鈴原を笑顔で見送り、彼女の姿が見えなくなったと同時に郁実は明仁の手を掴んだ。
「え…郁ちゃん?」
とまどい気味の明仁をぐいぐい引っ張り、郁実は人一人がやっと通れるようなビルと
ビルの隙間に入ってゆく。
こうする事を前もって決めてあったような迷いのなさだ。

立ち止まってから郁実は頭上にも注意を払い、誰にも見られていないか確認をした。
明仁の顔を見ながら、ようやく繋いでいた手をはなす。

「あのさ、郁ちゃん。もしかして…ユッキー連れてる?」
先ほどあのOLのヒールが吹っ飛んだ時、ユッキーの呪具である鈴の音がした。それに
使い魔が力を行使して、明仁に感じ取れないはずがない。
「でも、そのバッグには入らないよね」
「いや…実はついてきてるねん…」

はー…とため息をつくと、郁実は下げていたバッグのジッパーを開けた。
そして片方の手をそっと中に差し込む。
ハンドタオルにくるまったものを見て、明仁は思わず「小さ!」と言ってしまった。
タオルを掻きわけてよっこらしょと出現したのは、全長5センチ(耳含む)携帯ストラップ
サイズのユッキーであった。


「ああ、主。もうほんとに都会はこわい所ですね。郁実さまをこんなとこに呼び出さないで
くださいよ」
サイズ関係なしのいつもの存在感たっぷりで雪うさぎは言った。

「行きの電車でも、郁実さまを不埒な目で見る人間だらけで大変だったんですよ」
「そんなの殺っちゃっていいよ」
「コラー何言うとんねん!ユッキーもなんかしたんちゃうやろな!?」
「大したことはできませんでしたね。明日、全員目ばちこになる程度です」
「目ばちこって何だ?」
「ものもらいのことですよ。主は関西弁に疎いんだから」

とくとくとして語るユッキーは悪いことをしたと思っている様子もなく、むしろ『任務完了☆』
といった充実感にあふれているのが始末におえない。

「だいたい前から聞こうと思ってたんですが、主は郁実さまを世間に見せびらかしたいのか
誰にも見せたくないのかどっちなんです」
「……………」
「決められへんのかー!なにを心底困惑しとるねん」
「いやだって郁ちゃん、そんな難しいことを道端でいきなり聞かれてもね」


無駄に憂いに満ちた表情で考え込む明仁を放置して、郁実はとにかくまずユッキーの
暴挙から追及することにした。

「ユッキー、さっきの店でもあの女の人呪ったやろ。普通の人に危害を加えたらあかんて
いつも言うてるやないか」
珍しく郁実の表情が険しい。いつもは大目に見てくれるのに。
これはマズイと感じたユッキーは、総力を挙げてすべてを揉み消しにかかった。

「いやですよ郁実さま、呪いだなんて恐ろしい」
「じゃあ何やねん」
「ユッキーはただ、郁実さまにひどい事をする人間がいたんでものすごくびっくりして、
そんなのには天罰が下りますようにーっておまじないをしただけです」
「おまじない〜?」
「そうですとも。女子高生が『明日の朝、下駄箱の前で憧れの彼と会えますように』って
消しゴムに書くのにも似たラブリーな」

慌てたせいか、ユッキーの言う女子高生はいつの時代の生き物だよとツッコミたくなる
ような要素満載であった。
それにOLのヒールの根元をゴルゴみたいに撃ち抜いておいて何がラブリーか。

郁実はユッキーをぐぐっと持ち上げ目を合わせると、「呪い(まじない)と呪い(のろい)は
おんなじ字で書くやんなー?」と低い声で詰め寄った。

ユッキーは無邪気そうに目をぱちぱちさせた。さらには目を泳がせた。
だが直近に郁実のドアップがある以上、誤魔化しきれないと悟ったのか。
「え…えへ?」
「えへとちゃうわ、ほんまに…」


困り果てたように郁実は、過剰防衛きわまりない主従コンビを見比べた。
いつも本気で叱ることができない自分が悪いのか。
だが一般的に、何かあった時に叱られる立場なのは自分のはずではないか。

「あのな…そもそも俺自身がケンカっぱやい性格やねんで。なのに明仁とユッキーが
報復活動に出る方が早いから、いつの間にかこんな事なかれキャラになってもうて…」

売られたケンカは端から買っていた昔の自分はどこへ行ったのか。
『アンタも丸なったよねー』と幼馴染の美晴に言われるが、それは違う。
自分がケンカをしてもし怪我でもしようものなら、この二人は何をするか分からない。
実際一度そういう事があったのは美晴も知っての通りだ。
そんな時、彼らを止めるのも自分の役目なのだ。その苦労を分かってくれと言いたい。


