言われているが、それすらはっきりしない。

何故そんな事が可能かというとだ。
彼の転勤から1ヶ月後に、今度は社長の子息がこれまた東京から転勤してきた。
その御曹司と彼は、高校時代からの親友だというのだ。

残念なことにジュニアはかなりな変人であったため会社の女子は喜ばなかったが、少なくとも
友情には厚いようで、ジュニアの手で彼の個人情報はがっつり保護されたままだ。
3年たった今では、『実はとっくに結婚してる説』まで流れるほど、彼について誰も何も知ることは
なかった。


鈴原はうっかり滑った自分の口を呪ったが、彼は面白そうに笑い、「俺だって喋る相手ぐらい
ちゃんと吟味してますよ」と言う。
信用してくれているということか。
少なくとも、詮索しかけた自分を不愉快に思った様子はなくて安堵した。

「個人情報を漏らさないように頼んでるのは本当ですけど。実は、叔父がそこそこ著名人な
もので
「そうなんや」
「物見高い人間が家の周りをウロウロして、あの子に何かあったら困りますから」

うわ、と鈴原は固まった。
いつも優しげな男ではあるが、今の口調には聞いているこっちが赤面させられた。
これに無反応な人間は、恋愛方面に余程鈍いと言わざるをえまい。
それほどはっきりとした感情を、彼は突然見せつけてきた。

ふわりと浮かんだ笑みは、愛しくてならないという思いがそのまま形になったようで。
さっきまで頭の中にあった 『本命』 という言葉すら軽薄に思えてくる。
全然ちがうのだ。優しさの質というものが。
彼が会社で見せる顔などその他大勢用にすぎない。そう確信させられた瞬間だった。


(案外、食えん男なんやなにこにこしとるけど)
列が進んだので彼に続いて店の自動ドアをくぐりながら、鈴原は落ちつかない仕草で赤い縁の
眼鏡を押しあげた。
被っていた猫を目の前でいきなり一枚脱がれたような気分だ。
まだまだ着込んでいそうな予感もするが。

見ためと雰囲気で流してしまっていたが、よくよく考えると二台の携帯を使い分けるというのも、
たいていの男性には許されないような所業だ。
なのに、揉めたという噂も聞いたことがない。

えげつないことを仕掛ける女も少なくないだろうに、彼の周囲が依然クリーンなままなのは、多分
言い寄る女どもを裏で上手くあしらいまくっているせいだ。
しかも反感も買わずに。
そうこうしているうちに相手は力尽き、一人また一人と脱落してゆくのか…

そういう目で見ると、さっきの 『喋る相手はちゃんと吟味してる』 という言葉まで勘ぐりたくなって
きた。
喋ったらどうなるか考えないほどバカじゃないですよね?という意味なのではないか。
彼の背後にジュニアがいるのは、社内の誰でも知っている。
(いやいやいや…いくらなんでも考えすぎやって、あたしも)



店内に一歩足を踏み入れると、洒落たラッピングの焼き菓子やクッキー・色とりどりのマカロン・
高価な宝石のようなチョコレートなどの甘い香りに圧倒された。
だが、この王子様は全然平気な顔をしている。

「鈴原さん、新しく出たロールケーキ、カットフルーツが入ってるみたいですよ」
「そ…そうなんや」
「郁ちゃん、好きそうだな。並んでみてよかった」

この男にそこまでさせる 『郁ちゃん』 とはどんな女性なのだろう、と鈴原は沈思黙考しまくった。
まあ、彼のいとこと言うからには、きっとすごい美人なのだろうが…

「なあ、その今から来るっていう いとこさんて何歳?」
「郁ちゃんですか?この春、高校生になったばかりです」
「高校生!?うちの子と同い年やん」
「そうでしたか、偶然ですね」

ちょっと待ちいや!と心の中で鈴原はつっこんだ。
なんかもう、その『郁ちゃん』とやらは、限りなく彼の心に決めた人っぽいのだが。
今高1ということは、彼が転勤してきた時は中学生になったばかりだったはずだ。
そんな頃から好きだったのだろうか。
なんという紫の上計画や…と、鈴原は気が遠くなる思いで天井を見上げた。

