初夏の蒸し暑い日、夜も更けてからようやく明仁は家にたどり着くことができた。

ここのところ、新商品の開発に携わっているせいで連日残業残業の日々だ。
普段は仕事をスマートに片づけて一分でも早く帰宅するのを信条としているのだが、
チームで仕事をしている時はそうもいかない。


若いし体力にも自信はあるが、ここ数日明仁のモチベーションは下降する一方だった。
とにかく郁実と過ごせる時間が少ないのだ。
夜は日付けが変わる1時間前に帰れればいい方だし、朝はお互い慌ただしい。

郁実に甲斐性のない男だと思われたくないという理由だけで一応就職してみた明仁
としては、本末転倒もいいところであった。

これだけ残業が続くと、もう会社員などやめて、近所のマルヤマスーパーでレジ打ちの
パートでもしようかと思いつめるほどだ。
そうすれば夕方仕事を終えて、郁実を家で迎えてやれるではないか。


(でも、郁ちゃん、俺のスーツ姿かっこいいって言ってくれるもんな)
父親が小説家という自由業だからだろうか、郁実は『スーツを着て会社に行く男』という
ものに妙な憧れをもっていた。

そのせいか、明仁のスーツとネクタイに対するチェックは毎朝厳しい。
どうやら、その日持つハンカチまでスーツに合わせて渡してくれているようだ。
そんな郁ちゃんの楽しみを奪うのはやっぱりよくないな、うん…と、明仁はあっという間に
レジ打ちのパートになる夢を撤回した。



角を曲がると、相楽家のすべてを大きな金色の結界が覆っているのが見えてきた。
もちろん、一般の人間には不可視のものだ。
近づけば、すりガラスのようなベースに金色の複雑な模様が描かれているのが分かる。

昔から明仁もユッキーも、郁実の周囲にあるものはきれいで可愛くなければならないと
固く信じていた。
その思い込みが高じて、ユッキーの結界は年々アーティスティックになる一方だ。

祖父や細には、余計なことに力を使うなとしょっちゅう怒られたものだが。
どうしてこれが余計なことだと思えるのか、こちらは理解に苦しむ。
むしろ、ただの白い箱みたいな彼らの結界のセンスのなさに、あれを何とも思わないのかと
呆れる主従コンビであった。

それに3匹の使い魔のうち、ユッキーの結界は抜群の精度を誇っていた。
霊と名のつくものは、どんなちっぽけなものでもシャットアウトする。
誰にも文句を言われる筋合いはない。


相楽家の木戸をカラカラと開けると、右手に広がる庭から濃い緑の匂いがした。
郁実が祖母から引き継ぎ、大切にしている庭だ。
疲れてはいたが、家に帰ってきたという実感が湧き、ほっとさせられる。

もう遅いし、自分で鍵を開けようと扉の前で鞄を探っているうちに、ぱっと玄関の明かり
が点いた。
同時に白っぽく濁ったガラスの向こうに人影が見える。
慌てて鍵を開けようとしているようだ。

「明仁、お帰り!」
「郁ちゃん」
「今日も遅なったんやな、疲れたやろ」

ガラッと戸を開けるが早いか、まるで練習していたみたいに勢いこんで郁実が言った。
もう浴衣姿で、風呂に入ったのか髪が少し湿っている。
蒸し暑い空気を払うような 爽やかなたたずまいだった。

自分の帰りを待ってくれていたのだと知り、明仁は胸がいっぱいになる。
あやうく抱きしめそうになった。
日常には危険がいっぱいだな…と内心焦ったが、明仁はとびきり優しく笑うと、「ただいま、
郁ちゃん」と告げた。


玄関のたたきに腰をおろせば じんわりと疲労が感じられて、明仁は靴も脱がずにしばらく
そこに座り込んだ。
気がかりそうに、郁実も横に無言で座る。

この子の前で愚痴ったりするのは格好悪くていやだった。
だが郁実からは労わるような空気がほのかに伝わってきて、うっとりさせられる。
分からないはずがない、自分が。
呼吸まで感じるぐらい、こんなにこの子が近くにいるのに。


「……ちょっとくたびれたよ、郁ちゃん」
「うん、そうみたいやな」
「でもあと3日で、この状態は抜けるから、もーちょっとの辛抱」
「あと3日もか…明仁、ちょっと顔色悪いで。晩御飯食べたんか」
「うんまあ、店屋物だけどね」