明仁が本気を出した所を見たことがないが、東京の祖父の道場の免許皆伝だと聞いて
父が震えあがっていた。

どうも祖父の武術は除霊術と同様、九条家独自のものらしく内容はよく分からない。
以前「明仁は武道をやってるのに、そんなに筋肉むきむきとちゃうねんな?」と聞いてみた
ことがある。
すると「要はスピードと反射神経だね。人間の体に急所っていっぱいあるんだよ」と爽やか
に答えてくれた。
それって武道というより暗殺術みたいやねんけど…とはとてもつっこめない雰囲気だった。


どう考えてもシロウトのやるものではない武術を体得している明仁。
駅でポケットティッシュを配るような気軽さで呪詛をバラ捲くユッキー。

この凶悪なコンビがためらいなしに力をふるうのは、郁実に何かあった時だけなのだ。
先刻、明仁があのOLに、「骨が折れない程度に痛めつけてる」と言ったのもハッタリでは
ないはずだ。
(しかし俺ってブレーキやけどアクセルやん!どないせいっちゅーねん!)

内心で頭を抱えながらも郁実は問題点を整理しようとした。
1.二人の力は一般人に向けるには危険すぎます
2.二人とも過保護すぎです
3.仮想敵が多すぎます
4.そろそろ子離れすべきでは

おそらくこの4点に尽きると思うのだが、しかしこれらが全て改善されればもうそれは明仁
でもユッキーでもなくなるような気もする…アイデンティティの崩壊というやつだ。
それに自分だって人のことは言えないぐらい、二人にべったりな自覚はあるのだ。


さっきだってあのOLが明仁を撮った写真を見た瞬間、どれだけ頭が煮えたか。
あんな写真が見ず知らずの人間の間で回されるかもしれないと想像しただけで、あの
携帯をまっぷたつにしたくなった。
(分かっとるんかなあ…明仁は)
郁実が黙りこんでしまったので心配そうな顔の明仁に、そう言いたくもなる。

大事にされるのは嬉しい。
だけど自分が彼を思う気持ちだって、ぜったい負けてないつもりだ。
なんでそれが伝わっていないのだろう。

毎朝される秘密のキスにどこか似ている、と郁実は思った。
一方的なもの。ただ明仁が郁実に与えるだけで、こちらが返すことを期待されていない。
最近それをすごくもどかしく感じる。
触れられるだけじゃなく、ちゃんと触れあってみたい。そう思うのは欲深いことだろうか…



「とにかくな、いつかは俺らもお手本にならんとあかん日が来るかもしれん。やりたい放題
も困りもんやで」
「お手本…ですか?」
「そうや。俺らの次の代の霊能力者が、もう九条の本家にはおるかもしれんやろ」
「郁ちゃん、そんなこと考えてたんだ」
「ていうか今まで考えたことなかったんか。暢気やなー」

狭いビルとビルの隙間はだんだん薄暗くなってきたが、明仁の背後に見える店にはもう
照明が入ってぼんやりと明るい。
非現実に片足突っ込んでいる気分になる。
通りに出れば人が大勢いるはずなのに、ここはまるでユッキーの結界の中のようだ。


「明仁は除霊師になるのに、じいちゃんや細さんから色んなことを教わったんやろ」
「あのジジイに教わったことなんか別にないけど、師匠には…まあ」

明仁の拗ねたような口調に、郁実はくすりと笑う。
郁実と引き離された後、明仁は実家に戻らずに、郁実の母の相方だった細の家に修行
に入った。
だから明仁は、『師匠』と呼んでいるその人を、兄のように父のように慕っている。
厳しい人だったとボヤくが、郁実にも分からないような絆がそこにはあるのだろう。

「そしたらいつか明仁も、おんなじことを誰かにお返しせんととあかんやろ。もちろん俺も
ユッキーもや」
俺は視えるだけやから、教えてあげられることはないかなあ…でも仲間やからいつか
大阪にも来てほしいなあ…
ビルに切り取られた昏い空を見上げ、郁実は夢見るような顔つきでそう言った。


掟に守られていても、一族に白眼視される霊能力者たち。
自分が異端であることを思い知らされながらも明仁が何とかやって来れたのは、郁実の
存在があったからだった。
郁実を守るために、自分はこの力を持って生まれてきた。
そう思えばどんな事にも耐えられた。