(ま、まあ、女の子は16歳で結婚できるけどな…)
これだけ大事にしている以上、高校生で結婚に持ち込むことはさすがにないだろう。
もう同じ家に住んでるわけやしな…と訳の分からないフォローまで浮かんでくる。


「九条くんのいとこなら、美人やろなー」
ため息まじりにそう言えば、「ええ、それにとても気持ちの優しい子なんです」とまともに返された。
きれいなのは標準装備らしい。

「あの子は3つの時に母親を亡くして、父方のおばあさんに育てられたんです。だからおばあさん
の思い出のあるあの家を、他人に触らせたがらなくて…」

本当は家のことは家政婦でも雇って、部活や習いごとなどの年相応に楽しいことをやらせてあげ
たいのだと彼は言った。
だが『郁ちゃん』は、父親や彼のためにいつも家を整えて待っていてくれる。
だからせめてたまには外食に連れだしたり、休日は彼が食事当番をしたりもするらしかった。

「偉い子やなぁ…うちの娘なんか、どんなに言うても家のことなんかひとつも手伝わんわ」
「いや、それが普通ですよ。俺だってしたことなかったですし」

くすりと笑う彼に、並んでいる女性陣が前からも後ろからも熱い視線をバシバシ送っている。
それもしゃーないかと鈴原は思った。
ただの美形というだけでなく、この人はなにか不思議な雰囲気をまとっている。
どうしたって目をひかれる。
そんな彼を独占している人がいるというのは、意外なような納得できるような気分だった。



「あ、来た来た。郁ちゃん、こっち」
「すみません、中に連れがいるんで通ります」

脳内で色々考えていた鈴原は、彼の呼びかけと律儀に断りを入れながら店内に入ってきた
少年がとっさに結びつかなかった。
手にメタリックグリーンの携帯。色は違うが同じものをさっき見たような…

今どきの高校生らしいカジュアルな格好をしていたが、彼が近づいてきた瞬間、それらひとつ
ひとつのアイテムが上質そうなものだと気づかされる。
ライトグレーに白のラインの入ったニットパーカーを着て。
昔懐かしいデザインの紺地のコンバースは、きっとリバイバルモデルだろう。
中に着たシャツやななめがけのナイロンバッグは、はっきりした色づかいで、大人しくなりすぎ
ない絶妙のバランスを保っていた。

そしてそれらをさらりと着こなしている本人はといえば…
(き・きれいな子やな!!)
鈴原はあいた口が塞がらなくなった。
男の子にこんな形容をする日が来るとは思わなかったが、とにかく美人だ。

だがその整った顔立ちもどうでもよくなるほど釘づけになったのは、彼の瞳だった。
向こうっ気が強そうというか、ケンカっぱやそうというか…
その瞳の生き生きした光が、彼を男の子っぽいやんちゃな雰囲気にしている。


「明仁」
「早かったね、郁ちゃん。迷わなかった?」
「もー子供扱いすんな。今日は地下通って来てんで。お店いっぱいあっておもろいな」
「そう。余計なものに出くわさずにすみそうだし、郁ちゃん一人の時は地下の方がいいかもね」

(ていうか、郁ちゃんてこの子かいなー!!?)
(男子高校生…!!)
(王子、王子!顔が緩んどる!ユルユルや…!!)

隣で大混乱に陥っている鈴原のことも知らず、少年は店内を見回し「女の人ばっかりや…」と
呟いた。
それから小声で「みんな明仁のこと、見とるで」と付け加える。

「なに言ってんの、みんな郁ちゃんを見てるに決まってるだろ。けしからんね」
ねえ、鈴原さん、とのんびり同意を求められ、鈴原はようやく我に返った。
連れだとは思っていなかったのだろう、少年がびっくりしたようにこちらに視線をよこしてくる。

「明仁、知ってる人なんか」
「うん、同じ会社の資金管理部の鈴原さん。今日は娘さんにお土産買うんだって」
「ちょ、そういう事は先に言え!失礼やないか」
すみません。俺、明仁のいとこで相楽郁実っていいます、と彼はぺこりと頭を下げた。