郁実の手が頬に触れるひやりとした感触。少し乱れているであろう髪も梳いてゆく。
郁ちゃん、俺ホコリっぽいよと言えば。
アホなこと言うな、俺がそんなこと気にすると思てんのか、と叱られた。

「そっか…ごめん」
「そうや。それに俺には明仁を心配する権利いうのがあるんやからな」
「あるんですか」
「あるんや」
「俺って幸せな人だね…」

微笑みながら郁実の髪をくしゃくしゃとかきまわせば、お返しのように同じことをされた。
子供同士が慰めあうにも似た、幼げな仕草。
なのに、胸には甘い衝動がどうしたってつきまとう。

好きだよ、好きだ。つのる想いが自分を呑み込んでしまうその前に。
明仁は郁実の左肩に軽く額をつけることで それをやり過ごした。
今、顔を見られたくない。
だけど触れたくてたまらない。
恋というのは、本当に本当にどうしようもない。


「……明仁?」
風呂あがりの郁実はなんだかとてもきれいで、一日仕事場を駆けずり回っていた自分が
触れるのは、やはりためらわれたけれど。
ここで郁実成分を充電しなければ、この先3日 到底乗り切れないような気がした。

「郁ちゃんのご飯が恋しいな…店屋物なんて美味しくないし」
「そうか…それやったら、お弁当もう一個持たせたろか?なるべく違うおかず入れたるし…
あ、でも夜まで置いとったら傷むかな」
「仕事場に、共用の小さい冷蔵庫あるよ」
「じゃあ、それ使わせてもらい。食べる30分前ぐらいに出しとくんやで」
「郁ちゃん、超お母さんっぽい……」
「なんや、明仁が甘えとるんやないか」

いつのまにか抱えるように回っていた手が、ぺしぺしと背中をはたいた。
与えられた幸せに目が眩む。
たとえそれが自分の想いとは違っても、この子から離れることなどもうできはしないのだ。



「会社員って大変なんやな…俺、そういうの初めて知った」
背中に置いた手はそのままに、やや抑えめな口調で郁実が言った。
「……病気になったらいややで、明仁」

はっとして顔を上げれば、年に似合わぬ深い色合いをした瞳がそこにあった。
そうだった。
この子は、母親や育ててくれた祖母をすでに亡くし。
負わされた能力のゆえに、いつも死を目の当たりにし、意識している。
年齢などに関係なく、奪う時には容赦なく 死が人を奪ってゆくことを誰より知っていた。
そんな郁実に、軽々しく『大丈夫だ』などと言えない。


明仁がもたれかかっていた分、さっきよりも間近から、郁実はまっすぐに見つめてきた。
だがその視線とはうらはらに、言葉に迷うようにぽつりぽつりと語る。

「俺な…ばあちゃんが死んでからたまに思とったんや。父さんはまだ若いけど…でも父さんに
もしものことがあったら、俺一人ぼっちになるんやなあって…」
「郁ちゃん…」
「だから、明仁とユッキーに会えた時は、最初はびっくりしたけどほんまに嬉しかった」

たくさんのものを否応なく映し出す瞳。
この子の勝気さと細やかな心根が、矛盾することなくそこにはあった。
そのアンバランスさは太陽と月のようで、この世を彷徨う魂をつよく惹きつけてしまう。

(……俺も)
(一年前、やっと再会できたあの時から、そうだった)


「ずっと一緒におりたいなって思っとる。俺、明仁の役にたてるようにがんばるからな」
だから元気でおってな。お弁当ぐらいなんぼでも作るし、と笑う郁実が揉みくちゃにしたく
なるほど可愛くて困った。

10年ずっと夢見てきた。
郁実の待っていてくれる家に帰る自分の姿を。
でも結局、想像は現実の郁ちゃんに遠く及ばなかったな、と明仁は内心うんうん頷いた。
藍色の浴衣の両肩に、そっと手をかける。

「ありがとう、気をつけるよ。郁ちゃんを悲しませたりしないようにする」
「明仁…」
「だいたい俺、基本的にナマケモノだから、病気になるほど仕事したりしないよ」
「なんやそれ」
「郁ちゃんがいいって言うなら、ほんとは主夫になりたいし」
「いやー…うーん…そうやな…若いうちは引き篭もらんと、外でばりばり仕事した方がええ
んちゃうかなー」
「郁ちゃん、さっきと言ってることちがうような」