だけどこの子はもっとずっと強くてしなやかだ。
同じ境遇の子供たちがもし生まれるなら会いたいという。何かしたいという。
きっとそう思ってくれる人がいるだけで救いなのだ。
寂しくないということが。

瞼の裏が熱くなって、明仁はぎゅっと目を閉じた。
もしかしたら祖父は、能力者たちの逃げ場を作ってやるために郁実を大阪へやったの
だろうか。
そして自分のことも。
そんな途方もない考えまで浮かんできてしまう。



「郁実さま、なんとご立派な!」
郁実の掌にちんまりと座っていたユッキーが涙を振りこぼしながら叫んだ。
ナリはいつもより小さいが、声は通常の倍ほど大きかった。

「私たちがお育てした郁実さまが、私たちの中で一番大人らしいことをおっしゃるように
なるとは!これが子育てのクライマックスというやつですかね」
「いやそれなんか…大問題のような気が」
もーちょっと大人になってくれ、というつもりだったのに、論旨が微妙にズレてきた。まあ
いつもの事ではあったが。

それでも掌にのった真っ白い綿毛のようなユッキーを見ているうちに、愛しい気持ちに他
の全部が負けてしまう。
(ほんまは変わってほしいなんて思てないくせに、俺も)
結局、そういう自分の本音がバレバレなんやろうな…と思う。
そのまんまのユッキーが好きでそのまんまの明仁が好きだ。実際シンプルなものだ。


苦笑してしまいつつも、郁実は指先でユッキーの背をそうっと撫でてやった。
小さい分、いつもよりその体はふわふわと頼りない。
だが触れれば、郁実の気持ちはちゃんと伝わる。
とまどいも、不安も、前へ進みたいという願いも。
それに感応したようにユッキーは指にぎゅうっと抱きつきながら、「私の主…」と嬉しげに
呟いた。

「分かってくれとるやんな」
「はい…至らぬ身ではありますが、郁実さまのお心に添うようにいたします」

この小さな生き物が、郁実のためを思わない日はなかった。
その心にこそ最初に報いなければと、ぼんやりとだがずっと考えてきた。
だがまだまだ自分も未熟で、いっぺんに変わったり何かできるようにはならないのだ。

(はやく大人になりたいなあ…)
郁実は大切な二人を見つめながら、そんな事を思った。

自分が生まれてから今まで与えられてきた愛情は、これからも永く続くだろう。
返しきれるはずがないと分かっていても、同じほどに愛したかった。
そんな郁実を最初に形づくったのは、やはり明仁とユッキーの二人だったのだ。





食事をして梅田でお土産も買って、二人が最寄りの駅に到着したのはもうかなり遅い
時刻だった。

ロータリーに数台止まっているタクシーの方へ行きかけた明仁の袖を、郁実は無言で
引っ張る。
あれ?という顔で振り向いた明仁は、だが郁実の気持ちを汲み取ったように小さく笑うと
「遠回りして帰ろうか」と言った。
うんうん、と頷く。それに明仁の言い方が歌の文句みたいなのも何だか気に入った。

「父さんに電話しといた方がええかな」
「大丈夫。ユッキーは俺たちがどこで何してるかぐらい分かってるよ。それにおじさんは
カンヅメ中だろ」
「そうやった」

あの後、「一緒に食事ができるわけではないので私は一足先に帰ります〜」と言い置くと
ユッキーはポン!と音をたてて郁実の掌から消え失せた。
だからそれからはずっと明仁と二人だった。
なのにどうして、もう少しだけ二人きりでいたいと思うのだろう。
(いっつも一緒におるのにな…)
タクシー乗り場に並び始めた人の群れを横目で見ながら、郁実は照れくさいような気持ち
になる。



人気のない道を肩を並べて歩いた。
二人で歩く時は、お互いに近い方の手は空けておくのがお約束だ。
明仁は最初から意識してそれをやっていた。郁実が霊を見つけてしまった時は否応なく
手を握りこみ、同じものを一緒に見る。

時には郁実の唇や掌が震えているのに気づくこともあった。
そんな時はその場で除霊をせず、呪具である真球の水晶に一旦霊を封じてしまう。
もし自分に何でも願いが叶えられるのなら、郁実の霊視の力をなくしてしまうのにと今まで
何度思ったか知れない。