郁実やから郁ちゃんか…と、鈴原は微笑ましい気持ちになり、ええねんええねんと言う。
「今、九条くんからきみの話聞いとったんよ。まあしかし聞きしにまさるべっぴんさんやな」
「鈴原さん、郁ちゃんのこと女の子だと思ってたでしょう」
「なんや、わざとかいな。人が悪いな九条くんも」


鈴原のざっくばらんな態度に安心したのか、郁実の表情も緩む。
「その靴かっこええな。おばさんが若い頃、流行っとったんよ。今どきの子が履くのもええわ〜」
「いいですよね、コンバース。俺も色違い買おうかな」
「白いのとカーキのとあったな。明仁、白がええんちゃう」
「食事した後、間に合ったら買って帰ろうか」

うん、と頷いてから郁実が自分の方を見たので、どうしたん?と鈴原は首を傾げた。
「え、その…鈴原さんみたいな人が自分のことおばさんって言うたから…」
「だよね、鈴原さん若くてカッコイイし、おばさんはないですよ」
「何ゆうてんの。私、郁実くんと同い年の娘がおるんやで」

そうなんや、と郁実はびっくりしたように目をまるくする。
それから、「じゃあ、母さんが生きとったら、鈴原さんぐらいなんやな」と呟いた。
それは悲しそうなものでなく、記憶にない母親を実体として想像しているほんのりとした喜びが
こちらまで伝わってくる。

(かーわいいなーいじらしいというか)
決して女の子に対して言うような『かわいい』ではないのだが。
自分のような年代の女性が周囲にいないのか、やや気恥かしそうなのがまたたまらない。

鈴原でさえそうなのだ。
社内の憧れの的の王子様はというと、包み込むような眼差しを郁実に向けている。
あーこりゃ誰も勝負にならんわ、と鈴原はこっそり苦笑した。
同じ土俵に上がることもできないのだから、相手にされないのは不名誉ではないだろう。



どの種類のロールケーキを買うかを、三人が熱心に話し合っていたその時だった。
やや前方から、カシャッという耳触りなシャッター音が響いたのは。

顔を上げると、先ほどの化粧の濃いOLのうちの一人がこちらに携帯を向けている。
郁実か明仁を…あるいは二人ともを撮ったのだとはっきり分かった。
並んでいる周囲の女性客も皆、険しい目でOLを睨んでいるが、呆れたことに本人は堂々
と携帯をいじっている。
もう何枚か撮りかねんで、あの女…と鈴原が眉を吊り上げるよりもそれは速かった。

「いやああ!いたい!いたいって!なにするねん!!」
頭の痛くなるようなキンキン声でOLが悲鳴をあげる。
はっと気付いたときには、隣にいたはずの明仁がOLの背後に回り携帯を持った方の腕を
高くねじりあげていた。
うわ、ヤバ!と郁実が呟く声がする。
実際、そう力を込めているように見えないのに、OLの顔はめちゃくちゃに歪んでいた。

「今、勝手にあの子の写真を撮りましたよね」
緊迫した空気に似合わぬもの静かな口調が、ひやりと却っておそろしい。
だがOLは髪を振り乱し、質問も耳に届いていない様子だ。

「いたい!折れるー折れるぅーいややたすけてぇ!」
「折れませんよ。折れないギリギリで痛めつけてるんだし」
「はなして!はなしてや!!」
「聞いたことに答えてないのに、放すわけないだろ」

冷たい口調と目つきで言い放つ彼にのまれて誰も手を出せなかったその時、郁実が明仁に
駆け寄り、スーツの腕にかじりついてそれを下ろさせた。
「なにやってんねん、明仁!女の人に乱暴したらあかん!」
「この人のやった事の方が暴力だろ、郁ちゃん」
「だからってこっちも暴力で返してええわけあるか!」

納得しきれていない悔しそうにすら見える顔で、明仁は女をぽいと投げ捨てた。
そんな仕草はまるで彼に似合っていなかった。
郁実に何かする人間にはまったく容赦しないのだと分かる。
だからこそ、郁実自身が止めに入ったのだろう。


いたぁい!とわざとらしくしゃがみ込み手首をさすっているOLに向かって、郁実は「携帯俺に
よこせ。写真のデータ消してもええな」と言った。
ふてくされたように俯いたままの女に、「アンタええ加減にせえよ」と低い声がさらに告げる。
「オレが腹たててへんと思たら大間違いや」