目を見合わせて、二人は同時に笑いだす。
靴を脱ぎながら明仁は、「こんな時間だけど、何かちょっと食べさせてもらっていい?お茶
漬けでいいから」と頼んだ。

「そう言うかなーと思て」
得意満面な顔で郁実は明仁の鞄を拾い上げる。
「雑炊やったら用意できる。穴子のやつ。明仁好きやろ?」
「卵はいってるの?」
「そうやで、卵と三つ葉の。分かったらはよ、手ぇ洗って着替えてき」
「5分で降りてくるから、待ってて!」




らしくもない慌てぶりで明仁が二階の自室へと上がっていき、笑顔のまま郁実が台所へ
消えるのを見届けてから。

「あの二人、玄関先でどんだけいちゃついとるん…」と、郁実父は脱力した声を出した。
膝元にいたユッキーを抱き上げ、そ〜っと居間へと戻ってゆく。
なんのことはない。一人と一匹は堂々とのぞき行為を行っていたのだった。


義春の手によって、ちゃぶ台上の定位置にちょんと座らされたユッキーは、若干不満げな
表情でひとかかえもある最中の包み紙をぺリぺリと剥いた。

「まあ私としては、主は押しが弱すぎると思いますけどね。さっきの雰囲気は、どう考えても
チューする場面でしょうに」
「息子と甥っ子が玄関でチューしてるとこなんか見た日には、俺家出するわ…」
「義春さまが家出しても、誰も大して困りませんけどね」
「ユッキーさん、ひどっ!」

わざとらしく泣きまねをする義春を無視して、ユッキーは最中をもぐもぐやった。
甘いものは大好きだが、こういう物は喉が渇くのがいけない。


「往生際が悪くないですか、義春さま。だいたいあの二人が両方とも男に生まれたのって
多分、椿さまが細さまではなく貴方と結婚したせいだと私は思ってるんですけどね」

九条家に生まれる除霊師と霊視能力者は、14代目までずっと男女ペアだった。
しかもその能力を他者に理解してもらうことが難しかったせいか、13代目までは全員
自分の相方と結婚をしていた。
郁実の母親である椿が初めて、その暗黙の決まり事を破って義春と一緒になったのだ。


「……定まっとった事が、何か変わった。そう思とるんかユッキーさんは」
「そうですね。郁実さまが生まれたと同時に能力認定されたのも、あの方の霊視能力が
強力すぎるのも、とにかく例のないことばかりですし」

食べかけの最中を抱いて遠い目をする雪うさぎは、何やらミステリアスに見えた。
小さい神さんみたいやなー、と義春は思う。

だが郁実は、ごく自然にユッキーを家族と認識しているようだ。
椿もそうやったな…と苦笑する。
彼女とその使い魔のことが、ふと思い出された。
九条家の人々は、義春と椿の結婚を危惧したが。
自分は彼女の能力を、その苦しみも含めて、不思議でまたとないものだと思っていたのだ。


「ま、とにかく、郁実さまが健やかに明るく成長なさって、いずれ主とラブラブハッピーになって
くれたら私は満足です」
「さらっとスゴイこと言うたな…」
「私の願いなんて ささやかなものですよ」
「ユッキーさんのその野望、もう7割方成就しつつあるような気ぃすんねんけど」
「おそれいります」
「ちょっとイヤミで言うてんけどな……はは…」

明仁が階下に降りてきたらしく、台所からは二人の話し声が聞こえてきた。
こんな当たり前の幸せを、明仁もユッキーも10年も夢に見るだけだった。
ああ、私たちは郁実さまがいないと本当にどうしようもない、とユッキーは思う。

「ユッキー、こっちおいで。明仁帰ってるねんで」
「はい!はい、ただいま参ります、郁実さま」


呼び声にちゃぶ台から飛び降りようとした雪うさぎは、ふと義春の方を振り返った。
「心配なさらなくても、無理やり郁実さまのお心を曲げたりはしませんよ」
「ああ、うん。分かっとるんやけどな」
「郁実さまが自然に明仁さまを好きになられたら、それはしょーがない事ですもんね!」
「ゆ…ユッキーさん…」

ガーン!という顔つきの郁実父を残し、ユッキーは足取りも軽く台所へと駆けていった。
今は今で充分すぎるぐらい幸せだし、郁実はまだ年がいかない。
恋愛がどうのという話になるのは、何年か先のことだろう。
明仁は郁実に関しては可哀想なぐらい忍耐づよい。待てるはずだ。待ってもらわねば。


とにかく今日も憂いなく、主である大切な二人は笑顔でいた。
それはとても嬉しいことだとユッキーは思う。

つつがなく終わろうとしている日常、その一日。
だが相楽家の団欒は、夜も更けた今頃から賑やかに始まろうとしているようだった。