一回り大きな自分の手は、郁実に本当の安心を与えられたことがあっただろうか。
そんな明仁の逡巡とはうらはらに、郁実は左手にロールケーキを持ち、当たり前のように
右手を空けている。
その無言の信頼に応えたかった。
どんなことからも守るよと郁実の目を見て繰り返し言いたかった。
だがもう、そんなやり方が不似合いなぐらいにこの子は大人になりつつある。


「なあ明仁。さっきのな、話やねんけど」
「さっきの?」
「うん…なんか勢いで偉そうなこと言うてもうたけど、俺、明仁がいやなら本家になんか
近寄らんし、誰にも会ったりせえへんから…」

ぼんやりと照らす街灯の下、郁実は考えあぐねていた事をぽつりぽつりと言葉に替える
ようにして話す。
逆に明仁は焦った。どうして郁実がそんな事を言い出したのか分からなかった。

「ちょ…郁ちゃん。なに、なんでそんな風に思ったの」
「なんでって、明仁は本家の話すんのきらいやし」
「ああそんな事気にしてたんだ。ちがうって。単にじいさまから受けた数々の仕打ちを思い
出すとむかつくだけだよ」
「それだけとちゃうやろ…」
「え?」

郁実は今まで東京の本家に行ったことがない。
祖父や細に会ってみたかったし、明仁もたまには実家に顔を見せるべきではないかとも
思ったが、いつも主従コンビに何やかんやと阻止されてきた。
それは、郁実と引き離されていたことを明仁とユッキーがなかなか許す気になれないから
だと単純に考えていた。
でも多分それだけじゃない。


「最初に話してくれたよな。九条家の人らは霊能力者を異端視したらあかん。そういう掟が
昔からあって俺らを守ってくれとるって」
「うん…」
「でもほんまはそんな上手いこといかんのと違うんか。明仁はずっといっぱいいやな思いを
してきたんやないかって」

……思うようになったんや、と小さく呟き、郁実は珍しく自分から明仁の掌に手を滑り込ま
せた。馴染ませるようにそっと握る。
誤魔化してくれるのが明仁の優しさだと知っていても、今はそうされたくなかった。

触れると自動的に郁実の循環の力が働く。
ぼんやりとだが気持ちの揺れ動きまで感じるから、この状態で明仁が嘘をつくのはかなり
難しいはずだった。

「郁ちゃん、こんなことに力使うのは反則だって」
「そう思うなら手ぇ放したらええやろ」
「それはいや」
「俺も放してやらんけどな」

あっさりとした言葉がはらむ強さにドキリとさせられる。
触れた掌同士が熱くて、明仁は自分の気持ちがそのまま流れ込んでしまう事を恐れた。
だが同時に、もう長くは隠し通せないだろうと諦めにも似た思いをいだく。
『いつまでも自制が効くようなものを恋とは呼ばない』
ふいに義春の小説の一節がよぎって、心が苦さと甘さでない混ぜになった。
あの人はどんな気持ちでこれを書いたのだろう。訊いてみたいと思わされる。



春の終わりとも初夏とも言いがたい夜は少し肌寒く。
思い出したように車が二人をすーっと追い抜いていく。他は何の邪魔も入らない。
通りすがりの家からはテレビの音が聞こえてきたりもしたが、どこか遠い世界のことのよう
に感じられた。

「郁ちゃんも知ってのとおり、九条の人間なら誰でも霊能力を持つ可能性はあるんだ」
「うん」
「でも自分の代の能力者が判明してしまうと、勝手なもんで、あからさまに気味悪がったり
するような連中もたくさんいたのは事実だよ」

まあそれも短慮だと思うけどね、と明仁は言う。
自分がそうでなくとも、子供や孫に能力者が出る可能性はついて回る。
その時が来たらどんな態度をとるつもりなんだか、というその声は硬くて、郁実は思わず
明仁の手を握りしめた。
だが、彼がこんな話をしてくれたのも初めてで。
それをどうしたって嬉しいと感じてしまう自分は結構ひどい。

普通だと思ってきたことは普通じゃなかった。
郁実の周囲でこの能力のことを知っているのは、父の義春、幼馴染の美晴、それに親友
の大貴(ダイキ)と浩正(ヒロマサ)
あとは父の編集者の小早川と、明仁の友人の旭ぐらいだ。
数は決して多くないが、その誰もが偏見を持たずに変わらぬ気持ちで接してくれていること
の凄さに今さら気づく。