連れのOLにつつかれて、女はしぶしぶといった感じで携帯を渡した。
「データ、消すで」ともう一度念を押され、首だけをタテに振る。
他人の携帯など同じメーカーでも鈴原には操作できそうになかったが、郁実は右手でそれを
持ち迷いのない様子でカコカコカコとボタンを押していく。

今どきの子はすごいなあと感心して覗きこんでいるうちに、携帯の小さな液晶に先刻撮った
らしい写真が現れた。
褒めても仕方ないが、郁実と明仁の二人がうまく一枚に収まっている。

それを見てほんの一瞬だけ、郁実は表情をこわばらせた。
ああ、この子だって他人に九条くんを勝手に撮られて嫌やったんや、と鈴原は悟る。
慰めるようにぽんぽんと肩をたたくと、郁実は感謝するように笑いデータを削除した。
その様子を明仁が黙ったままで見守っている。


「ほら、返すから」
まだ座り込んでいる女の膝に郁実が携帯を落とすと、OLはようやく立ち上がった。
連れの方が「もうええやんか。行こう」と促している。

「ちょっとアンタ、この二人に謝らんかいな」
鈴原がそう言うと、周囲の女性客からも「ほんまや」とか「常識ないな」という声が起こった。
年齢の違いはあれど、店員も含めてほとんど女性のこの空間で、このOLが擁護してもらえる
はずもない。
だが、それが気に触ったのか、おとなしくなったように見えた女は突然逆ギレし、喚きたてた。

「うるさいわ!どいつもこいつも説教くさいな!何様のつもりやねん!!」
「ちょ…由香、もうやめときって!」
「そのガキもオバハンもウザすぎんねん!いい気になっとるんちゃうわ!」


………静まり返った店内で。
その時、鈴原はこの場にそぐわないチリーン…!という鈴の音を聞いた気がした。
澄んだ、軽やかなまでのその音色。

「ユッ……!?」
何故か分からないが、郁実が慌てふためいた顔で自分のバッグを両手で押さえつけた。
明仁も、あれ?という顔で郁実のバッグに注目している。
その間にOLは勝ち誇った様子で踵を返し、堂々と店を出て行こうとした。
行こうとした、だけだったが。

バキッと不穏な音をたて、内勤には明らかに不向きそうな女のピンヒールの右側が折れた。
いや、折れたというよりは、根元からふっ飛んだようにすら見えた。
支えを失い、女のは体は傾いてものすごい勢いで床に倒れこんだ。
バターン!という大きな音。
つぶれたカエルのようなその格好は、さすがの鈴原も気の毒に思わされたほどであった。


それからも騒ぎはなかなか収まらなかった。
よく訓練されているらしい女性店員が、女の所へ駆けつけてきた。
涼やかな態度で「お怪我はございませんか、お客様」と言いながら助け起こし、折れたヒールと
ダメになった靴を入れる紙袋を差し出す。
だが、代わりの靴を貸すなどの親切心を見せる気はどうやらないようだ。

高いヒールが片方折れた靴でそのまま歩けるはずもなく、女は連れに肩を貸され泣きじゃくり
ながら退場していった。
もちろんストッキングだけの素足だ。
だが、最後に女が口汚く喚いたせいで、店内には誰もかわいそうがる者はいなかった。
郁実だけが、やや不安げにOL二人の立ち去る姿を見ている。


「郁ちゃん、大丈夫?」
既にあんな女の記憶など銀河の彼方に追いやったらしい明仁が、そっと肩に手をかけた。
郁実はものすごく困った顔で自分の従兄を見上げた。

「大丈夫やないやろ、明仁。こんな会社の近くで女の人に手ぇあげて。会社に文句言うてくる
かもしれんで」
「んー?別に俺、クビになったっていいよ。主夫になるから」
「アホ言うな」
「冗談だよ。鈴原さんも見ててくれたし大丈夫。最悪、旭に何とかさせるし」
「旭さんていっつも明仁の尻拭いさせられとるよなー」
「たまには使わないと、あいつなんかタダ飯食べに来るだけの男だろ、郁ちゃん」
「旭さん、うちに来る時はちゃんと豪華手土産持参やないか」