「でも俺は郁ちゃんを守る力を持っていることが自慢だったからね。心配してもらえるのは
嬉しいけど、あいつらに言われる事なんか別に何とも思ってなかったよ」
「そう…なんか?」
「うん。だけど郁ちゃんをそういう事に巻き込みたくはない」
「明仁」
「いつだって赤の他人の苦しみや業ばかり目にしてるんだ。これ以上はもういいよ…」


立ち止まった二人は、繋いだ手をそのままに見つめ合った。
手を引かれ、郁実は一歩二歩と明仁の方に近づく。
明仁が地面に鞄を落とす音も、頬に指が触れ、愛しげに額を合わせてくるのも夢のようで。
明仁を笑顔にしたい、と思ったから、笑ってみせた。
いつの間にか左手のロールケーキも、足元に落ちていた。
目の前にいるこの人以外はどうでもいい、そう思う瞬間だった。

「俺は恵まれてるし守られとるやないか」

未だに明仁の方がずっと背が高いけれど、かがんで額を合わせている分、とても近くに
感じる。自由になった手を回しスーツの上着をぎゅっと掴んだ。
こんな力はないに越したことはないだろうけど。
自分を可哀想だと思うなんて男らしくないし、他人にもそんな風に思われるのは御免だ。

「自分だけ本家から遠ざけられていやな思いもせんと暮らしてるのってちょっとズルイとは
思うけど、これから俺には俺の役割があるんやろ…たぶん」
「なんかもう、それクソジジイの目論見どおりって感じで激しくいやなんだけど」
「まあそう言わんでもええやん。俺は…」

間近にある明仁の目を覗き込みながら、郁実はわざとなにげない口調で付け加えた。
「明仁を取り上げられへん限りは、じいちゃんの思惑に乗ったってもええよ」


霊能力者が迫害されるのを防ぐために、代々の九条の当主は能力者の中から選ばれる
のだというのも最近になって知ったことのひとつだった。

現状では、細が後継者になるのは確定だと明仁は言っていたが。
祖父が明仁を指名する、あるいは細が自分の次の当主に明仁を指名する可能性はどれ
ぐらいあるのだろう、と郁実は考える。
未来を思い悩んでも仕方ないと分かっているけれど。
本家のことをよく知らないだけに、不安な気持ちにならないと言えば嘘だった。


「俺を郁ちゃんから取り上げるなんて誰にもできないよ」
「うん、そうやな…でももし」
「もしそんな時が来たら?郁ちゃんはどうしたい?」
「……あーもー…もしそんなんなったら俺、明仁をさらって逃げることにするわ!」

少々やけっぱちになっての発言だったのだが、それを聞いた明仁は目も当てられないほど
嬉しそうな顔になった。

「えっ、郁ちゃんが俺をさらって逃げてくれるの?それは…」
「ちょっとええなとか思てるやろ、明仁」
「ちょっとどころじゃないんだけど。沖縄の離島に逃避行かー」
「なんで南に行くねん。駆け落ちゆうたら北の寒いとこへ向かうのがお約束やろ」
「そっか、駆け落ちなんだ」
「うっ…」
「じゃあ寝台特急カシオペアで北の大地に逃避行ということで」
「そんな豪華な列車に乗って駆け落ちするヤツがおるか!銀婚式か!」

関西人のサガできっちりツッコミだけは入れておいたが、その後はどちらからともなく肩を
揺らし、笑み崩れてしまう。

その心地よい空気は他の誰とも作り出せないもので、胸の奥が甘く痛んだ。
ああ、大好きや、誰にも取られたくない、と郁実は思う。
そんな気持ちの入った器はもういっぱいになりかけていて、いずれは線を越えて溢れ出て
しまうだろう。
もう、その時は間近まで迫っている。



未来が訳の分からないものなのが怖かった、と昔明仁が話してくれたことがあった。
今は自分がそんな気持ちだ。
いくら先読みをしてみても祖父が自分たちをどうしたいのかはハッキリせず、良いようにも
悪いようにも想像してしまうのだ。

「じいちゃんはほんまのところ、俺らをどうしたいんかな…」
「そんなの気に病まなくてもいいよ。俺はもう小学生じゃないんだから、じいさまの命令に
なんか二度と従わない」
「明仁…」

困り顔の郁実に、言い方がきつかったかと反省した明仁は少し表情を和らげた。
どうも自分は祖父の話になると腹立たしさが勝り、抑制がきかない。
未熟者め、と細に言われたような気がした。
だがまあそもそも、自分は郁実に関して冷静でいられた試しなどなかったわけだが。

「ほんとは、本家に関わるの怖いって思ってる?」
「うん、そうやな…でも何かしたいって気持ちもやっぱあるねん。俺、グラグラしとるな…
こんなんじゃ全然アカンな」

今までにない複雑な感情が愛しい子の上に浮かんでいた。
それは明朗なものには程遠かったが、その割り切れなさを明仁はきれいだと思った。
それでいいんだと言ってやりたい。


「あのさ、さっきユッキーは郁ちゃんの心に添うようにいたしますって言ってたね」
「うん」
「すぐに何もかも変わるのは無理だけど、俺もそうしたいと思ってるよ。郁ちゃんは間違う
ことを怖がらなくてもいいんだ。そばにいるから」

口に出してしまえば、それが唯一無二の答だと知る。
あっさりそこに辿り着いているユッキーは伊達に長く生きてないなと妙に感心した。
澄んだ眼差しを向けてくる郁実にふわりと微笑み返す。

雨の日も、晴れの日も、間違っていても正しくても、この子に寄り添って生きていくと決めた
のは遠い昔のことだった。
平坦な道ではないと子供心にも分かっていた気がする。
だが自分の幸福はそこにあり、愛する人もそこにしかいなかった。
だから自分は、親も兄弟も置き去りにしてその道を駆け出した。後悔などしなかった。




「明仁、その…」
何が言いたいのか自覚もせぬままに彼の名を呼んだ瞬間、角を曲がってライトをつけた
一台の自転車がフラフラとこちらへ走ってきた。

ラブシーンさながらの自分たちに気づいた郁実は、慌てて明仁から離れようとする。
だが明仁の方は落ちつき払っていた。
郁実の頭にぱさりとフードを被せると、恋人にするように両腕でひき寄せかたく抱きしめる。

(な、な、な、なんや…?)
近づいてきた自転車の主はほろ酔い気分のようで、鼻歌を歌っていた。
姿は見えないが、そこそこ年配の男性だろう。
最接近した時、すれ違いざま「おお、お兄ちゃん盛り上がってんなぁー!」と大声援が送ら
れた。
「幸せになー!!」というおまけがさらに続く。キコキコキコ…と自転車をこぐ音。

「どうもー」とにこやかに応対しながら、明仁の指はフードごしに郁実の耳の辺りを撫でて
いる。頭のてっぺんにキスを何度か落とされたような気もした。
腰に回った腕の感触も……一言でいうとなんかエロい。

男女のカップルのふりをする芝居だから仕方ないかもしれないが、今までこんな風に触れ
られたことのなかった郁実は大パニックに陥った。

「いーくちゃん、じっとして」
布ごしに聞こえる低い声が甘くて、首筋がかあっと熱くなった。
耳を軽くこすっていったのも、明仁の唇にきまっている。

結界を張る時など抱きしめられるのは日常茶飯事だが、今までがいかに清らかかつ健全な
抱擁だったのか思い知らされた。
この調子でキスされたらどんな感じなんやろ…とうっかり想像してしまい、体温が一気に
2度ほど上がった気がした。もう脳内はグチャグチャだ。

(直接どこにも触ってへんのに!)
(ていうか、明仁キャラ変わりすぎやろ!なんやねん、このエロい雰囲気は!)


心臓はばくばく言っていたが、明仁がやけに手慣れている事に郁実はむむっとなった。
経験値が違いすぎるのも、明仁がモテるのも知っている。
だが知っているのと納得できるのとはまったくの別物なのである。
どうも明仁がテンパっている自分を見て喜んでいるような気もするし、素直にドキドキして
もいられない。

見れば押しつけられた胸元に、今朝も自分が選んでやったネクタイがあった。
この前外出した時買った、グレー地に銀・青・紫の斜めラインが入ったかっこいいやつだ。

たとえ恋愛スキルに天と地ほどの差があろうとも、やられっぱなしは性に合わない。
色々やり返す意味を込めて、郁実はこっそりそのネクタイに唇を押し当てた。
いつまでも子供や思とったらあかんねんからな!と心の中でだけそうつぶやきながら。



「ふーたりーのためぇーせーかいはあるのぉー♪」
おっちゃんなりのロマンチック演出なのか、高らかな歌声が夜更けの町に響き渡り、徐々に
小さくなってゆく。

どうせ顔を上げたらこの甘い空気は元に戻ってしまうのだろう。
残念だが、今はまだその時じゃないような気がする。
だからあの歌が聞こえている間だけ、あと15秒ぐらいだけは。

世界は二人のためにあるらしい、と郁実と明仁は勝手に解釈することにしたのだった。