ようやく、気が抜けたように郁実が笑う。
旭というのは社長の御曹司の名だと鈴原も知っていた。
明仁はぞんざいな扱いをしているが、郁実の方は案外信頼を寄せているらしい。

まあどっちみち、あのOLが騒ぎ立てても何にもならないだろう。
ジュニアの名を出したのは、単に明仁が郁実を安心させたいからだと鈴原には分かっていた。
この男が、あの程度の相手をあしらえないとは思えない。
むしろ郁実が見ていなかったら積極的に報復に走りそうでかなりコワイ。




「ほんまによかったん?気ぃつかわんでもええのに」
「いえ、嫌な思いをさせてしまったお詫びです」
「九条くんのせいとちゃうやんか」

郁実を先に店外に出させておいてから、明仁は鈴原の分までロールケーキを買ってくれた。
恐縮しながらそれを受け取り、二人ともが何となしに外にいる郁実を見やった。
どこにいても目立つ。肝心の本人はいたって無頓着であるのだが。

「過保護すぎるって思ってるんでしょう」
「あーいや…そうやなあ…ただあの子は九条くんに守られるだけをよしとするタイプじゃない
気がすんねんけど…」
「そうですね…でもあの子に危害を加えようとする人間を黙って見ているようでは、俺の存在
価値なんてないんですよ」

普通の人が同じ事を言ったら、何を大げさなと笑ってしまうところだった。
だが明仁の言葉には茶化せないものがあり、鈴原は改めてこの人をまじまじと見つめる。

なにか事情があるのだろう。そんな気がした。
だけど、ただ恋をしている、そんな風にも見えた。
どうしようもなくどうしようもなく、たった一人を焦がれている。
弱みだらけの、ただの人。


「郁実くんが成長するのに合わせて、アンタも変わったらええやんか」
「え…」
「小さい子を囲い込むみたいなやり方はもうおかしいわ。あの子は…九条くんに手をひかれる
よりも、隣を歩きたいんやないかと思うよ」

偶然こんな風に関わって、話ができたのも何かの巡り合わせなんだろうと鈴原は思う。
ただ自分はどちらかと言うとがさつだし、細やかな助言なんかできそうにない。
それでも、部外者から見た方がよく分かることってあるのだ。
あの子が誰を好きかなんて なんで分からないのだろう、この王子様は。じれったい。


少々荒っぽい手つきで、鈴原は明仁の背中をばん!とひとつ叩いた。
びっくりしたような顔をする明仁に、ねじ込むような強さで一言いってやる。
「もう心に決めてるんやろ」
「…鈴原さん」
「そんな弱腰で手に入れられるような子かいな。東京もんはカッコしいやな」

ロールケーキ2本分、発破をかけた。お詫びのお礼。
にやりと笑ってみせたら、明仁は目をまるくしてやがて吹き出した。
「なんか…やっぱり鈴原さんてヘンな人ですね…」
「褒め言葉と受け取っとくわ」
「褒めてますよ。かっこいいです」

あなたみたいな人の前だと、自分がかっこつけてるだけだってよく分かりますねと。
少しふっきれたような口調によかったと思う。

「しかし俺はいつになったら大阪人と認定されるんですかね」
「標準語で喋っとる限りアカンのちゃう」
「え、だって俺が関西弁だと、郁ちゃんの関西弁の可愛さが引き立たないじゃないですか」
「そ・そーゆー理由…」
「そういう理由です」

しれっとした顔でそんな事を言うから、やっぱり食えない男だとも思ったり。
だけど面白い。すごく面白い。


たまには寄り道もするもんやな、と鈴原は自分を褒めたくなった。
帰ったら娘にだけ、この話をしてやろう。
会社中の女子社員が憧れてる人にこのロールケーキを奢ってもらったと言ったら、羨ましがられ
るだろうか。

それと、彼が夢中になっている人のことも。
自動ドアの向こうに立つ郁実の姿を見ながら、教えてもらえた秘密の甘さに、鈴原はこぼれ出る
笑みを抑えることができなかった。